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十六.決起への想い

 上様御上覧は予定の刻限を一刻ほども超過し昼八つ過ぎに終わった。

上覧後も上様の機嫌は上々で、正則を御側近くに引見し「これにて紅毛浸食の憂いは消えもうした」とその近代兵器の威力を褒めそやし、「余も貴公の功労に何か報いねばのぅ、伯耆守 何か余に願い事はあるか」と正則に問うた。


この上様最上級の感謝の意に触れ 正則は震える想いで「武器の威力頼みでは憂いは消えもうさず、軍政相整えずんば事は足りず」と応え、近代軍政の早期整備を上様に建白したのだ。

これに対し上様は老中会議に諮られるべしと応え、水野忠邦を呼び伯耆守の建白を早期に実現せよと命じられた。

そして上様は供回り百五十を引き連れ、上機嫌で千代田の城へと帰って行った。


上様御見送りを済ませ正則は工廠長室へいそいそと戻ってきた、半日我慢をしていた煙草を吸うためである。

正則は椅子に座るのももどかしく早々に煙管に手を伸ばした、最近買い求めた会津の煙管師舟橋草軒作の銀製煙管である、これに刻みたばこを詰め最近煙管専用に造ったマッチで火を付ける。


(あぁ…うまい、頭の霧が晴れていくようだ、これでコーヒーが有れば至福だろうな…)


刻みたばこは日本橋播磨屋の銘柄で、大隅産「国分葉」と常陸産「水府葉」を適度にブレンドした「陽曙」だ、このたばこの味は妙にセブンスターに似て正則の好みにピッタリと合うのだが…価格が僅か十匁で百二十文と一般きざみの四倍もする高価なたばこであった、しかし下戸の正則にとってタバコは唯一の嗜好品で多少高くても気にはならなかった。


因みにこの時代…江戸でコーヒーを見つけるは希有であり、有っても嗜好品と言うより薬としての効果を期待され水腫に効果があるとされていた。

(コーヒー輸入関税が決定され正式にコーヒーが輸入されたのは明治10年だったはず…あと三十五年も先のことか…)


煙草を旨そうにくゆらしていると庄左右衛門・左太夫・光右衛門が部屋に訪れた。

「伯耆守様…また煙草ですか、いつ見ても煙管を口にくわえておられるようですが体に悪いですぞ」と舅口調で言う庄左右衛門。


だが彼らは部屋に入るも興奮が隠せない様子に座ったり立ったりと落ち着かない。


「まぁ皆の衆、落ち着いて座られよ」と正則は煙管を置いて立ち上がった、最近警護役として常に身辺近くに控える若侍に茶の用意を頼み、南側の窓際近くに設けられた応接椅子に腰を掛けた。


この警護役の侍は大目付・跡部信濃守が正則の身辺不穏の憂いから最近推挙してきた者で、玄武館道場 千葉周作の高弟・安原清一郎だ。

信濃守に依れば、清一郎は千葉道場の師範代にして、藤堂家依頼の大業物 初代加州兼若を使い三つ胴切りを為し得、当時江戸でその剣名は知れ渡り正則の耳にも届いていた。


正則は噂の剣名からどの様な怪物であろうかと興味がわき、跡部信濃守にお願いし会う機会を得た、しかし安原清一郎という達人に会ったとき 少々期待外れは否めなかった、それは怪物と思っていたところに温厚そうな好青年が現れたからである、物腰は落ち着き顔は愛嬌に富み、若者特有のニキビさえ浮かべていたのだ、それでも身の丈は六尺を越える偉丈夫で剣客特有の前腕筋は太腿と見間違える程の太さだった。


半時ほどの面会で正則は二十五歳のこの若者がいたく気に入り、跡部信濃守に是非ともそれがしの家来に欲しいと願い出て、清一郎の主人である紀伊田辺藩 安藤飛騨守の許しを得て三ヶ月前に正則が召し抱えた剣士だ。


その清一郎が盆に茶を入れて現れ、応接机に湯飲みを並べていく…正則は無骨な清一郎の上腕を頼もしげに眺めながら「皆の衆、まずは座られよ」と再度促した。

その言葉に皆集まり 椅子に落ち着き無くもじもじと腰を下ろした。


「はぁ…この様な間近で上様の御尊顔を拝することが出来たのは 偏に伯耆守様のおかげで御座る、ここに御礼申し上げまする」と左太夫がいつも見せない神妙な顔で正則に頭を下げた、これにつられたような形で庄左右衛門と光右衛門も頭を下げる。


「私だけの力ではありません、皆様のこの四年に渡る血と汗の賜物です、ほんにご苦労様でした」と正則も神妙顔でこれに応えた。


「しかし正則様…今改めて想うに、五カ年計画の達成量には未だ及びませぬが…気が付けば夥しい数の銃保有量になったものです、大砲・自動小銃・実包の数々 正直今の保有量だけでも優にこの日の本を我等手中に収めることも可能では御座りますまいか」と光右衛門が暗算でもするように指を折り始めた。


「そなた何を考えておるのじゃ…此奴何やら物騒な事でも考えておろうが」と庄左右衛門が隣に座る光右衛門を突いた。


「いやなに…クーデターまで後七年も有るのかと…」


「これ!声が大きい、此奴 時と場所をわきまえて口にせぬか」と庄左右衛門は光右衛門の腕を掴み、正則の横に控える清一郎の方を見た。


「よいよい、清一郎はそれがしの身内同然の者、計画のことも承知して御座るよってな」

この言葉に庄左右衛門は緊張を解くも光右衛門に向かって「貴公はほんに口が軽くていかん、事の重大性が分かっておらぬ、口は災いの元…これからもそのようなこと滅多に口にするでないぞ」と戒めて話しを継いだ。


「左太夫を見て見ろ…上様に拝しただけでこの浮かれよう、まだまだ将軍家の権威は地に堕ちてはいない証とは思わぬのか、機は熟すのを待てと言うであろうが」と庄左右衛門は光右衛門を再度睨み付けた。


「そのようなこと組頭殿に言われなくとも分かっておりますわい」と少々鼻白み。

「仮に…仮に申さばだが 我らの意に従う組頭以下与力同心の総勢二千余は明日にでも糾合出来もうそう、これらがこの工廠から武器を手に千代田に攻め入れば半日とかからず占拠出来るは必定…。

して其の夜の内にも御府内に戒厳令を敷き 譜代・外様大名衆は即刻国元に引き上げさせ、府内に通じる全街道を封鎖、また千代田に於いては我らに反抗する幕閣・番方・文官らは謹慎・逼塞を命じ、幕府を早期解体し 正則様が率いる番方勢力で新政府を樹立する…そんな想いが急にこみあげましてのぅ」


この光右衛門の言葉に一同しらけた顔で瞑目し始めた、多分誰しも本日それを感じたからだろうが…。

正則とてそのことを全く考えなかったと言ったら嘘になる、現在この場には上様始め幕閣の殆どが集合している…これらを工廠員五百余名で押し包めば捕縛或いは殺戮は出来ると考えたのだ…たぶん四半時も係らずにクーデターは成功するだろうと…。


「光秀の本能寺の変か…しかしあれは三日天下で終わったわな」とぽつりと左太夫が零した。


「そうじゃのう…儂とて光右衛門と同じ事を一瞬とはいえ考えたことに偽りは無いが…しかしじゃ四年前に皆の衆で散々討論したときの事を思い出されよ、機が熟すのは三次計画の前半と分析したではないか、機が熟さぬ内の決行は左太夫が今言った三日天下に終わる可能性は充分に有るということじゃよ」と庄左右衛門は皆の顔を見渡した。


「皆の衆は何と安穏な…考えてもみなされ、あれほどの武器の量と製造手段の保有…。

今日それらを見た幕閣らの目をお主らはどう見た、特に水野越前守様に反目する土井・間部ら老中の目つきは尋常ではなかったぞ、ただでも幕府専横が噂される水野越前守様があれほどの威力兵器を背景にするとなれば誰しも危ぶむは必定 、彼らがそれを指を咥えて傍観するとでもお思いか、彼らは早晩何かを仕掛けてくるはず…それを悠長にも機が熟すのを待てとか、三日天下などとしたり顔で抜かしてからに…」と光右衛門は左太夫を睨み付けた。


「光右衛門!貴様言い様が有るだろう、したり顔とはどういう言い草じゃ」と左太夫が立ち上がった。


「これ!伯耆守様の前で失礼であろう」と庄左右衛門が左太夫の裾を引いて座らせる。


それを見た正則は皆の顔を見渡しおもむろに口を開いた。

「光右衛門殿、貴殿の心配はごもっともです…私も先からそのことばかりを考えておりました、この工廠に投じられた金は数十万両、幕府財政を傾かせるほどの大金が費やされ、このことで多くの幕閣に恨み妬みを買ったは確かなこと、ゆえにここに有る武器と設備は何時までも我等が自由裁量に委ねられことは難しく、いずれ我等の手から幕府の力有る者の手へと移って行くでしょう。


いまは忠邦様の力で我等の裁量に委ねられ、新案・開発は思いのままで今日まで来ましたが、天保十四年閏九月十四日水野越前守は上知令の失策により老中職を罷免され失脚します…後一年半後のことです、その次は土井大炊頭が老中首座となり、そうなればこの工廠は我等の手から落ちるだけでは済まず水野越前守に連座し罷免されるは必定。


多分私は罷免と同時に適当な罪を着せられ家は断絶…全財産没収の上でどこぞの藩に預けられ、下手をすれば切腹か斬首となりましょう、貴殿らに至っては問答無用で斬首は必定…それほどに幕閣らの恨み妬みは深いということです。


私はこの工廠を造る以前よりこのことは懸念していました、故に計画を急ぎ また水野越前守にも接近したのです、そして第一次五カ年計画でこの日の本を抑え込む程の大量の近代兵器生産を達成し、二次五カ年計画で幕府軍政を主導し軍の中枢部を手中にしたとき、計画半ばであろうとクーデターの決行はやむ無しと考えていたのです」


皆瞑目して正則の言葉を聞いていた、聞き終わっても誰も言葉を発することは出来なかった…それは誰しも常日頃懸念していることだからだ。


窓辺に夕日が差し込んできた…およそ四半時もの間沈黙が続いた。

その沈黙を破って左太夫の嗄れた声が呟くように漏れ出た。

「水野越前守様の失脚をもう少し後ろに延ばすことは出来まいか…」


しかしその呟きには誰も反応せずさらに瞑目は続いた。

皆 左太夫の言った水野越前守失脚延期の可能性について考察していたからである。


水野越前守は天保の改革を始める際、己に反目する西丸派の多くを粛正し、天保十二年には南町奉行矢部駿河守が目付鳥居耀蔵の策謀により罷免され失脚すると後任の町奉行にはその鳥居耀蔵を登用した。


以降鳥居主導で行われた物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制、また公定賃金を定め没落旗本や御家人に向けた低利貸付・累積貸付金の返済免除等々、また貨幣改鋳などを積極的におこなったことで、これら一連の力業政策により流通経済は混乱をきたし不況が蔓延することになる。


天保の改革はこうして失策に陥っていくも、水野越前守は代官出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、また人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革に目処が付いたことに勢いを得、上知令を開始することになっていく。


しかし上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対が噴出し、老中や紀州徳川家からも反対意見が噴出、そして決め手である腹心の鳥居が上知令反対派の老中・土井大炊頭に寝返って機密文書を渡すなどの卑劣な裏切り行為があり…ついに水野越前守は罷免されて失脚、諸改革は中止された。


水野越前守が失脚すると同時に江戸市民は暴徒化し水野邸は襲撃されている。

この天保改革はあまりに過激に過ぎ庶民に多くの怨みを買ったからとされているが…裏で鳥居耀蔵と西丸派らの策謀であろうと陰で囁かれていた。


しかし水野越前守は余りにも多くの大名・旗本・老中・若年寄に恨みを買いすぎている、例え上知令を断行せずとも失脚は時間の問題と思われる…正則が言葉を尽くして上知令を取り下げることを水野越前守に進言しそれが叶ったとした場合、延命期間は如何ほどであろうか。


確かに本日の上様御上覧は裏を返せば水野越前守の威力背景を幕閣らに見せ付ける宴でもあった、その夥しい武器の量と破壊力を目の当たりにした幕閣らは水野に楯を突こうという気力さえ喪失したであろう、しかしその恨み妬みは見る以前の数倍に膨れあがったのも否めまい…(あと三年の延命は望めまい…)と正則は瞑目を破り言葉を発した。


「皆の衆、今期で一次五カ年計画は終了する、終了前には計画量を是が非でも達成して下さい、そして来期からは幕府陸軍発足となりますが…そう八ヶ月!来夏八月にクーデターを決行します!。


皆の衆この月を心に刻み、早期に軍政を立ち上げ8ヶ月で軍の中枢をその手に掴んで下さい、それがしはこれより朝廷工作に専念します、よって留守がちになりますが留守中計画遅延無きよう心がけて下されよ」

正則は一気に吐露し皆の顔を一人一人見ていった。


「伯耆守様ようやくき決めていただけましたか、八月ですか一年半後ですな、よしやりましょうぞ!」まずは光右衛門が満足そうに頷いた。


「一年半とは唐突な…早すぎやしませぬか、幕府陸軍が発足してたった八ヶ月で軍令を整えるは無理が有るというもの、せめて二年は欲しいところ…」と左太夫は思案顔で正則の目を窺う。


「左太夫殿、私とて最低二年は欲しい、しかし水野越前守の命脈は歴史上来年の九月となっておる、よってその前の八月と致したまで…もし越前守が延命したならそれに沿い軍中枢を確実に手中出来るまで日延べしてもかまわぬと考えているが、明日のことは誰にも分からぬ、故に今分かっている八月とし それに向かって計画するは道理で御座ろう、左太夫殿お分かりか」


「分かり申した、決行月は最短で八月…越前守の動向次第で流動性有りと了承すれば宜しいのですな」と左太夫、これに正則は小さく肯いた。


「ふん、八月と伯耆守様が仰ったものを流動性有りなどといちいち小賢しいことを…」

と光右衛門がボソと呟いた。


左太夫はキッと目を光らせ光右衛門を見返し、立ち上がろうとするのを庄左右衛門が左太夫の機先を制し襟を掴んで抑え込んだ。


「お主らは何年経っても啀み合いは絶えぬのう、ほんに仲がいいのか悪いのか…ともあれ伯耆守様の前じゃ、失礼が有ってはならぬと前から言っておろう、今後この様な諍いは儂が許さんぞ!」と二人を睨めつけた。


庄左右衛門のこの恫喝に二人は悛として肩を落とした。


「ところで伯耆守様、朝廷の御輿はやはり必須で御座ろうのぅ」

と庄左右衛門は念を押すように正則を見詰める。


「んん…朝廷の必要性は私よりも朱子学を学んだ貴殿らの方がようお分かりかと存ずるが、私なりの想いを少々聞いて頂けますかな」

そう言うと正則は窓辺に目を転じ、夕日を見詰めながら独り言のように言葉を継いだ。


数千年にもわたって連綿と培われてきた日の本特有の「朝廷と民の共存共栄」の理念が、どのような時代でも、またどのような境遇に見舞われようとも日の本の民から失われることがなかったのは、他の国のような圧政や主義思想による強制ではなくその範を示すべく毅然とした“帝の存在”がその理念の存続を支えてきたからだと思うのです。


帝の存在はそれほどまでに日の本の民にとっては重要であり それは世界で唯一無二の存在、且つわれわれ日の本の民だけが持っている尊厳主体と思うのです。

たとえば清国や西洋の皇帝、またその周辺の王たちがどれだけ頻繁に変わってきたか、どれほど言語や習慣及び価値観の違う他民族に侵略収奪され、入れ替わり立ち代わり君臨劇を繰り返してきたか…その都度、民が、国体が、どれほど振り回されてきたでしょう。


なぜ清国やそれに倣う朝鮮の王侯は代わるたびにそれ以前の遺産を破棄したのか、それは彼らには簒奪や台頭という観念しかなく、継承や踏襲という崇高な観念などは持ち合わせていないからです、ゆえに受け継ぎ引き渡すという観念もなく、己だけが大事で己以前のものを全否定しなければ現在の地位保証は得られぬと考えたからでしょう。

日の本の皇位継承の仕組みとは、そこからして明らかに違うのです。


日の本では、これまで貴族・豪族・武士らが勢力争いをし、頂点に立ち“天下”を取ったとしてもだれも帝になろうとは思わない、帝以上の権勢と栄誉栄華を誇ったあの藤原氏でさえも自身が帝になろうとは思わなかったのです。


また鎌倉幕府を開いた源頼朝もしかり、比叡山を焼き討ちした織田信長も、天下統一した徳川家康でさえも、「帝に成り代わろう」とはしなかった、それどころか帝からその地位の“許し”をもらっているに過ぎない。


亜米利加大統領が聖書に宣誓すると同様に、日の本では聖書に代わる者、そう“帝”が“神”となりてその時代の権力者をひれ伏せさせる、それは日本人の根底に流れる崇高なる者への畏敬・戒めと捉えているのででしょう、つまり日の本の朝廷は他国の皇帝や王家とは存在価値も存在理由も全く違うのです。


権力というのは勢力や武力によって変化し、帝がその時代もっとも力有る者や一族を権力者に認定しその者に政治を委ねるが日の本の伝統で、その権力者の選び方は主義・武力・血縁のいずれかは時代によって変わっただけです。


帝は、日の本を建国した一族としての“権威”を有し“権力”はその時代に応じた一番強い者に与えていただけに過ぎず、権力とはいずれ潰されるもの、ゆえに帝は直接権力は持たず時の権力者を任命し政治を行わせる方策、つまり“権威”と“権力”は分けたほうがうまくいくというのが朝廷の理念なのです。


“権威”とは清らかなものでなければなりません、しかし“権力”は清らかにはあらず、政治というのは汚れ仕事で必ず誰かの不満を買い誰かに恨まれましょう、人民全て平等に満足させるような「政治」などありえません。

為政者は人の恨みを買い批判の対象となり、それが高じれば交代の憂き目に遭う…これは戦国時代だろうとこの時代であろうと変わりはありません。


権力の交代は通常「前政権の皆殺し」に始まります、中国だろうと欧州だろうと「革命」という名のもとに皇帝・王の一族は皆殺ししなければ達成はされません。


しかし日の本は、帝という「神聖」とされる家系を温存していたおかげで「帝が認めればそれで決まり皆従う」そんな不思議な仕組みになっているのです、おかげで最後まで殺し合わなくても済み、こんな「ありがたい」現人神を護持しているのは日の本だけでしょう。


どんなに権力を独占していようとも、京から帝の使者が来れば平伏してお迎えする、そういう枠組みを守ったからこそ日の本の民は安心して幕府に政治を任せたし、とんでもない暴君というのも出て来ないのでしょう。


徳川幕府が役割を終えたとき、戦はありましたが諸外国と比べればはるかに小さい規模で、徳川一族の誰ひとりとして首は切られずに済みました、革命で王を殺したフランスでは最終的にいったい何人が断頭台の露に消えたか。


帝が「神聖なもの」で有り続けたのは、逆説的ですが「何もしない」ということが神聖性を保っていたのでしょう、ただ時の権力者の政治に「よきにはからえ」と言うだけであとはひたすら国の平安を神に祈ったのです「そうならば不要」というのは簡単ですが、そういう存在がいるといないとではいざというときに全く違います。


というのは我等がクーデターに成功するということは他人を蹴落として権力者になるということです、先も申したように権力者は「神聖」ではありえません、ゆえに帝の安全装置とも言うべき神聖なる権威という裏打ちが絶対必須なのです。

もう一度言います、クーデターを成功させ、新しき政治を始めるには朝廷の“錦の御旗”は絶対必須なのです」

と繰り返し、正則は語り結び…一同の顔を見渡した。


皆瞑目して聞き入り、それ以後の会話は続かなかった。



 其の夜、明後日に控えた老中会議の資料造りで正則は屋敷には戻れず徹夜になってしまった、庄左右衛門が何か手伝いましょうかと聞いてきたが…こればかりは庄左右衛門の能力でも無理である、「明日の昼過ぎにこの資料を二十部ほど複写する必要が有りますのでその時に手伝って下さい」と返した。


正則は薄手の和紙に毛筆で幕府陸軍大綱の階級制度の項へ添付する“階級一覧表”を書いている最中である。

当初、正則・庄左右衛門らは陸海軍を同時に立ち上げる予定だったが…大綱を書き上げていく途中 同時立ち上げは予算・時期に問題があり、特に時機が早まる可能性大のクーデターを見据えると、最低限必要な陸軍軍令組織だけでも立ち上げるべく幕府陸軍を先に創設しようと建白から海軍を消し込んだのだ。


それにしてもこの毛筆書きはやっかいである、これまでは頭に浮かぶ文章速度とワープロ打ちの速度はほぼイコールだったのに…筆書きになると三倍以上の時間が係るため、発想速度に書き速度が追いつかず、後で読み返すと微妙に想いとは異なった文章になっているのに気付く。


また元来 筆で文字を書くことなど無かった正則だが…この数年の特訓で何とか人並みの毛筆文字が書けるようにはなっていた、しかし庄左右衛門に言わせれば「我が婿は頭は切れるが何と文字は映えない事か、神は二物を与えずと言うがよく言ったものじゃ」である。


プリンターは昨年の初めに壊れてしまった、それまでは何度も部品を修理し何とか使っては来たが…ついにインクジェットの圧電セラミックが破損し万事休す、こればかりは正則でもお手上げである、大学の方で圧電の研究が進むのを待つしかないとあきらめ、今は代わりとして青焼き(青写真)を使うようになっていた。


青焼きは正則が学生時代 製図の複写は晴れた日に屋上に上がって日光写真とも言うべき青写真を焼いていたのを思い出し始めたコピー法である。

しかし学生時代 青写真はすぐに白焼き複写機に取って代わられ正則の屋上行きは無くなったのだが。


青写真の感光紙は、クエン酸鉄アンモニウムとヘキサシアノ鉄酸カリウムの水溶液を混合し半日静置し、厚手和紙にこれを塗りつけ暗所で乾燥させると感光紙となる。

この感光紙の上に薄手の和紙に書かれた原稿を乗せ三~五分程度太陽に当てれば露光が完了する、感光後は水洗いして乾燥し塩酸または酢酸に浸して再度乾燥させると青地が鮮やかな複写ができ耐久性が増す、現在工廠で運用されている縦二尺・横三尺の規格図面は全てこの青写真法で複写されていた。



 翌日の昼前、ようやく陸軍大綱の清書が出来上がり、庄左右衛門らに複写・製本を頼んで正則は仮眠室で三十二時間ぶり眠りに就くことが出来た。


目を覚ましたのは夕暮れ時で、正則が隣の工廠長室に行くと机上には既に二十部の複写製本が整えられていた、出来映えは上々である 正則はA4サイズに製本されたその一冊を手に取り全文読み返してみる、内容の一部に過激な箇所やこの時代には早すぎる内容も見受けられるが、全体として近代軍政・軍令に必要不可欠な事柄が列記され纏まりは我ながら非常に良いと感じた。


表紙は「天保幕府陸軍大綱」と大きく題字し、次頁は目次 以降は序文・軍政大綱・軍事大権・軍政組織(陸軍本部)・軍令組織(参謀本部)・軍事司法・教育総監・軍隊組織・階級制度等々…頁数は六十頁に纏めた小冊子である。


序文は、幕府二百有余年のあいだ実戦経験が無いことで形ばかりの組織になっている番方は、支配違い役違いでその多くの管理が交差重複し不合理、且つ命令系統も形骸化、故にこの番方の組織形態を完全に解体し、実戦に即した軍事組織へと改編する……云々。


軍政大綱は、序説に軍政と軍令の意味・違いを解説した。

幕府の軍事に関する機能は軍政・軍令・軍事司法に大別される。

軍政は国家の一般統治作用の一部として軍事に関する行政をいい、軍備・幕府防衛政策・編制装備・予算・動員・人事・教育訓練・経理・衛生といった幕軍の建設・維持・管理等を行う。

軍政の作用には、軍の内部にのみ及ぼすものと軍の目的のため軍外部に及ぼすもの(たとえば兵役,徴発等)があり、後者は幕府行政と密接な関係を持つ。


軍令は統帥ともいい、幕軍の最高指揮官(将軍)の命により軍隊の戦闘力を発揮させるため作戦計画を立て部隊を編成し命令を下達する、これを指揮運用する作用をいう・・云々。


正則は一通り読んだ後 戸惑いを覚えた、書いている最中は全く気が付かなかったが、こうして客観的に読んでみると この時代にはそぐわない感覚が頻りである、思想・世界観も然りであるが熟字一つ一つをとってもこの時代ではまだ使われてはおらず明治初期の新語ではなかろうかと、こう思うと正則は不安になってきた。

(庄左右衛門殿は製本時に読んだはず…感想を聞かなくては)


「清一郎、庄左右衛門殿を至急呼んで参れ」と命じ正則は清一郎が入れた茶を啜りながら、また小冊子を序文より読みだした。


暫くして庄左右衛門が工廠長室に入ってきた。

「伯耆守様…何ぞ複写製本に問題でも御座ったかのぅ」


「いえ、製本は美麗で満足してますよ、聞きたいのはこの小冊子の内容です」


「内容で御座るか…建白書を儂がごとき軽輩者が見るのは恐れ多い事でござるが…製本順序に狂いは無いかと一通り目を通した際に若干は読みもうしたが。

いや素晴らしい内容にござった、儂などこの様な組織案など到底考えつきませぬ、いや素晴らしい」


「庄左右衛門殿、失礼ですが読んでいて理解出来ぬ箇所はありましたか」


「んん…所々有りましたな、しかし漢字の字面でおおよその見当は付きもうしたが…どうも中国の古典にある漢字用語が多いような気が致しまする、漢訳書の『聯邦史略』などを参照しながら読めばある程度は理解出来るとは存ずるが…儂も漢学は人並み以上に勉学致したと自負しておりもうすが…漢訳書無しではちと難しいですわい、ゆえに大名育ちの御坊ちゃん老中らに はたしてこの建白書を読み解く能力がありますかな…」庄左右衛門はそう言いながらニヤっと笑った。


庄左右衛門は若いころ学問吟味で甲科を主席で及第し、以降 儒学・朱子学を勉学しただけあり漢学には学者ほどの学識があった、この江戸で最高学府である昌平黌に学び甲科を主席で及第したのはこの百年でも数人しかいないであろう その一人である庄左右衛門には相当の自負が有ったのだろう…ゆえにニヤっと笑ったのか。

田舎大名の小倅老中あたりと一緒にするなとでも言いたいのであろう。


「老中あたりでは理解出来ませぬか…これは参ったなぁ」


「伯耆守様、建白書とはこの様に難解なものがいいので御座る、儂ら目上に出す書類でも…まず儂が書いた全文が理解出来る上役などこれまで会ったこともござらんよってな、ククッどうしても内容が知りたければ林大学頭あたりに聞くでしょう」


正則は庄左右衛門の意見を聞いて少しばかり不安は薄らいだが…理解してもらえぬとなると厄介だ、正則としてはそうとう平易に書いたつもりだが…新語熟字を知らぬ間に多用していたことは迂闊だった。


しかし宇田川榕菴が日の本ではじめて近代化学を紹介する書となった『舎密開宗』の出版に際し、正則が加筆した項で知らぬ間に使った化学用語が『造語』扱いされたが…今や幕府技術大学校では当たり前に使うようになっている、そう考えればこれも同様であろうと正則はいつものいい加減さで杞憂を止めた。


煙管に煙草を詰め 火を点けてから窓辺に寄った。

プカリと一息吸って夕日を見詰める、夕日を見ながら…ふと今宵は早く帰ろうと思った。

そう思うと志津江に抱かれた清太郎の面影が頭を過ぎる、もう幾日も見ていないなぁと思え、吸いかけの煙草を灰皿に叩き出し「庄左右衛門殿、今日は早めに引き上げます、明日は朝から本丸の老中会議に出席しますのでこちらには来られませんよ」


「清一郎、馬を頼む」そう言うと正則は建白書の束を風呂敷に包み始めた。

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