婚約破棄、されました。
婚約破棄から愛が深まる。そんな小説みたいなことってあるのね。
「では、お嬢様はまだ殿下のことを⋯⋯?」
「ええ、好き」
「それは⋯⋯その、友人としてではなく?」
「そうよ。恋愛感情で好き。だからわたし、あなたが言ったように、好きな人と、ディートリヒ様と結婚したいの」
わたしの言葉にマリーは信じられないという顔になる。
そして、少し考えてから、悲しそうな表情を浮かべた。
それを見て、胸の奥がちくりと痛む。
もしかしたら、マリーはわたしの結婚を心から祝福できないかもしれない。
けれど、わたしの婚約破棄はもう決めた事だ。だから、今はただ黙って聞いてほしい。
わたしはマリーを見つめて、もう一度「ディートリヒ様が好き」だとゆっくりと言葉を繰り返した。マリーの顔がくしゃりと歪んでいく。
やがて彼女は俯いて、小さな声で呟いた。
ごめんなさい、と。
「謝らないで。だって、これはわたしが決めたことだもの」
「ですが⋯⋯」
「いいの。それに、わたしはマリーに謝ってほしいわけじゃないわ。だって、マリーはわたしにとって大切な友達だもの。わたし達はこれからも友達。どこにいても」
そう言うと、マリーはようやく顔を上げた。
涙を滲ませた瞳には強い光が宿っている。
そして小さく頷くと「お幸せになってください」とわたしの手を握った。
わたしの元婚約者ディートリヒ様は先日、王太子の名を外された。
新たに王太子となったのは弟君のデービット様。彼は天才だと名高く王位を継ぐのは当然のことだと声を上げたデービット王子派の策略に嵌ってしまったのだ。
それによりわたしの婚約者がデービット様に代わってしまった。
だから、わたしは婚約破棄される事にしたのだ。
理由は簡単。わたしとディートリヒ様は今までの貴族のような家の為の政略ではなく心からの愛情を育ててきた。それはわたしもディートリヒ様も愛のない結婚をしたくなかったから。
この国の貴族社会において政略結婚は当たり前の事だけれど、わたし達はそれが嫌だった。
だから、始まりは王家と侯爵家の政略だとしてもわたし達は互いを知り合い、慈しみ合い、慰め合って共に手を取り合う関係を望んだのだ。
それなのに。
ディートリヒ様は王太子を外され、わたしはデービット様の婚約者にされた。
デービット様は天才ではあったけれど少し悪い癖があった。
わたしとデービット様は三つ違い。彼の方が三つ年下である。
おまけに兄ディートリヒ様の元婚約者のわたしを年上のお古だと嫌っていたのだ。
デービット様の悪い癖とそのわたしに対する不満。
彼はわたしとの婚約が結ばれてすぐに幾人もの若くて可愛らしい女性を側に侍らし始めたのだ。
それでもわたしは婚約者としてデービット様に尽くしていた方だと思う。彼がわたしを恥ずかしく思わないように常に背筋を伸ばし彼を立てた。そう、ドレスを贈られなくても、夜会にエスコートされなくても、ダンスを踊ってもらえなくても。婚約者である事を続けた。
王妃様やお父様にわたしに魅力が足りないから。わたしがデービット様を引き止められないのが悪いのだと咎められてもわたしはそれをじっと耐えた。
辛かった。それでも頑張っていたのはディートリヒ様の為。
王太子ではなくなったディートリヒ様は表舞台にほとんど出て来られなくなった。天才ではないけれど慈悲深く国民から親しまれていたディートリヒ様の人気は高く、デービット様よりも国民はディートリヒ様を支持する者が多かった。
だから、デービット様はディートリヒ様を北の離宮へと入らせ半幽閉のような生き方を強要した。
わたしはデービット様の婚約者であれば王宮への出入りが許されるのだと、いつかディートリヒ様を北の離宮から出してあげるのだとそれだけを思ってデービット様の婚約者にしがみついていた。
わたしはどうしても受け入れられなかったのだ。王家やお父様のわたしへの扱いは我慢できてもディートリヒ様の扱いだけは。
だって、ディートリヒ様にはなんの瑕疵もないのに。ただデービット様がディートリヒ様より優秀だっただけ。それなら最初からデービット様を王太子にすれば良かったのだと怒るわたしにディートリヒ様は、それでは僕達は出会わなかっただろう。と微笑んだのだ。
確かにそう。
わたし達は互いに出会うことなく生きていく道もあったかもしれない。
でも、わたし達は出会ってしまった。愛し合ってしまった。
ならば、わたし達の選択は一つしかない。
愛する人と一緒に生きる道をわたし達は選んだ。
それを後悔していない。
だからこそ、わたしは今日、これから婚約破棄される。
デービット様の恋人テレサ様を貶めたとして。
ただし、わたしはテレサ様を貶めてはいない。
わたしはテレサ様を窘めただけ。貴族としての振る舞いを教え、王太子の恋人ならば婚約者であるわたしを立て、愛人なのだと弁えるべきだと諭しただけだ。
そうそう令嬢を呼んでのお茶会には愛人であるテレサ様には遠慮してもらったり夜会のドレスの色をデービット様の色にしないようにとも指導したわね。
それをテレサ様が虐められたと感じるように。
これはわたしの描いたシナリオ。デービット様はテレサ様を貶めたとわたしを憎んでいるはず。
そう、これで良い。そして彼はわたしとの婚約を破棄するのだ。
わたしはそれを望んでいるのだから。
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わたしはいつもの通り一人で王宮の広間へと向かう。
気の毒そうに頭を下げてくれた騎士にわたしは微笑み、その扉を開かせた。
騒つく貴族達。そのヒソヒソ声が広がって行く。
デービッド様とテレサ様は腕を絡ませながらわたしを視認すると、デービット様はわたしを睨みつけ彼女は顔を強張らせた。
「お前、よくものうのうとやって来れたな」
「何をおっしゃいますの。わたくしはデービット様の婚約者でございます。婚約者として皆様へのご挨拶がありますもの」
婚約者の言葉にデービット様は顔を歪ませテレサ様はその腕にしがみついたまま瞳を潤ませわたしに怯えるフリをする。
こんなにも予定通りの反応をしてくれては笑いそうになるじゃない。
「婚約者だと? 俺はお前を婚約者だとは認めていない! お前は事ある毎にこのテレサを貶め、令嬢の茶会に呼ばなかった。何よりあろうことかテレサを愛人だと蔑んだそうだな。そんな女が婚約者だとは認めん! 俺はこのテレサを愛している。俺の最愛はこのテレサだ!」
「デービット様っわたくし嬉しい!」
わたしは内心ほくそ笑み歓喜に震える。
さぁ、続きを。わたしに婚約破棄を突き付けて。
「それでもお前が俺の婚約者だと言い、王家に縋り付くのなら今ここで分からせてやる! 俺はお前との婚約を破棄する!」
とうとう来た! この瞬間が! これで、やっと! ずっとこの時を待っていたのだ。
わたしは仰々しく頭を下げた。
「畏まりました」
その言葉に周りの者達からどよめきが起こる。
わたしがあっさりと婚約を破棄したことに驚いているのだろう。
それもそのはず。わたしがしたことはただ一つ。この日の為にわたしはデービット様の婚約者として背筋を伸ばしていただけ。
周りにはわたしがデービット様に相応しくあろうと努力している、それこそ寝る間も惜しんで勉強して、マナーだって必死に学んでいると見えていたはず。
そう、全てはこの時の為に。
わたしはゆっくりと顔を上げ、口を開く。そして、言った。
それはもうこれ以上ないくらいの笑顔で。そして一言。彼らだけに聞こえるように。
貴方なんか大嫌いです……と。
「え?」
その声は誰のものだろうか。少なくともわたしではない。
わたしはただ、ニッコリと笑って続ける。
「あら? どうなさいましたの?」
「いや、でも、お前⋯⋯」
動揺するデービット様。わたしは気にしないフリをして続ける。
もうすぐ、もうすぐなのだ。もうすぐ、全てが終わる。
わたしはもう一度、今度は少し声を張って宣言した。
その声は、会場中に響き渡る。
もうすぐ、もうすぐだ。
そう、わたしは求めていたものを手に入れる。
わたしが愛しているのはディートリヒ様だけ。
「わたくしがデービット様に婚約破棄されたとなれば我が父、バーランド侯爵はわたくしを許しません。わたくしは二度、王家との婚約を破棄された女となりますゆえ。今後デービット様とテレサ様が不愉快にお感じになられるわたくしに会う事は一切ありませんでしょう。いままでありがとうございました」
そう言って深々とお辞儀をした。皆一様に呆然と立ち尽くしている。
「そうそう、デービット様。わたくしの名前。ご存知?」
「は? ヴィオ、レ⋯⋯だろう」
デービット様は本当に最初からわたしが嫌いだったのね。名前を間違えるほどに。思い返せばデービット様に名前を呼ばれた事、なかった。
「ふふ、不正解です」
そう笑って、わたしは会場を後にしたのだ。
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さぁ、最後の仕上げよ。
わたしが喜びに浮く足を踏みしめながら家に戻ると一通の書簡を握りしめたお父様に打たれた。
その書簡は王家の封蝋が押されたデービット様からのもの。
デービット様はわたしに婚約破棄を宣言する前にバーランド家と婚約破棄の手続きをしていたのだ。
なんと用意の良い事だ。
デービット様の書簡にはテレサ様を貶めているわたしを咎め、国内に居るとテレサ様が怯える為、国外へ追放すると認められていた。
「このバーランド家の恥晒しが! お前には失望した! 荷物をまとめてさっさとこの家を出て行け!」
「旦那様! それはあんまりです! どうかお嬢様をお許しください! いえ、お嬢様は何も悪くはないのです!」
マリーがわたしを庇って懇願してくれる。
いいの。いいのよマリー。わたしはこの言葉も待っていたの。だからマリーもうやめて。貴女を不幸にしたくないの。
「良いのよマリー」わたしが言うとマリーはハッとしたように目を見開いた後、悲しげな顔をして俯いた。
「お父様、ご期待に添えられなかった出来の悪い娘で申し訳ありません」
そう言って、わたしはその日の内に荷物をまとめた。
翌日、早朝にわたしはバーランド家を追放された。
マリーは最後まで涙での見送りだった。何度も付いてくると言い張っていたけれどマリーには家族がある。わたしなんかの為にマリーとマリーの家族が不幸になるのをわたしは望んでいない。
ふと、わたしはお父様の部屋を見上げる。分かってはいたけれどお父様の影は見えなかった。
お母様が儚くなってからお父様はわたしを見なくなったのよね。跡取りであるお兄様が居ればバーランド家は安泰。わたしのバーランドでの価値は王族の婚約者である事だけだったのだから。それが潰えたのだ、もうわたしはこの家に必要がないと言う事だろう。
「さようなら、バーランド」
わたしはバーランド家へ別離の言葉を呟いた。
これでいい。わたしはこれから幸せになる為に頑張るんだから。
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珈琲の香りと香ばしく焼けたパン。お隣の可愛いピッピが分けてくれた卵の目玉焼き。
贅沢ではないけれど温かい時間。
「ごめんなさい⋯⋯今度こそ上手く焼けると思ったのに⋯⋯」
恥ずかしくて俯くわたしにディートリヒは微笑む。
「いいんだよ、僕も最初は同じだったから。コツさえ掴めば簡単にできるようになるよ」
「はい、もっと努力します」
「ははっ相変わらずヴィオラは真面目だね。僕達は何をするにも時間がかかる。ゆっくり上手くなって行こうよ」
そう言って彼は優しくわたしの頭を撫でてくれる。
でも、わたしは知っている。
この優しさは全てを包み込むような彼の強さの裏返しなのだと。
だから、わたしは少しでもその強さに近づきたいと思う。彼の隣に相応しくなりたい。
朝食を終えると、ディートリヒは仕事に行き、わたしは洗濯を始めに庭へと出た。
今日も良い天気だ。
朝露に輝く草花や瑞々しい葉をつけた木々を見ているだけで心が安らぐ。
ここは本当に良いところだ。
家を追い出されたわたしは王宮に残っていた少ないディートリヒ派に北の離宮から救い出された彼とこの隣国へ亡命した。
ディートリヒはいまではただの「ディー」、わたしはただの「ヴィオ」と名前を変え二人きりの時に本来の名前で呼び合うだけになっている。
隣国のこの小さな町に流れ着いた頃のわたし達はそれは酷い有り様だった。
これまで誰かの世話によって生きて来たわたしとディートリヒは本当に何も出来なかったのだ。
火のおこし方、鍋の使い方、食事の作り方、掃除洗濯のやり方、お金の稼ぎ方。何から何まで知らない事ばかり。けれど、この町の人々が手を差し伸べてくれて色々教えてくれた。
わたしにはおかみさん達が家事を教えてくれてディートリヒには旦那さん達が仕事を教えてくれた。
おかげでディートリヒは庭師の仕事に就くことが出来た。旦那さん達の話ではディートリヒは庭師として腕が良いらしい。今度隣町の貴族の庭を任される事になったと言っていた。
わたしはまだ家事を完璧にこなせていないのに。落ち込むわたしにおかみさん達は「家事に完璧はないんだよ」と笑ったけれど、疲れて帰って来るディートリヒが安心できる家を早く作りたい。
そんな家を作れた時、本当の「ディー」と「ヴィオ」になれるような気がする。
「うん、今晩こそ美味しいごはん作ってあげよう」
⋯⋯と、気合を入れたのだけれど⋯⋯。
「ごめんなさい⋯⋯」
「ヴィオラは本当に真面目だなあ。こんなに美味しいのに」
夕飯に並べたのは麦を入れ過ぎて大量になってしまったリゾットと野菜を入れ過ぎて大量になってしまったポトフ。
貴重な食材を無駄にしてしまったと青ざめたわたしにディートリヒは「これで三日はごはんに悩まなくて良いじゃない」と笑ってくれた。
本当、申し訳ない。
「そうだ、この新聞貰ってきたんだ⋯⋯かの国は大変らしい」
そう言ってディートリヒがテーブルに広げた新聞。
そこに懐かしい国の名前が載っていた。
──デービット王太子またも隠し子発覚──
三年前わたしが追放されディートリヒが表向き病死したと発表された直後、デービット王太子とテレサ伯爵令嬢は婚姻を結んだ。一年。それは問題なく過ぎた。二年目、テレサ王太子妃に第一子が生まれるとデービット様の隠し子、所謂庶子が次々と名乗り出てきたのだ。
この記事の子で⋯⋯確か三十人目?
王族の血はかなり濃いものらしく外見だけでもデービット様にそっくりだということらしいけれど、それにしても多すぎると名乗り出た子供とデービット様の親子鑑定を王家の秘宝で行った所、全てデービット様のお子様だと結果が出たと言う。
デービット様、女癖悪いから⋯⋯天才と言われるのはその頭脳だけで人の心の機微に疎い。よく言えば無邪気なのだ。
わたしが婚約者だった頃、王妃様に「浮気は男の甲斐性」なのだと窘められていたが結果王族の種をあちこちにばら撒き国を混乱させるのは甲斐性ではなく失態だと思う。
「デービットと比べると僕は平凡だからね。人に都合よく使われてしまう。だから策略に嵌ってしまったんだよ。そんな王には国を背負えない。デービットは人を使うことは上手いはずだけど⋯⋯悪い癖が身を滅ぼす、か」
そう、わたしが追放されディートリヒが居なくなった事など些細な事。わたし達が居ようが居まいがかの国の王家はいずれ滅びる道を進んだのだろう。
だってディートリヒは王太子、行く行くは王になる身分でもその素質がなかった。わたしはその婚約者ではあったけれどディートリヒとの婚約を解消され、次にデービットの婚約者にされ、結局破棄されて家から追放されたバーランド家の道具でしかなかった。わたし達に国を左右する影響力なんてない。簡単にその存在を消されても問題にならないただの王子と貴族の令嬢だったから。
だからわたしとディートリヒは惹かれ合ったのかな。
新聞の記事の続きはお家騒動に迷走する王家に嫌気を差した国民が立ち上がり革命が起きたとある。王侯貴族達はその地位と権力を失い新しい時代が開かれるだろうと締め括られていた。
かの国の王族はなるべくして崩壊の道を行くことになるのね。
「僕は愚かな王子だね。王家が崩壊しそうなのになんの感情もない」
「最初に捨てたのは王家よ。ディートリヒは王様に向いていなかった。だからわたしは貴方を好きになった」
「ヴィオラも王妃に向いていなかった。だから僕は君を好きになった」
わたしとディートリヒ。わたし達はこうなる事を画策していた。
わたしは婚約破棄され追放されるように振る舞い、ディートリヒは機会を見て脱走を準備した。捨てられたから国を捨てたのだ。
わたし達はお互い様だと言い合いクスクス笑う。そしてどちらからともなく寄り添い合うように抱き合った。
幸せだ。華やかなドレスも豪華な城もない。けれどわたし達は真実の愛を見つけた。
わたしはこの人とならどこへ行っても生きて行ける。
これから先の人生がどんなに辛くても乗り越えて行ける。
わたしはこの人の傍にいるために今まで生きて来たのだ。
真実の愛を笑う人もいるだろう。わたし達の愛を笑いたければ笑えばいい。わたし達は互いを必要としているのだから。
わたし達はしばらく抱き合っていた。やがてどちらからともなく離れるとお互いに顔を見合わせて照れ笑いをする。
わたし達にとって日常的になったキスはいつも甘い味がするのだ。




