表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/54

二十二.驚異の技術

 淡い紫の煙を吐きながら工廠内に走り去った溜弾砲を搭載した戦闘車の残像を太郎左衛門は幾度も反芻していた。


水分を含んだ七月の生暖かい風が海から緩やかに流れ、気付くと…薄紫の煙はいつしか消え排気ガスの臭いだけが残っていた、太郎左衛門はその臭いを何処かで嗅いだと記憶の隅で感じたが…曖昧模糊に流れた、その代わり昨日までの悶々とした暗い想いが急に甦ってくる。



 太郎左衛門は昨年 韮山に江川塾を開いた、彼の評判を聞きつけた佐久間象山はじめ全国の藩から若き開明的な獅子がこぞって入門してきた。

彼はその韮山に高島秋帆の助力を得て青銅製モルチール砲や小銃の製造を本格化させていた。


その先進技術は幕府や西国諸藩から賞賛を浴び、太郎左衛門はその名声に自然と自分がこの日本で 近代技術の最先端にいると自負するようになてきた。


太郎左衛門は過日、西洋では青銅砲など既に時代遅れで今や鉄製の旋条元込砲が主流であることを知った。そんなおり、蘭書のライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法という書を見つけ夢中に読み漁った、そして反射炉の存在を知ったのだ。

高温炉に依る良質な鋳鉄さえ出来ればこの日本でも世界に通用する鋳鉄製旋条元込砲の製造が可能であろうかと…。


太郎左衛門は蘭書に書かれてある鋳造法を幾度も読み返し、己の工夫も加えつつ絵図面を引いた、しかし反射炉製造の要である高温に耐えられる耐火物の製法までは書かれておらず彼は悩んだ。


そんなある日、街で硬質磁器を見た それは有田焼きである、温度概念は分からねど高温で焼かれていることだけはその細やかなる磁肌からも想像できた、彼はすぐに有田や肥前の伊万里、また九谷といった磁器の有名産地を巡り、磁器焼成炉から炉内の耐火物破片を持ち帰った。


耐火物には炉内の超高温に耐える高い溶融軟化点と炉内の化学的・物理的反応条件にできるだけ長期間耐え、且つ熱損失を抑えるべく熱伝導率が低いことが求められる。

彼は持ち帰った破片を、白光するほどに加熱しその耐熱性能を観察・分析した。


しかしこの時代は温度概念は薄く明和二年(1765年)和蘭からもたらされた華氏基準の室内寒熟昇降器や験温管程度のものしかなく、溶銑から炭素含有量を下げるに必要な温度:華氏2732度 C=(F-32)*5/9 の高温を測定する温度計などなく、磁器職人の感に頼る曖昧さに太郎左衛門は悶々としていた。


そんな中、いくら悩んでも解決などつくはずもなく 失敗したとて当然の成り行きとして まずは反射炉を実際に造ってみようと思い至った。


彼はすぐに幕府に反射炉建造の許認可を仰いだ、しかし待てど暮らせど幕府からの吉報はもたらされず、再び悶々とした日々を送ることになっていった。


彼は半年待ち とうとう辛抱たまらず直接江戸に行き、若年寄・老中に言葉を尽くして直談判に及んだ。


しかし反射炉の必要性はどうにも理解しては貰えず、以降は幕府側の聞き手は変わるものの異口同音で瞬く間に四年の歳月が流れたのだ。


このころ太郎左衛門の悩みは三つあった、一つは許認可が得られないこと、一つは耐火物の良否判定が出来ぬ事、もう一つは反射炉のロストルで燃す燃料である、当初は炭を考えていた…しかし熱量の点で膨大な供給量となろう、実験段階ではそれもよしとするが実用ともなれば生産貫目当たりのランニングコストは相当なものとなろう。


蘭書では反射炉の燃料は石炭でなく純度の高いコークスが良いとある、太郎左衛門はコークス製造法は分かっていたが潤沢なる石炭の供給と不純物の少ないコークスの製法について暗礁に乗り上げていた。


そんなとき、江戸から塾に来ている若者が深川の「幕府銃火薬工廠」というところに大量の石炭が運ばれ工廠の煙突からは常に黒煙が噴き上がっていると聞いた。


太郎左衛門はもしやと考えたが江戸の深川辺りでコークスを造るなどどう考えても不自然な話、この時代コークスを造ろうなどという者は自分か高島秋帆くらいなもの、江戸にコークスが造れる技術者がいるとはどうしても思えず、その場は一笑に付したが…石炭が大量に運ばれている点だけは妙に気になった。


(そんな大量の石炭…一体なにに使うのだ、また何処から調達しているのだ…)


それ以降、深川の「銃火薬工廠」のことが気になり 人を使って調べさせた、だが分かったことは完全なる秘密工廠で検問厳しく近づくことさえ出来なかったという。


一体これほどまでに秘匿する理由は何なのか…この工廠で日夜何が行われているのか、太郎左衛門は以前にも増して痛烈に興味が沸きあがった。


前任の銃火薬工廠長は三田駿河守という、現在の陸軍工廠長は鈴木長門守がその任に当たり駿河守の義父ということが分かった。

この二人、いずれも元は幕府番方の御先手鉄砲組頭、三河以来の由緒ある大番家筋の旗本であるということ。


また三田駿河守は銃火薬工廠を創設して異例とも言える奏者番に昇進、そして年もおかずに陸軍を創設し何と若年寄に就任するという大出世を果たしている、幕府に於いては田沼意次に次ぐ大出世劇であるとも噂されているらしい。


そのような技術とは全く無縁の旗本らが…どうして。

確かに権謀術策に富んだ者ならば出世だけを考えれば可能ではあろうが、しかし権謀術策だけで兵器工廠を造ったり陸軍を創設するなどは出来ぬ事、西洋 特に英吉利・仏蘭西辺りの先進武器技術や軍事関連に相当精通した者でなければ不可能時と思える、やはりどう考えても有り得ぬと思った。


幕府陸軍とか陸軍工廠などと厳めしい名を付けおって、どうせ西国雄藩を抑える為の虚仮威しに過ぎないのではなかろうか…と太郎左衛門は考えてみた。


虚仮威しゆえに秘密工廠にする…いや、虚仮威しとするなら逆に大いに喧伝すべきであろう…。やはり何かがおかしい、何かが進んでいると考えた方が妥当ようにも思える…実際は彼らは傀儡に過ぎず真の技術者が他にいる…それも複数で相当凄い奴らが…。


しかしこの時代 高エネルギーの石炭に着目し、それを燃料にして何かを造り出す者とか軍事の専門家など…自分の知る限りこの日本にはいないはず…。


太郎左衛門は幾ら思案に暮れても情報の寡少から、それらしき答えはとうとう見つからず、とどのつまりは悶々とした徒労の日々に終止符打つべく三田駿河守という人物に一度会ってみようと思い至った。


彼は縁故の幕閣を介し水野越前守に三田駿河守に謁見したい旨を嘆願した、これは不思議とすぐに受け入れられ七月十二日に相まみえることが決まったのだ。




 太郎左衛門は三田駿河守に会い、出来ればその裏に潜む仕掛け人が誰かが分かれば上出来と考えていた、なお欲を言えば石炭の供給元が分かればなお上出来と今日に臨んだのだが…。


しかし…その想いは脆くもと言うより引っぱたかれる様に粉砕された、と同時に自分の持てる技術など稚戯にも等しいと思い知らされたのだ。


今日この工廠で見た製造物は想像の埒外であり、構造・原理などは理解の度を超えていた、現に今 工廠内に走り去った大砲を備えた移動体は牛馬の力を借りずして自身の力で高速に走ることが出来るのだ…それも何千貫もあろうかという巨大な鉄の塊が…。


あの移動体の中身がどうなっているか想像を巡らしてみた、だがその入口にさえ全くと言っていいほど辿り着けない。


彼は暗くなった海を見ていた。

若い頃全国を巡りこの日本に存在する技術と言うもの全てを学んだと自負していた、しかし高島秋帆の技術に触れた時…情けなくも自負は脆くも崩れ去った。

高島秋帆に土下座するように入門を請い許されて彼に学び、ようやく彼を超えることが出来た…。


その矢先…いかさまじみたエセ技術を看破してやろうと乗り込んだ筈が想像埒外の超先進技術を見せつけられ、恐るべき衝撃で魂を揺さぶられたのだ。


何が反射炉だ、何がコークスだ…そんな拙劣事で一喜一憂していた己…。

自分でも不思議に思うほど涙が湧いた、それは己より一回りも歳下の若造に絶対敵わぬと思い知らされたからか、それとも想像の埒外の技術を目の当たりにした驚喜からか…太郎左衛門はすぐには判別が付かなかった。




 「江川殿、陽も暮れて参りました、中に入りましょうぞ」

その声に我に返り、慌てて涙を拭き 後ろを振り返った。

駿河守がにこやかに佇んでいる、その姿には後光がさしている様にも見えた。


正則と敬三郎は太郎左衛門を工作棟二階の設計室に案内した。

設計室には二十名ほどの技師と三十名の技手、さらに二十名ほどの助手や計算士達が黙々と働いていた、時間は夏時夕七つ半を過ぎたところ こんな時間までほぼ全員がまだ働いていた。


太郎左衛門が驚いたのはその残業ではない、それは部屋の明るさにあった。

この設計室に来る途中 幾つもの工廠棟を過ぎたがどの棟も奇妙に明るかったと今気が付いた、歩いているときは打ち拉がれ明かりどころではなかったが、この部屋に来て幾分落ち着いたのか明かりに想いが及んだのだ。


天井には幾つもの光る玉がぶら下がり、その明るさは直に見るのも憚られるほど強かった。


「駿河守様、あの明かりの球は何で御座ろうか」光を恐れる小動物のように腰を屈めて質問した。


「あの球ですか、あれはタングステンフィラメント球で御座る、電気の力で明るく光るので御座るよ」


「‥‥‥‥‥‥‥」


無数の光る玉から放たれる明かりは三百畳もあろうかと思われるこの部屋を昼間以上の明るさで照らしていた。

そして、夏だというのにこの部屋は晩秋の涼しさである、これは何としたことかと辺りを巡らすと部屋正面の壁に大きな箱が二つ並び微かな唸り音を発している、どうやら涼しい風はその箱から吹いているようだった、


あの箱は何だ…タングステンフィラメントとは何、と正直聞きたかったがこれ以上聞くのは苦しく、無理にも呑み込んだ。


太郎左衛門は近くの製図板に寄り、何気なくドラフターを手にとって周囲の設計士の手の動きを真似てみた、それは実に軽やかに製図板上を滑った、そして親指で釦を押すと定規は釦を離した角度でカチンと音を立てて正確に止まったのだ、太郎左衛門はもうこれだけで驚喜した。 


「何と便利な製図器であろうか…」そして補助机に目が行く。

そこには計算尺や算盤、そして種々のカラス口が所狭しと並んでいる、それらにもいちいち目を通し、手につまんでは書く振りをしてみた。


太郎左衛門はこれらの道具が無性に欲しくなり正則の方を恨めしくも見詰めてしまった。



 正則は一人の技師と製図板を前に何やら話している、太郎左衛門は気になりその製図板の脇に近寄った。


「藤川技師…エンジンマウントのリブ厚じゃが…儂は少々薄いと感じるのじゃがどうであろうのぅ」


「中将様、プロペラ牽引力の五倍の相当曲げ応力に耐えうるリブ厚に御座る、それがしは問題なきやと存じまするが…」


「いや儂が言うのは単純応力ではない プロペラやエンジンの振動荷重じゃよ、主翼のエンジン取付桁周辺の固有振動数とペラ及びエンジンの強制振動が合致したとき恐るべき共振現象が起こることは以前 敬三郎から聞いたであろう、へたをすれば空中分解じゃ、よってこの部分の強度計算は主翼設計者の安藤技師や近藤技師とよく相談して決めて欲しいのよ」


「はっ、分かりもうした 彼らと実験などして決めまする、御指導有り難く頂戴します」


この会話を聞いていた太郎左衛門は初めて聞く単語の数々に首を捻った(単純応力・振動荷重・固有振動数・共振現象…さてさて何の意味だろう)


昼間の駿河守と敬三郎の会話といい今の会話といい、この工廠で交わされる会話は暗号とも思える単語群に感じた。


その会話を聞きながら太郎左衛門は後ろの席で製図に勤しむ若者の横に廻り込み描いている図面を見た。


鳥のような物を描いていた、その鳥の翼に相当する箇所に藤川技師が描く「エンジン」なるものが両翼前縁に描かれていた。


その翼の全長に寸法が入っている、24,200mmと書かれその下に括弧書きで(八十尺)と書かれてあった。


(ほーっ、結構大きなものだな…これは建物であろうか)太郎左衛門はたまらず

「それがし江川と申す者、失礼ですが今描いている鳥…のような物は如何なる物で御座ろうか」


急に声をかけられた設計者は少し驚き、話して良いものか即座に判断がつかず助け船でも見つけるように正則を見た。


これに気付いた正則は苦笑しながら太郎左衛門が見詰める製図板の前にやってきた。


「江川殿、これは航空機というものです」


「航空機…とな」初めて耳にする単語である。


「左様、航空機とは空を飛ぶ乗り物で御座る」


「今何と申された…空を飛ぶとな!」


「左様で御座るが…」


太郎左衛門はその言葉に眼を剥いて再び図面に食い入った。

正則は多分理解は無理であろうと思うも図示された航空機の諸元と仕様をゆっくり説明していく。


「この航空機は水陸両用の飛行艇と申し、翼長80尺・機長62尺・空重量約千二百貫・発動機は千八十馬力星形空冷十四気筒発動機を二基搭載・操縦乗員二名・乗客二十二名、もし積載物に変えるなら六百貫は積め申す、飛行速度は一刻当たり二百里 その速度で千里は飛べましょう…ざっとこんな所ですかな」


彼は図面を見続け眼を剥いたままである、正則はやれやれと思う なまじこの男…技術が少しばかり分かるだけにその驚きは一般人よりもだいぶ大袈裟と感じた。


太郎左衛門は暫く自失呆然の体で図面を見続けていたが…ふと我に返り振り向きざまに「そのような馬鹿げたことが…」と精一杯虚勢を張り。


「千二百貫もの重き物が空に浮き…あの長崎まで一刻半もかからずに行けるなどとは…駿河守様 大言壮語も勘弁して下され」と少々鼻白んだ。


「江川殿、俄にそれを信じろと言うには少々無理がありましょうかな、ではこれをご覧下され」正則は言うと部屋の後方に展示している模型の所に歩み寄った。


「江川殿、これはあの図面の模型で御座る 実機の二十分の一の大きさですかな」


太郎左衛門は朴の木と竹ヒゴで形作られ、薄手の絹布にドープで塗装された飛行艇の模型を見た。


「これが空を飛ぶと申されるのか…」どう見ても鳥とは異なり、腹は船底のようで車輪さえ付いていた、どう見ても張りぼての芝居の小道具にしか見えない。


「これは模型に御座るよって自力では飛びたち申さぬが、手投げで飛ぶところをご覧に入れようかのぅ」正則は言うと架台から模型を取り上げ部屋の端まで歩き、振り向いて模型を押し出すように投げた。


模型飛行機は沈下速度の低いグライダー如く 滑るように飛翔し部屋の端まで 約七十尺余りも飛翔して床に緩やかに着陸した。


太郎左衛門は唸った、まるで鳶が大空を緩やかに滑空する様にも見えたからだ。

人為的に造られた物が意思を持つかの様に空中を飛翔…そんな光景を目の当たりにし凧とは全く別物の飛翔体であることだけは解った。


太郎左衛門は思わず模型の所へ駆け寄り、それを手に持ち電球に透かしたり裏返したりして物思いに耽るように暫く眺めていた、そして意を決したような顔で正則が投げたように飛んできた方向に向け、押し出すように投げた。


彼はその飛行を後方から腰を屈め真剣な眼差しで見つめている。

( やはり“投げた”ではなく“飛んでいる”いや浮いている!)


太郎左衛門は欲しくてたまらない玩具でも得たように驚喜した、そして模型の後を恥も無く追いかけた。


知らぬ間に設計者全員がカラス口を置いてその光景に見入っていた、そして一様に笑っている…四十を過ぎた大人がまるで子供のはしゃぎ様に見えたからだ。



 太郎左衛門は夢中になって何度も模型を飛ばし そして走り回った、それを見ていた正則は流石に呆れた、飛行機好きは自分より彼の方が上ではないだろうかとさえ思えた。


暫くして太郎左衛門は疲れたのか床に尻餅をついた、今度は機体に見入っている。


(先ほどまでは張り子の鳩にしか見えなかったのに…何としたことか、今はこれほど機能美に優れた形状がこの世に有ろうかとさえ思える…。


駿河守が人を乗せて空を飛ぶことが出来ると言ったが…あながち大言壮語ではないのやも知れぬな。


あの凄い威力の榴弾砲といい、それを抱えた戦車の走行といい…夢のような物を現実に見せられたのだ、ということはこの航空機とやらも実際に空が飛べるのではないのか…)


太郎左衛門は立ち上がった、そして先ほどの飛行艇を描いていた製図板の所に歩み寄る。「このエンジン…いや発動機とか言うたのぅ、この先についている物がプロペラ?…竹とんぼと思えばよいのじゃろうか」

太郎左衛門は若き設計者に恥ずかしげに聞いた。


「左様、竹とんぼで御座る この発動機で竹とんぼを回転させ牽引力を得るのです」


「やはりのう…竹とんぼとはよう気付かれた…お主は若いのにようも考えたものじゃ」


「いえ、それがしの工夫では御座りませぬ、中将様の設計を設変しているに過ぎませぬ」

若い設計者は己の考案と思われたのが恥ずかしく顔を赤くした。


(やはりこの飛行艇も駿河守様の考案か…)


太郎左衛門は想う、三田駿河守とは如何なる人物であろうかと。

人伝えに天才とは聞いてはいたが…もう桁が違いすぎる、自分からすれば神の領域ではなかろうかとさえ思えたのだ。


もはや太郎左衛門の頭からは反射炉建設など完全に消失していた、それはこの工廠の転炉といい電気炉といい、その技術は数百年も先を走っていたからだ。

太郎左衛門はこの工廠で展開している全ての技術が欲しいと思った、いや…理解したいが正確かもしれない。


製鉄技術・兵器技術・機械技術そしてこの航空技術…見るもの全てが夢のまた夢である。

こんな素晴らしい技術をいとも簡単に創造できる三田駿河守という人間…技術屋ならば寝食を共にしても触れ合って生きていきたいと想うは至極当然の様に思い至った。


太郎左衛門は躊躇無く正則の前に進む、そして倒れるように彼の前に土下座した。

「駿河守様、どうか…どうかそれがしを弟子の末席にお加え下され」

額を床に擦りつけ懇願し始めたのだ。


驚いたのは正則である。

「江川殿、何をなさるのか…これ立ち上がって下され」正則はオロオロしながら敬三郎を見た。


「駿河守様、どうか拙者を弟子に加えて下され、どうかこの通りで御座る」

床に額を擦りつけ懇願する太郎左衛門に困惑する正則と敬三郎である。


「弟子などとは…」正則は絶句する、あの太郎左衛門であるからして。

正則は困窮顔で敬三郎を見、助けを求めた。


敬三郎は前に進んで太郎左衛門の肩に手を置いた。

「江川様、それがし以前は三田塾の塾生で御座った、しかし三田塾はもう存在してはおりませぬ 代わりに陸軍技術大学が御座る、どうで御座りましょう 大学の方に入学されてはいかが…」


「大学…」


「左様、技術大学で御座る、現在大学の方では五百五十名ほどの学生が在席し、短期課程の一期生はもうこの工廠に務めて御座る、先ほど貴殿が話されれていた設計者は今年三月に卒業したばかりの者です」


太郎左衛門はようやく立ち上がった。

「短期課程と言われると…二年就学でしょうか」


「左様 短期の二年、そして四年・六年制が御座ります、学部は当初工学部と化学部の二つで御座ったが今年 幕府陸軍大学になってからは法学部・軍学部・医学部の三つの学部を増設したところに御座る。

因みに技術系学科は工学部には物理工学科・機械工学科・電気電子工学科、化学部には化学科・肥料農学科・油脂学科が御座りまする。


どうで御座いましょう、江川様は江戸にその名も聞こえる高名な技術者であられることは存じております、されどここは数学・物理など大学の先進なる理学を初歩より学ばれたら如何で御座ろうか」


「高名な技術者などと…恥ずかしい限りで御座る」

太郎左衛門は顔を赤くして項垂れた。

「ではそれがしを大学に入れていただけるのでしょうか…こんな年寄りでも」


「いえいえ、大学には五十を過ぎた御仁も学ばれておりますゆえ、なんの躊躇いが御座りましょうや」


「かたじけのう存ずる、そこまで言って頂けましたらすぐにでも入学致しとう御座る、しかしそれがし未だ天領の韮山代官に御座るよって、これよりすぐにも伊豆に立ち返り親族と協議し、誰ぞに跡目を継がせたならすぐにも大学の方にはせ参じもうす、どうぞよしなに御指導賜りますようお願い申し上げ奉ります」


太郎左衛門は頭を正則と敬三郎に深々と下げ部屋を後にしようと背中を向けた。


「江川殿、今宵はもう遅う御座る どうでしょう明日は上野の大学でもゆるりと見学され、それから伊豆に戻られても遅うは御座らんでしょうが」


「左様で御座いますなぁ、つい気が急いて…は、はははっ」太郎左衛門は快活に笑い、恥ずかしげに頭を掻いた。


「敬三郎、欣也にこの件 電信で伝えておくようにのぅ、それと江川殿、今夜は我が家にお泊まり下され、江川殿には積もる話もいろいろ御座ってな」


「積もる話…初対面のそれがしに…」


「いえ…伊豆の話でも…と言う意味で御座って…」

正則は歴史上の江川太郎左衛門は若い頃より尊敬の対象であった、だから聞きたいことなどは山ほど有ったのだ、それをつい積もる話しと言い間違えてしまった。


「駿河守様の御屋敷に泊めて頂けるとは名誉なことで御座ります、されど…御迷惑では」


「いや何、高名な江川殿と今宵は一献交わしとうござるよって、何の迷惑など御座ろうか」


「では参りましょうぞ」言うと正則は太郎左衛門の肩を引いた。


廊下に出るとムッと夏の湿気に満ちた重苦しい熱気が二人を包む。


「駿河守様、あの部屋は夏というのに晩秋の涼しさで御座ったが…。

それと…先ほど言われていた“電信”とは如何なる意味で御座ろうかのぅ」


「江川殿、今宵は技術の話しはもうよいでは御座らぬか、その内貴殿も大学に通えば否応なく解ることで御座るよってのぅ」


正則は所詮話しても理解して貰えぬことが分かるだけに…正直これ以上の話しは言う気も失せていたのだ。


外に出ると辺りはもう真っ暗であった。

正則は馬の手綱を引きながら 憧れの歴史上人物と今宵は酒を飲み交わす奇跡を想い、その奇妙な感覚につい笑みが零れた。




 次の朝、正則は志津江に起こされて目覚めた。

「江川殿は…」酷い頭痛でその後の言葉は続かなかった。


「殿様、飲み過ぎで御座いますよ、お二人で一升半も呑まれましたでしょうか」


「一升半とな…どうりでのぅ」


こめかみを押さえながら布団から這い出て どうにか立ち上がる。


「殿様、足が震えて御座りましょう…江川様も先ほど起きられましたけれど、厠に入ったきり出てこないと下女が申しておりましたのよ」


「フーッ…つい度を超してしもうたな、しかし江川殿の話しは面白かった、いや実に面白い御仁じゃ、クククッ」


「変な殿様、思い出し笑いなど…それはそうと新沼様らが先ほどからお待ちかねで御座いますよ、本日は御出かけの御用がお有りなのでは」


「おおっそうじゃった、今日は朝から会合をせねばならんかった、己が集合を掛けて遅れる訳にはいかぬ、志津江いま何時じゃ」


「もうそろそろ朝四つのころではないでしょうか」


「えっ、もうそんな時刻か…これはいかん、志津江すぐに出かけるよって用意をしてくれ」


「朝餉はどういたしましょう」


「よいよい、そんな余裕は無いのじゃ」

言うと正則は厠に走った、腸の動きが尋常ではなくまた吐き気に体が震えた。


(折角呑んだのに…馬上で吐く訳にもいかんだろうから…ええい全部吐くか)


正則は喉に迫った吐瀉物を嚥下しながら厠の遠さを嘆いた。

(下戸がつい調子に乗ってしもうたわい)



 正則はいつもの供四人を引き連れ九段下の陸軍省参謀本部に向かっていた、目と鼻の先ほどの距離にもかかわらず車酔いならず馬酔いに苦しんでいた、先ほど厠で全部吐いたが…若干残っていたようだ。


やっとの思いで参謀本部の門をくぐり衛兵に敬礼を返す気力も無く玄関前まで進むと 落ちるように下馬した。


「閣下、お体の具合はまだいけませぬか…」

親太郎が心配顔で正則を覗き込む。


「ええい、心配はいらぬ 馬の方を頼む」と言い、手綱を親太郎に渡した。


玄関の階段を苦しそうに上がり、部下の出迎えを無視して厠へと走った。


厠を出ると、さぞ酒臭いであろうかと水を湯飲みで立て続きに二杯呑み…鏡を見た。

(まだ赤いなぁ…)


会議場の扉の前で立ち止まり平手で頬を三回叩いた、そしてゆっくりと扉を開く。


会議場には既に全員が揃っており一同立ち上がって敬礼し正則を迎えた。

正則は中央の席に座り全員に着座するよう促し、持ってきた書類を開いた。


「新沼大佐、ちょっと廊下を見てきてくれ それと…誰ぞ信用の出来る者を廊下に立たせてくれぬか、今日の会議内容は聞かれたらちとまずいでのぅ」


「分かりもうした」新沼大佐は立ち上がると部屋を出ていった、全員緊張した面持ちで新沼大佐が戻るまで咳き一つ洩らさなかった。


「閣下、外はご安心下さりませ」新沼大佐は敬礼して着席した。


それを見届けると正則は咳払いを一つしてから全員を一人ずつ目で追った。

近衛師団長を除く師団長九名と、参謀本部の少将と佐官クラスの八名、そのほか陸軍総監から二名と教育総監からの二名、そして陸軍大学から一名と陸軍工廠より庄左右衛門と左太夫の二名が出席している、以上二十五名での緊急会議である。


今日集まったのは正則の最強ブレーンだ、これまで数年に渡りクーデター計画を念入りに進めてきた同士でもある。


「皆の者、本日はご苦労に御座る、それがし皆を呼んでおいて遅参致し誠に面目御座らん、この通りじゃ」正則は静かに頭を下げた。


「さて、本日皆の衆に来て貰ったは例の件じゃ、計画決行日は来年の一月十日としてこれまで準備してきたのじゃが…日を早めねばならぬ事態が出来致した」


この正則の言葉に一同は緊張し顔色を変えた。


「昨日、それがしは上様から火急の用有りて呼ばれたのじゃが…」

正則は昨日の上様下問の内容と水野越前守の件を皆に洩らすことなく伝えた。


「という訳で水野忠邦の失脚は時間の問題なのじゃ、となれば鳥居耀蔵はもはや越前守を裏切ったは必定…すぐにでも老中土井利位や紀州徳川家が出てくるはず、そうなればクーデターは後手に回る、皆の衆 何としてもその前に行動を起こさねばならぬのじゃよ。


儂は何としても血の一滴たりともこぼさずにクーデターを成し遂げたいと願っておる、そこで懸案の近衛師団の扱いであるが、師団長の梶野土佐守を如何にして罷免に追い込み その座に我等の同士を座らせるかである。


この件、儂なりに考えた案が御座るよって、早々にも上様に謁見し進める所存に御座る、よってこの件は以降それがしに任されよ。


それと朝廷工作じゃが…ちと急がねばならん、本来なら今までのように儂が京に出向かねばならぬが、この混乱時…当分江戸を留守には出来ん、よってこれまで交渉に共に当たってきた陸軍省の堀田中将殿に任せようと思う。


堀田殿、急で相済まぬがよしなに頼み入る、早々にも京に発ってくだされよ。

それではこれよりクーデターの詳細なる検討に入る、皆の衆 手元の資料を見て下され」


正則は、窓辺の眩しい陽光を一瞬垣間見て すぐに書類に視線を落とした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ