三十九.長江陳家鎮の堡塁
ジョージ・ウィリアム大佐は艦上に飛び出し船の尾部へと走った、あれから10分も経っていないが敵艦を相当引き離しているはず…と思いつつ後方の視界を遮るミズンマストの横をすり抜けた。
途端に後方視界が一気に開けた。
そのとき「おおおっ」と思わず悲鳴が喉を突いて出た、それは天を突く巨大戦艦群が左右後方300ヤード間近に迫っていたのだ、それらは黒々とおどろに輝き、恐るべき速度で迫っていた。
さらに驚くはその先頭艦に聳える巨大砲門がゆっくりとこちらに転回し始めたことだ。
大佐はそれを見るや 突いて出る悲鳴を噛み殺し、踵を返すと今来た前方へ走りこんだ。
走りながら感覚の奥で俺は何故走っているのだと自問した、今まで見たこともない巨大口径の砲身…多分一発でこの艦など消滅するだろうと…。
本能が走らせていた、とにかくあの巨大戦艦から少しでも遠くに離れたいその一心で。
その時、耳を劈き腹を揺さぶる強烈な爆音が轟く、その衝撃波に大佐は数メートル吹っ飛ばされ前方甲板に叩き付けられた。
したたかに顔面を打ち苦悶しながら体を捩る、口中に錆臭が広がり それでも何とか体を起こし周囲を見渡す…。
だが艦上には砲撃の被害は認められず威嚇射撃であったことがすぐに知れた、それでも甲板上は狂ったように逃げ惑う水兵で騒然と沸き立った。
ようやく大佐は我に返り、甲板に耳を付けた(機関音が消えた…)機関長が次の砲撃を恐れスクリューを止めたのか。
大佐は観念したようにゆっくりと身を起す、そのとき巨大な鉄の壁がエンカウンター号を挟むように両脇をすり抜けていく。
大佐は惚けたようにいつまでも続く鉄の壁に見とれていた、それはこのエンカウンター号の何倍もあとうかという巨大な鉄の壁だ。
ようやく壁が通過し左右の視界が開けた、大佐は立ち上がると足を引きずりながら右舷に歩みよる、すぐさま巨大戦艦が残した後渦に小舟如きエンカウンター号は立っていられないほどに揺れた。
それでも手摺りに何とか掴まり後方を見る。
そして目を見張る…何と続々と巨大戦艦が差し迫っていたのだ、彼は一気に腰の力が萎え、無様にもその場に崩れるようにへたり込んでしまった。
後続戦艦はエンカウンター号など歯牙にも掛けないといった威風堂々に先頭艦の後へと続く、そして邪魔な小舟を避け嘲笑うようにその横をすり抜けていく。
水兵らは攻撃を仕掛けてこないことを訝しみ船縁で通過する巨大戦艦に見とれている、そのとき士官のアダルバート・ブラウン中尉が頭上から「艦長!砲撃の御許可を!」と叫んだ。
エンカウンター号には左右舷側にそれぞれ32ポンド砲が7門づつ装備されていた、中尉は今撃てば通過中の敵艦側舷までの200ヤードは絶好の的だと叫んでいた。
大佐は意気込む中尉を見上げ鼻血を拭くと鬱陶しそうな顔で「止めておけ、あの装甲の厚みが解らぬか…我が32ポンド砲など蚊に刺されたぐらいのものよ…」
その声に憤りを覚えた中尉は舌打ちし顔中を無様に血で染めた大佐を睨み付け砲の方へ走っていく、やがて艦隊最後尾に位置した重巡洋艦が右舷側に徐々に迫ってきていた。
その重巡洋艦が丁度エンカウンター号の真横に並んだとき衝撃で艦上が揺れた、エンカウンター号が搭載する32ポンドカロネード砲が火を噴いたのだ、この砲は接舷戦に威力を発揮する近距離専門砲だ。
「あぁぁあの馬鹿なにをしてくれる…」と悲鳴を上げ大佐は砲へと走り出した。
それでも右舷のカロネード砲7門は狂ったように吼え続ける。
巡洋艦側は不意な攻撃に驚いた、この期に及んで窮鼠猫を噛むの例えのままに…まさかたった1艦で前時代的な旧式砲を撃ちかけようとは思ってもみなかったからだ。
しかし32ポンド砲の徹甲弾といえど至近距離である、金剛の舷側は203mmの鋼鉄装甲であってもその衝撃は大きく、また運悪く2発が薄手の艦橋を貫き士官を含む兵5名が詰める艦橋の1室に着弾してしまった。
部隊司令官より上海上陸ギリギリまで洋上の敵艦は極力威嚇のみに止めよと命令されていた、しかし味方に死傷者が出るにおよび重巡洋艦金剛の艦長 大岩源治郎はやむなく報復攻撃を承認した。
金剛の主砲である178mm連装砲が大きく転回した、しかし敵艦側舷は余りにも近く低いため的には入らない、やむなく代わりとして76mm単装砲8門中6門がエンカウンター右側舷に狙いを付け一斉に火を噴いた。
一瞬細波が立ち、次いで閃光が走り胸を圧迫するほどの大爆発が起こる。
エンカウンター号は僅か6発で粉々に砕かれ残骸は頭上数百メートルまで噴き上がった。
巡洋艦金剛の甲板上の兵らはその威力に目を見張り一斉に身を隠した、それでも降りそそぐ木片・金属片に当たり怪我人が続出した。
これには艦長大岩源治郎も驚いた…イギリス戦艦とはこれほど脆弱であったのかと、6発は多すぎたと悔やむも時遅しである、エンカウンター号は原型を留めぬまま一瞬で炎に包まれ海上から消え去った。
もしエンカウンター号の船縁が高く主砲である178mm連装砲を撃っていたら味方の被害はいかばかりかと艦長は思う…これは日本が初めて経験する海戦であった。
長江河口陳家鎮の堡塁横に最近建てられた煉瓦造りの屯所が有った。
そこで昼食を終えたアンソニー・アボット中尉は紅茶を飲みながら新聞デイリー・テレグラフに目を通していた。
昼12時50分、突如敵襲を知らせるラッパが堡塁中に響き渡った。
アンソニー・アボット中尉はその音に驚き、飲みかけのカップを膝上に落とした、しかしそれには目もくれず新聞を放り出し堡塁へと走った。
堡塁には兵200余がエンフィールド銃を海側に向け震えていた。
また8基の砲塁では兵が慌ただしく弾込めを行っている、中尉は最近手に入れたフォクトレンダーの双眼鏡を腰鞄から引き抜き急かされるように海を望んだ。
距離およそ2マイル前方に巨大戦艦数隻が望めた、その艦橋先端のマストには日本の国旗である日章旗がはためいている。
(やはり来たか…)中尉は双眼鏡を下ろすと右を見た、外輪スループ艦バラクータが石炭を積み終え哨戒に出るため今まさに出港するところだった。
バラクータは今年ペンブローク・ドックで改装され先月初め再び東インド中国艦隊に配属された外輪スループ艦である。
兵装は68ポンド砲 x 1 10インチ旋回砲 x 1 32ポンド砲 x 4 という 戦艦にしては砲の数はいたって少ない低等級艦といえる、その艦が日本襲来に気付いたのか一団で押し寄せる敵艦に向け単艦で向かっていこうとしている。
アンソニー・アボット中尉は何と無謀なと思った、あの巨艦群に脆弱な兵装で立ち向かうは死地に赴く様なもの…馬鹿者が!と思わず喉を突いて怒声が漏れた。
再び双眼鏡で海を望む、敵艦との距離およそ3200ヤード…砲塁の68ポンドカロネード砲の有効射程は390ヤード…お粗末に過ぎてとても届く距離ではない。
68ポンドカロネード砲はスコットランドのカロン社で作られ近距離用の前装式滑腔砲だ、1779年からイギリス海軍に正式採用された旧式砲である、中尉は歯ぎしりした…こんな骨董砲でどう戦えというのだ、射程390ヤードとは敵艦が接岸するほどの距離ではないか…。
双眼鏡で覗きながら上海という東洋の辺境に配されたことをこの時は強く恨んだ。
本国を遠く離れ、陸・海軍の装備は廃棄処分同様の旧式装備…それに比べフランス・アメリカの装備は新式の垂涎兵装が整備されているのに…再度その悔しさに歯ぎしりする中尉であった。
その時「あっ!」と声が出た、敵艦上の空に無数の点が舞い上がったからだ。
(海鳥……いや違う)中尉は目を凝らした、その黒点は敵艦の艦上より舞い上がったように見えた。
中尉は首を捻って双眼鏡を見続ける、やがてその黒点は空を覆いどんどん大きくなってくる、そして遂に双眼鏡には信じられない光景が映った。
(ひ…人が乗っている!)中尉はまるで夢でも見ているのかと双眼鏡を下ろし周囲に目を配った、周囲は相変わらずエンフィールド銃を構えた兵士と大砲の弾を運ぶ兵の怒号で満ちている。
既に黒点は肉眼でも望める距離となった、それは凄まじい速度で迫って来ていた、海を見詰める多くの兵もようやく気づき狼狽え始める。
それら飛翔体群が距離700ヤードまで近づいたとき、突如重機関音が空に響き堡塁周辺に「ドス・ドス」という着弾衝撃が走った。
空を覆い尽くす飛翔体は撃ちかけながら堡塁上空へ猛烈な速度で飛来し何とピタッと停止したのだ…その異様な光景に堡塁の兵士らは驚愕し中腰姿勢に狼狽えた。
重機関音が再び襲う 真上からの攻撃だ、堡塁など何の役にもたたない。
兵士等は悲鳴を上げ堡塁より我がちに逃げ惑い、一斉に屋根を求め屯所へと走り始める。
中尉も同様に走り、途中多くの兵士らが頭を粉砕され次々と倒れていく…しかし誰も空に向けて発砲する者はいない、それはエンフィールド銃をもってしても届く距離とは思えない高空だからだ。
多くの兵士らは屯所に走り込むまで殆どが粉砕死し、僅か50余りが何とか飛び込むことが出来た。
中尉も幸い弾に当たることなく屯所に転がり込んだ、そして窓を開け海を見た…海岸は敵艦隊で埋め尽くされ、先程出撃していった戦艦バラクータは海上の何処にもその姿は見当たらなかった。
ただ先程まで浮かんでいたはずの海上に僅かに炎と煙が漂っていた。
(もう沈んでしまったのか…)中尉は呆然と佇む、その時海上の巨大戦艦から一条の白煙が吹き出た、やがてシュルシュルという不気味な音が聞こえた刹那…中尉の目の前は真っ白に流れた。




