二.今なせること
正則の体は日に日に回復していった、これも志津江の懸命なる介護のおかげであろう、今朝も早くから志津江の肩を借り屋敷廻りを三周ほども歩いた。
「志津江殿、ほんによい季節となりましたね」
正則は庭石に腰を掛けると襟を寛げ風を通しながら塀の外を仰ぎ見た。
塀外は深い緑に覆われ緑葉が朝日に照らされ輝いていた、そんな木々の間を縫うように燕がせわしなく飛び交っている。
(こんな景色…小学校の帰り道でよく見かけたな、もうあれから半世紀か…いやそんなふうに考えれば今は一世紀半も昔の出来事…フフッ笑える)
隣で志津江が寄り添うように噴き出した額の汗を拭ってくれている。
(リタイヤした身にこんな果報が巡り来るとは…こんな生活も悪くない)
既に体の痛みはなく活力が体の底から沸き上がってくる、そんな喜びに大きく伸びを打ってみた。
(この世界に転生して早や二ヶ月、その間 健康な生活をしてきたものなぁ、やはり煙草を吸っていないのがいいのだろうか)
日に三箱吸う愛煙家、以前は夕方近くになると煙草の吸い過ぎか、はたまた過度な労働のせいかは分からぬが、帰社途中に地下鉄ホームに立つと吐き気をもよおすほどの脱力感があった。
(こんな浮くような爽快感は久しく無かった、まるで少年にでも戻ったような…)
「浅尾様、朝から屋敷の廻りを三周ほども歩きましたが足の痛みは如何でしょう」
「もう痛みはない、それにしてもこの屋敷の広さときたら…一体何坪あるのやら」
「浅尾様、我が屋敷など狭いもの、御近所の坪内伊豆守様の御屋敷はこれの倍以上もありますのよ」
「何とこれの倍…」
(ナゴヤドームほどもあるということか、いやはや何とも)
「浅尾様、庭ばかり歩くのは飽きましたでしょ、どうでしょう今日は思い切って外に出てみませんこと、そう浅草寺まで足をのばしてはいかがでしょう」
「ほぉ浅草ですか、ええぜひ行ってみたいですね」
「えっ、浅尾様は浅草をご存じでしたか」
「あっ、いや…地名のみは思い出せましたが、行ったか行かぬかは分かりませぬ」
記憶喪失を装うには即反射は禁物とこのとき正則は思い知った。
浅草寺までの二里の道のり、二人は三番丁通りを東に進み九段坂から両国廣小路へと足を向けた。
だがこの浅草行きはゆっくりとはいえ病み上がりの正則にはやはりきつかった。
また靴ではなく履き慣れぬ草履のせいか骨折した左足が浅草御門を左に抜け茅町通りに入った頃より痛みだし、御蔵前辺りでついに立ち往生してしまった。
結局は浅草寺と目と鼻の先まで来て駕籠で戻るはめになってしまったのだ。
「浅尾さまごめんなさい、こんなに腫れ上がってしまって」
屋敷に着くなり志津江は女中に命じ井戸から冷たい水を汲ませ足を優しく冷やしてくれた。
「いやいや悪いのは私の方、すっかり全快したものと高を括ったのがいけなかった、志津江殿どうかお気になさらず、もうどうかそのままに」
足の痛みはともかく江戸の町の賑わいは思ってた以上にすごかった。
足が癒えたらすぐにでもチャレンジし、昨年娘と散策した浅草寺の賑わいと百七十年前の賑わいの差を体感したいとも思った。
翌朝には足の腫れは引いていた、その脚を見つめ正則は首を傾げた。
若い…とにかく若い脚に見えた、張りがありスネ毛は薄くタルミなどは微塵も見えない。
次いで腕・腹と見ていくが何処をとっても老人のカケラもないことに改めて気付いた、その不思議な感覚に自分の顔はどうなっているのかと鏡を思い浮かべた。
(そういえばこの屋敷にきてから鏡を見た記憶がないが…)
鏡を思いながら顔を撫でてみた、すると顔中毛むくじゃらの手触りが妙に心地よかった、撫でたり引っ張ったりして昔 祖父の膝上で同じようなことをしていたと懐かしく思い出した。
(しかし伸びたなぁ、何センチぐらいだろう)
鬢に続き喉元まで密集する髭、また髪は元々無精で長くしていたから今では肩に届くほどのザンバラ髪である。
(これは手入れしなくちゃ志津江殿に嫌われてしまうな。
そう言えば数日前 志津江殿が櫛と剃刀を持ってきてくれたはず…)
正則は思い出したように机の前へ無精にもいざり寄り、引き出しをあけると櫛と剃刀を見つけた。
(おいおい、こんな小刀で髭を剃るのかよ…)
時代劇で見る鉄を鍛えた小刀そのものである。
刃の切れ味を親指の腹で擦り試してみた(うぁ切れるぞ!これは)
正則は縁側に出ると腰を下ろし胡座を組んだ。
まずは髪の手入れからはじめる、髪を櫛で何度も梳かし後ろで一束に纏め上に持って行き丁髷風にしてみた。
(んんまだ髷を結うには少々短いか、しかしこの屋の親父殿のように月代に剃るのは厭だなぁ)正則は己の月代頭を想像し思わず噴き出した。
(出来れば学者風に髪を後ろで引き結ぶか、或いは吉田松陰のような総髪もいいな、幕末期の勤王志士たちの間では総髪が流行ったと何かで読んだが…)
正則は思いついたように立ち上がり、部屋に戻ると書き物用の薄手の和紙を短冊状に切り始めた。
(昔父親が紙縒を作っているのを見たことがあったが…たしかこんな風に巻いてたはず)親指と人差指を舐めると紙の端から揉み込むように巻いていく。
(おっ、旨くできるじゃない…俺って意外と器用かも)と笑みがこぼれてくる。
出来は悪いが3本ほど紙縒を作るとそれを持ってまた縁側に出る。
あぐらを深く組み再度髪をすく、その髪を後ろで纏め紙縒3本できつく縛った。
(おっと…これでは縛る位置が高すぎたか)
正則は手で触りながら ふと女児のポニーテールを思い浮かべた。
(ゲッ、爺ぃのポニーか…まっいいやこの時代ポニーテールなんぞ誰も知らんからな)
次に伸び放題になった髭を指先で確認すると手に持った剃刀の刃を鬢の位置に当てた。
下に引けば髭は剃れるはず、そう思うも剃刀の角度や知らぬうちに横引きしないかと躊躇し手が動かない。
暫く思案するも腹をくくり「うぅん」と声を発し、思い切って下に引いてみた。
「痛っ!」
(んん…やはりこれは無謀だよなぁ)あらためて剃刀を見つめる。
(鏡さえあれば何とか剃れそうだが、やはりやめといたが無難か)
正則はあきらめたように溜息を洩らした。
ちょうどそのとき志津江が大屋敷の庭先からこちらに歩いてくるのが見え、縁側に座る正則を見つけると小走りに近づいてきた。
「あら剃刀など持たれて、御髭を剃られていたの…まぁ!頬に血が。
浅尾様、御髭を剃られるなら私に言って下さいまし、御一人ではご御無理でしょ、少し待ってて下さいね」そう言うと志津江は今来た庭を急いで引き返していった。
(はぁなんて美しい娘だろう、そういえば若かりし頃の吉永小百合を細くしたような、そう日活三人娘の吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子、いずれも美しかったが…俺は断然吉永小百合に憧れていたな)
正則はそんなことを考えながらポケーとした表情で志津江が去った方向をいつまでも見とれていた。
しばらくして志津江が湯を満たした手桶と手ぬぐいを下げて戻ってきた。
「さっ、顎を上げて下さいまし」
湯に濡らしきつく絞った手ぬぐいを五寸ほどに折りたたむと頬と顎を覆い軽く押し付けながら志津江は微笑んだ。
「あっ、髪も綺麗にされたのですね、すごく似合っていますフフッ」
微笑みながら志津江は髪から櫛を抜くと鬢から上に丁寧に梳き上げ「さぁ、お髭も柔らかくなったようですから剃りましょうね」と櫛を剃刀に持ち替えた。
志津江の物言いは…まるでボケ老人に接する介護士の対応にも感じられ、正則の先ほどまでの若やぎ感や想いなどは急速にしぼんでいった。
(やはり志津江殿には呆け老人としか見えていないのか…)
志津江の剃刀使いは実にみごとである、まるで流れるように動きそのたび左手に持った半紙の上には剃った髭が堆く積まれていった。
また細く柔らかな指先が肌に触れるたび、恥ずかしくもビクと震える正則である。
髭を剃るにつれ正則の素顔が少しずつ露わになっていく、それはまるで竹の子の皮を剥くようだ。
剥いだ皮の中から青白くみずみずしい素肌が現れてくる、志津江は剃り進めながら顔が紅潮していくのが抑えられなかった。
(いま若い人の顔に触れ髭を剃っている、エッ私なんて凄いことしてるの…)
正則が若い男性と気づいた瞬間から息継ぎするのさえ苦しい志津江であった。
正則のこれまでの落ち着いた物腰と対応、それに髭の白さから彼を四、五十代の老人と勝手に決めつけていたが…髭が消えていくにつれその素顔は予想から大きく外れ、まるで老木に鉋をかけていくに似て若やぎを顕し、志津江好みの男顔に変わっていったのだ。
志津江は何とか剃り上げると 貪るように息を吸い「お…終わりました」と吐きだした。
そして濯いだ手ぬぐいで正則の顔全体を拭き上げ、指先を顔に這わせ剃り残しがないかを確かめていく。
いま目の前に好み顔の男性が目をつむりなすがままである、その顔を震える想いで触っている自分…そう思った刹那 胸がキュッと切なく痛んだ、その奇妙な甘い痛みは志津江にとって初めての慕情経験でもあった。
正則は静かに目を開け顎に手を持って行き確かめるように撫でてみた。
「これは気持ちよく剃れました、志津江殿礼を言います」と目の前に迫る志津江の顔を仰ぎ見た。
しかしその顔は剃る前までのおおらかさは何処へやら、羞恥に染まった赤ら顔に正則は訝しさを感ずるも愛おしげに映った。
「浅尾様、御歳はおいくつになられます」志津江は脈絡もない言葉を発し、思わず顔を赤らめ弾けるように正則から離れた。
志津江がこのような「はにかみ」を見せたのは今日が初めてではないかと思った。
「さて、申し訳ないがわたしにも分かりませぬ、志津江殿にはいくつに見えますか」
志津江はさらに顔を赤らめ正則を見つめ、しばらくして「二十五ぐらい」と答えた。
「えっ、25ですか…」
正則は嬉しくなった、若く美しい娘から40歳も若く見られたことは御世辞でも嬉しいものである。
(いや…それにしても若すぎる、お世辞にしても25は言いすぎだろう。
待てよ、転生してから鏡を一切見ていないが…ひょっとするとタイムスリップで若く転生したのかも、ククッ俺は何を都合の良いこと考えてんだろ)
だが最近の体の爽快感と若やぎ感は20代のあの感覚にも似ていた。
「志津江殿、相済まぬが鏡など所望致したいが」
言いながら正則は知らぬまに武士言葉になっているのが自分ながら笑えた。
「はい、すぐに持って参ります」
正則は志津江が縁先より消えたのを見計らい手で顔を探った。
(やっぱり変だ)
触れた肌が妙に柔らかく、また有るはずの目尻の皺が指先には全く感じられない、そして腫れぼったい瞼も窪んでいるように感じられた。
「はい浅尾様」
差し出された手鏡を手に取ると眼前にかざし、食い入るように鏡像に見入る。
(おお!やっぱり25歳ころの俺だよ、そんな馬鹿な!)
どう見ても20代の男にしか見えない、しかし正則はそれほど驚かなかった、タイムスリップという驚天動地の体験をした正則にとってこの40歳の若返りなど驚きの内にはもう入らなかったのだ。
「そうですね…25歳くらいでしょうか」
しかし鏡を見つめ我ながらいい男と思った、確かに20代はモテ期であったと記憶の彼方で感じた。
それは青春時代、中学より剣道に打ち込む毎日で女性に接近する機会など全く無かった正則だが…大学の剣道大会で優勝したとき、正則目当ての女性ファンが会場に沢山押しかけていると友人らの羨望声で聞いたことを思い出したからだ。
(しかしこの江戸時代…こんなソース顔がモテ顔とは思えぬが)
「浅尾様、そんなに鏡がお珍しいの」
「い…いや、そんなことは、何ヶ月ぶりに見たものですから、つい…」
「浅尾様、御髪とお髭を綺麗にされたら本当に見違えました、素敵です」
志津江は言った端っから顔を赤らめまたもや俯いてしまった。
その日より少しの間…母屋での食事のさい皆が正則の男ぶりに魅入り、驚きを取り繕う素振りを見せたが数日で元の談笑に落ち着いていった。
またその頃より少しずつ正則の生活も変化していった、何よりも毎日離れに入り浸りだった志津江が滅多に訪れることが無くなったのだ。
老女が「男前の正則様に会うのが恥ずかしいからでしょ」と言ったが、どうやらこの屋の主人が志津江の出入りを禁じたらしいと次男正次郎の弁で分かってきた。
しかし、その代わり今度は正次郎が入り浸るようになり少々辟易する正則である。
正次郎は今年二十二歳になる、いわゆる旗本次男坊の冷飯食いだ。
昨年の夏、この屋の主人と同格の先手組頭 田所又兵衛の一人娘多惠に婿入りする話しが進められていたが…見合いの席で多惠の容姿を見た正次郎はその場から遁走、自宅に逃げ帰ってしまったらしい。
この時、主人の庄左右衛門は相手方に合わせる顔がないと部屋に閉じこもる正次郎の襟首を掴み、庭先に引きずり出すと「手打ちにしてくれる!」と息んだが、兄の清太郎が刀を振り上げる父に取りすがり「あのような醜女では正次郎があまりにも不憫」と泣いて諫めてくれたらしい。
後々聞いた話であるが、正次郎に言わせればその醜女は想像以上で20貫を優に越える大女で、閨を想像したとき「これはたまらぬ」と怖れを感じたらしいのだ。
その見合い以降 正次郎の婿入り話しは全く途絶えてしまったとか…。
それにしても正次郎の日常は遊び人そのものであった。
うるさい親父は御城に朝早くから出仕し、兄清太郎は昌平坂学問所に寄宿し滅多には帰って来ない。
御用人も老女も正次郎を猫可愛がりするから留守居の正次郎は勝手放題の振る舞いが出来たのだ。
正次郎は毎度遅い朝餉を済ますと道場に行ってくると言い出て行くが…その実何処に行っているか知れたものではない。
先日も朝餉の最中、親父殿に朝帰りをたしなめられ久しぶりに帰っていた長男に頭をポカリと叩かれ涙目で朝餉をかき込んでいたのを見た。
そんな朝餉のとき、志津江がこちらを盗み見ては俯き、少しばかりの朝餉を済ますと何か言いたげに正則の目の内を覗いて部屋を後にした。
正則は追おうかと一瞬立ち上がりかけたが…親父殿の険しい眼差しがこちらに注がれているのに気付きあきらめた。
「浅尾兄い、何か面白いこと無いかなぁ」
正次郎は知らぬ間に正則を「兄い」と呼ぶようになった、見た目四つ五つ年長に見えるためであろうが…しかし実のところは親父殿より二十も年長の老人である、少々面映ゆいと感ずるもその呼び方は嫌ではなかった。
最近正次郎は小遣いがもらえていないのか外出はしなくなり、昼過ぎともなればもっぱら離れに入り浸るのが日課になったようだ。
この正次郎の入り浸りに志津江はますます正則に会いづらくなったようで、はたまたこれは親父殿の陰謀かもしれぬが。
親として得体の知れない若い男に嫁入り前の愛娘が接近するのを危ぶむのは当然のこと、正則とて二人の娘を持つ65歳の親、これは至極当然の成り行きとみていたが…。
しかし正則とて歳相応の良識は備えていても肉体は二十代の精力に満ち溢れていた、自分を慕ってくれる美しい娘が屋根一つ隔てたところに寝起きしている、そう思うだけで胸の騒ぎは尋常ではなかった。
「正次郎殿、最近は道場には行っていない様子、なんなら暇つぶしに私と一手立会って汗でも流しましょうか」
正則は今の身の軽やかさなら全日本学生剣道選手権大会で優勝した頃の剣の冴えは充分に有ると声をかけてみたのだが。
「へぇ浅尾兄いは剣客だったの」
「それは違うと思いますが正次郎殿には遅れはとりませんぞ」
「朝夕に浅尾兄いが木刀を振っているのを知ってますよ、あれを見れば俺っちが兄いにはとても勝てないことくらい分かりますよ、というかうちの道場でも兄いに勝てる者などいないでしょうよ」
「正次郎殿、そんなことどうして分かるのですか」
「フフッ俺は剣はからっきし駄目、分かるはずないですよぉ、俺っちでなく一刀流免許皆伝の父上がそう申されるのですからまずは当たりでしょうよ」
「そうですか…親父殿がねぇ」
この時代、木刀の素振りだけでその技量が見抜けるものなのかと正則は首をかしげた。
「と言うわけで痛いことはやめて、何なら今から吉原辺りに繰り出しませんか。
兄い、幾らか持っているでしょ」
「小遣いなら親父殿から頂いておりますが…しかしいくら何でも吉原通いに使うのは罰が当たりますよ」
「そりゃそうだ父上が下された金ではなぁ、仕方ない用人か老女にまたねだってみるか…あっ、そうだ兄いはカラクリは好きかい」
「おや、また藪から棒に」
「俺、ボウズの頃からカラクリが好きで暇にあかせいろいろ作ってるんだ、どうよチョット見てみるかい」
「ほぉっそれはいい、私もカラクリは好きですよ是非見たいものです」
「そぉかい、じゃぁちょっと待っててくんない、いま持ってくるからさ」
言うと正次郎は大屋敷裏に続く中屋敷の自室へと駆けていった。
暫くして大事そうに一体の人形を抱えて戻ってきた。
「兄い、これなんだか分かる」
正次郎は人形の衣服を剥いで得意げに正則の眼前にかざした。
「んん、これは絡繰り人形でしょ」
「そんなん見ればどいつでもわかりやす、そぉじゃなくてさ この仕掛けが分かるかって聞いてんのさぁ」と機構の一部を指さした。
「これは凄い、ゼンマイ仕掛けですか」
「えっ、兄いゼンマイを知ってんの…へぇっ、じゃぁどんなもので出来てるか分かる」
「そりゃ鯨の髭でしょうよ」
「おやビックリ、兄いは何でも知ってるんだ、一体兄いは何してた人なの」
「いや、当てずっぽうですよ」
「兄い、当てずっぽうで鯨の髭はわからないわさ、先ほどまでは兄いのことを剣客と思ってたけど、実はカラクリ人形師だったりして」
「正次郎殿、私はこれっでも姓のあるれっきとした武士と思っております、まさか人形師はないでしょう」
「へっ、それもそうだね、じゃぁこのゼンマイを巻くと人形がどう動くか…こればかりはわからないよね」
正則は言われて木製のギヤとカムの組み合わせに一瞥をくれた、と瞬時にその動きは理解できた。
「ほーっ、なかなかうまく出来てますね、しかしこのつくりはカラクリ儀右衛門の茶汲み人形に似てますよね」
「おっ、兄いはカラクリ儀右衛門も知ってたの、いやはや真似はすぐに見抜かれるわ」
「正次郎殿、ここに付いているテンプですが軽すぎやしませんか、人形の進み方が早すぎるでしょう、それとこのカム…んんどう言えばいいのか、雲状板でいいのかな、ここの彫り込みが急すぎて人形が曲がるとき止まることがあるでしょう」
「…………」
「兄い!いったいあんたは何者なの」
正次郎は目を丸くし驚きを隠せない様子で正則を見つめた。
「い…いや、何というか自分にも分りませんが、何故か解ってしまうのです」
と言いながら不思議そうな顔をして見せた。
内心はしまったと思う、だが好きなものはどうにも隠せない。
出来ることなら一晩借り受け出来損ないの箇所を修正したい渇望に駆られた。
「正次郎殿、どうでしょう私に一晩この人形を預けてみませんか、もう少しなめらかに動くよう修正してみますが」
「そりゃいいけど…本当に出来るの、絶対、絶対に壊しちゃいやだよ、兄いが壊さないと約束してくれるならいいけど…」
「はいはい、壊しませんよ正次郎殿」
「じゃぁ、材料と道具を持ってくるわ」
正次郎はなおも不安そうに立ち上がり、首をかしげながら部屋を後にした。
その夜 正則は人形を分解してみた。
構造は予想していたより遥かに単純で、ギヤやカム構造から分析するに首を振りながら真っ直ぐ進みしばらくすると停止、そして手に持った湯飲みでなく鞠を取り上げてやると回れ右して元来た道を戻ってくるだけの単純仕掛けと分かった。
(たぶん見よう見まねでこのカムなどをは作ったのだろうけど形ばかりはカムだが理屈が解ってないから曲率が急すぎるし…それとこのリンクも支点の位置がアンバランス…だが理屈も分からずここまで造るあの坊や、親父殿が言うほど阿呆ではないようだ。
さて…こんな時限カムだけでは妙味がないからこれに変形カムを横付けしてもう少し動きを人間臭くしてみるか)
正則は分解した10センチくらいの木製カムを手に取り小刀を当て始めた。
次の朝、朝餉を済ますと早々に正次郎が心配そうに部屋に訪れた。
「兄い、どうですかい出来ましたか…」
「はい、出来ましたよ」
そう言うと正則は微笑みながら机上の人形を取り上げ、ゼンマイを巻きながら畳の上に置いた、そして昨夜新たに取り付けた起動ボタンを押す。
人形は緩やかに進み、滑稽な動きで首と腕を上下に振りながら一間ほど進んで止まった、そして鞠を取れとばかりに可愛く手を振る所作に正次郎は思わず手を差しだし鞠を取った。
すると人形は喜んだように小刻みに前後に揺れ、次いで可愛く御辞儀すると小さい弧を描き手を振りなが正則の元に戻り再び御辞儀を二度してから起動ボタンを自動復帰させて止まった。
その滑らかな動きと人間くさい所作に正次郎はポカーンと口を開けその動きに魅入っていったが、止まった後も正次郎は茫然自失の体で人形をなおも見入っている。
そして暫くして我に返ったのか人形を取り上げると真顔でその衣服を剥ぎ始めた。
「…………」
「この仕掛けは一体!」そういいながら正次郎は目を剥いた。
テンプとカムは当然改造されていたが、その横に新たなカムが3枚追加されリンクとカムフォロアーが複雑怪奇に絡み合っていたのだ。
「これ、兄いが一晩で作ったんだよね、こんな仕掛け今まで見たこともない、これって新しい工夫だよね。
ねぇっ兄いどうして一晩でこんなものが作れるの、もう凄いとしか言いようがないよぉ、俺なんか半年もかけその間に何度カラクリ楽屋に出入りし模写したことか、しかし…スゲェ凄過ぎるよあんたは、一体何者 まさか絡繰り師…てなことはないか、んんしかし凄い」とゴチャゴチャまくし立てている。
「正次郎殿、時間さえあればこんな単純なオモチャじゃなくもっと面白いカラクリも出来ますよ」
「兄い、単純ってことはないでしょう、これでも俺っちは必死に作ったんだから」
「あっこりゃ失礼、見よう見まねでこれだけの物を作ったのですから正次郎殿は天才ですよ」
「ふん、もうおそいわい!ふはははっ。
でも、兄い 後どんなカラクリを知ってんの、知ってたら教えてよ」
「うーん、例えば筆で文字を書くとか、弓で的を射るとか」
「儀右衛門のそれは何度も見たし…それ以外になんかない?」
「そうですね、走る人形というのはどうでしょう」
「走るって、まさか足で」
「そうですよ」
「そんな無茶な、出来たとしてもすぐ転んじゃうよ」
「足の裏を大きくすれば転ばないでしょう」
「兄い、これでもカラクリじゃちょっとうるさい俺ですよ、ゆっくり歩くならともかく走るに足裏さえ大きくすれば転ばないなんて、そんなインチキ俺っちには通じませんや」
「へーっ、さすが正次郎殿分かりますか、やっぱり凄いや、その通り足裏を大きくしても走る芸当はまずは無理でしょう、でもちょっと工夫すれば出来るかも知れませんよ」
「兄い、もし出来るとして走りの動きって結構難しいと思うけどどうやって再現するの」
「それもこの人形と同様にカラクリ仕掛けですよ」
「へー、そんなこと出来んの」
「できますとも、まぁ見ていて下さい」
「じゃぁ作ってよ、道具と材料はここに置いておくからさぁ」
「分かりました、しかしこのような材料と道具ではとても出来ませんゆえ持って帰ってくださいな、そうですね…二十日ほども掛かりましょうか」
「兄い楽しみだな、しかし本当に出来るのかなぁ」
「フフフッ出来ますとも」
正次郎は半信半疑の面持ちで、改造された人形を大事そうに抱え、道具類を脇に挟んで部屋から出て行った。
それを見送りながら正則の顔に自然と笑みがこぼれた。
(この時代に転成し始めて人に喜ばれた、それもあんなオモチャ程度で…。
ではもっと凄い物を造ったら…)