護る者、滅ぶ者 七
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陸王が徐々に近付いていくと、堕天使はそれに今更ながら気付いたという風に目を向けてきた。瞬きを二度、三度。
紅い瞳は凶暴性を覗かせず、むしろ無垢な子供のような色を呈していた。
「お前は雪李か。それとも影香か」
陸王が遠目から声をかけながら歩いて行くと、堕天使はにっこりと笑った。
「僕は雪李でも影香でもない。いや、雪李でも影香でもあるけれど、僕の本当の名は『グラウス・ヴェード』」
陸王はその名を聞いた瞬間、僅かに眉を顰めた。
だがそれを気にする事もなく、堕天使は言った。
「でも、分かり易く言えば、基本は雪李だね。僕は少陰だから。陰である影香の魂の部分は少ないんだ。急に名が変わっても呼びにくいだろう? だから今まで通り、雪李でいいよ」
確かに声の調子や話し方は雪李と似ている。顔もほとんど雪李のままだ。だが、声音が少し違っていた。雪李の中に影香が戻ったせいだろう。どこか冷たさを感じる。
「それより、陸王。卿を知らないかい」
そう言った時、紅い瞳の中に不安げな色が混じった。
「卿のお姿がどこにも見えないんだ。折角、什智を捕らえたのに、卿がいなければどうしようもない。意味がない」
こんな部分は雪李ではなく、影香の影響なのだろうかと、陸王はほんの少しだけ興味を覚えた。しかし、そんな興味はすぐに消えてなくなってしまう事になったが。
雪李は何も答えない陸王を見詰め、ふと言葉を口にした。
「そうか、君は……。君は僕ととても似た匂いがする。僕が同族になろうとしているから分かるのかな。君は魔族だね? しかも、高位の魔族だ。その瞳、黒い色をしているけれど、それは濃い血の色だ。そうだろう?」
その言葉に、陸王が僅かに顎を引く。
雪李の言う通りだった。陸王は魔族だ。理性を持ち、人と変わらぬ高位の。けれど雪李と違って、堕天して魔族に転化したのではない。陸王は魔族としてこの世に生を受けたのだ。
純粋な魔族として。
砦前で闇の妖精族と戦った時、ほんの僅か、魔族の性が現れた。瞳が深紅に染まったのを陸王も自覚していた。だからあの時、闇の妖精族は陸王に怯え、そして自滅したのだ。絶対に勝てないと知って。
恐れたのだ、魔族を。
陸王は雪李を睨め付けた。
「だったらなんだ。まだ天使としての理性が残っているうちに、俺と殺り合うか」
天使族と魔族は正と負だ。表と裏とも言えるが。
「そんな事はしない。僕だって、自分の本当の名を口に出来るのもいつまでか分からないんだ。神聖語は魔族にとって、呪いの言葉だから」
雪李は寂しく答えた。
神聖語は魔族を縛める言語だ。それ故に魔族には発音の出来ない言葉だった。いや、発音しようと思えば出来ない事もない。魔族の言語である魔代語は、神聖語を逆から発音する言葉だからだ。だが、それを口にした途端、神聖語の持つ魔力が発動する。それが例え名前であったとしても。だから陸王は雪李の本当の名を聞いた時に僅かに眉を顰めたのだ。
微かに息苦しさを覚えた為に。
「それより僕は卿を捜さないと」
「捜し終えたら、手前ぇは姿を消すか。その様子じゃ、まだ充分に理性は残っているようだ。理性があるうちに人里から離れろ。そして深い山の奥にでも籠もってるんだな。無為に死にたかねぇだろう」
「それは脅しのつもりかな。君ならいつでも僕を殺せるって」
その言葉に、陸王は目を眇めた。
と、雪李は鼻をすんと鳴らす。
「卿の匂いがする」
唐突に言って、雪李は翼を大きく広げた。一、二度羽ばたくと、そのまま宙に舞い上がって飛んでいく。
「雪李!」
陸王は声を上げたが、雪李はもう遠くまで宙を行っていた。
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首が捻れている馬の死体がぽつりとあった。風圧で飛ばされて、地面に激突した際に首が折れたのだろう。
そしてその下に、身体の半分が騎馬の下敷きになって俯せに倒れている翠雅の姿があった。
雪李はその姿を見つけ、空を滑空してから地に降り立つ。
「卿!」
急いで駆け寄り、まず翠雅の呼吸があるかどうかを確かめる。
呼吸はしていた。けれど、浅く速い。血は流れていないが、骨が折れているかも知れなかった。何しろ身体半分とは言え、馬の下敷きになっていたのだ。そして、意識は完全に絶たれている。
雪李は翠雅を助ける為に、両腕で馬の身体を軽々と持ち上げた。持ち上げた馬の身体は、そのまま放り出す。
その力たるや、驚くべきものがあった。とても人族には真似出来ない芸当だ。これも魔族に転化し始めているが為の肉体の変化だった。
そうして翠雅を助け出し、俯けになっている身体を慎重に仰向けに直す。馬の体重がなくなったせいか、さっきよりは呼吸をしやすいようだった。それでも顔色はよくない。苦しげに眉も寄っている。
「卿、すぐに砦へお連れします。卿は昔からお身体が丈夫でしたから、手当てを受ければすぐによくなるでしょう」
翠雅に話しかける雪李の言葉は、おそらく影香のものだ。
「卿……」
そう言って翠雅の手を宝物のように握った時、視界の端に什智の姿がちらりと入り込んだ。その瞬間、雪李の瞳が紅く獰猛な光を放つ。
くっと什智の方へ首を巡らすと、貧相な領主は大地に縫い付けられたまま、細く呻き声を上げていた。意識があるのかどうかは知らないが、雪李の中に什智に対する怒りの炎が突如として燃え上がる。
そもそも、什智が攻めてこなければこんな事は起こらなかったのだ。
雪李は翠雅の手をそっと離すと立ち上がった。そして什智を両眼に焼き映す。
雪李は己でも知らぬ間に什智に歩み寄っていった。近付くごとに、はひ、はひ、と言う奇妙な呼吸音が耳に届いてくる。
殺さなければと、雪李の中からそんな声がした。こいつが全ての元凶なのだと。
そうして什智の脇までやって来た時、雪李は什智の腹から生えている光の槍を手にした。その瞬間、槍が血を腐らせたような醜い鈍色に変化する。そんな変化には構わず、雪李は槍を引き抜き、もう一度腹に突き立てた。
途端、什智から悲鳴が上がる。
腹から槍を引き抜かれた時までは意識がなかったのだろう。だが、新たな痛みに意識を取り戻したのだ。おぞましい悲鳴が上がるが、雪李は槍を抜き、貫き、抜き、刺し貫いた。
何度も何度も。
什智の腹から血が噴き出し、その際の、腹から溢れ出る血のなんと芳しい事かと雪李は思う。鼻に絡み付くように甘くて、切ない気持ちになる。同時に、気分が酷く高揚した。脳が痺れるほどに。
今まで知らなかったが、それほどまでに彼には血の匂いは芳しい香りだったのだ。
と、その時、何かが身体に体当たりしてきて、雪李は身体の均衡を崩した。




