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三十一.開国への動き

 正則は九段下の陸軍参謀本部2階にある参謀総長室で小池外務卿よりジェームズ・ビッドルが日本を去ったとの報告を聞いていた。


「そうか、もう帰ったのか…えろう早いのぅ、ゆるりと遊んでいけばよいものを」


「私も御留め申し上げたのですが、本人がどうしても帰りたいと申されるよって致し方も御座りませぬ…」


「そうか…帰ってしもうたか、それで土産はたんと持たせたであろうの」


「はっ、食料や水に加えコーヒー・煙草・マッチ・日本人形などで、特にビッドルが煙草の銘柄で“朝日”が気に入ったようでしたから大量に持たせてやりました」

と得意げに報告する。


「それだけか…やれやれ お主はケチじゃのぅ」


「と申されるは…」


「…………」


「今頃は三宅島の沖合であろうかのぅ…。

これよりあの小さな木帆船で太平洋の荒波を越え帰って行くんじゃろうが、アメリカに無事辿り着ければよいが。

あの老体…帰れば帰ったですぐに米墨戦争の勃発、休まる暇などありゃせんのに。


そのせいかは分からねど2年後の1848年10月1日にビッドルは故郷のフィラデルフィアに帰り…そこで死亡したと歴史にはある、あとたった2年の命というに。

じゃったら そう急がずともここでゆるり過ごせば…。


これより7年も後になろうかのぅ…元世の歴史ではマシュー・ペリーが日本の開国に成功するわけだが、ペリーはビッドルの日本開国失敗の顛末を研究し、武威で脅す砲艦外交によって日本を開国させたと歴史では言われておる。


しかし現世の歴史と今は余りにも違う、ビッドルは帰ってどんな報告をするのやら…。


たぶん報告を聞いた者は、開国要求どころか逆に攻め込まれる方を恐れるのではないかな、ゆえにペリーの来航どころか当分アメリカからのちょっかいは無いと覚えるが…いや、もしペリーが来航したならビッドルは帰国途中に太平洋の藻屑と消えた証になろう、さてさてどうなるやら」


「彼が65歳とは聞いておりましたが…余命2年だったとは。

しかし現世での歴史ゆえ…実際はどうなるか判りませんよね」


「ふむぅ…だいぶ時代をいじってしもうたから、実際どう変化するは神のみぞ知る…と言ったところかの。


さて、これで米国の脅威は当分ないだろう…あとは英国とロシアか、確か歴史年表では…。


1849年 アメリカ軍艦プレブル号(ジェームス・グリン艦長)、長崎に来航。

1849年 イギリス軍艦マリナー号、浦賀・下田に来航し測量を行う。

1851年 ジョン万次郎、アメリカ船で帰国。

1853年 ペリーが4隻からなる艦隊(内蒸気船2隻)を率いて浦賀に来航(黒船来航)

1853年 プチャーチン、4隻からなる艦隊(内小型蒸気船1隻)を率いて長崎に来航

1854年 プチャーチン、再来航

1854年 ペリー、再来航


米国は無きものとみれば英国とロシアが目立つのぅ、特に英国は阿片戦争で勢いづいておるゆえ いつ来航しても不思議は無い…。


大英帝国は米国の如く建国間もない国と違い世界制覇を目論む輩、一筋縄ではいかんじゃろう、あの大清国でさえ手もなくコロ負けした事を考えれば想像はつくというものじゃ。

また帝政ロシアもその気になれば兵の動員力は100万にも及ぶという…。


そう考えてくるといくら優れた兵器を有した日本でも数の論理には敵わぬ、我が方は現状陸海空3軍の将兵を合わせたとて十万にも満たぬ、清国は二十数万の兵で英国に対峙したが…何とたった二万の英国兵に負けたのだから、まっ 清が負けたのは数だけでは語れぬが…」


「やはり徴兵制は必須で御座りましょう」小池は言いながら窓を見つめた。


「左様、先日徴兵令の法令を起草し九条尚忠殿に提出したばかりよ、何とか早よう太政官布告に漕ぎ着けたいものじゃて。


儂はの…五年以内には五十万の将兵を擁したいと考えておる、これは西郷隆盛の征韓論ではないが不平士族を抑えるには有効に作用すると考えておるのよ。


また現状は先鋭なる軍隊は首都周辺に限られておるよって、今 関西・九州辺りを西洋列強に攻め込まれればどうにもならぬ。


よって地方にも兵の数や武器増大は当然のことながら地方財政・教育・インフラも充実させねば片手落ちというもの、国威とは総合力なんじゃ。


そのためには金がいる…のぅ小池 金が欲しいのぅ、富国政策の方は緩やかに進み造兵やその装備と兵站の出費はそれを軽く追い抜いていく、儂は技術屋じゃから金を使うことには慣れておるが…生み出す方は疎くていかん、何か良い方策はないものか…」


「閣下は金の心配などご無用にして下され、この数年 各省庁が推進する政策は着実に功を奏し、今年は実質で前年比15%を超える国内総生産の伸び率が期待できると大蔵卿が申しておりましたぞ」


「ほぅ15%超えとな…ふむぅ皆ようやりよるわ、これは期待できそうじゃ」


「閣下、富国と強兵は相反しまする…が 我々は如何に早く列強に追いつき追い越さんが為この相反を呑み込んで日々努力致しておりもうす、これは偏に閣下のお教えに報いんがための努力に御座ります。


今後 金のことは我等にお任せあれ、閣下には想うがまま強兵化と技術立国への舵取りを御願い致しとう御座る、なお苦しいときは苦しいと申し上げまするよって何卒心配はご無用になさって下さりませ」


「小池よ…嬉しいことを言ってくれる、分かった お前等の好意は有り難く戴くとしよう、そうとなれば儂は日本を世界に冠たる国へと導かなくてはのぅ」


「そんな日が来ることを楽しみに我らも努力致して参ります、皆にも今の閣下の御言葉を伝えとう存じまする」


その後、小池外務卿は外務状況の一通りを報告すると帰って行った。

知らぬ間に彼らは大きく成長していたことに正則は喜びを隠せなかった、そして正則が理想とする国造りにはさほど時間は係らないと感じられたのだ。



 正則が主導する新政府は、欧米列強を範としてこれに追いつき追い越すことをその目標にかかげていた。

いわゆる「富国強兵」である、そのためには当然近代産業の発展と強力な軍隊の創設が期待された。


そのため思い切った改革が遂行され、特に近代化政策を代表する殖産興業政策が大蔵卿の主導で推し進められていた。


新政府自らの発意になる殖産興業政策として、まず1844年夏 太政官札を諸藩に貸付け民業の振興をはかった、また鉄道,電信,郵便等の施設・制度にも着手した。


ついで1845年秋に工部省が成立すると、その主要業務は鉄道,電信の建設と経営、鉱山経営および各県での工部大学校の創設が精力的に進められた。


鉱山経営については1845年冬「日本坑法」が公布され、一旦は国内の鉱物すべて「日本政府の所有」とされたが、主要鉱山10余りを官行し他は民間に鉱業権を委譲して稼行せしめた。


重工業と鉱山以外の諸産業や農業と繊維工業の分野では民部省がフランスの技術を導入し、群馬県に富岡製糸所を創設した、民部省はその後大蔵省に合併されたがその事業は1845年夏に独立した内務省の所管とされ内務卿となった本多忠徳大により、林業,牧畜,農工商業の奨励,海運の開発などをかかげ勧業政策を推進したのだ。


また大蔵卿加藤幸司朗も、これを受け国内税による輸入を抑制し、農工商鉱業の資本の公債発行による調達を促した、また海運の育成と清国・朝鮮への直輸出の増大、金融の疏通など殖産興業を次々に推進させていった。


農学校,育種場,農事試験揚,種畜場,蚕種売捌所の創設と、やがて紡績所,製絨場の開設等も行われ、全体として模範工場や農場の経営にとどまらず民業の勧奨に力をそそごうと加藤・本多・水野の動きはこの時代 殖産興業政策の手本ともなっていった。


このほかに徳川時代までほとんど放置されていた北海道(のちに樺太を含めて)の開拓のために、1846年開拓使が設置され竹中伸二郎が長官となり1846年から10年計画で開拓,殖産を開始していた、またさきの加藤大蔵卿案により起業基金公債が発行され築港,道路整備,鉱山起業,鉄道建設および士族授産業にあてられた。


政府殖産興業政策の内容を整理すれば

1.旧幕藩から引継いだ軍需・民需産業の振興。

2.政府主導の鉱山開発と民営化。

3.海外から移植した各種新産業の模範工場や農場の普及。

4.民間産業(士族授産を含む)への助成。

5.鉄道電信治水等への積極的公共投資。


軍需工業は、その後陸海空軍に引継がれて造兵・造機を担当する軍工廠へと成長し各県にも数多く造営されていき、日本における機械工業発達の基礎の一つとなった。


なお鉱山業及び精錬はのちに民間に払下げられ、1850年以降の爆発的生産拡大に繋がっていき、輸出にも大いに貢献していった。


富岡製糸場に代表される新産業は、それ自体欠損つづきでやはり民間に払下げられたが、以後日本の主要産業となった繊維工業技術を導入する上で重要な役割を果たしたと言えよう。


また1843年、陸軍大学から肥料農学科が分離され、農学部・応用生物科学部・生物産業学部、また化学部より分離した肥料・農薬学部を包括して農業大学が創設された。


この四学部の中で特に肥料・農薬学部が開発した各種肥料及び農薬は広く農村に普及し、この3年で全国の農産物の収穫高は2倍以上の伸びを示したのは驚異的でもあった。


この収穫益に着目した地方も農業の技術導入に積極的となり、多くの農学校が各県に造られていき、併せて文部省が制定した義務教育制度を受け、各村や町に中学や小学校が多く作られ、帝国大学・県立大学・私立大学・高校も新たに新設されていった。




 1852年(明成8年)5月22日「太政官達第109号」が発せられ、太政官制を廃止して内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められ、ここに内閣制度が始まったのだ。

同時に大日本帝国憲法が発布され、続いて47都道府県が改めて制定されて東京府は東京都と改められた。


初代の内閣総理大臣には外務卿であった小池一太郎が就任した(第1次小池内閣)。

内閣総理大臣は、維新元年以来九条尚忠が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例は適用せず、どのような出自の者であっても国政のトップに立つことができるという点で、新政府におけるひとつの成果の完成形を表していた。


内閣制度はまた、諸省に割拠し力をつけつつあった“専門的官僚”をコントロールする上で、大臣の主導権確立は大きな役割を果たした。


なお内閣発足時、誰もが正則が初代内閣総理大臣になるものと決めてかかり、孝明天皇もこれを承認していた、しかし正則はこれを固く辞退したのだ、理由は簡潔である「その任は我に当たらず」であった。


正則は技術革新と育成、また強兵化に忙殺されていたことも辞退の理由を成すが、それよりも国政を預かるなど自分にはとても出来ないことくらい分かっていた、それは元世でも同様である、所詮いわゆる適正資質が違うのだ。


正則は代わりとして加藤幸司郎・小池一太郎のいずれを推そうかと迷ったが…やはりいつも自分に懐いてくる小池を選んだ…これも人情であろうか。


加藤幸司郎には小池の後はお前だと因果を含め収めた、しかしこうとなればこの内閣は正則の院政そのものであったのかもしれない…。


一方正則は、内閣発足に伴い元帥府条例の施行により元帥位を授かった、大元帥天皇に対する軍事上の顧問として陸海空軍の大将で「老功卓抜ナル者」に授けられる称号である。


この「元帥」は階級ではなく称号なので、「陸軍元帥・三田正則」といった呼称は正確ではなく、「元帥陸軍大将・三田正則」が正解であろうか。


こうして近代日本はようやく形を整え歩み出したのだ。


しかし国交は依然オランダと清国及び朝鮮に限られていた、これは正則が国威が整うまで暫くは維持せよの命が守られてきたのであったが…。


しかし近年 内需拡大は頭打ちで、GDPの伸び率は維新後数年続いた二桁台は今や一桁前半に低迷していた。


このことから新たに発足した帝国議会でも、広く海外と国交を結び 交易を盛んにして低迷する諸産業の活性化を図り、国民総生産と国民総所得の向上を目指せの声が次第に大きくなり始めた頃であった。

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