二十一.伊豆韮山代官
天保十四年七月、正則は江戸城本丸御座之間で将軍家慶に謁見していた。
これより三日前、上様側用人 堀大和守より「上様が火急の用で三田陸軍中将と相談したき儀あるとの由、ついては十二日朝の四ツ半 本丸座敷まで参られるよう」と言われたのだ。
将軍から火急の用とは如何なる事態であろうか、正則の胸は騒いだ 思いつくことは第二師団の遠藤少将の更迭人事…しかしあれは決着して二ヶ月近く経つ、すると今進めている近衛師団長更迭の件だろうか。
近衛師団長は梶野土佐守(陸軍少将)、昨年まで勘定奉行を務めた油断ならぬ男と聞いていた。
正則がこの男を近衛師団長の座から引きずり落としたい理由は正則のブレーンではないからだ、現在の全師団長十人中九人までは正則が密かに進めるクーデターの賛同者であり重要なブレーンである。
正則はクーデターを決行したさい出来る限り江戸城は無血開城させたいと考えている、そのためには城中に未だ残存する番方と近衛師団の頭は正則のブレーンで占めておきたいのだ。
また正則が梶野土佐守を更迭したいもう一つの理由は、江戸町奉行鳥居耀蔵・目付戸田氏栄・勘定吟味役篠田藤四郎らと親しく、水野越前守の元で天保の改革を進めている一人でもあるからだが。
正則は鳥居耀蔵と親しいと聞くだけで肌に粟が出る、何故こうも彼を毛嫌いするかは己でもよく分かっていない…多分以前に肺炎で高熱を発した際、耀蔵妖怪の夢に魘されたことに起因しようか。
梶野土佐守の更迭は人事担当の陸軍省総監である水野大将(水野越前守)に、二ヶ月前より重箱の隅を穿ったような些細な失策を誇大化し何度も更迭を具申しているが…その都度その場しのぎの曖昧さで逃げられている、水野越前守にすれば耀蔵と同様に子分は可愛いのであろう。
(越前守が近衛師団長の更迭人事で上様に何か良からぬ事を吹き込んだのか…しかし最近の上様は水野越前守より自分の方を重要視しているはず…)と正則は想っている。
これは陸軍創設の際、上様はよほど不安であられたのか水野越前守に度重なる下問をなされたが要領を得ず、ついには創案者である正則に同席を求めたのだ。
この謁見の折り、やはり上様からの御下問に水野越前守は答えに窮していた、代わりに正則が平易に噛み砕いて答申、特に陸軍組織の役割で基本的特質とその相互連関を下問された際には 正則の得意とする社会学の「相互作用論と社会的行動理論における役割」について、世界の軍事組織を例に挙げ またその賞罰に関してまで解りやすく説明していった。
これには将軍家慶は眼を輝かせて聞き入り「さすが三田駿河、論理を尽くして軍事を創案しておる、これは安心して任せられるというものじゃ」と安心げに正則を見つめたものだ。
それ以降上様は軍事での御下問は自然と正則だけを呼ぶようになっていった。
また上様の所々言葉から、軍事に関し水野越前守は正則の傀儡に過ぎないとさえ受け取っている様にも感じられ、これはマズイと正則は将軍謁見後は必ず水野越前守にその下問と答申の詳細を報告するのを忘れなかった、これはいつの時代でも当てはまる処世術であろう。
将軍謁見の場は黒書院奥の中奥である、この御座之間は御三卿、老中、若年寄などが上様に謁見する際の御座所となる。
正則が将軍家慶に拝謁するは二ヶ月ぶりだ、いつもは御簾奥から声を掛けられるが今日は御簾が何故か初めから上げられ直に上様を拝顔できる模様。
正則は不思議に思うも平伏して上様の下問を待った。
すぐに「これへ」と声がかかった、この場合 拝謁者は将軍の威に打たれ前に進むことができないという膝行の素振りだけを見せ、元の座で拝謁するのが古来よりのしきたり、正則はいつものようにそれに倣った。
ところが今日は「これ三田駿河、形などはどうでもよい そこに居たのでは話も出来ぬ、もそっと近うよれ」との声が掛かった。
正則はどうしたものかと堀大和守を見た、大和守は上様を一瞥し正則に許可の目配せを送った。
正則はそれを受け膝でにじり寄り、上段一間手前まで進み寄り平伏した。
それでもまだ遠いのか「もっと近う」と御声が掛かる、正則は(えっ)と思うもまた躙寄り上段敷居に膝がつくまで進んだ。
「三田駿河、本日は御苦労 至急相談したき一大事有りて…」と言葉を途中で止め大目付跡部信濃守の方を見た。
そして怒りを露わに「跡部信濃、そちは席を外せ」と信濃守に声高に下知を下したした。
跡部信濃守は目を丸くするも上様の怒りの表情に気押され脱兎の如く部屋から退室する。
信濃守が去るや上様は温和な顔に戻り「三田駿河、本日呼んだは水野越前の事じゃ」
「越前が上知令を進めておることは貴公も承知であろう、余は越前が進言した江戸や大阪周辺の大名旗本の領地を幕府の直轄地とし、また地方に分散している直轄地を集中させて幕府の行政機構と財政を強化するという政策には承認した…しかしじゃ江戸大坂周辺十里四方内を幕府直轄領として没収するということまでは知らされなかったぞ。
五日前…余の異母弟である紀州徳川家の斉順が訪れ 越前の上知令を痛烈に批判していきおったわ、まっ弟は以前家老の忠篤が越前によって無慈悲にも失脚させられたのを根に持っての批判でもあろうが…、しかし余が怒れるはその時の越前の対応よ 弟斉順の政策撤回の進言に己の背景となった幕府陸軍をやたらちらつかせ、事も有ろうに進言の一言も聞かぬ内に「無用!」と言下に追い返したことじゃ。
余が越前を陸軍大将に任じたはそちよりあやつの方が役が上だったからに過ぎぬ、本来ならば創設者のそちこそ大将の任に有るべきところ…それなのに奴は…。
越前は余が下問した軍事に関し何も答えられなかったではないか、そんな体たらくが陸軍大将を笠に着て弟を言下に追い払うとは…威を借る狐とはあやつの事よ、のう三田駿河 武辺と技術一辺倒のそちは与り知らぬ事であろうがこの件をどう見る」
「はっ、申し訳御座りませぬ…それがしこの件につきましてはいま上様より拝聴致したが初耳、どう見るかの御下問には些かの分別の刻が必要に御座いまする」
「そうか…やはりそちは知らなかったか、いや何 そちは越前とは懇意の間柄 とっくに奴から聞いておるとばかり思っておったからのぅ…んんやはり知らなかったか」
「あやつが貴公を利用しているだけとの噂は事実であったようじゃ…小賢しい奴め」
将軍家慶は顎に手を当て思案顔に沈黙した、正則は平伏したままゆえ将軍の表情までは分からなかったが、正則から水野越前守の行状の何かを聞き出すため今日呼んだ事は明らかである…だが的外れだったということがこの沈黙からは察しられた。
しかし家慶が独り言に呟いた「利用しているだけ」が妙に正則は気になった。
「やはり駿河は余が思っておった通り清廉潔白の士じゃ、水野越前の件は余が何とかする…本日はご苦労であった」
正則は平伏しながら首を捻った…一体何の事やら、いま水野越前守の裏で何かの謀が進んでいるのだろうか、上様は何らかの情報を掴み正則に裏を取りたかったのか…。
水野越前守の実弟大目付跡部信濃守を怒りに満ちた顔で下がらせたのはその証とは言えないだろうか。
正則は手に汗を握り平伏したまま上様が下がるのを待った。
「おおそうじゃ、駿河 以前余がそちに下問した海外覇権の是非について、そちが答申した言葉がいたく気に入っておるのじゃが…どうもうろ覚えでのぅ本日は祐筆も控えておるゆえもう一度聞かせてはくれぬか、たしか世界各国の相対峙…から始まったと思うが」
「はっ、世界各国の相対峙するは禽獣相食まんとするの勢にして、食むものは文明の国人にして食まるるものは不文の国とあれば、我日の本は其食む者の列に加はりて文明国人と共に良餌を求めんか、数千年来遂に振はざる亜細亜の古国と伍を成し共に古風を守て文明国人に食はれんか、猟者となりて兎鹿を狩るか、兎鹿と為りて猟者の狩らるか、二者其一に決せざる可らず」と福沢諭吉の外交論の一説を読み上げた。
「おお確かそうだったの、そちも忙しかろうがこの覇権と富国強兵の論理について噛み砕いて書面で余の元へ届けてはくれぬか、このこと余はじっくりと考えてみたいのじゃ。
それとの本日は伊豆韮山代官 江川太郎左衛門(英龍)が来ておる、江川は西洋砲術の普及を以前より提唱しておりそちと同様に秀逸、余が気に入りの一人じゃ、何でも反射炉建造について以前より越前を通じて幕府に許可の申請をしておるそうじゃが、審議対応できる者はそちをおいて他にはおらんそうだ、駿河 英龍の事 何なりと聞いてやれ」
将軍が立ち上がるのを感じた、正則は平伏したまま気配が消えるのを待った。
そのとき側用人 堀大和守の意味深な声音が響いた。
「三田駿河守殿、貴殿…少し越前守より間を置かれた方が宜しいかと存ずるが」
正則は頭を上げ声の方を見た。将軍と側近らは既に退室し、大和守のみが正則を見詰めていた。
御座之間を退出し黒書院前を横切ったとき大目付跡部信濃守が正面からこちらに向かってきた。
「駿河守殿…少々相談したき事が御座り待っておったのじゃが時間は有るかのぅ…」
そら来たと正則は思った、彼は正則が向かう御用部屋から出てきた…たぶん兄水野越前守と今し方まで会っていたのだろう。
堀大和守の言葉が瞬時によみがえる「上様は貴殿を痛く好いておられる、余の命運も駿河次第じゃとさえ言われておる程にのぅ、じゃから上様のお心を鑑みれば今は越前殿より些か距離を開けるべきなのじゃ、のぅここまで言えば貴殿のこと…もうお分かりじゃろうて」
歴史上では水野忠邦の失脚は九月のはず、上様の御勘気に触れるには些か早いが陸軍創設により歴史の歯車は少しずつ狂ってきているだろう。
初め、上様の沈黙から越前守が正則の知らぬところで謀反でも企てていると早計したが…歴史通り上知令の反発であったようだ、正則自身 己の企てからつい謀反と考えてしまうのかもしれないが。
「跡部殿、申し訳御座らんが本日は上様よりの御言いつけでこれより江川太郎左衛門殿と面会する事になっておりまする、相談は日を改めてということで御願い申し上げる」
「何と、江川太郎左衛門とな…それでは本日の謁見は江川面会の件であったのか」
「はっ、左様で御座るが…何か」
「そうか…そうじゃったか、ならばよいのじゃ 駿河守殿 脚を御止めし誠に申し訳御座らんかった、ではの」
そう言うと信濃守は回れ右で今来た廊下を老中御用部屋に向かって早足で戻っていった。
正則が恐れていた水野忠邦の失脚はいよいよ現実味を帯びてきた、となれば鳥居耀蔵らの裏切りは時間の問題であろう…。
正則らは水野忠邦の失脚は陸軍大将という力を背景に、歴史から逸脱し数年先になると読んでいた。よってクーデターの決行日は来年の一月十日に変更し準備してきたのだ、しかしこの逼迫した状況を鑑みれば計画は早めねばなるまいと思案に暮れた。
御用部屋に戻るとすぐにクーデターのダイヤグラムを頭の中に描いた、初期部分に若干手を加えれば補正は可能とは思えたが、しかし最大のネックは依然近衛師団長の梶野土佐守の存在である。
(早期更迭の手段は無きものか…水野越前守に強引にねじ込む手がないわけではないが、いま水野越前守に下手に接触すればあらぬ疑いを招くやもしれぬ、ここは慎重に考慮せねば)
この物思いを破るかのように取り次ぎの者が現れ「江川太郎左衛門様が半時前より控えの間でお待ちで御座る」と伝えにきた。
(あっ忘れていた、しかしこの慌ただしいさなか 正直勘弁して欲しい…それにしても時代遅れも甚だしい反射炉の建造とは…まっ上様のお声掛かりとあれば会わぬ訳にもまいるまい…)
正則は渋々の体で立ち上がり控えの間へと向かった。
「これはこれはお待たせしました、今し方上様より江川殿が参られると聞いたばかりに御座るが、もう待っておられたとはつゆ知らず遅参お詫び致す」
正則は言いながら江川太郎左衛門の前に静かに座した。
「三田駿河守様で御座りますか、お初にお目に掛かります拙者江川英龍と申しまする、どうかお見知りおきの程お願い申し上げまする」太郎左衛門は畏まって平伏する。
江川太郎左衛門は正則より一回り上の年長者である、正則は若い頃この江川太郎左衛門をはじめ、高野長英・高島秋帆・渡辺崋山など幕末の開明的英傑にあこがれた時期があった、その一人である江川太郎左衛門が目の前に座しているのだ、先ほどの面倒と思う気持ちは何処えやら…顔には出さねど興奮は隠せなかった。
「本日は伊豆の韮山からお越しになられましたか」
「いえ、江戸に出て参りましたは昨日の夕、宿から直接この本丸に直行いたしたので御座るが」
「それはご苦労に御座る。さて…御用件は反射炉建造の許認可と聞き及んでおり申すが、反射炉は伊豆に建造されるおつもりかの」
「はっ、左様で御座る、それがしが代官を務めまする伊豆の加茂郡本郷村か田方郡中村のいずれかに築こうかと計画しておりまする」
「左様か、して反射炉建造の目的はやはり西洋式大砲の鋳造ですかな」
この質問に太郎左衛門は一瞬ギョッと目を剥いた。
「駿河守様は製鉄技術については よくよく御存知の様子」
この返答に今度は正則が首を傾げる。
「江川殿はそれがしのことを全く存じてはおらぬようですな…いや貴殿が水野越前守様よりの推挙と聞きそれがしのことを知った上で本日参られたと思うておりましてな、これは失礼つかまった。
それがしは以前 幕府銃火薬工廠の工廠長を務め、その工廠はそれがしが創設したもの、よって多少なりとも技術には明るいと自負しておりもうすが」
「そうで御座りましたか、それで反射炉のこともご存じで、そう言えば銃火薬工廠のことは伊豆にも風の噂で聞こえておりまする、たしか今年の初めに幕府陸軍工廠に改名したと聞き及んでおりまするが…しかし正直申して韮山は伊豆の片田舎 江戸の陸軍工廠が何をなされているかはとんと承知は致してはおりませぬが」
「そうで御座いましょうな、何せ幕府でも閣老と一部の番方頭にしか知らされておりませんでのぅ、まして伊豆とあればなおさらで御座りましょう」
「あぁ駿河守様が技術に明るい御方で助かりました、これまで幕閣の御方らには幾度となく反射炉建造の許認可を建白いたしましたが…どなたも分かっては頂けず四年の歳月が徒労に流れ 最近は遅きに失した感しきりで御座いました。
上様もさぞ憂いておられましょう、昨今の外国船の挑発や阿片戦争の成り行き…この日の本は四方を海に囲まれておりもうす、ゆえに海防がいかに大事かは言うまでも御座りませぬ。
このままではいずれ日の本は海外の脅威に晒され蹂躙されるは必定、それに対抗するはやはり威力有る西洋式大砲の普及が肝要に御座ろう。
しかしこの日の本にはその大砲を造るに必要な良質な鋳鉄の製造技術がありませぬ、しかし拙者は蘭書のライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法という書を見つけ、そこに記載された炉内の温度を高温化する反射炉構造の工夫を知ったので御座いまする。
拙者 それらを参考に既に絵図面も描き上げ 後は耐火物・断熱材を工夫するのみで御座いまする。何卒拙者に反射炉建造の認可が頂けますよう平にお願い申し上げまする」
太郎左衛門は畳に頭を擦りつけるように平伏した。
「そうですな良質な鋳鉄製造技術は今後日の本には必須で御座ろうよ、よぉく分かり申したゆえ貴殿の反射炉建造許認可、それがしが何とか致しもうそう。
但しこれから貴殿を幕府陸軍工廠に御連れもうすゆえ、そこで製造されている現物を見て それでも反射炉を建造したいと申されるなら許認可は通しもうそうや」
太郎左衛門は頭を上げ認可が通りそうなことを喜ぶと同時に、正則が言う「陸軍工廠の製造物を見てのちも建造したいなら認可する」の意味は理解出来なかった。
「では参りましょうか」正則に促され席を立ち正則の後に続く。
正則は御用部屋を出ると軍帽を被った、後から続く太郎左衛門は会った時から気になっていたは正則の服装である、以前長崎の高島秋帆に弟子入りした際 出島で見かけた和蘭人が着ていた洋服というものによく似ていたからだ。
(これが噂に聞く幕府陸軍の軍服というものか…確かに体に密着し活動しやすい着物ではある…しかし色といい金色の階級章といい、奇を狙った西洋かぶれの虚仮威しにも見えるが…。
三田駿河守というこの若造、幕府銃火役工廠と幕府陸軍を瞬く間に創設した若き天才と聞いてはいるが、陸軍工廠などもどうせこの軍服のように虚仮威しに過ぎぬであろうよ)
正則らは馬で深川の陸軍工廠に向かった、供はいつもの屈強な四人である。
太郎左衛門は乗り慣れぬ革製の鞍に苦労していた、ウェスタン鞍と聞いたが意味は分からなかった、ただ鞍前中央に握りが付いており しっかりと握れるのは助かった。
また、前を走る供の者が腰に下げている革製の容器が何なのか先程来より気になっていた。周りをみても駿河守を含む全員が刀と共に同じものを下げている。
(何であろう…煙草入か薬籠であろうか…まさか火縄短筒ではあるまい)
永代橋を渡り暫く行くといつもの茶店である、正則らは工廠に行くたびこの茶店で出る饂飩が楽しみになっていた、それほどにここの饂飩も出汁も旨かったのだ。
正則は手を挙げ馬を止める、そしていつものように同じ位置に馬を繋ぎ いつものように囲炉裏端に座るのである。
もう囲炉裏には炭は入ってはいないが妙にこの場所が落ち着くのだ。
彼らが座るとすぐに婆さんが現れ「御贔屓さん、いつもので御座いますよね」と笑い お茶を置いて奥に引っ込む、知らぬ間に常連になっていた。
しかし太郎左衛門は見慣れぬ濃紺の軍服に囲まれて妙に落ち着かない、肩・襟・胸に輝く階級章しかり 肩から襷に掛けた鞄状の物や、幅一寸の皮帯に設えた右腰の容器…全てが初めて見るものばかりである。
太郎左衛門はたまらず「駿河守様、先ほどからその御腰に下げた容器が気になって仕方ありませぬ…もし御差し支えなくば中身を見せては頂けないでしょうか」
「おっこれですか、これは三田式自動拳銃と言いましてな、それがしが工夫した銃で御座る」正則は言いながら革製ホルスターの口を開け、中の拳銃を抜き出すと太郎左衛門の手に握らせた。
それはずっしりと重く、奇妙な黒光りを放っていた。
「こ…これは元込め短筒、それも火縄ではない」と言ったまま太郎左衛門は凍ったように身を固まらせた。
この鉄塊を見た刹那これが何であるか、またどれほど凄い物かは瞬時に理解出来る太郎左衛門という男、後の時代 地方の一代官であった彼が幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ねついには幕閣入まで果たす男なのだ、さすが太郎左衛門だけのことはあると正則は独りごちた。
「おお何と六条の旋条さえ入っておる…こ これは凄い、この短筒は陸軍工廠で造られたものでしょうか」
「左様、しかし江川殿 こんな物で驚いていては工廠の製造物を見たらそれこそ腰を抜かしますぞ」と正則は拳銃を引き取り、握りからカートリッジを抜き出しそのカートリッジ上部の実弾一発を親指で押し出し太郎左衛門の手の平に乗せた。
手の平にのった真鍮製の実弾を見てまたもや太郎左衛門は驚愕する。
「これはカニ目打式薬莢…いや違うピンが無い…」
太郎左衛門は実弾を手に転がし薬莢後部の雷管に気が付く、そして雷管を囲むように【一八四一製造】の小さな刻印を見つけた。
「この様なものまで既に製造していたとは…」その手は無様にも震え始めた。
因みに、この薬莢と同型の薬莢が造られたのは これより四年後、フランスのフロベールが雷管を薬莢中央に配したリムファイア式と呼ばれる一体型の金属薬莢を発明したが、実用化されたのはさらに下り十二年後に普及し始めたスミス&ウェッソン社のロケット・ボールであるから、この時期太郎左衛門はその存在も知らないのであるが。
正則らは陸軍工廠の正門から乗馬のまま門内に入った、門柱の下には門衛が各一名敬礼姿勢で一行を迎える、正則ら一行はそれらに敬礼を返しながら通過した。
正門から100mほどのアプローチを進み 馬を玄関横に止め下馬した、正則は馬を頼むと言い残し太郎左衛門を先導して玄関前の石段を登った。
玄関を抜けると吹き抜けのホールになっている、ホールにはこの陸軍工廠で製造されている兵器が陳列されてあった、これは今年の初め庄左右衛門が工廠長に就いた際に ただ広いだけのホールでは寂しいと台を幾つも設えその上に赤い毛氈を敷き、銃架を整備して火器を陳列したのである。
太郎左衛門はホールに入るとまず天井の高さに驚かされた、太郎左衛門にとって15mほどの高さの天井は初めての経験だった。
「ほーっ」と大きく溜息をつく。
(このような無意味に高い虚仮威しの建物なんぞ設えてからに…)
天井から目を周囲に転じる、そして展示物に気付いた。
夥しい数の黒い棒状の物がホールの左右の壁沿いに所狭しと並んでいた、それらが銃器と気付くにはそれほど時間は係らなかった、太郎左衛門は奇妙なうなり声を発し無様な走りで展示物へと駆けよって行った。
正則は失笑を堪え(これから彼に見せる工廠内の設備群は少々刺激が強すぎるかもしれぬな)と正則は思った、しかし彼には反射炉を造る無意味さをまず理解して貰い、出来れば技術者として今後自分を支えるブレーンの一人になって貰いたいものと正則は考えていたのだ、あの江川太郎左衛門であるからして…。
展示物を一通り見て太郎左衛門は青い顔をして正則の待つベンチに戻ってきた。
正則は煙管から灰を叩き出し、煙管を革製の煙管筒に仕舞いながら「江川殿、顔色が悪いが…如何致したのじゃ」と問うた。
「はぁ…拙者少々疲れ申した、興奮しすぎたのでしょうなぁ」
「それはいけませぬなぁ、少し休みますか」
「いえ、疲れと申しても心地よい疲れで御座る…しかし凄い、ここは本当に日の本かと疑いたくなる程で御座る」
「そうですか、ではいよいよ製鉄棟に案内しましょうかな」言うと正則は腰を上げ玄関と正反対の工廠へと続く扉に向かった。
この時、太郎左衛門の頭から嘲りの想いは完全に消失していた。
扉を抜けると50m程の渡り廊下がありその前方に一回り高い製鉄棟が望めた、そしてその右方向には工作棟・化学棟・火薬製造棟・薬莢雷管成形棟・弾体実装棟が建ち並び、渡り廊下の中頃まで来て初めて工廠の全容が視野に入る程である、その威容は圧巻で 工廠の最右翼の弾体実装棟などは霞がかかり朧に見えるほどの壮大さであった。
製鉄棟の屋根には50m高さの煙突が二十本ほど建ち並び黒煙を噴き上げていた、正則らは今その製鉄棟の入口に向かっている、太郎左衛門は膝の震えが止めようもなく口中は乾き果てていた。
製鉄棟入口横の詰め所に入ると壁に掛かっているグラスファイバー製のヘルメットを2個取り一つを太郎左衛門に渡した。
正則はそれを被って見せた、太郎左衛門は恐る恐るそれに倣って被り紐を顎下で止めた。
次ぎに壁に貼ってある青焼きの製鉄製造フロー図を見せられる、太郎左衛門は何故この絵図面が青いのかは今はもう問題すら感じなかった。
正則はフロー始点の鉄鉱石の搬送から高炉までの原理と仕様を語り始める、そして溶銑予備処理・転炉・二次精錬・連続鋳造・圧延と順次話しを進めていく…しかし正則にはこの説明の無意味さは分かっていた、現に太郎左衛門の目は完全に泳いでいたからだ。
熱に魘されたような太郎左衛門の顔を横目に「では現場をお見せしましょう」そう言うと詰め所奥の鉄の扉を開け製鉄棟の内部に太郎左衛門を案内する、一気に騒音が彼らを襲う、その騒音は太郎左衛門にとってかつて経験したことのない異常音であった。
太郎左衛門は腰が退けるもずんずん先を歩く正則に遅れまいとて早足で正則に寄り添う様に付き従った。
そしてまずは巨大な炉と周囲を揺るがす振動に腰が砕けそうになる、正則が騒音に負けじと大声で「これが高炉で御座ると」と叫んだが、太郎左衛門はただガクガクと肯く素振りを見せるのが精一杯であった。
そして行く先々は天井に届きそうな火花が飛び交い、真っ赤に溶けた湯が自動的に取鍋に注がれ駆動トロッコと昇降機によって次工程へと無人で運ばれていく、また幾条ものベルトコンベアが空中を走りコークス・添加材が猛烈な速度で各炉に供給されていた。
これらの動力源は全て大型電動機によるものと正則が大声で叫んでいたが意味は全く理解出来なかった、ただ火花と煙そして空気・蒸気の噴出音、真っ赤に焼けた一千貫ほどの巨大な鉄塊が板状に圧延されていく様だけが脳裏に焼き付いていった。
太郎左衛門は惚けたように製鉄棟の出口に辿り着いた、喉が渇き立っているのも苦痛なほどだ。
「駿河守様…ここで暫く休憩を」と言いつつ太郎左衛門は工作棟入口横のベンチにヘナヘナと座り込んでしまった。
「江川殿、さぞ驚かれたと存ずる これが現在の幕府の製鉄技術であり日産一万貫の鋼鉄生産の現場で御座るよ」
「…………」
太郎左衛門は返す言葉も無かった、勢い込んで海防を語り拙劣なる反射炉の必要性を駿河守に説いた己が今は恥ずかしく消え入りたかった。
この世には上には上があるものと思い知らされ、かつて高島秋帆の慧眼と技術の高さに驚嘆し弟子入りを懇願したが…今日はその比では無い、それは天と地 神に接した想いなのだ。
(天才とはこの様な人間をいうのか…)太郎左右衛門は怯えるように正則を見た、そして目が合った…「駿河守様、み…水を下さい」と、想いとは裏腹に無意味な言葉が洩れ出てしまった。
太郎左衛門は水を飲むと生き返ったように顔に赤みが差した、彼はもう何を見ても驚かぬであろうと正則には見えた、それこそが技術者たる所以。
それはジェットコースターから降りたときの安堵感か、はたまたもっと凄いコースターに乗りたいと思う気持ちなのか…正則は生き返った太郎左衛門を見てなんとなく分かるような気がした。
「さて、落ち着かれましたかな それでは工作棟に参ろうぞ」
正則は工作棟の扉を開けた、ここは製鉄棟と違い いたって静かな環境である。
棟内は予想以上に広く百人以上の人々が何やら機械らしき前に立って作業をしていた、太郎左衛門は興味げに機械に近づきその作業を見て眼を剥いた、何と鉄塊をまるで木を削る容易さで削っていたのだ、そしてその後ろでは二尺を越える細い鉄の棒の中心に深々と穴を穿っていた。
もう何を見ても驚かぬと決め込んでいたが瞬時に崩れ去ってしまった、ここで行われている作業は人智を越えていると感じたからだ、それはもう神々が人間の愚を笑いながら工作に勤しむ姿にも見えた。
太郎左右衛門は半ば走っていた、旋盤・フライス番・ブローチ盤・プレナー・プラノミラー・平研・内研等々…とても一日で見きれる工作機群ではなかったが。
それでも全てを目に焼き付けておきたい、そんな衝動に駆られ工作棟を縦横に走り、そして半時後にようやく組立場に辿り着いた。
そのころ正則は既に組立場でアルミ製ガソリンエンジンを前に敬三郎と話し込んでいた。
「して敬三郎、馬力測定の結果は出たのかのぅ」
「はっ、最高出力6000rpmで243PSと出て御座る」
「ほーっこの大きさでのぅ、でかしたぞ敬三郎」
この会話を聞いていた太郎左衛門は二人の間に割って入り「この白い塊は何で御座ろうか」と正則に聞いた。
急に割って入った太郎左衛門を怪訝顔で敬三郎が見詰める、正則は敬三郎に太郎左衛門を紹介し、目の前にあるアルミ製発動機とは何かを太郎左衛門に軽く説明した。
しかし太郎左衛門は、ワットの蒸気機関の如く外燃機関でなく内燃機関であると説明されても全く理解は不能であった。
「敬三郎、百聞は一見に如かずと言う、エンジンを駆けて見せてくんか」と敬三郎に命じた。
敬三郎は電気系のスイッチをひねり、エンジン出力軸にクランクを取付けて勢いよく廻し始める。
すぐにエンジンは掛かった、敬三郎はキャブレターを操作し回転を上げていく、回転計が3000rpmを指したところでエンジンから離れた、消音器の効果なのか騒音はディーゼルより相当静かに感じられた。
「排気の色も良い、燃焼効率はそうとう高いとみたが…なかなかの出来じゃのぅ」正則は満足そうに出力軸の回転を見詰めている。
太郎左衛門は得体の知れぬ白い塊が、勝手に動いているとしか見えない…もし彼が発動機技術のほんの入口でも知っていたなら 多分腰を抜かすほど驚嘆したであろう、正則は太郎左衛門へのこれ以上の説明は無用と感じた、それは幼児に説明するようなものだから。
今の太郎左衛門にとって発動機とは「不思議なカラクリ」程度のもので、それよりも後方で組立中の機関砲や野戦砲の方が何倍も興味を引いたのだ、現に正則が発動機の説明をしている最中 彼の目は完成した数十門の野戦砲に釘付けだった。
正則は苦笑しながら「太郎左衛門殿、もう好きに見て下され」と言い背中を押した。
彼は遊園地に来た子供のように興味ある園具に向かって走って行く。
「殿、彼の御仁が技術で江戸まで聞こえし韮山の江川英龍殿ですか…んん何と申したらよいのか…」敬三郎も苦笑は押さえられなかった。
その後、化学棟・火薬製造棟・薬莢雷管成形棟・弾体実装棟を順次時間を掛けて太郎左衛門に見せ、陽が西に低くなった頃 試射場に榴弾砲搭載の戦闘車を引き出し、縦横に走行させながら二寸七分榴弾砲を速射し500m先の土嚢数カ所を瞬時に粉砕して見せ、また機関砲の弾幕威力も煉瓦塀を消失させて誇示した。
太郎左衛門は自失呆然に、夕日に赤々と染まる戦闘車の勇姿をいつまでも見呆けていた。




