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十七.柳堤の刺客

 正則は供を二人従え家路へと急いでいた。

辺りは夕闇に暮れ 白い朧月が正面に見える その月の下辺りに街の明かりがちらほらと見え隠れしだした時刻である。

上様御上覧が無事に済んだ安堵感からか…或いは昨夜の徹夜のせいか分からねど懈怠感が全身に澱のように積もり馬上に揺られるのも今は辛かった。


永代橋を渡り北新堀丁を西に向かって馬を走らせていた、先頭に与力の新沼親太郎を配し その後ろに正則が続き 後方を安原清一郎が守って三馬一塊となって土煙を上げていた。


 前方 箱崎橋手前の鬱蒼とした柳堤が黒々と迫ってくる、この箱崎橋は二十間にも満たない小さな木橋で最近傷みが酷く 馬の蹄で打ち抜く恐れがあったためか先頭の新沼親太郎は手を上げ馬の速度を落とした 正則もそれに倣う。

そして早足ほどの速度で箱崎橋袂に差し掛かったとき、親太郎は前方右側に怪しく揺れる人陰を感じ 馬速を緩やかに落としつつ不審げに右側の柳の下を凝視した。


その時である、鋭い気合いと共に槍と思しき棒状なものが馬上の親太郎右脇腹めがけて繰り出されたのだ。

それは咄嗟のこと、親太郎は反射的に馬上左側に体を大きく倒す、一撃必殺の鋭い穂先は羽織の右肩布を刺し貫き空を切る。

間一髪でかわしたものの親太郎は勢い余って落馬の感じに地に落ちた、驚いたのは後続の正則が馬である 馬は棒立ちになり危うく落馬するのを必至に堪え体勢を戻した刹那、後方の清一郎が前に進み出て 正則の馬の手綱をむんずとばかり掴み己の馬体脇に引き寄せ次いで後方へと押しやった。


落馬した親太郎は立ち上がろうと藻掻くさなか 馬は驚きそのまま前方に突出、親太郎と賊の間はがら空きとなってしまった、賊はしめたとばかり二度目の槍を繰り出した、これも辛うじて体を捻り何とか凌ぐも苦しい体勢に変わりはない。

三度目はもう凌げまいと見たそのとき 後方の清一郎が猛烈に突出し槍を繰り出さんばかりに構えた賊に体当たりしそのまま蹄で踏み潰した、その時である 柳の陰から新たな四人の賊が喚声を上げながら正則の馬めがけて殺到したのだ。


正則は咄嗟に前方に逃げた…と言うより幸いにも馬が驚いて勝手に前方に動いたという方が妥当であろうか、賊の刃は正則の脇腹めがけて繰り出されたが その切っ先は羽織の背布を分断しただけで空を切った。

焦る賊らは前進する正則に追いすがろうと必死の形相で追い縋る、だがようやく体制を整えた親太郎が飛び込むようにその間に割って入った。


親太郎は練兵館 神道無念流の師範代を先頃まで勤め、江戸でも剣客十指に数えられる使い手である、追いすがる先頭の賊の渾身の一撃を刀の鎬で跳ね上げ 一歩進みそのまま流れるように右より一閃しその賊の顔を気合いもろとも横に薙いだ、そして返す刀で右横から猛烈な勢いで突き出す賊の切っ先をかわしつつその伸びきった右腕を裂帛の気合いとともに骨ごと切り落としたのだ。


肘から先を失った賊は 怪鳥にも似た甲高い悲鳴をあげ、血を噴出しながら柳の下へと転がり逃げる。

残る二人の賊は親太郎の鍛錬された動きを目の当たりにし一瞬後退するも、同時に気合いを発しながら親太郎へと襲いかかる、親太郎は二人の賊が交互に繰り出す鋭い剣を凌ぎつつもじりじりと後退を始めた、先ほど切った賊らとは比べものにならないほどこの二人は強かった。


そのときである賊の後方に下馬した清一郎が刀を大上段に振りかざし大音響で吠えながら走って来た、挟まれた賊らはこれにはたまらず横っ飛びに柳の陰に逃げ、腕を失った賊の脇を抱えるとそのまま遁走を図る、これを清一郎が追った。


一瞬の出来事だった、もし先頭が正則であったなら確実に右脇腹に槍は突き立てられていただろう、正則は馬上で無様にも震え上がってしまい為す術を知らず…顔を切られ断末魔の悲鳴を上げながらのたうち回る賊の姿を呆然と見ていた。


右目端から左頭上にかけて深々と切りつけられた賊は脳漿を飛び散らせ悲鳴を上げながらのたうち回っている、また馬の蹄で散々踏みつけられた槍使いの賊は即死であろうか伏せた体に頭が潜った形にねじ曲がりピクリともしない、そして三間後方に転がっている腕が月明かりに浮かび上がり、辺りは大きな血溜まりがいくつも出来ていた。


「殿、お怪我は御座りませぬか!」親太郎の言葉に正則は我に返るも歯が震えて言葉が返せない、それでも振り絞るように「け…怪我は…無い」とだけ辛うじて応えた。


のたうち回る賊の悲鳴が少しずつ小さくなり…次第に動きが緩慢となっていく、やがて体を奇妙に震えさせると静かになった…。

月明かりに真っ赤に染まった賊の横顔が照らされた、眼球の一つが垂れ下がりもう人間の貌ではなかった、正則は恐る恐る見…怯えるように目を背けると猛烈な吐き気に耐えた。


親太郎はピクリともしなくなった賊の二人を柳の下まで軽々と引きずり仰向けに寝かせた、その時 柳の向こうから清一郎が一人の賊を引きずって戻ってきた。


「殿、申し訳御座りませぬ…二人には逃げられもうした 此奴は腕を抱えて途中倒れており申したが…出血著しくもう駄目で御座ろう、素性を聞きだそうと気が失せるのを数度殴りつけたが もう声にはなりもうさん、取り敢えず上腕を縛って血止めは致したが…。


橋の向こうと正則らが来た方向には数人の町民が怯えたようにこちらを覗き込んでいた、親太郎はその一人を捕まえると「番屋に知らせてくれ」と頼み、清一郎が引きずってきた意識の失った賊の襟首を掴んで揺さぶった、しかし賊の頭はブラブラ揺れるばかりである。


清一郎が強く縛った為か切断部からの出血は止まっていた…しかし切られてから数分の間 水道の蛇口を捻った勢いで吐出した血液量は夥しい量であったろう…「殿、やはり駄目なようです、血を流しながら走ったためか顔に全く血の気が有りませぬ、すぐにもこと切れるでしょう。

しかし一体何者で御座ろうか、確かに逃げた方の賊二人は月代は綺麗に剃り上げていたゆえ何処ぞの家来衆と思われるが…しかしこの三人だけはどう見ても浪人体、氏素性などの判明は難しいと思われまするが」


正則は恐る恐る馬を降り 意識喪失の賊の前まで歩いて顔を凝視した、歳は三十前後であろうか全く覚えの無い顔である、唇は紫に腫れ 喉が笛のように鳴っている…その蒼白とした表情は死期の近さが分かるほどであった。


「浪人か…しかし私の命を狙った者達には間違い無きこと、一体此奴ら何の恨みで私を殺そうとしたのか…」


三人は賊を前にして腕を組んだ、月明かりに照らされた賊の時折ピクと動く頬も次第に動かなくなり、やがて喉笛がやみ…胸の動きを静かに止めた。



 暫くすると役人が数人走り寄ってきた、北町の同心らと橋番所の小者である。

橋番所の小者は正則ら三人を押しやるように賊の前から遠ざけ、同心の一人が仰向けに寝ている賊三人の首の静脈に手をあて生死を確認している、そして面体を月明かりに晒し検めだした。

野次馬は次第に増え、橋の袂に殺到した数十人が現場の血だまりを興味げに見入っている、それを橋番所の小者が六尺棒で追い散らし、正則らの遁走を防ぐためかその棒で三人をしかと押さえ込み始めたのだ。


同心は立ち上がると、振り返りざまに親太郎の返り血を見つけたのか「この斬殺は貴公の仕業か!」と険しい表情で問うた。


「左様、闇討ちの卑怯 それがしが切り捨て申した」


それを聞くや同心と番所小者は身構え「どの様な仕儀でこうなったのじゃ!」と親太郎に食って掛かるように尋問し始める。

親太郎は同心の一方的な物言いに腹を立てるも…人を手に掛けたは間違い無きこと大人しく事の顛末を説明しだした。



 暫くして親太郎の尋問が終わると同心は横柄な態度で正則を手招きした。

「身なりから察するにお主がこの三人の内で一番偉そうじゃなぁ…」と言いつつ正則を睨めつけるように一巡し「やっ、背を切られておるが…お主は逃げたな」と十手の先で切り裂けた羽織をこじ開け「何だ身は切られておらぬではないか」と小馬鹿にした口調で正則を睨み付けた。


この小役人の横柄な態度に清一郎が切れた、憤怒の形相で同心の襟首を掴もうと手を出したかけた時 これを親太郎が抑え 代わりに日頃温厚な親太郎にこのような猛々しさが有ったのかと言うほどの大音声で叫んだのだ。


「無礼者!この御方を何と心得る、幕府奏者番 三田伯耆守様にあらせられる、おぬしら不浄役人の分際で頭がたかいわ!」と吠えたのだ。


それを聞いた同心は驚き弾かれる様に数歩後退し、「こ…これは御無礼つかまつりました」と深々と一礼し、その場に土下座し「これはこれは…我等町衆の管轄違いの仕儀…明日にでも係りを御屋敷に出向かせまするので…今宵はどうぞ、どうぞ御引き取り願いもうし上げまする」と応え そのまま額を地面に擦りつけ震え上がった。


「貴様ら…このまま済むとでも思うてか!」と親太郎はなおも吠え、土下座する同心の周りを刀の柄に手を掛け どうしてくれようかと身を震わせて廻りだす、しかし正則の「もう許してやれ」の言葉で渋々と引き返し、正則の脚を引き上げて馬に乗せた。


この顛末はほんの四半時にも満たない出来事であったが 正則にとってはこの時代に落ちて初めて経験する気が遠くなるほどの長い時間に感じられた。

三馬は野次馬を押しのけ木橋を渡る、周囲は怒濤の喚声を上げて勝者を讃えるも正則は馬に揺られながら春というのにどうにも震えが収まらず 羽織の襟を首元で強く握り締め寒さを堪え先を急いだ。



 屋敷に着いてもなお震えは治まらなかった、用人の外記が正則の土気色の顔と土間に平伏する親太郎・清一郎をおろおろしながら見…正則の羽織背の切裂きを見つけるや

「殿様の背を切られるはなんたる恥辱!、お主らほどの使い手が供をしながら…どういった仕儀でこうなるのじゃ」と平伏する親太郎・清一郎に吠えた。


「も…申し訳御座りませぬ、我らの手落ちで御座る、こうしておめおめ帰ったは如何様な処分も甘受する覚悟あってのこと、どうか切腹を命じて下さりませ」と土間に額をこすりつけた。


「たわけ者、お主らごときが腹を切って済む話か…んんどうしてくれようか」と外記は顔を真っ赤にして正則を見た。


「外記よ、もうよいではないか 彼らがいなければ儂は今頃骸になって北新堀辺りに浮いておったろうよ、生きて帰れたのは彼らのおかげじゃ…ほんに命の恩人じゃて、もう叱るではないぞ、それより風呂じゃ 早う風呂の支度をせい」


二人がなおも平伏するのを立ち上がらせ、「よう尽くしてくれた」と礼を言い、袴の土をはたいてやった。



 正則は奥に入るとすぐに湯に浸かる、湯殿で四肢を伸ばしきった時ようやく震えは治まった。

しかし正則にとって余りにもショッキングな出来事であった、目の前で人が切られるのを初めて見たのであるから…前の世であればまず一生体験することなど無いだろう。


骨を断つ音…血の匂い、人間の体内にあれほどの血量が有ったのかと驚いたが…やはり最大の驚きは親太郎と清一郎の剣技である。

あの状況下で臆することなく白刃の前に平然と身を晒す豪胆ぶり、清一郎の馬術もさることながら親太郎の剣技は特筆すべきでものであった。


賊の顔を横に抉り、返す刀でもう一人の腕を切り落とした絶妙の動きと手首の返し技…考えて動くのではなく自然に動いているのだ、あの凄まじい状況下での神業…日頃どれほどの鍛錬を積んだらあのような神業が会得出来るのだろうかと。


正則とて剣道五段 全日本剣道選手権大会で優勝した剛の者、これまで相当に剣の修練を積んだと自負していたが…しかし今宵の彼ら二人の動きと技そして胆力を目の当たりにした時 これまでの己の修練など殺されぬ前提で成り立つ稚戯棒振りと思い知らされたのだ。

正直 彼らの剣技には正則が百年掛かっても絶対到達できない高みに見えた。

それは…腰を抜かすの感覚を今宵初めて経験した正則であるからして。

(小便を漏らさなかったのは幸いだった…)



 正則は考えていた。

一体誰だろう…この俺を殺そうと目論む輩は、鳥居耀蔵…いや彼ほどの切れ者、いくら何でもこの様な下手極まる襲撃手段は使わないだろう、彼ならいつも使う冤罪手法でかかってくるはず、では一体だれが…。


大目付・跡部信濃守やその他の目付らが 会うたびに伯耆守殿は安穏に過ぎる もそっと身辺に気を配られよと申しておったが、このことであったか。

俺はそれほどまでに妬み恨みを買っているというのか、確かに何処の馬の骨かも分からぬ輩が老中首座に擦り寄って奏者番に就いた、そして幕府金蔵を傍若無人に食い荒らす鼠が如き正則が所行…これで恨まれないはずは無いわなぁ…。


光右衛門の言った水野忠邦に反目する老中らの目つきは尋常ではなかった、彼らは早晩何かを仕掛けてくるはず…の言葉がふと思い出される。

(明日の老中会議出席を阻止しようと企んだのか…)


やはり土井・間部辺りの老中の仕業であろうか、んん ますます分からぬ…。

いや、全く俺の与り知らぬ奴らの可能性も否めない、まずは明日にでも大目付・跡部信濃守が調査の結果を持ってくるだろう、それを待つしかないか…。



 正則は風呂を出て遅い夕餉をとった、側には志津江が控えていた。

「殿様…外記殿に聞きました、何と恐ろしいこと 羽織の切り裂けを見ましたが あと一寸も深かったれば殿様の命はどうなっておりましたやら、私…まだこの様に震えております、殿様いやです死んでは絶対にいやです」と涙を零し泣き崩れた、正則は茶碗を膳に戻し志津江の震える肩をそっと抱いた。


「いやなに、そうは簡単に殺されやしないよ、なにせ日の本一の剣客 親太郎と清一郎に守られておるでのぅ、今宵の彼らの働きは実に見事であったぞ」と言うも志津江の涙は止まらなかった。


そのけなげな震えに正則の胸も些か詰まった、急に志津江が愛しくなり肩を強く引き寄せた、その時廊下を走る音で我に返り志津江を離した。


飛び込んできたのは親太郎である「殿、火急の用向きで北町奉行遠山左衛門尉様がお越しになられました」と告げた。

正則はやれやれと思う、今宵は恐怖を打ち消すべく久々に清太郎の幼顔を見て心を和まし また志津江の肌に溺れたいとも思っていたのに…。


正則は茶を飲んで客間に向かった、親太郎もその後に従う。

客間に入ると遠山景元が待っていた「お待たせ致した」と正則は上座に座り遠山に対峙する、親太郎はずっと下がって下座に控えた。


正則と遠山は同じ従五位下であるが、役は正則が大名級の奏者番席で上級となるため上座に座ったのであるが。


正則が遠山景元に会うのはこれで二度目となる、遠山は四十九の初老ではあるが庄左右衛門より一回りも若やいで見えた、その貫禄は尋常ならず正則とて上座に座るもその風貌に接すると妙に尻が落ち着かなかった…(あの遠山の金さんであるからして)


「伯耆守様、今宵はとんだことで…心中如何ばかりかと御察し申し上げまする」


「いや、大したことでは御座らぬ、野良犬が何を間違ごうたかこの儂に噛み付きおって、幸いにもこの家来が剛の者 守備良く防ぐことができたが、しかし儂の命を狙うとはどの様な曲者じゃろうのぅ…」


「曲者は五人、二人は逃げおおせたと聞き及んでおりもうすが…伯耆守様には御心当たりはござりますまいか」


「遠山殿、曲者に心当たりがあったれば今頃はそこに乗り込んでおりますわい」と正則は精一杯の強がりを示した。


「これは失礼致した…して切られた者はいずれも浪人体、飢饉で多くの百姓や浪人がこの御府内に入り込んでおり 近頃では人返令でだいぶ減りもうしたが、それでも深川から永代橋にかけての一帯は危険地域 それがしの配下とて敬遠し未だ手つかずの状況、夜ともなれば物取り強盗が頻繁に横行する無法域…今宵の賊も伯耆守様の懐を狙った強盗の類いではないかと手下の者が申しておるのですが…」


「遠山殿、それは違いますぞ…逃げた二人は月代を剃り 身のこなしも尋常では御座らんかった由、そこに控えし親太郎ともう一人の家来の清一郎が月明かりで確認しておりもうす、何処ぞの家中か分からねど…あの気合いと技、どう見ても卑劣な物取りの所行とは覚えず 儂を的にかけての暗殺行為としか思えませぬぞ、のう親太郎」


「はっ、左様で御座いまする 逃げた侍の面体は夜目でしかとは検分出来もうさず誠に面目無き次第で御座りますが、明らかに拙者が切り結んだ浪人とは身の躱す術が違いもうした、彼らは正統に剣を学んだ者ら…拙者の感覚で申せば鏡新明智流の手筋と思われまする。


これは決めつける訳では御座りませぬが…文政十三年 我が練兵館と鏡新明智流の士学館と交流試合を致した際、拙者は四人を打ち負かし そのときの相手の手筋を体が覚えており…戦い中は夢中で分かりませなんだが先ほどふと思いだしたので御座る」


「士学館と言えば蜊河岸の桃井春蔵道場じゃな…ふむぅ これは良いところに気が付かれた、早々にも手配り致そう、伯耆守様 そうとなれば何らかの遺恨あってのもの…襲撃失敗となればそれで仕舞いということはまず御座らん、今後は充分に御身の安全を計って下さりませ、それがしはこれより大目付様まで走るよってこれでご無礼申し上げまする」


立ち上がる遠山景元を目で追いながら「親太郎、遠山殿を大目付・跡部信濃守様の屋敷まで警護致せ」と命じた。


遠山景元は親太郎が立ち上がるのを制し「剛の与力三名を供のうております故 御心遣いだけでも戴いて帰りもうす、しかし伯耆守様も良き御家来をお持ちですなぁ…死体を検分したそれがしの与力が尋常ならざる剣筋に舌を巻いたそうな、よほど名のある使い手で御座ろうと誉めそやしておりましたぞ」そう言うと遠山は客間を後にした、親太郎は照れながらも遠山景元を門前まで見送っていった。


正則は今宵の出来事を思いつつ寝室に向かう、とうとう清太郎の笑顔も見られずに残念しきりである、しかし明日の朝は少しばかりは接することも出来ようかと寝室の襖を開けた。


志津江が布団の上に座って待っていた、真っ白な寝間着に着替え行灯に照らされた憂いの横顔は薄桃色に美しく揺れ正則の脳に焼き付いた、久々の閨の睦み事を望んでか 正則は逸る気持ちを抑え部屋に進みて静かに襖を閉じた。



 翌日、正則は西ノ丸御殿に向かう 誂えたばかりの漆塗りの駕籠の前後は親太郎と清一郎が守りさらに家中の剛の者で行列を固めたのだ。


正則は西ノ丸御殿に入る、すると取次間にはまたもや女形の表坊主組頭が控えており、待っていたのが丸分かりの体で走るようにやってきた。

「伯耆守様、待っておりましたのに…七日ぶりで御座いますよ」と言い、いつものように手を握ってくる。


「最近は工廠の方が忙しいてな、ほれ一昨日の上様御上覧の事は知っておろうが」


「ええ、聞きましたとも 上様の覚えが至極目出度いとかで近々若年寄に御出世あそばすとか…でも御気を付けて下さりませ、皆様一様に異例出世の伯耆守様を恨んでおりますのよ、しかし驚きました昨夜の刺客のこと…」


「おや、もう耳に入っておるのか…お主はさすがに耳が早いのぅ」


「そりゃもう今朝の西ノ丸は上を下への大騒ぎ、先ほど目付衆らが芙蓉の間に走って行かれましたのよ、しかし伯耆守様はお強いのねぇ…何でも馬上から襲ってくる賊を四人も切り倒したとか、御先手組頭連中が噂しておりましたのよ」そう言うと正則の上腕の筋肉でも調べるように触りだし「まぁこんなに太いこと」と気色の悪い声を発した。


「そんなことより例の鳥居耀蔵の件はどういたしたのじゃ」と芙蓉間に歩きながら正則は問うた。

「あっ、そうでした あの件は只の噂でしたの、お気を使わせ誠に面目無き次第 私の早とちりでしたのよ、考えて見ますれば水野様寵愛深き伯耆守様、若年寄御昇進間近な御方に鳥居耀蔵ごときが何ができましょうぞ、私めの取り越し苦労で御座りました 御許しあれ…」


「そうであったか、しかし怪しげな奴よって今後何を企むか解らぬ奴儕、これからも何か情報を掴んだなら是非にも御教え下され」と下手に出て茶坊主の手をそっと握ってやった。

茶坊主は正則が詰間に入るのを見届けるとスキップでも踏むように嬉しげ返って行った。



 詰めの間に入ると入口横の小部屋に詰める取次ぎの者に 封印した建白書類を渡し本丸の老中首座水野越前守様に至急届けよと命じ、芙蓉間奏者番席に歩いて行く。


席に着くと奏者番の数人が正則の元に殺到し、昨夜の正則の武勇を聞こうと言葉を矢継ぎ早に繰り出してきた。


「伯耆守殿、馬上より賊を四人も切り倒したと聞き及んだが…其奴らの得物はやはり槍であろうのぅ、して 四人は同時に打ちかかってきたので御座ろうか」

と畏敬に目を輝かせ聞いてくる。


「…いえ、四人などとは大仰な 切り倒したは二人で一人は馬で轢き殺したので御座るよ」


「ほーっ これは凄い、三人でも凄い話しでは御座らぬか…伯耆守殿は剣士に御座ったのか、いや素晴らしい 実に頼もしい」


正則は、倒したのはそれがしでなく家来が…と言おうとしたが 彼らの畏敬する様を見たら とても言えるものではなかった。


「伯耆守殿、もそっと詳しく武勇伝をお聞かせ下され」と横合いから聞いてくる者があったが…正直 正則は腰を抜かして馬上で自失茫然の体で震えていただけ、武勇伝と言われても返す言葉も無く困り果てているとき…頃合い良く目付衆が正則を見つけ「伯耆守様、我々に同道下さりませ」と促され、取り囲むように燐室の大目付の詰間に引っ張られていった。


詰間には大目付・跡部信濃守が待っていた、正則が座るとすぐに

「伯耆守殿、昨夜はえらいことでしたなぁ儂の心配が現実となり驚き入っておりもうす、しかしお怪我が無くて何よりで御座ったのぅ」


「いえ、跡部様の紹介を頂いた清一郎の活躍で一命を取り留め 頼もしい限りで御座った、改めてここに御礼奉ります」と正則は深々と頭を下げた。


「そうであったか、清一郎の活躍でのぅ…いや紹介した儂とて鼻が高い 嬉しい限りじゃ まずはよろしかった…。


しかしじゃ、しかし困ったことになりもうしてのぅ伯耆守殿…

上様が今朝方この事件をもう御知りになられ…えらい剣幕で御怒りなのじゃよ。

余にとって大事なる伯耆守を暗殺しようとは何事ぞ、首謀犯を草の根分けても探し出し余の面前に引き据えよと仰られ我が兄…いや水野越前守に厳命致したそうなのじゃ、儂も兄上より今し方聞いたばかりでの、お前の役目だとて儂の面目を潰さぬようすぐにも動けと命じられ困り果てておるところよ。


と申すのは、昨夜の内にも遠山殿が動き蜊河岸の桃井春蔵道場を封鎖致し、我が配下の目付も急行し道場内を隈無く調べ、また門弟名簿全てを押収しつぶさに調べ上げたら何と門人は三百有余を数えましてのぅ…三代目桃井春蔵 落魄れたとはいえさすが士学館だけのことは有りますわい、この数を事細かに調べるとなれば数ヶ月係るは必定、困り果てておりますのじゃ。


と言う訳でのぅ…伯耆守殿、どのような些細なことでもかまわぬでな、賊の身元に繋がるような事柄など思い出してはくれぬかの…」


「…逃げた賊の一人は二十二から二十五の間、もう一人は三十前後と見ましたが…月が暗かったよって もう少し若いのやもしれませぬが。

若い方はやせ形で険しい顔をし、もう一人の方は筋骨逞しき男で御座った。

身なりは…二人とも黒っぽい袴に襷は白っぽかったと記憶しておりもうすが…思いつくはそれぐらいなもの…何か御役に立ちもうそうか」


「うむぅ…それだけではのう、手掛かりにはなりもうさぬのぅ…もっと特徴的なもの、例えば黒子が有ったとか 顔に痣があったとか…そのようなことじゃが」


「跡部様、先ほども申した通り月が暗く 例え顔に特徴が有ってもこればかりは…」


「ではどうじゃろう、これはと思しき男らを貴殿の前に引き出したれば…賊を見分けられるかのぅ」


「いや、引見するならばそれがしより新沼親太郎の方が適任で御座ろう、彼は直に賊達と戦っておりますでのぅ、身のこなしなど見れば簡単に特定出来ると思いまするが」


「そうか…それでは桃井春蔵道場の怪しいと思われる二十三歳前後と三十歳前後の者達を至急手配り致し北町奉行所に集めるよって、その時は新沼親太郎をお貸し下され」


「分かり申もうした」


「ところで伯耆守殿…貴殿の命を狙うとは如何なることであろうかのぅ、よもや貴殿を毛嫌いする鳥居耀蔵ではあるまいと思うが…、しかし彼で無いとすれば由々しき事態になるやもしれぬ。

と申すは貴殿を妬む輩はこの幕府内に五万とおろうが…命まで取ろうなどとなれば もっと上…我が兄上の権力集中に寄与する貴殿の武力背景を排除しておきたい若年寄か老中辺りの可能性は充分に有るというもの、もしこの辺りが賊と繋がったとなれば幕府の威信は大揺れで御座ろうが、そうなれば…闇に葬るか、または物取り強盗の類いにすり替えるか頭の痛い事で御座るよ」


「そうですなぁ…若年寄や老中をひっくくる訳にも参りませんものなぁ、

それがしも昨夜よりそのことを考えておるのよ、よもやとは存ずるが昨夜の暗殺者が若年寄か老中の手の者であれば物取り強盗の類いにすり替えるが上策というもの。


それと跡部殿…西国の外様雄藩のことも考えておかねばなりませんぞ、と申すは薩摩辺りで最近妙な動きが見受けられると先日跡部様も申されたが…我が工廠内にも間者が入り込んだふしが御座ってな、工廠員は入所の際は人別帳で事細かく調べ 間違い無き者のみを選別しておりまするが…先日、夜回りの者が怪しき賊を見つけ追ったが取り逃がした由、次の日工廠員全員を点呼致したら一人欠けており、よくよくその者の地元を調べたら…該当者の存在は無かったので御座るよ。


其奴は入所してまだ三ヶ月によって技術を盗み取るまではいかなかったであろうが…同僚の話では西国薩摩辺りの訛りが有ったとか、それ以降は工廠員の募集には専門の人事をこれに充てておるので御座るよ」


「薩摩か、伯耆守殿 これは充分にありえるな…現在江戸の三大道場と言われる士学館や練兵館、或いは玄武館には西国雄藩の若者の多くが門人に名を連ねていると聞きもうす…たしか士学館は薩摩藩が肝煎りをしておると聞いた覚えが有ったな…んん、この辺りから調べれば臭い物が出るやもしれん、伯耆守殿これは良いことを聞いた 早々にも調べると致そう、いや朝っぱらからお手間をとらせ相済まぬのぅ。

それと…本日は老中会議で御座ったな、時間の方はよろしかったかのぅ」


「はっ、会議は朝四つ巳の刻より始まっておりもうすが、それがしの案件は昼九つ午の刻過ぎと聞いており まだ一刻ほどの有余が御座る、他にそれがしに聞きたきこと有ればおつき合いもうそうが…」


「いや本日は忙しいところお手間を取らせ申し訳御座らぬ、また何か聞きたき事あれば工廠の方に御伺い致すよって、ささっもう部屋に戻られよ」と言い目付の一人を呼んで正則を部屋に送るよう命じた。



 部屋に戻りかけた正則は 奏者番らがまたもや武勇伝を聞かせろとせがんでくることに思いが及んだ、奏者番席は大名の集まり所帯につき詰間内の私語は固く禁じられている筈であるが…風紀の乱れは如何ともしがたい、番方躑躅間とは大違いで暇を持て余す大名衆の井戸端会議所でもあろうか…私語でいつもざわついているのだ。


正則は暗い気持ちで席に着いた。

席に着いたと同時に正則の前に誰かが座った、そら来たとばかりに正則は顔を上げた、座ったのは日頃無口な三河挙母藩主 内藤丹波守であった。


「伯耆守殿、本日でしたな老中会議は」と念を押す。


「左様、一刻半後に本丸御殿の御用部屋で行いもうすが…」


「伯耆守殿…例のこと どうか御忘れ無き様会議に掛けて下さりませ」と言い愛想笑いを浮かべた。


正則は会議にかけたとて…他の老中らは分からぬが首座の水野越前守は十中八九否決するであろうと思った、水野越前守にしてみれば己の権力背景たる近代兵器の技術を他藩に知られることは最も警戒することであろう、会議に掛けることさえ憚れるというもの…。

正則とて三河挙母藩との繋がりなど痛くもない腹を探られるは避けねばならない、最初は良き人材登用の策とは考えたが、跡部信濃守や庄左右衛門らに相談の末「今はやめておいた方が宜しかろう」の意見が噴出したのだ…。

内藤丹波守には申し訳ないが、正則は今回の老中会議に掛ける気は既に無かったのだ。


「丹波守殿、取り敢えずは本日の老中会議に掛けもうすが…すぐに叶えられるとは思えませぬ、辛抱強うに待っていただけますかのぅ」と嘘を言った。


「それはもう、儂とてすぐに叶なうなどとは思ってはいませぬ、伯耆守殿さえ我が藩の若者らの人材登用を御心に留め置いて頂けましたら幸いで御座る、ではよしなにお願い申し上げる」と一礼し 引き上げていった。


正則は罪悪感に胸が少々痛んだ…しかし今は己の養護が大事である、来夏まではどんな些細な問題も露呈してはならないのだ。


クーデターが成功するまでは…。

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