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三.カラクリ造り

 雨が上がり正則は3日ぶりに縁側に立って空を仰いだ、だが依然雲は低くたれこめ六月の憂鬱な空に変わりはなかった。


庭に咲き誇った紫陽花はとうに散り、今は青々とした葉のみが庭中を席巻している、晴れ間を少しばかり期待した正則だが…やはり期待外れで、代わりに忘れようとしていた前世への郷愁が再び脳裏に蘇る。


(今頃妻や娘達はどうしているだろう…。

あれから二ヶ月、家族や友人らはまだ俺のことを探しているのか、それとも探すのをあきらめ皆それぞれの生活へ埋もれていったのか。


タイムスリップという悪夢、それは遙か彼方の辺境に一人置いてきぼりをくったという想い、なぜ俺だけが…皆は前を向いてどんどん進んで行くのに自分だけが170年もの彼方からその後ろ姿を見送る想い。


そういえば昔 会社を去って行く友人に向かって「君は仕事を放り出して逃げるのか!」と酷い言葉を投げたことがあったが…。


その友人は「お前のような強い奴はこの世に1割もいないと思え、後の9割は俺みたいな弱者なんだよ、お前はいつも前しか見ていない、そんなお前に俺の気持ちなど分かるものか!だからそうやって去る者に鞭打つことが出来るんだ」


そときは負け犬の遠吠えにしか聞こえず、呆れ果て止める気は失せたが。

しかし今頃になって思い出されるとは、彼が何を言いたかったのか今なら何となく解る気がする、それは俺が弱者になったから、それとも置いてきぼりの寂しさから)


正則は濡れ縁の冷たさにふと我に返った。

木々のざわめきや風の音が耳に蘇り、遠くで鐘の音に混じって下女らの微かな笑い声が聞こえた。


(あぁやはり170年前の世界なんだ…)


緑の景色が朧に霞んで流れた、知らぬ間に涙が溢れていた。

(ここに来てから涙もろくなった、そう言えば昨夜も泣いたな…)


昨日、正次郎がカラクリの動きを見て凄い凄いと絶賛してくれた。

こういった褒め言葉は前世では当たり前に聞き流していたが、昨夜ばかりは正次郎が去り、部屋に一人佇んだとき自然に涙が零れた、それは歓喜の涙だった。


それは「いま俺はここに“実存”する」そんな“実感”を得たからからかもしれない。

 

(カラクリと言っても只のオモチャ、そんなオモチャの工夫であんなに喜んでもらえるとは、ならばもっと凄いカラクリを造ったら…と つい調子に乗り無謀にも“走る人形”を提案してしまったが、昨日はそれほどに嬉しかったのだろう)


次第に頭の中は郷愁から昨日の感動へと移り、とりとめない堂々巡りの想いが浮かんでは消えた。


(いま俺は精神的不安定期にあるのか、それとも鬱状態なのか、だがこんな精神状態も最近では悪くないと思える…ふむぅこれが問題かも知れないな、まさか気が狂う前兆…いかん、いかん)


正則はそんな思いを吹っ切るように頬を数回叩き頭を振った。


(さて、馬鹿なこと考えてないでそろそろカラクリ造りを始めるか、しかし走る人形とは言い過ぎたな、秋葉原で簡単にセンサーや電子部品が手に入る時代でもあるまいに、ハァまいったな。


まてよ、確か去年スペック外れの6軸ジャイロセンサと力覚センサーをデスク下のガラクタ箱に放り込んだはず、ということは前世から持ってきた鞄の中に入っている可能性はあるかも…。


フッ、何を考えているのか…肝心なサーボモーターやドライバーそれにモーションコントローラもないというに、センサーだけで何が出来る、いや電気さえない時代なんだ、もっと現実を直視しなきゃな、しかしあの鞄を持ってきたことは幸いだったかも、あんなガラクタ部品でもこの時代ならお宝かもしれぬ…)


正則は目が覚めたように濡れ縁を足早に歩き部屋へと戻った。

(鞄は何処にしまったのか…)

部屋中を見回し(そうか、もう二度と見ないだろうと戸袋の奥に放り込んだんだ)


正則は背伸びをし戸袋奥の鞄を無理矢理引きずり降ろした。

(クゥ、こんなに重かったのか)

それを部屋の中央に持って行くと何故か辺りを窺いそっと鞄の口を開けた。


鞄の中はこれでもかというほど大量のガラクタが放り込まれてあった。

その中から日常使いのノートパソコンを引きずり出し畳の上に置いた、そして祈るように蓋を開け電源ボタンを押してみた、だが予想した通り反応は無かった。

(バッテリー切れか…)


次にスマートフォンを取り出したがこれも同じ、それでもiPadと関数電卓は辛うじて生きていた。


後めぼしいものはないかと鞄を逆さにし畳の上に中身全部をぶちまけた。

A4小型プリンターやテスター・携帯オシロ・各種ハンディ計測機器、時代遅れのビデオカメラやデジカメ、またプリント基板や各種集積チップなど電子部品の数々、それに何の用途かも忘れたコントローラーなど重さにして10kg以上は有るだろうか。


正則は昔から不要品を溜め込む癖がある、それはいずれ必要になる日も来るだろうと思えるからだが…これまでガラクタ箱から救済されたものは1個とてなかったが、そんなガラクタ箱の中身を吟味もせずにそのまま鞄に放り込んできたのだ。


(あぁタイムスリップすると分っていたら もっと役立つものを山ほど入れてきたのに、はぁようもゴミ捨て行きのガラクタばかり詰め込んだものよ)

正則は少しは役に立つものが入っていようと期待したが、肩を落とし落胆の顔で暫しゴミの山を見つめてしまった。


(まっ、これでもないよりましか)

正則は思い直し、すぐ使う物と使わない物を分別し再び鞄に詰め込み始めた。


(パソコンには膨大な技術資料と文献、また各種の規格や便覧が保存されているから絶対復活させなきゃぁな、こうなると発電機が欲しいが、しかしこの時代 発電機なんぞは有るはずも無し)


正則は発電機製作に必要不可欠な技術と材料を一瞬で思い浮かべることができた、これも以前出向先でガスタービン発電機の開発に一時従事した経験が有ったからだが。


(発電機製作に必要なものは分かっていてもそれを作る手段が無い、まずは鋼材、それと工作機械…んなものは有るわけないし、ハァこの時代に有るのは金槌と金切鋏くらいなもの。


まっ工作機械はおいおい造るとして発電機造りに必須な電磁鋼板だが…。

これはシリコーン結晶の方位揃えに大規模な設備がいるから無理、仕方ないが鉄損は犠牲にしてただの鉄板で間に合わせるか…しかし均一厚の鉄板をどうやって造るかだ、まさか一枚一枚金槌で叩くのかよ。


銅線は銅細工師に頼むとして絶縁材は何にするかだ、エナメルなんぞこの時代日本に有ったろうか、まっ無ければ漆という手もあるな。


次に永久磁石だか作るとなれば大容量の電力がいる…ハァその電気が必要だから発電機を造るんだろう、フッまるで鶏が先か卵が先かの話しだな。


ならば面倒だが自励発電機でいこう、だが発電機が出来たとして動力は何にする、おっそうだ!ちょうどこの屋の裏に内濠に注ぐ小川が有ったな、たしか水流も早かったし枯れたことがないと老女が言っていたから水車を回すには打って付けと思うが…となると水車から造ることになるのか。


かーっ、何て回りくどい話しなんだ、最先端の技術があっても原始的な水車から造らにゃならんとは)


正則は気が遠くなるほどの創製プロセスに自然と溜息が洩れた、と同時に現世が如何に便利であったかを思い知らされた。


(おっといけない、そんなことよりカラクリ人形を造らねば。

しかし発電機を造る想いが先立つとカラクリオモチャなど…あぁ面倒くさい。


だが正次郎殿に約束したし発電機を作るには金も掛かる、ならばオモチャを造って売るしかないか、それも売れるヤツ)

そう思いきると正則の行動は早かった、関数電卓とシャープペン、三角スケールやコンパス・各種定規を座卓の上に移した。

そして大屋敷に行き女中から少し硬めの半紙を貰い朝のうちから図面を引き始めた。


(パソコンが生きてりゃCADが使えたものを、しかし手書きの図面は何十年ぶりだろう、昔は製図コンクールで競ったものだが…しかしドラフターが欲しいところ、それが無ければせめてT定規と定盤くらい有れば助かるが。


それに半紙ではシャープペンの芯が紙に食い込む、ふむぅ定盤と紙とT定規か…よし調達してみるか)



 昼過ぎ、雲の切間に少しばかり青空が見え それに誘われるように外に出た、だが久々の外出、その明るさに目眩を感じたがそれでも空を仰ぎながら歩き始めた。


(もう夏になるんだ)

弟切草…物騒な名の花だが隣家の塀沿いに黄色く可憐に咲いていた、この花は日中だけの一日花だが、正則の実家近くの河原一面に夏になると毎年黄色く咲いていたのを思い出した。


(数日前にもこの路を志津江殿と一緒に浅草寺の手前まで歩いたな…)

正則はそう思いながら散策の速度で脚の治り具合を確認するように歩いた。


(もうすぐ靖国の森が左手に見えるはず、しかしこうも風景が違うと東京にいるなんてとても思えない)

深い森や林に囲まれたこの界隈、まるで山陰の田舎道を歩く感覚だが右手に聳える江戸城の石垣群を見ると…やはり今自分は江戸に居るのだと実感できた。


小半時で人影は増え始め、次第に歩くのも困難なほどの人混みとなってきた。

平成の世なら日曜の渋谷か秋葉原といったところか、さすが百万都市だけのことはあろうか。


(えぇと、まずは紙屋だったな、この時代どんな紙が有るのだろう、まずはいろいろ見てから決めようか)

そう思い繁華な通りに紙屋を見つけ飛び込んだ、そして次に材木屋と建具屋に寄り夕刻近くに大きな荷物を抱え屋敷へと戻ってきた。


門を入り玄関右手の庭先から離れに向かう途中、大屋敷の縁先より人目を忍ぶような声で志津江に呼び止められた、明らかに正則を待っていたようだ。


少し はにかんだ風に俯き「街に出られたのですか…」と当たり障りのない言葉を投げかけてきた、本当はもっと違う言葉を用意して待っていたのであろう、だが正則に正面より見つめられ思わず違う言葉を吐露したようにも感じられた。


以前であれば下駄をつっかけ小走りに正則の前まで笑顔を届けてくれた美しい娘…今は縁先の柱に手を掛けたまま 何か言いたげに目ばかり輝かせていた。


「はい、街まで買物に」


「そうでしたか…」


話しはそこで尽きた、しばらく沈黙が続き何か言わねばと藻掻くふうに志津江の顔は曇っていった。

そして思い直したように「もうすぐ夕餉の支度が整いますから母屋の方にいらっしゃって下さい」と言い 寂しげに踵を返し廊下の暗がりへと消えた。


(やはり親父殿に何か言われているようだ、俺ってやっぱり得体の知れない奴だからなぁ、しかし情けない…志津江殿がこんなに好きなのにもう少し声の掛けようもあったろうに、しかし親父殿のことを考えるとなぁ。


いくら命の恩人とはいえ傷を治してもらい、温かい食事と離れに住まわせ小遣いまでもらって、これで愛娘に手を出したら畜生にも劣るか、あぁやっぱ駄目だよなぁ。


って、65の妻子持ちが何を浮ついているのやら、やはり早々にもこの屋敷を出る算段をしなくては、しかし先立つものは金、何とか長屋程度に引っ越せる金は貯めなければ…)


早い夕食を母屋で済ませ、早々に調達した縦2尺横3尺厚み1寸の定盤を座卓にセットした。

さすが建具師、板の反りもなく仕上がりは上出来だった。

T定規については建具屋が「一体こりゃ何ですかい」と聞いてきたが適当に応えた、だが出来た定盤にT定規を当て直角度の出来を調べていた正則に「絵図面の道具でしたか」と聞いてきたときにはさすが建具師分かりが早いと驚いた。


紙屋では麻紙の表面が極力滑らかに仕上がったものを調達した、色は真っ白とはいかないが昔の古地図の風合いで絵図面には適しているようにも感じた。



 夜も更けたころ、粗なポンチ絵を描き終え、細部の工夫に移行しようとしたとき正次郎がヌッと部屋に入ってきた。


「おや、さっそく絵図面ですかい、ほう…道具も揃えやしたね、おやっ この道具は何です」正次郎が指さしたのはT定規だった。


「これは平行線を引く道具ですよ、建具屋さんが使っていた物を分けて貰いましてね」と適当に誤魔化して応えた。


そのとき正則の持っているシャープペンに正次郎の目がとまった。

その視線を感じたとき、しまった!と指が震えた。

関数計算機やプラ定規・コンパスは膝下に隠してあったがシャープペンだけはうっかり手に持ったままだった。


クロームメッキのペン先にプラスチックの柄、この時代に有るはずのない筆記具を持っている、これは弁明の余地は無かろう。

(どうしよう…)


「兄い、それちょっと見せて下さいな」正次郎の目が光った。

正則はままよとばかりシャープペンを正次郎に手渡した。


「これ何、絵図面を書く道具?」

行灯に透かしたり指で握ったり、爪で弾いたりしながら首を傾げ見つめている。


「兄い、これどこに売ってたの」


「何処で買ったかは思い出せませんが、以前から使っていたもののようです」


「へぇっ、どうやって使うんだろう」


「これはですね」

と言いながらペン頭をノックし、芯を少し出してから麻紙に線を描いて見せた。


「ヘェ線引きの道具なんだ、しかし今時は便利な物があるんですねぇ兄い、江戸では見かけない道具で…どこの産ですかい」


「さて私も記憶が無いのではっきりとは申せませんが、上方か或いは長崎…そんなところじゃないでしょうか」


「長崎かぁ、俺っちの今一等行きたいところすっよ、兄いは行ったこと有るんすかい、おっと記憶が無かったんすよね。


あぁぁいいなぁ長崎かぁ、何でも色の赤いのや黒いのとか鬼のような異人さんがいるらしいすっよ、それと大筒で武装した大きな帆船が何艘も海に浮かんでいるとか、きっとカラクリなんかも想像できないような凄い物が有るのでしょうね」


正次郎はとりとめない長崎の旅情と異国の好奇に目を輝かせながら、知りうる限りの知識を並べたて一人悦に耽って帰って行った。


(ふーっ危なかった、正次郎殿でなくもう少し知識の有る者がこのシャープペンを見たら…この時代のものでないことぐらいすぐに見破られてしまう、これからは気をつけなくっちゃな)

正則は気を取り直し、シャープペンを持ち直すと図面の続きを進めていった。



 その日以来、正次郎は毎日のように正則の部屋に入り浸るようになった。

図面を描いている最中は正則の肩口からいつまでも図をのぞき込み、正則が厠に立ったときは図面の隅々まで目を通していた。


「兄い、この絵図面の描き方はすごく解りやすいけど、何処で覚えたんすか」


「んん、それが私にも思い出せないんです、ただ製図法は三角法という事は覚えていますよ、ほらこのように箱を折りこれを展開するとこのような絵図面の投影図になるでしょ」

正則は紙くずをハサミで展開形状に切り、それを折ったり展開したりして正次郎に三角法の投影図の考え方を説明した。


「このように上から見た投影図は上方に平面図として、下には主投影図として正面図を配置し、右には右側面図を配置するんです、ほら解りやすい絵図面になるでしょう」


「ほぉっ、なるほど 説明を聞いたら兄いの絵図面から出来上がりの形が見えてきましたよ」


「でしょう、しかし正次郎殿は飲み込みが早い、やはり天才ですなぁ」


正次郎は褒められて少しはにかんだ、しかしその存在は邪魔の一言に尽きるが。

計算をいろいろしなければならないが正次郎が構えていたら関数電卓は出せないし、筆算で数式でも書きだしたら質問攻めだろうしで図面は遅々として進まなかった。


そんなことから計算は正次郎が寝に帰った後 まとめて行うことにした。


計算に6日、組立図に12日、部品図に13日も費やしようやく全図面ができあがった。

正次郎には二十日も有れば完成すると言ったが図面だけで1ヶ月も費やしたことは情けなかった、だが日々図面が出来ていく様をみていた正次郎にとって 物づくりの基礎には図面が不可欠であることを学び、また製図法が学べたことは彼にとって目から鱗の想いでもあったろう。



 カラクリは正次郎の意見を入れて飛脚人形とした、それゆえ挟み箱を担いで軽やかに走る人形を図面化していったのだが…正直正則は不安であった。


加速度センサーにモーションコントローラーを組合わせたフルクローズサーボのロボットなら一定パターンの走り動作程度は可能だろうが、木と少しの金属それと凧糸などで作る人形に走りなどのバランスを与えることが出来ようか。


正則がまず着目したのはジャイロである、子供の頃よく遊んだ地球ゴマの応用としてフライホイール2個を縦に直列配置し、各々正転逆転に回すことで反作用を相殺、片足となったときの転倒作用を打ち消そうと構想したのだが。


しかしあくまでも構想である、計算上ではジャイロ効果を高めるにはフライホイールの質量・径・回転を高めることが必要だが、人形のサイズには限りが有り またモーターもないため、限定サイズのホイールとゼンマイバネの組み合わせでは発揮しうるジャイロ効果は小さい、そのため人形の慣性質量も著しく軽減せねばならないのだ。


だがこの時代、強度と軽さを備えたカーボン複合材など有るはずもなく、代替えとして木材となればバルサ材…んなものはないから桐に頼るしかない。


正則は常に使用材料に悩まされた、本当にこの時代は何もないとさえ思えるほどだ、それはまるで無人島で小屋を建て、草木をかじりいかだを作って脱出、そんな感覚でもあった。


そんなことから取り敢えずは下半身だけのカラクリを試作し、まずはジャイロ効果の可能性を試してみようと考えた。


次に動力源のゼンマイである、正次郎の鯨髭ゼンマイでは全く力が足らないことはすぐに解る、やはりハガネのゼンマイ…それも相当強力なヤツが必要だ。


必要トルクと動作サイクルタイムからゼンマイは幅8mm、厚み0.4mm、長さ6200mmのハガネゼンマイが必要と計算されたが、これを鍛冶屋に発注するとしてどう頼むかである。


この時代これほど薄く長い鋼を打ち伸ばし、さらに熱処理まで出来る職人が存在するとは思えなかった、しかし江戸後期とあれば和時計が造られていたはず、ならば探せばゼンマイを作る職人がいても不思議はない。


案ずるより産むが易し、取り敢えずは鍛冶屋にあたってみようと考えた。

またギヤ類や軸類はどうするか、こればかりは木製というわけにはいかず、まずは入手可能な真鍮製として細工師に粗方を作って貰い、歯切りと軸仕上げは時間が掛かるがヤスリと磨き粉仕上げでいこうと正則は考えた。


次の日から正次郎にも手伝ってもらい、手分けして材料の調達に街中を奔走した。

ゼンマイは正則があたった鍛冶屋や細工師では全て断られたが、正次郎があたった鍛冶屋の一軒に焼きは出来ないが形造りだけならやってみようと申し出たところがあり、正則はその一軒に望みをかけた。


こうしてゼンマイ造りのめどが立ったためその翌日より金属部品の図面を持って方々の鍛冶屋や細工師にあたった、しかしこれも同様に図面に書かれた数値が厘単位で書かれているため各細工師らは「厘だとぉ」と目を剥いて抗議した。


この時代 測定器と称するものは鯨尺くらいなもの、厘単位の測定は不可能なのだ、ゆえに正則らは図面に書かれた精度にはこだわらず 出来るだけでよいからと頼む頼むで押し切った。


それから半月後、ジャイロ用フライホイールと各種の金属シャフトやギヤ類はそこそこの精度で正則に届けられた、しかし今後部品製作を外注化するのであれば尺単位のノギス配布は必須であろうと感じた。


正則はその日以降 日夜ヤスリと磨粉研磨に没頭した、幸いマイクロメーターが鞄のガラクタ群に有ったのが幸いし、高精度に部品を仕上げることが出来た。


数日してハガネのゼンマイが正則の元に届けられた。

それは直径2寸ほどのリング状に巻かれ、両端末は絵図面通りのフック形状に成型されていた。


「ほーっやるもんですね」

正則は正次郎と共にその出来の良さを喜び合った。


しかしそのゼンマイは形ばかりで熱処理が施されておらずバネにはなってはいない、そのため弾性を与えるべく焼入れ焼戻しが必要となるが…熱処理温度の均一化のための炉など造る余裕はない。


(よし、一か八か温度計は無いがやってみるか、しかしこの時代 ヒマワリ油とか紅花油なんぞ手に入るだろうか…)


「正次郎殿、ヒマワリ油か紅花油のどちらでもいいですから五合ほど買ってきてはくれませんか」


「そんな油なんぞ何に使うんです」


「このゼンマイの熱処理にですよ」


「熱処理…何すかそれは」


「後でゆるりと説明しますからまずは買ってきて下さいな」


「分かりやした、ヒマワリ油か紅花油を五合ですね、しかし初めて聞く油名…江戸の何処に売っているのやら、まっ一っ走り行ってきやすよ」


と言って駆けて行ったものの、徳利を下げ帰ってきたのは夕闇迫る頃だった。

「兄い、浅草外れの油問屋で何とか紅花油を見つけやした、はぁもうくたくたで」


「それはご苦労様でした、では夕餉のあとに熱処理を始めますか」


 

 正則と正次郎は夕餉を済ますと炊事場に降り、二つの竈に炭を焚くと一つの竈には鉄鍋をかけ紅花油を熱し始めた。


炊事場で夕餉の後片付けをしていた志津江は男二人が鍋を持ち出し油を沸かしだしたのを訝しく思い「浅尾様、何か揚げるのですか…」と怪訝な顔で聞いてきた。


すると正次郎がすかさず「ゼンマイを熱処理するのさ」

さきほど覚えたての言葉を得意げに返す正次郎に正則は含み笑いを浮かべた。


「兄い、笑うことはないでしょう」


「正則様、ぜんまいの天ぷらがお好きなら言って下されば私が料理しますのに…」


「たわけ!誰が食べるゼンマイと言うたかよ、分からんヤツは黙っとれ」

志津江には強い口調で応える正次郎である。


「さぁ炭の焼け具合もよい頃合い、まずは焼き入れから始めますか」

正則はいいながら、火掻き棒でかき回し 炭の赤みが均一になるよう団扇で扇いだ。


(さてマルテンパーでいくかオーステンパーでいくか、確か板バネの様な薄物には

オーステンパー処理の方が機械的性質が向上すると聞いたことがあったが…よしどうせまぐれを狙うのなら確率の高い方でやるか)


正則はおもむろにゼンマイを長鋏に掴むと赤色に輝く炭の中へゴソゴソと潜り込ませ勢いよく団扇で扇ぐ、すると材料が薄いせいかすぐに全体が赤みを帯びてきた。


(たしか昔、熱処担当に手ほどきを受けた800℃の色合いはもう少し白かったな…)

色を見つつ団扇であおぎ、ほぼ記憶の色と一致した頃よりその色をキープすべく空気の吹き込み量と炭の被せ量を調整しだした。


(800℃を20分程キープしよう、それから徐冷に30分かけ 次は焼き戻しに1時間かけるか、何とかうまくいけば良いが)


「正次郎殿、このゼンマイの焼き色をよく覚えておいて下さい、また造るときに役に立ちますからね」


数をおよそ秒針の速さで1200ほど数えると竈からゼンマイを取り出し用意した灰桶に放り込みその上から軽く灰をまぶした。


「正次郎殿、このまま四半時程も冷やし次は焼き戻しです、紅花油は煙が出るまで熱して下さいな」


「兄い、一体何をしてるか てんで見当もつきやせんが…何処でこんな技を覚えたんすか」


「さぁ…どこで覚えたのでしょう」と首をかしげ恍けて見せた。


やがて紅花油から白煙が上がり始めた、それを見た志津江が興味深げに近寄ってくる、すると付近にいた女中や下女たちまでもその白煙に驚き寄ってきた。


正則は冷えたゼンマイを灰桶から取り出し、表面の炭化カスを藁縄でしごきおとした、そして行灯の側に行きバネ表面のパーライト色を確認すると煮えたぎった油の中へ静かに落とした。


(紅花油が白煙化する温度は250℃、引火点は320℃前後、焼き戻しに適した280℃は引火点直前という際どさ、気をつけないと一瞬で火が上がるな)


正則は鍋上の天井を見上げ、あの高さまで火が噴き上がることはなかろうと思うも、もしも出火した場合を憂慮し消化の為に灰桶を鍋の近くに置いた。


鍋からは猛烈に白煙が上がり油面は滾ったように揺れ始めた、この状態を1時間キープすれば焼き戻しは完了する。


「正次郎殿、このまま半時ほど今の滾り状態を維持しますが、今日は浅草まで出掛けられたからさぞお疲れでしょう、後は私がやりますからどうぞもう休んで下さい」


「そんな、最後まで見させてくださいよ、でっ…後で教えるって言ってた熱処理だったか、半時も待つならその間に教えてくださいよ」


「分かりました…」とは言ったものの…Fe-C系の拡散変態など説明しても理解の埒外であろうから「ああすればこうなる」といった予測論ばかりで説明していった。


やがて半時がたち 鍋の中よりゼンマイを慎重に取り出すと手で触れる温度まで待って付着した油滓を布で丹念に拭き落とした。


ゼンマイ材料は磨き鋼帯ではないためバネ特有の色目にはほど遠く、これでもバネかと思ったが、強く外径を握るとあのバネ特有の反発が手の内に感じられ 思わずニヤけてくる。


正則はその腰具合からゼンマイは確かにバネになったと確信をもった。

まぐれに近い結果ではあるが正則の能力はまぐれも成果に繋げる技術力と言ってよかった。


「正次郎殿、ゼンマイは成功です協力ありがとう」


ありがとうと言われても正次郎には何の礼やら分かるはずもなかったが、取り敢えず「いえ、兄いこそご苦労様でした」と返した。

志津江に至っては鉄の巻物を鍋で煮て、成功したと喜ぶ二人こそ奇っ怪に映るばかりであるが。



 こうして飛脚人形の腰から下の部品は7割程が揃った。

しかし後の3割は難しい部品ばかりが残った、特にジャイロ廻りの部品はその殆どが金属部品となるため相当困難が予想される。


製作困難な部品は、増速ギヤレーションとジャイロ軸受けであるが、軸受けはジャイロ回転数が2000rpmの高速回転が必要となるためどうしても低摩擦軸受けが必須となってくる、が…この時代に玉軸受けなど有るはずもなく、代替えとして真鍮製の滑り軸受けを考えた、しかし乾燥スベリ摩擦はμ=0.46もあり、油ウェット状態の動摩擦でもμ=0.12もある、これではギヤレーション軸受けの摩擦抵抗も考慮すればゼンマイトルクではとても高速回転など望めない。


よって正則は先にギヤ単体を製作し、ギヤレーション増速部のギヤ軸受けも同様に低摩擦化を考慮しなければならないことから後で一緒に考察していこうと考えた。



 翌朝、早い内に正次郎が部屋に訪れた、そして机に散らばった図面を整理する正則に「兄い、きょうから私にも何か手伝わせて下さいよぉ、材料や部品調達も一段落したし、さりとて道場に行く気なんぞさらさらないし…だからもう暇で暇で」


「正次郎殿、もしお暇でしたら手伝ってくださいな」


「やる!やりますよ、もう何でも言って下さいな」

正次郎は嬉しそうに座り込み机の上の図面をのぞき込んだ。


「正次郎殿には人形の上半身でまだ出来ていない部品を作って貰いたいのですが、図面はこれと、これです」

組立図一枚、部分詳細図と多品一葉の部品図2枚をかき集め畳の上に並べた。


「俺にできるのかなぁ」

並べられた図面を見ながら正次郎は自信なさげに首を傾げた。


「上半身の動きは少ないですから正次郎殿でも出来ますよ」


「ふぅん、こんな俺にでもねぇ」


「いや正次郎殿、そういう意味じゃ無く…」


「兄い冗談ですよハハハッ、ぜひやらせてください、兄いの手伝いがしたくてしょうがなかったんですから」


正次郎のぞんざいな口調が知らぬ間に改まっていることに正則は気付いた。

(この若者…どうやら本気を出してきたようだな)

正則はそんな正次郎の横顔を見つめ頼もしく感じた。


正次郎は半刻余り組立図と詳細図に没頭し、次に部品図を見だした。

「兄い、それにしても凄いねこの絵図面、筆書きじゃなく定規の正確書きだから現実感が読み取れて作るのにも楽ですね、…あれ!出来ていない部品って難しいものばかりじゃないの」


「そう、ごめんなさい、この飛脚人形を生かすも殺すも頭髪と顔の造作、先日見せて頂いた正次郎殿の人形の顔と髪は素晴らしいの一言に尽きました、私にはとてもあのような芸術感覚は有りません、ですからこの部分は初めから正次郎殿にお願いするつもりでした、それと飛脚のもつ挟み箱や着せる衣装なんかはとても私では出来ませんよ」


「へへっ、芸術感覚…何のことやらサッパリだけど、俺って器用ってこと?」


「ええそうですよ、是非にもお願いします。あっ、それと着物の仕上がりも男手とはとても思えない出来でしたよ」


「そ、そうかなぁ、ちょっと照れる、よし頑張ってみるか、でも着物は妹の志津江が作ったんですがね」


「志津江殿が…そうでしたか、じゃぁ今度も志津江殿に作って貰いましょうよ」


「兄い、妹なんぞ仲間に加えるんですかい、やだなぁ」


「そうおっしゃらず、手先が器用な妹さんじゃないですか」


「んん、でも親父が何と言うか、先日も浅尾殿が完治したというにおまえはいつまであの部屋に入り浸るのか!って志津江を叱っていましたからねぇ」


(あぁ、やはりそんなことが有ったんだ…)


「でも兄い、俺が何とかしましょう、人形に俺や兄いが縫った不細工な着物は着せられませんやねぇ」


志津江殿に会える…そう思った刹那、正則は胸に甘い痛みを覚えた、しかし同時に親父殿の顔がヌッと脳裏をよぎり、一瞬で甘い痛みは泡のように消えた。


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