三十七.西洋列強掃討作戦の序章
1856年5月10日午後、緊急閣僚会議は夜に及び19時に一旦休憩に入った。
正則は庄左右衛門と院内閣議室を出て地下の議員食堂へと向かった、横を歩く庄左右衛門の歩調は昔と比べ一段と遅くなった気がした、もう65歳になろうとしているのだ。
「義父殿、お体の具合はどうでしょうか」
「うむぅ…余りようない、医者は何処も悪うないというが、最近はあちこちが痛うてのぅ 特に脚の関節が辛いわい」
「そうですか…私もこの時代に落ちる前にはやはり関節が痛う御座ってのぅ、薬を常用しておったのですが…そうじゃ、今度製薬会社に私が昔飲んでおった薬を造らせもうそう、確かグルコサミンと言ったはず…」
「フン、婿殿はこの時代に落ちて四十近くも若返ったのであろう、儂も何処ぞに落ちたいものよ」庄左右衛門は言ってから羨望顔で正則を見つめ笑った。
議員食堂で正則はカツカレー、庄左右衛門はきつねうどんを食べ始めた。
「インドが英国の植民地になって早100年近くが経とうとしているのぅ」
庄左右衛門は正則が旨そうに口に運ぶカレーを見ながらぼそっと呟いた。
「インドはよう我慢しとる、日印同盟による英領インドの崩壊と独立運動の勝利までにはもうあと100年もかかると言うにのぅ」
「おや…庄左右衛門殿は あの秘密歴史書を見られましたか」
「おお、左太夫にのぅ…しかしインドは別として清国いや中華人民共和国とか言ったかの、それと朝鮮じゃのうて大韓民国か…。
多分お主がこの時代に落ちる前に何かの記事をメモしたものであろうが、その中にこんな走り書きが有ったのぅ」
1910年8月22日、韓国併合条約が漢城で寺内正毅統監と李完用首相により調印された件で、朝鮮全権大使 李成玉の「李完用侯の心事と日韓和合」を引用すれば。
朝鮮時代、全権大使として米国に渡った李成玉が米国民に接してみると、朝鮮人などは米国人が軽蔑するインディアンより劣り、さらにメキシコやインドなどの未開民族よりも劣っていると思われていることに衝撃を受け次のように語っている。
「現状の朝鮮民族の力量ごときでは、どうにも独立国家として体裁を保つことはできず亡国となるは必至であろう、それゆえ亡国を救う道はもう併合しかないのだ。
その併合相手は日本以外には考えられぬ、欧米人のごとくは朝鮮人を犬か豚のようにしか思っていない、だが日本は違う、日本は日本流の道徳を振り回し小言を言うのは気に入らぬが、これは朝鮮人を隣人として同類視するゆえの親心からであろう。
そして、日本人は朝鮮人を文明社会へと導き「世界人類」に参加させてくれる唯一の適任者であろう。それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱し人間としての幸福を甘受できる道などはない。
また、朴正熙の「自国に対する歴史認識」を引用すれば。
朴元大統領曰く『しかしあのとき、我々は自分たちで選択したのだ、日本が侵略したんじゃない、私たちの先祖が選択したのだ。
もしあの時 清国を選んでいたなら、清はすぐにも滅びもっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったであろう。
もしロシア帝国を選んでいたら、帝国は共産主義革命により倒れ、朝鮮半島全体は共産主義国家として併合され、北も南もなくかつては清に隷属したように今度はロシアに隷属する半島になり果てただろう。
日本を選んだということは、BESTとは言わないが、仕方なしに選ばざるを得なかったならばSecond Bestとして私は評価している』と述べ、反日言動に走る側近をたしなめたと言う。
このように日本統治時代を経験した者らがリアルに日本を評価しているというに、統治時代の経験を全くしていない者らがどうして声高に反日が叫べるのだろう、そう考えれば朝鮮とは歴史を振り返る教育そのものが不在なのか、または国家そのものが何らかの意図を持って歴史を歪曲し国民感情を反日へと誘導しているのか。
朝鮮に望まれて行ったはずのこの併合は、彼らが声だかに叫ぶ収奪のための植民地政策であったのか…。
日韓併合時の朝鮮半島の人口は1312万人であったものが1943年には2439万人と併合時代の35年間で人口はほぼ2倍に増えている この一例だけでも収奪前提の植民地支配では無かったことが頷けよう、それは英国がインドを植民地化した際の驚くべき人口減少を鑑みれば理解は出来よう。
この併合時、朝鮮の志願兵は日本兵士とともに米英と戦いそして負けた、だがともに負けたはずの朝鮮は何と戦勝国の顔で日本に賠償を要求してきたのだ、これに対し情けなくも戦後賠償として朝鮮に残した膨大なる資産(総司令部民間財産管理局の調査で軍事用資産を除き旧円で53億ドル)もの在外資産全てを放棄することで朝鮮に対し賠償を果たした。
さらに追加すること65年の日韓基本条約で無償3億ドル・有償2億ドル(いずれも新円)を支払っている、このうち無償分のみに絞っても現在の価値で1兆800億円。
これら賠償総額は当時の韓国の国家予算の2.3倍となり、戦後の疲弊しきった日本にとってどれほど負担であったか…、ちなみにこの賠償額は朝鮮半島全地域が対象で、韓国政府が「北朝鮮を統一したら北の人にも支払うから北の分もくれ」と言って持って行った額でもある。
つまり、日本は韓国に対し戦前資産およそ30兆円、戦後賠償2兆7千億もの巨額の賠償を行い、さらに日韓基本条約以降98年までの韓国へのODA実績累計は贈与無償資金協力累計234億円・技術協力914億円・政府貸与支出総額3602億円と長きあいだ莫大なるODA援助を続けたにもかかわらず、それでも韓国人は口を拭って言うだろう 日本はそれ以上を朝鮮より収奪したのだと…しかし欧米に国扱いもされていなかった最貧国朝鮮に当時収奪すべき何があったというのだ、与えるばかりの併合時代だったことを彼の国は完全無視を決め込んでいる。
韓国は日本からの この戦後賠償・清算金を個人の賠償対象者には支払わず、国家発展?のために活用し「漢江の奇跡」と言われるほどの発展を遂げた、これら韓国の経済成長は韓国人の努力、米国の援助も大きいがこの北朝鮮も対象として支払われた莫大なる清算金とODA援助が原動力の一部になったことも確かであろう、それなのにどうしてそれほどまでに日本人を侮り嫌悪し世界中に悪の権化の如く喧伝拡散するのか…これら行為は日本の常識では計りえず、為に逆に日本の戦前歴史の方が歪曲されているかもしれぬとさえ思えてしまうから不思議だ。
また驚くべきは韓国政府は日本の国庫が枯渇するほどの賠償金を貰っておきながらこのことを自国民には知らせなかった。これは国家発展に流用したことを隠蔽する為か、それとも反日感情をいつまでも煽る為なのか。
そのため韓国人は未だに日本が賠償責任を果たしていないと言い張り、昨今思いついたように賠償問題で訴訟を起こし始めている。
なお中国への賠償は「中国政府は中日両国国民の友好のために日本に対する戦争賠償の請求を放棄する」と宣言、しかしながら中国に残した在外資産は韓国の比では無くODAも40年間で3兆6500億円余りと巨額になり…もはや言わずもがなであろう。
民族が隆盛する上で真の歴史など互いにどうとでも書き換えられてしまうのか…また真偽など歴史の深淵に簡単に埋もれてしまうものなのか。
しかし確かなことは、戦後生まれの私が30歳を過ぎたとき、未だアジア諸国に賠償金を払い続ける日本、1976年7月22日のフィリピンに対する支払いを最後にこの戦後賠償は完了したが…アジアを欧米列強の植民地境遇から解放したと思っているのは日本人の奢りに過ぎず、ただアジア諸国に迷惑と損害をかけただけというのか…それとも江戸時代 外様大名にかけられた膨大なる賦役と同様、日本の早期復興を危ぶむ連合国側の陰謀であったのか…。
「儂はこのメモを読んでからは亜細亜共栄圏の件は憂いておったのよ、お主が先ほど会議の冒頭で言った“他民族より受ける恩讐は決して良い方を採らぬが人心”、これはあのメモからの影響であろうよ。
同胞であっても維新初期の西国雄藩への恩讐しかり、今頃になって維新政府の暴挙により西国が舐めた辛酸は如何ばかりかと賠償問題にまで発展しとるだろう、同胞であってもこの有様…これが他民族であれば理解の埒外であろうよ」
「そうですなぁ、まっ当面は共栄圏のことは棚上げにしておきますか…さて、今夜の会議は深夜まで続きそうですが 義父殿…体がもちますかのぅ」
「失敬な、儂は本来のお主より15も若いわ!」
「そうでしたね クククッ」
「それにしても婿殿のメモやパソコンから抜き出したプリントは全て2011年で途切れておるが…中国や韓国との関係はそれ以降どうなりましたやら…知る手だては御座らぬものかのぅ」
「2011年ですか…しかしあのまま元世にいたなら今は2030年、私は84歳の老人 或いはもうこの世にはいないのかも。
また今頃韓国は南北統一し中国は世界の覇者になっているやもしれませんなぁ、倫理観も中国が基準になっていたりして…なんせ人口が凄いですから、まっ 数の論理でしょう」
正則は揶揄しながらも久々に元世を想った…しかし想いは曖昧な霧に包まれすぐに消えていった。
その後イギリス戦艦による日本民間商船撃沈事件は日夜ラジオで日本中に流され国内は騒然に沸き立った。
5月13日、帝国議会臨時特別招集においてイギリス討つべしの声は怒号へと変わり、その混乱は極に達した。
5月15日、満を持し議会に提出された「東アジア西洋列強掃討作戦」は圧倒的多数で可決されるに至る。
5月16日、用意された作戦計画は閣僚会議で再度揉まれ、一部修正・加筆され全員一致で開戦の承認が行われた。
5月19日、御前会議で天皇より作戦遂行の詔勅が下される。
5月20日、九段の陸軍省陸軍参謀本部に大本営が設営されるに至った。
以上の如く砲撃沈没事件を継起として「東アジア西洋列強掃討作戦」の政府作戦遂行のフローは異常に早く、まるで以前より仕組まれた感は否めなかった。
九段に設営された大本営組織の実体は、統帥部たる参謀本部(大本営陸軍部)及び軍令部(大本営海軍部)であり、開催される大本営会議は天皇臨席のもと陸海空軍の統帥部長(参謀総長・軍令部総長)、次長(参謀次長・軍令部次長)それに第一部長(作戦部長)と作戦課長によって構成された。
なお統帥権の独立から、内閣総理大臣や外務大臣ら政府首脳の文官は含まれない。
しかし軍人ながら閣僚でもある陸軍大臣・海軍大臣・空軍大臣は軍政との関連で列席は許されるが発言権はない。
さらに大元帥たる天皇は臨席はしても発言しないのがこの当時の慣例であった。
この大本営を統帥する将は陸軍参謀総長の新沼親太郎中将と海軍軍令部総長の安原清一郎少将の2人である。
この二人は若い頃いずれも優れた剣客で、新沼親太郎が練兵館 神道無念流の師範代を勤め江戸でも剣客十指に数えられる使い手であった。
また安原清一郎は千葉道場の師範代で、藤堂家依頼の業物で三つ胴試切りを為し得た剛の者として当時江戸中にその剣名は知られていた。
この剣名に惚れ込んだのは正則だ、頼みに頼んで己の警護役兼三田家与力に取り立てたのであった、今の正則が幕末動乱期を無事切り抜けられたはこの両雄の凄腕が有ったからと言っても過言ではないだろう。
この二人は三田家与力になった以降、争うように内外の兵法書及び海外の海戦・陸戦の記録を取り寄せては読み漁り、互いに影響し合い日々戦略理論の錬磨に勤しんでいた。
故に正則はこの二人にはいずれ直面するであろう西洋列強との戦争を想定し、軍事戦略論を専門に研究させ参謀本部の高級士官に取り立てていったのだ、故にこの度の開戦は彼ら二人の戦略論試行の場とも言えようか。
彼らは特にプロイセンの将軍 カール・フォン・クラウゼヴィッツによる戦争と軍事戦略に関する書物の影響を強く受けていた。
中でもクラウゼヴィッツの「戦争論」は近代戦争を考察する上で重要な書と言えた。
その内容は8篇から構成されている。
第1篇「戦争の本質について」
戦争の本性、理論の戦争と現実の戦争の相違、戦争の目的と手段などを論じる。
第2編「戦争の理論について」
軍事学のあり方やその方法論を論じる。
第3編「戦略一般について」
戦略を定義し、従来の時間・空間・戦力の戦闘の基本的な三要素だけではなく、精神的要素を考察の対象として分析する。
第4編「戦闘」
戦闘の一般的性質や勝敗の決定について物質的側面と精神的側面から分析する。
第5編「戦闘力」
戦闘力の構成や環境との一般的関係を論じる。
第6編「防御」
防御の戦術的性格や種類、戦略的な位置づけを論じる。
第7編「攻撃」
攻撃の戦術的性格、勝利の極限点を論じる。
第8編「作戦計画」
理論の戦争と現実の戦争の関係を述べた上で、戦争計画の要点を論じる。
この度の迅速なる作戦遂行の行程は彼らが影響されたクラウゼヴィッツ著の第8編「作戦計画」を参考にさらに研究され周到に練られた作戦であった。




