四十二.世界秩序形成への想い
佐世保軍港に戦艦陸奥・日向の2艦が回航してきたのは昨夜である。
その他、巡洋艦・揚陸艦・輸送艦が横浜・名古屋・福井・大阪・広島・山口・大分より続々と集結し1夜で佐世保軍港は艦船で埋め尽くされた。
その中でも一際目立つ最新鋭の艦船が人目を引いた。
11,000ton級ドック型揚陸艦「秋月」「久留米」「小倉」「中津」の4艦だ。
これらの艦は呉の海軍工廠で製造され先月就役したばかりの新造艦であった。
この揚陸艦の設計は正則の構想に基づき開発された艦で、敵の攻撃に備える装甲の厚みは200mmという戦艦並の厚さに仕上げられ、また大型揚陸艇4基を収納すると共に乗員は士官18名・兵員330名を収容、兵装も7.6cm連装砲6基と高性能20mm機関砲8基を搭載した最新鋭ドック型揚陸艦だ。
この揚陸艦と対を成すエア・クッション型揚陸艇も同時に開発は進められた。
揚陸艦と揚陸艇の起工は4年前の1852年4月で、製造は深川海軍工廠と呉海軍工廠の2拠点で同時平行して進められた。
中でもエア・クッション型揚陸艇の設計は空軍工廠の技術者も多く参加し共同で行われた艇で、全長26.4m×全幅14.3m 動力はガスタービン4基12,280bhpのホバークラフト式揚陸艇で積載荷重は60ton・速度65km/Hを誇り、兵はもとより戦闘車・自走砲・貨物輸送などを海上から直接浜辺奥 敵陣近くまで高速輸送出来る優れものだ。
そして今、佐世保海軍基地ではこのドック型揚陸艦4艦に続々とエア・クッション型揚陸艇が収納されつつあった。
1856年8月1日、大本営より香港・広東攻略の命令が下った、これは上海攻略の成功を受けた何と6日後である。
本来 香港・広東攻略は台風シーズンが明けた10月の終わりを予定していた、しかし上海圧勝のラジオ報道が流れるや国民は驚喜し各地で提灯行列が催されたほどである、そしてアジアからイギリスを一掃せよの声は1日とおかず巷に溢れ、二日目には議事堂前に数万の反イギリスのプラカードを掲げた民衆が押し寄せた。
政府はそれに応えるべく、台風シーズン前に香港・広東を攻略すると国民に約束したのだ。
佐世保海軍基地は出撃を前に怒号が飛び交っていた、8月1日に命令が下り8月18に出撃である、この出撃準備は以前より水面下で進められてはいたが、各責任者らは10月予定と高をくくっていた事は否めまい。
猶予2週間と聞くに基地内は大騒ぎとなった、15,000の兵と兵器・物資を佐世保に集中させるには余りにも時間が不足していた、それでも担当官らは昼夜を分かたず怒号の中でこれらを的確に処理していった。
8月12日、本作戦の連合艦隊司令長官 宮本徳治郎海軍中将が佐世保海軍基地に着任した。基地内にはピーンと張りつめた空気が流れ、また本州各地の師団から続々と将兵が集まってきた。
この香港・広東攻略部隊は海軍・陸軍・空軍の混成から連合軍と呼ばれ、「南支那攻略連合艦隊」と命名された。
兵力は海軍 6,200、陸軍 6,800、空軍 2,000、これに上海攻略部隊の20,000が上海で加わり総勢35,000という大連合部隊となった。
攻略艦隊は旗艦を戦艦陸奥とし、戦艦長門・扶桑・伊勢・日向の3万トン級戦艦5艦、巡洋艦は1万トン級の筑波・生駒・鞍馬・伊吹の4艦、揚陸艦は新造艦の秋月・久留米・小倉・中津の4艦と旧式艦4艦、航空母艦はヘリ艦載空母の鷹盛・海鷹、爆撃機艦載空母の神鷹・雲龍の計4艦、その他一等輸送艦3・病院船1・給兵艦4・給糧艦3・給油艦3と、大小・新旧含め日本中からかき集められた艦船その数35艦という日本史上初めての大機動部隊である。
そして1856年8月18日早朝、佐世保海軍基地より「南支那攻略連合艦隊」は第一次上海攻略部隊と合流すべく一路上海を目指し出撃していった。
また遅れること1日 羽田空軍基地・大阪空軍基地・福岡空軍基地より大型爆撃機7機、大型輸送機5機が上海崇明島に新設された空軍飛行場を目指し飛び立っていった。
正則は九段下の陸軍省参謀本部、大本営部で陸軍参謀総長の新沼親太郎中将と海軍軍令部総長の安原清一郎少将、そして海軍大臣井上左太夫と空軍大臣の江川英龍ら軍首脳4人と香港攻略作戦の会議を行っていた。
数日前より各部署の作戦指揮官ら30人余りと延々と続けられてきた会議は昨日でほぼ纏まり、今日は5人だけが集まり懈怠感の中 机の上に山のように積まれた作戦書類に目を通していた。
その時、左太夫が思い出したように現世の秘密資料である「19世紀清国の外交状況」と銘打たれた小冊子を机の上にそっと置いた。
攻略方法を練る上で19世紀後半のイギリスと清国の外交問題を熟知しておいたほうが抜かりがないであろうと左太夫なりに考えて持ち出したのだろう。
この小冊子は正則がこの時代に落ちた際、携えていたノートパソコンに収納されていた歴史ファイルをプリントしたもので、正則派のそれもごく少数の者しか知らない極秘書類である。
幸いここにいる4人は、正則が未来からやってきたこと、そしてこの書類の存在も知っていた。
正則は一瞬顔を曇らせると
「左太夫よ、お主は一体何冊この手の秘密資料を持っておるのだ、まさか複写などしてはおるまいのぅ」
「はっ、閣下これ以外数冊ござりますが…複写などはとんでも御座らぬ、ほれこの様に管理版の割り印が押してあるし、頑丈な金庫にしまってあるゆえ抜かりは御座りませぬ」
「小池が管理しとると言うから儂は安心しとったが…こんな物が外に漏れてみよ、えらいことになるぞ、いいか焼却するか至急小池に預けよ!」
「わ…分かり申した…」
「それでお主 これを熟読したであろう、だったら近々の清国とイギリスの関係情報を皆の前で申し述べてみよ」
「はっ、熟読には至りませぬが…」そう断ると左太夫は小冊子を横目で見て記憶を辿るような顔つきで語り始めた。
イギリスは阿片戦争終結後、1842年の南京条約調印以降において 本条約についての双方の誤解や同年12月に発生した大規模な広州英国商館焼き打ち事件などを契機に、広州住民のイギリス人排斥運動を解決すべく条約改正を清朝に求めていた。
また、南京条約で自由貿易権を獲得したもののイギリスは未だ貿易不振にあり決して満足してはいなかった。
そこでイギリスは画策する、もう一度アヘン戦争の如く清朝を恐怖に陥れる…さすればもっと市場も拡大し、且つイギリス人排斥運動も封じ込めることが出来ようかと…。
そして、イギリスが描いた思惑通り今年の10月8日 あと二ヶ月ほど先になり申すが、アロー号事件がおこった。
アロー号は中国人所有のローチャ(西洋式船体に中国式帆装を施した)船で、船籍は英香港政庁とされ船員14名は中国人であったが船長はイギリス人であった。
このアロー号が港に停泊中、突如 清国官憲の臨検を受け中国人船員14名中12名が海賊容疑で連行されるという事件がおこった。
この事件をめぐりイギリスの広東領事パークスは、本国政府の対清強硬論に影響されていた事も手伝い、清朝に対し強く抗議し「アロー号はイギリス船であり清国官憲による逮捕は不法、当時イギリス国旗を掲げていたのに清国官憲はこれを引きずりおろした」と主張し、逮捕された船員の引渡しと国旗の侮辱に対する謝罪を清朝に要求した。
これに対して清朝は「アロー号は清国人所有の船舶であるから逮捕は正当、当時国旗は掲げられていなかった」と反論した。
事実として、アロー号の英香港政庁への船籍登録期限はすでに過ぎており清国側の船舶であったのだが…パークスはあくまでイギリス側の要求の全面的受諾を清朝に迫って譲らずついに交渉を決裂させた。
そしてこの事件を奇貨としてイギリスは常套手段である武力外交に転じて行く。
またフランスも同年、フランス人宣教師が広西で殺害されたのを口実に、イギリスの呼びかけに応じ清国へ遠征軍を派遣、1857年イギリス・フランス連合軍は広州を占領し翌年南京条約改正を要求して天津を攻めた。
その当時清国は太平天国(広東省花県出身の洪秀全が創始した拝上帝教という武装宗教団体)が長江下流域を占拠しており、清政府は文字通りの「内憂外患」を前にして、1858年遂に抗しきれずイギリス・フランスと天津条約を結ぶ。
しかしその翌年、清が突如条約の批准を拒否したことから1860年英仏連合軍はさらに北上し北京を占領、そして英仏の目的である北京条約を結ぶに至った。
この条約は、イギリス公使の北京在住、イギリス人の清国内地旅行の特権、天津・漢口など11港の開港、九竜半島南端部の割譲、キリスト教布教の自由、賠償金の支払いなどを認める条約であった。
この条約でアヘンの輸入は公認され、アヘンのほか安価で良質の外国商品が大量に流れ込み、中国の社会と産業はますます深刻な打撃を受けていくことになる。
アロー号事件から北京条約にいたるアロー戦争が、第二次アヘン戦争ともいわれるゆえんであろう…。
「閣下が急遽予定を変更し香港・広東攻略を早められた要因はこのアロー号事件の前に香港・広東を攻略したいと考えられたからでは御座りませぬか」とここで話しを切り、左太夫はしたり顔で正則を見た。
「そうじゃ、事件後ではフランスが出てきおって面倒になるでのぅ、しかし左太夫の弁を聞いて皆の衆どう思う、イギリスを含め西洋列強のやり口は実に巧妙だと思わぬか…恥も外聞も無い博徒やヤクザの因縁付けとなんら変わらぬといったところよのぅ。
この点は日本も少し学ばねば…武士道もいいがこうも資源や外貨に窮すれば「武士は食わねど高楊枝」を気取るわけにもいかんじゃろぅ、これから先…イギリスなみに多少汚いやり口じゃが東南アジアより列強を追い出し代わって彼の地を日本が統治する、まっ、統治と言えば聞こえは良いが植民地化じゃな。
特に清国・朝鮮よりは徹底的に収奪する、彼の国には悪いが日本が西洋列強に打ち勝ち、日本を中枢とする世界秩序形成がなった暁…ゆるりとお返しすればええじゃろぅ。
それと第二次アヘン戦争の話しが出たついでと言ってはなんじゃが、1839年9月イギリスの武力行使に始まった第一次アヘン戦争の事は皆はよう熟知して御座ろう、その戦争で勝ち取ったものが如何に大きかったか…このイギリスのやり口は今後の日本外交の参考にもなるよってのぅ、話しはちと長うなるがまずは聞いて下され」
言うと正則は冷めた茶を一気に啜り、瞑目するように語り出した。
小さな島国イギリスにとって広大なる清国はどれほど魅力的に映っただろう。
イギリス人が香港に姿を見せ始めたはポルトガル人に遅れること100年あまり後の17世紀頃という。
当時清朝ではヨーロッパ諸国との間に貿易管理体制である「広東体制」が布かれておった。
この体制は……………………………中略…………………………………イギリスは清朝の国力・軍事力の脆弱さを知ることになる、そして1800年代になると煩わしい広東システムまた保商制度、そして広東1港に限られる貿易拡大の阻害などを一挙に解消する方法論を考察していくことになる。
戦争を仕掛け その国を植民地化していく手法、インドにおけるマイソール戦争・マラーター戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した方策の二番煎じを清国に対し仕掛けていく。
要は仕掛けるきっかけであろう、特にイギリス民間人が清国人の手で生命の危険に晒される事件・事変などは最も有効といえよう。
これに見事に嵌ったのが阿片取り締まりの一連の清朝側の対応だ。
清朝は九竜半島でのイギリス船員による現地民殺害を口実に1839年8月15日にマカオを武力封鎖し、市内の食料を断ち さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ。
この話は何処まで信憑性がある話か判らんがイギリスはこれを奇貨として1839年9月4日、九竜沖砲撃に始まり 11月3日に川鼻海戦に及んで清国船団を壊滅、阿片戦争へと突入していった。
そして清国はこの戦いで破滅的なる打撃受け、道光帝ら北京政府の戦意は完全に喪失、ここに第一次阿片戦の終結を見た。
1842年8月29日、南京近くの長江上に停泊したイギリス海軍の艦上で阿片戦争終結の「南京条約」の締結が行われ、条約の内容は…。
1.香港島割譲
2.賠償金2100万$を四年分割で支払う
3.広州、福州、廈門、寧波、上海の5港を開港
4.公行の廃止による貿易完全自由化
その後、南京条約の附属協定として「五口通商章程」と「虎門寨追加条約」が締結され領事裁判権(治外法権)片務的最恵国待遇・協定関税(関税自主権喪失・不平等条約)等がイギリスの武威背景を以て実現する。
この条約により、それまで強い制限下でヨーロッパとの交易を広州1港で行っていた体制「広東システム」は崩壊することになる。
「以上の如く、この第一次阿片戦争によりイギリスが得た権益は莫大なもので、描いたシナリオが見事に嵌ったモデルケースと言えよう。
時代も変わり、世界も彼の時代から大きく様変わりをした今日、この手をそのまま西洋に試行するのは難しかろうが参考程度にはなる。
アジアは向こう三年もあれば全て日本の統治下に置けると儂は確信しておる、儂は若い頃…このアジアより西洋列強を放逐した暁にはアジア共栄圏を成し西洋に劣らぬ文明を開化させ、民族の独立と尊重をもってアジアに安定と幸福をもたらす…そんな想いをもってこの時代に落ちたと思っておった。
しかし今では…西洋列強は一旦追い出されたとしても垂涎のアジアを決して諦める事はないだろうし、あと10年もすれば銃火器は日本の水準に追いつき、火薬も高性能化が進むだろう、特に戦艦などは鋼鉄装甲戦艦が続々と登場してくるはず。
そうなれば我が一国で西洋列強を相手に再び駆逐するは困難というもの、ならばアジアより彼らを一掃し その余勢を駆ってそのまま彼等を追いつめ彼の本国をも駆逐する、それも徹底的にのぅ、次いでヨーロッパ全域そしてアメリカの統治を断行していく。
儂が異常なまでに徴兵制を叫ぶはこの時の為なのじゃ、世界統治を完成するにはアジアに70万、ヨーロッパに150万、アメリカに50万の兵を駐屯せしめるは必須であろう、そして統治した彼の地に民間入植者を数百万単位で入植していく、それが日本をして世界の中枢を成すと言う事だ。
日本が世界の中枢を成し、世界秩序を構築する…その後各民族の独立と自由はその国の裁量に任せざるを得ない、さすればまた戦争が起こるやもしれぬ、しかしそれは次代の若者等の問題であろうよ。
儂等は唯物史観を超越し急速に社会を発展させた、この付けは若者等にどう跳ね返るかは分からぬ、儂等はその頃もうこの世にはおらんでのぅ。
我々が次代に残してやれる確かなものは、世界の覇者たるナショナリズムと世界連邦構想の礎よ、昔は内戦に明け暮れ、それが今では国どうしの争いとなり…やがて淘汰され世界は一つとなろう、それが自然淘汰の法則であろう。
儂がこの時代に落ちたはその到来を三百年ほども縮める、そんな使命をもって落ちたと今は思うようにしておるのよ」
正則は語り終え、手に持った湯飲みが空なのに気付き机にそっと返した。そして顔を上げ4人を見ていく、皆一様に瞑目し言葉を返す者はいなかった。




