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五.二人の武士

 朝から武器技術について聞かれ、久々に熱く語ったせいか正則は高揚していた、だが心の内では庄左右衛門の真意を読み解こうと足掻いてもいた。


(何かがおかしい…鉄炮組頭である親父殿がマスケット銃を知らぬわけはない、それなのに無知を装いわざわざ聞いてくるとは、俺を試しているのか…。


考えてみれば庄左右衞門の聴取は意図したように武器技術へ誘導された感があった、それとこの懐にある小判だ、10両と言えば時代によって換算相場は変化しようが現代の価値にすれば百万円前後にはなろう。


いくら裕福な旗本とはいえ たかがオモチャカラクリに百万もの大金を惜しげもなく出すかよ…。


それに昨夜の憔悴ぶりから今朝は一転して妙に浮き足立っていた、わかりやすい男と言えばそれまでだが、昨夜の内に俺を利用する目算でもたてたのか、いやはや事の展開が怪しい方へと…)

そんな不安が正則の胸中に去来した。


(確かに170年後の技術者がもし目の前に現れたら誰が放っておくものか、俺とてそんな技術者がもし現れたら鎖に繋いででも未知なる先進技術を聞き出そうとするだろう、ましてや庄左右衛門ほどの切れ者、そのまま聞き逃しにはしまい…。


それと庄左右衞門は既にあの鞄の中身を見ていた、iPadも見たと言うからにはパソコンや電卓…それに電子部品、ノギスやマイクロメーターなどは職業がら触り尽くしたはず…ということは彼はとうの昔に俺が未来人であることを看破していた…。

それをとぼけけ根掘り葉掘り聞き出すとは、一体俺をどうしようというのか)


正則は頭を掻きむしった、なぜ聞かれもしないことを馬鹿のようにあそこまで喋ったのか。


弱者ゆえのあがきか、それともこの時代を生き抜くための自己保全…。

無意識に己の価値とその有用性を知らしめようとする浅ましい根性、心が弱くなると意地まで汚くなるのか…。


(はぁ、情けない…)

正則はまんまと乗せられた…そんな想いを抱きつつも書斎を後にした。



 離れに着いたとき正則は無理にも笑顔をつくって襖を開けた。

そんな正則の顔を見て正次郎と志津江は胸を撫で下ろした、もしやカラクリ造りを止められやせぬかと危惧していたからだ。


「ほら、この通り親父殿は金子十両も下され、これからもカラクリ造りを支援すると約束してくれましたよ」そう言い懐から金包みを取り出し二人の前に置いた。


「兄い、良かったですね!これで心置きなくやれるってもんです、…しかし親父のヤツ何でこんな大金出したんだろう、俺っちには一朱銀さえくれぬくせに、兄いこれは何かおかしいですぜ、きっと魂胆がある筈」


「兄上!父上にヤツとは何て言いぐさでしょう、カラクリの資金に窮していると思えばこそ父上は急いで金子を用意されたのでしょうに」


「お前は馬鹿か、オモチャカラクリに何で10両もの大金を出すかよ、10両と言えば下女の三年分の給金だぞ、本当にお前は目出度い奴よ」


「まっ、下女達の給金てそんなに少ないの…」

志津江は目を丸くして正次郎を見つめた。


「そうともさ、知らぬだろうが春夏秋に新調するお前の晴着、それと化粧代や稽古事に年いくらの費えが係っていると思う、下女の給金にしたら七年分だぞ!そんなことも知らんくせに子供は黙っとれ!」

それを聞いた志津江は顔を赤らめ俯いてしまった。


(世間知らずの正次郎でさえ親父殿の気配を怪しいとにらんでいる、やはり杞憂に終わらず…この先この身に厄災が降りかかる事態に巻き込まれるのでは…)

そう考え正則はブルッと震えた。



 それから三日が経った、しかし庄左右衛門からはなんのコンタクトも無く朝餉や夕餉に顔を合わせてもいつもの好々爺を決め世間話に終始していた。


そんな庄左右衛門の態度は逆に怖ろしくもあり また訝しくも感じた、さりとてこちらから切り出しては先日のように相手の術中に嵌まるは必定、ならばこちらも無視してやろうと心に決めた。

(どうせ俺を利用しようと企んでいるのだろうが、さてこの先どんな手段で出てくるやら…庄左右衞門という男がどんな人間かそれで判断もつこう)


もし庄左右衞門が因業亡者であれば俺の持てる技術を全て聞き出し、利用価値が無くなれば抹殺、それがこの時代に落ちた理由ならば甘受もしよう、そうは思うも 逆に庄左右衞門を利用してやろう、そんな狡猾な想いも正則の心内には芽生えていた。

そんなもどかしい日々が暫く続き季節は暑い盛りへと入り、カラクリ造りも佳境に入っていった。



 正則が担当するギヤレーションで問題だった高速軸受けは水晶より硬い黄玉をフランジ状に成形したベアリングとした、それは直径3mmの黄玉端面に深さ2mmの三角錐の穴を穿ったもので、これも庄左右衛門がくれた十両のおかげで 細工師を頼んでの高価な軸受けとなった。


これにより柔らかな真鍮製の軸は全て鋼製に変え、軸端は先尖りのテーパー仕上げとして焼きを入れた、またギヤホイールは真鍮製のまま軸のみ鋼製に替え、焼バメして軸と一体化した。



 そんなある日、部品が全て整い明朝より組立という夕刻、用人の秦野小平が離れに訪れ「殿がお呼びです」と告げられた。


庄左右衛門とはあれから幾度も会ったが 例の件についてはまるで忘れられたように一度も触れてはこなかった、ゆえに今更改めて部屋にお呼びとは何の用だろうと思ったが10両もの大金を戴いたこともありカラクリ造りの進捗状況を報告しなければと庄左右衛門の書斎へ向かった。


書斎の前まで行くと用人の小平が「殿は客間にて御待ちでございます、どうぞこちらへ」と正則の前を先導し歩き出した。


(客間…ということは他に客人が居ると言うことか)


正則は小平に先導され客間へと向かった、そういえばこの屋敷に来てから四ヶ月も過ぎたというに この大屋敷では炊事場と居間 それと親父殿の書斎しか知らず、ましてや正次郎や志津江が住まう中屋敷などは一度たりとも入ったこともないと改めて気付いた。


(さすが1500石の旗本屋敷…部屋数だけで一体どれほどあるのやら)

暫く歩くと小平が「どうぞ中へ」と襖を開け客間らしき部屋へと案内された。


その客間はおよそ二十畳ほどもあり真新しい畳臭が微かに漂っていた。

正則は入るとすぐに部屋を見渡した、その部屋は数奇屋風書院造というか天井は黒い丸太で荒々しく見せる一方、要所には飾り竹を多用し繊細さでまとあげ、さらに洒落たディテールの土壁を見せることで気品さも醸し出していた、しかし部屋の造りに比べ配置された調度品は1500石の家格にしては以外に質素とも感じた。


客間に入ってすぐの畳に座り、面を上げると床の間を背に大きな唐木の座卓に座る庄左右衛門を見た、と二人の武士が庄左右衞門に対峙し何やら小声で話をしている。


小平が「殿、正則様をお連れもうした」と声をかけた、だが白熱論議の最中とみえ庄左右衛門がこちらに気づくには暫しの時間を要した。


「おお正則殿、いらっしゃったかこれは失礼、どうぞこちらにお越し下され」と己の横に来るよう勧めた。


正則は畏まりながら進み、座卓近くで一度座して深々と一礼、庄左右衛門の目配せに応じその横に正座をして控えた。


庄左右衛門は客の方に向き直り「この青年が先ほど申した浅尾正則殿です」と客に紹介した。

正則は客に対峙し「浅尾正則と申しますどうぞお見知りおきを」と再びお辞儀する。


庄左右衛門は次に客二人の身分と姓名を順次正則に紹介した。

二人の客は若年寄の下で銃器研究・教授・試射など砲術一般をつかさどる鉄砲方の方々で、物頭・井上左太夫殿と田付光右衛門殿であった。

この井上左太夫殿は国産銃器が専門、田付光右衛門殿はオランダ製銃器が専門とも紹介された。


「正則殿、実はこのお二方には貴殿の素性をお話しもうした。

拙者あれから半月ほども考えたが如何にも惜しい、貴殿の持つ技術をこのまま放逐するは身を切られるほど惜しいと感じたのじゃ。


さりとて例の事を口外すれば貴殿に害が及ぶは必至、それは絶対困る…。

よくよく考えたすえ、最も信頼の置けるこのお二方に腹を割って相談したのじゃ。


初めは世迷い言として取り合ってくれなかったが、例の雷管の事を申したら食付いてくれましてな」


「組頭殿、食付くとは少々口が過ぎまするぞ 魚でも有りますまいに、のう田付殿」


「いや組頭殿の言われる食付くは言い得て妙、確かにあの雷管の話は目から鱗の新案、おぬしなど夜も寝られんかったと申していたではないか」


「はははっ、いやそうであった。

ところで浅尾殿、組頭殿が申されていた”光絵”なるもの、是非とも我らにも見せては下さらんか」と井上左太夫が体を乗り出してきた。


iPadのことまで話されていたとは…ということは自分が話した殆どをこの二人はもう知っているのか…そう思うと正則は心中が暗くなっていくのを覚えた。


「正則殿、申し訳ないがあの”光絵”を彼らにも見せては下さらぬか、さすれば疑いの余地など無いことがお二方にも理解できよう」


「庄左右衛門様、お話は分かりました、しかし残念ながらあの”光絵”はもう光りません、バッテリー切れなのです」


「バッテリーとな、それはどういったものでしょう」

と横合いから田付光右衛門が口を挟んだ。


「はい、バッテリーとは電池です、たしか20年ほど後の時代になるのですが佐久間象山という学者が液体式のダニエル電池なるものを作るのですが…残念ながらこの時代にはまだ存在しません、”光絵”には電池から出力する電気が必要なんです、あの”光絵”の板の中には極薄の電池が入っており その電池が出力する電気は使用により消失してしまったのです」


「では新たな電池が有れば”光絵”はまた見られるのですな」と光右衛門。


「はい、そうですが…」


「電池ならそれがしに心当たりが…友人の蘭学者に宇田川榕菴というものがおりまして、彼がボルタの電池を作ったということを以前聞いたことが有ります」


「宇田川榕菴と言ったら三年ほど前に亡くなった玄真殿の御養子でしたな、儂も以前宇田川玄真殿の私塾・風雲堂に半月ばかり調べ物で通ったことがありますゆえ養子の榕菴殿ならよう知っております、彼は玄真殿の元で確かショメールの和蘭訳を和訳し厚生新編を著した一員でしたな、じゃが…彼に電池なるものが出来ようか」と庄左右衛門は首を捻った。


「何でも和蘭の書物から真似て作ったとか聞いておりまするが」


「そうか真似てのぉ、正則殿そのボルタ電池とやらが有ればあの”光絵”はまた見られるのかの」


「はい、しかしこの時代の電池の電圧…いや電気は弱くてたぶん使い物にはなりませんでしょう、もっと強いものが有れば何とかなりましょうが」


「そういうものか、ふむぅ…何か他に手立てはないのかのぅ」


正則はその言葉に閃いた、発電機ばかりに気を取られていたが電池という手は考えもしなかったと。

(電池ならすぐにも出来る それに直流だし、あぁ俺としたことが何故考えつかなかったのか)


「では私が作ってみましょう、十日もあれば出来ると思いますが」


「何と!、強い電池ができるということですな、これは嬉しや 分かりました十日などすぐのこと待ちましょうぞ」と光右衛門が膝を打った。


その膝の音で正則は(あっ!)と心内で叫んだ、どうして俺はこんなにも軽いのかと、聞かれもしないことを喋り結局は相手の手の内に嵌まっていく、やはり技術馬鹿なんだとこの時は痛烈に悔いた。


それから一刻に及ぶ彼らの質問攻めには慎重に言葉を選んで応えていった、それは庄左右衛門に話した域を出ないよう心がけたのだ。


しかし話しの最後辺り、薬莢構造の解説の際にライフリングと言う言葉を思わず使ってしまった、このライフリングに目を光らせ食付いたのは左太夫であった。


「そのライフリングとはどの様なものでしょう、是非にも教えて下され」


彼の物言いは他の二人より口調が険しい、探究心が他の二人より旺盛と言った方が正確だろうが。

この物言いに正則はまたもや釣られるように答えてしまう、それも序盤だけのつもりが相当詳しく話してしまったのだ。


「ライフリングとは施条、あるいは腔綫といい銃口内部に螺旋の溝を設けることを言います、なお銃口内径より弾丸の外径は少し大きめに造られており ために弾はこの溝に喰付き自転しながら発射されます、そのため弾のすっぽ抜けがなくガス圧を充分に受けての発射となるため威力も増し 弾に自転が与えられることでジャイロ効果が与えられまっすぐな弾道と髙飛距離が望めるのです。


この発明は日の本の年号にすれば文禄のころでしょうか、その時代に発明されたものを後に仏蘭西の陸軍大尉のミニエーという人が今より十年後の弘化三年にミニエー弾を発明し、それを実用化したミニエー銃がこのライフリング効果を最初に生かした銃と言えましょうか。


このライフル銃は当時マスケット銃が有効射程一町ほどに対し何と三町と言いますから威力は三倍、また命中精度も一町距離で二寸半という精度、この実証によりライフリングの工夫は銃に絶大なる威力を与えたと申せましょう」


「と言うことは…未だこの世には存在しないと言うことですな」

と言いつつ左太夫は青ざめた表情で唸った。


「是非ともそれを私の手で作ってみたい、もっと詳しく教えて下され!」


「左太夫どの、もうそろそろ夜四ツ、今宵はこの辺りにしましょうぞ、そう一気にたたみ込むと正則殿は逃げてしまわれますぞ」と庄左右衞門。


「おおっ、もうそんな時刻になりますか、仕方ない夢物語はこれまでとし酒にしますか、正則殿十日後でしたな、その折はもっと詳しくお聞かせ下さい」


「お二方、申すまでもないが今宵の話しは秘密厳守での」と庄左右衛門は念を押した。


「分かっておりまする、このような話し誰に聞かせるもんじゃ有りません、勿体ない勿体ない、値千金の話じゃて」と井上左太夫が意味ありげに笑った。


こうしてその夜の話は終わったが、井上左太夫の値千金という言葉が妙に引っかかった、正則は昔から「技術価値」というものにはどうも疎いようだ、これは技術者たる所以でもあるのだが…。


(それにしても庄左右衞門が井上・田付の両氏に俺の身の上を明かしたとは…もし彼が因業亡者のたぐいなら俺という価値を人には知らせず独り占めするはず、やはり庄左右衞門という男…肌で感じたとおり未知の技術を知り幕府御先手鉄炮組の技術革新に寄与したいだけかもしれぬ…それならば先日来よりの差し迫った危惧など杞憂に終わるかも…。

いや…そう思いたいが為の楽観、安直に考えるのはやめ もう少し様子を見よう)


そんなことを朧に考えながら仄暗い廊下を離れに向かって歩きだした、しかし離れに着くころには電池造りのいいアイデアが浮かび、差し迫る危惧などいつしか忘れて脳内は電池構想のみで占められていった。



 次の朝、いよいよカラクリ人形の組立開始である。

正次郎は朝餉もそこそこに正則を急き立て離れに向かう、その後を志津江が追う。


「兄い、何してんですかぁ早くやりましょうよ」


「んん…少し考え事がしたいから先に始めていて下さい」


「しょうがないなぁ、じゃぁ始めちゃうよ、おや…志津江お前はなんでここにいるの、お前の役目はとうに終わってるよ」


「見ていたいの、ねっいいでしょ兄上」


「しょうがねぇなぁ、邪魔しないようにな、ほらそこの隅で見ておれ」

正次郎は人形の首下に膠を塗った動作棒を差し込みだした。

「兄いが担当の胴部は待っておられんから腕の方の組立を先にするけどいいよね」


「はい…何か言いました」


「兄い、朝っぱらから何考えてんのさぁ」


「えっ、……」


「兄いたら、ねぇ兄い腕作っちゃうよ」


「ええ…どうぞ」


「ったく、きょうから組立だっていうのにボケちまって…」


「正次郎殿、硫酸って手に入りますかねぇ」


「な、何を藪から棒に、兄い一体朝から何を考えてんの、硫酸なんて聞いたことも無いよ」


「…そうですか、やはり無いのか、だとしたら弱いが飽和食塩水でやってみるか」


「兄い熱でもあるんですかい」


「あっ!そうだこの時代は礬油ばんゆだ、硫酸じゃ分からぬはず、正次郎殿 礬油なら分かりますか」


「あぁ礬油なら知ってるよ」


すると志津江が目を輝かせ「緑礬油なら私も分かります」と横合いから割って入った。


「お前が何で知ってんだよぉ」


「以前染め物屋さんから聞いたことがありますの」


「それって手に入ります?」と正則は勢い込んだ。


「ええ…たぶん、でも染物の材料など何に使われるのですか」


「ええちょっと親父殿に頼まれましてね、大至急欲しいのですが」


「わかりました、今から染め物屋さんに行って買い求めてまいります、でもあれって危ない薬だって染め物屋さんが言ってたけど…譲ってもらえるかしら」


「馬鹿だなぁ、そういうときにこそ親父の名を使うんだよ、それでも売らないなんて奴いるもんか、俺なんかいつもその手だよ」


「はいはいお兄様は悪い手をよくご存じですこと」


「なにおぉ」


「正則様、如何ほど譲っていただければよいのでしょう」


「そうですねぇ、濃度次第ですが取り敢えず二合ほどお願いしたい」


「承知いたしました、すぐに着替えて染め物屋まで行って参ります」

言うと志津江は嬉しさを隠しきれない様子でいそいそと部屋を後にした。


「ふん、あいつ兄いにはいい顔ばっかりしやがって、ねぇ兄い…あいつ兄いに惚れてますよ きっと、ここにくるときなんざ妙に浮き浮きした顔でね、もう見ていられませんやねぇ…って、兄い聞いてますか」


正則は庭の方を見つめ考えに没頭していた、そして気がついたように。

「正次郎殿、ちょっと私も金物屋に出かけてきます、申し訳ないが組立の方は進めておいて下さいな」


「いいけど、どうしちゃったんです、あんなに組立を楽しみにしていたくせにぃ」


「亜鉛の薄板が手に入るといいが…」


「って、また聞いてないし」



 正則は風呂敷を懐にすると門を出た、夏の日差しは容赦なく降り注ぎ前方の九段坂辺りに逃げ水が見えている。


九段下を過ぎた頃、前を志津江と女中 それと用心棒代わりなのか中間が少し後方に遅れて歩いているのが見えた。


「あっ、志津江殿だ」


一瞬心が騒いだ。

(どうしよう声を掛けようか…それともやり過ごすか)


躊躇し立ち止まったとき、前を歩く女中が不意に振り返り中間相手に一言二言喋りかけた、と後方に佇む正則に気がついた。


「浅尾様…」


女中の声に「えっ、浅尾様!」と志津江も立ち止まって振り返った。

お互いの目が合った、すると志津江は はにかむ仕草で駆けてきた。


「正則様もお買い物にいらっしゃるの」と満面の笑みを湛え、手を取らんばかりに近寄って来る。


「はい、金物屋に」


「金物屋の場所はお分かりになりますの」と手を取りたそうに歩き出す。


「ええ、もう何度も材料を買いに行きましたから、あっそうだ礬油の濃度を確認したいゆえ私も染め物屋さんに行きたいのですが、よろしいでしょうか」


「はい、正則様と…なら」と 消え入りたいような声で返す志津江。


二人のやりとりを聞いていた女中はツツゥと志津江から離れ、中間を押して後方へと下がる、それで自然に志津江と正則は寄り添う形になった。


(女中は気をつかってくれたのだろう…)


「志津江殿、供回り二人も連れての外出ですか」


「ええ、老女の沙和殿がうるさくて、でも黙って一人で出てくればよかった、そうしたら正則様と…」

志津江はその後は黙って俯いてしまった、色白の頬は桃色に染まり美しく零れていた。


(あぁ、なんて美しい人なんだろう)

正則は陽に照らされたその美しい横顔につい魅了されてしまう。


志津江はそれに気づきますます赤く染まっていった。


染め物屋についた正則は早々に陶瓶に入った礬油を小皿に注いでもらい色と匂いを嗅ぎ陶製の匙で掬っては上方より垂らし粘度を調べた。

(んん、不純物が多少は混じっているが…このとろみなら上物、これなら良い)


「番頭さん、これを1合ほど分けて下さらぬか」


「いえこれは売り物では御座いません、また1合なんぞでは値がつきませぬ」


「代価一朱ではいかがしょう、これで是非分けて下さい」


「御武家様、1朱だなんてとんでも御座いません、100文もあれば充分ですよ」


「では売っていただけるんですね」


「仕方ありませんなぁ、主人には内緒ですよ」


番頭は渋々といった顔で志津江の差し出す徳利に1合注いで100文を受け取った。


4人は通りに出た。

正則が「これから金物屋に向かいますので私はこれで」そう言うと、志津江が「私も参りますぅ」と言う。


すると女中が「お嬢様」と窘める、志津江はすかさず「いいの、あなたたちはここから帰りなさい」


「でも私どもが沙和様に叱られます、困ります」と往来で顔を曇らせる。


「帰ったら沙和殿に志津江は正則様の共連れですぐに戻りますからと伝えて下さい!」


そうまで言われたら女中や中間に返す言葉は無い。

「分かりました、でもすぐに戻って下さいましね」と二人は渋々帰って行った。


「正則様、二人だけですね」とまたもや俯いて言う志津江。

「そうですね」と返す正則。


二人はぎこちなく東に歩き出し、暫く歩いたところで不意に志津江が手を繋いできた。


それは切ないほど柔らかく、衣装に焚き込められた御香の微かな香りと相まって正則の心を蕩けさせるに充分過ぎるほどであった。


以前の浅草行きは供回りが3人も付いたが今日は初めての二人だけの道行き…志津江のわがままに付き合う形ではあるが、蝉時雨の中 正則の心は甘く揺れていた。



 金物屋は染め物屋からほんの三町ほどの所に有り、二人はその近さに少々がっかりしながら店へと入った。


まずは亜鉛を求めようと店の者に薄板は無いかと聞く、すると丁稚は奥に走り暫くすると番頭が出てきて「浅尾様いつも御贔屓に」と愛想顔。

「今度は亜鉛を御所望とか、一体何に使われるのです」と聞いてくる、正則はそれには曖昧に答えた。


「薄板を買われるお客様は殆ど御座いませんので…店には」と番頭は答える。

(やはりなぁ)と思いながら正則はどうしたものかと考える、この時代に亜鉛の代わりになるようなものはすぐには思いつかなかった。


すると番頭が「浅尾様、どれほど御入用ですかな」と聞いてきた。


「二寸幅で十尺、これが二枚ほど有れば良いのだが」


「そんな量なら小半時も待っていただければ裏で延べ板からすぐにお作り致しますよ」と言う。


「番頭さんいつも無理言って済みません、助かります」


「板の厚みはどれほどに致しましょう」


「そうですね…屋根葺き用の赤銅板ぐらいの厚みでお願いします、それと赤銅板も同じ大きさに切ったものを用意しておいて下さいな、それでは半時ほどしてから又来ますので宜しく」そう言って志津江と店を出た。


「志津江殿、さてさて半時も有りますがどうしましょう、御屋敷に御送りしましょうか」


「正則様のいじわる、まだ帰りたくありません、正則様と一緒にいたいの…」

と拗ねたそぶりで再び手を繋いできた。


「そうですか…しかし半時もの時間、どうやってつぶしましょう」

元世なら喫茶店に入って新聞でも読もうかというところだが、この時代では時間つぶしの方法など皆目見当が付かない。


「正則様、ここに来る途中に茶屋が有りましたが、そこで半時ほど休みましょうか」


「確か右側奥に看板がありましたね…でもあの店はお茶を飲むところでしょうか」


「志津江はまだ行ったことが有りませぬゆえ存じませぬ」


外観からしてあの店は出会茶屋にしか見えなかったが…時代劇で出会茶屋といったら男女の密会場所と相場が決まっている、元世風に言えばラブホテルといったところか。

(まさかこの娘…知ってて言ってるんじゃないよな)と下世話に考え苦笑した。


「志津江殿あそこはちょっと、それより少し先に行くと壕端に茶店がありますゆえそこで休憩しましょう」

正則は志津江の返答を聞かず歩き出した、すると志津江は怪訝な顔つきで付いてくる。


壕端に佇む茶店は赤縁御簾に黒塗柱の洒落た造りで、土間には檜の厚手一枚板の机と赤毛氈が敷いた六卓ほどの椅子が配置されていた。

この茶店は以前正次郎と鍛冶屋に行った折りに寄った店で今日で二回目となる。


壕面から涼しい風が吹いていた、二人は壕に面した端の一角に座り正則は熱い茶を、志津江は甘酒を注文した、そして運ばれる間 二人は互いに見つめたり川面を見たりで落ち着かない様子に時間は流れた。


周囲には他に客が3組ほど有り、大身旗本の姫とすぐに分かる高級和装の志津江と、武士なのか医者なのか分からぬ総髪の若者、供も連れずのどう見ても曰くありげな二人の様子は自然と客たちの興味の的となっていった。


二人は只でも落ちつかないのに客達の無遠慮な視線に晒され完全に舞い上がった。


「志津江殿、もう出ましょうか」


「はい…」

さすがに志津江もいたたまれず口を付けたばかりの甘酒を惜しそうに見つめて立ち上がった。


それから二人は手を繋いで街をあてどもなく歩き回った。

呉服屋・小間物屋・貸本屋など見るともなく覗き、少し会話してまた歩いた、そんなたわいもない道行きが今の二人には例えようのないほど嬉しかった。


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