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二十九.ビッドルの想い(品川から皇居へ)

 朝の陽光が湾内を明るく照らしていた、しかし湿度は不快に高く深い眠りが得られなかったのか…それとも昨夜の恐怖が糸を引いているのか、頭の芯が痛んだ。


米国東インド艦隊司令官ジェームス・ビッドルは、戦列艦コロンバスの艦上で深川一帯に連なる巨大な工廠群を眺めては溜息をつき…時折頭痛に顔を顰しかめていた。


工廠群には幾本もの煙突が立ち並び黒煙白煙が吹き上がっている、さながらピッツバーグの工場群を思わせた。


ビッドルはペンシルベニア州フィラデルフィア郊外に生まれた、幼い頃 父に連れられ馬車でフィラデルフィアの街に行った際、色とりどりの明かりに飾られたフィラデルフィアの夜景を見た、それは夢の出来事のようでもあり その煌びやかな光景は幼い脳裏に深く焼き付いた。


その子供の頃見た夜景と昨夜見た東京の夜景が重なりビッドルは望郷にくれていた…。


ビッドルの青春時代はペンシルベニア大学で過ごした数年間にある、学業の休みの間は友人らとニューヨークやボルチモアに旅し、また長期休暇にはエリー湖畔 クリーブランドへと旅をした、その旅の途中ピッツバーグで数日滞在したことがあった。


ピッツバーグの工場群を初めて見た時…アメリカの底力を感じたものである。

しかし今見る日本の工廠群は規模が違った、ピッツバーグのような小さく無秩序に汚れた工場群ではなく、正確に区画され高さも均一に居並び、緑も多く壁は純白に光り輝き連なっているのだ。


この国は…一体何だろうと思う、東洋の遥彼方に点在するちっぽけな島国、ヨーロッパでこの国の存在を知る者など殆どいないだろう…そんな名も無き国が今 自分の目の前に圧倒的な存在力を誇示している。


国の発展は必ず近隣諸国の影響を受け、協調ないしは鎬合って成長していくものだろう、ところがどうだ…近隣の朝鮮・清国・東南亜細亜諸国の文明模倣どころかヨーロッパ先進国さえ足下にも及ばない超文明的発展を遂げている。


それらは夢か幻か…科学・経済・政治の変革理論などは完全無視した神秘的変革としか言いようがない。


甲板に多くの船員が出ている、船員達は船縁のそこかしこでかたまり 感嘆の声を上げ周囲を指差して魅とれている、イギリスでもフランスでもこれほど文明の進んだ光景など見ることはない…ゆえに船員達の馬鹿騒ぎは致し方ないのであるが…。



 前方から曳船タグボートと思しき小船が4隻こちらにやってくる、2隻はコロンバス後方にもう2隻はビンセンス後方へと回り込んだ。


すると隣の巨大戦艦から「ロープを外せ」と声が発せられた。

(一体あの大音響なる声はどうやって造られるのだろう…)ビッドルは昨日同様に首を傾げた。


船員に指示しロープを解かせフックは海に投げられた、すると先ほどの小舟の内1艘がコロンバスの後部に、もう1艘がコロンバスの右舷に舳先先端を押し当てるように接触させていく。


(おいおいこんな小舟で二千数百トンの戦列艦を押そうと言うのか、馬鹿な…)


それを見ていた甲板上の船員から一斉に失笑が湧きあがった。

それは無理からぬ話である、まるで蟻が大きなバッタを引っ張るに似ているのだ。


しかしその笑いは一瞬に凍り付いた、何とコロンバスが動き始めたではないか。


小舟は猛烈な音を蹴立て、水しぶきをまき散らしながら戦列艦をぐんぐんと押していく。

そして右舷の小舟も巧みに操船し戦列艦を左手の桟橋へと誘導していくのだ。


ビットルは昨夜より驚きづめであった…それは巨大な物に対してであったが、今度は小さい物に驚いた。

(一体どんな仕掛けでこれほどの力が出せるというのだ…)


瞬く間に戦列艦コロンバスとスループ鑑ビンセンスを桟橋に着岸させると小舟は悠々と引き上げて行った。

船員らは呆顔でその小舟を見送っていた。



 桟橋には100人ほどの黒い集団が一列に並んでいた、それはこれまでに見たことも無い黒黄色オリーブドラブ一色に統一された先頭服に戦闘用ヘルメットを被った異様な一団だ、またその一団の手にはこれも見たことのない奇っ怪な形の小銃と思しき銃が携えられていた。


その時、桟橋奥のクレーンが動き 手摺りの付いた橋のような物が回向してきた、それが桟橋と船の縁を繋ぐ様に架けられ、また同様にビンセンスにも架けられたのだ。


ビッドルは覚悟を決めた、敵の懐内で反抗して勝ち目の無い事はわかっている、現にあの巨大戦艦の砲塔はコロンバスとビンセンスに向けられているのだから。


ビッドルは日本側役人を迎えるべく船員全員を甲板に整列させ、船員に抵抗するなと命じた。


暫く待つ内、先の先頭服に戦闘用ヘルメットを被った兵20人ほど乗り込んできた、彼らは乗り込むと甲板上に横一列に並び、手に持った小銃の筒口を天に向け構えた。


兵に続き正装の軍服を着た士官と思しき3名が船に乗り込んでくる、その3名の内1名が前に出て流暢な英語で語り出した、どうやら通訳であるらしい。


「ジェームス・ビッドル司令官は前に出なさい」


(やはり私の名を知っている…)そう思いながらビッドルは通訳官の前に進んだ。


「貴官がジェームス・ビッドルであるか」と通訳官が問う。


「アメリカ東インド艦隊司令官ジェームス・ビッドルである」と返す。


「お役目ご苦労に御座る、これより我が国を代表して外務卿が御会いする、手荷物を持って桟橋まで降りて下さい、貴官に同行するは両艦で6名までと致す、御用意を」と敬意を払った丁寧な物言いだった。


ビッドルは「承知した、では暫くお持ち下され」と返し敬礼した。


それを聞いた日本側の士官3名は武装した兵20をおいて船を下りた。

甲板上に整列した兵等はそのやりとりを呆然と聞き、前に居並ぶ異形の兵達の珍しい装備に見とれていた。



 ビッドルと同行士官らは Shinagawa Station から異形の兵等に引率され Diesel locomotive という機関車が牽引する専用客車に乗った。


ビットルは東海岸北部で以前 機関車を見かけたことがあった、しかしフィラデルフィアは未だ鉄道は整備されていないため鉄道に乗るのは今日が初めてだ。


しかし米国で見た機関車は蒸気機関車で煙をもうもうと吐いていたが…この機関車は煙は吐いていなかった。


ビッドルも士官も馬車とは異なり殆ど揺れの無いこの客車がいたく気に入った。

途中出された熱いコーヒーが国で飲むコーヒーより旨く、テーブルに置いたカップのコーヒーが零れないことにも驚いた。


また走る速度の余りの速さに眼を剥いた…生まれてこの方この様な速い乗り物に乗った経験が無かったのだ。


車窓を流れる風景も素晴らしかった、見たことも無い巨大な建物や舗装された道路、街の賑わいが次から次へと広がり、窓にしがみつき何時まで見てても飽きなかった。


やがて列車は Tokyo Station という所に着いた、どうやらこの Tokyo Station がこの都市の中心であるらしい。


駅舎を出ると駅舎前に幌馬車に似た車が5台並んでいた、その乗り物にビッドルは士官らと共に分乗した。


やがて馬も繋がずにその車は勝手に走り出した、ビッドルも士官も一様に首を傾げるも…もう驚くことには麻痺していた。


走り出してすぐ 前方に巨大な城が迫ってきた、車は小橋を渡り門をくぐって暫く走ると右手にある瀟洒な建物の前で止まった、瀟洒な建物は皇居迎賓館といった。


この皇居迎賓館は昨年末に完成し、ビッドルらが外国用人で初めての賓客と聞いた。


外観は洋風であったが中に入ると純和風である、ビッドルらは靴を脱ぐように指示され気の遠くなるほど広く長い畳の廊下を歩いた、アメリカ海軍の詰め襟の高い正装で身を飾ったビッドルが先頭を進み、士官らがその後に続く。


アメリカ海軍士官はスカーフ着用が正装であるが、日本の湿度の高い夏の環境には合わず一様に汗を滴らせていた…しかしこの建物に入ってからは自然と汗が引きはじめる。


彼らは途中それに気づいた、建物内は秋のカリフォルニアのように湿度は感じられず過ごしやすい環境にあったのだ。


一体どんな仕掛けでこの環境が保たれているのかと辺りを窺ったが分からなかった。


進む右側の壁(襖)には東洋風の金彩と群青に彩られた花鳥図や竹林の図が描かれ一同を楽しませた、そして右に折れ 吹き抜けの広い部屋に入った、その部屋の奥の大扉が開かれ中へと案内される。


中に入ると窓も無いのにその部屋は春の日差しが溢れるほどの柔らかな明るさだった。

一同は明かりの源である天井を見る、天井には無数の光る箱があり眩しいほどだ。


彼らはもうこれだけで呑まれていた、土人の住む村落という意識は完全に飛び この人工的に造り込まれた環境に驚嘆し、高度に進んだ「文明」を感じたのだった。




 会談も無事終わりビッドル等を歓迎する晩餐会が催された。

そして夜も更けた頃…ビッドルと士官らは今夜の泊まりにそれぞれ設備の整った個室に案内された。


部屋の設備使用法の説明を受けると係員は去り一人になった。

ビッドルは久々に熱いシャワーを浴びると係員が置いていった浴衣というものに着替え応接椅子に寛いだ。


まるで夢のような一時であったと思う、国務長官のジョン・カルフーンに命じられた修好通商条約の批准とまでは行かなかったが、条約の書簡類は受理された。


そして再度米国側が来訪するまでに、条約の内容を吟味検討し加筆・修正したものを米国が認めるとあれば批准に応じてもよいと外務卿が申し添えた…。


それと晩餐会である、久々の野菜 それと肉や魚料理の数々、また極上のワインやコニャックは素晴らしいの一言に尽きた。


今回の渡航はまずは成功と言っても良いだろうか、と この時いつもの癖で辺りを探す…ふとパイプを船に忘れたことを思い出した。


そうなると俄然吸いたくなるのが人情である、その時応接机に置かれた長方形の木箱が目端に入った、何であろうと蓋を開ける…紙巻き煙草が整然と並べられていた。


ビッドルは驚喜し1本を震える手で摘まむと香りを嗅いだ…数日ぶりの何とも言えぬ極上な香りにうっとりと眼を細め、暫し酔いしれた。


(火は……これかな)木箱と灰皿の間に置いてある小箱に 金色に突き出たボタンを認めた。

ビッドルは小箱を手に取ると不用意にボタンを押した、カッチと音がし炎が吹き上がる、ビットルは驚いて箱を落とすも、再度拾い上げ今度は慎重にボタンを押した。


今度は余裕で煙草に火を点けることが出来た、ビットルは箱をしげしげと見詰め 首を傾げてから机に戻し、煙を胸一杯に吸い込んだ。


「フーッ」応接椅子にもたれ込み煙を吐いた…至福の刻である、想わず失笑が零れるのを禁じ得なかった。


一話単位が長文過ぎ「読み切るのに疲れる」との御指摘から、以降は一話を二分して掲載していきます。

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