五十四.ロシア帝国の降伏
1866年6月27日深夜、幽霊船と見まごうばかりの艦船がバルチスキーの港に入った。それは日蘭連合艦隊のなれの果てである、連合艦隊22艦はオーランド海を抜け出た海域で殆どが海に没した、ワルシャワから援護のため飛来した爆撃機があと1時間早ければ22艦は満身創痍といえどオーランド海の隘路を脱出することが出来たであろうに。
日蘭連合艦隊は大本営に援護要求する暇も無いほど敵の砲撃は峻烈を極めたのだ。辛うじて生き残ったは戦艦「伊勢」巡洋艦「水戸」揚陸艦「久留米」「小倉」「中津」輸送艦「壱岐」のたった6艦と将兵八千のみであった。
爆撃機の援護爆撃によりオーランド諸島西端の小島に展開したロシア軍砲撃部隊は一瞬で壊滅した、それは島の形が変わるほどの爆弾投下量であったからだ。
敵の砲撃が止んだのを機に、沈没を免れた艦船は引き返し 冷え切った海で救助を待つ兵等の収容を開始した、しかし海水温は氷が漂う海である 意識不明にいたるは15~30分、死は速くて30分 頑健な者でも1時間半が限界という、しかし救助開始は兵等が海に飛び込んでから1時間以上も経っていた、意識を失った者から次々に海に没し 残った頑健な兵はほんの一握りだったという。
一方バルチスキーの空港を襲ったロシアバルト艦隊7艦は、昨日の午前7時 ワルシャワ空軍基地から飛び立った戦闘機20機と小型爆撃機10機により破壊し尽くされ海の藻屑と消えた。
また上陸したロシア奇襲部隊二千も帰還する船を失なったことを知り狼狽、命令系統が崩れたところへシャウレーに駐屯中の高速機動部隊(諸兵科連合部隊)五千が駆けつけ僅か1時間足らずでバルチスキー港へとロシア兵を追い込みこれを殲滅した。
バルチスキーに入港した日蘭連合艦隊の乗組員は全員陸軍第一軍団の幕舎に収容されたが…オランダ兵は僅か一千にも満たなかったという、オランダ兵の多くは兵装演習のため殆どは戦艦・巡洋艦・駆逐艦に乗り込んでいたからだ。
また大島准将とロシュセン中将は爆沈した戦艦長門と共にオーランド海に没したと報告された。
翌日大本営は、ケーニヒスベルグ空軍基地へのロシア軍奇襲と日蘭連合艦隊への機雷敷設と砲撃をもってロシアの宣戦布告と見なし、ヨーロッパ全土にロシアが日本・オランダに対し宣戦布告した事を流布した。
6月28日、ポーランドのワルシャワ空軍基地から大型戦略爆撃機50機が飛び立ち、報復として日蘭連合艦隊を殲滅に導いた敵の主要拠点であるオーランド諸島マリエハムン・トゥルク・バーサを火の海に沈めた。
7月1日、ワルシャワ・ムンカッチ・モルダヴィアの3つの空軍基地よりH-20B大型戦略爆撃機100機がロシアの国境を越え飛びたっていった、またロシア国境近くに陣を構える陸軍第一軍団~第四軍団は機甲師団を先頭におよそ80万の兵がロシア本土へとなだれ込んでいった、また途中参戦した同盟国デンマークの兵二万余も遅れて第一軍団の後に続いた。
北極海が北部海岸線すべてを覆っているロシアにとって海洋に出るにはバルト海・黒海・日本海・オホーツク海・ベーリング海のいずれかを抜けなければならない。
しかしオホーツク海とベーリング海の氷が溶けている期間はほんの僅かで波も荒い、また常時天候が荒れているため港湾としての活用もこの時代では困難で、自然 バルト海・黒海・日本海に活路を見いだす結果となろう。
ロシアが面するバルト海の出口はカテガット海峡となる、だがデンマークとスエーデンの2国がこの海峡を封鎖すれば外洋には出られない、故に日本軍はいち早くロシアの宣戦布告を流布すると同時にデンマーク・スエーデンと同盟を結び、バルト海入口のデンマーク東端 メン島に海軍基地を急増し新造戦艦3艦を待機させ、島には要塞を築き長射程の榴弾砲を置いた。
黒海からの出口はトルコのボスポラス海峡からイスタンブールを抜け出れば、ダーダネルス海峡・エーゲ海・ジブラルタル海峡であるが、ここは日本海軍が幾重にも封鎖済みだ。
残るは日本海だが、清国と朝鮮は数年前に日本に併合され数十万の日本軍がロシア国境を常時警戒している、よって残るはウラジオストックのみとなろう。
日本軍は7月、このウラジオストックに10万の兵を送り港を封鎖すると共に、朝鮮からの兵10万と合流しバイカル湖の西 イルクーツクに展開を終えた。
また清国に駐屯する30万の兵の内 10万余がロシアが統治するカザフスタンへと侵攻していった、こうして7月末にはロシア包囲網が完成したのだ。
8月、正則は自宅庭園の東屋で庄左右衛門を相手に茶を点てていた。
この月の初め、庄左右衛門と光右衛門は国政から身を引いた。
そして左太夫は先月の初め、バルト海の悲報を聞くや自宅の庭先で自刃して果てた。彼は庭先の大谷石を背に正座し、日本刀で十文字に割腹し、刀の柄を膝下に立て剣先を前頸部に当て、前のめりに倒れ絶命したという…現場に駆けつけた長男の海軍大佐井上義郎の報告でこの事態を正則は知った。
「左太夫らしい死に方じゃのぅ…」そういって庄左右衛門は肩を落とし涙を零した。
正則は庄左右衛門の啜り泣きに茶筅の動きが刹那に止まった、しかしそれは一瞬のことですぐに何事も無かった様に茶筅は動き出した。
「義父殿、左太夫の話しはもう止めましょうぞ 49日も相済み今は正直忘れたいところ、彼は儂等の煩悩を一身に背負い自刃して果てたのじゃ、心内で手を合わせ儂等は生きていこうぞ…」言いながら正則は素早く涙を拭った。
「奴の訃報が報道され多くの日本国民が悲しんだが、一方非難や嘲笑も多かった、死にゆく御霊に心ない非難や嘲笑そして売国奴呼ばわりは何事ぞと思うも数万の将兵を憤死させた責任を思えば仕方無き事で御座ろうよ」
庄左右衛門は茶碗を手の平一杯に包んで静かに啜った。
東屋横の池縁に群生する秋桜が晩夏の風に揺れている、一昨年知り合いのオランダ人から貰った種を蒔いたのだが、元世ならば路傍にいくらでも咲いていようがこの時代では正則の屋敷くらいなもの、原産地は意外にも灼熱のメキシコと聞くが涼しい高原地帯に咲くのであろう、日本の秋はもうすぐそこまで来ているようだ。
正則が秋桜を何気なく見ているとそれに気付いたのか庄左右衛門が「正則殿、見慣れぬ花が咲いておりますな、あれは何か志津江に似ているような…」言いながら茶碗を静かに置いた。
そう言えば何となく志津江の白さと嫋やかさに似ていると正則も思った。
「ところで正則殿、ロシア戦況はどうなっておりますかな」そう言いながら庄左右衛門も目を細めて秋桜に魅入る。
「まっ今のところは無事進展しておりまする、サンクトペテルベルグを除くロシアの大都市はあらかた壊滅し現在は地方の小都市を各個撃破しておりますが、遅くとも年内にはサンクトペテルブルグも陥落しロシアは降伏しましょう…」
「そうですか、では来年はいよいよ世界制覇の仕上げアメリカですな」
「そうよ、新沼と安原が着々と米国への侵攻を計画しておるが、しかしどうして彼奴らはこうも次から次へと戦争を仕掛けるのやら…」
「よく言いますなぁ、全ての発端は正則殿に有るを棚に上げ…ようも他人事の様に言えるものじゃて、奴等はただ正則殿の意思を忖度し遂行しているに過ぎませぬ。
彼らは西洋人憎しなど欠片ほどにも思ってはおらんじゃろう、彼らは若い頃から三田家の与力としてお主を神の様に信奉しとるのよ、まっ儂も光右衛門や左太夫も同様であったが、お主が元世で何があったか知らぬがロシア・アメリカ憎しは儂等の骨の髄まで感化しており今や彼の国を討つは当然のことと思っておるのよ。
しかしロシア・アメリカを討った後…彼らは憑き物が落ちたが如く惚けてしまう様な気がしてならぬが…江川英龍も堀田正衡ら お主のシンパは皆 同様じゃろうのぅ」
正則も庄左右衛門が言ったことは若い頃から感じていた、彼らに目標を与え また日本を世界の一流国に仕上げるは外なる敵を求めるに有りやと考え行動してきたのだ。
そして今や日本は世界の頂点に君臨し、あと数年で世界制覇を成し遂げるだろう、しかしその後はどうするのか…正直正則はその後の事など余り深くは考えてはいなかった。
庄左右衛門流に考えれば…後は次世代がやりたい様にやるであろうか、正則は最近は やること成す事全てが面倒に思えてならなかった、これも脳年齢94歳という歳のせいだろう、今は穏やかに 若く美しい志津江とともに草木を愛でて過ごしたい、そんな惚け老人に成り果てたいと思っていた、だが周囲がこれを許さない、やはりアメリカを討たねば余生を送るなどは未だ夢、そう思う正則だった。
1866年11月20日、ロシアの古都モスクワの陥落により当時同盟国となったデンマークのコペンハーゲンで日本・オランダ・デンマークの首脳が集い、ロシア大戦の戦後処理について会談が行われた。
この会談に於いて日本側が作成した13箇条に及ぶ宣言書が承認され、コペンハーゲン宣言として当時交戦まっただ中のロシア・サンクトペテルブルグに発せられた。
そのころ首都サンクトペテルブルグ以外のロシアの大都市及び小都市の殆どは陥落し残すところ首都のみとなったが、空爆すれば一瞬で片がつくはずが正則はロシアで最も美しい都 サンクトペテルブルクを灰にするは余りにも惜しいと空爆だけは許可しなかった。
だが12月10日、ロシア帝国の王宮である冬宮の2km手前に迫った連合軍を認め、アレクサンドル2世はコペンハーゲン宣言を受託する旨をフランスの日本公使館経由で連合国側に通告、翌12月11日にロシア国民に無条件降伏したことが発表された。
これにより1856年から10年の長きあいだ続いたヨーロッパ列強との戦いはここに終息したのだった。
ロシア降伏の報に日本国中は沸き立った、だが正則だけはあれほど憎いと思いこれまでロシアを完膚なきまで叩きのめし、灰燼に変えてやろうさえ思ったこの十数年、ヨーロッパの列強国を踏み潰しいざロシアを降伏させてみれば…その想いは何処へやら、憎しみは知らぬ間に消失していた。
たしかに憎きは昭和二十年代の極東ソビエト連邦軍であって この時代の帝政ロシアの民ではない、つまりはこの時代から下ること孫の時代に犯した蛮行を爺様婆様に復讐する卑劣な所業…そう考えてしまうからか。
そうであればアメリカとて同様であろう、この時代アメリカは人口僅か二千三百万の小国に過ぎず、1940年代のアメリカ合衆国(人口一億三千万を超える大国)ではないのだ、未来の蛮行など何も知らないその小国の民を無差別空爆で焼き殺すは余りに無残と言えよう…。
(アメリカには植民地政策を適用し人口増加を防ぐ、また小国の割りに現状の領土は広過ぎる、住民は北部に移住させ北緯38度以北をアメリカ領とし それ以南は日本領としよう、まっ彼らが北米大陸に我が物顔で入植しインディアンを殺戮し追い払ったと同様の手口であろう…しかしロシアの如く文明が西部地域に集中する国と違い、アメリカは広範囲に分布しておる、これを攻略するはさぞ骨の折れることよ、さて新沼と安原はどう対処していくのか…これは老後の楽しみというもの…)正則は不敵に笑い九段坂の森を見つめた。
5年前の掲載はこの章で終わりましたが、今回はアメリカ降伏まで掲載を続けます、よって執筆のため暫く掲載を休みますので次回掲載(正月明け)までお待ちください。




