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八.西ノ丸御殿

 三田次郎右衛門の屋敷は赤坂御門手前、紀伊家の壮大な屋敷の向かい側にあり、庄左右衛門の屋敷に比べ若干小さいと感じたが…門構えは立派であった。


玄関先でこの屋の用人らしき老人より丁重な挨拶を受け、廊下を先導され屋敷奥へと案内された。途中 中庭に面した廊下を進むと視線は管理が行き届いた中庭へ注がれる。


中庭中央には長方形の花壇が1列6基の造りで2列が通路を挟んで設けられていた。

まるで大名庭園に見られる回遊式花壇さながらの造りに正則は目を見張った、その花壇には今を盛りの夏花が所狭しと咲き乱れ、見る者に強烈な印象を与えるよう工夫されている、その造作だけでもこの屋の主人が如何なる人物かが想像され正則は緊張を覚えた。

やがて中庭を過ぎ書院造りの本屋敷へと向かう、それにしてもこの屋敷は奥が広大と感じた、門造りの外観からは庄左右衞門の屋敷より幾分小さいと感じた正則だが…実際この屋敷の広さは庄左右衞門の屋敷面積の倍近くにも感じられた。


(この三田家に養子に入れば…この屋敷や財産格式さえも自分のものになるのか…)そう思うと軽い気持ちで庄左右衞門の言うがままノコノコついてきた自分が何故か矮小に感じた。



 客間に通され 待つこと四半時、庄左右衛門の苛立ちが頂点に達したとき襖が開いた、そして先ほどの老人に支えられた次郎右衛門がおぼつかない足取りで入ってきた。


「次郎よ、何時まで待たせるのじゃ」


「兄上、誠に申し訳御座らぬ、本日は持病の肝の臓が痛うて今まで寝ておりましたのじゃ」言うと次郎右衛門は脇息に上半身を預けるが如く音を立てて凭れ込んだ。


「辛そうじゃなぁ…」

次郎右衛門は肝硬変特有の黒さと黄疸の黄色い目をしていた。

酒を飲まずの肝硬変は助からないと昔友人から聞いたことがあったが…正則の見た目にも次郎右衛門の命はそれほど長くはないと思えるほどその憔悴ぶりは痛々しかった。


庄左右衛門は次郎右衛門の憔悴顔を見た瞬間、今までのイライラ顔から弟を気遣う兄の眼差しに変わっていた。


「兄上、今日は浅尾殿をお連れ頂き有り難う御座りまする、それがしもこの通り病は悪くなる一方、もう先の無い身とは覚悟はしておりまするが、三田家をこのまま取りつぶすのは如何にも口惜しい、先日申しましたように兄上の眼鏡に適った御人なら私も安心して後を任せられまする、どうか私の息がある内に養子縁組の話しを若年寄様に計って下され」


「次郎よ安心せぃ、その話は先日とうに堀田摂津守様にお話申し、もう内諾は取り付けてあるのじゃ、すぐにも正式な御許しが出よう、それまでは何としても倒れぬよう頑張りなされ」



 二人は半時も経たぬ内に次郎右衛門の屋敷を辞去した、それは次郎右衛門の憔悴ぶりが尋常ではないと見たからだ、だがそのことで来るときに必死で暗記した己の身上は一言も喋る間も無くホッと胸をなで下ろす正則でもあった。


「正則殿、養子縁組のこと急がねばなりませんな」と言ったきり庄左右衛門は口を閉ざしてしまった、それにしても正則不在のまま既に若年寄まで養子縁組の話が進んでいたとは…。


(もし俺が養子はいやだと言ったら親父殿は引っ込みがつかんだろうに、いや親父殿のこと、その時は俺の首根っこを押さえてでも自分の意に沿わせただろう…しかしこの男…もはや俺の身の上を気遣っての動きとは到底思えぬ、俺の身分を引き上げ その先で何かを目論んでいるようだ)


(油断のならぬ男よ)そう思いながらも弟の死期を悟った兄の心情は如何ばかりであろうとも慮った。


番町辻の下り坂、玉砂利には逃げ水がせわしなく踊っている、そのとき大須から鶴舞までの下り道に…これと同じ逃げ水が踊っていたことを不意に思い出した。

(暑い盛りもここ数日で終わるようだ…)正則は陽につられるように高い空を仰ぎ見た。


 それから数日後、御上より養子縁組の御許しが出て正則は正式に三田家に入った、そして姓名を三田正右衛門正則と名乗った。


その半月後、一端は小康を取り戻した当主次郎右衛門であったが、正則の養子縁組みが滞りなく整ったのを見た夜、天井に届くほどの血を噴き上げ翌朝を待たずして絶命した。


その後、家慶公が新将軍となりそのどさくさにまぎれ若年寄の堀田摂津守と御先手組頭衆が共謀、どんな手を使ったのか正則は次郎右衛門が拝命していた御先手鉄砲組頭をそのまま継ぐことになった。


平時であればこんな人事などまずあり得ないだろう、また彼らはそれ以外に計画していた”あること”を同時に行動に移していた、それにはどうしても正則の頭脳が必要であり彼の組頭昇進はそのプログラムの中枢とも言えたのだ。


その”あること”とはその後の正則を大きく変貌させ幕府…いや日本という小さな島国の存在を驚異を以て世界に知らしめて行くのだが…。



 十月の中頃、御役拝領の御沙汰を新将軍より直に賜るとの知らせが三田家に届き、家中はこの栄誉を寿いだ。


将軍との謁見は本丸座敷の黒書院で行われた、外段奥に老中・若年寄・側御用人・大目付が控え、正則は下段廊下の際に平伏させられた。


暫くして側御用人の咳払いで簾が半身垂れた上段奥に将軍が着座されたのが分かった。

正則は緊張で膝が震え始めた、昨日庄左右衛門に連れられ若年寄堀田摂津守と面会した際、謁見の慣例と注意事項を散々聞かされたからだ。


「無礼があれば即刻御役御免は必定」

「よいか、”おもてを上げよ”と言われても平伏のまま僅かに頭を上げ、上段の間の敷居の辺りに視線を移すだけにせよ」

「上様から”近う寄れ”と声を掛けられても、将軍の威うたれ前に進めずといった感じに膝行の素振りだけで、元の座からけして動くな」

「もし上様に質問されても直接言葉を交わしてはならぬ、将軍の御側に控えている側用人、もしくは老中が貴公の言葉を代弁するゆえの、以上胸に刻み置かれよ」


つまりは何もするなということだ、ただただ畏れ入り平伏しておればよいのなら気に病むことも無いと思えた、だが現実は黒書院の下段に座ったとき、まずは荘厳なる書院の雰囲気に圧倒された。


そして将軍が御簾奥に座った瞬間 上段下段三十六畳の空気は一変した、ピリピリと空気を震わす張り詰めた緊張に正則は思わず畳に頭を擦りつけ震え上がってしまったのだ。


若い頃、本社の代表取締役社長といえば雲上人、滅多に合うことのないその社長と面談する機会に恵まれたが、その時無様にも震えてしまった、だが本日の震えはその比ではない、将軍の威光とは周囲の演出も有ろうが人間の本能に根ざした”神への畏敬”に近いものがあったのだ。


側御用人に続き老中が何かを喋り、いよいよ将軍と思しき聞き取りにくい小さな声が聞こえた、だがその御言葉は全く聞き取れない。


そのとき、昔見たテレビドラマで将軍吉宗が御簾を跳ね上げ「陸奥守!この顔に見覚えが無いとは言わせぬぞ!おぬしと浅草寺裏で斬り合ったこと忘れたか!」と啖呵を切るシーン思い出した。

(あんなこと…絶対有り得ぬ、絶対に…)おびえの中 震えつつそう思えた。

今の正則には平伏のまま ただ頭上に吹き荒れる嵐が通り過ぎるのを待つばかりの心境だった。



 その後、三田家の当主となった正則は三田組の与力衆と家来衆・女中・中間ら一同を大広間に集め御先手組頭就任の祝いを兼ね当主挨拶をすることとなった、この日は正則一人では侮られるやもしれぬと庄左右衛門が気を利かせて臨席してくれた。


しかし挨拶が終わったとき、庄左右衛門が危惧したような家人の侮りなどは取り越し苦労であったことが知れ、前当主・次郎右衛門が生前よほど家人に言って聞かせたのか、また新将軍の拝謁を直に受けた賜物か、家人一同は正則を旧来の殿と崇めるが如くの敬虔な態度に庄左右衛門も正則も胸を撫で下ろしたのだった。


それから数日後、初めて御城に出仕する朝を迎えた。

正則は早くに起床したが落ち着かなかった、用人の牛島外記が全て滞りなく用意万端調えているのにも係わらず妙に落ち着かないのだ。


この用人・牛島外記は三田家に三十年近く仕える内与力であったが、先々代より仕えし用人の桑原頼母が六十五と高齢を理由に御役御免を願い出たため、新たに用人に登用した糞真面目を絵に描いたような面白味のない男である。


「殿、少しは落ち着いて下され、あと半刻で出仕の時刻になりまする、朝餉を早ようにお済ませ下され」外記は正則の行く先々にオロオロと後を追い彼も同様に落ち着かない。


「何を言うか、おぬしこそ落ち着きなされ」

正則は外記を叱咤するも何か忘れは無いかといつまでも落ち着かない。


暫くして「殿、そろそろ朝五ツになりまする、もう供回りが外に打ち揃っておりまする」


「外記、朝五ツとは辰の刻のことだな」


「そんな当たり前のことを…殿 今朝は何かおかしいですぞ」


「いや登城は巳の刻のはず 出立するにはまだ早いと思うが」


「殿、先日鈴木様がいろいろと挨拶回りがあるから一刻前には外馬所で待てと言っておられたのを御忘れですか」


「あぁそれよ、何か忘れておると思ったはそのことよ、では出かけるとしようか」

玄関先に出ると供回りの者らは待ちかねたのか一同苛立ちの顔を隠せない。


「皆の衆、遅れて相済まぬ」と頭を下げた。


「殿、家来衆にそんなこといちいち謝らんでいいのです、はい胸をしゃんと張って」

また用人に叱られてしまう正則である。


しかし多い、こんなに供回りが本当に必要なのかと思ってしまう。

正則の前には、侍4人、槍持2人、鋏箱持2人、馬の口取り2人、草履取り1人、中間1人の合計11人が一列に並んでいた。


正則は改めて己が1500石の旗本になったことを供回りの数で自覚した。

そして難関である馬には1回でうまく乗れた、昔 霧ヶ峰に遊びに行ったとき友人に特訓を受けた成果でもあるが、しかしこの様なところで役に立つとは思いもしなかったが。


江戸城西の丸へ行くには旗本格は当時桜田門か大手門と決まっていた、正則ら番町から出仕する者は桜田門からである。


この江戸城への道のりは鈴木家よりもだいぶ近くになる、今朝は挨拶回りと溜まりの間の茶坊主どもに紹介もあり庄左右衛門と下馬先門で待ち合わせをしているが…時間的に多分庄左右衛門と途中で合流するだろうと正則は思った。


一行は東に路をとり井伊家の裏手に出る、井伊家は大名の中でも別格の扱いで屋敷の壮大さは尾張家・紀伊家を凌ぐスケールに正則は圧倒された。


その屋敷を右に見ながら内堀に出る、そして内堀に沿うよう右に折れ井伊家の門前を横切た。


正則はここが桜田門外の変の場所なんだ…とこの後に起こる変事を思いながら、雪を血で染めた修羅場の場面はこの辺りかと昔見た映画を重ね、興味げに目を周囲に配った。


桜田御門の前にはもう四つの行列が順番を待っていた、その中に鈴木庄左右衛門の一行が前より三番目に列んでいるのが見て取れた。


正則は供の侍に自分が来たことを庄左右衛門に知らせよと命じる。

しばらくすると庄左右衛門の家来が人だまりよりこちらの方に走り出て、三田家行列支配約に我らの後ろに付かれよと言ってきたらしい。


それを聞いた行列支配役は何のためらいもなく前の行列を追い越し庄左右衛門の列の最後尾に着けようと先導していく。


正則は(これって横入り?)と思い、これはマズイと馬の轡を引っ張ろうとしたとき馬の口取りが正則を見上げ「殿、こちらの方が家格は上、何も遠慮は入りませぬ」と言い、ぐいぐいと手綱を引っ張り行列を追い越していく。


(えっ、いいのかよ)と思いながら追い越された側の中央に位置する馬上の侍を見ると愛想顔でしきりにお辞儀をしてくる、それでも正則は「お先に失礼」と小さく声をかけ、冷や冷やの想いで通り越していった。


門前に掛かった橋を渡り桜田御門をくぐって二十間ほど行くと正面に屋敷が二棟並んでいる、そこを左に折れた。


視界が急に広がり多くの侍が溜まっているのが見えた、一行は減速し前を詰める行進へと変わっていく。


正則は馬上できょろきょろしながら辺りを見渡す、いま自分はどの位置にいるのか手に持った城内絵図と見比べているのだ。


(左側に屋根しか見えないが…あれがたぶん西ノ丸御殿、少し遠いが正面右が二ノ丸かな)と、正面を見ていたら前の行列中央の庄左右衛門が馬より下りるのが見えた、どうやらここが下馬所らしい。


正則は庄左右衛門に倣って馬を下りる、すると行列一行はそそくさと屋敷側に寄っていった、一人残された正則は さてこれからどうしたものかと西ノ丸方向に進む人影を目で追う、と庄左右衛門が視界に入ってきた。


「正則殿、刻限通りで重畳」とにこやかに近づいてくる。

「これよりはそれがしの後に付いてらっしゃい」そう言うと西ノ丸大手門に向け歩きだした、正則は(いよいよだなぁ)と少し上気しながらその後に続く。


二人は西の丸大手門をくぐり、次いで中仕切門・西ノ丸前書院門をくぐり御殿へと入った。

御殿入口正面には東西数十間という大廊下が有り、その奥に50畳程の取次間が見えた。


そこは茶坊主の溜場であろうか坊主が多く居並び、廊下に立った庄左右衛門の顔を見るや一人の茶坊主が進み寄ってきた。


「これは鈴木様、この御方が噂の三田正右衛門正則様ですね」とい言い無遠慮に正則の頭からつま先までをじろじろと見始める、それにつられ他の茶坊主も数人寄ってきて「ほーっ、これはいい男ぶり」と言いながら同様に品定めが始まる。


「これこれ、我が甥っ子に貴様ら無遠慮だぞ」と窘めながらも、当の庄左右衛門さえ裃姿の正則をほれぼれと目を細め見入ってしまった。


「さて、案内願おうか」と庄左右衛門。

茶坊主の一人が先に進み二人を躑躅の間へと先導していく。


途中、庄左右衛門が「正則殿、間違っても自分で直接割当て部屋に行かぬ事、もし間違った部屋にでも入ろうなら隠居か逼塞などを命じられることも有るでな」と釘を刺した。


しかし茶坊主の先導はどれほどの廊下を曲ったやら…正則は行けと言われても案内無しではとても行き着けぬと苦笑した。


暫くして二人は鉄炮組頭の詰所である躑躅の間の入口に立った。

庄左右衛門は帰ろうとする茶坊主に「坊主組頭殿はお見えかえ」と問う。


「はい、今朝は三田様が新任の御挨拶をなされるとお聞きし先程来よりお待ちかねでございまする、すぐにも呼んで参りますよって少々お持ち下され」と言い踵を返した。


待つ間、今から会う表坊主組頭の身分を庄左右衛門がざっと説明してくれた。

扶持は40俵二人扶持、それに四季施代金4両が下し置かれる。身分は躑躅間詰で御目見以下の二半場。

この二半場とは御家人階級は譜代・二半場・抱入に分けられ、二半場とは四代に渡り西ノ丸の留守居同心などの御役に就いた子孫の身分を言うらしい。


「表坊主組頭は身分こそ軽輩なれど表茶坊主二百人を束ねるほどの権力じゃ、大名や諸役人からの報酬や賄賂も多く、そのため奢侈僭越に流れ我ら旗本なんぞを軽んじる風潮があっての、敵に回すとちとやっかいなんじゃが、おおっ言っておいた十両は用意してきたであろうな」


「賄賂ですか」と言い正則は袱紗に包んだ金子を懐より出し庄左右衛門に見せた。


「賄賂などと人に聞かれたら何とする」と言いつつ庄左右衛門は辺りに目を配った。

「賄い金じゃよ、さあ早う仕舞いなされ、それとな これだけは注意せんと、奴は男色気が有るらしく 目を付けられるとちと厄介でな、正則殿くれぐれも気をつけなされ」


(男色…気をつけろと言われてもどうすりゃいいの)


暫く待つと色艶のいい四十がらみで恰幅のよい坊主が部屋に入ってきた、そしてまっすぐにこちらにやってくる。


「これはこれは鈴木庄左右衛門様、今朝は幾分と涼しいようですねぇ、おやこの御方が三田様でしょうか」とにこやかに挨拶してきた。


(この坊主が男色有りという表坊主組頭か、一見人の良さそうな人物にも見えるが)


正則は簡単に自己紹介し一礼した、だがその間 坊主は正則を舐め回すように見ていた。

(前言取り消し!何と気色の悪い坊主だ…)


「まあ、なんて男前な殿方でしょう、亡き御尊父殿とはえらい違いですのね」

まるで女言葉である、平成の世ならば”オネエ”と言うべきか、それとも”オカマ”、いずれにせよ付き合いは遠慮したい人物である。


「表組頭殿、今後とも宜しくお引き回しの程お願い申し上げまする」と言いつつ用意した金子をさっと坊主の手に握らせる。


「おやおやお気遣い頂きまして、三田様ならこんなお心遣いは無用ですのに」

といいつつ金子ごと正則の手をいつまでも握っている。


「私、いい男は放っておけませんの、これからは一所懸命お世話させていただきますよ」と熱い眼差しで正則を見つめる茶坊主である。


(まいったなぁまるで芸者気取りかよ、しかし気に入られれば今後はやりやすくなると聞いた、ここは我慢の為所か)

それから四半時ものあいだ庄左右衛門のことなど完全無視といった体で正則にベタベタ取り留めの無い話をする茶坊主であった。



 「えろう気に入られたようじゃ、正則殿の容姿からすれば当然の成り行きじゃろうが、奴に気に入られんとこの西ノ丸ではやりにくいゆえ当分は我慢しなされよ」


「はい、何とか我慢していきます、ところで庄左右衛門様、この後私はどの様にしたら」


「そうじゃのぅもう半時もすれば朝四ツ、組頭衆が揃うはず、しばし寛いで待たれよ、皆が揃ったところで紹介するでな。


さてその後じゃが貴公の組番は今月は坂下御門の警護になっておる、三田組の与力同心らが門の方に出張っておると思うゆえ顔でも見せに行くとして、その後じゃが今日の勤めはそこそこにして儂と一緒に先日会った鉄砲方の井上左太夫の屋敷に同道してくれぬか」


「いいですが、登城の帰りついでに出かけるのでしょうか」


「おいおい儂と貴公の供連れは三十人もおるのじゃぞ、そんな人数で押しかけてみよ奴め何事かと思うわ、一旦屋敷に戻り…そうじゃな供は一人でええ、それと赤坂鉄砲坂の井上左太夫と言えば誰もが知っておるゆえそこで昼八ツに待ち合わせとしようぞ」


「あのう…昼八ツと申されても、その一刻のどの辺りでしょうか」

昼八ツと言えば未の刻の二時間余り、現代で言えば13~15時の間、正則にしてみれば何時何分と言ってもらいたいところである。


「おぬしは細かいのぉ、昼八つと言ったら昼八つだろうに、んんでは未の下刻…つまり昼八ッを二つに刻み”昼八つの二つ目の初め”ではどうじゃ」


「それなら解ります、それで井上殿には如何なる用で」


「井上殿が以前より工夫しておった銃が出来たゆえ貴殿に一度見て貰いたいと言うとってな、まっそれとは別にいろいろと相談が有るんじゃ、田付殿にも声をかけておいたゆえ来るはずじゃ」


「そうですか、工夫された銃ですか…それは面白そうですね」


「なぁに、工夫したと言っても貴殿の”光絵”に出とった…ほれ何と言うた、そう八九式”あさるとらいふる”と言うたかの、あれに比べたら取るに足らぬオモチャよ。


まぁ工夫銃はついででの実は今日の話は別なところにあるのじゃが、詳しくは左太夫の屋敷でしようかの」


庄左右衛門と話し込んでいる間に躑躅間は人で一杯になっていた。

鉄砲頭・弓頭・西の丸裏門番頭・御船手頭・徒頭・鉄砲方らが所狭しと犇めき、正則は唖然としてその人だかりに見入ってしまった。


(これほど数の上級管理職がこの間に詰め込まれるのか…)


呆然の体の正則を連れて庄左右衛門は鉄砲組頭一人ずつに正則を紹介していく、このとき紹介された鉄砲組頭職の人数は十六人で残る二人は病欠のため会えなかった、またついでに弓頭・徒頭にも挨拶し、最後に鉄砲方の井上左太夫に会った。


「正則殿いや三田正右衛門様でしたな、このたびはおめでとう御座います、本日は我が屋敷においで願えるとか嬉しい限りに御座る、馳走など用意し御待ちもうしておりまする、それでは後ほどに」


井上左太夫は庄左右衛門より幾分若く見えるがこの時代はみな老けて見えてしまうから この井上氏もひょっとしたら意外と若いのかも…と正則は思った。


また身長も皆一様に低い、正則は178cmあるから150cm少しの庄左右衛門などは見上げるように喋ってくるし、大勢人がいても正則だけ頭一つ分が抜きん出ていた。


挨拶が一通り終わり、正則は庄左右衛門と共に坂下御門まで散策する、その道すがら江戸城の御殿配置と火事による焼失歴史など細かく聞いた。


坂下御門では度々屋敷へ連絡に来る若い与力が登城時間が終わったのか閑散とした門前で手持ち無沙汰に壕面を見ていた。


この若者 正則らを見つけると嬉しそうに小走りに走ってくる、歳は正則と同年配にも見えるこの与力は家督を継いだばかりの二十二歳の若者という。


「殿、本日の初登城おめでとう御座います、さぞや御神経を使われお疲れのことでしょう」とその若者は殊勝に正則の体を気遣った。


「朝早うからのこちらの番役はさぞ大変であろう」と正則は問う。


「いえいえ、番役と言っても殆ど係大名衆で仕切られておりますゆえ我らはその周りをうろうろするのみ、居ても居なくてもどうということは御座いませぬ」


「これこれ!何をほざくか、元来 門の警護は我ら御先手組が主で大名衆は従、大名衆を管理監督し彼らの目の届かぬ所を補佐する御役目ぞ、心して掛からぬか!」と庄左右衛門。


若い与力は年長者に叱られ顔を赤くするが、怯むことなく正則に「殿、門の警護ばかりでなく銃の訓練などもさせて下され、鉄砲御役とはいいながら私めこれまで銃など撃った試しが御座りませぬ、これで筒組の与力とは情けのうございます」


それを聞き庄左右衛門が顔色を変え若い与力を叱ろうと前に出た、正則はこれを制し「庄左右衛門様、若者の熱さゆえこらえて下され、後ほどこの者にはよぉく聞かせておきますよって」


「全く近頃の若造ときたら、何もできぬくせ興味あることばかりに走りおって」

正則の背後で吠える老人を制しながら、目で「もう行け」と若者に目配せした。



 庄左右衛門と連れだって西ノ丸を出た、時計がないから正確な時間は分からぬが太陽の位置からまだ昼前であることは確か、しかしあの若者が言う通り番方は暇の一言に尽きる、本来番方は戦時を想定して創設された御役であろうが…関ヶ原から既に二百有余年、登城しても若年寄らの御声が掛からなねば組頭はただボーと待つより他は無し。


関ヶ原の武功か何か知らぬが多くの家臣を抱えこみ、遊ばせるより出仕させる方が得とばかり御城に詰め込む、しかしその人数分の仕事は当然無い、多分今の三割の人数でもこなせる量と見た、また役立たずの殿様に十数倍の供回りを引き連れての登城、権威ばかりで実のないこの世界。


先の躑躅間の紹介でも分かったが御役に心底打ち込んでいる者はほんの一握り、あとは凡庸そのもので 現代サラリーマンで言えば会社に来れば給料がもらえる、そんな連中ばかりと彼らの会話内容から読み取れた。


先祖の功労で特権を得、代々引き継がれて磨きがかかる、そう期待したいところであろうが…実際は腐敗していくのが現実、これが企業ならとうの昔に倒産していよう。


こんな湯水のような扶養を二百年に渡って浪費すれば財政破綻に至るは当然のこと、いま幕府要職者の幾人がこのことを憂いているのだろうと正則は思った。


(この幕府もあと三十年の寿命、しかし二百年にも渡る長きの間よくもまぁ民から搾取を続け、使い物にもならぬ幕臣をようも扶養し続けたものよ)と想いながら、己もその扶養される側に立っていると思うと背筋がゾクと冷たくなった。


(さてさてこの幕府をどうしたものか、これよりのち戊申の役までは動乱の時代、放っておけば薩長土肥に確実に転覆させられ明治の世へと歴史の通りに進んでいくであろうが、ここで俺が幕府に手を貸したら…五年もあれば薩長なんぞ足元にも及ばない近代兵器を擁した幕府軍隊が作れるはず、いや待てよ…二十年もあれば英米仏露さえ凌駕する軍事力を擁することが出来るかも。


以前 志津江殿に三田家の力と役職の力、そして私が有する技術力を融合させれば幕府の軍事力を根底から引き上げることが出来ると言ったが…あのときは方便として咄嗟に口から出たが…考えてみれば心の内にあったればこその吐露。

ふむぅ、せっかく御役に就いたんだ、この事もう少し突き詰めて考えてみようか、そうでなければこの時代に何故落ちたのか意味が見いだせぬ)


正則は思考を始めると外界は遮断され自身は脳内に浮遊している感覚になる、庄左右衞門と連れだって城を辞去する途中 正則はこの境地に入ってしまった。


「おいおい正則殿 書院門は左手じゃ、真っ直ぐ歩いて何処へ行くつもりじゃ」

その言葉で正則は我に返り、慌てて左に折れた。


(まずは番方を糾合し薩長の機先を制し先に倒幕の軍事クーデターを起こす、そのためにはどれほどの武器を用意しなければならないか…そうなると兵器工廠の建設が先になるな、次に鋼材と工作機械の調達…んん高炉と反射炉、それに職人の育成も考慮すると…)


「正則殿、熱でもあるのかよ」と物思いに耽る正則を心配顔で覗き込んでくる、しかしまたもや正則の目は虚ろに流れていった。



 二人は桜田門を出ると庄左右衛門とは井伊家門前より少し行ったところで再度時間を約して別れた、正則一行は朝来た路を逆に取り正午頃に屋敷に着いた。


馬から下りると用人が「お早いお着きで」と裃の砂埃を刷毛で落としながら嫌みを込め「殿、せめてお帰りは昼八ッ過ぎの頃になさりませ、ご近所の手前も有りますよっての」と。


「そんなものか、しかし外記よ 御城ではやることが無いのよ」


「殿、御先代様は昼八ツ半まで勤め上げ、皆様が帰られてからの下城を日課としておられましたぞ」


「ほぅ、やることもないのに父上はそんな時間まで何をして過ごされたのか…、

それはそうと外記よ私はこれより井上左太夫殿の屋敷まで参らねばならぬ、供を一人用意してくれぬか」


「これからお出かけですか、昼餉はどういたしましょう」


「そうさな、時間はまだあるし…少々小腹が空いたゆえ湯漬けでも用意してくれぬか、それと井上殿が今宵は馳走してくれると言うとったから夕餉はいらないよ」


正則は裃袴を脱ぐと長着姿で畳の上に寛いだ。

「外記よ、おぬし井上左太夫殿のこと何か知ってはおらぬか」


「井上様でしたら御先代の次郎右衛門様が昵懇にされておりましたゆえ 存じてはおりまするが、詳しいこととなると…そうそう古参の松井伊三郎がおりました、この者は次郎右衛門様の気に入りで何処に行くのも付いておりましたゆえ たぶん詳しいと存じまするが」


「松井伊三郎…あぁ あの寡黙な老人か、その者はいま屋敷におるのか」


「今は組屋敷の方に出掛けておりますが、あと四半時で戻ってくるはず、何ならこの者を供に付けましょうか、行きしなに井上様のことを聞かれたら如何でしょう」


「そうするか、おっ飯が来たか」

女中が膳を持って現れ正則の膝元に置いた。


膳には洗い飯が盛られた大きめの茶碗に小鉢が二つ、小鉢の一つは小芋の含め煮で もう一つの小鉢には笹竹の味噌漬と柴漬けが少量盛られてあった。


正則が箸を持つと女中は洗い飯に白湯を掛け、茶葉が入った急須にも同じく白湯を注ぐと「御用人様も昼餉の用意が整いましたゆえ食堂の方へ」そう言うと部屋を下がった。


「では殿、お出かけは半時後になりますゆえそれまでにお出かけの御用意を」

言うと用人は女中の後について出て行った。


正則は膳の小鉢を取り上げると柴漬けだけを湯漬けの上に落とし、誰もいないを幸に行儀悪く掻き込み始めた。

(鈴木家と違い三田家は質素倹約が家風なのか…昨日の晩飯と言い 昼飯が芋の煮っ転がしと漬け物がつくだけとは、当主の飯がこれなら家臣らは一体何を食べているのやら)

と考え始めたらまたもや先程の思考境地に陥ってしまった、こうなると完全に手足の動きは止まってしまう、まさに茶碗を口に付けたままの状態で時間が止まった様にも見えた。


(兵器工廠か…必要最低限の施設は製鉄場と熱処理場、それと工作場と組立場…それに火薬製造のための化学工場が必要だな。


そうなると建屋面積だけでも最低一千五百坪は必要となろう、んん資金はどれほど必要か試算してみんとな…まっ、妄想だけで終わるかもしれんが、庄左右衞門殿らを少しばかり挑発してみるか、いやまてよ…もし平成時代の兵器を彼らが手にしたら彼らは軍事クーデターを企て薩長土肥に変わり新政府を興そうとするのか、それとも徳川幕府のまま海外覇権を狙うのか…まっやってみないと分からぬが、俺が何故この時代に落ちたのか…その意味ぐらいは掴めるかもしれない…)


「殿!半時過ぎてまだ茶碗を口にされておるとは呆れもうした、もう井上様の屋敷に向かう刻限ですぞ」


「何、もうそんな時刻か、これはいかん」

正則はとうに冷たくなった茶碗を盆に置くと慌てて「外記よ着替えを頼む」と言いつつ立ち上がった。


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