表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/54

五十.死海峡への回航

 1866年2月、ヨーロッパ最大の覇権国であったイギリスとフランスを占領した日蘭連合軍は、ヨーロッパ侵攻の本陣を地中海沿岸からオランダ-アムステルダム北東のエメンと占領国フランスのストラスブールに移した。


3月10日、日蘭連合軍総司令部は連合陸軍80万を4つの軍団に分け、オランダのエメンから第一・第二軍団が、フランスのストラスブールからは第三・第四軍団がそれぞれロシア国境を目指し進軍を開始した。


第一軍団は、ブレーメン・ハンブルグ・ダンチヒを陥落させつつバルト海沿岸ケーニヒスベルへに侵攻する計画であり、第二軍団は、ハノーバ・ベルリンを突破しワルシャワに迫る、第三軍団はミュンヘン・ウイーンを経てムンカッチに至る、第四軍団はガスタイン・ブダペスト・デブレッチンを陥落させつつモルダヴィアに侵攻する作戦であった。


そして100機に及ぶ戦略爆撃機の援護を受けたこれら4軍団は、破竹の勢いで各都市を陥落させつつ目的地ケーニヒスベル・ワルシャワ・ムンカッチ・モルダヴィアに5月初めにそれぞれ到達しこれら地域を陥落させ拠点化した。


そこで5月一杯かけそれぞれの拠点に急造りの飛行場を敷設し、6月20日までに戦略物資数十万tonを集積、6月末には計画通りロシア侵攻の4拠点が整備されたのである。


一方、42艦を擁した日蘭連合艦隊はイギリスドーバー港を4月20日に出港、北海からデンマーク王国を右回りにカテガット海峡に進入、大ベルト海峡を経てコペンハーゲンに肉薄、この間デンマーク・ノールウェイ・スエーデンより何の干渉も無く4月25日コペンハーゲンの南 アマー島に投錨した。


日蘭連合艦隊はここより兵1万をコペンハーゲンに、またエーレスンド海峡を東に渡ったスエーデン王国の港町マルメーに兵2万を上陸させ相手の出方を窺う。


50年前、英国はデンマークがフランスに服属するのを阻止すべく英国遠征軍はコペンハーゲンを包囲し砲撃する戦いがあった、当時コペンハーゲンの城壁防御線はすでに時代遅れでイギリス軍大砲の長射程の前には無力であった、ために市街は甚大な被害を受け多くの市民が犠牲になったという、これは「城壁」という防御線が長射程砲の前には何の役にも立たず、時代遅れの防衛システムとして露呈した最初の戦いと言えよう。



 コペンハーゲン正面に対峙した日蘭兵は城壁を持たないあけぴろげな防衛線に唖然とする、この構えであれば1日も掛からずこの都市は陥落できよう。

だが市街に侵入した兵等は何の抵抗もないことに訝しむ、むしろ市民は歓迎の態度さえ見せていたのだ。


5月3日、デンマーク首相クリスチャン・アルベルト・ブラハムは日蘭連合艦隊に対し、デンマークは中立の立場を取ると表明、戦争の意思は無く好意の証として大量の食料を支援された。


一方、スエーデン王国の港町マルメーに上陸した兵はコペンハーゲンとは異なった、当初は東洋の兵に友好を示すようにも見えたが…連合兵に多くのオランダ兵が存在するのが知れるや豹変し、5月5日突如軍隊を前面に押し出してきたのだ。


その昔、オランダ海軍はスコーネ戦争でデンマーク海軍と共闘関係にあり、スウェーデン海軍はこの共闘艦隊によりことごとく敗戦を喫した、また大陸側でもデンマーク軍はブランデンブルク軍と共闘したため、スウェーデン軍は苦戦するポンメルンに援軍を送り込むことが出来ず、遂には大陸側から完全に駆逐され大陸進出の野望はここに潰えた、この恨みは未だにスエーデンには燻っていた。


スエーデン国王 カール15世は日蘭連合軍に対しマルメーより即刻退去の勧告を行い、マルメーの市街西の防衛線奥でスエーデン軍五千は日蘭連合軍と対峙した。


大本営はスエーデンと事を構える気は毛頭無く、和平に持ち込めとしきりに命令を送った、しかし日蘭連合艦隊副司令官のシェルト・ファン・ロシュセン中将はオランダを目の敵にするスエーデンの豹変に激怒、艦内の病床に伏せる司令長官の宮本徳治郎海軍中将に了解を求めること無くマルメー陥落を海軍大臣井上左太夫に具申してきた。


左太夫はこの具申に一旦は可としたが、大本営の新沼中将に反対され また海軍大臣江川英龍に大本営の戦略を無視したロシュセン中将の左太夫への独断具申は更迭に値すると一喝され左太夫は激昂した。


北方から大陸進出を目論むスエーデン・ノルウェーの存在は大本営も以前から問題にしており、この機会に2国に釘を刺すは肝要として、自分を頼りに具申してきた同盟軍の副官を江川に更迭すると一喝され怒り心頭に達したのだ。


しかし左太夫は堪えた、江川を叩けば必ず正則が出てくることが分かっていた、彼にとって大本営など無視できるが正則だけには頭が上がらなかった。


それが余計にしゃくに障り、裏腹に江川への恨みは募る一方だ。

5月10日、大本営はマルメーからの即時退却を命じ、周辺国に干渉すること無くケーニヒスベルグの第一軍団と合流するよう命令を下した。


だが左太夫は即刻 工作に動いた、7月1日のロシア侵攻までには2ヶ月近くの猶予があり、このまま艦隊がケーニヒスベルグに航行すれば1日で着ける距離だ、であるならば2ヶ月近くも兵等は港に留まり指揮は下がる一方となろう。


ならばその間に演習を兼ね、スエーデンの都ストックホルム周辺を脅かすべくバルト海沿岸を一巡し、6月中にケーニヒスベルグに入港しても遅くはないと大本営海軍部に働きかけた。


大本営は左太夫が仕切る海軍の隠然たる力に抗しきれず、司令長官の宮本徳治郎海軍中将に演習を兼ねバルト海のボスニア湾奥 ルーレオ-周辺までの巡視を命じた。


これが後にケーニヒスベルグ連合空軍基地全滅の原因となったことは…このとき英龍も左太夫も知るよしもなかった。



 1866年5月11日未明、日蘭連合艦隊2万の上陸兵は何の前触れも無くスエーデンの港町マルメーより突如引き上げて行った。


陽が昇り辺りが白み始めたとき、浜辺一帯を埋め尽くしていた夥しい数の日蘭兵が霧のように消えているのに気付き、スエーデン兵は驚喜した。


スエーデン王国がバルト帝国を確立し絶頂期とも言われたのは17世紀の昔、18世紀になると次第に対外的国力は低下していき、かつての「バルト海の覇者」の面影はもはやなく、19世紀初頭にはフランス帝国の強制でフィンランドをロシアに譲渡、国王グスタフ4世は廃位され、フランス皇帝ナポレオンの部下で一兵卒から元帥にまで成り上がった 平民ベルナドットを王太子(後のカール14世ヨハン)に迎えることになる。


その後、ベルナドット王太子は反ナポレオンに転じナポレオン戦争で戦勝国になるもキール条約によりフィンランドをロシアから奪還出来ず代償としてノルウェーの獲得に留まる。


この時代以降は北欧全土が列強の脅威にさらされることになり、この列強への対抗から北ヨーロッパ統一の機運を高めるべく汎スカンディナヴィア主義(ノルマン主義)と呼ばれる運動を興していくが…王権の低下と共に次第に挫折していった。


以降スエーデンは列強の雄である英仏の驚異に屈し属国が如く扱いを受けていた、そんな敵うべくもない強大なる英仏を鬼神の所行が如く無造作に叩きつぶした日本軍。


そんな東洋の鬼神を相手に勝てる見込みの無い戦い…その恐怖にマルメーに布陣した多くのスエーデン兵は夜陰に紛れ逃亡四散し始めた。


5千の兵の誰しもが陽が昇れば浜辺は阿鼻叫喚の屠殺場に成り果てるは分かっていた、怯えは次第に狂気へと変わり、そのはけ口は無謀な戦に駆り出した国王への恨みにすり替わり兵の統制は一夜にして崩壊したのだ。


未明…兵の数は3千まで減り、なおも敵前逃亡はたえなかった。

それが明け方 俄に敵の引き上げを知ったのだ、残留した兵等の喜びは如何ばかりであろう、将兵らは互いに抱き合い命を存えたことを噛みしめた。


この時代、スエーデンは南のプロイセンそしてロシアと敵対関係に有り、バルト海は既にロシアの制海権となっていた。

そのプロイセンを日蘭連合軍は難なく蹴散らし、今まさに憎きロシアさえ叩き潰す勢いにある。


スエーデン政府は当然の如くこれを歓迎し、ノルウェイ・デンマークと共に中立の立場をとるどころか 日蘭に対し同盟さえ結ぼうとしていたのだ、しかしスウェーデン国王カール15世は何を思ったのかオランダ兵の存在を知るや突如マルメーに兵を展開させた。


この国王の虎の尾を踏む暴挙は当時発足したばかりのスエーデン二院制議会を震撼させた。議会は国王に即時兵の撤収を求めた、しかし成立したばかりの議会の要求など聞く耳を持たず、挑発するが如く さらにノールウェイとデンマークに緊急派兵さえ要請したのだ。

日蘭連合軍のマルメー撤収はまさに国王と政府が対立する真っ只中の出来事だった。



 その頃、マルメーを撤収した日蘭連合艦隊は戦艦長門を旗艦として42艦の大艦隊でスエーデン南端イースタッドとボーンホルム島の間を抜けバルト海最大の島 ゴットランド島方面を目指し北上していた。


本来の計画であれば日蘭連合艦隊はケーニヒスベルグ(カリーニングラード)の港 バルチスキーに入港するはずだった…。


それを海軍大臣井上左太夫の大本営工作により、ロシアとの開戦までには間があり、兵の士気が衰えるを懸念し艦隊訓練及び北欧巡視のためバルト海のボスニア湾奥 ルーレオ-周辺まで一巡、オランダ兵への艦砲射撃訓練を実施しつつ6月20日ケーニヒスベルグへ寄港とすり替えたのだ。


これはスエーデンを嫌う日蘭連合艦隊副司令官のロシュセン中将の巧みな進言により左太夫配下の海軍部が大本営に圧力を加えた結果でもあった。


しかしこの艦隊訓練と北欧巡視は名目に過ぎなかった、その実はロシア戦時における北欧3国の背後驚異を抑えるべくスエーデンの首都ストックホルムを大艦隊で包囲挑発し、相手の出方に依っては初戦の端を砕いておきたいという海軍部の企てでもあった。



 5月11日午後4時、日蘭連合艦隊はゴットランド島の西25kmにあり速度18ノットでストックホルムを目指していた。

明日の朝にはストックホルムの南東50kmの沖に着ける速度である、しかし陽が沈んだ午後8時 異常低温に接した日本兵は一様に震え上がった、外気の温度は何と氷点下15度まで下がりだしたのだ。


5月の初めと言うにこの異常気象は日本の将兵を脅かした、彼らは地中海南の温暖な気候に数週間前まで浸りきっており急遽の北欧遠征である、体が急変する気温についていけなかった、それに毛布も不足し軍服も冬の装備ではなかったからだ。


また兵等を脅かす要因は、この寒さ以外に連合艦隊司令長官 宮本海軍中将がドーバーを出港してすぐに風邪を発症、病院船に収容されたが依然高熱は続き、5月に入ると肺炎を併発、歳のせいもあり快方の兆しは全く見えなかった。

このため5月8日 連合艦隊司令長官は副長官のロシュセン中将が代行することを井上左太夫海軍大臣の推挙により大本営部が承認したことだ。


司令長官がオランダ士官に取って代わることに日本兵の不満は募った、また急造りの連合軍で全体の4割もの兵がオランダの兵で占められいた。

だがオランダ兵は海軍と言えど帆船しか知らない、最新鋭艦の機関・操船・兵装に関し全く無知なのだ、ゆえにこの度の航海でそれらを訓練するとあった。


つまり最新鋭艦の操作も威力も解らぬ者が司令長官となり、日本の新兵以下の烏合のオランダ兵が4割も占めるとあれば日本兵にしてみれば足手まといと言うよりむしろ邪魔に過ぎた。


この司令長官の交代から数日、日本兵に従順だったオランダ兵の態度は少しずつ変わり、体格差で圧倒する彼らは矮小な日本兵を侮り、陰で日本兵への暴行も横行しはじめた。


そしてマルメーでのスエーデン軍との対峙である、日の出と共に白兵戦を予想し指揮は上がっていた…しかしその頂点での戦わずしての退却、こんな馬鹿げた作戦などあろうか、一体誰が指揮を執っているのかと日本兵の不審不満はさらに募っていった。



 5月12日午前6時、日蘭連合艦隊はストックホルム南東50km沖に停船した、昨夕より降り出した雪は猛烈な吹雪になり10m先も見えず、艦隊はレーダー操船でなんとかここまで漕ぎ着けた、しかしストックホルムを脅かす示威行動に撃って出るには吹雪が収まるのを待たなければならない。


また日本兵は一様に春着の軍服でオランダ兵の如く厚手の軍服の用意は無い、イギリスドーバー港を4月20日に出港した際は海は暖かく北欧の異常気象の情報も無かったからだ。


この異常気象に日本兵は一様に震え上がり、誰一人として甲板に上ろうというものはいなかった、このとき外気温は氷点下20度まで下がり艦内の水は殆ど凍り付いた、また砲塔・銃座の潤滑油や作動油もゲル状に変化し始め、流動性を上げるため暖機運転を行わねばならない。


午後4時、ようやく吹雪は収まった、しかし艦を包む積雪量は夥しく 砲塔も満足に動かせないことから本日の示威行動は取りやめとなり、甲板・艦橋・砲塔廻りに積もった1mを超える積雪を除雪する命令に切り替わった。


この命令に寒さに慣れたオランダ兵は厚い外套に身を包むと甲板へと駆け上がっていく、しかし日本兵の誰一人として船室を出る者はいなかった、風邪で発熱した者が多いこともあったが彼らの殆どは中国・四国・九州方面の南国兵である、氷点下20度などは想像の埒外なのだ。


しかし日本軍士官等はオランダ兵の手前 日本兵のみ船室で休息することは恥辱であるとして発熱していない者全員は甲板に上がれと命令を下した。


彼らは春着の軍服の下に有りったけの下着とボロ切れや新聞紙を詰め込み、渋々の体で甲板に上がっていった。


除雪作業は午後4時に始まり7時ごろには目処がつく筈であった、しかし積雪は岩の如く凍り付き遅々として進まず、次いで低体温症に倒れる者が続出するに至り午後9時、ようやく撤収が告げられた。


兵等は疲れ果てて船室に戻った、この時 外気温は氷点下22度まで下がっていた、兵等は船室に戻っても食事をする気力はすでに無くただ無様に震えていた、手先足先は凍傷に罹患したのか感覚は全く無かった。



 翌日の朝、ストックホルム沖は晴れ上がった、しかし気温は依然氷点下18度以下で暖気の兆しは見えない。


午前九時、全員持ち場につけ!の艦内放送が響き渡った、しかし日本兵の殆どはベットから起き上がれなかった。


全艦隊の日本兵およそ二万一千人の内4割が高熱を発し、また2割が軽度の凍傷を発症、そして低体温症で38人が死亡していたのだ。


氷点下22度の屋外における薄着での5時間にも及ぶ除雪作業、南国育ちの兵等に耐えられる筈も無く指揮の無能ぶりが露呈した。

しかし同作業のオランダ兵の罹患率は1割以下というのも日本兵の冬季装備が如何に不備であったことがうかがい知れよう。


日本兵のうち高熱・凍傷に罹患した殆どの者は戦艦・巡洋艦・空母・揚陸艦の兵らで無傷は輸送艦の乗組員らだけだった。

そんな事情から予定した模擬弾威嚇射撃また艦上爆撃機によるストックホルム上空への挑発飛翔はオランダ兵が代わることはかなわず中止と決まった。


翌日朝、ストックホルム南東50km沖に停船していた日蘭連合艦隊は一夜のうちにスエーデン海軍の艦隊およそ50艦に包囲されているのを知り驚愕した。


連合艦隊司令長官代行シェルト・ファン・ロシュセン中将は予想だにしなかったこの包囲に対し応戦命令を発令した、しかし砲兵が高熱で寝込んでいるとの報告を聞くや、使い物にならない日本兵の不甲斐なさを嘆き、一旦この海域からの離脱を決意した。


この時、日本軍の実状を知らば進路は当然南方へと取るべきであった、しかしロシュセン中将は大本営からの命令である「艦隊訓練と北欧巡視のためバルト海のボスニア湾奥 ルーレオ-周辺まで一巡せよ」を履行すべく艦隊を厳寒のボスニア湾に向かうよう命令を下したのだ。


このとき辺りは昼前と言うに異様な暗さに荒れ…遥か北方ボスニア湾の黒い海上には季節外れのオーロラが不気味な色彩さえ滲ませていた。

その光景を船室の窓から震えながら見つめる日本兵らは、まるで死地に赴くようにも感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ