二十三.クーデター前夜
クーデター決行まで十日を切った九月十一日、正則は水野家上屋敷を辞去し西ノ丸大手門前を右に折れ本丸に向かって歩いていた。
これに先立つこと朝四つに越前守の上屋敷に訪れ四半時を経ずして辞去した、それは越前守の憔悴ぶりが尋常ではなかったからだ、あの威勢はどこえやらまるで死期迫る老人が如くであった。
しかしながら眼光だけは鋭く、やはり恨みから来るものであろうか…正則は陸軍総監職が保管する未処理案件書類を受け取り 越前守に何か語ろうと目を覗き込んだ…だが越前守は正則を射竦める様な眼差しで何も受け付けないといった表情に終始した。
この雰囲気に耐えられず辞去しようと腰を上げた、すると「鳥居耀蔵と榊原忠職の二人だけは絶対に許さぬ」と吐き出すように呟き、また黙り込んでしまった。
四日前、水野越前守欠席のまま老中会議が開かれた、その会議で老中土井大炊頭は「本日、上様より上知令撤回の上意が下された」と得意顔で報告、併せて越前守は謹慎を命ぜられ、陸軍総監並びに陸軍大将の軍事役を罷免されたと付け加えた。
天保十二年(1841年)に始まった天保の改革は、天保十四年閏九月十三日将軍家慶の直接命令により老中首座・水野忠邦は罷免され終焉を迎えた。
彼の行った改革は多義に渡ったが…いずれも幕末の混迷する時代にそぐわず、ことごとく潰れていった、中でも上知令の失策が今回罷免の最大原因であったろうか。
当時、江戸・大坂十里四方は、幕府天領・大名領・旗本領が入り組み、飛び地が多く支配力の低下が深刻な問題となっていた。
そこで大名、旗本には十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに大名・旗本の本領付近で替え地を支給するという命令を出し、江戸・大坂十里四方を幕府が一元的に管理する方針を固め、天保十四年六月に上知令は発布された。
この策は大名旗本にも利得はあり 当初は従うものも多かった、だが時が経つにつれ江戸大坂十里四方に領地を持つ大名旗本から反対の声が上がり始める。
例えば、老中土井大炊頭が本領は下総国古河藩であるが、河内国・摂津国にも飛び地を持っていた、土井家はその河内・摂津の農民らに多額の借財があり、農民らは上知と同時にこの借金が踏み倒されることを恐れた。
そのため農民らは土井家に幾度も上知反対の強訴を行うことになる。
また同時期に御三家の紀州藩からも同様の反対が巻き起こった。
この上知令反対派らは痛みを知る老中土井大炊頭を盟主に担ぎ、上知令撤回と水野忠邦の老中免職に動き出す。
また水野忠邦の腹心らである町奉行鳥居耀蔵・勘定奉行榊原忠職らも水野の形勢危うしと見て、保身のため土井派に寝返った、特に鳥居に至ってはあろう事か忠邦の機密資料を残らず土井に渡すという破廉恥極まりない裏切り行為に及んだのである。
そしてついに閏九月七日、忠邦欠席のまま老中土井大炊頭から上知令撤回の幕命が出され、閏九月十三日 将軍家慶の直接命令により忠邦は老中を免職させられるのである。
こうして土井大炊頭を奉じた上知令反対勢力が勝利し、水野忠邦の代わりに大炊頭が老中上座に登用されるに至った。
夏の盛りも過ぎ、虫の音が喧しい九月十二日の夜のこと、正則は大目付・跡部信濃守を屋敷に招いた。
現在 信濃守の実兄である水野越前守は、上様の御不興をかい屋敷奥で謹慎の身であった、故に弟の信濃守はその連座に連なるを憂い、官憲に踏み込まれるを今日か明日かと生きた心地のない毎日を送っていた。
そんな最中、上様寵愛深き正則からの招待には飛び付くように乗ってきたのである。
「三田中将殿、今宵は如何なるお招きで御座ろうか…」
「いえ、何というわけでは御座らぬが、実は貴公の事でちと耳にした事が御座ってな、日頃親しくして戴いている御貴殿のこと…御耳に入れておいたが御為になると考えこうしてお呼び致した次第で御座るが」
「左様で御座いましたか…して、それがしのことで耳にしたとは如何なる事で御座りましょうや」
「ふむぅ…言いにくいことであるが…まっお茶でも飲んで下され。
実は…貴殿に益金横領の疑いが御座ってな、いま上様の御命令で目付筋が調査中なのじゃが…お心当たりは御座ろうかの」
それを聞いた信濃守の顔色はみるみるうちに青ざめていく、正則は当てずっぽうで言ったのだが…どうやら的を射た様だ。
この時代、幕府の風紀は乱れに乱れ賄賂が大手を振って横行する頽廃した幕末期、彼ほどの役職にいて横領・賄賂など不正を働いていない者を探す方が難しい時代なのだ。
「そ…そのようなこと…一体誰が申していたのか」
「出所は解りませぬが、昨日上様御側用人の堀大和守殿より密かに御聞きしたのじゃが…どうやら目付の証拠固めには目処がつき、あとは上様のお耳に入れるばかりじゃそうな」
それを聞いた跡部信濃守は肩をガクっと落とし苦しそうに俯いてしまった、膝に当てた手は無様にも震え始める。
「信濃守殿、それがし先日上様に謁見した折、貴公の兄上があのような仕儀に陥り相当にご立腹で御座った、多分明日あたりにも老中罷免の上意が下されるであろう…そこにきて今度は貴公の横領発覚…これはもう切腹は免れまいとこうしてお知らせに及んだ次第で。
貴殿とそれがしの仲、貴殿が身の処し方を間違えるとは思えませぬが、身辺整理のいとまは少しでも有ればと思いこうして知らせに及んだのじゃが…いらぬ世話じゃったか」
「………………」
震える手の甲にポツリと涙が落ちた、信濃の守は声を殺して泣いていた。
「み…三田中将殿、お心遣い誠に有り難く存ずる、そうと解ればこれより屋敷に立ち戻り、心行くまで身辺整理が出来るというもの…」
信濃守は切れ切れに言葉を詰まらせながら涙を拭き、正則に平伏すると腰を上げた。
「跡部殿、暫し待たれよ 貴殿早々にも腹を召されるおつもりか」
「左様、評定所に引き出され老中の土井や…兄を裏切ったあの鳥居耀蔵らに勝ち誇った厚顔で切腹を申し渡されるなど耐えられぬ事、己の身の処し方は分かっておるつもりで御座る」
「死ぬおつもりか…跡部殿ほどの人物が勿体ない、権謀術数に長けた者だけが生き残れる時代とは…はぁ嘆かわしい限りに御座る」正則は目頭を押さえ涙を拭く真似を見せた。
「三田殿にそのように言われると…それがし思い残すことは何も御座らん、ただあの耀蔵めが厚顔無恥にもこの後も生き続けるかと思うと切腹したとて死にきれませぬ、叶わずとて一太刀浴びせ地獄へと道連れに…」
跡部信濃守はよほど腹が立ったのか、それとも己の罪を弁明したいのか…一度腰を上げたが再び座り込んで茶を一気に飲み干した。
「三田殿、己を弁解するように聞こえもうすが…それがしの想いも聞いて下され」
そう言うと彼は遠くを見詰める眼差しで語り始めた。
兄、水野忠邦が老中首座になる以前のこと、そう天保六年のことじゃった。
当時勝手掛老中であった兄は銭貨で最も高価な通貨である天保通宝を改鋳し幕府財政の建て直しに着手したので御座る、そして天保八年から天保十三年までの五年間で百五十万両を超える改鋳益を得たので御座るが…。
天保十年老中首座になるを同じゅうして大老・井伊直亮様から御先手鉄砲組頭に凄い奴がいると知らされもうした。
三田中将殿、そこもとのことで御座る、井伊直亮様は三田正則は生来の天才で、特に技術には天賦の才有りて西洋の水準を抜くほどであると評し、三田中将殿が造った元込銃を披露したので御座る。
兄はそれを見て肝を潰さんばかりに驚いたと後で聞きもうしたが…どの様な銃を見せられたかは知りもうさんが…それが貴殿に魅入られた発端に御座ろうか。
井伊直亮様は兄がこれから幕府の中枢になっていき、いずれ己が邪魔な存在になっていくのを憂い自身から身を引かれたが…どうしても気に入りの三田中将殿をして西洋列強の侵略から日本を守るべく、西洋を凌ぐ優れた銃・大砲の量産を目的とした幕府銃火薬工廠の創設を兄に説いたのじゃ。
それはもう兄が辟易するほどの進言でのぅ、まっ兄にすれば井伊直亮様が大老を引かれる交換条件の想いも有ったので御座ろう、兄は分かりもうしたと請け負い、銃火薬工廠の創設を承認、例の天保通宝の改鋳益より十万両を捻出しこれを建造費用に充てたのじゃよ。
しかしここまでは良かった…だが銃火薬工廠が出来たなら当然工廠内に設備する製鉄炉や機械を造らねばならん、よってそれに十万両、製造物の材料費や人件費に十万両、その他…年を追うごとに一万二万と嵩み、この数年の間に四十万両以上もの金が勘定方より引き出され、幕府銃火薬工廠或いは陸軍工廠へと流れもうした。
そこへきて今度は陸軍創設ときた、正直 兄は三田中将殿の操り人形が如く次から次へと天保通宝を改鋳し益金を工面しては陸軍と工廠に注ぎ込み、気が付いたら八十万両もの膨大な改鋳益が三田中将殿の手の内に消え去りもうした…。
兄もそれがしもその頃は正直金に麻痺していたと言わざるをえまい、十万二十万と金を引き出す度に百・千と我が懐に…その内 心に痛みを感じることも薄れ、勘定合わずとてまた数万両を工廠に注ぎ込んで勘定合わせに明け暮れる毎日…気が付いたときには数万両を兄弟で着服しておったわ…。
終わりも見えない貨幣改鋳の繰り返し、これにより流通・貨幣経済は混乱をきたし不況が蔓延することとなりもうした。
この度の兄の罷免の原因となった上知令は、この貨幣改鋳を含め逼迫した幕府財政の再建を目論んでの起死回生の断行であったが…完全に裏目に出たと言わざるを得ん、のう三田殿 やはり悪いことは出来ぬわ。
正則が知らなかった事柄が次から次へと繰り言のように跡部の口から零れてきた。
(おいおい、此奴…全て俺のせいとでも言いたいのか…)
「いずれにせよ公金横領は間違い無きこと、腹を切って済む話しでは御座らぬが…上様に死んでお詫びするは武士のならい、三田中将殿…これまでの厚情誠に有り難くここに御礼申し上げまする」そう言ってまたもや平伏した。
「跡部殿、話しは分かりもうした、工廠・陸軍関連と聞けばそれがしにも罪の一端は有るというもの、貴殿ばかりに罪を押し付け死に追いやるは武士として面目無きところ…のぅどうであろうか それがしに後は任されよ、けして悪いようには致さぬ」
「と…申されるは…」
「上様御側用人の堀大和守殿は家族付合いする昵懇の間柄、この度の跡部殿益金横領の件、上様のお耳に届けるは暫時の猶予をお願いしておりまする、また他の目付筋より洩れたとて疑獄として長引かせ、その内にうやむやにして消し去ること請け合いましょうぞ」
「そのようなこと出来ましょうや、あの耀蔵らが嗅ぎ付けていたなら難しいのでは」
「あの耀蔵らにしても身が潔白なわけは御座らん、それは貴殿の兄上にお聞きになれば分かるというもの、故に贈収賄・猟官運動・公金横領などを裁くは両刃の剣に似たり、誰しも避けて通りたいところなのじゃよ、依ってこの御時世…公金横領を裁ける潔癖なる御仁は上様只御一人、よって上様のお耳に届かぬ様にすればそれで良いのよ。
それがし 今宵よりこの件で動き申すよって御安心召されよ」
「あぁぁありがたや…何と言って良いのやらそれがし言葉が御座らん、
今後は何に付けても三田殿の御言いつけに従いまする、何なりと御申し付け下さりませ」
「跡部殿…横領の件はこれまでとして、今度はそれがしの願いを聞いて下され」
「三田殿の願いとは…」跡部の顔が一瞬曇った。
「いや何…大したことでは御座らぬ、ほれ近衛師団の梶野土佐守の事じゃが、儂はあの御仁が大嫌いなのじゃ、ほれ儂の嫌うあの蝮の耀蔵めの盟友と聞くだけでも鳥肌が立つくらいじゃ、奴は陸軍参謀総長の儂に楯突くことばかりでのぅ…志氣が上がらず困り果てておるのよ、出来れば貴公の手で奴を葬り去ってはいただけぬものかのぅ」
「そのようなことで御座りましたか、それならいと容易きこと…それがしも予てより彼奴を引きずり落としたいと思うていたが兄がこれを止めておったから我慢していたが…
今や兄を裏切った敵とも言える町奉行鳥居耀蔵・勘定奉行榊原忠職・近衛師団長梶野土佐守の三人、それがしの目の黒いうちに 奴らはどんな卑劣な手を使っても葬り去らずにはおきませぬ。
さしあたって梶野土佐守が一番手で御座いますな…分かりもうした、この五日の内にも師団長の座からまずは引きずり落として見せましょうぞ」
「引きずり落とす手立ては跡部殿に御任せいたす、さてこれより儂は堀大和守殿の屋敷まで走るゆえ今宵はこれまでと致したい、お構いも出来ず申し訳御座らぬのぅ跡部殿」
正則は言いながら立ち上がった、跡部も正則に釣られるように腰を上げた。
大目付・跡部信濃守が安心に緩んだ顔で屋敷を去った、それを見届けると正則は客間に戻った、すると隣の部屋に控えていた堀田中将が姿を現した。
この堀田中将は正則がまだ鉄砲組頭の頃、庄左右衛門に幕府に開明的御仁有りと引き合わされたあの若年寄で、当時は雲の上の存在と 直に顔さえ見ることも出来なかった堀田摂津守である。
今では正則の方が役は上席となり、堀田摂津守は正則に敬意を払っている、しかし堀田摂津守にしてみれば正則が上席だから敬意を払うのではなく、正則に最初に出会った時から正則の夥しいその知識量と天才的慧眼に仰天し、すぐに惚れ込み慕い いずれこの人に従う日が来るであろう予見していたのだ。
「三田参謀総長殿、お休みの所お邪魔致し誠に申し訳御らぬ」そう言うと畏まって平伏した。
「堀田殿、それがしは貴殿と同輩、ゆえにもそっと寛いで話されよ」
「滅相も御座いませぬ、我等同士は三田様を御役以上に尊厳な御方と心得もうしております、ゆえにこのまま話しを続けさせて頂きまする。
しかし隣の座敷で…跡部信濃守を翻弄する始終を聞かせ頂きましたが、奸計それがしの及ばざるごとし、いやはや中将様には参りました。
しかしこれで近衛師団の梶野土佐守は本日の画策が図に当たれば罷免は間違い無きところ、跡部殿も己の身が可愛いゆえ 必至で事を成し遂げましょうぞ。
そこで梶野の代わりは我等がかねてより工作致していた若年寄の本庄安芸守殿が近衛師団長の最候補に挙がっており、梶野さえ罷免されればすぐにでも後任に選ばれる手筈となっておりもうす、まずは目出度いと申し上げまする」
「だと良いがのぅ…しかし時間が無い、なんとか早くに近衛師団は我等の手の内に落とし、士官・下士官らを例の方向へ誘導致さねばならぬが…もう間に合わんじゃろうのぅ」
「いえ、幸いなことに近衛師団の士官と下士官の殆どは元御先手の与力や同心、庄左右衛門殿以下 元御先手組頭の多くは現在工廠の棟長達、彼らは既に士官らを手なずけておる由、頭をすげ替えればこちらの意に従うは必定と庄左右衛門・光右衛門らが言うておりましたぞ」
「そうか…庄左右衛門殿が手を回しておったか、ならば安心じゃな…まっ多少の抵抗は有ろうが…大方は意に従だろう、これは助かった。
して堀田中将殿、肝心の朝廷の成り行きじゃが…あれから変化は御座らぬかの」
「はっ、京都においてこれまで三田中将殿が関白九条尚忠様を通じ工作致しておりました大政奉還の義、それがしが引き継いで関白九条尚忠様のほか中山忠能様らを加え工作を揺るぎないものにして参りました。
そして去る八月二十日、仁孝天皇より密かに三田中将をして徳川を討ち大政奉還を行うべしとの勅令を賜ったは先日の報告の通り。
これにてクーデターの正当性は整いもうした、よって計画通り九月二十日にクーデターを決行、五日後 兵二万を率いて上京、もし途中応戦する藩有れば叩きつぶしながら京へ上り、御親兵となって仁孝天皇を奉じ錦の御旗を掲げ東海道を江戸にとって返しまする。
天皇を無事江戸城に入城いたせしは ここを皇居とし、江戸を東の京とすべく東京に改めまする。
また摂政・関白・征夷大将軍などは廃止し、天皇親政を基本に当面は総裁・議定・参与からなる軍事新政府を樹立、以下議会制民主主義国家に至る十年計画は三田中将様の草稿通りの運びとなりまする。
なお、仁孝天皇は大政奉還・天皇親政にはいたく満足され、三田中将殿に早く会いたいと申されておりまする、以上、事の成り行きに変化は御座いませぬ」
「よし分かった、朝廷に跋扈する公家の曲者らは未だ幼いし、薩摩長州が朝廷に関与してくるはまだ先のこと、しかし何が起こるか知れぬ時代、くれぐれも朝廷の心変わり無きよう監視の目を光らせて下されよ。
それと決行まで後八日…各師団は計画通りに準備と決起演習に務めておろうか。また当日の兵の配分、処理工程につき計画通りの手配りは完了しておるかの」
「はっ、計画通り第一師団三千五百の兵は明六つ半、老中土井大炊頭・阿部正弘ら二老中と、我等の意に従わなかった若年寄三名の屋敷、並びに南北両奉行所・目付・大目付と老中留守居支配の五奉行 その番頭・組頭の屋敷を急襲しこれを閉門幽閉致しもうす。
第二・第三師団の兵一万は御三家と田安家一橋家及び徳川に連なる全家系の屋敷と諸機関を急襲しこれを抑え申す。
以下、第四から第八師団までの兵約二万五千は大大名である雄藩と江戸府内に点在する譜代外様全大名の屋敷を抑え、藩主・人質のみ残し以下は三日以内に江戸より放逐致しもうす。
近衛師団は江戸城詰め千二百の兵に 大手・麹町の外詰め兵およそ千八百が合流し、本丸・二の丸・西の丸を一気に抑えまする。
また残りの兵は江戸に通じる全街道を封鎖、また御府内に戒厳令を敷き 府内の街道や辻の通行及び府内全ての橋と船着き場を抑えまする」
「よし、ではそれがしも計画通り千代田の城に朝四つに入り大本営を敷くよって参謀本部の士官らは近衛師団の外詰めの兵達と共に入城し本丸に大本営を整備するようにの、それと陸軍省と教育総監部の押さえは万全じゃろうか…」
「はっ、教育総監部はそれがしが抑えておりますゆえ問題は御座りませぬが…陸軍省は先頃まで水野忠邦大将が総監でありましたゆえ手が付けられませぬ、しかし三田様もご存じの如くあの省は張り子の虎、役方上がりの士官百名足らずに兵五百程度、一気に押し包んで解体する手筈は既に出来ておりもうす」
「ふむぅ…抜かりは無いということじゃな、重畳である。
長きにわたり計画は練りに練ったゆえ手抜かりは無いと存ずるが、しかし…儂はどうも不安が払拭できぬのよ。
前にも言うたが、最も恐れるは兵達の動揺である、佐官・尉官以上は血判を取っておるゆえ間違いが有ってもほんの寡少であろう…しかし兵達は未だ何も知らぬ、これは漏洩を恐れ兵達には秘匿してきたからであるが…当日 いざ決行というときに必ず堕ちる者は出てこよう、離反・脱落して軍を去るならまだしも、寝返り・扇動する兵が大挙して出てくると…こいつは困る。
要は上官の人望とこの数ヶ月間の兵への教育成果であろうが、このこと堀田中将殿はどうお考えか」
「この件に関しては計画当初の五年前より懸念していた事項、ゆえに兵の動向・兵を取巻く環境・人柄・忠誠心などを分析把握をする手法を研究して参りました、そして兵達を面接し結果に問題を認めれば除隊もしくは教育といったように処理手順や判断基準の手引きを設け、上官の「見る目」に個人差が有ってはならずとこれら人事標準は徹底して整備して参いりました。
特に六月からの三ヶ月間、尉官以下の准尉・曹長・軍曹・兵長・伍長らに対し、徳川家への盲信的忠誠心の度合い、危険思想の有無、個人・家人的付合い相手など徹底して調査しこれまでおよそ四百余名を危険分子として除隊させ申した。
それでも、いざ決起となれば全体の二割の兵は大なり小なり問題を起こすものと見ております、それらを早期に発見する目、また素早く処理する手順もこれまで幾度となく尉官以上に訓練を施しておりもうす、それでいてなお…やり尽くしたとは思えませぬ。
正直それがしも不安は払拭出来ませぬ、しかし後はなるようになるで御座ろう、もし失敗したならば…それは天が我らを望んでいないという証拠では御座らぬか。
それならそれで潔く腹を切るだけで御座ろうよ」
「堀田中将殿は達観しておられる、そうよのぅそう考えれば不安は薄らぎもうす、まっ いくら考えてもこればかりは万全とは参りませぬよって…なるようになると思っておった方が良いかも知れぬのぅ。
しかし兵が例え半分も離反したとて我らが幕府に屈服することはあり得まい、ゴタゴタが多少長引くやも知れぬがいずれは我らが勝利しもうそう、ただ我ら首謀者が分裂すればその限りでは御座らぬがの…まっ、それは有り得ぬか」
「三田様を盟主と仰いでこれまで五年間に渡って研究してきた同士、それは絶対あり得ませぬ、兵達にも決起と同時に三田様が常々言われている“民を主導とする国造り”を大きく掲げ行動致しましょうぞ」
それから二時間ほど計画の詳細にわたり確認打合せを行い堀田中将は帰っていった。
大政奉還から軍事政権…そして民主政権への移行、長きにわたる政権交代の研究から生まれたシナリオは揺るぎないものと思うが…所詮は人間がすること、欲得で今後どう変化するかは神のみぞ知る…であるが。
正則は漆黒の庭を見ながら、これまで歩んできた六年の道程を振り返った。
短いような長いような、庄左右衛門・左太夫・光右衛門らに触発され気が付けば己が盟主と仰がれ新政府樹立の道を突き進んできた、これで本当に良かったのかと己に問うてみる…しかし答えは返ってこなかった。
(あと八日後に決行か…)正則は思わず背筋に冷たいものが流れ、ゾクッと身を震わせた。
虫の音が急にやんだ…知らぬ間に志津江が横に座ってお茶を湯飲みに注いでいた、志津江は「ご苦労様でした」と微笑みながら御茶を差し出す。
正則は現在の御役については一切志津江には話していないし、また志津江もけして聞こうとはしなかった、だから正則が陸軍の創設者であり最高位にあることも知らず、本日の謀やクーデターの密談も知らないだろうと思っていたが…屋敷内の誰ぞか注進に及んだのであろうか…。
「殿様、志津江は不安でなりませぬ」言ってから顔を曇らせた。
「いや何…うまく行くさ」
「でも…何か凄く怖いことをされるのでしょう…殿がこの世にそれほど不満をお持ちだなんて、志津江は最近まで全く気付きませんでした。
長子も生まれ御出世も飛び抜け…御扶持も信じられない石高を頂き、それでもなお御不満が有るとは…父が殿をそそのかしたとしか志津江には到底思えませぬ。
今更やめて下さいとお願いしても…頑固な殿は志津江の言うことは聞き入れて下さらないでしょうね」
そう言って志津江は正則を正面から見つめ、そして甘えるようにそっとおでこを正則の肩に預けてきた、正則は志津江の肩に手を回し軽く摩った。
そして空いた手で志津江の手を優しく握る、その握った手に雫が落ちてきた…志津江は知らぬ間に静かに泣いていた。
この数ヶ月の正則が動き、事が発覚すれば即刻切腹か悪くすれば斬首に処せられるは必定、正則の毎日無事な帰着を志津江はどんな想いで待っていたのであろうか…。
気丈でそして優しい志津江の心根…正則は申し訳ない気持ちで胸が詰まり志津江の肩を強く抱きしめた。
次の日正則は早くに目覚めた、いつもは志津江に起こされるのだが…今朝は自然に目覚めた、やはり決行の興奮が眠りを浅くするのだろうか。
寝間着のまま縁側に行くと陽は見えぬが空は朝焼けに赤かった。
(眠りが浅いのか今朝は頭が重い…そう言えばもう何ヶ月も休んでいなかった…)
縁側に座ると早々に朝の一服である、最近は煙管筒に石油ライターを嵌めるポケットを取り付けたから火種は不要となり、ついつい吸い過ぎてしまう正則である。
三服目に用人の外記が正則を探しに来た
「殿、この様なところで御寛ぎで御座いましたか探しましたぞ」と汗を拭いつつ。
「今朝は陸軍工廠にお出かけの予定では御座りませぬか、新沼大佐らがお待ちかねで御座りまする、それと殿、煙草はいい加減おやめになられませ」といつもの文句を並べ「この大事な時期、お体をもそっと気遣わねば…」と言いつつ踵を返した。
(そうじゃった…今朝は小池教授が東インドより帰国し昨夜にも品川に帰着したはず、朝から工廠に入ると電信が入っていたが…これは工廠に急がねばならんな)
正則は部屋に戻り、志津江に出かける支度を急がせて朝餉をかき込んだ。
正則が工廠長室に入ると庄左右衛門がにこやかに出迎える。
「中将殿、いよいよで御座りますのぅ…」
それに応えようと一歩前に出たとき、応接椅子よりこちらに注がれる視線を感じ、正則はそちらを注視した。
「おお小池教授、もう来ておったか」正則は応接椅子に進み小池教授の手を握った。
「何ヶ月ぶりじゃろうか…」
「はい、十ヶ月ぶりにもなりますか…先生が懐かしく感じられまする」
「ボルネオ島では感染疾患で大変じゃったらしいが…貴公、体の方は良いのか」
「はっ、それがしは頑丈の身、これまで風邪一つひいたことは御座らんよって」
「まぁ貴公が無事と見て、今日は嬉しい限りじゃ」
正則は言いながら日焼けした小池教授の顔を見ながら、この男…いずれ世界に羽ばたき活躍してくれるであろうと誇らしげに見詰めた。
19世紀初頭、フランス革命以降のヨーロッパ政局は混乱を極めていた、オランダ本国はフランスに併合され、またオランダの海外領土はイギリスの統治をうけることになっていた。
1814年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約で、オランダがスマトラ島とその近隣を、イギリスがマレー半島及びシンガポール島をそれぞれの影響圏におくことを相互に承認し合った。
二十世紀、インドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、この条約に端を発し、1824年の英蘭協約で確定したものである。
過ぐる天保十二年、オランダ東インド植民地政府は日本との交易に精力的であり、江戸の正則の元にも幾度となく長崎出島のオランダ商館から使者が訪れるようになった。
オランダが精力的にならざるを得ないのは これより十年ほど前、東インド植民地政府総督のファン=デン=ボス(任1830-33)の指揮のもと 現地農民に対し、さとうきび・藍・コーヒーなどオランダ政府指定の輸出作物を強制的に栽培させ、これを安い価格で買い叩き本国に輸出するという「強制栽培制度」を推し進めていた。
当時オランダ本国では植民地でのジャワ戦争やパドリ戦争、またフランス七月革命の影響でベルギーが分離独立したことと財政運営の失敗などが重なり、深刻な財政危機に陥っていた。
1830年、オランダはこれら財政危機の解消を目論み、東インド植民地で現地農民らに強制的に農産物を栽培させ信じられない低価格で買い叩き、ヨーロッパ等へ転売するシステムを案出したのだ。
この目論見は大成功し、オランダは莫大な利益をあげ財政赤字を解消しただけでなく産業革命期に入りつつあったオランダのインフラ整備にも大きく貢献した。
しかしそれは同時に、オランダ経済が東インドへの依存度を高めることにもなり、その搾取構造は年を追うごとに峻烈を極め、現地農民に餓死者まで出るに及び 厳しすぎるとの意見がオランダ本国でも沸騰、その人権を無視した制度の見直しは余儀なくされつつあった。
そんな内情から、相当利益の一部代替えを他に見つけるに当時の東インド植民地政府は血眼になっていたのである。
天保十二年、ビンタン島から産出する白い粉をジパング政府が欲しがっていると聞きつけ産出物の正体は解らねど発掘・精錬・輸送に協力したところ思ってもみない対価を得た。
この白い粉末は、どうやら金属の一種であることは解ったが価値のほどは分からなかった、しかし幾らあっても足らぬというジパング政府の情報を掴むや、この白い粉が今後の対日貿易拡大の突破口になるやもしれぬとオランダ側は計算した。
また抜け目なく数キロの粉末を本国に送り、分析を急がせたのである。
天保十三年夏、江戸表の正則の元には長崎のオランダ商館から頻繁に使いが訪れるようになっていた、それはビンタン島でのボーキサイト採掘とアルミナ精錬の継続を懇願してきているのだ。
これにより正則は採算の点で、かねてより計画していたボーキサイト採掘とアルミナ精錬をオランダ側に任せ、日本側は精錬されたアルミナの輸入に絞りたいと持ちかけた。
持ちかけられたオランダ側は、当初 アルミナの意味も用途も分からないものを我が方の手で現地生産するは困難と渋ったが、現地に残した設備の無償供与及び今後の設備増強の有償供与と五年契約五千tonのアルミナ輸入を保証するという話に至り…頭を縦に振ったのだ。
また先のロンドン条約でオランダがスマトラを影響圏に置いたことから ビンタン島を含むこのスマトラ島内陸で産出する資源及び砂糖・藍などを今後は積極的に日本に輸出し、日本からは形鋼・火薬・銃などを輸入したいと東インド植民地政府は伝えてきた。
オランダ側は先のビンタン島での採掘助成の折り、建設資材の中に規格統一された美麗な形鋼見つけたのだ。
当時西洋でも鉄鋼は貴重な材料で、西ヨーロッパは産業革命のまっただ中であり形鋼の需要は鰻登りにあった。
また銃と火薬に関しては、その先進性と威力はビンタン島での道路工事の際、大型哺乳類・爬虫類をアサルトライフルの猛烈な弾幕で簡単に退ける様に愕然とし、また火薬は道路拡幅工事や採掘工事で多く使用されたが…その凄まじい威力と簡便性を目の当たりにしたオランダ人は驚異の技術として、それらは垂涎の商品に映ったのだった。
しかしこの時代…先進技術の中枢はヨーロッパにあって、ここ東方辺境の地であるジパングに何故そのような先進技術が存在するのかオランダ人は一様に首を傾げた。
江戸時代、長崎出島のオランダ東インド会社の代表たるカピタンが江戸に赴き、将軍への通商免許の礼と献上品贈呈儀式がこれまで百六十回以上は行われた。
この儀式は慶長十四年に始まり寛永十年からは毎年行われ、寛延三年からは五年に一回となるも日本の文化・技術水準についてはオランダ側は二百年以上も前からとうに熟知している…筈であった。
しかし、ボーキサイト採掘の折…現実にヨーロッパにも存在しない超先進的な銃・火薬そして鉄鋼技術をごく自然に見せられたのだから…これを目の当たりにして首を傾げない方がおかしい。
このことは即刻、バタビア(ウェルトフレーデン)にアジア本部を置くオランダ東インド植民地政府に報告された、するとすぐにもそれら銃・火薬を入手し本部に送るようにと総督からの厳命が届いたのだ。
オランダ人らは日本に帰る船上で、しきりと小池隊長らに対価は金塊で、銃・火薬の目方同量で支払うから譲って欲しいとまで持ちかけた…が、小池らは頑なにこれを断った。
それ以降日本戻るまでの間中しつこく言い寄られ辟易するも幕府の許可が無ければ応ずること適わずとして断り続けた。
昨年8月、マレー半島南端リアウ諸島の1つであるビンタン島より初めてアルミナおよそ7.5tonを持ち帰り、そのアルミナから3.5tonのアルミニウムを精錬し終えた。
しかしその量はあまりにも寡少であり、このことから正則ら銃火薬工廠にとって今後の生産品目の柱になるであろうアルミ製ガソリンエンジンとトランスミッションまた航空機用ジュラルミンの生産を考慮すればアルミナの安定供給の仕組み造りは緊急課題と言ってよかった。
工廠では天保十四年の夏までに水陸両用の爆撃飛行艇と複座哨戒機の設計 及びそれらの生産に必要な治具・工具と専用機設計を終え、暮れまでに生産設備を整え来春早々より試作に入る計画を立てていた。
そのためには潤沢なるアルミ調達の仕組みを案出しなければならない、また航空機燃料もしかりである。
天保十三年十一月十八日、正則は強行に過ぎるも第二次調査発掘隊を編成し終え、小池隊長を頭に技術者十人を再びビンタン島・ボルネオ島に向けて出発させたのだった。
今度の調査発掘隊の目的はボーキサイト採掘とアルミナ精錬をオランダ東インド植民地政府に委ね、アルミナの安定供給を確保する事と、ビンタン島西方のスマトラ島における油田開発にあった。
オランダ領東インド海域のスマトラ島には東部にメダン油田・ミナス油田・バレンバン油田、またカリマタ海峡を挟んだ隣のカリマンタン島の東部にもタラカンとサマリンダの油田が二十世紀末には広く知られている。
この油田群の中で特にスマトラ島中部のミナス油田は東南アジア最大の油田として知られ究極可採埋蔵量はおおよそ47億バレルとも見積もられていた。
当初 正則はこの油田の埋蔵量に魅力を感じ着目したが、パンジャン海峡を北上し海岸から80kmものジャングルを切り開いての輸送を考えると…まだ日本国内に点在する埋蔵寡少な油田を開発した方が採算に合うと試算された。
しかし将来の大量需要を考えると現状問題のみにとらわれ、国産依存とすればいずれ窮するは後の歴史が教えている、このことから輸送に軽便な油田開発として、メダン油田とバレンバン油田を候補に挙げその地の利をパソコン内にあるスマトラ地図・スマトラ油田開発の歴史から詳細に調査検討に入った。
メダン油田はマラッカ海峡を北上しブラワン港より20kmの地の利で有る、この地は植民地宗主国オランダの民間資本が東スマトラ一帯でタバコ・茶などのプランテーション農園を開発、メダンはそれらの商品作物の中心的集荷地となり、各種企業や政府機関も進出してスマトラ島東北部の中心地として発展していた。
この油田の原油は珍しく低硫黄質であり未精製原油そのままで戦車・装甲車に使用できたと太平洋戦争当時の記録が残っているほど良質な原油が産出する。
一方バレンバン油田は、その原油の質はメダン油田とまではいかないがスマトラ南部の川幅が広く千トンクラスの船が航行可能なムシ川を70kmほど遡上した川辺にあった。
この地の利は汲み上げた原油を極短距離のパイプラインで船に積み込むことができ、輸送に最も適した油田と言えた。
この二つの油田を比べればメダン油田の油質、バレンバン油田の輸送の利…双方とも魅力有る油田ではあるが掘削設備の製作期日を考慮すれば両方ともという訳には行かない。
どちらか一方に早期決定しなければならず、正則はオランダ東インド植民地政府に問い合わせるべく長崎出島のオランダ商館に至急使者を走らせた。
これらの油田については1940年以降に実在した生産井の緯度経度の詳細はパソコン情報からピンポイントで解った、故に今回の調査発掘隊の使命は試掘井の発掘ではなく主点は原油汲み出し用の生産井建設工事となろう、だが問題は現地生産井の井戸掘りに必要な油井やぐら・付帯機器・関連設備などの製作期間にあった。
やぐらに搭載するロータリー装置・クレーン類、ディーゼルエンジン、それと数百メートル分の掘削管・ドリルビット・各種バルブ類・泥水タンク・泥水調整剤・ポンプ・フィルター、それと輸送管等々、ホース・継手など配管類の小物部品までを含めると全設備の製作期間は、設計期間を含め最低でも半年は必要である。
しかし正則は東シナ海が荒れる夏、また大陸からの季節風モンスーンが強い冬を避け 渡航を前回と同様の霜月(十一月)と決定したのだ。
幕府に第二次調査発掘隊の派遣を幕府に願い出て許されたのが八月、すぐにロータリー装置・クレーン類の設計が開始され工廠で出来上がったのが十月の初め…。
その製作速度は驚くべき早さである、これは工廠の設計陣五十余名と工作棟工員二百余名の夜を徹した奮迅が功を奏したのであるが…ディーゼルエンジン及び鋼管類・形鋼などが既に生産されていたことも幸いした。
何とか生産井ボーリング機器と各種設備は間に合った、また時を同じくして出島のオランダ商館からは、東インド植民地政府本部のバタビアから400kmと近い距離にあるバレンバンが好都合であるとも伝えてきた。
小池一太郎を含む調査採掘隊一行十名は晴天東風の日を選んで長崎より和蘭帆船二隻で阿蘭陀領東印度ビンタン島に向け再度出港したのだった。
彼らが携えた荷は、石油生産井設備と燃料及びアルミナ精錬に必要な追加設備と消耗品など前回の数倍200tonを越える荷となった。
月日は流れ、小池ら調査発掘隊がボルネオから長崎へと帰国したのは天保十四年長月(九月)である。
現地での油田開発は地の利が幸いして予定通り順調に竣工し、現在は生産井からのパイプラインを港のポンプ設備に接続し港周辺を整備している途中と報告された。
帰港したメンバーは小池ら技術者四名で、他の六名は 現地で残建設指揮のため残留する四名、そして二名はバレンバンで採掘工事中にマラリアとデング熱(蚊媒介性疾患)を罹患し、マラリア罹患者は長い航海で弱っていたところに感染、十日後にあっけなく死亡したという、デング熱罹患者は十日ほど高熱に魘されたが快方に向かい今回は帰還せず大事を取って現地で療養中であると報告された。
前回のビンタン島での発掘の折は事故病気も無く全員が無事に帰還したが…今回は二名の感染者を出し一名の死者を出してしまった、思えば前回が幸運に過ぎたのかも知れない…。
正則は工廠で小池教授より一通りの報告を聞き、その足で幕府に帰還報告を行った後、幕府陸軍工廠と大学に対し二日間の喪に伏させるよう指示し、大学医学部にキニーネを元にクロロキンやメフロキンなどの抗マラリア薬の開発を促した。
またこの日、陸軍工廠の南側に鋼製600バレルの原油貯留タンク2基とポンプ施設の建設を指示する、これはバレンバン油田からの原油第一陣の到着が年末前後になると小池教授より報告され、当初長崎の出島に建造する予定であったものをクーデター以降の西国雄藩の蜂起を懸念し深川に急遽変更したのである。
しかしこの原油貯留槽建設は幕府には無届けである、それは未だ鎖国令厳しき折…オランダ船を江戸湾奥の深川に寄港させるなど到底許されざる所行であるからだ。
併せて現在工廠南端に整備されている石油精製施設も日産二千リットルから五千リットルに増産できるよう施設の増設改造にも着手させた。
また土木・建築の設計陣には原油貯留槽建設地のさらに南側に、最大一万トン級の巡洋艦建造が可能な造船所建設の設計に着手させた。
造船所建設は二年前より計画を進めていた、しかし造るべき艦船に搭載予定の船用大型ディーゼルエンジンに必要な石油の調達に工面がつかず計画倒れとなっていたが、この度のボルネオオイルルートの確立を見て、正則は決行に踏み切ったのだ。
海に面した広大な敷地に、クレーン・ドライドック・船台・倉庫・塗装施設や船舶組立用の各施設などを機械設計技師らとプロジェクトを組ませ、十四人の設計技師らで造船所建設の土木図・建築図・機械図面を引き出したところである。
その他、工廠の設計陣は航空機設計はもとより、120mm自走式榴弾砲、航空機搭載用25mm高速機関砲の試作開発と、代々木の第二師団の練兵場奥に1000m級の飛行場を建設すべく地質調査と測量も開始したのだった。
クーデター決起まで七日を切った今、矢継ぎ早に新たなプロジェクトを立ち上げる正則の心の内は、クーデターの成功は当然のこととて もう次ぎの時代を展望していたのだ。




