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二十七.維新の組織造り

 年が明け1844年の元旦を迎えた。

天皇親政が新たに始まったこの年は、一世一元の制により「維新」と改元され、1月1日を新暦採用により2月18日と改められた。


昨年、旧暦の閏9月20日 軍事クーデターにより江戸城を占拠し、同時に江戸全府を制圧した。

そして5日を限度として幕府諸機関の解体、江戸在府の譜代外様全ての大名屋敷を没収し人質を取り一家郎党は強制的に国元へ放逐した。


同日、江戸幕府第12代将軍徳川家慶は政権返上を仁孝天皇に上奏し翌21日に天皇がこれを勅許した形で大政奉還がなされ、多少強引に過ぎるも併せて王政復古の大号令をも発し体裁を整えた。


これら倒幕のシナリオはクーデターの数年前より正則らの手で綿密に進められ、クーデター前の天保14年閏9月16日には仁孝天皇より大政奉還の勅許及び王政復古大号令の詔勅は正則らの手の内に下されていたのだ。


因みに王政復古とは、江戸幕府を廃絶し同時に摂政・関白等の廃止、天皇を頂点に奉戴し三職設置の新政府樹立を宣言した政変を言う。


また王政復古の大号令の内容は天保14年閏9月20日、徳川家慶が申し出た将軍職辞職を勅許した上で、幕府の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職をおくといったもので原文は以下の文言より始まる。


徳川左府(左大臣・左近衛大将・征夷大将軍=徳川家慶)、従前御委任大政返上、将軍職辞退之両條、今般断然被 聞食候。

抑、乙未(天保6年=天保の大飢饉)以来、未曾有之国難 今上帝頻年被悩 宸襟候御次第、衆庶之知所候。

依之被決 叡慮、王政復古、国威挽回ノ御基被為立候間、自今、摂関幕府等(摂政・関白・幕府等)廃絶、即今先仮総裁議定参与之三職被置萬機可被為行、諸事 神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至当之公議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮ニ付、各勉励、旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉 公候事…………。


この宣言は、9月21日に諸大名及び庶民に布告され、徳川家慶の将軍辞職を勅許し、摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力を復活はさせず、五摂家を頂点とした公家社会の門流支配も解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と倒幕功労者を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。


この天皇不在で進められ強引に過ぎた政変は、幕府在籍の武士団また諸藩や大衆より幕府陸軍の突出・反乱の誹りは免れぬとして、正当性を急がんため天皇をいち早く東京に行幸して頂けるよう正則らは奮闘したのだ。


この行幸は、京へ御迎えに上がる皇軍(征西軍)に対し東海道沿道諸藩の抵抗で多少の遅れは有ったものの天保14年閏12月27日 仁孝天皇は無事東京城 西の丸に入り、翌28日 仁孝天皇を元首に戴き、新政府は名実共に動き出したのであった。



 当初、正則は幕府在籍の武士団及び諸藩や大衆から相当の反発があろうかと危惧していたが…いざ蓋を開けたら反発などは殆ど無く拍子抜けの感しきりであった…。


これは以前 堀田中将や庄左右衛門らが言っていた皇国史観の顕れであろうか…。


皇国史観とは、日本の歴史が天皇を中心に形成されてきたことに着目し、「日本民族」の統合の中心を「万世一系の皇室」に求めるといった思想である。


皇国史観の先駆は、南北朝時代に南朝の北畠親房が著した神皇正統記にあり、江戸時代に下って水戸学や国学の隆盛と共に尊王論が武士や豪商・豪農らの知識層へと広がっていった。


尊王論は、武威「覇」をもって支配する覇者に対し、徳をもって支配する「王」を尊ぶことを説くもので、隣国中華においては「王」の模範たるは古代周王朝の王を指し「尊王」と書いた。


日本では鎌倉期から南北朝にかけ尊王論が受け入れられ、天皇を「王」、武家政権を「覇」とみなし武家政権を否定する文脈に用いられ、鎌倉幕府の衰退・建武の新政への源にもなっていった。


また江戸時代の幕藩体制においては、朝廷は幕府の武威を受け「権威的秩序、神教的頂点」の存在として位置づけられた、しかし幕末期になり天保大飢饉や天保改革の混乱、異国船の来航による対外的緊張など政治的な混乱が起こると、幕府は秩序維持の為「大政委任論」を持ち出し、朝廷権威を政治に利用していった。


しかし先の如く天保の大飢饉に端を発した幕府及び諸藩の財政困窮と庶民の疲弊、また続く天保改革の失敗により幕府の権威は次第に失墜していく。

故に諸藩は幕府に依存することなく独自の力で復興を成そうという動きが顕著化しつつあった。


これにより幕府権威に代わり尊王論が次第に浮上していくことになる。

朝廷に権威回復を求める風潮が全国に波及を始めた天保末期…偶然のタイミングと言おうか それとも満を持してと言うべきか、江戸府内で倒幕の政変が勃発した その政変を主導したのは…何と仁孝天皇という噂が全国津々浦々に広がっていったのだ。


庶民はこの政変を鎌倉期に起こった承久の乱と重ね合わせ、判官贔屓の如く陰で応援する者も少なくなかったという。


承久の乱の時代と異なり、水戸学などの影響を受け皇国史観が「正統な歴史観」であるという認識が一般化しつつある幕末期…この天皇親政に反旗を翻す者は少なかったのであろう…。


太平洋戦争後、民主主義の流れの中で皇国史観は超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」と批判され 影を潜めた時代に正則は育った…。


故に正則自身この皇国史観・尊王論という宗教観漂う形而上的思想の理解には暫しの猶予が必要と感じられたのも事実ではあるが…。



 王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。


総裁には有栖川宮幟仁親王、議定には皇族・公卿、参与には総裁と議定下の公家で従三位以下の者が就任した。


しかし、発足して二ヶ月も経たぬ内…選任された役職者には新政府を動かす器に無い事が知れ、大政奉還に尽力した九条尚忠・中山忠能らが動き新体制へと改変された。


維新元年4月5日、政体書の公布により太政官を中心に三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)がとられ、さらに翌年の7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。


維新元年6月時点の主な組織と役職者は次ぎのとおりであった。

輔相(九条尚忠)

議定(中山忠能、堀田正敦、三田正則)

参与(本庄道貫、本多忠徳、酒井忠毗、鈴木庄左右衛門、井上左太夫、田付光右衛門) 

そして、維新2年7月の廃藩置県の後には正院・左院・右院による三院制がとられた。

具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省への改組など幾多の改変を必要とし安定しなかった。


維新3年(1846年) 2月21日仁孝天皇が崩御されると孝明天皇が121代天皇として即位され元号は「明成」となった。

この改暦に伴い官制改革が行われ行政組織は後年の内閣の様な役割を担う形になっていった。


明成元年3月の政府組織は以下の通りであった。

【太政官】

右大臣-九条尚忠 左大臣-中山忠能

参議-三田正則・堀田正敦・鈴木庄左右衛門

大蔵卿-加藤幸司朗・外務卿-小池一太郎・陸軍卿-三田正則・海軍卿-井上左太夫

空軍卿-三田正則・司法省-本庄道貫・宮内省-田付光右衛門・工部省-水野敬三郎

文部省-堀田正敦・内務省-本多忠徳・北海道開拓使-酒井忠毗


また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返され政府中央官制の改革は1853年の内閣制度発足をもってようやく安定するのであるが…。


こうして役職者の殆どは倒幕クーデターの首謀者で占められた。

また新政府は幕府在籍にあった武士団及び藩解体で生じた余剰士族の不平蜂起を回避すべく就労先政府機関と地方行政機関の新設を急いだ。


大蔵省・外務省・陸軍省・海軍省・空軍省・司法省・宮内省・工部省・文部省・内務省・北海道開拓使が創設され、特に内務省の管轄として東京警視庁を創設、旧幕府目付及び南北両奉行所の役人や岡っ引・下っ引ら 総勢3千人に加え番方の多くも就労させた。


因みに東京警視庁の階級最高位は警視総監とし、北町奉行から鳥居耀蔵の画策で閑職の大目付に転任していた遠山景元を置いた、なお遠山景元を陥れた南町奉行・勘定奉行兼任であった鳥居耀蔵は未だ以て石川島の懲役場に繋がれたままである。



 明成元年7月18日、正則は空軍省管轄の空軍工廠に来ていた、この空軍工廠は昨年の初め陸軍工廠の航空棟が空軍省発足に伴い分離独立し、海軍工廠南側の埋立地に新たに新設された工廠である。


この工廠新設で陸海空 三軍の工廠はこの深川の地 永代から潮見までの広大な敷地を占めることとなった。


正則が本日この空軍工廠に訪れたのは、今年の初めより試験飛行が繰り返され改良が続けられていた長距離大型爆撃機が完成したと言う報を聞き、その祝いに訪れたのである。


爆撃機開発はこれで3機目となる、初期B1型は飛行艇で維新元年9月に初飛行し深川の陸軍工廠沖より飛び立ち、京都の上空でUターンし再び深川まで戻ってきたのだ、その所要時間は2時間18分という驚異的速度であり正則はその完成度にいたく満足した。


次はB2型でフロート式ではなくランディングギアを装備した長距離爆撃機である、飛行艇開発は代々木と羽田及び空軍工廠に飛行場が出来、現在 尾張・大阪・仙台にも飛行場を建設しつつあることと、降着装置であるランディングギアの車輪と緩衝装置が強度的に満足のいくものが開発されたことからB1型以降は棚上げとなった。


このB2型の機体は、低翼単葉、全金属製骨格、波板応力外皮構造

全長: 23.60 m 全幅: 37.00 m 全高: 6.50 m 主翼面積: 115.0 m²

自重: 15,200 kg 全備重量: 25,500 kg

エンジン:液冷直列対向型12気筒ディーゼルエンジン(正規出力1320 hp)×4基

プロペラ: 金属固定ピッチ4翅

最大速度: 420 km/h 航続距離: 3,200 km 乗員:10 名 爆弾搭載量:6000kg

という諸元である。


またB1型・B2型共に貨物輸送用と旅客用にも運用すべく胴体内部を改造した機体が現在横浜港と羽田飛行場にそれぞれ2機ずつ配備され、爆撃機は横浜港に3機と代々木及び羽田の飛行場にそれぞれ2機が配備されていた。


そして2年前 将来露西亜・米国との直接戦争を予想し、ハワイ諸島を基地として米国サンフランシスコまで往復爆撃可能な長距離大型爆撃機開発計画を発足させた、これは8トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、長距離渡洋爆撃を想定して計画されたのだ。


B3型はこの構想の中から生まれた機体で、1845年に完成したB2型から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された機体であった。

その主要スペックは

全幅:45.0 m 全長:30.5 m 全高:8.0 m 翼面積:155 m² 自重:32.0 t

全備重量:62.0 t 最大離陸重量:64.0 t

エンジン:B3型排気タービン式レシプロエンジン 2,200馬力 4基

最大速度:575 km/h 巡航速度:350 km/h 航続距離:8,100 km(爆弾6,000 kg搭載時)

実用上昇限度:9,800 m 最大爆弾搭載量:9,000 kg 武装:12.7 mm 機銃 5門、

20mm 高速機関砲 8門 乗員:10名

高高度対応与圧室を装備するスペックである。


このB3型はプロトタイプであるが…余りにもコストが係り過ぎた、ゆえに量産は困難と正則はみている、しかしいずれ財政が許す時期が来たならば量産も有り得ると 開発データは正確に記録しておくよう工廠設計陣には厳命しておいたのだ。



 正則はこの時期 陸軍卿と空軍卿を兼任し階級は大将を任じていた。

その大将が新型爆撃機に試乗するということで空軍工廠では朝からその準備に追われていた。


正則が空軍工廠の門をくぐったのはAM10時を少し廻っていた。

玄関前より工廠長室へと案内される、暫く進むと工廠長室に通じる廊下入り口で工廠長と副長が起立し敬礼で正則を出迎えていた。


工廠長はあの江川太郎左衛門で副長は庄左右衛門の次男 鈴木正次郎である。

二人とも幕府陸軍大学の英才であり航空工学を正則から徹底して叩きこまれ 正次郎は今回のB3型長距離爆撃機の主任設計技師を兼務していた。


正則は二人に笑顔で近づく、そして握手を交わし工廠長室に案内された。

応接椅子に座るとまずは正則から爆撃機完成の祝辞を述べ記念品を贈呈した。


本来ならば講堂に工廠員全員を集め盛大に祝賀会を催すところではあるが…政府の一部からこの爆撃機構想は時期尚早との反対意見が出される中、維新の大功労者である正則が それら意見を抑え強引に進めた開発でもあった。


そして完成までに膨大なる資金が注ぎ込まれ…東京のインフラ整備予算の半年分が消費されたと政府部内でも問題になりつつあったのだ。


「この度は完成お目出度う、本来ならば盛大に完成祝いを行いたいところじゃが…如何せん ちと金を使いすぎた、当分は大人しゅうしとらんと皆がうるさいでのぅ」


「いえいえ、今般は閣下に試乗して頂ける御栄誉に与り…感涙の思いで御座る」と太郎左衛門は正則を見詰めた。


思い起こせば4年前の7月、陸軍工廠で飛行艇の模型に驚き戯れ 正則の前に土下座で入門を懇願した太郎左衛門は…今や空軍工廠の長であり、また正則のカラクリに驚嘆し兄いと慕った正次郎は工廠の副長として活躍している…。


一瞬過去の出来事が走馬燈のように脳裏を巡り、正則は涙が零れるのを禁じ得なかった。



 「閣下、まずは工廠内を御案内し、昼食後のPM1時より試乗して頂く運びで御座りまする、行程はこの工廠飛行場より飛び立ち三宅島を一周し羽田飛行場に降り立つ程に、距離450km 時間にして丁度1時間の行程で御座りまする」


「そうか…1時間でのぅ、正次郎殿 お主の設計 まさか落ちはせんじゃろうのぅ…」


「閣下、多分…落ちないでしょう…クククッ」正次郎は快活に返した。


「多分か…これは怪しい、しかしお前が兄いじゃのうて閣下と言うは、大人になったものじゃて…庄左右衛門も喜んでおろうよ」



 工廠内の案内は工廠長の英龍が担当した。

アルミニウム精錬棟・マグネシウム還元棟・ジュラルミン圧延棟・工作棟・装備組立棟・塗装棟・組立装備棟と順繰りに説明を受けながら正則は見ていった。


中でも組立棟は棟の内で最大であり150m×80mを邪魔な支柱を立てずトラス構造の大屋根に北側の塗装棟と巨大シャッターで仕切られていた、また南側も同様の巨大シャッターで仕切られ海側の飛行場へと50m幅の道路が続いていた。


また工作棟の裏には風洞実験棟が配されていた、これは正則が元世で設計した風洞より一回り程小さいが…蒸気タービンを駆動源にした巨大なファンを有する風洞設備である。


組立棟では現在 単座・複座の哨戒機や戦闘機が生産されており、出来次第羽田の空軍飛行場へと飛び立っていった。


またヘリコプター開発は3年前より手がけられていた…しかし未だ完成を見ない。

正則は元世の時代、ヘリコプター関連には従事していなかったし好きなラジコン模型でもヘリコプターだけは手を出さなかった…何故と言われれば興味が無いからと答えるしかない。


しかし正則に興味が無くとも空軍増強には必須の航空機である、故に開発を進めさせたが…正則からの技術支援を受けられないヘリコプター開発チームは、手探りでこれを行わなくてはならず、遅々としてその開発は進まなかった。


初期はローターヘッドを単純化するためドラッグヒンジのない半関節型ローター方式を採用したが、急降下時にローターヘッドが浮き上がりマストが破壊される現象マストバンピングが発生し墜落、搭乗者2名の内1名が殉職し開発は一時中断された。


しかしこの工廠が新設された際、英龍の強い要求に再び開発チームは結成され、現在はフラッピングヒンジ、ドラッグヒンジ、フェザリングヒンジによって3軸全ての方向への動きを可能にした全関節型ローターヘッドの開発を進めている最中であった。



 正則らは昼食を済ますと早々に飛行場へと行き長距離爆撃機を眺めた。

銀色に光り輝く機体は細く優美な外観を呈していた。


正則が元世で開発していた国産初のリージョナル・ジェットに比べ一回りは大きく見えた。


この長距離爆撃機とリージョナル・ジェットの技術の差は比べようもないが…この時代にこれほどの航空機が出現するなどは本来有り得ないことである。


これより57年も後の時代、1903年12月17日ライト兄弟がノースカロライナ州キティホーク近郊にあるキルデビルヒルズで12馬力のエンジンを搭載したライトフライヤー号に乗り有人動力飛行で259.6mの飛行に成功し驚異の技術と讃えられたことを考えれば…この程度の爆撃機でも、正則にとっては神がかって見えるのも無理からぬ話である。



 正則・太郎左衛門・正次郎と乗員6人を乗せ空軍工廠を飛び立ったのはPM1時丁度であった、爆撃機は東京湾を南下し一路三宅島に向けて全速力で飛行を開始した。


爆撃機は工廠の飛行場が短いために装備品は全て下ろされ飛びたった、故に滑走は僅か700mで悠々と離陸したのだ。


高度は6000mで水平飛行に移り、低く垂れ込めた雲の上に出た。

コックピット内は広くまた風防も旅客機に比べ5倍以上の大きさである、機内は与圧され地上に近い静圧に保たれ室温も快適である、しかし元世のジャンボジェット機に比べれば振動・騒音は比べようもないが…。


陽に照らされた雲海、そびえ立つ積乱雲…この光景は正則が江戸に落ちる半月前 退職記念として妻と二人で行ったハワイ旅行を思い出させた。


(あの帰りの飛行機の中…妻は雲海を見てはしゃいでいたが…)もう何年も思い出さなかった妻の面影が急に脳裏に蘇った…。


その時、緊急無線が入った。


「こちら横浜管制所、AM11時08分海軍所属のキ3哨戒機より亜米利加戦艦と思しき戦列艦が東進中との報告有り、戦列艦の位置は13時22分現在御前崎南方35km付近に有り。


AM12時05分、巡洋艦伊豆と駿河の二鑑が横浜軍港から伊豆方面に向け索敵の任に赴いた。


尚、その新鋭爆撃機に三田空軍大将が試乗との事、空軍省より三田空軍大将には至急帰着を願い海軍省へ出仕願うとの連絡これ有り、以上」


無線中、前方に三宅島が見えてきた、無線連絡を終えると機体は大きく弧を描き羽田へと進路を変え始めた。


「ちょっと待て、御前崎南方30kmと言うたな…よし今より其処へ向かえ」


「閣下、至急海軍省へ出仕せよとの連絡が有ったばかりでは御座りませぬか」


「よいよい、御前崎まではどれほどかかるのじゃ」


「はっ、15分弱で行けるかと…」


「たった数十分遅れたくらいでどうしたこともないわい、さぁ向かえ」


さすが大将の命令には逆らえず機は旋回を止め西北西に進路を向けた。


暫く飛ぶと…遠くに陸地が見えてきた、正則は眼を凝らす。


「おっ、いたいた…あれじゃな」


眼下斜め下に3本マストの帆船2隻が、東北東に向かって白い航跡を引いているのが見えた。


正則は思い出すように眼を細めた。

この時代ペリー来航にはまだ早すぎる…今は1846年の7月、旧暦では弘化3年閏5月になる…たしかこの頃は…アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に入港し通商を求めた時期に当たるはず…。


であるならばあの2隻の帆船は先頭の大きい船が“帆走戦列艦コロンバス”で後続が“帆走戦闘スループ鑑ビンセンス”になるはず…。



 この頃米国は、アヘン戦争後に清と望厦条約を結ぶことに成功していた。

亜米利加国務長官のジョン・カルフーンは公使として清に滞在していたケイレブ・クッシングに対し、日本との外交折衝を開始する旨の指令を与え、その指令書を東インド艦隊司令官に任命されたジェームズ・ビッドルが清まで運んだ。


しかし、クッシングはすでに帰国した後であり、また彼の後任であるアレクサンダー・エバレットは、日本への航海に耐えうる健康状態では無かったという。


このため、ビッドルは自身で日本との交渉を行うことを決意し、1846年7月7日 戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ鑑ビンセンスを率い日本に向かってマカオを出港したのだった。


7月19日(弘化3年閏5月26日)に浦賀に入港したが…すぐに日本船に取り囲まれ上陸は許されなかった。


ビッドルは望厦条約と同様の条約を日本と締結したい旨を伝えたが…幕府からの回答はオランダ以外との通商行わず、また外交関係の全ては長崎で行うため、そちらに回航して欲しいというものであった。


ビドルは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ることなく交渉する」ことが求められていたためそれ以上の交渉は中止し、7月29日(6月7日)両艦は浦賀を出港した。


因みに両艦の規模と装備は当時の日本にとっては驚異的ともいえた。

コロンバス-2480Ton 乗員780 備砲 32ポンド砲68門 42ポンドカロネード砲24門

ビンセンス-800Ton 乗員80  備砲 32ポンド砲18門 


なお、ビッドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書にて日本側には知らされていた…。


正則はここまでは思い出せたが…政府の中枢にいる正則自身、オランダ風説書などというものはこれまで見た記憶は無かった。


またオランダとはビンタン島でのボーキサイト採掘から石油輸入以来、頻繁に外交しているがビッドル来航の件は耳にした記憶は無かった

(歴史が変わりオランダ風説書もタイムスリップの狭間に消え失せたのか…)


それにしても今回の来航はすぐにも日本に危害を及ぼすものではないと判り正則は安心した。


安心ついでに正則の悪戯心に火が付いた。

「おい、あの艦船のマストすれすれに後方より接近し機関砲を撃ち込んでみるか」


「閣下、実射はマズイと思われまするが…」


「冗談じゃよフフフッ、後方からすれすれに飛んで羽田に帰るとしよう、よし高度を落とし迂回して接近せよ」


この命令に操縦者は機体を一気に下降させ大きく旋回しながら高度をさらに300mまで下降すると艦船の5km後方に付けた、そしてそのまま全速力で艦船へと向かい一気に頭上を通過した。


5km後方から艦船頭上通過までの所要タイムは30秒以下という驚異的速度である、その風圧は破壊的と言えようか…風をはらんだマストは瞬時に数本は粉砕したであろうと正則は思った。


「さぁ帰るとするか…高度を上げよ」

少々いたずらに過ぎたと正則は後悔し爪を噛んだ。

この仕草を見た正次郎は…この人はあの頃とちっとも変わっていないと微笑んだ。


途中浦賀水道で南に向かう二筋の航跡を見た…御前崎沖に向かう巡洋艦伊豆と駿河の二鑑であろうか。


この巡洋艦二隻は海軍で唯一の大型艦であり伊豆は去年6月に駿河は今年5月に海軍工廠で出来たばかりの新造艦であった。


正則はふと思う、ビッドルがあの巡洋艦を見たらどう感じるであろうかと。

因みに伊豆は重巡洋艦で基準排水量9,800Ton、砲装備は20cm砲6門、60cm魚雷発射管8門に水上機2機を搭載する。


また駿河は装甲巡洋艦で基準排水量 7,100Ton、砲装備は20cm砲4門、60cm魚雷発射管6門、40mm榴弾機関砲8門を備え速力35ノットで航行出来る高速鑑である。


いずれも旗艦コロンバスの4倍ほどもある巨船である、それらが正面より迫りきたならば…巨大な壁が迫るように その恐怖は尋常ならざるものと正則は思った。


まるで遊園地の手漕ぎボートから大型クルーザーを見上げる以上のものであろうか…さてビッドルはどう出てくるやら…。


正則は思い出し笑いの如く雲間を見詰め…微笑んだ。


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