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九.赤坂鉄砲坂

 正則は供1人を連れて屋敷を後にした、連れ出したのは先々代より三田家に仕える松井伊三郎という老与力である。


屋敷を出るとき用人が「殿、この者は三田家では最古参、井上家の事もよう知ってござるゆえ、道すがら左太夫様の為人ひととなりなど聞いて下され」と付けてくれたのだが…。


先導する伊三郎は年齢を感じさせない矍鑠かくしゃくとした歩きっぷりで東に向かった、ところが途中なぜか他家の屋敷境界隘路に入り、わざわざ歩きづらい土手道やドブ川の濡れ淵を無言で歩きだした。


多分諏訪坂に出るため近道をしているのだろうが、とにかく不潔で歩きづらい悪路である、時間は充分に有るのだから無理して近道する必要などないはず…。


「松井殿、なにもこの様な悪路を歩かずとも、それ左に見える通りをゆるりと歩こうではないか」と声を掛けた、だが老人には聞こえなかったのか振り返る気配は無い、そうこうしているうち悪路に露出した石塊が容赦なく正則の足裏を突き刺し始めた。


「これ松井殿、聞こえぬのか!」

(耳が遠いのか、それとも俺を侮っているのか、しかし此奴はどんな足裏をしているのだ、鈍感め…)


平然と歩く松井老人に少々腹が立ってきた。

皮靴に慣れた現代人には 薄っぺらな草履など履いていないに等しい、正則は顔を顰め やもすれば悲鳴が洩れそうになるのを堪えた。


方々の屋敷境界縁を縫うように五町ほどヨタヨタ歩いたところでようやく諏訪坂の通りに出た。


通りはさすがに平坦である、正則はホッと息継ぎし右手を見ると紀伊殿の壮大な門構えが目の前に迫っていた。

(えっ、もう紀伊殿の門前か、こんな近道が有ったんだ…しかしこの近道 距離にして一町も縮まったかどうか怪しいもんだ、フーッしかし10月と言うにこの暑さはたまらぬ)


「松井殿、左太夫殿の屋敷まで あとどの位か、ふーっ暑い もそっとゆっくり歩いてくれ」紀伊殿の門前を過ぎ 諏訪坂が途切れるあたりで再び弱音を吐く正則。


「殿、これしきの歩速で音をあげるとは情けのうござる、あと一息 ほれあの赤坂御門を抜けた先にござるよ」と、ようやく老人は面倒くさそうに声を漏らした。


「何、御門を抜けた先は丘ではないか、くぅっ…あれを登るのかよ」

と嘆息したとき 不意に井上左太夫の貌が脳裏に浮かんだ。


彼は田付光右衛門とは違い いまいち分かりにくい人物であった。

思慮深いと思えば急に怒り出したり、また呆けたように馬鹿笑いしたり…特に気になるのはあの濡れた瞳だ、正則の苦い経験から瞳が濡れた印象の男は油断ならぬ奴と以前から注意していた。


「松井殿、これから参る井上左太夫殿のこと 何か知っていたら教えてくれぃ」

息を上げながら切れ切れに問うた。


「井上様ですか、そうですなぁ…井上家の当主は代々“左太夫”を名乗りましてな、御先祖は何でも徳川家康に召し抱えられ鉄砲製造技術に長けた井上九十郎外記正継を祖としているそうな、たしか流派は“外記流砲術”と称していたはず…。


それともう一つ鉄炮技術の流派に田付兵庫助景澄を祖とする“田付流砲術”があり、この二家が幕府鉄砲御役の二大流派になりまする」


(おや、この…老人普通にしゃべれるではないか)

「松井殿、幕府の鉄砲方は この二家だけをいうのか」


「左様、鉄砲方の御役は代々 井上、田付の両家のみが伝承しておりまする…あっ、そうそう他に“稲富流砲術”がござりましたな、その昔 稲富直家(一夢)と云う砲術に長けた者がおり、二代将軍・秀忠公や尾張の大納言・義直公に重宝され、一時は隆盛を極めたと聞きまするが、稲富家には男子に恵まれずその後は傍流に引き継がれ、伊勢亀山の方で今でも細々とその流派は受け継がれているそうな」


伊三郎の語りで井上、田付の両家は幕府創世期より続く由緒ある家柄と知り驚いた。

(ほぉ、二百年以上続く名家かよ、それに比べ我が浅尾家など明治以前の家系も解らぬというに…ククッこれを何処の馬の骨とも分からぬヤツというのだろうなぁ)


赤坂御門を抜けると左に折れ、暫く歩いて三叉路を赤坂表傳馬丁の通りへと曲がった、伊三郎は「殿、ここが鉄砲坂でござるよ」と言い長い坂道をずんずん上っていく。

正則は完全に息が上がっていた、老人の歩行速度は現代人の倍は有ろうか。


(ふーっ、これでは競歩だよ、此奴俺を試しているのか)


ふらふらになりながらも井上家の屋敷門前に何とか到着した、しかし息は乱れ したたり落ちる汗を拭うのも億劫にその場に座り込んでしまった。

その横で伊三郎が呆れた顔で正則を見つめていた。


(肉体は若いが脳だけは65歳の老人…このアンバランスが疲労をもたらすのか、或いは疲れたと感じるは想いだけなのか)そう思ったとき正則は奇妙な感覚とらわれた。


胸を張り肩を落として気を静めると呼吸の乱れはピタリと収まり急に体が楽になっていく。


(やはり脳と体のバランスは未だ合致していないんだ…)


気をとり直し 立ち上がると庄左右衛門の姿がないかと辺りをうかがった、しかし門前周囲にも坂下にもその姿は見えない。


(まだ到着していないのか、それとも着いてもう中で待っているのか…)


正則は羽織の袖をはためかせ風を懐に通し汗が引くのを待った。

しかし暑いのはともかく喉の渇きが限界に来ていた、現代のように自販機かコンビニが辻々に有ればと道すがら何度思っただろう。


(ハァ…キンキンに冷えたビールを思い切り飲んでみたい)

そう思いつつ路傍で手持ちぶさたに佇む伊三郎を見て(此奴め、馬鹿みたいに早く歩きやがって、考えてみれば屋敷を出てまだ30分も経っていないだろうに)


「これ伊三郎、庄左右衛門様が到着したか門番に聞いてこぬか!」

正則は喉の渇きからか苛立った声音で伊三郎に命じた。


伊三郎はそれに返事を返すことなく走り出し、門番に二三言聞き込み駆け戻ってきた。

「鈴木様は未だ御到着されてはおりませぬ」と ふて腐れた顔で言う。


正則は若い頃より時間には神経質な方だ。

(やはり思った通り時間前のようだ…クソジジイめ、あんな早足で歩きやがって、フーッそれにしても喉が渇いた、もう待ってはおれん)


正則は憎々しげに伊三郎を睨むと、門前に行き門番に取り次ぎを請うた。

暫くして門の内より年老いた侍が現れ、どうぞ中にお入り下されと門を通された。


正則が玄関口に歩み寄ると、伊三郎もその後に付いてくる。

咄嗟に「これ!おまえは入らずともよい、道案内御苦労、もう帰れ」

主従をわきまえぬ古参老人をつい腹立ち紛れに叱咤してしまった。


すると「何を申されるか、それがし道案内の下郎ではござりませぬ、殿がお帰りになるまで待機するは与力の勤め、このまま帰れば御用人様にそれがしが叱られまする」とブスっとした顔で玄関口の上がり框に座り込んでしまった。


(やれやれ三田家では俺より用人の方が偉いのかよ)

それを見かねた案内の侍が苦笑しながら「三田様、お供の控間は用意してござるゆえ御心置きなく」と心遣いを見せてくれた。



 正則は伊三郎を玄関口に残し奥へと進んだ、屋敷の広さは三田家の半分以下だが、歩くにつれ奥は意外に広いと感じた。

磨き込まれた板張り廊下を囲む襖には、少々古びて金箔や顔彩・錬岩は薄れているが狩野派と思われる落ち着いた画が配され、開け放たれた部屋の調度品も華美な装飾はなく質素な左太夫の人柄を顕しているようにも感じられた。


ほどなくして十畳ほどの部屋に通された、部屋の調度品はいずれも古く畳もそこかしこにささくれが目立ち、名家とはいえ暮らし向きは存外苦しいのかもしれぬと正則は思った。


三田家とて千五百石を戴いてはいるが、慢性化した借入金返済や家来衆の給金を差し引けば殆ど残らないと用人がこぼしていたが、ましてや三田家の二割にも満たぬ井上家の扶持、その内情は言わずもがなであろう。


正則は座ると冷たい水を案内の者に所望した、喉の渇きは限界に来ていた。

暫くして左太夫に続き深い湯飲みを盆に乗せた若侍が部屋に入ってきた。


「これはこれは正則様、このようなむさ苦しい部屋で申しわけ御座りませぬ」

正則はそれには応えず若侍が差し出した湯飲みを手に取るや一気に呷る。


「これは失礼した、何せ喉の渇きが限界に来ておりまして、いやはや供の歩きが速くて参りました」


「フフッ御供は松井殿でござろう、彼のことは昔からよう知っておりまするが、そう言えば亡くなられた先代様も「彼奴に供をさせると腹は立つし疲れる」とよう零されておられましたな」


(何だ、新参の俺を侮り意地悪したんじゃないんだ…と言うことは、老人には少々言い過ぎたやもしれぬ…)


「まだ残暑厳しき折それはそれは難儀にござった、本来なら私どもが貴方にお伺いしなくてはなりませぬのに、本日は誠に申し訳ござりませぬ」


「いえいえ、きょうは井上殿が新しく工夫した銃を見せてくれると聞き喜んで飛んで参った次第で」


「銃…はて、その様な話、言うた覚えはござりませぬが…」


「えっ、違うのですか」


「いえ確かに銃の工夫は常日頃いたしておりまするが…しかし正則様に見て頂けるようなそんな大層な工夫銃などとてもとても」


「そうでしたか…」

(そういえば親父殿は銃の件は“ついで”と申されたな)


「では、呼び出しの目的は何でしょうか」


「そろそろ鈴木様と田付殿が到着するころ、全員が揃ったところで御話し致しましょう、その待つ間 退屈凌ぎになればと我家の骨董を持参いたしましたゆえ、時間つぶしにでも御覧いただければ幸です」そう言って携えた黒塗りの長箱を座卓に置き、一礼して部屋を出て行った。


一人残された正則は手持ちぶさたに部屋の造作などに視線を走らせた、だが古いだけでいたって平凡な造りにはすぐ興味は失せた。


(確かに親父殿は工夫銃を見せると言ってたはず、ということは工夫銃は俺を誘き寄せる餌なのか…ふぅ、この会合 何やらいやな予感がするなぁ)


と考える内、座卓上に置かれた長箱に目がとまった、その長箱は塗りは剥げおち地肌は露出、蓋に書かれた金文字も殆ど読めない古箱である。


(こりゃ相当古いな、見た目はたしかに骨董だよ…)

正則は若い頃より骨董には目がない、特に武器に関する骨董を見るとワクワクしてしまう、元世では戦国期の粗製濫造品ではあるが備前長船祐定の刀や鍔・はばき・切羽などを蒐集しており、骨董と聞いて興味をそそられ箱蓋にそっと手をかけ開けてみた。


すると中は期待した刀剣類ではなく古びた巻物が入っていた。

(何だ、刀じゃないのか…)

正則はその巻物を慎重に取り出すと座卓の上で少しずつ広げ始めた。


巻物を広げると縦二尺、横三尺の麻紙に描かれた絵図面である。

その絵図面の上方には【十六連奇環砲】とあり左下に“正保二乙酉”井上外記正継と署名され押印されていた。


(正保二年と言えば1645年…これより二百年も昔の絵図面か、先ほど伊三郎が言っていた井上家の始祖・井上九十郎外記正継が描いた絵図面ということになるな、んんこれは面白そうだ)


これまでに戦国・江戸期の銃の絵図面は専門図鑑等で何度も目にしていた正則だが、実物を見るのは初めてで、それもこの絵図面には詳細部まで克明に描かれ所々には精緻な部品図まで描かれていた、これほど詳しく描かれた絵図面を見るのは正則とて今日が初めてである。


(精緻且つ色も鮮やかに残っている、これで虫食いさえ無ければ前世なら重要文化財と言ったところか、これは素晴らしい)

正則は膝を崩し絵図面に見入った、こんな時はタバコが欲しいところ、だがあいにく今日は持ってこなかった。


(図法に一貫性がないようだが…ふむぅどう見ればよいのか、矢視と断面が入り乱れ、尚且つ一角法さえ混じっている、これでは細部構造を読み解くのは骨だなぁ…)


それでも暫く目を細め見入っている内におおよその構造が掴めてきた、それは1861年に米国の発明家ガトリングによって製品化された最初期の機関銃“ガトリング砲”に近似する銃であった。


(二百年も前にこのような斬新な銃を考案するとは…いやはや井上家の始祖は凄い!、しかし待てよ、やはり火縄か…それに16連環銃身の回転はいちいち手で割出さねばならないとは、これでは骨が折れる。


それに玉込めと口火薬の装填にそうとう手間が掛かりそうだな、この工夫では16連発撃ったあと次の発射準備に気の遠くなるほど時間がかかり、銃身径からして16本もの長尺鉄棒の構成では重すぎて車輪が必要…んんこれは実戦用に工夫された銃とは言えないな)


正則は絵図面を見て行くにつれ、銃の欠点を補う改良点が次々に思い浮かんでいく。

(俺なら実弾は薬莢式にして、薬室後部には遊底を装入、撃針とハンマーはここで、キッカクランクとハンドルをこの位置に装備し、16分割はクランク軸にローラーインデキシングを組み込む…あれ、これではガトリング砲になってしまう…って、遊底を設けるなら単銃身で機関砲が出来てしまうな)


そのとき部屋に近づく足音で正則は我に返った、すぐに襖が開くと三人の人影が入ってきた。


「こりゃ遅うなった、正則殿相済まん」と庄左右衛門、幸右衛門と左太夫がそれに続き三人は座卓を囲むように座りこれで四人が揃った。


「おや、この絵図は正継十六連奇環砲ですな、井上殿 おぬし客がくるたび自慢げに見せておるようじゃが、いくら自慢の家宝といえど このような虫食い絵図なんぞ正則様にお見せしたら笑われますぞ」と田付光右衛門。


「我が井上家伝来の家宝に口が過ぎますぞ田付殿、古いのは承知で正則様に御見せしたのじゃ、口を慎まれよ」と鼻白んだ。


「これこれ、大事な話の前に喧嘩なぞするでない、それこそ正則殿に笑われますぞ」


「井上殿、家宝の絵図面 実に面白う拝見いたしました、いやすばらしい銃です、二百年も前に これ程の銃を考案をされた始祖を持つ井上家、正則実に感服いたしました」


「ほれご覧なさい、技量有る御方が見ればその良さは解ると言うものよ、田付殿」


「何を言うか、玉込めに四半時もかかる御飾銃、おぬしには正則様の世辞ぐらい分からぬのか」


「これ!、正則殿の前で失礼であろう、もうそのくらいにしておけ、さぁ本題に入るぞ」

庄左右衛門はキッと口を結び二人を睨み付けた。


 

 暮六ツ半、赤坂鉄砲坂を下る二つの陰があった、正則と松井老人である。

松井は半間ほど先を歩き提灯で正則の足下を照らしていた。


「松井殿、晩飯は食ったのかえ」


「はっ、井上家の御家来衆とご一緒に」


「それはよかった、いやおぬしが腹を空かせてはおらぬかと気にしておったのよ…そうじゃ 屋敷に戻る前に少し酒でも呑んでいかぬか」

正則は先ほど喉の渇きに苛立ち、老人を邪険に叱咤したことを少し後悔していた。


「それはよう御座いますが…今宵の会合に御酒は出なかったのでござりましょうか」


「いや出るには出たが…聞いた話が深刻での、全く呑んだ気がしないのよ」


「左様でしたか、ではそれがしの行きつけの店に少し寄りますかな、まっ狭くて汚い店ですが看板娘が美人で出てくる酒のつまみが旨い、先代の次郎右衛門様が元気な頃はそれがしとちょくちょく屋敷を抜け出し舌鼓を打ったものです」


「ほぅそんなに旨いのか、それはよい では急ごうか」

行きとは反対に鉄砲坂は下り道である、正則の足は自然と速くなっていった。


その居酒屋は鉄砲坂を下りきった右手の細い路地にあり、小間物屋や魚屋といった五軒続きの商店長屋の西端の一軒で、伊三郎が言った通り 間口二間ほどの狭い居酒屋であった。


店の入口には「居酒屋 五兵衛」と染め抜かれた汚れた暖簾がかかり、店内は十二畳ほどの土間と縦長四畳ほどの揚り座敷、土間には縁台が四つ置かれテーブルらしきものはない。


正則と伊三郎は揚り座敷奥の小さな座卓に相向かいに座ると、十八・九の娘が注文を聞きに来た。


「お爺ちゃんいらっしゃい、今日は若い方と二人連れなんて珍しいわね」


「そうでもないさ、ハルちゃんがまだ赤ん坊のころは大勢で来たもんだよ」


「そんな昔からきてたの、知らなかった…でっ今日は何にする」


「そうさなぁ…じゃっぱ汁がいいが、まだタラの季節には早過ぎるか、まっいつものヤツに味噌焼きを付けて貰おうか」


「じゃっぱ汁は師走まで待たないとね、でもいつも同じでよく飽きないね、フフッでっ そちらのお兄さんは何にされます」と正則の方に笑顔を見せた。


「初めてで分からぬゆえ…爺様と同じものにするかな」


「承知しました」そう言うとコクンと可愛くお辞儀し奥へ引っ込んだ。


「松井殿、あの子はここの娘かえ」


「ええ、今年十八になる娘でこの店の看板娘です、この店に通う客の粗方はあの娘が目当てなんですよ、どうです美形でしょ」


「ん、確かに可愛い子だ…まさか、おぬしあの娘を狙って通っておるのか」


「殿!何と言うことを、孫と同い年の娘に懸想など とんでもござらぬ」


「フフッ怒るな、冗談よ」

いくら美形といえ志津江にはとてもおよばぬと正則は独りごちた、だが志津江とは違い妙に色気が有り、以前テレビで見たタレントかモデルの誰かに似ているとも思った。


「先ほど松井殿が言っていた じゃっぱ汁って、ありゃ何です」


「ここの主人が津軽の出らしく、じゃっぱ汁とは津軽の郷土料理でござっての、鱈のジャッパ(アラ)と、ネギや大根白菜を味噌で煮込んだ鍋料理で、アラを煮込んだ旨みと白菜の甘みが渾然一体となり それは旨い汁になりまする。


それとここの店はマダラの肝も入れますんで、そりゃぁねっとりして濃厚な旨味は応えられんです、まっ今年の初め食べたきりで…師走が待ち遠しいってもんですよ」


「んんタラのアラ煮か、俺はブリ大根の方がよほど旨いと思うが…おぬしがそれほど言うのならタラもいいかもしれぬのぅ、では冬に再び来るとするか」


そうこう言っている内に小さな座卓には二合銚釐チロリと、肴は帆立貝の味噌焼やの汁の鍋が所狭しと並びだした。


「この味噌焼きや汁も津軽名物でしてね旨いですぞ、まっその前に殿!まずは一献」

と松井老人はチロリを持ち 正則に陶杯を持つよう促した、どうやらこの店の酒はお銚子でなく熱燗用のチロリをそのまま出すらしい。


正則はそんな野趣味が面白く、旨い料理に釣られるまま六合ほども飲んでしまった、そして夜が更けたとき、可愛い娘に「お客さん、もう看板ですよ」と言われたが。


「何を言う、まだぜんぜん呑み足りぬぞ」と くだを巻いた、しかし松井老人に叱咤され、店外に引きずり出されると、担がれるようにして屋敷へ送り届けられたのだった。


この情けない醜態を晒したは、店が出した酒と肴が旨かったから…だけでなく、昼過ぎから井上左太夫の屋敷で行われた会合で 彼らの拙劣なる企みを聞き、「そんな策では到底成功など覚付かぬ」とつい調子に乗って俄策を語り、気付けば彼らに盟主に祭り上げられてしまっていたのだ、それが今になって怯えに変わり、それら後悔が酔いを助長させたのであろう。



 それから二ヶ月余り、以降居酒屋五兵衛には松井老人と五・六度ほども通い看板娘のハルとも昵懇になった。


そして季節は秋から冬へ、この江戸に落ちて初めての冬である、この時代では江戸でも積雪は30cm程もあったんだと驚いた、まるで東北か北海道に来た感である。


師走が押し詰まった昨日、ようやく五兵衛で“じゃっぱ汁”が出されるようになり、そのうまさに はたまた酒を五合ほども過ごしてしまった正則ではある。



 師走も詰まった二十五日の夕。

正則は市ヶ谷御門から田安御門を繋ぐ三番町通りを庄左右衛門と供づれ数人で西に向かっていた、時刻は夕七ツ半(16:30)、根雪に小雪が積もり草履足の指が凍るように冷たかった。


昼餉を済ませ屋敷を出たとき空には一点の曇りも無かったに…いつの間に雪が。

辺りはすぐにも消えそうな薄日が差し、後方の江城富士見櫓が雪片に透け 朧に浮き出ていた。


今日は昼過ぎより九段坂の堀田摂津守の屋敷に庄左右衛門と訪れ、今しがた 辞去し帰途の途中にあった。


「正則殿、それがしの家に少し寄っていかぬか、志津江がうるそうてかなわぬゆえの。

今朝も貴殿を連れてこいと再三催促されたのじゃが、婚儀も近いゆえ 頻繁に合うのはどうしたものかと思うが…あやつ言うことを聞かぬ、母を早くに亡くしたせいか、それともよほど貴殿に惚れとるのか…甘えが過ぎるのかのぅ」


「はぁ、では少しだけ寄ってみましょう」正則は言いながら つい四日前にも会ったばかりなのにと思うも、脳裏にふっと志津江の貌が浮び、胸がキュッと痛んだ。

(やはり逢いたい)


雪道を三町ほども辿々しく歩き庄左右衛門の門前に着く、そこで二人の供の内 若い方は返して例の松井伊三郎を伴い門をくぐった。


「松井殿、今宵は一刻程度で済ませる故 暖かくして待っておれ」と言い 出迎えた用人の秦野小平に「すまぬが爺様に暖かいものでも出してはくれぬか、それと酒もな」と小声で頼み、庄左右衛門に案内され書斎に向かった。


書斎に面した雪明かりの廊下を歩き、この屋に居候していた頃によく見た灯籠上の空は 今は灰色に煙り 細雪が灯籠笠の上に静かに降りそそいでいた。


その時 中屋敷よりこちらに近づく人影が見えた、正次郎である。

正則がこの屋敷を出て以来の再会となろうか、その正次郎が薄明かりに満面の笑みをたたえて走りよって来た。


「浅尾兄い御久しぶりです、あれ以来何度父上にお願いしても兄いは来てくれず、近々兄いの屋敷に押しかけようと思ってたところで、兄い…父上との話が済んだら私の部屋に寄っては頂けせませぬか」


「はい…よろしいですが、何か急ぎの用でも御有りか」


「はっ、相談したき事がいろいろ御座って、詳しいことはその時にお話しもうす。

兄い、きょうは絶対寄っていって下さいね」そういうと元来た廊下を全速で引き返していった。


「ふぅっ、あやつにも困ったものよ、最近では多少言葉使いは改まったが…依然自覚は薄く何をやらしてもうまくゆかぬ、じゃが出来ぬ子ほど可愛いというか、ほんにあやつをいつまでも儂の手元に置いておきたいのじゃが、そうもいかんわな、早々に何処かの入り婿にねじ込むしかないのかのぅ」と庄左右衛門は雪空を見上げ嘆息した。


書斎に入ると座布団を勧められた、しかし座布団に座っても寒いものは寒い 寒暖計は無いが体感から一桁…それも零に近い室温ではなかろうかと思えた、暖房に慣れた現代人にとり我慢ならぬ室温だろう。


正則が座布団に座り凍った足の指を揉んでいると手火鉢が届けられた。

暖といっても手火鉢一つとは…コタツかストーブでもあればどれほど嬉しいかと思う。


「正則殿、何を震えておるのじゃ、もしや風邪でもひかれたのかの」


「いえ…風邪ではないと思いますが、少々寒気が致しまして」

(この室温で震えない方がおかしいだろう、この時代の常識はどうなっているのだ)


「それはいかんな、熱燗でも用意しようかの」といいつつ隣の襖を開け、そこに控える家人に酒と肴を命じた。


「このような寒い日は酒に限るのぅ、正則殿 今宵はゆっくりしていけるのじゃろ」

まるで里帰りの子供の扱い、寒くても…この時ばかりは胸内がほんのり暖かくなるのを覚えた。


すぐに酒と肴が運ばれ、堀田摂津守との昼過ぎの談合の件に話が進んだ。

「若年寄様との談合は今日で三回目になるが、ようやく重い腰を上げてくれそうじゃな、もう一押しで決まるじゃろう、次回は正月明けの……」


「十四日です」


「そうじゃったな、しかし堀田様には正直落胆したわ、もう少し骨の有る御仁かと思うとったが、話が具体化の運びになったところで及び腰になられるとはのぅ…まっ文芸熱心で書画に秀でた文人じゃとは聞いておったが、いざ事を起こすとなればやはり武人の猛々しさが無ければ斯様なものじゃて」


「それにしましても庄左右衛門様、井伊直亮様をこちら側に引き込めそうで、これは収穫と言えましょう」


「そうじゃのぉ、井伊掃部頭様が開明的な御仁であったとは本日堀田様に聞くまで知らんかったわ、じゃが井伊様を味方に付けるとは堀田様もなかなかのものじゃて、武人ではこうはいくまいよ」


「庄左右衛門様、先ほどとは真逆な物言い…どちらが本音でしょうかな」


「まっ、どちらも本音よ、ははははっ」


「しかし儂らのような番方風情に井伊様が意見を聞きたいとはいかなる仕儀じゃろう、摂津守様がうまく運んでくれたからこそと思うが、下手すれば切腹では済まされぬ、よほど心してかからねばのぅ」


「はい、お会いした際に軍政改革の方をどう切り出すか、井伊様の心中がもう少し解らねば切り出しは難しいでしょう」


「下手をすれば“そこになおれ”で目付に引き渡されるやもしれん、やはり事の成り立ちからお話しせねば難しいのかな、本日は堀田様とは詳しく話せんかったゆえ十四日まで待たず近日中にも再度お目にかかり大老・井伊掃部頭様の心意をもう少し聞き出してみようかの」


「では我らの次の改革会合はここ数日のうちですね」


「ふむぅ、堀田様がいつ会ってくれるかで決まりもうそうが、出来れば正月前に済ましておきたいものよ、まっ決まったら儂から貴殿に言うでの その際は皆に伝えてくだされ、それはそうと今度の会合場所は貴殿の屋敷じゃったな」


「はっ、その際は会合の前に例の高炉と転炉の大まかな絵図面が出来上がっておりますゆえ皆様にお見せいたしましょう、それと石炭の調達ですが江戸に最も近い陸奥磐城平に良質な石炭が産出することが分かっておりますのでそちらを今当たっておるところです」


「陸奥磐城平といえば奏者番の安藤対馬守様の領地じゃったな、あてはあるのか」


「はっ、先日 堀田様にお会いした際 お願いしておきました、堀田様は安藤様とのお付き合いは相当深い様子、事は素直に運ぶと申されておりましたゆえ安堵しておりまする」


「それは重畳、おおそうじゃ忘れとった 志津江が待っておったな…さぞ客間で首を長くして待っておろう すぐにも会ってやって下され」


「では少しだけ会ってそのまま帰りまする、ゆえに今宵はこれにて御免被ります」



 正則は書斎を辞去し客間へと向かう、廊下に小雪が舞い 所々が微かに濡れていた、正則は濡れたところを避けるように客間へと急いた。


客間より明かりが漏れている、正則の胸がときめいた、この胸のときめきは正則が養子に出る少し前より胸に灯った薄明かりだ。

この時代に落ち、若返らなければけして訪れない甘い胸の痛み、脳は六十五歳と思うも二十代の脳も同居しているのだろう、しかし年寄りには辛い痛みではある。


最近は元の世界への郷愁が希薄になったとも感じる、また妻や娘の貌を思い出すことも希になってきた、認識はなくともいつしかこの世界で生きていく覚悟というものが出来たのか、それとも正則の男の性の勝手なのか…。


襖を静かに開ける、行灯に照らされた志津江の横顔が光っていた、その白くたおやかな貌は憂いに揺れているようにも見えた。


「志津江殿、沈んだ顔で…如何なされた」正則は襖を閉め志津江に対峙して座った。


「正則様、来て頂けましたのね」志津江の顔に明かりが灯る。


「どうかされたのでしょうか、暖も取らず…おおこのように手が凍るようではござらぬか」と志津江の手をとり掌で覆い優しく握った。


「正則様、父上が申されるに婚儀は来春卯月に延期するとか、つい先日まで父上は如月と申されていたのに…」


「あぁその件でしたか、申し訳御座らぬ それがしの我が儘でござる、いま進めている仕事が弥生一杯は係りきりで、途中婚儀と成りもうしては同士の皆様に御迷惑が及ぶは必定、志津江殿には相済まぬが庄左右衛門様に無理を申し卯月の五日に変更させて頂きました。


本来なら志津江殿に真っ先に相談しなくてはならぬのに…誠に申し訳御座らぬ」

正則は握る手に力を込め志津江を見詰めた。


「正則様の願いでしたのね…あぁよかった、もしかして正則様の身に何か起こったのかもしれないと心配で心配で、あぁぁよかった」

志津江は手を解き、少しにじり寄り正則を抱くように手を背に当てて胸に甘えるように貌を埋めた、正則の手は行き場を無くし自然と志津江の肩を抱く形になった。


暫くして志津江は押しつけていた顔を離すと上目遣いに正則を見つめる、次いで目を閉じた、正則はそれに呼応し少し体を屈め志津江に頬を合わせた、そして少し移動させ唇を触れさせた。


志津江は小さく呻いて体を預けてきた、正則もたまらず柔らかな唇を吸う。

感極まったのか志津江の閉じた目からいつもの如く涙が溢れた。



 「殿、丁度一刻でござったな」

先導する松井老人が振り返って正則に声をかけた、この老人が自ら正則に声をかけたのは初めてではなかろうかと思えた、正則は「おや」と思い老人の貌を見つめる、やはり赤みがさしていた。


「松井殿、どれほど過ごされた」


「…はぁ、ほんの二合ほど」言うと歯の抜けた貌に奇妙な笑みを作りニカっと笑った。


「それはよかった、体は暖まったようじゃの」

(この老人…笑うこともあるのだ、あっ!しまった正次郎殿のことをすっかり忘れていた)


志津江に夢中になり正次郎の事は完全に頭から消え失せていた、正則は立ち止まり来た道を振り返って逡巡した。


「殿、何かお忘れ物でも、何ならそれがしがひとっ走りに取って返しましょうぞ」


「いや…もうよい、さぁ帰ろう」

知らぬ間に雪はやみ、月明かりが白塀を照らしている、その明かりが提灯の明かりと相まって正則と老人の陰を幾重にも塀に浮かび上がらせていた。


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