四十一.上海駐、英国支配の終焉
爆煙が薄れると川面には夥しい数の日本陸軍兵士の死体が散乱し、その周辺の水は真っ赤に染まっていた、これにより噂通り日本艦船は薄肉ハリボテ構造と分かったことに俄然勢いを得、イギリス側は残ったもう1艦の強襲揚陸艦に向け狂った様に集中砲火を浴びせた。これを傍観せざるを得ない巡洋艦からは艦砲発射の許可願いが狂ったように旗艦へと発せられた、しかし藤川少将はこれを言下に却下した。
英国領事館の右側にはフランス領事館が並び、その左奥にはアメリカ領事館がひかえていた、ここで艦砲すれば確実に後方のアメリカ領事館は粉砕され、強固な砲塁を破壊する榴弾であればフランス領事館さえも被害が及ぶは必定、藤川少将は攻撃ヘリ来着を待たずに突出した己の奢りを悔い頭を抱えた。
その時 東北の空に爆撃ヘリ5機、小型戦闘ヘリ20機、兵員輸送ヘリ5機が襲来した、崇明島からの掩護飛来であったが遅きに失した。
ヘリの編隊は戦艦の頭上を猛烈なる速度で飛び越えると敵橋頭堡上空でピタリと止まりホバリングを始める。
驚いたのは砲塁・堡塁に潜むイギリス兵だ、見たことも無い蜻蛉状の異様な飛翔体に目を剥き、重厚なる金属体が何と空中に静止している…これだけでも恐怖の極みだろう。
敵の攻撃が一瞬止まった、それを見た残る強襲揚陸艦は傾きながらも急ぎ敵陣前を通過していく。
その時、戦闘ヘリは密集した上空より一斉に下降し機首をそれぞれの堡塁・砲塁に向けた刹那、蜂の羽音の様な重低音が上空に鳴り響いた。
戦闘ヘリ底部に搭載された砲重量およそ300kgの20mm機関砲が火を噴いたのだ。
撃ち出される弾は榴弾・焼夷榴弾・徹甲焼夷弾・焼夷榴弾と多彩である。
この機関砲は3年前より戦闘機の高速化に伴い従来の機関砲では発射速度が低いとの要求から空軍工廠が製造した新式砲であった。
当初 正則が基本設計に当たり、米国ゼネラル・エレクトリック社のM61バルカンを模して設計製造された砲で、発射速度は毎分4,000発 / 6,000発の切替式とし、最大毎分7,000発、試験的に行った記録では11,000発とほぼM61バルカンと同性能を叩き出した、しかし砲身寿命には問題が残った。
この高速発射による摩耗・発熱による砲身寿命はおよそ10,000-13,000発、システム全体の寿命は100,000発程度と余りにも低く、特殊鋼が貴重なこの時代にはそぐわず、これにより砲身数・システムはそのままに発射速度を毎分2,000発と半減させ砲身寿命の延命を計った。
この戦闘ヘリ搭載の高速砲から繰り出される集中砲火は敵陣地に絶大なる損害を与えていく、それは兵への損傷のみならず敵の砲・銃のことごとくを破壊し尽くしていく。
また爆撃ヘリからは小型50キロ爆弾が次々と投下され、戦闘ヘリで使用不能に陥った堡塁や兵器を完膚なきまでに粉砕していった。
この予期せぬ上空からの攻撃は要塞の如く強固な遮蔽堡塁であっても全く用をなさず、次々に内側より破壊され、これに狼狽したイギリス兵は堡塁より一目散に飛び出し狂ったように逃げ惑う、この逃げ惑う人塊に対し低空より戦闘ヘリ20機の12mm機銃が一斉に吼えた。
この援護に活路を得た戦車揚陸艦2隻と強襲揚陸艦は機関砲を撃ちまくりながら外灘へ殺到、英国駐 上海総領事館前を過ぎた河岸に着岸するや続々と艦の懐から戦闘車・自走砲を吐き出していく、また傾きながらも生き残った強襲揚陸艦からは怒り狂った400の兵が飛び出して行った。
敵の反攻が弱まったのを境にタンデムローター型兵員輸送ヘリは空き地を目指し次々と着陸、ヘリ1機よりおよそ30の海兵隊員が吐き出され英国駐 上海総領事館に向け殺到していく、そして戦闘ヘリは堡塁より逃げ出し市街へと遁走するイギリス兵を求め各方面へと追尾を開始、それら各個撃破に向けて飛翔して行った。
大本営にはリアルタイムに旗艦長門から戦況報告がなされていた。
正則は揚陸艦1隻が撃破された報告を聞き項垂れた、撃破された強襲揚陸艦には上陸を控えたおよそ400の陸軍兵士が乗船しており、その揚陸艦の艦長は光右衛門の甥と知れたのだ。
英国の旧式砲が如きに破壊された揚陸艦は河川用に兵の強襲揚陸専用として商船を改造した艦であった、確かにこの度の戦に間に合わせるべく改修された脆弱艦であったことは否めない、そんな薄鉄板の張りぼて艦に兵を乗せ、敵陣中央突破という無謀なる作戦は大本営作戦局の敵を余りにも侮った奢りと言えようか。
正則は喧騒に満ちた大本営を飛び出し、部下一人を伴い深川の海軍工廠へと専用車で向かった。
九段下から大手町 日本橋へと抜けていく、街は20年前とは大きく様変わりし…まるで昭和30年代の東京に戻ったような感覚にとらわれた。
永代橋を過ぎると右手前方に果てしなく続く陸軍工廠・海軍工廠・空軍工廠が霞に掛かって望めた。
正則はこれら工廠群を見ながら自問した、これまで航空機・戦闘車・砲・戦艦・航空母艦など華やかな軍中枢の兵器ばかりに気を取られ…華の薄い揚陸艦如きには殆ど人任せにしていた…。
しかしこの度の惨状を聞くに及び、もう人任せには出来ないと心に決めた、こうして急遽 工廠に訪れようと思ったのもその現れであろう。
現在、深川・横浜・呉・名古屋・佐世保の海軍工廠では将来直面する西洋列強との全面戦争を想定し、兵器の開発・増艦に拍車が掛かっていた。
また陸軍工廠・空軍工廠も同様に国家総動員法が制定された以降、その戦時体勢から工廠員は3倍に増員され昼夜を問わず 兵器や弾薬のフル生産に突入していたのだ。
正則はふと腕を預けている肘掛けを見た、そして思い出したように肘掛けの皮蓋を開けた。
中には護身用の拳銃が入っている、その拳銃を取り出し手の平に載せた、昔始めて造った自動拳銃である、今見れば機構は単純拙劣に過ぎる…しかし当時の工作技術ではこれが精一杯だった。
そして思う、この度の上海攻略部隊の黄浦江遡上…河幅800mの敵最前線の河を真昼に遡上するなど20世紀の戦では考えられぬ無謀な作戦である、それが揚陸艦1隻の犠牲で成功したは敵の持つ兵器が余りにも拙劣だったからだろう。
あと数年で強力な元込ライフル砲や榴弾砲がヨーロッパ諸国でも生産される、もし今イギリスがこれら新式砲を有していたならけして艦隊を敵最前線真っ只中の河を遡上させるなどという馬鹿げた作戦は採らぬだろう…。
今回の勝利は戦術ではなく単に武器の差なのだ、このことを攻略部隊の幾人が理解していよう…やはり淘汰する時間は絶対であろうと正則は感じた。
人が必要と感じ生み出した道具、その進歩は幾世代にわたって改良されていくものである、しかしその進歩の最終形がもし天から降ってきたなら…。
正則はブルっと震えた、まさに自分自身であろうと。
知らぬ間に右の車窓に海が広がっていた…海…確かにあの時も海を見ていた。
昔榴弾砲を上様に上覧する日 何気なく海を見た、そして今と同様の恐怖に駆られた記憶が蘇る。
あの頃は若く己の異常性に簡単に蓋が出来た、しかし今は簡単では無い…そう思いながらも自然と手が動いて車窓のカーテンを閉め海を遮った。
(俺はどうして歴史をいじってしまったのか…ただ単純に技術三昧の日々を送りたかっただけなのに…)
だがもう後には退けぬ…敵が榴弾砲を造るならミサイルを、敵がミサイルを造るなら大陸間弾道弾を…そして行き着く先は核…。
昔、父が口にした「報復」という言葉…正則の脳裏に父の呟きが蘇る。
「あの卑怯極まりないアメリカとロシア、彼奴らの蛮行だけは絶対に許せぬ…」
父は関東軍で衛生曹長であったが1944年に胸を患い帰還した、それから一年後日本は敗戦となり、父の戦友の殆どはシベリアに抑留されたという、正則はこの年に生まれ、以降事あるごとに父から戦争中の出来事を聞かされた。
戦争発端の日本の正当性やアメリカの協定無視の無差別爆撃、ロシアの条約無視の突如の南下、朝鮮引揚げ者への朝鮮人・ロシア人が行ったおぞましい行為など、当時学校の先生が話す日本軍の横暴や米国の正当性など父が話す内容と真逆な内容も多かったが正則は父の言葉の方を信じた。
子供心にそれら聞かされる蛮行の数々は心の奥に澱ように溜まり、いつしか意識下に「報復」の想いが刻まれていったのか…。
(父が涙して語った報復という言葉、俺が父に代わり為しえようとしているのか…)
正則は海軍工廠の大きな門をくぐった、元帥陸軍大臣である正則の突発的訪問は工廠中を震撼させた、上海戦で工廠が造った艦に問題が生じたのかと工廠長以下駐在士官や技術陣は玄関に並び震えあがった。
この神妙に並ぶ列を見て正則は訝しむ「お前達は何を神妙面で並んでおるのだ、儂の迎えなどはよい、さぁ仕事をせぬか!」
列から工廠長が飛び出し「元帥閣下…何か上海で問題でも…」と震えを帯びた声で聞いてきた。
「なあに、お前達が改造した強襲揚陸艦じゃが…情けなくも32ポンド鉄球弾如きで粉砕したのよ…」
「えっ、あの艦が…」
「済んでしまったことは仕方が無い…しかし400もの尊い陸軍兵士を一瞬に死なせてしもうたわ。
責任は元帥である我に有り、故にお前達には責任は問わぬ。
だがあの艦を造ったはお前達である、今後の研究開発のため あの艦を改造した詳しい経緯を聞きたいのじゃ、今よりあの艦に関係した設計責任者・製造責任者全員を集めよ、これより会議を行う。
なお会議が終わり次第 現在製造中のドック型揚陸艦と最新のエア・クッション型揚陸艇もじっくり見させてもらうでのぅ、その関係者も集めておくように、会議場はたしか2階じゃったな」言うと正則は玄関横から2階に繋がる階段を駆け上がっていった。
残された工廠の者等は戦々恐々に震え上がり、蜘蛛の子を散らすように散開していった。
上海への門戸 黄浦江河口を突破してから2日後、上海市街は日本軍の完全支配地域となった。そして崇明島・横沙島・長興島に待機していた2万余の本軍が続々と上陸し上海に戒厳令を敷いたのだ。
英国駐 上海総領事館は無傷のまま日本軍の手に落ち、その2階の会議場では総領事のチャールズ・グレインと東インド・中国艦隊上海司令官アラン・マクレガー准将が上海攻略機動部隊司令官の藤川少将と対峙していた。
今日で3回目の日英交渉となるが藤川少将は正直あきれ果てていた。
彼らは商船爆破は事故であり、責任が有ると言うならば それは総領事と中国艦隊司令官の個人に有り、本国は全く与り知らぬ事であるの一点張りなのだ。
今般の個人的問題を戦争にまで拡大するは日本の野望この上ない暴挙であり、国際法に照らし今回の破壊的損害を償って頂きたいと開き直り、後は知らぬ顔で通している。
藤川少将は武官である、戦後処理の微妙な駆け引きなど専門外で日本から来るはずの高等弁務官の遅れに苛立ちは隠せなかった。
藤川誠之進は幕府 貧乏御家人の3男に生まれ、極貧の中 勉学に勤しみ 正則が上野に創設した幕府技術大学校で助教まで上り詰めた技術者だった。
途中、維新の軍政発動と同時に海軍に転身しその力量を徐々に顕し、昨年海軍少将に上り、この度の第一次上海攻略機動部隊の司令官に抜擢された切れ者だ。
よってこの度の交渉は戦術論と同様であろうと臨んだが…この3日で別物と知れた。
「日本はこの大陸との国交及び貿易は千年以上も前より行っていたこと、これに対し貴国はこの大陸を己が領土の如く日本船を領土侵犯と決めつけ民間商船を砲撃撃沈する蛮行を犯した。
この行為に日本は外務省高官を派遣し問題を提訴、遺族への賠償・商船損害賠償、また罪を犯せし艦長及び艦船の日本側引き渡し要求を嘲笑うが如く完全拒否。
日本は政府高官を派遣し貴国は英国駐 上海総領事がこれに対応した、ここにどうして個人の責任などと言う戯言が介在するのだ。
日本は宣戦布告の公文章まで提示し貴国に反省を促したはず、それに対し何の返答も返さず今日に至った、それを貴殿は先程来よりこの度の責任は総領事個人の責任であると繰り返し言っておるが…貴様は英国を代表する上海総領事であろう!この期に及んで個人の責任など我が国が問うわけ無かろうが!たわけ!」
藤川少将は言いながら次第に激昂してきた、総領事の顔には白人がこの世で唯一最上の人間という奢りに満ちていたからだ、負けてもなお東洋人を侮蔑する薄笑いと物言いに我慢が出来なかった。
「もうよい!、これ以上 貴様らの詭弁など聞きたくもないわ、問答無用というものよ。
これより上海に於ける貴国の個人・国に関わらず全ての資産・財産は没収する!。
また東インド・中国艦隊所有の全ての艦船と武器は破壊する。
そしてよく聞け!お前等文官及び軍人等には3カ年の労役を課す、破壊された上海の文化遺産の修復でもしておれ、そしてお前らの管理は清国人に任せる…せいぜい他国を土足で踏みにじり殺戮の限りを尽くした報いを受けるがいい!」
言うと藤川少将は椅子を蹴り倒し会議場を後にした、以降は二度と総領事らには会うことはなかった。
翌日、黄浦江に残された4隻の東インド中国艦隊所有の艦船はことごとく数珠繋ぎに曳航され、東シナ海の沖で日本艦隊の訓練砲撃に的となった。
その後、外灘の北方1km先に俘虜収容所が急造されイギリス文官・軍人等およそ2000名が収容され、英国民間会社の社員及び家族は8月8日、商船8隻に強制分乗させ上海より放逐したのである。
彼らが出発する朝、日本軍はこれより香港・シンガポールを攻略する、よって怪我をしたくなければ真っ直ぐ本国に帰れと諭した。
こうして上海から英国勢力は一掃された、そのころ崇明島に敷設されつつあった2500m級の滑走路はローラー引きの工程が終わったところである。
コンクリート敷設はまだ先であるが離着陸は可能であった、これにより外務省高官及び高等弁務官が大挙して日本より到着するだろう。
藤川少将はようやく面倒な役目から解放され、次の香港攻略準備に全力を尽くしていった。
そして8月20日、日本から香港・広州・シンガポール攻略の連合艦隊が大挙して上海沖へと到着し、これに合流するため第一次上海攻略部隊は将兵数千を上海警備大隊として残し、旗艦長門を先頭に上海を発ったのだった。




