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二十.アルミ精錬

 天保十四年四月、幕府陸軍創設から4ヶ月が過ぎようとしていた。

当初正則の計画では陸軍は五万の将兵で構成するとしていたが、実際編成に掛かると現状の番方・役方組織でどうしても解体または外せない部署、また途中編成を拒否する部署が現れるなど予想外の混乱があった、それでも二月末には何とか四万二千の将兵で形ばかりの幕府陸軍は発足する運びとなった。


軍事大権は、これまで老中・若年寄が支配していた番方に帰属する旗本・御家人また陪臣らを陸軍将兵として独立させ、直接将軍の統帥権に属するものとした、これにより陸軍の最高指揮官は大元帥たる将軍ただ一人になった。


また陸軍総監(老中首座兼役)・参謀総長(陸軍総裁兼役)・教育総監(若年寄兼役)の三役が将軍を除く陸軍の最高位にあり、これらを陸軍三長官と呼称させた。


陸軍総監には老中首座水野越前守(陸軍大将)、参謀総長には陸軍総裁兼役の三田駿河守正則(陸軍中将)、教育総監には若年寄堀田摂津守(陸軍中将)がそれぞれ将軍の命によりその任についた。


この三長官の補佐機関として、陸軍省・参謀本部・教育総監部の三つの官衙が設けられ、陸軍総監(陸軍省)が軍政・人事を、参謀総長(参謀本部)が軍令・作戦・動員を、教育総監(教育総監部)が教育をそれぞれ掌い、また 三機関の序列第二位の次席相当職として陸軍次官(陸軍省)・参謀次長(参謀本部)・教育総監部本部長(教育総監部)も設けた。


正則が管轄することになった参謀本部は、戦時・事変時に陸軍の最高統帥機関として設置される「大本営陸軍部」となり、大元帥(将軍)の名において発する大本営陸軍部命令を作成する部署である、ゆえに参謀総長が事実上の陸軍最高指揮官と言ってよかった…この参謀総長の役に正則がつけたは 正則とそのブレーンらの熾烈な内部工作があったからである。


また軍事大権の権限一項を庄左右衛門と謀らい漢文と新語を交え並の人間では解釈しがたい文章で権限の移譲部分を改竄、これにより素直に読めば陸軍の権限全てが大元帥と陸軍総監に集約しているように見えるのだが、或る駒を外せば彼らは参謀総長の傀儡に堕ちるよう企てられてもいた。


これにより正則は全ての兵器と陸軍将兵の殆どを自由に動員出来る権限を手中に収めたのも同然で、後はクーデターの機が熟すのを待つばかりにあった。


一方、幕府武器製造の牙城である幕府銃火薬工廠は「幕府陸軍工廠」と改め、副工廠長であった庄左右衛門を工廠長に就任させた。


この陸軍工廠長は、初め将軍家慶から寵愛を受けて若年寄に任じられていた遠藤但馬守胤統が内定していたが、正則が直接将軍家慶に謁見し 安心して陸軍工廠長を任せられる後任は近代技術を熟知する鈴木庄左右衛門をおいて他になしと談判、強引に工廠長のポストを勝ち得たのだ。


これにより鈴木庄左右衛門は位階従五位外が贈位され鈴木長門守と名乗り、旗本諸大夫役となって二千石が加増され、陸軍階級も少将の位を得たのだ。


こうして正則は着々とブレーンの地位向上を図り、クーデターが進めやすい環境造りに奔走していた。


三月一日 陸軍服制の統一を発布、陸軍将校服制・陸軍准士官服制・陸軍下士官服制を別個に規定 また階級章も同時に規定し 三月二十七日に全将兵に軍服が支給され 四月の一日から着用となった。

またこの日より陸軍将兵は武士・番方の呼び名を禁止、軍人と呼ぶように改め 階級呼称で呼び合うよう規定した。


これにより正則は三田陸軍中将または三田参謀総長と呼ばれるようになり、服装も憂鬱な袴裃からやっと解放され軍人は自由性のある軍服着用が城中での正装となった。


後は江戸御府内に於ける廃刀令と陸軍将兵の髷の廃止の断行である。

これは相当の反発を覚悟せねばならないと正則は思ったが…幕府に於いて軍部の権威を第一とするには残存する幕府内の文方と残存番方、及び一般武士に刀という武器を携行させるは軍部の権威確立に邪魔なだけである、また以前 正則を狙った刺客の件もあってのことだ。


廃刀令を推し進め、陸軍将校にのみ日本刀をサーベル状に携行させるは軍部の権威性を高めるに寄与すると正則は考えた、また髷の廃止は軍帽又は戦闘帽を被るに邪魔なだけだ。


この江戸御府内に限られた廃刀令は、幕府はともかく多くの譜代・外様の武士が江戸には多く存在する…それらをどうするかである、数百年にわたり受け継がれた武士の魂という誇り…これを取り上げるということは一筋縄では行かぬであろう。


しかし正則は今年中にはこれを敢行しようと腹に決めている、逆らう者あれば容赦なく蹴散らしてくれようとも考えている、四万二千の将兵と最新兵器を背景にした今日の幕府陸軍に、勇猛果敢に反発する藩などこの日の本にはもう存在しないとさえ正則は思っていた。


それが証拠に最近は西国雄藩の幕府への意見・文句・逆らいは完全に鳴りを潜め、このとからも察しは付くというもの。


また正則の最近の日常は、年末までには何としても陸軍将兵の数は計画通りの五万人の大台に乗せ、軍事国家の礎を造るという確固たる信念を抱いて日夜奔走する毎日でもあった。


それは歴史上この年の九月に上知令の断行により大名・旗本の反対に遇い水野忠邦は失脚する羽目になるはずであるが…陸軍発足に伴い水野忠邦が陸軍総監(大将)に任じられたことで彼に対抗する土井利位の派閥は権威失墜の状況にあった、それゆえ当面は失脚は無いとみて今年八月の軍事クーデターは日延べしていたのだ。



 今日の正則は朝から各方面の師団司令部を巡回していた、師団司令部と言ってもどの師団も未だ仮住まいの体で、今は建造を急いでいる最中である。

市ヶ谷の第三師団を朝四ツ半に出て今は代々木の第二師団に向かっている、供は参謀本部の士官 新沼親太郎大佐と安原清一郎中佐それと三名の大尉を引き連れての巡視である。


六名の一行は四谷の内藤駿河守の屋敷を過ぎた辺りで左の甲州道に路をとり馬を走らせていた、一行が千駄ヶ谷に入ると辻に市が並んでおり多くの人々で賑わっていた。

正則は馬を走らせるは危険と感じ間道を探すがすぐには見つからず…とうとう人混みに突っ込む形となった。


正則は手を挙げて減速を合図し歩くほどの速度に馬速をおとした、その時周囲の人々は一斉に正則ら一行に注視した、そして口々に感嘆の声を漏らし始める。

どうやらここの町民らは陸軍将校の正装を見るのが初めてらしい、中には手を叩いて誉めそやす者さえいた。


濃紺の軍服に将校軍帽 そして長靴にサーベル状に腰に吊した刀、胸には赤黄金の階級章が光っている、この伊達な出で立ちは当然人々の注目を集めるは当然のこと、口々に軍人さんが通ると子供らは眼を輝かせながらその後を追い、また大人らは頭を下げて道を空けたのだった。


代々木の第二師団に到着した正則らは大きな農家を改造した仮師団指令部の師団長室に案内された。

応対に出たのは第二師団長の遠藤少将である、遠藤は若年寄 遠藤但馬守胤統であり、幕府陸軍工廠の工廠長に内定していたものを正則がひっくり返し その座を庄左右衛門に奪われ臍をかんだ若年寄である。


この男、正則が若年寄になったとき何処の馬の骨と小馬鹿にしていた連中の一人であったが今は正則の方が役はずっと上である、今や平身低頭で正則を出迎えたのだが…心の内では憤懣やるかたなしであろうか。


「これはこれは三田参謀総長殿、よくお越しになられました どうぞこちらへ」と上等な応接椅子に案内する。


正則は深く沈む椅子に掛け遠藤師団長の官舎建造の進捗状況を聞いていたが…心ここに非ずである、というのは全師団の師団長の内 この第二師団と近衛師団の二人の師団長は正則と意は通じてはいないのだ、正則は泡を飛ばして喋る遠藤を見て…彼を更迭する手段をあれこれ考えていた。


この代々木の練兵場は当初二十万坪を予定したが、近隣の農民の反対運動もあってその半分の十万坪程が何とか買収でき、今建造中はその内の五万坪程で残りの整備はその後の予算次第である。

また、市ヶ谷の第三師団も練兵場用地買収は遅々として進まず、当面はここの第二師団と共同使用で行う予定だ。


正則は立ち上がり窓辺に寄って練兵場の進捗具合を見た、平坦にならされたおおよそ400m×600m広さの練兵場周囲は溝を掘った土を盛り堤とし、枳穀を植えて生垣としていた。

この枳穀生垣は第二師団の各部隊が調練の合間、皆で力を合わせて造ったのだと自慢げに遠藤師団長が説明する。


目を横に転ずると練兵場正門は東側の中央にあった、その正面道路は今建造中の第二師団司令部本館に真っ直ぐに通ずる道、観兵式などには乗馬した此奴が幕僚を従え威風堂々と歩を運ぶのであろうと見て取れる…正則は横に並びその道の出来具合を満足げに見詰める遠藤の肥えた腹と横顔を見やり、横を向いて苦笑に耐えた。

(観兵式までここにおれると思うな)正則は早々にも更迭人事を進めねばと空を仰いだ。


第二師団の編制は、三個連隊と二旅団を基幹とし、歩兵・砲兵・工兵等の戦闘兵科及び輜重兵等の後方支援部隊の諸兵科を連合したおおよそ六千人の兵員で構成された作戦基本部隊である。

正則はこのような師団を第一から第六まで造り、また二つの歩兵師団と一つの機械化歩兵師団、それに近衛師団によって幕府陸軍を構成したのだ。


正則は建設中の各官舎や倉庫に眼をやった、正門の南に建坪約六百坪 高さは二階建ぐらいの大きい倉庫が目に付いた、どうも馬草倉庫であるらしいがその大きさが本当に必要なのかと首を捻った、またその周囲には大砲収納舎・火薬庫・兵の宿舎が建造されつつあり、これらが江戸御府内に八カ所も築かれつつあることを思うと…各師団建設費と兵装備費の予算二十万両などはすぐにでも底をついてしまうだろうと思えた。


(追加予算十万両は心して使わねば…)正則は陽光に照らされた練兵場を見ながら財布の紐をどう締めるかも併せて考えていた。




 第二の師団司令部から近衛師団本部を巡視し、昼九ツ半には深川の幕府陸軍工廠へと馬を走らせていた。

途中、正則は空腹を感じ 昨年の皐月 土砂降りの雨の中、小笠原佐渡守の屋敷横にある「茶店・笹屋」に入ったことを思い出し そこに寄ってみようと考えた。


暫く行くと前方に笹屋が見えてきた、懐かしげに茶店の前で馬を止め下馬した 皆もそれに倣い正則を取り囲むように下馬する。

馬の手綱を茶店軒先横の馬繋棒に繋ぎズボンについた土埃を叩きながら茶店に入いる。


茶店には数人の客が旨そうに饂飩を啜っていた、しかし彼ら六人に気づいた客らは一様に箸を止め 異様な軍服の集団に注目する、正則らはそれを尻目に奥の囲炉裏端へと進んだ。今日はあの太々しい人足達はいなかった、彼らの人足仕事はもう終わったのだろう。


六人は囲炉裏を取り囲むように座った、するとあの婆さんがお茶を持って現れる。

「おやまぁ…あの時の御武家様方、御武家様方は陸軍の御方だったのですね…これはお珍しい」


「婆さんや、この店には軍人さんは来ないのかね」と清一郎が聞く。

「おや!あの時の強い御武家様…あの時は助けて頂き有り難う御座いました。

でもあなた様は着物より…ずっと軍服の方がお似合いですよ」と婆さんは眼を細めながら惚れ惚れと清一郎を見詰める。


「軍人さんは先日赤坂に行った際に一度お見かけしただけで、この店に軍人さんがお見えになるなど初めてですよ」と婆さんは注文を聞いて奥へ引っ込んだ、するとすぐに爺様の手を引いて戻り、爺様に「軍人様ですよ」とまるで見世物の体である、陸軍が発足して一ヶ月足らず…江戸町民に認知されるにはまだ数ヶ月は係ろうかと正則は思った。


 茶店で腹ごしらえを済ませ陸軍工廠に向かう、その道すがら橋の架け替え工事や道路の拡張工事がやたら目につく、これは三月の初め各師団に今後陸軍工廠で造られる砲や戦闘車を運ぶに余りにも道路が狭く 橋も脆弱であるため幕府に道路の増強工事嘆願を行い、それが認められ今月初めより江戸の方々で始められた工事である。



 正則ら一行は昼八ツ半に陸軍工廠に着いた。

今日正則が工廠に赴いたは水野敬三郎が試作を進めているガソリンエンジンの進捗状況を見るためだ。


試作のガソリンエンジンはアルミ製水冷四気筒百馬力のエンジンと、星形空冷十二気筒五百馬力のエンジンである。

星形エンジンは言うまでもなく航空機用である、正則は御先手組頭になった六年前より航空機の構想を開始し、約五年の歳月を掛け七百貫の荷が積載できる小型輸送機と、複座の戦闘機設計を進め 昨年の夏には発動機を除く機体・翼・脚の設計はほぼ完了していた。

しかし胴部にはジュラルミン、発動機にはアルミ合金が必須であるが、この時代まだアルミニウムという軽金属は世界中 どの国にも存在してはいなかった。


正則は設計途中の三年前、いずれエンジンや航空機を作るにアルミニウム生産は必須と考え、その原料であるボーキサイトの調達を長崎の 町年寄に打診していた。


アルミニウムは英国のハンフリー・デービィーが三十六年前(文化四年)に発見したまだ新しい非鉄金属である。

ハンフリー・デービィーは、明礬に含まれている酸化物のアルミナと炭酸カリウムを電気分解で分離させようとしたが失敗、酸化アルミニウムであるアルミナを得るに留まった。


またボーキサイトは、二十二年前(文政四年)ピエール・ベルチェが当時赤色粘土岩と考えられていた岩石を分析したところ、粘土ではなくアルミナ分を五割以上も含んでいるラテライトに似た鉱石であることを発見、その鉱石を産地レ・ボー=ド=プロヴァンスにちなんでボーキサイトと名付けた。


ボーキサイト(bauxite)の名は、南フランスの『ボー地方の石』の意で、鉄礬土てつばんどとも呼ばれる。

主成分である酸化アルミニウムの他、水酸化アルミニウム・二酸化ケイ素・酸化鉄・チタンなどの不純物も多く含まれている。


21世紀の今日、広く用いられているアルミナ生成法は まずボーキサイトを250℃の濃水酸化ナトリウム溶液に浸し、アルミン酸ナトリウムとしてアルミニウムを溶出させる、その後冷却して水酸化アルミニウムの結晶を取り出し、それを1050℃に加熱脱水して純度の高いアルミナを生成する。


このアルミナに融剤を加えて約1000℃に加熱、それを炭素電極で電気分解することによりアルミニウムの単体が得られる、この過程で莫大な電気を消費するためアルミニウムは「電気の缶詰」とも呼ばれている。


平成の時代におけるボーキサイト最大産出国はオーストラリアだ、しかしこの時代はまだその片鱗さえなかった。

オーストラリアで日本に最も近い産出地域はジャワ島とニューギニア島の彼方アラフラ海を挟んだダーウィンである、だがこの時代オーストラリアは英領自治植民地であり文明はシドニー西方の肥沃な平野に限られ、この地域はアボリジニのララキア族と少数の英国人が入植・撤退を繰り返す未だ未開の地であった。


そんなおり出島のオランダ商館から、ボーキサイトの意味は分からぬがオランダ領東インド地域より産出するものであれば日の本への輸送を請け負ってもよいという吉報がもたらされた。


オランダ領東インドとは現在のインドネシアの地域である、正則は航空機技術者という職業柄 機体の主要材料である軽金属の機械的性質向上に四十年以上携わったことでアルミついては相応詳しく、アルミ製製法は言うに及ばず世界のボーキサイト産出地また廃坑の殆どは諳んじていた。


オランダ領東インド地域とあれば…ボーキサイト鉱山はスマトラ島とボルネオ島の間にあるビンタン島か、或いはボルネオ島の西カリマンタン州のタヤン地区にあるはず…。


正則は早々にパソコン内にあるインドネシアの地図を見て日本に近い産地を探した、そして距離からすれば西カリマンタン州であろうがマレーシア側から内陸部を長距離進まねばならず、産出物の陸送を考えると不可の結論に至った…。


次に着目したのはビンタン島である、ビンタン島は長崎から琉球を経てほぼ直線に東シナ海を縦断したシンガポール島沖合46km南方に有り、長崎からはおよそ4000kmの距離にある。

ビンタン島はボルネオ島より若干遠いが、ビンタン島のボーキサイト鉱山は海からの距離が一里と近く、何よりも露天掘りという容易さに心が引かれた。


しかしビンタン島はシンガポール島に近い。

シンガポール島は文政二年一月、人口わずか百五十人のこの島にイギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズ卿が上陸を果たし、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付け、地名を英国風のシンガポールと改め都市化計画を進め文政七年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされ、当時この海域を支配するオランダも力の均衡からイギリスによるシンガポールの植民地化は仕方なく認めることになった島である。


イギリスは現在 清国と阿片戦争の真っ最中、この時期に僅か数十km沖合のビンタン島に日の本が鉱山を開くということはあまりにもイギリスを刺激すると懸念したが、長崎出島のオランダ商館からはイギリスに植民地支配を認めたはスマトラとシンガポールそれとマラッカの一部の島々であり、ビンタン島は未だオランダの支配下に有りとて問題なしとの回答を得た。


これにより正則は天保十一年、幕府老中諸侯に銃火薬工廠において強靱な合金を作るにどうしても海外産出の添加元素が必須であり、調査のため幕府技術大学校教授の小池一太郎と技師数名を阿蘭陀領東印度へ渡航させたいと嘆願したのだ。


数日後正則が予想した通り、幕府からは国禁を犯すとて不可の回答が発せられた。

正則は即日水野越前守に働き掛け、添加元素(ニッケル・クローム・モリブデン等)による多元合金が銃器製造に如何に必要であるか、又それらは国内に存在せず海外調達を余儀なくされることを声高に説いた。


水野越前守にすれば正則の言うことはまるで珍粉漢であったろう、しかし正則の天賦の才に感服しきりの彼は「絶対必須」と思ってしまったのだ、そんなわけで水野越前守を巻き込んだ裏工作が功を奏し半年に及ぶ紆余曲折は有ったものの現地開発及び採取期間五年という期限付き特例で天保十一年夏に正則の要求にほぼ近い形で許可されたのだ。


実は添加元素については数年前 鉄鉱石採取の折り、蝦夷地でニッケル・クロームの鉱山は探索されており、今や普段使いする程に銃火役工廠において添加元素は使用されていた、ただモリブデンだけは備前西部の加茂川にケヒリン石(モリブデン含有)が産することが分かっているが、未だその位置は特定には至っていなかった。


正則の今回の海外渡航嘆願は添加元素調査も若干は有るが、真の目的は現地でボーキサイトを採掘しアルミナに生成して持ち帰るにあった、よって添加元素調査は余暇程度のものである、この時代 軽金属の概念すらこの日の本にはなく、これを噛んで砕いて彼らに理解して貰おうなどとは小指の先ほども考えていない正則である。



 正則は東シナ海が荒れる夏、また大陸からのモンスーンが強い冬を避け 渡航を十一月と決定、小池一太郎にビンタン島東部 ボーキサイト鉱山の正確な座標とボーキサイト鉱石の見分け方を教育し鉱脈調査に備えていった。


ボーキサイト鉱石自体は鉱物が含まれているだけであり、鉱石ではなく単なる石にしか見えない、色は赤茶色・白色・褐色・黄褐色のものがあり光沢は殆ど無くどんよりとして粘土か土のようで、ラピスラズリ原石の青い部分を茶色く変化させたような感じに見える。


鉱脈は平原もしくは森林系バイオームの地下に生成されることが多くラテライト化作用により形成されるアルミニウムの風化残留鉱床であり、一つ一つの鉱脈は大きく生成されることが特徴であると一太郎らに説明していった。


ボーキサイトの成因には諸説あるが、熱帯の風化作用で岩石中のアルカリ・アルカリ土類元素の溶脱、珪酸塩の分解が行われ、水に難溶性のFe・Alの水酸化物などが残留したものと考えられ、原岩はかすみ石閃長岩・石灰岩・頁岩・片麻岩・玄武岩などの例が多い。


また小池一太郎には、ボーキサイトの粉末の危険性についても注意を与えた。

ボーキサイト粉末は吸い込むと塵肺の一種「ボーキサイト肺」を発症、この塵肺は進行速度が極めて速く四年ほどで死に至る、よってボーキサイトを扱う際は防塵マスクの着用は絶対と言い聞かせた。


この注意から小池一太郎は脱脂綿と活性炭を積層したボーキサイト粉塵専用のフィルターを開発、それを径三寸・厚み一寸のフィルターケースに充填した防塵マスクを造った、また正則は現地でアルミナを生成するための鉱石破砕機・振動ふるい機・加熱用高圧釜を銃火薬工廠で造らせ共に渡航に備えたのだった。



 天保十一年十一月、小池一太郎を含む調査隊一行八名は晴天東風の日を選んで長崎より和蘭帆船で阿蘭陀領東印度ビンタン島に向けて出港した。

彼らが携えた荷は、精錬機器及び動力源の蒸気機関とその燃料であるコークス、それと苛性ソーダ・試薬の化学薬品など山のような荷、その総量はおよそ一万貫の荷となり、十一月十日 品川から船二艘で長崎まで運び、和蘭帆船には七日間を要して積み込んだ。


一行は長崎を出航後 途中、奄美・琉球・石垣・高砂・ルソン島を経由しながらおよそ一ヶ月半をかけボルネオ島の沖へと進み、ボルネオ島南端のアピアピの村落に上陸した、この地は後にイギリス植民地開発の拠点ジェッセルトンと改名されるが小池一太郎ら一行が上陸したときはまだオランダが支配する静かな漁村だった。


一行はそこで正月休みと静養を兼ね二十日間滞在し、その間にビンタン島でボーキサイトを採掘・生成する人夫を募集、また観光と言うには余りにも未開であったがスマトラサイ・ボルネオゾウやワニ・ニシキヘビなどの初めて見る大型哺乳類・爬虫類に大いに驚嘆し、現地人に案内させ奥地の壮大な滝や美しい川の景色などを写真に収め 暫しの観光を楽しんだのだ。


人夫の募集は高額賃金が魅力であったのかアピアピの近隣から数百名近い応募が有り、その中より特に屈強な若者六十名ほどを絞り、彼らに賃金の半分を先払いし二十日後にアピアピを出航、海路ビンタン島を目指した。


ビンタン島に上陸したのは年が明けた天保十二年一月の十五日、阿蘭陀人を含む総勢百名の一行はボーキサイト鉱脈のある Kijang に最も近い東岸の入江に帆船を着岸させ、荷を船より降ろした。


ビンタン島は佐渡島ほどの大きさである、その東岸の入江河口近くに荷を下ろしてのち、小池一太郎は技師五名と和蘭船員十名及び人夫十名で調査隊を編成、一太郎と技師らはアサルトライフルを持ち 和蘭人はゲーベル銃、現地人は山刀で河の右岸約一里先の鉱脈地帯を目指した。


初め地図から想定して二時間も有れば充分に着けると軽装で出かけたのがいけなかった、途中ジャングルに阻まれ…また猛烈な蚊の大群にみまわれ体中を掻きむしりながら逃げ帰ってきたのだ。


翌日の朝、調査隊は重装備に整え 頭から防蚊ネットを被って出発した、しかし今度は気温が敵である…赤道直下 日の本では一月だがこの地は三十℃を越えていたのだ。

それでもジャングルを切り開いて進み、七時間かかってようやく座標通りの鉱脈地帯に辿り着いた。


一太郎らはこの地でテントを設営し、人夫と和蘭船員は帰り道をさらに広げながら船へと帰した。

翌日からは荷駄が通れる路の整備を開始、何とか荷駄が通れる路になったのは十日後で、荷を運びながらの採掘小屋建設が終わったのはそれからさらに二十日を要した。

一息ついての後、和蘭船は二ヶ月後に再びこの入り江に戻ることを約し、帰港地であるジャワへと帰っていった。


 二月の十八日ようやく試掘りに着手した、詳細な座標計算に基づき一間深さで五間角の穴を掘り鉱脈を見つけると、その鉱脈に沿って横に掘り進み三十間の鉱脈を露わにした。


そこから掘り出された鉱石は破砕機とミルで粉末にし、その粉末を石灰および苛性ソーダと混合し高圧容器に注入して加熱した。

ボーキサイトに含まれる酸化アルミニウムは苛性ソーダによって溶解され、この溶体から沈殿抽出されたものを洗浄、そして水分を加熱除去し残った物が水酸化アルミニウム、更にこれを一千五十 ℃ で加熱脱水しアルミナと呼ばれる砂糖のような白い粉末を生成するのだ。


一太郎と技師らは採掘したボーキサイトに含まれる酸化アルミニウムの含有量に驚喜した、それは彼らの想像を遥かに超える57%以上の含有量だったのだ。


彼らはそののち一月半をかけて二千貫のアルミナを生成し、麻袋に詰めて入り江近くに築いた小屋に積み上げた。

また和蘭船が寄港するまでの数日間はビンタン島内を踏破し、各種の鉱物を採取 その鉱物には緯度経度の座標値を詳細に記していった、これは江戸に持ち帰り大学で金属分析するための標本である、正則からこの地域はニッケル・金・銀が多く産出すると聞いていたからだ。


和蘭船は約束通り二ヶ月後に入り江に寄港した、機械類は鉱脈近くの頑丈な採掘小屋に残し鍵を掛け、アルミナのみを積み込み 四月の二十二日ボルネオ島南端のアピアピの村落に向けて出港した。



 一行が長崎に戻ったのは天保十二年十月の十日、江戸を出発してほぼ一年の歳月が流れたのだった。

長崎からさらに船を乗り継いで品川沖に帰港したのが十月の二十五日であった。

小池一太郎はじめ技師七名らは病に倒れることもなく全員無事江戸に帰着したことは早馬で正則の元に知らされた、正則は驚喜し馬で品川の港に赴き 港に積み上げられた二千貫のアルミナを見上げ小池一太郎らの手を握りその労をねぎらったのである。


正則は小池一太郎らがビンタン島に向けて出航したのと同時期 銃火薬工廠の製鉄棟の一画に総予算六千両を投じプリベーク式電解炉の建造に取り掛かっていた、またこの炉に必要な蒸気タービン式大型発電機も併せて製作を開始したのである。

炉と発電機そして大型ボイラーが完成したのが一太郎らが戻る二ヶ月前であった、正則は早々にアルミナを銃火薬工廠に輸送しアルミニウムの精錬に着手した。


まず融剤として美濃関産の蛍石からヘキサフルオロアルミン酸ナトリウムを合成し、それに劇物であるフッ化ナトリウム(蛍石と濃硫酸とを混合して加熱、それを当量の水酸化ナトリウムで中和させたもの)を電解炉により一千℃で融解する、そこへアルミナを投入し 同様に溶解させた後、炭素電極である陽極と陰極で電気分解を行い還元するのだ。

分解された高純度アルミニウムは融けて陰極側カソードに生成される、いわゆるこのアルミニウム生成法がホール・エルー法である。


しかしこのホール・エルー法の欠点は電気を多量に消費するにある、今回 小池一太郎らがビンタン島で生成したアルミナ総量は二千貫、これを電気溶融・分解するに必要な電力量はおよそ十一万二千五百KWhという膨大な電力量が必要となろう。


このアルミナの電気分解用として今回銃火薬工廠に建造された320KVAの発電機でこのアルミナ総量をアルミニウムに精錬するに、溶解電気量・電解電気量を合算し置換力率0.8とすれば、一日十時間稼働で一ヶ月半は優にかかる。


今回銃火薬工廠で建造された発電機は石炭を燃料とした蒸気ボイラーだ、燃料である石炭は工廠横のストックヤードに野積みされ水分高くまた品位も低いため熱量は二万六百kw/貫といったところ、この石炭でアルミナ総量二千貫からアルミニウムを精錬するに必要な石炭量は発電効率20%としておおよそ二万三千五百貫もの石炭量が必要となってくる。



 正則はアルミニウム精錬に膨大なコストが掛かることを憂いた、今後エンジンや航空機などの材料としてこのアルミニウムは絶対必須であり、年を追ってその消費量は膨大な量となって行くだろう。

今回の設備費と渡航・採掘・輸送・精錬費を合算し、アルミニウム重量に換算すると…アルミニウム一貫当たり三十八両ものコストが係ったことになり銀の3倍近い単価となる。


この単価を下げるにはビンタン島での採掘とアルミナ生成は和蘭人に任せ、またアルミニウム精錬に必要な電力は火力発電でなく水力発電に置き換えるが妥当と正則は考えた。


また今後の電気・電子部品製造に必要な高純度アルミニウムを得るにはホール・エルー法から得たアルミニウムを三層電解法・偏析法などによってもう一度精製する必要が有るため電気需要はさらに増し水力発電所建設は必須となるだろう。


併せて偏析法に必要なボロン・アルゴンガスの量産技術も開発が必要であろうか。

因みに明治37年、英国人ジョン・ウィリアム・ストラットがこのアルゴンの発見によりノーベル物理学賞を受賞している、正則が悩むこの天保の時代より下ること六十二年後の話ではあるが。



 正則らは天保十三年 八月の十八日、アルミナ二千貫の精錬を終えた。

得たアルミニウムの量はおよそ九百貫、百馬力のガソリンエンジン二十五基分の量だ。


天保十三年五月、欣也のディーゼルエンジンを見て落胆した正則は欣也には大学教授に専念して貰い、銃火薬工廠の技師 水野敬三郎に新たなディーゼルエンジン設計を任せた。

設計が終わったのが八月、丁度アルミニウムの精錬を終えたところであるが設計したエンジン材料はダクタイル鋳鉄・黒心可鍛鋳鉄を主として設計されているため今回はアルミニウム使用はあきらめ、引き続いて敬三郎にはアルミ製ガソリンエンジンの設計に着手させた。


敬三郎のディーゼルエンジン設計は、正則の助言も大きかったが所々に工夫が見られ欣也のエンジンとほぼ同じ大きさなのに六気筒三千ccで馬力も二百五十馬力と計算された。

エンジン製作は銃火薬工廠工作棟の総力を挙げて取りかかられ、併せて野戦砲の自走台車部の設計製作も同時に進められた。


エンジンが完成したのは十一月の初めで自走式野戦砲が完成したのは師走も押しつまった頃である、しかし正則は幕府陸軍創設に奔走していた時期でありその野戦砲を目の当たりにしたのは年が改まった一月の十六日であった。


銃火薬工廠改まり陸軍工廠の試射場に引き出された自走式野戦砲はカーキ色が陽光に映え其の威容は圧巻である、走行は鍛造キャタピラーで最大時速は35Km/h、走行中の射撃も可能とする見事なバランスで設計されていた。

よってそれは戦闘車と言っても良かったのだ、乗員は三名 装備は二寸七分榴弾砲一門・六分六厘重機関砲一門である、また油圧ポンプもエンジンクラッチから導かれたシャフトにより駆動され、走行操作・砲塔操作・アウトリガー操作は軽快な動きを見せたのだ。


正則は工廠の技術陣と工作技術の進歩に驚嘆すると共に、ようやく報われた想いに胸が熱くなった。

しかしこの戦闘車…造ったはいいがこの深川の地よりどうやって外に出すかである。

この地より続くどの橋もこの戦闘車の重量にはとても耐えられないのだから、正則は戦闘車を見ながら思わず笑いがこみ上げてきた、戦闘車より橋の補強が先であったと。




 正則ら一行は茶店を出て昼八ツ半に陸軍工廠に着いた、出迎えに出た庄左右衛門を見るのは二ヶ月ぶりである、些か太った庄左右衛門は辛そうに工作棟に案内する…もう齢五十過ぎの爺様である、工廠長の任は辛いであろうかと庄左右衛門の曲がった背中を見て憂いる正則である。


 工作棟では丁度エンジンブロックの鋳込みの最中であった、アルミ溶融槽にはAl-Si-Cu-Mg系合金が表面に膜を張って沸いている、それをバランサーに吊り下げられたトリベですくわれ、けい砂に熱硬化性樹脂の粘結材を混合した砂型湯口に注がれる、暫くすると押し湯口に溶けたアルミ合金が出てきた。

この鋳造法がシェルモールド法である、エンジンの如く中子が入り組んだ構造体に適した鋳造法だ。


水野敬三郎はアルミ注入を見届けると正則の元へ走ってきた。

「三田中将様、御巡視ご苦労様で御座ります」と嬉しそうに語りかけてきた。


「いよいよ鋳造に掛かったのだな、どうであろうか…巣などの問題は解決したようじゃのぅ」


「はっ、最初は鋳鉄と異なり扱いづらい金属で御座ったが癖を掴めば何たることは御座らん、エンジンブロックはこれで三個目となり先の二個はもう機械加工の最中に御座る」


「もう三個目か…するとあと二個じゃな、ピストンの方の鋳造は如何したのじゃ」


「ピストン三十個も鋳込みは終わり現在加工中に御座る、あとは問題と言えばクランクシャフトの加工で御座ろうか、シャフトの鍛造は終わりましたが加工専用機の完成にはあと半月は掛かろうかと…」


「んん…サーボモーターでも有れば簡単なのじゃが、カムとリンクの絡繰り機械ではのう、造るにも骨が折れる事よ…いっそ旋盤治具で加工した方が早かったではないのかの」


「いえ…今後の量産を考えますと、いつまでも治具に頼ることは…」


「そうか、まっお主に任せたこと、して完成はいつ頃になるのじゃ」


「六月の初めには完成できもうそうかと」


「そうか、では楽しみに待っておるぞ、それとディーゼルエンジンの方の生産は進んでおろうな」


「はっ、今のところ四十三基が完成し五十基を以て生産を終え、次は五百馬力の大型エンジンに移行する予定に御座る」


「それは頼もしいこと、のう敬三郎 大学の欣也にもいろいろと相談に乗って貰うことだ、彼は時折突飛な発想をするでな」


「はい、彼には今オルタネータの製作を助けて貰っております」


「そうか…それはよかった」

正則は欣也からエンジン製作を取り上げたことを少々気に掛けていたのだ。


「敬三郎、四気筒のアルミエンジンに目処がついたら星形エンジンにも掛かってくれ」


「殿、いよいよ航空機製作に掛かるのですね」


「そうよ、これは儂の夢じゃからなぁ…」

正則は固まっていくアルミを見ながら心はもう大空に大きく羽ばたいていた。


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