四十三.南支那攻略の章1
8月19日、南支那攻略連合艦隊は東シナ海を南下していた。
位置は済州島南方200kmの位置にあり、明日中には上海沖に達する予定だ。
午後3時 艦隊上空を12機の大型航空機の編隊が通過した、肉眼では点にしか見えないが飛行機雲が東の空より延々と続きその存在を示していた。
爆撃機艦載空母「神鷹」の飛行甲板上で新沼正一郎少尉は飛行機雲を見ていた、東の空より続く数条の白い筋は西方彼方へと続いていた。
少尉は雲を見ながら子供の頃羽田で乗った飛行機のことを思い出していた、当時は少年が飛行機に乗ることなど夢の又夢であったが、当時父の主人であった三田中将閣下の長男と共に東京遊覧の小型飛行機に1時間ほど乗れる栄誉を賜ったのだ。
それは夢のような記憶である、閣下の長男は正一郎より4つ下であったが、流体力学のことは詳しく、なぜ飛行機は飛べるかを翼断面の絵を描き詳しく教えてくれた、それ以来正一郎は将来は飛行士になる夢を抱いた、そして陸軍大学を卒業すると、陸軍航空師団の一つである習志野の第3飛行師団へ入隊し訓練に明け暮れたのだった。
父は陸軍参謀総長の新沼親太郎中将である、この度の攻略戦を統帥する大本営の将であった。
正一郎が攻略戦に志願すると言った時、まだ早いと猛烈に反対されたがどうにか説き伏せこの航空母艦に乗り込んだのだ。
正一郎は機影が消えたのを見届けると航空母艦を挟む前後の艦列に魅入る。
それは霞の彼方に続く途方もない艦隊である、これに上海からの攻略部隊諸艦と兵2万が加わったなら想像を絶する大艦隊となろう。
しかし反面何故これほどの大艦隊を必要とするのか正一郎には納得がいかなかった。
情報に依れば香港・広東に駐屯する東インド・中国艦隊は兵3000に満たず、また3,000ton級の帆走戦列艦しか持たないと聞く。
それに対し10倍する兵と10倍する30,000ton級の戦艦で攻めるはもはや虐めそのもので日本の恥辱ではないかと感じた…。
この疑問に父は、この度の出撃はイギリスのみを対象にしておらぬと言った。
フランス・ロシア・アメリカ・オランダという西洋列強らもこの戦を固唾を呑んで見守っているはず、我が方が対イギリス戦で少しでも弱みを見せれば…彼らはハイエナの如く豹変し背中に襲いかかって来よう。
「獅子は相手が小動物であっても全力で襲うと言う、香港・広東のイギリス勢力が脆弱であっても手心なしに持てる全力でこれを襲う、これは兵法で言う敵に対する礼儀であり、この勢いは西洋列強への示威行動となるのだ」
東京を出る間際、父が言った言葉が思い出された。
正一郎は日本を出国するのは初めてで、艦上を流れる空気に未知の臭いを感じ、見たこともない南国の情景を想像した。
彼は飛行甲板上を歩き愛機の前に立った、その機体は銀色に輝き優雅なフォルムを湛えている。
この機体は元々艦上攻撃機として開発されたが、対帆走戦艦攻撃には戦闘ヘリが適することが分かり艦上爆撃機として編入された機体である。
その諸元は、
全幅14.40 m(主翼折り畳み時8.30 m)
全長11.49 m
自重3614 kg
正規全備重量5700 kg
発動機誉2型(離昇2,000馬力)
最高速度542.6 km/h(高度6,200 m)
航続性能(爆撃正規)1852km
武装(翼内)20mm機銃2挺・13mm旋回機銃1挺
爆装(胴体)500~800kg爆弾1発、または250kg爆弾2発 (翼下)30-60kg爆弾4発
この小型爆撃機での訓練はまだ半年であったが、正一郎にとってこの機体は自分の体の一部にも感じられるようになっていた。
正一郎は愛機の脚廻りを点検すると西の空を見た、夕暮れはもうすぐそこに迫っている。
8月20日午後4時、南支那攻略連合艦隊は崇明島南の浦に集結した。
その浦には既に上海攻略部隊が集結しており長江河口は日本艦隊で完全に埋め尽くされた感があった。
その浦から出来たばかりの崇明島空軍飛行場が目前に望めた。
飛行甲板上で新沼少尉はそれを見詰めていた、知らぬ間に南海の見知らぬ島に日本の近代的飛行場が出現したことへの驚きと共に、日本の底力を頼もしく感じたのだ。
夕日に数機の大型爆撃機が赤く染まっていた、翼長43.1m 全長30.2m 2,200馬力のエンジン4基を搭載したその勇姿は圧巻に映った。
爆撃機の航続距離は7トンの爆弾を搭載し6,600kmという、ここから香港までの直線距離は1250km…巡航速度350km/Hで約3時間半で到達する。
計画では5機の爆撃機に計35トンの高性能爆弾を搭載し、香港・広東のイギリス要衝周辺を無差別爆撃するという、この空爆は1日2回の出撃とし3日間に渡って繰り返すと聞くが…計210トン量の空爆で香港・広東の街は完全に消失すると正一郎は思った。
しかしこの空爆は最終の抑えであると言う、この度の攻略作戦の基本空爆は正一郎らの小型爆撃機での各個撃破で戦争を終結に導くが本筋であった。
正一郎も一般市民を巻き込む非人道的な無差別爆撃は正直反対である、しかし父が言っていた西洋列強が連合した場合は致し方なしとも考えていた。
翌朝、崇明島の浦で艦列を整えた南支那攻略連合艦隊35艦は香港に向け出撃していった。海路距離およそ1400km、台湾海峡を抜け香港までは3日間の船旅となろう。
(3日か…愛機であればたった2時間半というに…)
正一郎は溜息交じりに愛機を振り返った。
8月22日、連合艦隊は台湾海峡に入った 途中台風に遭遇したが沖縄付近で南に逸れたため艦隊の被害は皆無であった、それでも高波は一晩中吹き荒れ船酔いで多くの兵士が寝込んだと聞いた、船酔いの殆どは陸軍兵士であったらしい。
8月23日、前方にイギリス国籍の商船8隻が大きく帆をはらませ帆走する様が見られた、そこは福建省金門島と台湾澎湖諸島の幅およそ120km海峡であった。
帆船8隻は8月8日上海を放逐された英国民間会社の社員及び家族を乗せた商船であろう、その帆船が未だにこの海峡に漂っているとは…台風を避けて温州辺りの港に停泊していたのだろうか…。
その帆船等は船列を組むことなく めいめい勝手に帆走するためか横に大きく広がり連合艦隊の行く手を遮っていた。
帆走速度は艦隊速度の1/2以下のため、みるみるその間合いは詰まってくる、そして相手船に2kmと迫ったとき先頭艦陸奥は堪らず警告信号の汽笛を単発に10回鳴らした。
それでも帆走商船は行く手を空ける素振りを見せない、これはどう見ても故意の進路妨害だろう、艦隊司令長官から「かまわぬから追い越せ」の命令が発せられた。
艦隊は一斉に速度を25ノット(時速46km/H)に上げ、帆船が横振れせぬうちにその脇を高速ですり抜けようと図った、そして帆船間の隙間が比較的大きい間隙に狙いを定め、1列艦隊でその中央を突破する。
みるみるうちに帆船隙間は迫ってきた、その幅150m 戦艦陸奥がその隙間を何とか通り抜けた 次いで戦艦長門が通り抜ける、しかしこの戦艦の航跡渦は大きかった、長門が抜けた直後右手の帆船はその渦に巻かれ船首を大きく横に逸らす、それでも3番艦の扶桑は軽く接触しながらも何とか通り抜けた…。
しかし4番艦の伊勢は前艦扶桑の航跡渦で完全に横向きになった帆船が避けきれず帆船船尾に右側舷を接触しながら艦長215m間を擦り続け抜けきった。
これにより完全に後ろ向きになった帆船は船尾を失い帆を大きく戦艦の進路側に傾け5番艦の戦艦日向38,800トンに倒れかかってきたのだ。
これは避けようもなく帆船はミキサーに掛けられたが如く帆柱を粉砕され舷側を大きく削り取られていく、海上には不気味な破壊音が鳴り響いた。
そして破壊音が鳴り止んだ時、支えを失った帆船は崩れるように横倒しとなりそのまま転回して船底を露わにした。
6番艦以降の巡洋艦・揚陸艦は艦全幅が小さいためか接触は避けられた、しかし帆船から溢れるように海に投げ出された人影は通過渦に引き寄せられ1万トン級の巡洋艦・揚陸艦の船底へと次々に呑み込まれていく。
最後尾に位置する爆撃機艦載空母「神鷹」の飛行甲板上で正一郎はこの始終を見ていた、海面には多くの婦女子・子供も浮いている、これを無残にも放置し通過せねばならない。
胸が鋭く痛んだ…しかしこれよりは殺戮の意思を持って本戦に突入していくのだ、憐憫の情は暫しのあいだ胸の奥に仕舞わねばと正一郎は海面から目を逸らし前方を見た、香港は今や目前に迫っているのだ。
1856年8月23日未明、南支那攻略連合艦隊は広東の平海ピンハイ沖30kmを香港島に向け航行中であった。
香港まではおよそ100km、午前7時頃には香港島の沖に達することが出来ようか。
清国に於ける英仏の拠点、香港・マカオ・広東には4年前より陸幕課員数人が諜報のため潜入していていた、彼らの目的は清国に於ける英・仏・露・米・蘭 5ヶ国の動向とその兵力・拠点・兵装などの諜報を主任務とし、清国内に於ける西洋列強排斥運動の扇動や活動家への資金提供も行っていた。
過ぐる7月30日、広東諜報員より香港・広東の最新情報が陸軍幕僚監部に送られてきた。
その内容は日本軍による上海攻撃(上海事変)が4日の間に広東英国領事館へ伝えられたという報であった。
また同時に他の拠点である鎮江・漢口・九口・天津・営口・厦門、そしてイギリス本国へも上海より使者が走ったという情報である。
その日より香港・広東情報は1日数回の割で陸幕監に送られるようになり、中でも香港・マカオ・広東の軍事拠点及び砲塁・堡塁の新設・補強の進捗状況と兵装情報は攻める上での貴重な情報となり、大本営より佐世保で出撃を待つ南支那攻略連合艦隊にこれら情報は逐一知らされていた。
そして二日前の8月21日、南支那攻略連合艦隊が長江河口より香港へ向け出撃したのを見計らうように、長江上流の鎮江・漢口・九口に駐屯していた英国東インド中国艦隊が突如 長江河口の突破を図るべく一気に河を下ってきた。
艦隊は帆走戦列艦5・蒸気外輪フリゲート艦3・蒸気スクリューコルベット艦3・帆走スループ艦3の計14隻である。
10時20分、崇明島南端の警備隊よりこの一報が長興島西果園圩の砲陣守備隊と崇明島空軍基地へ知らされた。
すぐさま空軍基地より戦闘ヘリ10機が飛び立ち長江上流へ向かう、そして崇明島の北を長江河口に向かって下る英国艦隊12隻を発見したのだ。
戦闘ヘリは高度500で艦隊上空へと接近する、敵戦艦の甲板では戦闘ヘリに驚いたのか兵らが銃を抱え右往左往する姿が望めた。
戦闘ヘリ1番機に乗る崇明島空軍基地所属の吉田中尉は拡声器のマイクを手に取ると大声を発した。
「我々は日本帝国空軍である、貴艦等は速やかに停船し当方の指示に従え!」と流暢な英語で叫んだ
だが再三にわたり停船命令を繰り返すも敵艦は速度を落とすどころか逆に速度を上げ、銃を一斉に撃ちかけてきた。
吉田中尉はその状況を基地に報告し命令を待つ、暫くすると基地から
「マストを破壊し強引にも艦を停船させよ、もしそれでも遁走する艦有れば長興島西果園圩からこれを砲撃し沈める、よいか東シナ海へは絶対逃がすな!」
命令を受け戦闘ヘリ10機は高度500mから一気200mまで下降する、そして戦艦1艦に付き戦闘ヘリ1機が対峙する陣形でホバリングを開始した、吉田中尉は再びマイクを採ると最後通告の「停船せよ、さもなくば攻撃する!」と拡声器より流した。
その状態で5分待つ、ヘリは戦艦に速度を合わせるように横滑りを続ける、ヘリ底部の20mm高速機関砲が前方敵艦のマスト付け根付近に照準が合わせられていく。
5分が経過した、吉田中尉は各機へ「マストのみを狙い攻撃せよ!」とヘッドホンを震わせた。
大空に雀蜂の羽音が如くブーンという振動音が鳴り響いた、発射された高速弾は榴弾頭である、前方10艦のマスト付け根付近は轟音を発しながら木屑と化していく。
マストとセイルは一体何トンあろうか…巨大なマストが不気味な軋み音をたて倒れていく、そしてセイルヤードが川面に水飛沫を上げ突っ込むと同時に戦艦も大きく傾斜し川底に引きずられるように停止した。
しかし蒸気航行するフリゲート艦とコルベット艦は最初からセイルを下ろしていたのが幸いしたのか、マストを倒され僅かに傾きながらも航行を続けていた。
この攻撃で帆走艦8隻は大きく傾斜し航行不能状態に陥った、いずれにしろ大量に搭載する敵砲は使用不能に陥ったはず。
眼下に蒸気艦6艦が河口に向かって必死で遁走を続けている、吉田中尉は全機に有りったけの弾を叩き込めと命じた、各戦闘ヘリは一斉に河面近くまで降下すると敵艦の側舷に向け集中砲火を浴びせる、その攻撃は数秒で残弾全て撃ち尽くし鳴り止んだ。
この攻撃で蒸気艦4鑑は側舷を大きく破壊され蒸気機関に損傷を受けたのか暫く走って止まった、残り4艦は側舷に大穴をあけながらもそのまま走り続ける。
ここで全機に撤退命令が下された、長興島からの砲撃の巻き添えを憂慮しての撤退である、敵艦隊位置から長興島西果園圩の砲塁まで直線距離およそ4km、砲塁から敵4艦は露わに見えているはず、ならば高性能155mm榴弾砲にとっては百発百中の距離と言えよう。
戦闘ヘリは高速で艦隊より離れていく、1番機に乗る吉田中尉は忌々(いまいま)しそうな顔で獲り逃がした4艦を睨み付けていた、その時4艦ほぼ同時に火柱が立ち上がった、砲塁から射撃された焼夷榴弾が敵艦4隻に直撃したのだ。
その爆発は、赤黒い炎をヘリの高度まで噴き上げると膨大な木片を飛び散らした…吉田中尉はその恐るべき破壊力を目の当たりにし戦慄したのだった。




