邂逅 三
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雷鳴が少しずつ迫っているようだった。稲光から僅かばかりの間を置いて、それは轟音を宙空に轟かせている。雨は随分収まってはいたが、雷だけは未だ去る気配を見せてはいない。
小粒の雨の中、雷韋はあの馬車から随分と離れた森の中にいた。身につけた外套は完全に水気を含んで、彼の細い身体にずしりとのし掛かる。
だが少年の顔には疲労の色などなく、逆に上機嫌の色が浮かんでいた。
今日雷韋は、グローヴ領領主の邸に忍び込み、そこで暫く遊んで暮らせるほどの財宝を盗んできたのだ。
衛士が幾人もいたが、雷韋は多少の魔術の力を借りて意外なほど簡単に仕事を成功させていた。それだけでも少年にとっては満足のいくものだったのに、その帰り道で出会した乗合馬車でもいいものを手に入れたのだ。機嫌が悪くなるわけがなかった。
雷韋は来た道をもう一度振り返り、誰も追ってこないのを確かめて脇にある大きな樫の木の下に腰を下ろした。
男から奪った剣と財宝の入った革袋に目を落とすと、思わず笑みが零れる。
「案外だらしねぇでやんの」
悪ガキっぽい声を出し、小さな笑い声を漏らす。
雷韋は濡れた外套を脱ぎ去り、その代わりとばかりに左手を軽く振って掌に火を顕した。火の中心には、何か小さな生き物がいるようだった。蛇のように細長い身体を持っていたが、それには小さな手足が蜥蜴のようについている。
火の下位精霊だった。
彼はそれを地面にゆっくりと降ろし、辺りをきょろきょろと見渡す精霊に精霊語で遠くに行かないように言いつける。
傍目には精霊が少年の言葉を理解したのかしていないのかよく分からなかったが、精霊は二、三歩歩みを進めただけでそれ以上動く様子は見せなかった。
それを確認してから雷韋は、もう一度今奪ってきたばかりの剣に目を落とす。そしてそれを両手で掲げるようにし、足下の明かりに照らしながら検分を始めた。
見た事もない丸い鍔が雷韋にはとても新鮮に映った。これまでも名剣と呼ばれるような剣を幾度か目にした事はあったが、これは今まで見た事もないものだった。
細長い刀身は曲刀と言うには真っ直ぐで、しかし紛れもなくゆったりと身を反らしている。両の手の内にある剣が伝える金属特有の重たい感触が心地よかった。
見た事もない剣に彼は興奮し、きっと高く売れるに違いないとくすくすと小さな笑いを漏らす。それは抑えても堪えても、腹の底から出るものだった。
「今日はついてんなぁ、俺ってば」
一人言って、鞘から刀身を抜こうとしたが、何故かそれはびくともしなかった。不思議に思い、もう一度両手に力を入れてみる。だが、やはり刀身が鞘から抜ける感触は返ってこない。
「なんだ?」
疑問がそのまま口をついた。
更に力を込めて引っ張ってみたが、どうやっても剣はびくともしない。呪がかかっている気配もないのに。
「っかしいなぁ。これもあいつも本物だと思ったのに……」
もう一度だけ雷韋は刀身を引き抜こうとありったけの力を込めたが、いかんせん、それは徒労に終わっただけだった。
「ちぇっ」
未練たらしく舌を打ち、雷韋は俄に曇った顔を晒すと剣を背後に放り投げた。
どう言う仕掛けなのか知れないが、抜けない剣になど用はない。おそらく売れもしないだろう。
樫の木の傍に落ちる重たい音に一度振り返り、小首を傾げる。その顔には、おかしいなぁ、と書かれていたが、兎にも角にも財宝の入った革袋を手にした。だが、それでもまだ諦めきれないのか、再び小首を傾げ背後を見遣る。
視界の隅に映る剣は静かに雨に打たれていた。不意に浮かんだあの異国の男を恨めしく思い、
「かす掴ませやがって」
彼は剣を代わりにと悪態をついて、そのあとはもう振り返る素振りさえ見せようとはしなかった。
雷韋は目の前にある小袋に集中し、無造作に小袋の口を開けてそれを逆さに振る。
中からは煌びやかな財宝が零れ落ち、それが精霊の仄明かりに照らされて恰も輝く雨のように少年の目には綺麗に映った。しかしその煌びやかな小山の中には、そこには全く不釣り合いなものも存在している。
薄汚れた小さな木の小箱だった。
それは夢色の中にあって唯一異質で、あまりにも無様なものだった。
それを目に止めて、
「精霊力を感じたから持ってきたんだけど、これ……」
突然何かを思い出したようにその箱を手に取り、そして開ける。
中には重厚感を漂わせる天鵞絨が抱きしめるように身の内に透明な珠玉を抱いていた。
珠玉の大きさはさほどでもない。少年の、まだ成長しきっていない細い指と薄っぺらな掌でも充分収められるほどの大きさだ。
「火の力、だったよな?」
雷韋は考え込むように親指の爪を噛む。
暫しそうして眺めていたが、珠玉はなんの変化も見せはしない。
噛んだ爪を唇から離し視界の邪魔をするように垂れ下がった前髪を掻き上げて、雷韋は天鵞絨生地の中から玉をほじり出した。
だがやはり、手に取っても特にこれといった変化は起きない。さりとて雷韋にはどう扱っていいのかも分からなかった。
傍らで大人しく明かりの役割をしている精霊に目を遣ると、精霊はじっと雷韋の手元に顔を向けている。
「ん、お前……」
精霊の視線に気付いて雷韋は珠玉を精霊に掲げてみた。すると、初めは無色透明だったそれが、急に精霊の明かりに反応するように赤々と輝きだしたのだ。
我知らぬうちに口の端に笑みが浮かぶ。
「やっぱりそうなんだな、お前。俺の眷属なんだよな?」
嬉しそうにくすくすやりながら、雷韋は珠玉相手に言葉をかける。
「じゃなかったら精霊が反応するわけも、精霊に反応するわけもないもんな」
足下でもたつくように身体をくねらせる精霊と、手にある火の珠玉を交互に見遣った。そして精霊に語りかける。
「お前の仲間だぞ。よかったな」
蜥蜴に似た火の下位精霊は少年のその言葉になんの反応も示さなかったが、それでも彼は満足げだった。いや、充分満足していた。今しがた放り出した剣には幻滅させられたが、精霊を封じてある玉などそう滅多にお目にかかれる代物ではない。
これは金に換算する事も、どんな宝石にも、どんなに豪奢な王冠とも比べられないものなのだ。第一、簡単に人の手で作り出せるものではない。
これは多分、光の妖精族の技だろうと少年は思った。彼らの精霊魔法によって生み出されたものだろうと。