三十六.列強掃討への始動
1853年、この年の8月の終りに今度はロシアのプチャーチン海軍中将がペリーに遅れること1ヵ月半、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。
プチャーチンはペリーと違い、シーボルトの進言に従いあくまで紳士的な態度で日本の対外窓口である長崎に颯爽と来航したのだ。
しかし長崎港に入ったとたん、彼らの目の前に自艦の数倍もある巨大戦艦2隻を目の当たりにし、聳える艦橋下の巨大な砲門が自艦に向けられているのを見たとたん操舵手に悲鳴のような声で転回を命じた…だが時遅く後方も驚くべき速度を誇る巡洋艦3艦に退路は断たれていた。
後は言わずもがなである、大砲1発も撃つことなくパルラダ号以下4隻の戦艦は海兵隊に急襲され、無断で領海に侵入した咎によりプチャーチン以下 4隻の艦長らは長崎海軍鎮守府に連行されていった。
そして二日間、東京から外務省担当官とロシア通訳士官が到着するまで拘留され、尋問の結果ようやく皇帝ニコライ一世の命を受け日本と和親条約を締結するために来港したことが知れたのだった。
しかし対応に当たった鎮守府司令長官は外務省担当官を軽視し、高飛車に「この長崎はその任に非ず、条約締結をしたければこれより東京へ護送するが如何に」と迫ったのだ。
これに対しプチャーチンは健康が思わしくないため一旦本国に帰ると言い出し、やっとの思いで解放されると、逃げるように長崎港から西方彼方に去った。
これを後日 外務省から聞いた正則は激昂した。
「せっかく和親条約を打診しに来た者を拘留恫喝し追い返すとは何たること!」
海軍大臣井上左太夫を呼びつけ大いに叱責し、長崎海軍鎮守府司令長官の河田少将と海軍軍令部長を即刻罷免させた、正直 左太夫も罷免したいところであったが義父である枢密院議長の庄左右衛門の取りなしで何とか怒りを静めたのだった。
翌年、ペリーが再び来航すると約した2月が過ぎても日本近海にその姿は見当たらず、またアメリカ諜報員からもその様な気配は全くないとの連絡が届いた。
それから1年後、1854年9月7日に今度は英国東インド中国艦隊司令ジェームズ・スターリング率いるイギリス艦隊4隻が長崎の沖合に現れた。
日本側は英国東インド中国艦隊が日本に向け北上していることを清国特派員の情報で掴み、長崎空軍飛行場から哨戒機2機を飛ばし髙々度より艦隊の北上状況を補足していた、それゆえ長崎の50km沖合いで戦艦・巡洋艦で取り囲み武装解除が行われ、旗艦である帆走フリゲート艦ウィンチェスターのみが長崎港に曳航されて来た。
外務省担当官は会見の席に軍人は呼ばず、スターリングらとは長崎県庁で会見にあたった。
彼らの来港目的はクリミア戦争の敵国であるロシアが、艦隊を率い日露和親条約を強行する企て有りの情報キャッチしたため それを日本側に伝えるべく急行したことが判明した。
スターリングは英国とロシアは現在戦争中であることを告げ、またロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることなどを日本側に通告、出来れば日本が日露和親条約は結ばず局外中立の立場をとってくれるよう懇願したのだった。
これに対応した外務省担当官は、貴君の言われるロシア艦隊が来たのは去年の事、その際はプチャーチン殿の健康が思わしくなく条約を結ぶには至らなかった事 そして今年はまだロシア艦隊は来ていないと伝えた。
局外中立については貴国が日英和親条約及び通商条約を締結するとあれば考慮するが如何と詰め寄った。
しかしスターリングは自分は外交交渉を行う権利を有しておらず、かつ本国から日英和親条約及び通商条約締結の指示は受けていないと拒否の姿勢を見せた。
であるなら外交交渉を行う権利を有した者の再来港を願うと終始融和に会議を進めた。
だがイギリス側は終始緊張の面持ちで、会議が終わると即日 這々の体で長崎を出航し西方彼方へ逃げるように去った。
以上のごとく昨年と今年はアメリカ・ロシア・イギリスがこぞって日本に来航したが結局 和親条約や通商条約はどの国とも締結出来ず年は明けた。
だが翌年にオランダとは日蘭和親条約・日蘭通商修好条約は結ぶことが出来た、しかしオランダとは200年以上の付き合いである、いまさら大仰に条約締結と言っても日本側に新たな利が生まれるとは思えず政府の焦りは次第に高まっていった。
この時期は内需の頭打ち脱却から朝鮮・清国及びオランダ領東インドの領域への民間貿易が盛んになっていった時期でもあった。
中でも大手財閥系4社はベトナム・シャム・フィリピンとの交易を始めており、これを放置するわけにも行かず政府は昨年これらの国と国交を結ぶに至った。
しかし清国を筆頭にこれら東南アジア地域ではイギリス・フランス・オランダ・スペイン・ポルトガルを始めロシア・アメリカまでもが加わり植民地争奪戦の真っ只中にあり、イギリスが現在その先頭を走っている時期と言えようか。
ゆえに日本がこれら東南アジア諸国と貿易を行なうにしても、西洋列強に隠れるように行われ、彼らが見向きもしない港に限られるため交易額もしれていた。
ただ唯一ビンタン島・ボルネオ島・ジャワ島などオランダ領のみは年々交易額は増大し民間の入植者も次第に増えていった。
1856年5月10日午前、政府を震撼させる第一報が上海特派員よりもたらされた。
10日未明、上海南方の沖合5kmにおいて三丸商船所属の海南丸800tonがイギリス戦艦の砲撃にあい沈没、乗組員の安否は不明。
午後1時緊急閣僚会議が招集され正則も急行した。
会議が始まるとすぐに上海より3回目の情報が送られてきた、乗組員39名中行方不明21名、死者8名、10名は現在上海の英米仏共同租界地の何処かに囚われているとの情報であった。
総理の加藤幸司朗がまず口火を切った。
「この度の三丸商船の死者に対しまずは哀悼の意を表明致す」
総理は立ち上がり長い瞑目の後 頭を深々と下げた、これに合わせ全員が起立しそれに倣った。
「イギリスの暴挙と言えるこの度の仕儀、政府としてイギリス本国に断固抗議を行い生存者の即刻引き渡しと砲撃した戦艦の艦長及び士官の裁判と賠償を訴えたいと考えるがどうであろうか」
加藤総理は言い終えて正則を見詰めた。
加藤幸司朗は正則が御先手鉄砲組頭のころ三田組の中で最も優秀な同心であった、故に正則は彼を抜擢し技術者に仕立てたのであったが…前総理の小池と同様に技術者よりも政治家が合っていたようである。
それにしてもこの会議に集まった大臣等の殆どは維新以前よりの正則のブレーンで同士達である、ゆえに顔を合わせればもう意見は纏まっているようなものであるが…ただ海軍大臣の井上左太夫のみは少々ズレてはいたが。
正則が口を開こうとしたとき先に海軍大臣の井上左太夫が勢い込んで喋り出した。
「総理、何を悠長な事を…イギリス本国にそのようなことをねじ込んでものらりくらりと時間ばかりが掛かりもうす、その内うやむやにされるがオチと言うもの。
事件は九州の目と鼻の先の上海で起きたこと、これよりすぐにでも出撃し乗組員を奪還するのが筋と違いますか、何なら長崎海軍鎮守府より戦艦3隻も繰り出せば数日の内に砲撃した艦の拿捕と乗組員の奪還、及び賠償金を分捕ってきますが如何で御座ろう」
これにすぐさま異を唱えたのは特別参加の枢密院議長 鈴木庄左右衛門であった。
「左太夫、お主は相変わらずじゃのぅ それは短兵急に過ぎると言うものよ、相手はイギリスじゃぞ、お主はイギリスと全面戦争になってもかまわんと言うのかよ。
下手をすれば上海共同租界に巣くうイギリスのこと権益侵蝕には総力で立ち向かってくるであろうし同租界のアメリカ・フランスもこれに加わるは必定、この3国を相手にお主の海軍だけで一戦交えようというのか」
「い、いや…当然陸海空3軍の総力で…」
「だったら長崎海軍鎮守府のみで何とかするなどという戯れ言は慎まれよ、ほんにお主は昔から短絡でいかん!黙っておれ」
庄左右衛門からすれば左太夫は子供扱いである、左太夫はいつものように項垂れ正則に助けを求めるように覗き見た。
これを受け失笑しながらようやく正則が口を開いた。
「左太夫殿の想いは分かるが…ここは庄左右衛門殿の如く慎重を要するというもの。
以前より三丸商船いや本体の三丸商事の海外での不遜なやり口はいずれ問題を起こすと憂いておったが、とうとう来たかの感はお主らも同様であろうが。
過ぐる3年前、亜細亜共栄圏構想が政府で採択され、まずはこのアジアから西洋列強を閉め出そうと その戦略は陸軍大学や軍部内でも研究され尽くしてきた、しかしその端緒がなかなか掴めず苦慮しおったのじゃが…。
皆の衆、まっ ここだけの話じゃが…。
三丸商船の不遜なやり口を放置したは図に当たったと言うべきかのぅ。
古今 戦仕掛けにはきっかけというものが必要…それも正当性が高いほど良い。
この度の戦艦による民間商船砲撃などはまさに奇貨とする打って付けの材料と言えようか。
これを端緒として左太夫殿の弁の如く一気にイギリスを叩くという手もあろうが…ここは慎重に事を運ぶが肝要。
この好機に乗じ まずは上海外灘のイギリス総領事館に外務省高官を派遣し今回の暴挙顛末と相手の言い分を低姿勢且つ正確に聴取する、また一方 彼の地でこの蛮行に尾ひれを付けフランス・アメリカ・ロシア及び清国に大いに喧伝することも並行して行う。
相手は戦艦こちらは民間商船、幾らこちらが悪くとも大人と子供の喧嘩、誰が見ても戦艦側の暴挙としか映らんよのぅ。
ここを徹底的に攻め、砲撃戦艦の拿捕及び艦長・士官の日本側引き渡しと乗組員の救出、それと多額の賠償金を吹っ掛けるべし。
彼ら白人は清国人と同様に日本人も人間視しておらぬよって…さぞ腹を立てる事であろうよ、そこが付け目じゃ、揉みに揉ませて空中分解させる、じゃが最低生存乗組員だけは救出せんといかんのぅ。
イギリスは一昨年のスターリング来航時 日本の軍事力には多少なりとも恐れを感じたはず、それでも日本の商船を撃沈したとあれば相手は日本と一戦交える覚悟が有っての暴挙か、或いは砲撃艦の独断もしくは三丸商船が砲撃に値する蛮行を行ったかのいずれかじゃ。
しかしそんなことはどうでもええ、要は民間商船が砲撃され民間人が死んだという事実のみじゃ、よってここのみを捉え徹底的に攻めるのよ、なぁにこちらは端から一戦交える覚悟なら強気で交渉に臨めるじゃろうが。
儂はこう分析する。
列強であるイギリス・ロシア・フランス・アメリカは、もはや日本と国交を結ぶ気は全く無いとみている、日本の軍事力を知った今 彼らはこの東南アジアでの覇権さえ危ういと感じ始めているであろうからのぅ。
故にいつか彼らは歩調を合わせこの日本を叩いてくるは必定、皆の衆 これを座して待つか、或いはこちらより先制するか…もうそろそろ腹を括らねばならぬ時期であろうよ。
儂が今より19年前、左太夫殿の屋敷で謀について語ったのを庄左右衛門殿、それと左太夫殿・光右衛門殿 覚えておられようか。
我が国を主体に世界秩序を形成するという構想で御座るよ、あの時は俄に世界秩序を形成すると言う耳慣れぬ言葉を申しても、御三方には何のことやら理解しがたき事柄で御座ったが…今となれば各々方にも理解は出来ようか。
世界秩序とは、世界各地域に発生した諸問題が一定の規範・手続によって解決・処理されていると考えられる場合、そのような規範・手続の全体、またはそのような解決手段で安定した世界の状態を世界秩序と呼びもうす。
さらにくだいて申すならば、世界に発生する諸問題が各国の公平なる合意によって取り決められた規範や手続きにより解決または処理されたとみなされる場合、その規範や手続きあるいはそれらによって得られた世界の安定した状態を「世界秩序が形成された」と言いもうす。
しかしながら西洋列強が現状において最高の目標価値としているのは、自国の利益を最大限に獲得するにあり、その場合における世界秩序とは西洋列強が自国の利益を追求した結果によりもたらされた『構想なき均衡状態』を意味するにすぎない。
これでは世界秩序以前の話であろうよ、今 世界各地では覇権紛争や植民地争奪戦がいたる所で繰り広げられておる。
近々はロシアによる東ヨーロッパ覇権に留まらず、このアジア諸国においても列強による植民地化は加速しており、イギリスがインド・マレーシア・ビルマを、フランスがラオス・ベトナム・カンボジアを、オランダがインドネシアを、スペインがフィリピンをと武力を背景にやりたい放題に蚕食、その状況は19年前より悪辣さを増しておる。
今後、アメリカ・イギリス・フランス・ロシアはこれら植民地より収奪した膨大な利をもって国力を上げ武器を量産し 彼らの都合のよい世界秩序造りに盲進していくであろうよ。
19年前儂はこうも言った、彼らの強大な武器に勝るものを我々が有すことが出来れば、我が日本が彼らに取って代わり世界秩序を形成して何が悪いと。
儂はこの長い年月…日本が強靱たること、西洋列強が歯向かう気力さえ喪失する圧倒的な軍事力と経済力を擁すること、これをもって悪辣なる列強を排除しこの日本が全世界の民の幸福に根ざした世界秩序を確立させ、過渡期に於いては世界の警察として世界統治を敢行する、儂はこれのみを考えこれまで生きてきたと言っても過言ではない。
我が国は現在 陸軍60万・海軍40万・空軍30万を擁し、戦艦総トン数・航空機・陸戦車両・火器群を含めれば英国など遥かに凌駕する世界最大の軍事大国となり、兵器・火薬の量も維新初めの不平士族の乱で僅かばかりは費やしたが、この19年にわたる生産備蓄量は膨大で、期限切れを除いてもイギリス植民地はおろかイギリス全土を1~2回は破壊し尽くすに能う量と言えよう。
しかしじゃ、西洋列強との全面戦争に能うには今少し足らぬのじゃ、そこでまずは清国をはじめとする東南アジア全域より列強を閉め出す、代わりに日本が取って代わり彼の地の豊富な資源を我が手中に収め、まずは国を富ませる。
政府に於いて亜細亜共栄圏構想という理想は確かに採択された…しかしここに居る誰もが共栄などと言うきれい事など信じてはおらんじゃろう、儂とて清国や朝鮮に限っては共栄を計るべく彼の国を栄えさせるに日本の血税資本を投下する気など毛筋ほども有りはしない。
共栄圏構想骨子の如く清国・朝鮮に対し我等が真に共栄を望みこれを真摯に行ったとしても彼らだけは後の時代に必ず日本に浸食された或いは植民地化されたと非難するだろう、他民族より受ける恩讐は決して良い方を採らぬが人心なのじゃよ、ならば理想は当面は棚上げとし、まずは自国を富ませることを最優先にすべきと考えておる」
正則はこの時代に落ちる前、韓国・中国の反日感情を想い寄せながら語っていた、特に韓国については当時ロシアの南下を阻むべく朝鮮の独立を支援したが国民を蔑ろにする宮廷内の覇権争いに業を煮やしやむなく併合に至った経緯、また戦後の膨大なる賠償と援助行動を昭和20年代より見知っている正則だけに彼の国の豹変ぶりには呆れるしかなかった。
「正直言って資源が欲しい そして広い領土と販路がのぅ、これをして西洋から覇権だ帝国主義だの誹りは免れまいが…しかし日本が世界秩序を成してのち亜細亜共栄圏そして世界共栄を実現させても遅うはない、我らは西洋列強の如く植民地民族の生き血まで搾り取るような真似はせんからのぅ、故に少しばかりは辛抱してもらわにゃ。
まずは上海のイギリス租界を叩く、続いて香港・広州へと繋げ清国よりイギリスを閉め出す、これに1年半は係ろうか。
この間はフランス・アメリカ・ロシアの動きを外交で封じておくことが肝要、先のイギリス暴挙の喧伝はこのためじゃ。
次ぎはシンガポール等マラッカ海域とインド周辺からイギリスを完全排除する…これに2年。
そのころになれば明日は我が身の西洋列強は抑えようもなく突出して来るだろう、これを各個撃破していく…まっ1年半といったところか。
西洋列強の本国が本気で出てくるのは4~5年先であろう、この4~5年が正念場よ、この間に西洋列強に対峙出来るほどの国力と先進兵器の量産を実現させる、それも国家総動員でのぅ…。
いま大学や陸軍参謀本部で研究を急いでいる東アジア列強掃討作戦のあらましを簡単に説明したが、この度の三丸商船撃沈を奇貨としてこの計画をいよいよ実行していきたいと儂は考えておる、さて…これより本題に入るが皆の衆よろしいか!」
この正則の強い口調に会議内にはピーンと張りつめた空気が流れた。




