対 七
雪李の魂が分離した原因は分からなかった。思い当たる節があるとしたら、魔導の研究だ。世の理を突き詰めていったその結果、何かの禁忌に触れたのかも知れない。あるいは魔導の作用か、反作用か。
思い返せば、いつしか雪李の記憶は途切れ途切れになり、曖昧になっていた時期があった。そのうち、立っているのか座っているのか、起きているのか眠っているのかすら分からない、そんな状態になった。
だが当時、その感覚を不思議には思わなかった。雪李は自分でも知らぬうちにその現象を受け入れていたのだろう。
そして多分、その不安定な時期こそが魂の分裂の時だったのだ。
そんな夢現の境が分からぬ不安定な状態がどれほど続いただろう。長い間だったようにも、短い間だったようにも思える。思えばその間、陰と陽の雪李が交互に身体を使っていたのだろう。だから意識が混濁していたのだ。
けれどそんなある日、ふと意識が覚醒したかと思えば、その時にはもう世界が一変していた。常に何かの気配を朧に感じるようになり、同時に喪失感と違和感を覚えた。それがなんなのか分からなかったが、徐々に世界が陰と陽に分かれているのだと気付きだした。
特に人に近付くとそれは顕著だった。そして己が他者と比べると異質な事にも気付いた。他人から受ける陰陽に対して、自分はあまりにも虚ろなのだ。そうして突然、雪李は己が半欠けなのだと悟った。自身の中を探っても陰を感じない。
最初に感じた喪失感と違和感の正体はそれだったのだ。
それを知り、雪李はあまりの事に茫然自失となった。魂の欠片を失っては、最早人とは言えない。では、人ではない自分は何者だというのか。自問自答する日々が続いた。魂の欠片を探す方法を魔導書の中に求めてもみたが、魂の分離などという事象はどこにも記されていない。魂に関してはただ、形の合致する対の魂はどんなに離れていても、必ず巡り会うという常識だけが記されているのみだ。
しかし雪李はそこから逆に考えてみた。彼の魂も、もとは陰と陽で構成されていたのだ。男だから、おそらくは少陰なのだろう。そして遠くに離れている陰と陽が必ず巡り会うのが条理なら、二つに分かれた魂も呼び合うのではないかと考えた。少なくとも、遠くに離れていく事はないだろうと。
何故なら、分離した魂も対の魂の一種と言えるからだ。
「それで僕はずっと待っているんだ。感覚で、この街に分離した自分がいるような気がして」
ふと雪李は、自分を凝視している雷韋に目を向けた。
「雷韋、君に会った時も僕は陰の僕を捜している最中だったんだよ。散歩だなんて嘘ついて、ごめん。あの時、君に近付いたのも陰の魂を感じたからだ。でも、僕の魂じゃなかった」
雪李の話を聞きながら、雷韋はそれでも得心する部分があった。
「そっか。実はさ、橋の下であんたに会った時、変だなと思ったんだ。あの時、自分でも分かんないうちに、あんたの差し出す手を取ってた。俺の魂は確かに陰だよ。それは自分でも感じる。もしあんたが本当に半欠けの陽なんだとしたら、俺の魂が惹かれたのかも知れない。なんてぇのか、あんたには妙な感じがしてたんだ。上手く言えないけど。陸王の事も、なんか妙だった」
「あ?」
陸王は眉根を寄せて雷韋を見遣った。
「陸王から、今まで感じた事のない感覚を覚えたんだ。どんなって言われても困るけどさ」
言う雷韋を陸王は胡乱げに見、それから雪李に視線を戻す。
そんな二人を交互に見遣って、雪李は再び口を開いた。
「それでね、話は戻るけど、僕はこうも思った。陸王はグローヴ卿のもとに行こうとしてこの領地に足を踏み入れたと言っていたね。だけど実際は、雷韋がここにいたからじゃないかと思った。君達は知らず知らず、惹かれ合っていたんじゃないかと思うんだよ。魂の条理に従って。だから僕は、陰と陽の運命なんじゃないかと言ったんだ」
「このガキが俺の対だと? 冗談は休み休み言え」
陸王は切った鯉口をもとに収めて溜息をつくと、嫌悪も露わに言い遣った。
「君は雷韋に連れられて僕の家に来たんだよね。君みたいに疑り深い人が、どうしてこんな素性も知れない僕の家に黙ってついてきたの? ここに連れてくる雷韋を拒む事も出来たんじゃない」
陸王はそう指摘されて、思わず口を噤んだ。確かに雷韋に手を取られた時、それを振り解けなかった。誰も信じないと言いつつも、唯々諾々とここへ連れてこられてしまった。そんな自分の事をどうしてなのか説明出来ない。
雪李から目を逸らす陸王を見遣って、彼は言った。
「口ではどうとでも言えるけど、対の本能は決して拒絶出来ない。例え相手を憎んでいても」
「なら、こいつが俺の対だってのか」
「少なくとも、陰の雷韋には惹かれたんじゃないかな。取り違えじゃなければ、そう言う事だと思うよ」
陸王はその言葉をつまらないという風に鼻を鳴らして、椅子に腰を下ろした。素直に認めたくはなかった。それでも心に引っ掛かるものがあるのも事実だった。
初めて雷韋と出会った乗合馬車での事だ。雷韋の目を見た瞬間、言い知れない感覚に襲われた。とても口では説明出来ないものだ。いや、口で説明出来ないのではない。言葉に表せぬ感覚だ。馬車が均衡を崩して乗客が雪崩れたあの時も、雷韋の濡れた髪が頬に触れた瞬間、奇妙な懐かしさを感じた。
ほんの僅かばかりだが。
もしかしたら、二人の間に『絆』が出来たのかも知れない。
けれどそんな事は考えまいとした。馬鹿らしい事だとばかりに、意識の埒外に追いやる。そして無理矢理話題を変えた。
「で、雷韋をここの領主にどうやって会わせる」
渋面を作って言う陸王の言葉を受けて、雪李は雷韋に目を遣った。
「雷韋、君は会いたいんだろう、エウローン卿に」
「うん」
「でも、正面から行っても陸王の言う通り門前払いにされるよ。どうする?」
「だったら……忍び込むさ」
得意げに腕を組んで言う。口元には悪戯っぽい笑みさえ浮かんでいた。
「伊達に盗賊組織の首領に拾われて育ったわけじゃない。その手の事はお手のもんさ。善は急げだ。今夜忍び込む」
雷韋が小首を傾げて言った時、正午を知らせる六時課の鐘の音が遠くから響いてきた。




