十八.老中会議
老中御用部屋脇の控間に正則は詰めていた。
時は昼八つ未の刻に掛かったころ、まだ隣の御用部屋では午前の部の会議が続いており会議が紛糾しているのか時折大きな声が漏れ聞こえていた。
正則がこの控えの間に案内されたのが昼九つ午の刻丁度、時計は無いが半時はこうして座っている、会議時間の超過は明らかであった。
正則は足の痺れに耐え 慌てて来たことを悔いつつも建白書類に目を通し、幕府陸軍大綱のプレゼン要領を勘考し、また新語熟字の解釈にも目を通していた。
正則はここへ来る前、庄左右衛門を芙蓉間の用談部屋に呼び、陸軍大綱作成にあたって使用された熟字で この時代ではまだ使われていない新語に印を付けて貰い、その横に新語(造語)の成り立ちを漢訳書である聯邦史略と庄左右衛門の解釈を交え書き込んでもらっていた。
暫くして御用部屋が急に静かになった、午前の部が終了したのだろうかと御用部屋に繋がる襖を見ていたとき その襖が静かに開けられた。
「伯耆守殿、お待たせしもうしたな」
そう言って部屋に入ってきたのは老中首座・水野忠邦である。
「ふぅ…懸案事項が紛糾して半時も超過したわ、ほんに頭の固い連中じゃて 次はお主の建白じゃが これも揉めることじゃろうのぅ、全く頭が痛いわ。それでの、頭を冷やそうと半時の休憩を取ることにしたのよ」
そう言うと手を叩いた、すると反対側の襖が開き老けた茶坊主が顔を覗かせた。
「熱い茶と そうさな…小腹が空いたゆえ羊羹でももって参れ」と命じ、午後の会議に掛ける建白書類を脇に置くと正則の前に疲れた顔で座った。
当時 葡萄間でも芙蓉間でも御茶は己で入れる慣習があった、よって万石級の大名殿様でも自分で入れるのである、しかし正則だけは日に二回茶坊主が上等な御茶を淹れて持ってきてくれたのだ、これは例の女形表坊主組頭が正則に対しての心尽くしであったが…このことを暫く知らず、時間になったら御茶は自然と出てくるものと思っていた。
ある日 庄左右衛門が「お主だけよのぅ茶を入れてもらえるのは…色男は役得じゃて」の言葉で初めて城中の慣習を知ったのだ。
芙蓉の間に来てからもやはり茶のもてなしは続き、同僚らの羨望は感じるが これも己の器量の内と正則は平然と茶を啜ったのであるが。
さすが老中ともなれば茶は当たり前として菓子まで付くのか…と出世はしてみるものよと正則は独りごちた。
「伯耆守、この建白書類じゃが午前の部の会議が始まる前に老中と若年寄に配布しておいたが、んん…内容はともかく熟字の意味が理解出来ぬ箇所が多々有ったが、あれは漢文であろうか」
「はっ、新しき幕府軍政を語るに現状の熟字のみを用いて建白するは困難にて漢文を少々引用し、それがしが造語いたした“和製漢語”を使いもうしたが…」
「やはりのぅ…儂も漢文には些か自信があったが、貴公が造語した熟字まではさすがに解らぬわ、どうじゃろう印を付けた箇所じゃが平易に教えてはもらえまいか」と言いつつ建白書を開き、頁をめくっては印のついた熟字を指さした。
やはり「行政」「政治」「文化」「法律」「経済」「階級」「科学」「物理」「化学」「理論」等々に印が付けられており庄左右衛門が印を付けた箇所とほぼ同じ熟字である。
だがこれら熟字は会議時間の超過で庄左右衞門に書いて貰った「解釈添文」に一通り目が通せたことが幸いし、忠邦が示した新語熟字に対して漢和訳の解釈を交えながら淀みなく説明することが出来たのだ。
忠邦は羊羹を頬張りながら「貴殿は蘭学に驚異的才知有る者と日頃感心しておったが…漢学にもこれほど造詣が深いとは、いやはや 生まれもっての天賦の才には敵わぬのぅ」と頼もしげに正則を見詰め、茶と羊羹をしきりにすすめた。
下戸の正則は特に甘い物が好きという訳では無いが、それでも練羊羹・蒸羊羹・水羊羹…羊羹と名が付くものには目が無かった、この時代に落ちて最初に食べたいと思ったのも羊羹であるからして相当なものであろうか。
すすめられた羊羹は湯島本郷の「藤むら」の羊羹と見て取れた、濃紫の藤にたとえんか 菖蒲の紫にいわんか この色のこの香 味あわくして格調高く “藤むらさき”の色またみやびなりと江戸町民に絶賛をされる練羊羹である、正則は遠慮も限界 口いっぱいに頬張りその味を堪能する。
「貴公、よほど羊羹が好きとみえる 儂は酒も好きじゃが甘い物にも目が無うてのぅ じゃから貴公の食べっぷりでわかるのよ、ほれまだたんとあるよって落ち着いて食べなされ。
しかしのぅ…午後の部の会議前にこうして休憩を取ったは御歴々にこの書類に目を通して貰うためであるが、彼らも今頃は判読に行き詰まっておるころよ」と忠邦は苦笑いを浮かべながら正則が食べ終わるのを待っていた。
正則が茶で羊羹を流し込んだのを見届けると忠邦は真顔に戻り
「この建白を合議するにあたり問題は老中 土井大炊頭・間部下総守・堀田備中守の三人よ、此奴ら何としてもこの建白を否決する方へ画策するは分かっておる、上様もそれを憂慮されておるのじゃよ、そこでじゃ今 日の本が直面する西洋列強の脅威を誇張し軍備充実は当然とて西国雄藩の脅威も盛り込んで話しを進めて下され、後は儂がうまく結ぶよっての」
「分かりもうした、では近々の阿片戦争の成り行きと英吉利の脅威辺りで攻めてみましょう…しかし この建白内容を進めるにあたり必要予算に関しては越前守様のお言いつけ通り省略致しておりますが、この点を攻められたればいかが致しましょうぞ」
「よいよい、儂がうまく言い逃げるよって」
それから四半時の間 建白の詳細解釈を折込みながら相互に同化させつつ密談は進められた。
暫くして隣の御用部屋が騒がしくなった、出席者が集まったのであろう。
「おっ、もう刻限のようじゃ伯耆守よ参ろうか」の忠邦の促しに正則は立ち上がり、忠邦の後ろについて御用部屋に入った。
忠邦は座の中央に座し、その両翼直角に左側が老中 右側に若年寄が座し、正則は若年寄の末席に座した。
「それではこれより奏者番・三田伯耆守が建白の幕府陸軍大綱について合議を致す、本来なればこの会議に奏者番が出席致すは異例なれど上様御声掛かりにより特別参加と致す、では伯耆守 この大綱について建白せよ」
忠邦の言葉で正則は周囲に目を配り、一礼すると「それでは御手元の幕府陸軍大綱に沿って建白させていただきまする」と言い添えプレゼンを開始した。
幕府陸軍大綱のプレゼンは半時余りで終わった、内容は大綱に書かれてある要所を一旦読み上げ新語の部分は先に忠邦に教えたように漢語の解釈を交え極力平易に語り、それに加え忠邦との先の密談で決めた つけ込まれる箇所は省略、効果大の箇所は誇張し本文を若干歪曲するも筋は通して語ったのである。
「いや実に素晴らしい建白で有る 各々方これよりこの建白について合議致す、忌憚なき意見を出して下され」の忠邦の言葉に 最初に口を開いたは案の定 下総古河藩の四代藩主土井大炊頭利位である。
「伯耆守、建白の趣旨はよう分かった、しかし陸軍創設を来春早々よりとあるが…何故この時期にこうも急ぐのじゃ、理由が有ればここで申し述べよ」
「はっ、それがしが事を急ぐは阿片戦争終結は目前のこととて 終結後の英吉利の出方を憂慮するからで御座る。
阿片戦争とは周知で御座ろうが清国と英吉利の間に勃発した戦であり……」
正則は幕府陸軍創設を急ぐ理由として、西洋列強が今すぐにでも攻めてくる可能性が大であることをまず誇張し、その西洋列強の近代戦略に対し現状の幕府番方組織では対応不能と決めつけその根拠をこの阿片戦争で清国が惨敗する有様を以て表現しようとプレゼンを進めた。
阿片戦争とは名前の如く英吉利が清国にアヘンを密輸したのが原因となった戦で御座ります。
阿片密輸のきっかけは英吉利は以前より茶・陶磁器・絹を大量に清国から輸入しており、一方英吉利からは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの低価格且つ大量に輸出できる商品は御座りませなんだ、ゆえに当然貿易収支は赤字に倒れ英吉利側より清国側に膨大な銀が流出することになったので御座る。
英吉利は当時産業革命による資本蓄積や亜米利加独立戦争の戦費確保のため銀の国外流出を抑制する政策をとらざるを得ず、そのため植民地の印度で栽培した阿片を清国に密輸出する事でこの貿易赤字分を相殺すべく三角貿易を画策したので御座る。
三角貿易とは主に三つの国や地域が関係している貿易構造のことであり、英吉利と印度の二国間貿易では英吉利が貿易黒字、英吉利と清国の二国間貿易では英吉利の貿易赤字、この赤字額は対印度黒字程度では穴埋め出来ず 国際通貨の地位にある英吉利の銀が対価として英吉利から清国に流出することになりまする。
ただし、この時期 既に為替手形による国際貿易が成立していたため、手形交換所がある英吉利の倫敦から直接清国に銀が流出していたのではなく、中継貿易地となっていた印度から清国へ銀が流出していたので御座る。(印度の対清国赤字)
英吉利はこの事態の打開策として、印度で阿片を製造し清国へ密輸するという許されざる暴挙に出もうした、この様な清国を侮蔑する国策がまかり通るは「国外への銀流出損の回避」という重商主義的な見識と東洋人を蔑視する人種差別が有ったからこそと存ずる。
これにより清国では阿片が国内に蔓延し消費量は急速に拡大 その阿片の代金は銀で決済されたことにより英吉利の目論見通り貿易収支は逆転し、清国内の銀保有量は激減 に至り、その銀は印度を経由し英吉利へ渡っていったので御座る。
清国八代皇帝 道光帝と欽差大臣林則徐はこの事態に憂慮し阿片密輸に厳しい取り締まりを断行していくので御座るが…。
天保十年に、英吉利阿片商人らに今後一切阿片を清国には持ち込まずという誓約書の提出を要求したので御座る、誓約書を提出したのち もし持ち込んだら死刑に処すと通告、期限を過ぎてもなお誓約書を出さない阿片商人らは港から完全退去させました。
して次ぎに密輸の本拠地である広東に乗り込んだ林則徐は、英吉利人が港に大量に在庫する阿片を見つけるや引き渡し又は焼却を強く要求、これに英吉利側は渋々と応じたものの誓約書の提出だけは断固拒否、これに怒った林則徐は最後通告として誓約書提出なき者らは捕縛し刑に処すると通告したので御座る。
同年五月捕縛を恐れた広東在住の全英吉利人は澳門マカオへと脱出しもうした。
この事態を好機と見た林則徐は九竜半島での英吉利船員による現地住民殺害を口実に八月に澳門を武力封鎖し市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を撒いて英吉利人らを毒殺しようと企てもうす。
これを察知した英吉利人らは澳門を放棄し船上へと避難、この一連の林則徐の厳格な取り締まりへの報復として遂に東インド艦隊のフリゲート艦「ボレージ」「ヒヤシンス」が制裁に打って出たので御座る。
同年九月に九竜沖砲撃戦、十一月に川鼻海戦へと展開 清国船団を壊滅させるに至り、英吉利本国も十月には閣議により対清開戦が決定され遠征軍派遣として英吉利は東洋艦隊を編成、天保十一年までに軍艦十六隻、輸送船二十七隻、東印度会社所有の武装汽船四隻、陸軍兵士四千人が清国に到着したので御座る。
この英吉利東洋艦隊は林則徐が大量の兵力を結集させていた広州ではなく、裏をかいて兵力手薄な北方の沿岸地域に来襲、近隣を占領しながら北上し大沽砲台を陥落させ首都北京に近い天津沖に入ったので御座る。
北京に目と鼻の先の天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、無様にも強硬派の林則徐を解任し和平派の琦善を後任に任じ英吉利に和平の交渉を求めたので御座る。
この交渉に英吉利軍側もちょうど季節風モンスーンの接近を警戒していたさなか、また舟山諸島占領軍の間に疫病が流行していたためこれに応じ天保十一年九月に一時撤収と相成りもうす。
これにより天保十二年初め 清国と英吉利の間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金六百万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉)が締結されもうした…。
ところが英吉利軍が撤収するや、清国を愚弄するこのような一方的な条約は有り得ないとて清政府内で強硬派が盛り返し道光帝は琦善を罷免せざるを得ず川鼻条約の正式な締結も拒否したので御座る。
これにより英吉利軍は報復軍事行動を再開、廈門、舟山諸島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々に攻略し制海権を握ると、火器にも優る英吉利側が任意に上陸地点を選択できる状況となり、戦は多拠点を防御しなければならない清側正規軍に対し、英吉利側は一方的に各個撃破が可能な状況に転じたので御座る。
とくにネメシス号を主力とした東印度会社汽走砲艦の動きは目覚ましく、水深の浅い内陸水路に簡単に侵入し最新鋭の砲により清軍のジャンク船を次々と沈め後続艦隊の進入を成功裏に導いたので御座る。
ここからは御列席の皆様方もお聞き及びの事かと存知奉りますが…。
英吉利艦隊はモンスーンに備え昨年から今年にかけての冬期はやむなく戦を停止もうしたが、今春には印度の傭兵六千七百人を増強、また本国からの援軍二千人も来着、そして汽走砲艦などの増強を受け北航を再開、先月には清が誇る満洲八旗軍が駐屯する乍浦を陥落させるといよいよ長江へと進入を開始したので御座る。
これまでの英吉利の戦歴からすれば長江下流南岸に位置し、長江と大運河とが交差する要衝であるの鎮江の陥落は必至のこと、英吉利軍が鎮江を抑えれば京杭大運河は止められ北京は補給を断たれもうす、南の鎮江・東の天津を押さえられれば北京陥落は時間の問題、事ここに至ればば道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われるは必定、清国の敗戦は時間の問題で御座ろうか。
以上の如く清国の敗戦は長い鎖国という眠りの中 西洋の進んだ武器・汽走砲艦を知らず旧来の槍・刀・弓と多少の火器で応戦するも拙劣に如かず、また西洋の百戦錬磨された合理的海戦・陸戦の戦術に圧倒され 清国の前時代的戦術は稚拙に劣り後手に回るか簡単撃破に倒れゆくのみ…英吉利兵にとり その数十倍もの清国兵とて烏合の衆に映ったでござろう。
我が日の本にとりこれは対岸の火事では御座らぬ、英吉利はこの勝戦に勢いを得 割譲されるであろう香港を拠点に東洋地域の完全覇権を目論むは当然の成り行き、次ぎに歯牙にかけるは金銀保有量の高いこの日の本となるは明らかで御座ろうが、それがしの読みでは清国の戦後処理に一年…我が国への進軍準備に一年…よって再来年の夏辺りにも攻めてくる可能性大と読んでおりまする。
御列席の皆様、清国での実際に行った英吉利の戦略を考えて頂きたい 江戸湾奥深くに射程七十町を有する戦艦数隻が押し寄せその砲を放ったならばこの城は四半時で崩壊、江戸の町は半時を待たず火の海となりもうそう、そして汽走砲艦数十隻が大川から北上、幾つもの支流を遡上し江戸の東部を各個撃破、そこから一万数千の百戦調練された兵が上陸し最新鋭の腔綫銃をもって陸戦に及んだなら江戸の町は一日を待たずして占領されるでありましょう、あの大清国でさえ全く歯が立たぬ相手で御座るよっての…。
それがしはそれを憂いて四年前に幕府銃火薬工廠創建を建白したので御座る、皆様の御不興を承知で数十万両もの大金を注ぎ込み、五カ年計画である射程五里の野戦砲三十門、機関砲五十門、自動小銃三千丁、軽機関銃一千丁を今年の暮れまでに揃えることが出来もうす。
これら砲及び銃は英吉利・亜米利加・露西亜にも未だ存在しない最新鋭の火器群で御座る、これを知らずしてもし江戸湾に敵が侵入したならば、敵の砲の射程距離七十町(二里弱)の遥か沖合五里海域に達した時点で数十隻の敵戦艦は海の藻屑と消え申そう、これは一昨日の御上覧で皆様に御見せした通りに御座る。
また例え江戸湾入口辺りの横須賀・横浜村辺りに上陸したとしても最新鋭の機関砲五十門、自動小銃三千丁、軽機関銃一千丁をもってすれば瞬く間に敵を壊滅できるは必定。
但しここからが問題で御座る、上様にも建白した通り「武器の威力頼みでは憂いは消えもうさず、軍政相整えずんば事は足りず」を解説すれば。
幕府は関ヶ原以降 戦の経験は殆ど御座らん、ゆえに古の戦略・戦術しか知らぬ状況下 それに加え番方の複雑極まる組織、それらを以て西洋列強に対峙出来申そうか…。
それはよく切れる刀を持った幼子が木刀を持った兵法者と立ち合うようなもの。
どんなに優れまた切れる刀を持っていようとも百戦錬磨の近代戦術を心得 兵法・軍略を備えた紅毛らの戦略には所詮刃が立ちもうさんということ、これは数億の民を有す清国を僅か数千の兵が完膚なきまでに打ち負かしたのであるから…皆様にはこの例えをもって充分に納得致して頂けましょうや。
それがしが長崎で聞き及んだ古の西洋軍略と近代戦略、また阿片戦争で試された英吉利式戦略論を詳細に検討・研究し尽くした末に著したこの幕府陸軍大綱は、西洋列強を凌ぐ攻撃・防衛に関する戦術はもとより 軍事上の組織のあり方、軍隊・軍備・伝令手段・施設に至るまで西洋の近代陸軍を圧倒凌駕する虎の巻と自負しており申す。
正則は言い終わり一同を見渡し意見有る者を探した、しかし一同思案顔で陸軍大綱の頁をめくり…頭を傾げるばかりで正則を注視する者はいなかった。
御用部屋は暫くのあいだ沈黙した、その沈黙を破るように咳払いが聞こえ先の質問者である土井大炊頭が「よう分かった、上様が憂う紅毛浸食を打破するは武器の多寡でのうて戦略に有り、その近代戦略を満足させるには現状の番方組織でのうて整備された新しき軍隊組織が必要ということがな、ところで伯耆守この序説軍令の項に書かれてある戦略と戦術の違いが今ひとつ分からぬが説明してはくれぬか」
「はっ、戦略とは作戦計画を立案してその実行を統制し、軍事行動の方向・目的・時期・場所などの関係性を定めて適切に調整、会戦を優勢に導き戦果を拡大するための方策であり、戦術は戦闘での勝利獲得のための戦闘実施の術で御座ります」
「そうか…んん説明を聞いても分かったような分からぬような…。
儂の頭が古いのか伯耆守が先進に過ぎるのか、ここにいる皆の衆も儂と想いは同様ではないのかのぅ、伯耆守の先進的な考えについて行くにはもそっと我らも勉強せねばこの幕府陸軍大綱は腑に落ちぬと言ったところかのぅ」と唇を歪ませた。
この言葉に老中らはおもねるように相づちを打った、それを満足そうに土井大炊頭は見て…にやりと笑い水野越前守を見詰めた。
水野越前守に反目する土井大炊頭・間部下総守・堀田備中守ら三老中は「理解出来ぬ建白」として葬り去ろうという魂胆が見え透いてとれた。
その時 正則とは五年前より昵懇の若年寄 堀田摂津守正衡が「いやどうしてどうして何と分かりやすい建白書でござろう、軍政大綱・軍事大権・軍政組織・軍令組織…どれをとっても平易に書かれており、内容たるやこの時代を超越した合理的な組織作りでは御座らぬか、早々にも採り入れ紅毛浸食に備えるべきが当然とそれがしは考えるが…皆の衆は如何であろうか」
この言葉に勢いを得たのが老中 真田信濃守以下殆どの若年寄らが同意に顔を輝かせたのだ。
これを見た水野越前守は「儂も同意じゃ、確かにこの建白書は漢文及び造語も多く読み辛いかもしれぬ、しかし内容は我が日の本が西洋列強に踏みにじられるを憂いて近代陸軍の整備を説いているだけでは御座らぬ。
国内世情…特に西国雄藩の軍備増強と西洋の近代軍事調練の積極的導入の動きなど 昨今の幕府を侮る西国諸藩の動きはお主らとて目に余る所行とお思いで御座ろう…。
この陸軍大綱の序説に記載されている“それらを制するは幕府の強靱さを徳川幕府創建当時まで高める”必要性を説いた本建白、幕府中興を企図するこの戦略大綱の意図が読み取れぬと言うならばそれがしが勉強がてらじっくり説いて聞かせようが…如何か其処の御三人方」と水野越前守は土井・間部・堀田ら三老中を睨めつけた。
この水野越前守の一言で場の雰囲気は一気に幕府陸軍大綱承認に傾いたのだ、土井・間部・堀田ら三老中は言葉に窮し下を向いた。
「ではこの建白、本老中会議に於いて承認可決と致し上様の最終御裁可を仰ぎまするが御異存は無きや…皆の衆、反対意見有る者は名乗り出て下され」
この水野越前守の言葉に皆沈黙する、越前守は老中側より一人一人の表情を見ていく、そして若年寄を含め十三人の出席者全員の表情を見終わり、異論者は無し可決致すと声を発しようとしたとき老中 間部下総守がぼそっと独り言のように呟いた。
「この建白、上様が賞賛されるだけあって見事な建白と存ずるが、我々幕府を背負って立つ者とすれば幕府勘定方事情も考慮せねばなりませぬ、この建白によれば五カ年計画とあるが費用に関しては一切書かれては御座らぬ、儂が先ほどざっと計算してみたが陸軍工廠まで造るとあればこの五年で最低七十万両は係るというもの。
幕府銃火薬工廠に費やした費用はこの四年で三十三万両、この費用捻出にどれほど苦労したか伯耆守は与り知らぬ事とてこの様に簡単に建白ができるというもの、大飢饉の疲弊も癒えぬ今日、またもや七十万両という途方も無い予算…西国雄藩 いや紅毛に攻め立てられる以前に幕府は財政破綻する懸念大とは思いませぬか皆の衆」
この言葉に水野越前守が即座に応えた。
「間部下総守殿、お主 いま費用捻出にどれほど苦労したかと申されたが、一体どのような苦労をしたかここで言ってみて下され!。
貴公らがそれを言うなら儂とて我慢は致しませんぞ、儂が費用捻出で方々駆けずり回っていた時、お主ら御三方は対岸の火事とて預かり知らぬ顔で見ていただけでは御座らぬか、ようも言えたものよ、儂も老中真田信濃守も、堀田摂津守以下多くの若年寄お歴々らからの寄進が有ってこそ成し遂げたもの、貴公らは何をしてくれたか異論が御座れば皆の前ではっきりと大声で申して下されよ」
これにはさすが土井・間部・堀田ら三老中は返す言葉も無く恥じ入るように下を向いた。
水野越前守はそれを確認すると「この幕府陸軍大綱に沿って番方組織を改変及び陸軍部隊編成と、各官舎・練兵場・陸軍病院・軍事司法所・陸軍大学創建等にかかる費用は二十万両、それと陸軍工廠は現状の幕府銃火薬工廠を充実させこれへ充てる、その費用は十万両 以上三十万両でこれを達成する」
「それと天保大飢饉の疲弊は昨年夏が底打ちと見て御座る、これより五カ年は上昇に転ずるはまず間違い無きこと、よって以前の如く皆の衆に寄進をお願いせずに予算は成り立つと考えもうす、また儂なりの財政再建の案も現在進行して御座るよって皆の衆どうか安心してこの幕府陸軍大綱に沿い行動して下され」
「それではこれで決を採る、この三田伯耆守が建白の陸軍大綱に反対有る者は挙手願いたい、如何か!」
これに手を挙げるものはもう誰一人いなかった、これを暫く見ていた水野越前守は
「老中会議出席者満場一致で建白書・幕府陸軍大綱に賛同承認と認め上様に御裁可を仰ぐことと致す、本日は皆の衆ご苦労であった、これをもって閉会とする、なお三田伯耆守には近日中にこの幕府陸軍創建について上様より御言葉が下されるはず、また若年寄就任の御沙汰もその時に出ると存ずるゆえ心に留め置いて下され、以上である」
正則は老中会議が終わり水野越前守と今後の動き方を相談してのち、芙蓉間に戻った。
部屋にはまだ内藤丹波守一人が残って何やら書き物に没頭している。
(おっと、この時間にまだいたのか…これはマズイな)
正則は机上の書類を音を立てずに風呂敷に包むと…そっと立ち上がった。
すると気配を察したのか逃げ出そうとする正則の背に声が掛かった。
内藤丹波守は筆を置くと立ち上がり跛を引きながら迫ってきた。
「伯耆守殿、会議の守備はどうであったかのぅ」と聞いてくる。
何と答えてよいものかと一瞬躊躇するもはぐらかすように幕府陸軍大綱の成り行きを説明しだした。
内藤丹波守が知りたいこととは外れているが、それでも彼は興味げに聞いていた。
正則は差し障りなきことを一通り話すと言葉が詰まった、それを待っていた丹波守はここぞとばかりに「儂が御願いしていた件はどうなりもうした」と聞いてくる。
「申し訳御座らん、本日の会議は今も申した通り紛糾致し…とても他藩の御家中の者を工廠に入所させる可否案件は上程出来る雰囲気では御座らんかった、貴公には相済まぬがもう少し時間を頂けませぬか…」
「そうで御座ったか…いや貴公の苦労も知らず我が想いばかりを押し付け当方こそ許して下され、そうとなれば気長に待つよってどうか頼み入って御座る」
「丹波守殿、前にも申したが 貴公の推す家中の切れ者、二~三人であったかのぅ…その者たちを我が家中に移籍さえしてくれたなら すぐにでも大学なり工廠なり入所させるは容易いこと、一通り技術を身につけたところで貴藩に返すという手はお考え頂けましたかの」
「はっ、貴公の心づくしの申し出 痛み入って御座るが、情けないがそれがし不安が払拭出来ぬので御座るよ、貴公の家中の評判なかなか良く昨今他家より能ある者の移籍が後を絶たぬとか…それを聞きますと不安が募りましてのぅ、貴公の家中に一旦召し抱えられ幕府中枢の技術に手を染めし者達が再び草深い三河挙母藩に帰藩するかどうか、まずもって不安と申せましょうぞ」
正則は内心いい加減にせーよと思った、正則にとって内藤丹波守には何の恩義も無いが、以前丹波守の兄で有る大老 井伊掃部守にはただならぬ恩義が有った故の精一杯の心づくしの提案なのに、それを不安というならば“勝手にせい”である。
帰藩するしないはお主の藩の施政のあり様であろう、戻りたいと思える藩にどうしてしようとは考えぬのかと正則は言いたかったが…これも以前技術屋の正則らしい奢りと思い至り。
「左様ですか ご不安はごもっともかと存ずる由、今暫くお待ち下さりませ次回には何としても会議に掛けますよってのぅ」と想いとは裏腹な答えを返した。
「伯耆守殿には御面倒をお掛け申すがこの通りよしなにお願い申し上げる」と内藤丹波守は平伏し部屋から出て行った。
正則はやれやれと思うも…次に機会が有れば会議に掛けてみようとも考えた、しかし掛けてみて叶えられるは到底無きことと想いは至っていた…。
昼七つ 申の刻 正則は下城した、まだ陽の位置は西の角度低からず、賊らの再びの襲撃は懸念してはいないが馬上と違い塗込めの駕籠内は視野が狭く襲撃に遭えば籠の鳥状態であろうか、正則は駕籠とはいたって不安な乗り物と感じたのだった。
屋敷にはまだ陽の有る内に着いた、この様なことはここ数ヶ月無かったことである。
出迎えに出た志津江も清太郎も喜びが隠せなく一様に笑顔が零れ、清太郎は足に纏わり付いて離れなかった。
部屋着に着替えると久々に庭に出て清太郎と遊んだ、この一時は本日の気苦労が揮発する喜びの刻である、人が見れば孫と老人の戯れに見えたであろうか、日が暮れるまで遊び、肩車をして母屋に戻る時刻には空一面に星々が煌めいていた。
夕餉を済ませ、居間で清太郎を膝上に乗せて遊ばせながら…それを見守る志津江に近々にも若年寄に昇進する内示があったことを告げた。
しかし志津江は「先日奏者番になったばかりなのにもう…」と言い正則を呆れ顔で見るも興味が薄いのか話しは清太郎の悪戯が過ぎ困りますの話にすり替えられてしまった。
一介の旗本が若年寄になるなどはあり得ぬ大出世に 世の奥方ならば眼を剥いて亭主を讃えるところであろうが…志津江はその範疇にはないのであろう、肩すかしをくらうも志津江の世間の欲に染まない純真さに思わず笑みが零れてしまう正則である。
次の日は久々に不忍池西の幕府技術大学校へ馬で赴いた、警護はいつもの親太郎と清一郎、それに家中の剛の者二名が正則の四方を囲む形で移動したのである。
それとこの警護の者達には先日の賊の急襲を鑑みて二分五厘銃身のルガー拳銃を模したトグルアクション機構の自動拳銃をレザーホルスターに入れ腰に携帯させていた、この拳銃は陸軍創設の際 尉官以上に携帯させようと三年前より造り始め三百丁ほど造った三田式自動拳銃である。
銃の携帯は親太郎や清一郎の剣の腕を軽んじた訳では無く、槍・弓・火縄の急襲に剣で立ち向かうは分が悪く折角の拳銃を銃庫に眠らせておくのも勿体ないと携行させたのであった。
しかし折角の最新式自動拳銃ではあるが二分五厘実包の反動は思ったより強く、彼らは百数十弾ほど練習したが十間先の十寸的に誰一人当てられる者はいなかった、よって実際敵と遭遇すればやはり剣に頼るであろうと正則には思えたが…音の威嚇だけでも効果はあるだろうと携行させたのだ。
総長室に入り学生数の推移及び学部の授業状況の書類に目を通す、そして授業について行けない学生や不良学生の一覧に目を通し始めたとき工学部教授の稲沢欣也が総長室に入ってきた。
「伯耆守様お久しぶりに御座いまする、工廠の成り行きは常々水野敬三郎からきいておりまするが…それを聞くに付けそれがしも学業を教えるより物作りがしとうてうずうずしてきもうすが」
と訴えるような眼差しで正則を見詰めてくる。
「そうであろうが…優秀な人材育成も工廠にとって重要なこと、そちの代わりとなる者が育つまでもう少し堪えて下さい、それとの 本日来たは例の幕府陸軍大綱の建白が昨日の老中会議で可決致してのぅ、来年正月にも発足致す状況よ ついては幕府銃火薬工廠を幕府陸軍工廠お改め設備を増強、自走式野戦砲や自走戦闘車も造りたいと考えておるのだが、そこで貴公に以前頼んでおいた内燃機関の研究開発の進み具合を聞きたいと思うて本日は来たのだが…」
「そうですか、幕府陸軍大綱が可決されましたか…計画は順調の運びでございますなぁ、何かこううずうずと血が滾ってきますわい…あっ、内燃機関の件でございましたな、現在 高圧縮型四行程方式五十馬力の内燃機関を試作中でござって、昨日より試運転を致しておる最中で御座るが…見て行かれますか」
「そうさなぁ、それを聞いては見ぬ訳には行かぬよのぅ」正則は思わず笑みが零れ欣也が案内する試作室に向かった。
試作室に赴いた正則は見せられたディーゼルエンジンの大きさに愕然とした。
「何とこの大きさでたったの五十馬力とは…いやはや何と申したらよいのか、自走式野戦砲に欲しいエンジンは最低でも二百馬力は欲しいところ、これから想像して二百馬力となれば化け物になるのじゃなぁ」
「やはり大きいですか…鋳物強度・合金鋼強度が今一不足で安全率からすれば全てが大きくなるはやむを得ぬところ、正直材料研究をきちんとやってから試作すべきと今更ながら反省致しておりまする」
「まっ、気筒当たり百馬力を出すには200MPa以上の多段燃料噴射装置が必要だが…ジャーク式ポンプではこの程度のものよのぅ、まっ想像を超える大きさではあるが出来ただけでも大したもの、発動状況を見せてはくれぬか」
「承知しました、おい発動を開始してくれ」と学生に声をかけた欣也は燃料コックを開き学生に合図した。
学生がグロープラグに電気を送る、次いで欣也が機関出力軸のプーリーと天井に配された動力プーリーを結ぶ革ベルトのテンションコテを緊張側に倒す、すると機関出力軸に動力が伝わり勢いよく回り始める、スポンスポンと音がし次第に直列二気筒の軽快音に変わっていった。
燃料噴射弁と空気調整弁を調整していくと音はさらに高速音に変化し試作室を揺るがす大音響となり会話はもう聞き取れなかった。
正則は苦しげに発動を止めるよう欣也に指示する、音がたまらなかったし排気ガスの充満で呼吸が苦しくなってきたからだ。
窓を開放しようやく息を整えた正則は「欣也…まだまだじゃのぅ、消音器しかり圧縮比しかり…それと何と言っても機関重量対馬力比が余りにもお粗末に過ぎる、きついことを言うようだが材料研究・ポンプ研究をしっかりやって再度試作を始めてくれんかのぅ」
「はっ、分かり申した…はぁっ、まだ先生に見せるべきでは御座らんかった」と欣也は項垂れた。
欣也の顔を見ながら正則は思う…このお粗末さでは航空機造りなど夢物語かと…。




