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十四.二寸七分榴弾野戦砲

 正則は十日ばかり肺炎を患い寝込んでしまった、ゆえに復帰後も体調は芳しいとはいえず、遅れを取り戻す工廠での激務は体にこたえた。


復帰の初出仕から二日目には老中首座水野忠邦と面談し緊張に汗し…次の日からは銃火薬工廠での遅れを取り戻すため四日間ほど家には帰らずの激務、初老時の正則であればとっくに入院していたであろう、しかし肉体は三十歳…頑強なものである、一日熟睡しただけで病気前の精気を次第に取り戻していった。


そして七日目、忠邦が内示した通り奏者番就任式の沙汰が有り、九日目には本丸黒書院で上様に拝謁、奏者番就任の式が執り行われ十日目には躑躅の間から芙蓉の間へと慌ただしく移動したのだった。


この十日間の慌ただしさは休んだ日数を相殺する条理でもあるように、心と肉体の一体感は薄れ、何処か遠いところで肉体のみが慌ただしく動いている…そんな感じにとらわれる正則である、それ故か…はたまた老中首座水野忠邦の傀儡餌にしか思われぬ今回の異例なる昇進劇…正直 嬉しさは全く涌いては来なかった。


御先手席から奏者番への昇進は望んでも叶えられるものではない、ゆえに忠邦が裏で如何に工作したかが伺われた、三田家家中 特に庄左右衛門は出来物の娘婿が大出世したと御先手組の面々に触れ歩き狂喜乱舞したが…正則はまるで他人事の様に淡々と目の前の仕事をこなして行った。



 奏者番は老中支配の職であった、武家の殿中での礼式をつかさどり、謁見する諸大名を将軍に取り次いだり諸大名からの進物を将軍に披露するなど、諸大名に対し将軍の上使として立つ役で、正則が生来最も嫌う役柄といえる、しかし正則は水野忠邦より奏者番役など貴殿にとって若年寄への通過点に過ぎぬ、よって兼役である銃火薬工廠長及び大学総長の方に重きをおけとの命で、芙蓉の間への出仕は体が空いた時でよいと、正則にとっては有り難い沙汰も受けていた。



 奏者番就任挨拶の日、西ノ丸御殿入口の取次間には久々に女形の表坊主組頭が控えていた、正則を待っていたのだろうか見つけると走るようにやってきた。

「伯耆守様、この度は奏者番に御出世の事 お目出度う御座ります、私 以前から聡明なる貴方のこと絶対出世する御方と見込んでおりましたのよ、ほんに目出度いこと」と言いながらいつものようにチャッカリ手を握ってくる。


庄左右衛門はこの男を曲者と言うが、この数年の付き合いから心根は気の利く心優しい御仁と感じていた、しかしこんな破顔を見せるのは正則だけにかもしれぬが…。

ただ所構わずベタベタされるは辟易した、そんな表坊主組頭が今日に限り芙蓉の間へ案内する道すがら神妙な顔で「伯耆守様…鳥井様にはお気を付けなさいまし、伯耆守様の件でなにやら調べているらしいとの事、今詳しい内容を調べさせておりますゆえ待ってて下さいな」と小声で囁いた。

表坊主組頭…御殿内に限らず幕府内の裏情報にも精通しているのだろうか…。

表坊主は芙蓉の間に正則を案内すると、もう一度手を強く握って引き返していった。



 芙蓉の間にはおよそ二十名ほどの奏者番が控えており、躑躅の間と比べ調度品も畳も上質なものが使われていた。

譜代大名が役につくときは、たいていこの奏者番からスタートするのが慣例で二十名中半数ほどは正則と同年配の新進気鋭の若者らで占められていた。


この芙蓉の間で先ほど正則の新任挨拶が執り行われた、老中より正則の経歴が紹介された際、ほぅ…という感嘆の声があちらこちらで聞かれた、それは大名でもない者が異例の昇進を遂げたことに驚いたのか、或いは最近幕臣の間で噂される「幕府の金蔵に巣くう鼠」と揶揄される正則本人を目の当たりにしたからであろうか。

挨拶が終わった後も各所に溜まって正則の噂でもちっきりであった。


正則はすることもなく…自然 長男清太郎の顔が頭に浮かんでくる、正則は清太郎が可愛くてしょうがない、確かに元の世界には二人の子供がいたが二人とも女子であった、若い頃は男の子が欲しいとも思ったが、次も女子だったらと思うと…結局子供は二人で止めたのだ。

それがひょんな事で念願の男子が授かった…脳年齢は六十九歳だから孫が生まれた感覚で可愛いくてしょうがない(今日は玩具でも買って帰るかな…)


その時「新任ご苦労様で御座ります」と溜まりの中から一人の男が足を引きずりながら現れ、正則の夢想を踏みつけて無遠慮に正面に座った。


「それがし三河挙母藩主 内藤丹波守と申す者、貴殿と同い年に御座る どうかお見知りおき下され」と言い 手を差し出してきた、正則は躊躇するもそれを握り返したが…この時代握手などという挨拶礼法が有ったのだろうかと首を傾げた。


「貴殿にはそれがし一度お会いした事が御座ったが御覚えかの」と丹波守…「はて、何処ぞで御会い致しましたかな」と正則。


「お忘れか…ほれ以前貴殿が兄 井伊直亮が屋敷に訪れた際、兄のすぐ近くに座っておったそれがしをお忘れか」


「ああっ、あの時の…申し訳御座りませぬ、あの時は大老の御屋敷に呼ばれただけで緊張致し周囲に目を向けるなどとてもとても…そうでしたか、貴殿が井伊掃部守様の弟君であられましたか…」


「やっと思い出して頂けたようで、あの日兄より貴殿は古今東西類を見ない天賦の才を持つ御仁であると聞き、一目見ようと同席をせがんだのでござる、いずれは幕政にも大きく関与する御仁であろうともうしており…いや兄の言う通りで御座ったわ、しかしここで会えるとは嬉しい限りに御座る、これを機に兄同様の懇意 宜しくお願い申し上げる」


「いえこちらこそ俄成り上がりの者、今後とも御教示に預かること繁多なれど何卒よしなにお引き回しのほど宜しゅうお願い申し上げまする」


「して貴殿の事、溜まりで聞き及ぶには銃火薬工廠を興してもう四年が経過するとか…さぞや新式の銃・砲など工夫されたので御座ろうのぅ」


「はっ、これまでに数種の自動小銃・腔旋砲及び新式の無煙火薬などを製造して参りましたが…詳しいことは老中より口外不可と戒められております故ご勘弁下さりませ」


「ほうぅ腔旋砲とな…それは元込式かのぅ…」


「左様ですが…これ以上は…」


「悪かった、何 貴殿を困らすつもりは無かったゆえこれ以上は聞きもうさんが、少々貴殿に聞いていただきたき話が御座ってな、儂の藩の醜態のこと…貴殿は御聞き及びかもしれんが、天保の大飢饉のおり藩を挙げて農民救済に尽力致しておったが、天保七年に加茂地方で一揆が発生してな…飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求め一万人以上の農民が暴発し大騒動に発展しもうしたのじゃ。


我が挙母藩では先代から軍事力の強化に努めており、儂は鉄砲隊を組織し矢作川の堤防で農民一揆衆を撃退し鎮圧したのじゃが、この一揆は天保八年の大塩平八郎の乱にも影響を与え、「鴨の騒立」と別名されるほどの大事に至ったことは貴殿も御存知であろう。


この一揆の後、儂は西洋式の砲術を積極的に導入し軍の近代化に努め、他方 藩財政再建のため倹約や家禄削減を行ない、藩の教育として蘭学を奨励したのじゃが…いかんせん洋学、特に砲術・兵学等に明るい者が我が藩にはおらぬのよ、どうじゃろう我が藩に才知に富む若者が数名おるが…その者達を貴殿の幕府技術大学か幕府銃火薬工廠の何れかに入所斡旋しては頂けぬであろうかのぅ」


「んん…これらの施設は幕府官立につき…他藩の御方は難しいかと、ただ挙母藩は譜代につき可能性はあるやもしれませぬが…近々老中会議に呼ばれておりますのでその席で審議にお掛けもうすゆえ暫くの猶予を下さりませ」


「ほぅ…奏者番に就いて早々に老中会議に呼ばれるとは、いやはや席が温まらぬ内に若年寄へ昇進ですかぁ、いやぁこの席間のぼんくら大名とは端っから出来が違いますなぁ、実に羨ましい、それでは先ほどの件 伯耆守殿何卒よしなに御願い上げ申し上げまする」と再度正則の手を強く握り足を引きずりながら溜まりへと戻って行った。


(イヤミかよ…)そう思うもかように懇願されると否やと言えぬ腰の弱さ、情けないと嘆息する正則である、この各藩の藩主溜まりという奏者番席、譜代外様に限らず いま流行のように洋学・新式砲術を取り込む藩が急増している…もし挙母藩にそれを許さば入所希望藩は雪崩の如く後が絶えぬであろうと感じた。


さてさてどうしたものやら…今 幕府技術大学校には百三十名の学生が学んでいる、いずれも幕府文官と番方の子弟らであるが、正則が見て優れると思う者は十指にも及ばない、出来れば入学試験制度を取り入れ譜代外様また平民を問わず優秀な学生を取りたいが正則の本音、そうでなければ正則の構想である陸・海軍組織また工廠の拡充は画餅に喫するは必定とみている…さて、どう老中らを切り崩すか…。



 今日は朝早くから銃火薬工廠に来ていた、工作棟では二寸七分榴弾砲の仕上げと組立・調整が急ピッチに進められていた。

組立現場では砲身以外のフレーム・迎角微調台座・駐退機・ドーリー部などは組み上がり、現在 駐退機の両サイドに組付けられるオイルダンパーを組んでいる最中であった。


「敬三郎、ダンパーのオリフィス弁はこれか…この位置だと調整し辛くないかのぅ」

「はっ、オリフィス調整は初弾後数弾で決まり申す、それ以降調節する事は滅多に無き故わざと調整しづらい位置に配置したので御座るが…まずかったでしょうか」


「ほぅ、フールプルーフ的考察か、貴公も考えるようになったのぅ、してオイルは間に合うであろうのぅ」


「はっ、技術大学の小池教授の科学部・油脂学科の方で研究開発しておりました鉱物性オイルで粘度もオイルダンパに適したものが抽出できたよし、明日にも樽で届きもうす」


「そうか、先日のグリースと言い塗料と言い…あやつには苦労かけるなぁ、しかし間に合い助かったぞ」


正則は次に砲身製造部に回った。

木製架台には二本の砲身が並べられ、その内の一本に作業員が取り付いていた、初め五本全てを同時生産する予定であったが…上様上覧には間に合わぬとて三本のみに傾注するよう命じたのである。


「敬三郎、砲の一本は左太夫殿の所に行ったのか」


「五日前、仕上がりました一本を砲弾合わせと強度試験のため御渡ししました」


「そうか…そろそろ試験ベンチで開始している頃合いよな…後で見に行くか敬三郎」


砲の諸元は口径二寸七分・砲長十尺・砲身内の腔綫ライフリング三十二条・ライフリング転度はジョージ・グリーンヒルの計算式により0.96砲長回転とした。

また砲元から砲先に至るバックテーパーは九尺間で1/480とし、砲先部一尺間はストレートとした、これにより腔綫による弾体回転慣性抵抗とバックテーパーによる弾体外殻の塑性変形抵抗が火薬燃焼時の弾の低圧抜けを抑え、高被圧発射が可能となる。


砲後部は鎖閂式とし遊底スライドは油圧シリンダを採用、遊底前進で砲弾をマガジンから抜出し薬室内に装填すると同時に肉厚ロッキングカムが強固に掛かる仕掛け、発射後 油圧シリンダで遊底後退動作を行うとロッキングカムがアンロックされ排莢も自動的に行なわれる方式で、この一連の動作と撃針のハンマリングを一つのメカニカルバルブで作動出来る正則の新案砲である。


「敬三郎、ボルトアクション部は頑丈そうに出来たのぅ、作動は確認したのかの」正則は四三酸化鉄被膜処理が施された鎖閂機構部を満足げに見た。


「はっ、油圧ベーンポンプ用のcSt32作動油が明日ダンパーオイルと共に届きますのですぐにも作動試験を行いもうす、ただ…油圧ポンプのベーンが真鍮製で回転イナーシャが高く、他のポンプ同様 ベーン寿命が短いことが気になっておりまするが」


「そうよのぅ、やはりベーンは今後の用途を考えると自己潤滑性樹脂材を早期に開発せんといかんのぅ、小池教授に督促してみるか…」


「油圧ユニットは三馬力の直流全閉外扇電動機に鉛蓄電池、タンク容量は三斗、ポンプ吐出圧は四Mpaに設定しております」と敬三郎は油圧ユニットを指さし聞かれもしないことを得意げに答えた。


「わかった、して今は何の仕上げをしておるのじゃ」


「腔綫エッジのバリ取りで御座る、ここを滑らかに仕上げぬと弾カスが付着しますよって」


「そうか…教えもしないこと、よう気がついた しかし丸め過ぎはいかんぞ、腔綫の意味がのうなるでな」


正則は組立完成は明後日と読んだ、それ以降試射に二日かけられる…弾速・弾道・有効射程が分かるのももうすぐのこと、正則は満足げに頷き薬莢雷管成形棟へ脚を向けた。



 薬莢雷管成形棟の入口に入ると火薬独特の鼻をツーンと刺激する臭いに包まれた。

工廠建屋北側壁沿いに口径二分小銃弾の薬莢製造ラインが見える、銅板打抜きプレス・電磁式パーツフィーダー・多段深絞りプレスが休むことなく騒音を奏でていた。


工廠長、と後ろから声を掛けられた、左太夫である。


「左太夫殿、薬莢ラインは順調に稼働しておりますのぅ、毎刻幾らぐらいの生産速度ですかな」と正則はライン最終機である薬莢底部成型プレスから払い出される薬莢を手に取り光に透かしながら左太夫に聞いた。


「はっ、毎刻二千四百個の生産速度になり申す」


「それは素晴らしい、計画通りの生産性でよう御座るな」


「いえいえ…それが正則様、実装がその速度にはとても付いてはいけませぬ、火薬・雷管・弾との嵌合カシメはハンドプレス作業に依存するゆえ、現状は薬莢プレスラインを一日稼働させ三日休ませて丁度ですわ、早期に自動化を考えませぬと…」


「そうですなぁ、平時はそれでも生産過剰で御座ろうが…いざ戦ともなれば手作りではとても足りませぬな…わかり申した、早々に自動化の方向で検討しましょう。

それと砲の試験の方は進んでおりますかな」


「四日前 車輪付き試験ベンチに搭載し、模擬弾で発射試験を施行致しもうした、一日十発ほど火薬量を少しずつ増やし二十発目で正式弾の二割増しの発射を完了、砲身・薬室にヒビ亀裂所見無し、遊底ロッキングカムにも同様の検査を致せしところ異常なしで御座った。

また昨日は粘土層に三発撃ち込み、弾を回収して腔綫条痕検査を行いもうしたが…なにせ砲の威力が強すぎて、模擬弾の形状変形著しく読み難うござったが、弾側部の条痕は鮮明に見えており痕のエッジも崩れ少なく腔綫喰付きは上々、また砲内の弾カスは若干残るも累積無きゆえ上々の首尾と存ずる、後は実弾発射試験を残すばかりでござります」


「ほう、全備重量を軽減するため砲身肉厚を若干薄くしたよって薬室炸裂を心配しとったが…焼嵌め多層筒はやはり丈夫いのぅ、では何故今日にも実弾試験を行わないのか」


「はっ、弾頭信管に今一自信が持てませぬ…遠心力式の安全装置のバネでござるが、初速衝撃力により砲内でもし解除され且つ撃針ブロックが初速慣性力で点火薬に触れでもしたら砲身内爆発は必死…それが心配で…」


それまで横で静かに控えていた敬三郎が「左太夫様、心配いりもうさん 設計計算は充分なる安全係数を以てバネ常数を設定し、バネの熱処理も選りすぐったものを左太夫様にお渡し致しておりもうすから、どうぞ御安心下さりませ」と少々意気込んで左太夫に訴えた。


「そんなことぐらい分かっておるわ!、儂が恐れるは古今東西類のない新火薬、お主も見たであろう、一滴の落下であのような爆発…いくら安定処理したと言えど恐るべき加速度で吹っ飛ばすのだぞ、砲身内爆発しない保証など有るものか…トリガーを引く身になって考えろ」


「左太夫様にトリガーが引けぬならば…それがしに引かせて下され」


「何を言うか若造が…言わしておけば生意気な」


正則は苦笑いしながら二人の間に割って入った「左太夫殿が危惧されるはもっともじゃ、新型点火薬の初速慣性による圧密温度が如何ほど上昇するか机上のプレス圧実験だけでは不安が残るというものよ、実際撃ってみんとのぅ、左太夫殿 今からやろうではないか なぁに防護壁があるゆえ死にはしないよ、私も見るゆえ安心いたせ」


「正則様…儂は死ぬのが怖くて言っているのでは御座りませぬぞ……

しかし…まぁ…正則様に見ていただけるとあれば 何の恐れることも御座らんよって…、


すぐにも準備致しますので暫しここでお待ち下され」左太夫は言うと走り去った。


正則はこれほど早く実弾試射が見られるとは思ってもいなかった、ゆえに今日は無理を押して工廠に来たことが報われた感じに思わず笑みがこぼれた、しかし老中会議は上様上覧の二日後、軍政改革の資料造りがまだ相当残っており、当分は徹夜を覚悟せねばならないと…また暗くなる正則であった。


雷管プレス機から排出される小さな銅キャップを、掌で受け見ていると左太夫が準備整いもうしたと呼びに来た、正則と敬三郎は左太夫の先導で工廠裏に設えた試射場へと向かう。



 試射場は広大な空き地にコの字型に防壁煉瓦が厚く組まれ、その中に二十度傾斜のレールが設えられレール上には台車状ベンチが載せられていた、砲はそのベンチに固定されており、前進側の輪留めに定置されていた。

的は八町ほど遠方の湿地帯に土嚢が高く築かれ、土嚢頂上には赤い旗がひらめいていた。


正則は発射反動の実際が知りたかった、計算では砲単体+鎖閂で約百二十八貫、弾頭重量は一貫六百匁、砲弾の発射速度は火薬ガス圧の算定から十一町/秒と計算されていた。


この数値から砲の反動後退速度は三十七尺/秒、この反動を一尺七寸ストロークの駐退機緩和後退で相殺するには二百七十六貫の抵抗荷重が必要となる、この緩和後退は二本並列に配した油圧ダンパーが受け持つのである。


この油圧ダンパーオリフィスの調整は二百~三百貫の調整代としたが…オイル粘度・油温・オリフィスのレイノルズ係数によって左右されるが、砲の反動荷重はこの調整代以下或いは以上の可能性も否定は出来ない、それは試験タンク内で一定量の火薬を燃やし発生するガス量から発射圧を算定したに過ぎないからだ、実際は燃焼速度がキーになってくる。


こうなると実際に砲弾を発射させ、その反動荷重を測定するのが一番である、加速度計が有れば簡単であるが…無いものは致し方なし、砲の反動推力で台車ごと二十度の坂を上らせ、その登り量を実測後 砲と台車の重量を計量し代入すれば反動荷重と砲弾の初速は簡単に計算することができる。


正則は台車の登り量を実測するからレールにカーソルを挟むことを左太夫に指示し、砲に対し一町ほど正面斜め横に設えた塹壕まで敬三郎と歩き身を伏せた。


左太夫は長さ二尺強・重さ三貫近い薬莢付き砲弾を薬室に送り込み、鎖閂機構は油圧シリンダが組み付けられていないため手押しでボルトをスライドしロッキングカムのキッカを掛けキッカが衝撃で外れないようシャコ万で止める。

そして撃針を引きラッチを掛けた、左太夫は額の汗を手の甲で拭きそこから伸びた紐を手に持ち砲廻りに異常は無いか点検する、最後にレールにカーソルを嵌め込み煉瓦防壁裏に回って身を隠した、そして正則の合図を待つ。


正則はこの試射を見守る工廠員の全員が身を隠したのを確認し、手を大きく振った。


左太夫がトリガー紐を引いた、一瞬で轟音が辺りに轟き台車ごと砲は後退する、発射音に少し遅れ着弾の大轟音が右耳を劈いた。

正則は砲の発射反動に気を取られ土嚢の方を見るのが一瞬遅れた、慌てて土嚢を見た時は土嚢の殆どが消失し夥しい飛散土が降り落ち煙りが風になびいていた。


この恐るべき榴弾の威力に正則は正直舌を巻いた、俵に土を詰め縦横高さ二間の土嚢の山が一瞬にして吹き飛び消失したのである、設計監修した者が予想外に驚くということは…工廠員は相当肝を冷やしたに相違有るまい。


正則は成功に意気揚々と塹壕を立上がるも、敬三郎は腰でも抜けたのか俯せたまま震えていた、それを尻目に走って砲の所に戻った。


「左太夫殿、成功で御座ったの!やはり案ずるより産むが易しじゃのぅ」


「………………」


「左太夫殿、どう致したのじゃ ほれ左太夫」


左太夫は自失呆然にまだ消えた土嚢の方を見ていた、そして正則に突っつかれようやく息を吸い込み言葉を発した。

「こ…これは何と言うことで御座ろう、あれほど頑強に組んだ土嚢の山が一瞬に消えもうした…これは夢で御座ろうか、何と恐ろしい」


防御壁に隠れていた工廠員も恐る恐る顔を出し、口々に感嘆の溜息を漏らしている。

この時代、高性能炸薬を詰めた砲弾爆発の威力を知らぬ時代、昨日までの破裂もしない模擬弾試射程度で驚いていた人々である、土嚢山消失の威力を目の当たりにすれば腰が抜けるほどの衝撃は当たり前であろうか。


正則はレールに嵌めてあるカーソルの移動量を巻き尺で測り、左太夫に後五発連続に撃ち込み 砲の安全性を確かめるとともにカーソルのばらつき量も併せて計測せよと命じ、まだポカーンとした顔で消えた土嚢を見詰める工廠員らの間をすり抜け工廠長室に向かった。



 砲弾を最も遠方に着弾させる砲の迎角は四十五度である、現在仕上中の榴弾砲の初速が十一町/秒であるならば投射体の式より砲弾の飛距離は一千百三十町(約三十一里)この距離は江戸から沼津までの途方もない距離である、しかしこれは空気抵抗が無い場合の理論値である、実際は航空機の抗力計算の如く砲弾には形状抗力(profile drag)・造波抗力(wave drag)などが加わる、特に砲弾の場合は造波抗力に重きを成す。


拳銃弾の如く亜音速以下であればレイノルズ数及びプロファイル抗力のみで良いが、榴弾砲の場合は超音速である。

このため遷音速以上になると弾頭部には猛烈な大気圧縮が起こり衝撃波が形成される、この衝撃波により後方気流の流速低下や運動量に著しい損失が生じてしまう、この抗力値は風洞実験で正確な値が得られるが、フルード数と造波抵抗係数によれば正確さは欠くが簡易におおよその値が計算可能である。



 二日後、正則は工廠の空き地に設えた試射場にいた。

目の前には先ほど工作棟より引き出されたばかりの二寸七分榴弾砲が二門据付られていた。

機関部を除き全体をカーキ色に塗装された榴弾野戦砲は朝日に映え、その威風堂々とした構えは、見守る工廠員の胸を熱くせずにはおかない。


砲弾五発が収納出来る速射用マガジンは外されていた、正確な着弾精度を計測するにはマガジンと五発分の弾の重量慣性が邪魔だからである。

打ち出される弾の初速は一昨日のカーソル計測と全備重量の反動計算から予想外の十三町三十六間(1483m)/秒と計算された、これにより有効射程距離は取り敢えず五里(19.65km)とし、試射着弾点も同様の五里となるよう弾道計算を行った。

結果 砲角は三度十分と計算され、水準器を基準に迎角三度十分に砲身は微動調節された。


房州袖ヶ浦と横浜村を結ぶ線がここ試射場よりおおよそ五里の距離である、砲の筒先は江戸湾 袖ヶ浦の一里沖合に向けられていた、昨日の夜より今日の正午までその付近の船の航行は幕府より差し止めの御触れを出していたのだ。

そして袖ヶ浦の浜に櫓を五里地点を基準に前後四半理毎に五基築き、そこへ測量士を配置し砲弾の着弾点を計測しようと試みた。


今日は晴天無風の試射日よりである、ここ深川端から遠く房州木更津辺りまでがくっきりと望めた、この無風…やはり午前にしたのが良かったと正則は海を眩しく見詰めた。


「左太夫殿、模擬弾を装填して下され」と正則の命で左太夫が実弾と同寸同重量に作られた模擬弾を装填し始める。

模擬弾を鎖閂機の間隙部に装填し、ハンドノブを『手動』に切り替え鎖閂機操作弁を『閉』に倒し弾を薬室に送りボルトは自動的にロックされた、トリガー紐を持ち防壁裏に隠れ正則の合図を待つ。

他の工廠員の安全を確認し正則も塹壕に伏せて合図を送った。


大轟音が辺りに轟き遅れて弾の飛翔音が聞こえた、正則は砲の跳ね上がりを観察していたのだ、その跳ね上がりは予想以上に大きく駐退機ダンパーの絞りが強いと読んだ。

正則はすぐに立ち上がり、敬三郎にオリフィスバルブを一回転半緩めるように指示し、左太夫に次弾の装填を合図する。


続いての合図で次弾が発射される、今度の跳ね上がりは先ほどの1/4程度に収まった、正則はもう1/4回転バルブを緩めるよう指示し、これでも跳ね上がる場合は駐退機の後退ストロークを増長する改造か、薬莢内の火薬量を減らす のいずれかが必要になってくる、正則は三弾目に賭けた。


合図で轟音が唸り砲身は先より速度を若干増して後退する、砲身の跳ね上がりは若干有るも良好の範囲であった、正則は満足そうに塹壕より立ち上がった、そして敬三郎にもう一台の砲の駐退機ダンパーもオリフィスバルブを先と同目盛りに合わせよと指示し、左太夫に模擬弾の装填と発射を命じた。


もう一台の砲も同様の跳ね上がり量に満足した正則はいよいよ曳光弾の発射に取りかかる、時刻は朝四ツ…測量班の準備は整っているはず、また先ほどの四発の轟音もこの無風状況ならば袖ヶ浦にも微かに届いているはず…(よし、やるか)


正則はもう塹壕に隠れなくてもよいかと思ったが…何が起こるかは分からない、もし事故でも起きればそれこそ鳥居の思惑に嵌まってしまう、正則は皆に隠れるよう指示し自分も塹壕に身を伏せた。


合図と共に大轟音が辺りに轟く…飛翔音と共に赤く光る太い線を引きながら低空を恐るべき速度で弧を描きながら視界から消えた、弾道はブレも無く真っ直ぐに飛翔し消えたのだ…正則は塹壕で思わず笑みが零れた、正直大笑いしたい感覚でもある、それは国産初のジェット練習機の初飛行を試験した時と同様…いやそれ以上の感激といってもよかった。


以降四発の曳光弾を数分おきに撃ち、続けてもう一門の砲には二十分の迎角をプラスし三度三十分の砲身迎角に設定した、これは前試射砲の着弾点に対しプラス迎角分だけ着弾点が正確に変位するかを見極める為だ。

前試射砲と同様に五発撃って試射を終えた、正則は工廠長室に戻り袖ヶ浦からの計測結果を待った。


「正則様、先ほどの試射を見せてもろうたが…いやはや凄い砲ですなぁ、あのようなものが十数門も御座れば幕府に歯向かおうなどと思う藩は絶無でござりましょう。

正則様の元の時代ではあのような恐ろしげな砲で戦っておったのですか」


「いえいえ庄左右衛門殿、あれなどは『おもちゃ』程度のものですよ、元の世界でそれがしが生まれる数年前に戦艦大和という巨砲戦艦が御座いましてな…それに装備された主砲の口径はなんと十六寸、弾頭の重量は三百九十貫、有効射程は十里を超える巨砲での、そうですなぁ浦賀沖に浮かぶ黒船などはここ深川端から一発で蒸発させるほどの威力と申したらお分かりでしょうか」


「ほう…三百九十貫の弾とな、米俵二十四俵分の重さではないか…そんなものを十里も飛ばすとは恐ろしい事よのぅ…いや桑原桑原 儂はそんな時代に生まれんかって良かったわい」


「庄左右衛門殿、それがしの計画ではあれと同じ砲をあと五十門ほど作りましたら…すぐにでも四寸砲を五十門造る計画を立てて御座る、砲弾はおよそ八貫となり有効射程は八里を予定しておりもうすが」


「はいはい、また金の係ることで…儂がそれまで生きておりゃええがのぅ…」


試射から二刻後 早馬で袖ヶ浦から測量表が届いた、表は深川端より五里地点の海岸に設えた櫓五基から、角度バーニア付きの望遠方位器で着弾方位角を記録した表である。

正則は製図板に向かい、二尺長さの水平線を引き分度器を置いて表の角度に従って角度線を入れ、線の交点に黒丸を描き込んでいった。


その交点に、先の方位角を関数電卓で計算し、XYの座標値も記入していった。

「正則殿…十点の交点はほぼ一直線ですな、交点の集合は二群…群の散らばりはおよそ五町ぐらいですかな」と庄左右衛門が製図板を見ながら算盤を弾いていた。


「一群二群の中心間距離は約十六町、一群五発の分散長さは四町半、二群は五町ですな…五発の横ブレは一群十六間 二群が二十間か…これなら充分使い物になる」


理想を言えば五発の着弾点バラツキが2町以内であれば正則は小躍りしたであろう、しかしこの時代 火薬原料である硝酸・硫酸の精製は困難を極め、不純物・濃度ともに納得できるものとは言えなかった、よって着弾点が五町(545m)のバラツキであれば充分満足と思わねばならなかったのだ。


正則は再び電卓を取った。

着弾バラツキは弾道方向に最大五町、横方向は最大二十間…。

これを三次元で考えると、着弾の進入角度は約三度 着弾長さは五町、着弾横幅は二十間、では縦方向は 5町×tan3°=十五間四尺となる。


この立方体を砲側より見ると…横二十間(36.4m) 高さ十五間四尺(28.6m)の枠を海上に立て、弾を五発撃ち込むとこの枠内に全て命中するということである。

砲より5里(19.65km)も離れた位置でこの命中精度であれば『五里』を有効射程としてもよいな…。


では砲の位置より一里離れた所での命中精度は。

横二十間(36.4m)÷五=四間(7.3m) 高さ十五間四尺(28.6m)÷五=三間一尺(5.7m)

横四間 高さ三間一尺 の枠内に命中するということか…。


この精度であれば一里の沖合に浮かぶ千石船サイズなら一発目の砲弾から確実に命中できるというもの。

よし、上様上覧の折りには千石船を的にして、たった一発で破壊する威力を御見せしよう。


「庄左右衛門殿、例の奥州屋さんから寄贈された千石廃棄船ですが…帆などは付いておりましたかな」


「いえ、帆はまだ使えるとかで外されておりますが…」


「そうですか…付いてはおらぬのか…

庄左右衛門殿、一里沖合に千石船を浮かべるとなると、帆無しでここから見えもうそうかのぅ」


「はて…儂は目が悪いで一里先と言うたら全く見えもうさぬ、若い方なら見えもうそうがのぅ」


上様の目は…どうであろうか、やはり望遠鏡を用意したほうが間違いあるまいな…。


正則は製図台より立ち上がり、夕日に誘われるように窓辺に寄った。

品川辺りが夕日に赤く染まって見えた。


いよいよ明後日に迫ったな…上様上覧は必ず成功させねば……正則は拳を強く握った。

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