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二十五.安治川の攻防

 天保十四年閏九月二十日、クーデターに依る政権交代劇は圧倒差でクーデター軍(皇軍側)が勝利の内に終結し、同日昼九ツ半には品川より武装した先兵隊五百余りと機関砲・迫撃砲を積載した三百石菱垣廻船 八隻が京に向け出航して行った。


先兵隊の目的は京都御所(禁裏)警護にある、開戦と同時に江戸へ通じる全ての街道は隈無く封鎖したもののクーデターの報は必ず漏れ出るもの、皇軍に先んじ西国勢力が京を制圧し天皇を拉致すればクーデターの正当性は危うくなる、従って大本営は計画通り早舟を仕立て御所の守りを固めるべく先兵隊五百をまずは派遣したのだった。


この菱垣廻船八隻はクーデター決行の二日前より品川沖に分散して停泊、かねてより新綿番船・新酒番船の水夫経験者を江戸・大坂より密かに呼び寄せ、いつでも出航できるよう準備は整えられていた。


そしてクーデターの体勢がおおよそ決した昼九ツ、品川の第五師団の中より選りすぐりの兵五百余を品川沖に走らせ 昼九ツ半には乗船を完了、早々に出港したのだ。


菱垣廻船の船頭らは昼夜兼行に帆走し、五日半で大阪まで行ってみせると胸を叩いた、当時の早飛脚・早馬(正三日半限)には到底及ばないが、重装備の兵五百をたった六日で京まで運べるとは…正直 菱垣廻船の速度に正則は舌を巻いた。


大阪まで帆走された兵五百は大阪湊で三十石船に分乗、安治川-淀川-宇治川を遡上し京の伏見まで上る計画だった。

当時、安治川には大阪と京伏見を結ぶ旅客専用の三十石船が有った。

これは米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、全長約17m・乗客定員約28人で曳き船と共に約十二時間で大阪から京の伏見湊を結んだ。


三十石船は速度が売りで、最盛期には「早上り三十石」「早船三十石」とも呼ばれ、上り下り合わせて一日三百二十便 およそ九千人が往来したといわれる。



 先兵隊五百余が京に向け出航した五日後の九月二十五日未明、正則は二万余の西征本軍を東海道を西に向けて出発させた。


正則は品川宿までこの西征本軍を見送り、堀田中将に「天皇のこと、くれぐれもお願い申しあげる」と告げ、将兵らを敬礼で見送り皇居へと引き返した。


品川から千代田の道すがら、馬上より見る東京の街や辻には以前 志津江と胸をときめかせ歩いた江戸の賑わいはもう無かった、未だ戒厳令下にあることも原因であろうが徳川御三家・譜代・外様等全ての大名家家臣や家族とその郎党 およそ二十数万余がこの五日間の内に江戸から消えたのであるから。


この人口流出により二日前には東海道と中山道は帰還の群衆に溢れ、箱根・薩堙峠・大井川では荷駄と人の行列が数里にまで及び、未だその渋滞は緩和されていないと報告を受けていた。


正則は京に向かった二万余の兵を案じた、自走溜弾砲・武器弾薬輸送トラック・食料輸送トラックなどいずれも街道事情を考慮し、足廻りはキャタピラーで構成、速度も最高速度30km/hの高トルクトランスミッションが搭載され、最大車幅も2m以下に設計された車両群であるが…。


当時、東海道の難所は箱根八里・薩堙峠・大井川など橋無川や鈴鹿峠であろうか、いずれも街道幅は公式には六間(約10.8m)と定められてはいたが…実情は通過する藩の財政事情により先の台風の爪痕が未だ復旧されてない箇所も多いと聞く。


また街道途中には徳川家の御親藩も多く、西征を阻むべく道壊し・橋落とし、また奇襲等も充分に考えられる、それらを修復又は撃破しながら進まねばならないのだ。


それらに加え橋事情である、橋の横幅は川崎宿から保土ヶ谷宿まではほぼ三間(約5.4m)、それより以西では二間から二間半と狭くなっている。


自走車全ての足回りをキャタピラーとしたことで相当な悪路・急な坂でも平気であろうが…問題は橋幅と強度である。

自走溜弾砲の車重は4ton近くもある、この重量に田舎の橋が絶えられるかどうかであった。


この様な事情から二万の兵に先立つこと九月二十一日、戦闘工兵約五千を先行させた。

これは街道幅員で通行困難箇所の修繕・拡幅工事及び脆弱橋の補強工事、特に大井川では突貫で幅員3mの仮橋を築かねばならなかった。


従って先行兵は戦闘可能な工兵を選りすぐり、昨年工廠の増設工事で活躍した小型ブルトーザー・ショベルローダー数十台を同行させ、セメント百数十トンとコンクリートミキサー・ディーゼル発電機・ダイナマイトなども有るだけ持たせ先行させたのであるが…。


しかしこれら難所は 国元へ帰る帰還者(難民)で今は溢れかえっていると聞く…大本営にとってこの事態は予想外であり、今となれば江戸在住の者らの帰還を五日以内と定めたのは無策と言わねばならない。


この渋滞は工兵の工事進行に遅れを生じさせ、二万余の本軍を足止めさせることになろう。


海路で京に向かった先兵隊五百余が幕府二条在番や京都所司代・京都奉行所と熾烈な戦闘に発展したなら…本軍遅延は致命的となる。


この遅れが元で天皇が西国雄藩にでも連れ去られる仕儀に及べば…クーデター軍の正当性は崩れ去る、やはり高速艦船や航空機の製造を急ぐべきであったと正則は悔いた。


二十一世紀の時代であれば東京-京都間は二時間半の距離…それが今は何と遠いところであろうかと正則は溜息を漏らした。


しかし、唯一幸いなことは文明の利器として先兵隊や先行工兵また本軍には短波無線機を携行させていた。


これは一昨年夏、技術大学の方で真空管に代わる新たなシリコンNPN型バイポーラトランジスターをはじめ種々のトランジスタ及び高機能コンデンサーなど電子部品の量産開発に目処が付き、昨年春には工廠に新設した電気通信機器製造棟で電話機と共に3.5~50MHz周波数変調短波送受信機及びバンド切替え対応のループアンテナなど、携行を目的にコンパクト化した小型無線機器の本格生産に着手していた事だ。


これにより陸軍創設と同時に各師団では通信手段として普及させ、今では通信兵が軍では重要な存在となっていた。


この無線機のおかげで先兵隊と先行工兵・本軍は大本営とはリアルな連絡を取り合う事が出来た、よってもしもの事態が発生したならば西征本軍より騎兵数千を京に先行させることも可能だ、ゆえに先兵隊が危機に陥った場合この通信が望みの綱と言えようか。



 九月二十五日暮六ツ、大阪湊は小雨に煙っていた、先兵隊が乗る菱垣廻船八隻は予定通りに安治川の河口に差し掛かった、繋留する安治川橋袂の船着き場は目の前に煙っている。


先兵隊指揮官・大内大佐は予定通りの日程で大阪湊に寄航出来たことに胸をなで下ろし 船頭・水主らに礼を申し渡した、その時である安治川右岸の船番所から二隻の小船がこちらへと漕ぎ進んで来のが視界に入る。


大佐は望遠鏡を取り出し二隻の小船を望む、霧雨に視界は曇っていたが船上には役人と思しき者と小物数名及び漕手が見えた、雨のためか幸いにも飛び道具のような装備は見当たらない。

船番所側の装備と人数からクーデターの報は関西には届いていないと推察できる…。


大内大佐は油断は禁物とトランシーバーで全船に告げた、このトランシーバーは421/422/440MHz帯で送信出力は10mWと小さいが見晴らしの良い場所であれば2kmは優に飛び、ポケットに入る優れものだ。


大内大佐が乗る船は一番船で完全武装した六二名の兵全ては船倉に収容しきれず、十名は甲板上で雨合羽を着込んで控えていた。


その十名の兵らに銃剣を着剣し伏せるよう命じた、そして絶対に撃つなとも付け加えた。


(役人らに船に乗り込まれたら捕らえるしかない…刃向かえば残念だが葬り去るか…)

大内大佐は即座に決断し甲板に伏せた。


兵らは伏せたまま船縁に這い寄り 表垣立の隙間から海面をのぞき見る、小船は何も知らず悠々と漕ぎ進み 先頭の一艘は大内大佐が乗り込む一番船に、もう一艘は三番船に漕ぎ寄せていた。


やがて船縁に接船したのか「ゴツン」と音がした、甲板上に一瞬緊張が走る。


大内大佐は軍刀の柄を握り身構えた…そして役人らに対応する船頭が船縁に立った。

すぐに会話は始った…しかし悶着しているように声音は高い、やがて船役人と思しき大声が飛んできた。

「怪しき船団!今より船改めを行う、我ら乗船するよって神妙に致せ!」その声音は問答無用の韻を含んでいた。


船頭は渋々といった体で梯子を船縁に掛け、掛け終わると振り向きざまに大内大佐に目配せを送った。

それを合図に六人の兵が梯子の両翼に這い寄って身構える、大佐はその中央に抜刀して構えた。


やがて役人らしき男の髷が船縁に見え…続いて顔が現れた、その顔が一瞬にして凍り付く、正面に抜刀して構える大内大佐と目が合ったのだ。

役人は眼を剥き 弾かれたように後方へのけぞる、その刹那 梯子両翼の二人の兵が手を伸ばし役人の襟首を掴むと無造作に甲板上に引き上げ、口を塞いで暴れる役人を抑え込んだ。


それを合図に四人の兵が五尺下に浮かぶ小船に飛び移り、小物・漕手らを一気に制圧した。それはほんの一瞬の出来事で、役人・小者・船頭らは瞬く間に全員甲板上に引き上げられ縄をうたれた。


大内大佐は三番船を振り返った、三番船も同様に小物らが甲板上に引き上げられている、大内大佐は発砲せず無事制圧できたことに胸を撫で下ろした。


役人らは縄をうたれ表垣立にもたれながら一様に震えていた、それはこれまでに見たことも無い黒黄色オリーブドラブ一色に統一された戦闘服に戦闘用ヘルメットを被った異様な一団が、船倉から続々と出てきたからだ。


編み上げの半長靴に黒黄色の戦闘服、防爆チョッキ・吊りバンド・マグポーチ・救急品袋・実弾マガジン六本・手榴弾二個・エンピ・水筒そして小銃と銃剣でおよそ23kg、それに携行品を詰めた戦闘背嚢バックパックを背負うと30kgの装備重量となる。


これらで身を包んだ兵らが まるで囚われの役人など眼中に無いといった無表情で、続々と船倉から涌いて出たのであるから怯えるのも無理からぬ話だ。


やがて船は再び動き出し、安治川橋袂の係留場に続々と終結する。


これに先立つこと一刻前、安治川二里半手前の堺湊では騎馬十三騎が密かに下船していた、これら十三騎は陸路大阪湊へ五騎が先行、三騎は伏見湊へ、二騎は大阪城近くの天満橋へ、三騎は御所周辺へと斥候・諜報を目的に武士の和装に着替え短波無線機を装備し向かっていた。



 陸路大阪湊に先行した兵らは安治川天満の対岸である八軒屋船着場に乗船待ちに屯する三十石船四十艘の船頭らを隠し持った小銃で威嚇、有無を言わせず船を徴発し安治川橋袂まで下らせ、今や遅しと菱垣廻船の到着を待っていた。


菱垣廻船は安治川橋袂でこの三十石船と合流、早々に満載する兵と装備は三十石船四十艘へと分乗が開始された。


全兵と装備の分乗を完了した頃 霧雨は上がり、辺りはようやく薄闇に包まれだした。


先兵隊指揮官・大内大佐は宵五ツ(PM8:00)を出発の刻限とし、兵らに携行食で腹を満たすよう促し、士官らを集め遡上作戦を練りだした。


そして宵五ツ 辺りが漆黒の闇に包まれたとき、大内は伏見湊に向け全船出航せよと命令を下したのだ。



 この安治川橋袂から目と鼻の先の大阪城までは安治川を遡上すること一里半の距離、その大阪城左手に架かる天満橋を頂点に安治川は大きく左にうねり淀川へと繋がっていく。


天満橋は安治川に架かる大橋である。

この大橋の橋上またその両堤はこの川を遡上する船全てが一望できる格好な場所であろうか、言い換えれば京へ進入する不審船への一斉砲撃が可能な要衝とも言えるのだ。


四十艘の三十石船が遡上を開始した四半時後、安治川の両岸には野次馬と思しき数十人の武士町民らが堤上の町明かりに照らされ黒く浮かび上がった。


そして遡上舟に向かって何やら大声で叫びながら船を追う様に川上へと移動していく、この深夜に四十艘もの船を挑発しての大移動は…異様と映らぬはずも無く すぐにも役人らが駆けつけるだろうと大内大佐は危惧した。


大内は船頭らの遁走を防ぐよう彼らを腰紐で繋ぐよう下知し、とにかく先を急がせた。

そして漕ぎ進む半刻ほどのちに無線が入った、天満橋周辺へ走らせた斥候からの連絡である。


大坂城代、青山因幡守が率いる軍勢およそ三百五十が現在天満橋に殺到中であるとの緊急報告である。


後半刻余りで天満橋袂に四十艘の船は差し掛かる、その頃敵は布陣は終えていよう、無線を受けた大内大佐は思案に暮れた。

天蓋を持たない三十石船などは高みからの射撃には格好の的となる、矢玉の総攻撃を喰らわば逃げ場の無い船上の兵は壊滅的打撃を受けるだろう…。


大内は即座に陸戦を決断した、すぐにも四十艘の船団を二手に分け二十艘は右岸、二十艘は左岸に上陸するよう下知し、上陸次第安治川堤を天満橋に向けて進撃、橋のたもと二町手前に布陣し攻撃の合図を待てと命令した。


命令一下 四十艘の船は一斉に両岸をめざし漕ぎ進んだ、そして着岸と同時に両岸それぞれ二百五十に分けた兵は装備を下ろし天満橋に向けて進軍を開始、各船には兵一名を残しそのまま遡上を続行させ天満橋付近で待てと命令した。


天満橋まではおよそ半里、幸いなことに辺りは漆黒の闇である、このまま敵方に気づかれず橋に接近出来ればなお幸いであるが…。


橋には篝火が煌々と焚かれ周辺は縁日の様相である、五百の兵はそれを目標に小走りに川端を走り続けた。



 橋の袂より五町の地点で全兵を停止させる、兵らに小銃のセレクターレバーをタ(単射)の位置に合わせるよう指示し機関砲へは弾帯を装填させた、その機関砲は両岸各三門づつ調え 一門につき兵三人が持ち上げる、ハンディー迫撃砲も両岸各四門ずつ準備され いつでも発射可能な体勢で進撃を再開させた。


橋との距離およそ三町を切ったとき右岸堤上に敵斥候が幽かに浮かび上がった。

その数五人と見ゆ、その直後 斥候らの雁灯が川面に向けられた…一団が潜む葦辺付近にもその明かりは錯綜する。

雁灯の明かりが潜み兵らの頭上を一往復したとき 俄に奇声が上がった、そして奇声と共に敵の斥候らは一目散に橋の方へと遁走する。



 見られてしまった…大内大佐はそう思うも敵方より三町の地点、機関砲の有効射程には充分すぎる距離だ。

大内は左右岸それぞれの前衛に機関砲各三門を設えさせ弾帯を伸ばし発射の態勢を整えさせた、またハンディ迫撃砲も距離三百に設定し105mm榴弾を筒口より投入すべく準備を完了した。


暫く沈黙が続いたのち橋周辺の人影が一斉に動き始めた、斥候の報告が届いたのであろう。


俄に橋の方より火縄銃と思しき銃声が聞こえパラパラと川面に着弾の飛沫が上がり始める。


向こうからは多分こちらの軍勢は見えぬはず、盲滅法撃っているのであろう、敵方が火縄銃であれば殺傷距離は二町程度、三町位置の我が方に玉が届いたとしても打撲程度と読んだ大内大佐は迫撃砲の発射を命じた。


「撃てぃ!」の声に射撃手は溜弾を筒口へ落とすと同時にしゃがみ込む、この動作を第二弾・第三弾と立て続けに繰り返した。


榴弾は天空に幾重もの尖った放物線を描きながら橋の方へと落下していく、数秒後橋と両岸が目もくらむ強烈な閃光を発した、続いて数十メートルの火柱が方々に吹き上がる。

その爆風は三町彼方で射撃した兵らの胸板さえ強烈に圧迫し尻餅を付かせるほどの威力であった。


橋は一瞬に吹き飛び、両岸にいたはずの大勢の敵方は瞬時に消滅した。


また両岸手前に突出していた敵方の多くは爆風に薙ぎ倒され、残る者は右往左往と逃げ惑い、それらが炎に照らされ川面に踊った。


その逃げ惑う陰に向かって容赦なく六門の高速機関砲が一斉に火を噴いた、辺りは重低音に響き川面に細波が沸き立つほどである。


十数秒で機関砲の弾帯は撃ち尽くされ轟音は鳴り止んだ。


辺りには信じられないほどの静寂が訪れる、三町先の橋が有ったと思しき一帯と両岸堤上には…もう動く陰は見当たらなかった。


大内は立ち上がりざまに「突撃!」の大音声を放った、兵五百はその合図で一斉に立ち上がり橋に向け全速力で走った。


炎に近づくほどに散乱した橋の脚柱や桁が行く手を阻み、辺りは原型を留めぬ死骸が河原一帯を埋め尽くしていた。


大内大佐は堤上に向かえと叫び、一気に駆け上がって行く 兵達もその後に続いた。

堤上まで駆け上がると一斉に伏せる、そして堤外へ小銃を向けた。


このとき左堤下の田畑から散発的に火縄と矢が放たれてきた、しかし何処から撃ってきているのか…その人影は見えない。


すぐさま照明弾五発が天に向けて発射された、間もなく辺りは間昼ほどの明るさになり その明かりの中で 数十名の敵兵が狼狽したように走り廻っていた、それに向け小銃が散発的に発射され一人ずつ狙い撃ちに倒していく。


また右岸では城の方向へ遁走する敵方数十名を認め、小銃のセレクターレバーを急遽連射に変更して一斉にフルオートの弾幕が張られた、しかし時遅しで殆どは石垣裏に逃げ込まれてしまった。

大内大佐は深追いは止めた、この事態は大阪奉行所や京都所司代に知らせが届くのは時間の問題、まずは先を急がねばと兵を帰させたのだ。


周辺に散った兵らは続々と河原へ戻ってきた、敵の陰は既に消え失せていた。

河原底より粉砕され燃え落ちた天満橋を見る、橋は完全に消失していた…ただ橋の脚柱基部が僅かに残されており、ここに橋が存在したことはうかがい知れよう。


待つこと四半時、川下より三十石船がようやく到着した。

舟の到着が遅れたのは川上から夥しい死体や橋の残骸が流れ着き、舟の舳みよしに絡み、竿でそれらを除けながらの漕走で遅れたという。


兵達は急ぎ舟に乗り、再び遡上が開始された。

この一部始終は京への侵攻に半時ばかりの遅れを生じさせた。



 その後、淀川との合流隘路となる毛馬の三角州までは散発的に両岸或いは橋上より弓矢・火縄の攻撃が有ったものの、いずれも船上からの小銃弾幕でこれらを退け舟は淀川へと入っていった。


淀川は安治川の川幅に比べ3倍以上も有り、川の中央から両岸までの距離は二町を超えていた、大内大佐は舟団を1列に整列させ川の中央を漕走するよう命じた。


淀川に入ってからは敵の攻撃もなく辺りは水音のみに静まりかえっている。

川幅が狭まる枚方辺りまでは攻撃は多分無いであろうと大内は予測した。


枚方までおよそ五里弱、三刻程の遡上となろう…(兵らは眠らせるか)


兵達は五日のあいだ狭く非衛生的な船倉で波に揺られ、また上陸してからの緊張の連続で一様に疲労の極にあった、大内大佐もともすれば眠りに誘引されそうになるのを必至に堪え両岸を窺っての遡上である、伏見湊に無事に着いたとて…30kgの装備を身につけ御所まで二里半もの道程を踏破できようかと憂いた。


ここで舟を停めて休めば休んだだけ敵方は御所制圧を確実なものにし、その防衛も強固なものになっていくだろう、大内大佐はトランシーバーを取り出すと全舟に向け、「枚方までの間、交代で見張りを立て 極力仮眠せよ」と指示を送った。


このまま何事もなく北上できれば伏見湊には朝四ツ(9:20)には寄航出来る、しかしそこは京の幕府方が既に抑えておろう…さて、どしたものかと大内は思案に暮れた。


過ぐる四日前になろうか、かねてより用意された仁孝天皇の勅旨(王政復古の大号令を発し、天皇親政の新政府樹立を宣言)は国内二百七十六藩に向け江戸より発送されているはず…。


しかし先の天満橋攻防を考えれば…未だ大阪・京には勅旨は届いていないと見るが妥当、だが届いていたとしても握りつぶされる可能性も無い訳では…。


もし伏見湊で天満橋と同様の攻防を余儀なくされれば…敵方陣容にも依ろうが 持参した弾薬の大方は費やされ御所制圧の弾薬は如何ほども残らぬだろう。


大内大佐は思案する内…このまま生きて東京の土を踏むことは叶わぬかもしれぬと感じた、しかし若い兵達には一人でも多く生かし東京へ帰したいとも願った。


この死地への侵攻を回避するは勅旨による敵方の恭順であろうか…大内はこの想いが叶うように漆黒の天を仰いだ。



 舟が枚方に入ったとき兵らは泥の様な眠りを覚まされた。

暁七ツ半(AM4:00)前であろうか東の空は依然漆黒の闇である。


気が付けば舟から両岸までは1町と近く、弓矢・火縄の射程圏内に入った事に気付かされた。


闇の中、兵らは油断無く小銃を左右の岸に向け身構えた。

しかし朧白な飛沫でどうにか岸辺と判別出来る暗闇では葦に潜む敵兵など認知不能だ…ということは敵方も同様であろうか。


攻防は東の空が白みだした頃であろうと兵達は肩の力を少し緩めた。


楠葉を過ぎた頃ようやく空が明るくなってきた、各舟の物見役は一斉に立ち上がって望遠鏡で周囲を見渡す。

しかし敵兵の影 未だ見えずと各船より報告が寄せられ、兵らは緊張を解いた。


途中淀川から宇治川へと乗り継いだ三十石船団は二里程で伏見に入ろうとしていた。

両岸の風景は次第に田畑から町屋に変わりつつある、そして葭島渡場を過ぎた辺りから両岸には人が多く目立つようになり、四十艘もの三十石舟が一列に並んで漕ぎ進む姿は圧巻に見えるのであろうか…野次馬が数多く川面近くまで降り喚声を上げ始めた。



 朝五ツ半(8:14)伏見湊に走った騎馬三騎より無線が入った。

「朝五ツ(7:07)伏見湊に敵兵およそ百五十が布陣…しかし先ほど全兵引き上げを開始、今や伏見湊は人っ子一人 影は見えず」と報告された。


大内大佐は首を捻る、我ら下船と同時に波打際を走り 盾となる建屋などに身を隠すには平地を半町以上も走破しなければならない、敵からすれば狙い撃ちに格好な的になるであろうと…。


何の事情があって撤退したのか、もしや仁孝天皇の勅旨が間に合ったのか…しかし都合良く考えるのは禁物と思い 兵らには伏見湊に人影は無しの報は伝えなかった。


朝四ツ(9:20)、船団は伏見湊の桟橋に漕ぎ寄せた、宇治川入口からこの伏見までは何の攻撃もなく、この伏見湊も兵らしき姿は報告の通り見当たらない…というか人影は皆無なのである。


拍子抜けの感はあったが、それでも注意深く辺りを窺いながら兵五百は下船を完了した、その時である湊奥より二騎の武者がこちらに向かって全速力で走ってくるのが見えた。


兵らは小銃を一斉に二騎に向けて構え、騎馬が射程に入るのを待った。

大内大佐は望遠鏡で走り寄る二騎を見た、と直ぐさま「打つな!味方だ」と叫んだ。

二騎は堺湊から陸路を先行した斥候兵の内二名である、彼らは大内大佐の前まで進むと下馬し現況の報告を行った。


報告に依れば敵方百五十の兵はこの伏見湊を撤退すると竹田に向かい、そのまま東寺方向に走り去ったと報告された。


斥候兵らは竹田まで後を付け、二騎はそこから引き返し一騎はそのまま尾行を続行中であると言う。


敵は京都御所で背水の陣を敷くというのか…予定通りと言えばそうであろうが、出来れば御所に向けての発砲は避けたいところ、叶うなら御所から離れての攻防を望んでいたが…今やそれは適わずと思い直し、御所に傷つけず敵を掃討する方策を士官らを集めて協議に入った。



 兵五百は伏見湊より二列の隊列で北上を開始、途中鴨川を渡った所で堺湊から御所周辺の斥候に向かった諜報兵三騎より無線が入った。

「現在御所周辺を監視中、御所周辺に配置された敵の数は皇后門に二十、清所門に三十、宜秋門に八十、建礼門に四十、建春門に五十、朔平門に十、主力部隊となるは宜秋門に布陣する京都所司代の兵八十余である、また西国諸藩の京屋敷からは兵は一兵も出ていない」と報告された。


江戸を出るとき師団長より京都所司代の兵はおよそ八十余、京都町奉行は与力十三騎と同心四十人程度と聞いた、しかし二条城在番の二組有る兵の総数は情勢により変動激しく人数は読めず、しかし天保八年には百八名との記録有りと報告を受けていた。


やはり師団長が言った通り兵の総数は二百三十余にあるようだ、また幕府方勢力以外に加わりは無いと斥候兵は報告をしてきたが…間違いは無かろうか。

報告通りであれば敵の殲滅は容易いと読める、それは武器の差は圧倒差であり兵も我が方は敵に倍する勢力である…これで勝てないはずはないと踏んだのだ。


大内は通信兵に再度 敵の数を確認するよう斥候兵に問い質せと伝え、その連絡を待つ間 兵らには銃火器の点検を促した。


暫くして斥候より再度連絡が入った、敵の数は前の報告通りで鴨川から堀川通りまでの間には敵は見えずとの報告だった。


報告を聞き大内は喜んだ。

(ならば余裕である、まずは西本願寺に入り作戦を立てるか…)


大内大佐率いる兵五百は侵攻を再開した、そして半時後 堀川通りに入り西本願寺へと入った。


歩哨を立て兵士らには半刻程の昼餉を取らせ、士官らは御所周辺の敵殲滅作戦と突入以降の段取りについて詳細に検討に入った。


昼九ツ半 用意した錦の御旗三本を押し立て、西本願寺前より三列行進で再び堀川通りへと行軍を開始した。


途中多くの町民が堀川通りに出てきた、群衆らは錦の御旗を先頭に完全武装で行進する皇軍を喝采で迎え、その行進についてくる。


暫くして皇軍は二条城に差し掛かかった、敵兵は左側を攻めてくるかと身構えたが城門は固く閉ざされたままである。


兵五百は作戦通りここで二手に分けた、一軍は真っ直ぐ堀川通りを進み 二軍は二条通りを右折し烏丸通りの十字路へと向かう。


大内大佐は堀川通りを進む一軍の指揮をしていた、そして二条城を過ぎいよいよ右手に御所正面に通じる中立売通りが見えてきた。


先頭の兵が通りが交差する角隅より右手奥の御門周辺を窺う、やはり烏丸通に面した御所の御門前は土嚢が積まれ敵兵で溢れかえっていた。

決戦は予想通り御所になるのかと大内大佐は考えた、敵は当方が禁裏に向けて発砲できぬのを読んで御所を背に布陣したのであろう。


こちらの兵力、また最新鋭の武器に関しては天満橋の攻防で敵方に既に知られており、迫撃砲などの強力破壊兵器を使わせない算段であろうか。


であるならば大内らが先ほど決めた作戦通りに決行するだけである、それは一軍は正面に布陣、二軍は烏丸通りから敵の側面を衝く位置に布陣、先に二軍が御所西塀沿い烏丸通りに布陣する敵の土嚢を機関砲六門で粉砕 飛び出てくる敵を小銃二百丁の弾幕で殲滅させる。


次ぎに一軍が突き進み正面の宜秋門を突破し禁裏内に進入する作戦である。


ただ気がかりなのは丸太町通りに面した建礼門に布陣する敵兵四十の存在である…この兵らが二軍の側面を衝く可能性も否めない、大内大佐はトランシーバーを手に 二軍の竹田中尉に向け、建礼門に布陣する敵の動向を知らせよと発信した。


暫くすると火縄の銃声が正面の宜秋門より湧き上がった。

大内大佐は堀川通りの角隅より右手奥の宜秋御門周辺を覗く、やはり白煙がもうもうと立ち上がり敵兵らが烏丸通りを南側に向けて火縄銃を撃っているのが見えた。


多分二軍の斥候が烏丸通りに出るのを阻止するため撃っているのであろう。

この時、二軍の竹田中尉から「建礼門の兵はおよそ四十程、特に突出してくる気配は無し」と報告された、やはり敵の数は少ないと感じた…この時点で大内は西国諸藩の京屋敷の加勢は無きもと断定した。


二軍の竹田中尉は兵に対し近隣より戸板を徴発するよう命令、その戸板で烏丸通りを塞ぐよう二重の矢玉防御盾を敷設しだした、その間 矢玉は盛んに降りそそぐも戸板で防御しながらとにかく盾の構築を急いだ。


そして四半時も係からず防御盾は完成した、兵二百五十の内 百名は防御盾の内側を走らせ西方の辻へと進入させ、残りの兵は盾裏に収容 六門の高速機関砲を盾の隙間より宜秋御門周辺に陣取る所司代兵八十余に向けて配置し、その後方に兵百余を十人十列程に配置し小銃を構えさせたのだ、後は大内大佐の攻撃命令を待つばかりである。

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