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三十二.ペリーの動向

 1852年、正則がこの世に落ち15年の月日が流れようとしていた、肉体年齢は40才だが脳年齢は80才にもなろうか、だが不思議なもので脳年齢は落ちたときのまま65才を維持していると正則には感じられた。


しかし世の移りは着実に経年変化を見せ、東京の様相は大きく変わってきた。

街には車が多く走るようになり、バス・都電も普及してきた、またインフラ整備も進み街からガス灯は消え…街路灯・電線・信号機が頭上を覆い始めてきた。


またビル群も増え東京駅前の八重洲・日本橋界隈は高層ビルがひしめき、さながら昭和30年代の埃っぽい東京の街が現出しているように正則には感じられた。



 その年の7月21日、正則は東海道線の列車の中にあった、隣には妻の志津江 前の座席には長男の清太郎と次男の誠二郎が座っていた。


清太郎は今年中学2年になり次男誠二郎は小学6年生である。

正則は5日間の休暇をとり家族で長崎旅行に行く途中にあった。

家族とこうして旅行に行くのは7年ぶり、前回は交通網も整備されていない時期で品川から舟で伊豆へと旅行したのであるが、今回は飛行機で長崎への旅である。


時代の移り変わりには凄まじいものがあると正則は想う、もう正則など置いて世の中は勝手に走り始めている感さえする。

常に前衛を突き進んだ時代を正則は懐かしくも感じるが、別に寂しいとは思わずむしろこれで良かったとさえ感じていた。


列車は品川を越え大森を過ぎた辺りだ、左の車窓には昭和島の干拓地が広がり、遠くに海側へ埋め立てが進んだ羽田飛行場が望めた。


次男の誠二郎は列車に乗るのは初めてだ、車窓にしがみつくように遠くに霞む千葉辺りを望み、時折奇声を上げては清太郎に叱られていた。


列車内には軍人も多く、その軍人らは正則の座席横を通っても私服の正則を誰一人認める者はいなかった。


それほど正則は群衆の中に溶け込んでいた。

やがて蒲田に着き荷物を下ろすと駅構内へと下り、駅前でタクシーを拾い空港へと向かった。


車の中はさすが4人が乗ると狭かった、しかしこの数年で自動車の技術は進歩し以前この道を走った際 舌を噛みそうになったのは懐かしい想い出。


志津江も子供二人も飛行機に乗るのは今日が初めての為か皆朝から落ち着かなかった、もともと旅行に行きたいと言い出したのは志津江で、それは今年の初め名古屋まで東海道線が開通したのを受け名古屋へ一度行ってみたいと言い出したのがきっかけだった。


志津江は行ったこともない名古屋に何故思いが至ったかは…多分正則の生まれ故郷であり志津江にこれまで何気なく話す事が多かったからであろうか、しかし依然正則の生まれ故郷は庄左右衛門が偽造した福岡県朝倉市秋月野鳥としていたのであるが…。


正則は今さら名古屋に行っても現世の面影など到底無く、祖父母さえ生まれていない時代など…、正則は祖父母以前の歴史は聞かされていないため明治以前の素性は全く判らなかった。


故に名古屋に行くことにそれほど興味は涌かず、しかし現世で妻と過ごした大須界隈は一度見てみたいと思ったのも事実ではあるが…。


それよりも正則は長崎に行きたいと思った、それは最近のオランダの奇妙な動きが気になっていたからでもあるが…、それと志津江には悪いが現世で妻と行った長崎の街が妙に懐かしく感じられたことも手伝った。


正則は急遽長崎行きを志津江に提案した、志津江はそんな遠いところと反対したが…帰りに名古屋に寄るからと言い含め納得させた、何よりも妻や子に自分が造らせた飛行機に乗せてやりたい想いも長崎行きの動機でもあった。


妻に反し子供らは飛行機に乗れると聞き驚喜した、この時代飛行機旅行などは夢の又夢である、当時旅客機に乗れるなど高級官僚か佐官級以上の軍人、または大金持ちの会社経営者ぐらいしかいなかった。


それほど高価な乗り物で、ましてや妻や子を乗せるなど有り得ないことであろう。

志津江は金属の固まりが空に浮くなどどう考えてもおかしいと…いつまでも飛行機より列車で行きたいと言い張ったが、正則は儂が造らせた物がそんなに信用できぬかと強引に説き伏せたのだ。



 正則らは旅客機に乗り込んだ、この機体は4年前 乗り心地重視に旅客専用に設計された機体である、正則はこれまで何度となく飛行機には乗ったが全て軍用機で、旅客機と言っても軍用爆撃機を旅客用に改造されたものしか乗っていないのである。

故に、正則自身も旅客専用に設計された航空機に乗ることは楽しみでもあった。


旅客機の機内の壁は明るいクリーム色に統一され、座席も上質なレザーが惜しみなく使われ、軍用機の機能美とは趣の違う高級感を漂わせていた。


正則は志津江を窓側に座らせ、子供らは後ろの座席に座らせた。


座ると早々に正則を見つけた官僚や軍人らが引きも切らず正則の座席へと挨拶に訪れる、それらに僻々しながら挨拶を返し、志津江のシートベルトをしっかり掛けた。


やがて機内にアナウンスが流れ、大阪を経由し長崎空港到着までは3時間半で御座いますと流れた。


「殿様、何と言うことでしょう長崎までたった3時間半ですって…信じられません、昔は飛脚を仕立てどんなに急いでも7日はかかったと言うに…殿様 志津江はやっぱり怖いです もう降りたい…」


志津江は涙を浮かべ始めた、正則は少し強引に過ぎたと後悔するも機体は静かに飛行場の端へと移動しつつあった。


志津江の肩を抱き手を握った「死ぬときは一緒だから」と訳も分からぬ事を口走り、余計怖じ気着かせてしまったのだが。


やがて機体は大空に舞い上がり東京湾が眼下に広がった、後部座席の子供らは感嘆し気持ちが高揚するのか座席の上で跳ねはしゃいでいた、しかし志津江は失神したように目を瞑ったままである。


やがて旅客機は高度7000mで水平飛行に入り、体にGが感じられなくなってきた。

正則は志津江に目を開けて外を見なさいと囁いた、志津江は意を決するように恐る恐る窓から外を眺めた。


「ひぇい」とシャックリのような声を上げ正則にしがみついた「く…雲が下に見えます」

と怯え 震え出した。


「安心しなさい、飛行機は雲の上に出たんだ、今 伊豆の上空を安定して飛行中だから外の風景を落ち着いて見てみなさい」と言い志津江の顔を窓側に向けた。


その時、横に立つ影に気付き正則は振り向いた。

「閣下、本日は御旅行ですか」と和やかに聞いてくる、正則は誰だろうと顔をしげしげ見詰め、何処かで会っているようなと感じるも思い出せなかった。


「これは申し訳御座りませぬ、外務省の仲井真二郎に御座る、以前小池総理が外務卿の頃しばしばお目に掛かっておりましたがお忘れでしょうか」


「おおそうじゃ、仲井君か思い出した、して…お主こそ何処へ行くのじゃ」


「はっ、本日長崎より連絡が入りまして オランダが長崎県知事に「別段風説書」を提出した由とのこと、それを受け取りに向かっておる次第で御座ります」


「別段風説書とな…それは一体何なのじゃ」


「アメリカ海軍が来年日本に押し寄せるよって注意しろっといったオランダの書簡で御座ります」


「ほーっアメリカ海軍とな…そうかやっぱり情報通りよのぅ、儂もこれより長崎に行くのじゃが、今日は家族旅行でな 県庁には寄れんが別段風説書とやらの写しを儂らが泊まる宿に届けてくれんか、住所はここじゃ」と言いながら正則は手帳のメモ欄に宿の住所を書き、その頁を破って仲井に手渡した。


「承知致しました」と仲井はメモを受け取ると深々とお辞儀して席へと戻って行った。

正則はようやく黒船が来航するのかと呟き腕を組み、どう対処すべきかを考え始めた。



ふと気付くと志津江は窓枠にしがみつくように眼下を見下ろしていた。

「と…殿!富士山の頂きが雲間からのぞいてますよ、ほらご覧なさいあんなに美しく…」志津江は先程までの震えは何処へやら、それ以降大坂まで窓にかじりついて感嘆詞を洩らしていた。



 翌日、長崎見物を終え宿に帰ってきた正則に、外務省の役人から書類を渡されましたと宿の主人が持ってきた。


それは昨日仲井に頼んだ オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスが長崎県知事に渡した別段風説書の写しであった。


正則は湯に浸かり、一家で長崎名物の夕食を摂ったあと、くつろぎながらその書簡を広げていた。


その書簡には、アメリカが日本との条約締結を求めておりそのため艦隊を派遣することが記載され、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻とアメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を多く搭載しているとの噂もあると告げ、出航は来年4月下旬以降になろうとも伝えていた。


加えて、オランダ領東インド総督・バン・トゥイストの1852年6月25日付けの書簡も添付されてあった。


そこには、アメリカ使節派遣団に日本がどう対処すべきかオランダの推奨案として

「長崎港での通商は不本意であるがこれを許す、長崎へアメリカ駐在公使の受け入れを強要された場合は商館建築だけに止めること、またアメリカ人との交易は東京、京、大坂、堺、長崎の【商人】に限る事」

など合計十項目にもわたる、いわゆるアメリカとの通商条約素案を示したものだった。


これを読む内に正則は激昂しだした、それはオランダに対してである。

偉そうにオランダごときが、我が国がさもオランダの植民地であるような通商条約素案を出してくるとは…。


オランダには以前深川港での交易を許したものの府内での諜報、他国への機密漏洩が後を絶たず再びオランダとの交易は長崎出島に戻したのだった。


正直マラッカ辺りの鉱物資源、特に原油の輸送など日本の商船で充分賄えるところ…。

現に横浜の造船ドックには現在5万トン級のタンカー建造が進められているのだ。


昔世話になったよしみでそのまま続けていたが…オランダは近頃これを不服として長崎県知事にやたら噛み付いてくると聞く。


(ええい…どうしてくれようか、しかしタンカーを出せばマラッカ辺りは英国軍船がうようよいるだろうし、巡洋艦を護送に付ければ一触即発か…、いっそのことマラッカ辺りのオランダ・イギリスの如きは殲滅してやろうか、東インド・マラッカ周辺の海域など4・5隻の軍艦を派遣すればわけもなく制海権は握れるというもの…)


(いやいやそうとなればロシアが出てくるだろう、全西洋列強を敵に回すのは時期尚早というもの…ここは我慢するしかあるまい…)


(しかしこのような書簡を送りつけてくるとは…)

オランダの思い上がりの甚だしさに正則の怒りは収まらなかった。


この様なオランダの「別段風説書」などに頼らずとも日本側の諜報機関はフィルモア大統領が日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官ジョン・オーリック代将にその任務を与えたことは既に掴んでおり日本へも即刻報告が成されていたのだ。


さらに言えば1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」が東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発したことが知らされ、次ぎにオーリック代将がサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、新たに1852年2月マシュー・カルブレース・ペリー代将にその任が与えられたことさえも掴んでいたのだ。


この様にカビの生えた古臭い情報を、教えてやると言わんばかりの「別段風説書」に思い上がった通商条約素案まで添付してくるオランダの神経には…温厚な正則でもさすがに腹が立った。


正則は仁王立ちに立つと書簡を破り始めた、顔は憤怒に青ざめていた…。

それを見た子供らはそそくさと逃げるように隣の寝間に消えた。

志津江は心配顔でいつまでも正則の横顔を見つめていた。




 過ぐる6年前 東京を後にしたビッドルはコロンバスを率いて太平洋を横断し、12月にはチリのバルパライソに到着する予定であった…だが翌年になっても到着はなく、その消息は杳ようとして知れなかった。


アメリカ国務長官のジョン・カルフーンはビッドル等は日本に囚われたものとして、東インド艦隊司令官ジョン・オーリック代将に戦艦5隻を率いビッドル等を奪還せよとの命を下したが、戦闘スループ鑑ヴィンセンスがニューヨークに戻ったとの報を受けこれを中止した。


ヴィンセンスは東京を出てからすぐにコロンバスとは東西に別れ、清国へと渡海しそこで半年間清国水域に留まり、年が明けてニューヨークに戻ったのである。


ビンセンスの士官等は、ビッドル司令官はとうにアメリカに戻って日本の報告はなされているものと思っていたため、本国には特に連絡せず清国に派遣されていた司令官の下で任務に就いていたと報告された。


また彼らは東京への上陸が認められなかったため日本の情報は殆ど掴めておらず、大きな船の存在と訳の分からない怪鳥の住む湊であるとの報に、ジョン・カルフーンは頭を抱えた。


結局ビッドル等の捜索は、その年に終結した米墨戦争でアメリカ側は13,000人以上の戦死者を出したことでそれどころではなく次第に忘れられていった。


このビッドルの消息知れずの報は47年の秋口に諜報機関の手によって日本に報告されていた。

この年の秋、正則は太平洋の藻屑と消えたビッドル等を悼み品川港に石碑を建てた、そして日本の実状が知られずに終わったことは歴史通りペリー来航に繋がることを予見したのである。



 ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出していた。


それは、任務成功のためには最低4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。

また日本人は書物で蒸気外輪船を知っているかもしれないが、直に見ることで最先端にあるアメリカの軍事力を知らしめることがきると考えた。


そして交渉に当たっては清国人に対したのと同様、日本人に対しても恐怖に訴える方が友好に訴えるより多くの利点があるだろうと艦砲外交を決したのだ。


またオランダの妨害は充分予想されるため、長崎での交渉は避け直接軍艦で首都に乗り着けることも肝要と進言していた。


ペリーは日本開国任務が与えられると計画はさらに大掛かりとなり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」「サラトガ」「プリマス」に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。


しかし予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみであることが分かり、さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート艦「ポーハタン」が加わることとなった。




 1852年11月24日、ペリー司令長官を乗せた蒸気フリゲート鑑「ミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し一路アジアに向かったと諜報より外務省に連絡が入った。


ペリーはフィルモア大統領から、琉球の占領もやむなしと言われていた。

そして「ミシシッピ号」は大西洋を渡り南アフリカのケープタウンを回りインド洋のモーリシャス・セイロン経て上海に1853年5月4日に到着する。


この航海の間 各港で石炭補給を行い香港で帆走スループ鑑プリマスおよびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲート艦サスケハナと合流した。


このときすでにアメリカ大統領は民主党のピアースに代わり、彼の下のドッピン海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが航海途上のペリーには届かなかった。


上海でサスケハナに旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航、5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊した。


那覇に寄港するとすぐに首里城への訪問を打診、しかし琉球王国側はこれを拒否した。

だがペリーはこれを無視し、武装した兵員を率い首里城まで進軍する。


琉球王国は仕方なく武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除し士官数名と首里城に入城した。


一行は城の北殿で茶をもてなされ開国を促す大統領親書を手渡した。

このもてなしはさらに場所を城外の大美御殿へと移され酒と料理が出された。


しかしながら琉球王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしより下位の料理を出すことで暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していたのだ。


ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけまだ領有のはっきりしない小笠原諸島を視察した。


このときペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受けロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため宣言はうやむやになった。


ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、燃料と食料を補給し再び艦隊の一部を琉球に残したまま、7月2日に大統領が代わったことも知らず、前大統領の親書を手に4隻を率い日本に向け出航したのだった。


出航した艦隊は、旗艦である蒸気外輪フリゲート鑑サスケハナ、同ミシシッピ、帆走スループ鑑サラトガとプリマスの計四隻で、大砲は4隻合計73門に及んだ。



 1853年7月4日午後、アメリカ艦隊4隻が種子島の南東80kmを東に向け航行中であることが哨戒中の鹿児島第二空軍師団の哨戒ヘリが発見、鹿児島から羽田の空軍司令本部に第一報が入ったのは15時20分。


正則はこの報告を九段下の陸軍参謀本部で受けた。

同日16時40分、同本部に3軍の士官等が招集され、その対策会議に臨んだのである。


会場はざわついていた、正則が会場に入ると会場は急に静まり 緊張が走った。

正則は席に座り皆にも座るよう促した、そして咳を一つするとゆっくり語り出した。


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