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七.養子縁組

 次の朝、庄左右衛門に呼ばれ正則は書斎に参じた。

庄左右衛門は座卓に肘をつき、こめかみ辺りを揉みながら苦そうに茶を啜っていた。


「おおっ来られたか、昨夜は少々飲み過ぎ今朝は頭が痛いわい、おぬしが引き上げてから井上と田付が飲み足らんと言いおっての、明け方近くまで呑んでおったのよ。

ハァァほんに奴らは蟒蛇だかつじゃて、奴らふらふらの体で明け方帰りよったが…今朝の出仕はどうするつもりなんじゃろう…。


そいで用じゃがの、昨夜は正則殿に肝心なことを言うのを忘れておって…ほれ、正則殿の身分のことじゃて、昨夜も言うたようにいつまでも我が家の居候では世間体が悪い。


まっ、世間体が悪いと言うても正則殿がこの屋敷に寄宿しておることは屋敷内の者と井上・田付の両氏しか知らぬ、よって今のところは世間体も何もあったものではないが…貴殿ほどの者がこのまま我が屋敷内で埋もれ腐らせるは余りにも惜しい、すぐにも世に出し貴殿の持てる能力を遺憾なく発揮させてやりたいのじゃ。


それには身分がどうしてもいる、それもある程度の高みが必要なんじゃ、よって六位布位役から始めようと思うてな。


(………おいおい一体何を言い出すやら…)


そこでじゃ、儂が弟の三田次郎右衛門、以前おぬしにも引き合わせたから見知っておると思うが、この次郎め儂と同様に妻を若いころ亡くし よほど奥方に惚れておったのか後妻ももらわず四十の坂を越えてのぅ、ふむぅ…遺憾なのは跡継ぎがいないことよ、それに最近はとんと老け、肝の臓もそうとう悪く今頃になって養子を迎え隠居したいと申しておるのよ。


どうじゃろう、そこもと儂の弟を不憫と思うて次郎めの養子になって下さらんか、なぁにそこもとの身の上なんぞどうとでも繕うゆえ、この通りじゃ考えて下さらんか」

庄左右衛門はいつになく神妙な顔つきで頭を垂れた。


急に降って湧いた話、面食らうばかりで答えには窮した。

「次郎右衛門様には一度お会いしましたが…その時は挨拶程度でお話などは致しておりませんし、それに急に養子と申されても」


「そうであろうが、まっ話を聞いて下され。

弟はいま儂と同様 御先手鉄砲頭に就いておるのじゃが、若いころは次男坊の冷や飯食いでの、それを嘆いて放蕩の限りを尽くしおったのよ…それがひょんな事から儂の先輩で同輩でもある三田作之助の一人娘に惚れおっての、儂はそれを知り弟の放蕩をやめさせるに絶好の機会とて奔走しての 何とか三田家の入り婿にねじ込んだのよ。

 

三田家の家格は知行石高三百五十石と足高制の千百五十石が加増され我が家と同格の六位布位役で千五百石の旗本よ、三河以来の由緒ある家柄じゃ、弟が存命中の今なら家督はそのまま継げるゆえこんないい話は無い、以前は儂が次男の正次郎にと考えておったが…貴殿もご存じの通り救いようのない粗忽者、文武に否ずとは奴のことよ、いくら何でもあやつでは弟が承知せん。


じゃから先日 弟に貴殿を紹介したんじゃ、それで弟はえろう気に入っての、是非にもこの話を進めてくれと先日 向こうから言ってきたばかりなんじゃ」


(…知らぬところで そんな話が進んでいたのか)


「庄左右衛門様、三田家の家督を継ぐということは幕府御先手組に就任するということですよね…それはいくらなんでもこの時代を知らぬ私に勤まるとは思えませぬ」

正則は困惑顔で庄左右衛門を見つめた。


「いやいや聡明なる正則殿のこと、御先手組なんぞ何たることは御座らぬよ、しかし継いですぐに組頭というわけにもまいらんでの、取り敢えずは二つ下まで降格し御役の執務内容とその管理手法などを身につける所から始めるのじゃが…。


なぁに儂が一年以内に組頭に引っ張ってやるよって安心しなされ、儂とてだてに組頭筆頭はやっとらんでな、ハハハッ」


(おいおい、笑ってるよこの人、こりゃまいったなぁ)

正則にしてみれば、超大企業に入社した西も東も分からぬ新入社員が、社員研修も終わらぬうち明日から営業部の部長をやってくれと言われてるようなもの、冗談にしても度が過ぎ返す言葉さえ見つからないが正則の心情である。


だが庄左右衞門も同様にこのような無理な縁組話、正則は即答で断りを入れるものと当然覚悟していた…しかし正則は即答に拒否はしなかった、それより御役を知らぬ不安を口にしたということは少なからず興味を示したと合点し、これは脈有りと一気にたたみ込もうと膝を乗り出した。


だが正則はその機先を制し「殿、急なお話…頭を整理するまで暫しの猶予を頂きたい」


「猶予というとどれほど待てば…」


「はっ今日いっぱい待って下さい、明朝にもここに参じ返答致しまする」


正則のこの返答は予想外であった、正直今朝の所は正則がどう出るかの感触だけでも得られればよいと思っていた…それが明日にも返答すると言うではないか。


この時代の男子は胆力は備わっているが、急に平民から武士になれる、それも千五百石の旗本六位布位役である、そんな夢物語を聞いて『明日返事をする』などとはとても言えたものではない


庄左右衛門は十中八九は断られるものと思い、ひと月ほどもかけじっくり説得していこうと考えていたが…それが明日とは、これが吉と出るか凶と出るか…だが庄左右衛門は既に正則の性格は見抜いていた。


(ククッもう貰ったようなものよ)

庄左右衛門は内心ほくそ笑んだ、問題の一つはこれで消し込んだと正直小躍りしたい気分であった。


「頼みますぞ正則殿、貴殿の言われる前世では出来なかった大事をこの世で実現したいということは、やはりいつの世もまずは身分と金が絶対条件なんじゃ、聡明なる貴殿にはもうお分かりと思うがな…」


「はい、分かっておりまする、それでは明朝にでも」



 えらい方向に進み始めたと正則は思う。

まさか養子縁組とは…、頭の中では65歳という初老の想いが強いゆえ今更養子の話が持ち上がろうとは予想だにしなかった。


しかし肉体は二十代、外見からすれば何ら問題は無いはず、だが養子先で身の上のことを根掘り葉掘り聞かれたらたちまちボロが出よう、生国や親の氏素性、また学歴や経歴のどれ一つとっても答えられぬ。


(これはどう考えても無理が有るというもの、殿はこの辺りも当然解決できると踏んでの勧めであろうが…)


正則は朝餉を済ますと部屋に戻った、いつもはこの時間に必ずやってくる正次郎がまだ顔を見せてはいない。


たばこ盆を持って縁側に出た、盆の中の火種炭は志津江が毎朝取り替えてくれていた。

煙草はもう吸うまいと思っていたが…カラクリの図面を引き始めた頃より欲求に勝てず始めてしまったのだが、やはり考え事をするときはどうしても煙草は欠かせなかった。


しかし刻み煙草の不味さには参った(あぁセブンスターが吸いたい)そう思いつつも十日も過ぎれば刻み煙草も捨てたものではないと思えるから不思議だ。


あぐらを組み煙管に火を点けプカリと1服、食事の後の一服は格別である、九月の木漏れ日に青白い煙が透けるように流れていく。


最近は朝夕縁に出てもそれほど暑いとは感じなかった、だが昼も過ぎる頃はさすが残暑は厳しく、クーラーが有ればどれほど心地よいかと正則は思う。


(今年の夏には間に合わなかったが…来年の夏前にはクーラーをつくってみるか)

と考えたとき、元の世界に戻る想いなどとうに忘れていたことに気付いた。


(お前…もう戻る気はないのかよ)と自問してみた。


戻ったとしても以前の65歳…膝や腰の痛みを慮ればそう何年も生きられまい、子会社の役員と言っても窓際で二・三年ほど居眠りしてお払い箱…技術役員と言えば聞こえはいいが親会社からの天下りでは好きな設計とか技術とは無縁に置かれよう。


待てよ…そんなことより妻や娘にこの空白期間をどう説明するのだ、タイムスリップしていたんだって言うのかよ、馬鹿な だれがまともに取り合ってくれる、精神病院に放り込まれるがオチ。


またダンマリを決めれば愛人に捨てられ情けなく戻ってきたぐらいに思われるだろうし、娘に至っては結婚直前に父親が蒸発したんじゃ立つ瀬が無いわなぁ。


天下りの方も子会社とはいえ初っぱなから連絡もせず長期欠勤となればいくらなんでも許してはくれんだろうし、これじゃ帰っても四面楚歌…それこそ本当に蒸発したくなるよなぁ、って…アホラシ帰れる訳じゃ無いのに俺は何を考えてんだろう。


それに比べこの世界に留まれば凄いことが出来そうな想いは無尽蔵に沸いてくる、また技術的興奮などは元世の比では無いだろう…25歳の若さ、人生のやり直しは充分に出来る若さ…それより何より…あの志津江殿がいる、あの美しく若やいだ志津江が)


正則は煙管を叩き火玉を手のひらで転がし次の1服に火を移そうと藻掻いた、このやり方は庄左右衛門の真似であるが。


(クッ…アチチ)慌てて手のひらの火玉を捨てた。


(さてと元世に戻れるあてもないし、このままこの屋で居候を決め込むのも難しい、ならば選択の余地なんぞ無いだろうに。


だが俺は迷っている、さて何で迷っているのか…。

強いて言えば養子になって跡を継ぐ、そして御役所仕事をやらにゃいかん…そうだ、この時代の役所仕事がよく分からないから二の足を踏むんだ。


ってよく言うぜ、これまで何も分からぬ新たな仕事に臨むとき躊躇したことなど有ったかよ…ハァ無かったよなぁ、おれは度胸がありすぎるのか…それとも馬鹿なのか。


三十代のころ仕事で失敗が続き完全に打ちのめされて自殺を考えたことが有ったな…、いざ覚悟を決め工場の屋上に上り下を眺めたとき、口中が渇き目の前が真っ白になり腰が無様に震えた…あのとき本能が必至に俺の脚を押さえていたような…結局は誰も俺に「死ね」などと言ってはおらず、ただ楽になりたいが為の現状放棄と気付き、ならば死ぬ以外にこの苦しみから脱却する術もあろうと屋上で暗くなるまで考え込んだ。


あれ以降どんな重い責任だろうと「命まで取られはしない」、そんな洞察が俺に度胸を与え二度と死のうなどとは思わぬようになった、しかしこの時代…命まで取られはしないは通じないかもしれないが…。


まっ、一度は死んだこの身、今更怖れることもことも無かろうが…取り敢えずやってみて殺されそうになったら逃げる…また庄左右衛門ほどの出来物、職務で俺が当惑する事なんぞとうに見通しているだろうし、まずは彼に任せてみるか…)


なんと今後の人生を決める重大事、それを彼独特の軽い処世感で何故か納得してしまう正則であるが、庄左右衛門はこの性格を既に見切っていたのだろうか…。



 火傷をした手のひらを舐めていると志津江が庭先から笑顔でやってきた。

「兄上はまだ来ていないでしょ、朝から何も言わず何処かに出かけましたのよ」


今朝の志津江は眩しいほど肌の白さが際だった。

殆ど外に出ることのない御姫様、陽を浴びる機会がないとこんなにも白くなるものなのかと つい魅入ってしまう。


正則の無遠慮な視線に志津江は頬を染めて俯いた。

刹那、自分が養子に行ったらもう志津江に逢えなくなるのか…とも思った。


「正次郎殿は何処に行かれたのでしょう、道場って事はありませんか」


「まさか、フフッ道場にはもう長いこと行っていない様子、父上が知ったら大目玉なのにね」


「じゃぁ何処に…」


「正則様、兄上はたぶんカラクリの見世物小屋に行ったのだと思いますよ、以前は浅草に出来た小屋にずいぶん通っていましたからね、どうせあのカラクリを持って自慢でもしにいったんでしょ」


「ほぉっ、あのカラクリをねぇ」


志津江にとって前振りの会話が終わったのか 急に沈んだ顔になり、正則を眩しそうに見つめ「正則様、そんなことより女中に聞いたのですが…正則様には三田家への御養子話が進んでいるとか、それって本当ですの」


(さてはお茶を運んできた女中らが洩らしたな、さてどう答えてよいものやら)


志津江は女中の注進話には半信半疑であった、しかし胸騒ぎは膨らむばかりで止めようもなく、気付いたら離れまで来ていたのだ。


「御養子って、正則様がこの屋敷を出るってことでしょ、そんなの…志津江はいやです。養子など行かずこの屋敷にずっといて下さいまし、ねっ正則様」

今にも泣きそうな眼差しで縁側に座る正則のすぐ前までやってきた。


「志津江殿、私もそうしたいのは山々ですが、いつまでも居候ではご迷惑でしょう」


「そんなことなど気になさらずどうぞいつまでもこの屋敷に留まって下さいませ、私の大事な命の恩人、今から父上に申し上げ御許しをいただいてまいります」


「志津江殿それはやめて下さい、私とて記憶喪失の身ゆえ正直養子に出るのはすごく不安です、しかしこのままではいけないと思うのです」

正則は胡座を正座に座り直し、志津江の目を真正面から見据えて話しを継いだ。


「志津江殿もお分かりになったと思うのですが、記憶はなくてもカラクリの技術は体が覚えています、先日も鉄砲方の方々と話をしたさい彼らが言っていた銃器の話しはすぐにも理解できたし、逆にそれ以上の技術を披露することもでき、彼らも また殿も驚かれていました。


養子縁組の先は殿と同じ御先手鉄砲組頭のお家、大袈裟に言えば三田家の力と役職の力、そして今私が持っている技術力を融合させれば幕府の軍事力を根底から引き上げることが出来、これより襲い来る紅毛の刃から日の本を救う為にもこの御話しには乗るべきかと考えておりまする。


男子、生まれたからにはこの日の本でなしうる限りの貢献を成すが本懐というもの、志津江殿そこを理解していただき養子の件 どうかお許し願いたい」

そこまで一気に吐き出し志津江の目を見つめた。


志津江は驚きと困惑に満ちた眼差しで正則を見つめた。

「正則様、もうそんなことまで考えていらっしゃるなんて、私…もう何も言うことなんかないじゃない」

たちまち志津江の目から大粒の涙が零れた。


(あー言ってしまった、女子にこんな話をして何になる、もう少しましな嘘が言えぬのか、しかしこのままではマズイ)と咄嗟に話しを継いだ。


「志津江殿、私は以前よりあなたのことを好いておりました、今は寝ても覚めてもあなたのことばかり考えてしまいます、ですが…居候の身ではお嬢様とは対等なお付き合いは到底許されません、それゆえ三田家を継ぎ庄左右衞門様と同格の身分になれば、誰に憚ることなく これからもあなたに堂々とお目にかかれます。


それと…何よりもあなたと終生共に過ごしたいと願っています、つまり私の妻にと…そのためには今の居候の身では如何ともしがたく、どうしても身分が必要なのです」


志津江の目の色がみるみる変わっていく。

細い指で涙を拭きながら頬を赤く染めていく、単純と言えばそれまでだが この時代このように単刀直入に「好き」という言葉を吐く男子などいないのだろうと正則は想った。


「正則様…それほどまでに志津江のことを想ってくれてただなんて…嬉しい。

志津江も以前より正則様のことお慕いもうし上げておりました」

ここまで押し出すように口にした志津江は頬を真っ赤に染め上げた。


(あぁ、なんて可愛いんだろう)

男の欲求も相まって志津江を強く抱きしめたかったが辛うじて堪えた。

代わりに手は自然とその涙に濡れた指を愛しむように握ってしまった。


こんなに積極的になっている自分をもう一人の正則が冷静に見ていた。

妻との恋愛中でも、それ以前の恋人にもこんな甘い言葉などついぞ言えなかったが、しかし四十過ぎの浮気の際は至極積極的だったような気もする正則である。


(これも年の功なんだろうな…)


「志津江殿、分かってくれましたか、私が養子に出て職もきちんとこなせ組頭になった暁には志津江殿を私の妻にと殿にお願いするつもりです、志津江殿もそのことをどうぞ考えておいて下さい」


指を強く握り腰を少し屈めて俯いた志津江の目を見上げた。

暫し目と目が合い溶け入ってしまいそうな感覚に痺れた、現代であればここで口吻であろうがこの時代では早計とぐっと堪えた。


志津江にその場繕いとはいえ咄嗟に出てしまった今の言葉…それは正則の潜在下にある本音であったろう、それを声に出した瞬間に現実化し、目の前の志津江は今までの志津江でなく この胸内に染みいる「女」に生まれ変わったと正則は感じた。


志津江は空いた手で正則の手を握ると頬にもっていき「正則様のお嫁さんになれるなんて夢のようです…」とその手を慈しむように頬に摺り寄せ正則の胸に華奢なる体を預けてきた。


志津江のなすがままにまかせ正則は焦点の合わぬ視線を庭に向けた。

(あれから半年、もう秋になるんだ…しかし俺ってやつは)

そのとき胸に小さな痛みを覚えた、それは以前浮気したときと同様の痛みであった。



 次の朝、殿に会いたい旨を用人に伝え自室で髭を剃り始めた、最近では剃刀も上手に使え、もう血を流すことも無くなっていた。


次に髪を梳き総髪に束ねながら そろそろ髷も結える長さになったと感じながら己の月代姿を思った、思わず噴き出しそうになるのを堪え 出来れば総髪のままでいたいものと思った…しかし養子となり御城に上がるとなれば月代は必須、思わず手鏡に映る己の頭髪に見入ってしまった。


暫くして用人の秦野が乱れ箱を持って離れにやってきた。

「殿がお会いするとのこと、それから貴殿とすぐにも出かけるよし、これに着替え書斎にお越しいただきたいとのこと、尚この紋付き羽織袴と長着は殿が浅尾殿にとあつらえたもの、それと長着の柄は姫が呉服屋で時間をかけ選ばれたとか、浅尾殿はほんに果報者ですなぁ」


「あ、有り難う御座います、これを志津江殿が選んでくれたのですか」

畳に置かれた乱れ箱には黒羽二重五つ紋付の羽織と袴、それに白襦袢、白足袋、帯、それに志津江が正則のために選んでくれたという長着が揃えられてあった。


(…だがまいったなぁ、普段着なら何とか着れるが正装となると自信がない、まさか用人に着付け教授を願うのはいくら何でも…あっそうだ志津江殿に教えてもらうか)


「秦野殿、着物の礼を申したいのですが志津江殿は今どこにおみえでしょうか」


帰りかけた用人は立ち止まり、意味ありげにニヤっと振り返った。

「先ほどは御付きの女中らと庭の花に水をまいておられたから…まだ中庭にお見えと思いまするが」


用人の意味深なる笑みは…あの染物屋への道行き以降二人の噂が屋敷内に広まっているからであろうが。


「分かりました、では少々済ませることも御座いますので四半時の後に書斎に伺うと殿にお伝え下さい」


用人はなおも笑みを浮かべ、頷いて出て行った。


正則は志津江を探しに廊下伝いに中庭に進んだ。

暫くしてお付きの女中二人と草木を愛でる若やいだ光景が目に飛び込んだ。


志津江は膝を折り花弁を指先でいじり微笑みながら女中の一人と話をしていた。

その横顔は遠目にも初々しくその美しさは辺りを白く染め抜く程である。

正則はその美しさに暫し見とれてしまった。


暫くして志津江が振り返った。

「あっ、正則様」


志津江は嬉しさを満面に顕し小走りにこちらに進み寄る。

女中らは気を遣ったのか早々に柄杓・手桶を持って視界から消えた。


「正則様、私に何か…」

志津江は熱い眼差しで見つめてくる。


その熱に少したじろぎながら正則は口を開いた。

「志津江殿、私のために着物を選んでくれたとか、有り難う御座います、そこで少々相談ですが できれば着付けをお願いしたいのですが…」


その言葉に志津江の顔は零れるように華やいだ。

「あっ、今朝は父上と叔父様の御屋敷に参られるのでしたね、分かりました手を洗ってすぐに離れに伺いますから部屋で待ってて下さいまし」

そう言うと志津江は浮いた足取りで中屋敷へ駆けていった。


(いま志津江殿は「父上と叔父様の御屋敷に参られるのでしたね」と言ったな…だが殿には養子の可否などまだ伝えていないはず、殿はもう俺の決心を先読みしていたのか)



 志津江が部屋にやってきた。

「さあ正則様、着ているものをお脱ぎ下さい」

言いながら志津江は乱れ箱の中から襦袢を取り出す。


正則は部屋着を脱いで下帯一枚になったが、好いた女性の前に下帯だけの無様な格好を晒すのはさすがにためらわれた、だが以前病床での下の世話を思い起こせば褌姿など今更隠すまでもあるまいが…しかしあの頃とは違う、いま目の前に佇む女は想いを寄せる美しい女性なのだ…ためらうは当然の成り行きであろう。


下帯姿になった正則を見て志津江は襦袢の襟口を持って立上がった。

不意に目と目が合う、志津江はそれを恥ずかしげに避けて俯いた、だがその視野に正則の褌股間が目に飛び込む。


志津江は小さく「あっ」と呟くも一瞬のこと、すぐに正則の背後へと回った。


肩に襦袢を掛けると袖に腕を通す、そして前に回ると慣れた手つきであわせを紐で括った。


やはり志津江の頬には赤みが差していた、あの病床での介護のおり 下帯交換のさいに当然のことながら正則の男性器を見た、また手ぬぐいで体を拭いたときはその性器をつまんだ記憶もあった。


だが介護のときは命の恩人 それも不自由な老人と思えばこそ下の世話まで怯むこともなくこなせたが。

後に髭を剃り髪を整えた時、今まで見たこともない美青年が目の前に出現した、この美青年の裸の全てを知っていると思ったとき志津江の心は濡れた、それからは寝ても覚めても正則への想いはつのるばかりである。


その志津江にとって再び見る正則の裸身は以前とは異なり神々しくも心臓が止まるほどの美神に映ていた。



 背後から羽織を着せ正面へと廻り、少し下がって正則の姿全体を視野に入れた。

着付けに不備はないかと点検を始める、だがその美形に見とれ点検どころではなかった。


(はぁ…なんて素敵な侍姿なんでしょう)


ずーっと見ていたい、そんな想いを振り払うと

「正則様 出来ましたよ、これなら立派な若殿です、父上がお待ちかねですからもう行って下さい」

正則は背中を押され部屋を後にした、志津江はその後ろ姿を惚れ惚れと見送っていた。


正則が書斎に行くと例の養子縁組の可否など問答無用とばかり合点顔で「さぁ行きますか」と庄左右衛門「これを腰に差されよ」と大小の刀が渡された。


小刀を差し、次いで大刀を帯に通した。

(お…重い、刀ってこんなに重いものなのか)

腰に大小を差してみて意外に刀が重いと知った、若い頃居合いを先輩から教えられたとき真剣を腰に差したことは幾度も有ったが大小二本を差したのは今日が初めてである。

これを日常さして長い道のりを歩くは相当に骨が折れるだろうと正則は思った。


庄左右衛門の弟三田次郎右衛門の屋敷はこの屋敷から四町ほど南に下った紀伊家の屋敷手前、諏訪坂付近と近いため供回りは連れず二人だけで屋敷を出た。


この時間は出仕時間を過ぎているため行列もなく通りは閑散としている。

庄左右衛門は役羽織とて茶縮緬単羽織という地味さに対し、正則の黒羽二重の羽織姿は閑静なる景色から浮いて見えた。


「殿、このような立派な着物を仕立てて頂き誠に有り難う御座います、しかしこの紋は何という紋でしょうか」


「この紋は丸に花菱と言うてな、ただの花菱紋では通紋に過ぎるゆえ儂が丸を入れさせたのじゃ、まあ家紋なんぞどうでもよい要は人間中身じゃて、この紋も次郎右衛門の養子になる前のほんの一時の仮紋じゃよ」


「殿、一時のことでこのような立派な羽織を新調するなど何と勿体ないことを、この紋…何とかして消せませんかね」


「正則殿、何をしみったれたことを申しておる、これからは千五百石の旗本になるのじゃぞ、羽織の一枚や二枚捨て置け」


「でもせっかく仕立ててくれた羽織が勿体ない」


「ええい、まだ言っておるのか、それより儂が今から言うことをしっかりと頭に刻み込んで下され」


「と申しますと…」


「貴殿の身の上じゃよ、弟めに貴殿を未来から来た御仁とは紹介できんじゃろう、ゆえに儂が数日前より熟慮し裏もとっておいた身上書よ」


「はぁ…有り難う御座います」


「まずは正則殿の誕生は文化九年六月十二日、生国は筑前黒田長政の三男・長興を祖とする福岡藩の支藩に秋月藩があるがそれを生国とし、その藩で鉄砲頭を務めた”浅尾六兵衛義知”なる者がそなたの父だ。


浅尾六兵衛義知は俸禄300石の上級武士であったが新式銃製造に関し海外の書籍を密かに取り寄せたことが目付に知れ、そのことが幕府に洩れるを怖れ御役をご免、俸禄を召し上げられ浪人となる。


一家は親類を頼って豊前小倉藩に移り再び仕官をはたす、そこで貴殿の父は前藩での技術を見込まれ鉄砲組の御役に就く。


一方正則殿は小倉藩の藩校思永館に八歳で入塾、文武を学び十五歳の時その利発さを認められ蘭学を学ぶ、その蘭学も成績優秀であったため長崎郊外の鳴滝塾に入塾。


シーボルト事件前年の文政十年、シーボルトは貴殿の聡明さにいたく惚れ込み親交のあった津山藩士の宇田川榕菴に貴殿を託した。


宇田川榕菴は養父・玄真の養生のため共に津山に来ていたが、江戸に帰るとき貴殿の天分の才を惜しみ両親を口説いて江戸に貴殿を連れ帰った、それ以降貴殿は宇田川榕菴の私塾に寄宿、一昨年塾頭となり今日に至る。


また貴殿の父と母は五年前の天保三年に相次いで流行病で死去、天涯孤独な身の上となったため、友人である宇田川榕菴に頼まれ今では儂が貴殿の面倒をみている。

まあこんなところよ」


ここまで一気に語ると庄左右衞門は立ち止まり「ふーっ、今日は特に暑いのぉ」と汗を拭いた。


「今言われたこと…すぐには覚えきれませぬが」


「なぁに、そう思うてのほれここに事細かく控えておいたのよ」

庄左右衛門は言いながら懐から紙束を取り出し正則に渡した。


渡されたのは半紙三枚にびっしりと浅尾家の家歴及び正則の経歴が事細かに記されて、先ほどの庄左右衛門の弁はダイジェスト版と言ってよかった。


「ここまで詳細に…殿ありがとう御座います」


「正則殿、ここに書かれた事柄は儂なりに熟慮し また裏もとってあるゆえ少々調べたくらいではまず知れることはあるまいて、よぉく頭に入れておいて下されよ。


なおこの件は宇田川榕菴殿に少々金を握らせ経歴の辻褄を取り付けた、であるから誰かがもし貴殿のことを問い合わせたとしても彼は口裏をうまく合わせてくれるじゃろう」


「殿、何から何まで本当に有り難う御座いました」


正則は危惧した第一関門はまずはくぐり抜けたと感じた。


「さぁ行くとするか」庄左右衞門はそう言うと正則の背を押した。

それからは三田次郎右衛門の屋敷に着くまでの十数分間、正則は半紙三枚に書かれた要点のみを選び暗記するのに没頭した。


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