十.謀反への誘い
その昔、御先手鉄炮頭(武官)には非番がなかった。だが田沼政権下の安永三年、田沼意次の重商主義政策を支えた若年寄・水野忠友が起草した先手法度改の採用に依り鉄炮頭にも八日に一度 交代制だが非番が与えられるようになってきた。
正則にとって今日はその非番にあたる。しかし非番とはいえ安穏に休んではいられない、正則の如く新参者には武官業務が集中し、書類書きなど事務方処理はこうした非番に纏めて行っていた。
今朝も早朝より書斎にこもり 溜まった書類作成に専念していた。
昼九ツが過ぎたころ空腹に気づき、眉間辺りを揉みながら筆を置くと初めて障子の明るさに気付く。
(腹が減ったな、そろそろ昼時だろうか…)正則は足の甲を暫し揉み、ゆるり立ち上がった。未だ書き物や討論に夢中になると足の痺れを忘れ、歩き出して無様に躓くこともあり、最近はこうして足の甲を揉み 痺れを確かめてから立つようにしていた。
足を引きずるように歩き庭に面した障子の桟に掴まった、そして痺れが治まるのを待ち障子を大きく開け放った。
やはり庭は眩しいほどの銀世界だ。
(こんな景色が我が庭で見られるとは、元世の戸建ての庭では想像もつかぬ風景よ、それに都会でこれほどの積雪を見ることもまずないしな…)
そのとき、野沢の湯宿から見た雪景色に似ていると思った。
(もう40年も昔になるのか、あれは結婚後初めて行ったスキー旅行だったな…)
妻の顔が一瞬脳裏をかすめその陰を追うように胸が湿っていく、この江戸に落ちて既に九ヶ月が過ぎようとしている。
最近は仕事に追われ妻の顔を思い出すことは希で、こうして何かの切っ掛けで妻を思い出しても…その顔はすぐさま志津江の顔にすり替わってしまう。
それは妻への後ろめたさからか、それとも元世にはもう戻れないとのあきらめからか…。
(あの退職の日 俺は巨大地震による地下鉄事故で死んだのだ)と最近ではそう思うようにしてた。
それゆえ今見る目の前の事象全ては「死後の世界」、元世と死後…どちらが実存か、などと難しいことは考えず一度死んだ身であればその死後とやらを思いきり楽しんでみよう、その楽しみの度が過ぎ それが元で再び死のうとも、またこの世界と同様の「不確かな世界」によみがえる…そんな気がしていたのだ。
(この心境の変化は…やはりあの会合の時からだろうか)
あの会合とは…工夫銃に釣られ伊三郎を供に井上左太夫の屋敷に招かれた際、庄左右衞門らに陰謀を明かされ、それに荷担するを余儀なくされたあの会合である。
御先手鉄炮組頭になって初めて出仕した夕刻のあの会合…。
「正則殿、本日は貴公を工夫銃で釣った結果となりもうしわけ御座らぬ、先に本題を言えば其方は逡巡すると思い、仕方なく方便を使ってしもうた。
でっ呼んだのは唐突な話じゃが、いま我らで進めておる兵器工廠建設と幕府軍政改革について貴公の意見を聞きたく呼んだのじゃが、どうであろう忌憚無い貴公の意見を聞かせてはもらえぬか」と庄左右衞門は前後脈絡のない唐突な語りで切り出してきた…。
「この兵器工廠建設と軍政改革は、若年寄・堀田摂津守様を盟主に我ら先手・弓/鉄砲頭/鉄砲役が二年前より構想を進め、兵器工廠建設は内外情勢の憂いから先頃家慶様が将軍職に就かれたのを機に仮承認が得られたのよ。
じゃが軍政改革については未だ仲間内でも骨子さえまとまらず御老中に上書さえ出来ぬ始末、それゆえ正則殿の新たな見識で軍政改革について話を聞きたいとの想いで今日はお越し願ったのじゃが…」
庄左右衞門はさらり云い除けると「さぁ何か言え」とばかりに正則を見つめた。
正則は庄左右衞門に見つめられ(ええっ)とたじろいだ。
それは城からの帰着の際、そして先ほどまで脳内を占領していた「幕府転覆の構想」を見抜かれたとの想いからであるが。
(俺の顔に「謀反」という文字でも書いてあるのか…)そう思えるほど驚いてしまった。
正則は軍需工廠建設から近代軍政の立上げ、そしてクーデターに至る筋道を模索し、その可能性を御先手組面々らをどう洗脳するかで決まる…とまで考え進んでいたところであった、しかしそれらは妄想に過ぎず、脳内ゲームの域は出ていない。
しかし彼らは既に正則が構想を始めた兵器工廠建設や幕府軍政改革に着手していたのだ、この符号の一致にはさすがにたじろいだ…。
正則は庄左右衞門の眼差しに気圧されるように視線を外した。
(しかし唐突に何を言い出すやら、そんな怖ろしい話をシレっとした顔で言ってのけるとは、上様や御老中が口にするならいざしらず、武官風情が兵器工廠建設を背景に軍制改革を口にするなど…此奴ら既に軍事クーデタ-を目論んでいたのか…)
と刹那に推理を巡らすも何か応えねばと正則は焦る、だが正則とて伊達に歳はくってはいない、こんなときは反射的にフェイント文言が口を突いて飛び出していた。
「技術事ならいざ知らず畑違いの御政道改革などは…私はこの時代に落ちてまだ半年、幕府の内情や幕閣の方々の考えなど全くといって承知してはおりませぬ、ましてや幕府軍政改革などとてもとても、それと庄左右衞門様らの行動は捉え方によっては御謀反ととられかねませんが…」
「そうよ、これは謀反よ!正則殿 謀反の何処が悪い、言うてみなされ」
と しれっとした貌で言い除ける庄左右衞門。
「そ…それは、幕府から御扶持を戴いている限り、脇目も振らず番方諸役に邁進するが武官の心得」と言いつつも 心にもない事をと我ながら呆れた。
「扶持じゃと…正則殿おぬしいつの時代の者よ、慶長の昔ならいざ知らず、天保の今にあって扶持米を戴いているからと幕府の無策に目を瞑り、指をくわえ幕府が瓦解するを待つのかよ、貴公とて未来から来た者ならこの時代の顛末など心得ておろう、さぁ言うてみなされ!この徳川幕府があと何年持ったか」
「…は、ぁ……」
さすがに切れる、正則は庄左右衞門の洞察に裏打ちされた応酬は「いつまで何も分からぬ体を装うつもりだ、いい加減に正体を現せ」と言っているようにも聞こえた。
それでも正則は実直を装い、言葉を選んで二の句を継いだ。
「庄左右衞門様、それがし鉄炮頭に就任したばかり、武官の規範も心得ぬ新参者に軍政改革について意見が聞きたいともうされるは土台無理がありましょう…」
「フッ…やはりそうきたか、その返答はまるでこの時代の凡庸者が鉄砲頭に就任したような答弁よのぅ、正則殿そうやっていつまで猫被りしておるつもりじゃ、ここにおるは おぬしの身の上を知る三人ぞ、いいかげん猫被りはやめなされ」
(養子縁組の頃より庄左右衞門らが目の色変えて何やら画策し奔走していることには気付いていたが…この事だったのか、此奴らとうとう正体を現したな。
この時代にも慣れ ようやく落ち着き先を得たというに、危険な企みに引き込まれてしまうのかよ、まっ タダで衣食住は得られんということか、仕方ない彼らの話を聞いてみるか…)
「フッ 庄左右衞門様、やはりタダで旗本領は頂けないようですね、仕方有りません、その問題とやらを聞きましょう」と、くだけた口調で応え、正座をあぐらに組み直した。
「正則殿、タダとは不遜な…武士たる者そういう下世話な言葉はつかわぬものよ、しかしタダとはのぅクククッこやつ開き直りおって」
二人のやり取りを傍で聞いていた幸右衛門が苛立ったように…。
「御二方とも何が面白いのか、庄左右衞門様!軍政改革なんぞ政変強行の小手調べに過ぎず、手っ取り早く幕府転覆の手立てと正則様に言って下され」と話の先を促した。
「幸右衛門よ、そう先を急ぐでない正則殿が驚くであろうが」
言うと目の前に置かれた湯飲みを両の手で持ち、掌で緩やかに回しながら…。
「頭脳明晰なる正則殿のこと、以前より儂等の企てを薄々感じておったとおもうが、もういいかげん話さねばならぬのぅ、先ほど申した兵器工廠建設や軍政改革は政変につなげる前段取りに過ぎず、真の狙いは現状の幕藩体制を終焉させ新たに武官らを糾合し新政府を起こし、これより押し寄せる西洋列強から国を護り民を安じることよ。
話はちと長うなるが現状の幕府に見切りを付け、政変に思いが至った発端となる話をしよう、まずは聞いていただき後々意見を伺いますかな」と、庄左右衛門は昔を耽るような顔つきで語り始めた。
正則殿、貴殿は歴史好きと言っておられたゆえ「島原の乱」は御存知であろう。
あれは大阪夏の陣から二十二年が経った寛永十四年十月ことであるが…。
反乱側の籠城者はおよそ二万七千、その中で戦闘員は一万四千という、一方攻撃側じゃが幕府が九州諸藩に兵を強要し動員した兵力は十二万五千余、軍夫まで含めれば最大二十数万にもなろうか…。
幕府揺籃期を過ぎ安定期に向かおうとした矢先にこの乱は起こったのじゃが、籠城側は藩の蔵から奪った鉄炮弾薬や食料を運び込んでおってな、この鉄炮の威力で幕府側の数回にわたる攻撃を跳ね返したそうじゃ。
しかし籠城の悲しさ、予想外であったのはオランダ軍による海からの艦砲射撃よ、それと幕府の兵糧攻めじゃ、それらには抗しきれず四ヶ月ほども持ちこたえたが…食料が尽きたところで幕軍の総攻撃に遭い天草四郎は討ち取られ一揆反乱軍は皆殺しにされ乱は鎮圧されたのじゃよ。
鎮圧後、籠城した死者の胃の腑を切開したところ、哀れにも胃の腑にはほんの僅かな海藻しか入っていなかったという。
もしこの一揆勢がもっと早くから籠城の準備を整え潤沢なる食料を持ち込んでおったらどうであったろう、戦闘は長引き やもすれば九州一円の外様大名らに幕府対抗の蜂起が促せたかもしれぬのぅ。
まっ、もしもの話をしても詮無きこと、それより銃の恐ろしさよ、その威力は弱者であっても百戦錬磨の武士集団に充分対抗できることをこの乱により証明された事じゃ。
幕府側の銃創による戦死者は二千とも伝えられ、それは屍の上に屍が重なる阿鼻叫喚の地獄絵であったという。
また籠城は幕府に遺恨を抱くキリシタンの百姓と伝えられてはいるが…それは真実ではのぉて過酷な収奪政策が百姓より生きる希望を奪い、その絶望感から自暴自棄となって暴発したと言うべきじゃろう、鉄炮はそれを補強したに過ぎぬ。
籠城する相手ほど攻めにくいものはない、籠城側の三倍以上の兵力を必要とするのじゃが この乱はその比ではない、鉄砲の威力が如何に凄まじいかを如実に顕していよう。
島原の乱で何ら兵法・戦術の習得もない烏合の農民らが「鉄炮」という利器を携え城に立てこもった、これは「もの狂いに刃物」と同じで手が付けられぬ、その結果十二万五千余の兵力をつぎ込み二千もの戦死犠牲者をだしてようやく鎮圧を為しえたが…幕府はこの乱が余程堪えたのか以降 庶民だけでなく武士からも鉄炮の切り離しを徹底断行することになるのじゃよ。
それと同じくして太刀さえも二尺三寸五分以上の帯刀を禁じることで太刀を単なる武士の飾り物にしてしもうた、さらに林羅山なる御用学者らが「飛び道具は卑怯なり」の文言を創案、鉄炮は足軽の技であり卑しくも武士が手にするものではないと喧伝「刀は武士の魂」と吹きまくったのじゃ。
天文十二年、種子島に火縄銃が伝えられて以来、銃砲一切の改良改善を禁じ二百余年を経過した国なんぞこの日の本のみであろうて、また各藩間の闘争を禁じたことで武官は減少し代わりに文官ばかりが増えおった、武士から闘争心さえも削いだと言えようのぅ。
それと幕府の強権を維持するに その障害となろうは庶民らの銃器による武装と諸藩の武装蜂起じゃろうて、”入り鉄砲に出女”すなわち江戸に鉄炮が入ることを極度に恐れ、人質である各藩主の妻女らが江戸から脱出することに幕府は神経をとがらせたておったのじゃが…。
さてどうでろう、みごとなまでに幕府のこれら目論見は成功し幕藩体制は揺るぎないものになっていった…じゃが早や二百有余年、幕府の政策にこれといった改善も見られぬまま旧態依然に未だ農民や諸藩より収奪を続けておる、また在野から新鮮・有能な士を登用することを怖れ同じ血を何代にもわたって継承した結果、見てみい幕府が抱える多くの武士らは腐ってしもうた、もう限界…ほんに限界じゃて。
天保の大飢饉に端を発する昨年八月の天保騒動、今年二月の大塩平八郎の乱、また六月の生田万の乱と立て続けに幕府に刃向かう輩が出てきよったは幕府の威光が地に堕ち地方末端の行政が腐り、特権階級の専横・収奪の横行を許した反動よ。
威光が地に堕ちるとは幕府恐るるに足らずの風潮を生み、延いては外様大名に幕府転覆の蜂起を呼び覚ます結果ともなりかねんのじゃ。
それなのに幕府の現状はどうであろう、儂が恐れるのは先ほど言った幕府初期の目論見が完全に仇になったということよ、今の幕府は過去の栄光と権威のみに浸り権威を裏打ちする“武”の手段を己らの手で削いだことを完全に忘れておるのじゃ。
庶民や外様雄藩を未だ“幕府”という威光のみで抑えられると思っておる、それに比べ西洋列強は二百年前と異なり自国内の繁栄のみに飽き足らず他国の富や民を収奪しておると聞く、英吉利、和蘭、葡萄牙、西班牙、いずれも日の本より小国と言うに近代兵器や大型帆船という文明の利器を以てこの亜細亜に自国の数倍の植民地を収奪しておるではないか。
また遠国の外様大名などがいつこれら紅夷の覇権主義と結び この幕府に刃を向けるやもしれず、もし今…外様雄藩が連合蜂起、あるいは紅夷らが清国侵略後この日の本へ転戦に及んだなら、“武”の手段を全て削ぎ落とした裸同然の幕府にあっては三ヶ月と待たず瓦解するは当然の理、これによりどれほどの民が戦禍に巻き込まれ横死しようか。
だからじゃ、だから今すぐ幕府の政策を根底より改め、まずは西洋列強に対抗できる兵器を工夫増産し、それらを機能的に運用出来る兵制の改革や軍隊の創出、それらを統合し富国強兵に根ざした軍政をこの日の本に創出せねばならんのよ。
それなのに幕府鉄砲倉に眠りし兵器ときたら…骨董銃に骨董砲。
因みに戦国末期の我が国の銃保有量は五十万丁とも言われたが…諸国鉄砲改めの結果、今やその一割にも満たず 幕府に於いては全部かき集めても数千丁余であろう、それも年代物ばかりで実戦には殆ど耐用できぬ代物よ。
隠密らの調査で西国雄藩が銃火器、それも新式のものを密かに集めておるぐらいは分かっておる、しかし分かっていても今の幕府の弱腰では如何ともしがたい、今はまだほんの僅かな量じゃが、しかしこれを見過ごせば蟻の一穴の例え、幕府とていずれ手がつけられなくなるは必定、それゆえ幕府首脳らは日夜その対策を論議しておると言うが、論議ばかりでちっとも前に進んではおらぬわ!。
今年初めの情報じゃが、昨年より清国政府内で阿片禁止論が叫ばれ始め、今や英国とは一触即発の状態にあると聞いた、これがもし戦ともなれば近隣たるこの日の本にも災いが及ぶは必定。
なにせこの東洋で未だ紅夷の手垢に染まっておらぬは我が日の本と朝鮮くらいなもの、朝鮮なんぞは清の隷国ゆえ英国が次に狙うはこの日の本しかないであろう。
しかるに幕府は隠居された大御所・家斉様の西丸派と、新将軍・家慶様派閥の水野越前守様との反目は依然続き情けなくも内輪もめに汲々としておるし、天保の改革は一向に進まず、また海防も江戸湾防備の備場新設用地の調査・測量は終えたものの未だ工事に着手さえしておらぬ、こんな内情でもし英国や米国が艦隊を連ね江戸湾に押し寄せたなら、何の対抗の手も打てぬまま市中は瞬く間に火の海と化すだろう。
だからじゃ、汲々として諸改革を一向に進めようとしない幕府首脳などアテにせず、我ら武官の手で まずは急務とする改革、つまり番方の構造改革と新式兵器量産に着手せねばなんらんのよ。
じゃが…わしらこの二年のあいだ多くの武官文官を相手に説いて廻ったが、賛同が得られたのは先手・弓/鉄砲頭/鉄砲役の旗本衆の武官のみ、ましてや幕府閣僚にあっては相談さえ出来ぬ始末、ならばこんな幕府などぶっ潰し、我らの手で…」
庄左右衞門はここまで語ると「フーッ」と息を吐き、正則に視線を合わせると冷めた茶を一気に飲み干した。
するとそれが合図のように幸右衛門や左太夫も正則に視線を合わせてきた。
(えっ…なに、何でこっちを見るの)
正則にしてみれば本題はまだ先にあろうと少々 上の空で聞いていた、しかし彼らはこの序説程度でもう意見が聞きたいようだ。
「正則殿、ここまでの儂の話、幕府が如何に末期的症状を呈しているかは分かってもらえたと思うのじゃが…正則殿はどう感じたか、まずは感想などお聞きしたいのじゃが」
「そ、そうですね…末期的と言うには…」まだ早いと言いだしかけ言葉を呑んだ、それは後の言葉が続かないと思ったからだが、しかし何か返さねばとの焦りから取り敢えずは感じたままを口にしてみた。
「庄左右衛門様の幕府や時勢を分析する慧眼には恐れ入りました、しかし今申されたこと、他の者に聞かれたら険しいことになるのでは、この時代 旗本・御家人の方々は幕府に盲信し、その為政に異など唱える者などいないと思っておりましたので驚きました」
「そうじゃの、日長禄をはむ日和見連中に聞かれたら…そりゃ大事じゃて、切腹などじゃすまされんわな、しかしじゃ、旗本…いや老中幕閣の中にも儂と同様の考えの持ち主がおるのよ。
儂が予々話しておる若年寄で下野佐野藩主 堀田正衡様はいま語った儂の考えの根本を教示してくれたお方でな」
「ほーっ、若年寄の堀田様といえば私が鉄炮組頭就任のさいに御尽力いただいたあの堀田様のことですよね、これは驚きました、あの御方がそんな開明的と申しましょうか、幕府の今の治世を憂う御方だったとは…ならば番方の諸改革など問題なく進められるでしょうに」
「それがじゃ、大ぴらには出来んのよ、何せ他の幕閣や大奥には魑魅魍魎が跋扈しておってな、彼らの権益に少しでも抵触するとなれば総動員で叩き潰されるのがオチじゃて。
じゃからこうして二年の歳月をかけて隠密裏に事を進めておるのよ」
(フッ、政治など今も昔も同じだな、行政機関の意に逆らえば一国の総理といえど○○省辺りがリークし、それをネタに野党・マスコミが総掛かりで引きずり下ろしにかかったアノ事件の様だ…)
「中でもやっかいなのは本丸老中職の浜松藩主水野忠邦様じゃ、先頃勝手御用掛を兼ねるなど その権勢は飛ぶ鳥落とす勢いでな、新将軍・家慶様の信任厚く次期老中首座の筆頭と目される御仁じゃが。
この御仁は保守の権化とも渾名され、弛緩した大御所時代を矯正すべく奢侈禁止や風俗粛正、また低物価政策に奔走する緊縮財政にあって兵器工廠建設など金がかかることには耳など貸すわけはなく、一年も下工作し ようやく家慶様からの上意が下され御老中は渋々に仮承認に印を押した始末、ましてや軍政改革などを言い募れば下手をしたら謀反の咎で捕らえられるがオチよ。
というのは御老中には三羽烏と呼ばれる鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤三右衛門ら側近が付いておっての その三人が目を光らせおるのよ、中でも要注意なのは権謀術数に長けた“蝮の耀蔵”と渾名される鳥井耀蔵じゃて。
こやつ、以前は儂と同じ番方に席を並べる徒頭じゃったが、実父が大学頭を務めた幕府儒者の林述斎じゃから…あれよあれよと徒頭より江戸城西丸附の目付に出世しおって、今じゃ虎の威を借る狐の如く幕府内外の不穏分子に目を光らせておるのよ。
いや、実にやりにくい……」
「そうでしたか、あの林述斎の子が」
「ほぅ、正則殿は蝮の耀蔵を知っておるのか」
「いえ、鳥居耀蔵様にはまだお目にかかったことはありませんが、なにせ元世の歴史書で天保時代の鳥居耀蔵と言えば良かれ悪しかれその名は広く世に知られておりましたゆえ」
「何、百七十年後の歴史書に耀蔵の名が出ておるというのか…やはり侮れぬ奴よ」
「何なら彼がこの後どうなっていくか、その顛末でもお話ししましょうか」
「ふむぅ…いや止めておこう、それを聞けばこの時代全ての顛末も聞きとうなる、もし聞いたなら、それこそ良かれ悪しかれこの後 儂等の人生はつまらぬものとなろうよ」
「そうかもしれませんね…」と正則。
「何じゃ、おぬしら さも惜しそうな顔をしてからに、聞きたかったのか?」
庄左右衞門は左太夫と幸右衛門の顔を交互に見て、彼らの目の色を読んだ。
                                 
「いえ…それがしも庄左右衞門様と同意見でござる、この江戸幕府が永続するなどとは到底思うてはおりませぬ、それは鎌倉幕府や室町幕府を鑑みれば当然の理、開闢より二百四十年も続く江戸幕府…よう続いたものでござる、鎌倉幕府の百三十余年、室町幕府の二百三十年、堀田様がよく申される矛盾連鎖による歴史変革の理からすれば疾うに寿命にござろうよ、よって歴史の真実を聞けば…今我らが進める諸改革さえも途中頓挫が知れるやも、ならば聞かぬ方が宜しかろう」と幸右衛門。
「いや、歴史を知り途中頓挫が知れるようなら諸改革や政変など企てぬ方がましというもの、それがしがいま知りたいのはこの時代にあって改革や政変が本当に可能なのかを知りとうござるが…」と左太夫。
「そうじゃの、左太夫が言うことには頷ける、正則殿このさき左太夫の言う通り改革や政変などは叶うものであろうか」と庄左右衞門は正則を見つめた。
「さて…その内容と計画の周到さ、また首謀者らの能力次第としか言えませぬが、これより三十五年後に薩摩・長州・土佐・肥後の雄藩連合が京の帝を神輿に担ぎ…」と、正則はここまで語って言葉を呑んだ。
「正則殿、いかがいたした?薩長土肥ら外様諸侯がどうしたのじゃ」
正則はどうしたものかと一瞬躊躇するも、彼らの真意を聞き出すにはその後の歴史を聞かせるのも手かと感じ、三人の表情を覗いながら口を開いた。
「薩長土肥ら雄藩連合はやがて徳川幕府に朝敵の汚名を着せることで、当時朱子学に傾倒する水戸学派の将軍・徳川慶喜は足利尊氏の如く朝敵の汚名を末代まで残すことを恐れ 帝に恭順、雄藩連合は政変を成功裏に収め幕府に代わる新政府がこの江戸に誕生したのです、そして元号は明治と変わり この日の本はやがては西洋列強と肩を並べる東洋一の大国になっていきます…おっと、これは言わぬ方がよろしかったか…」正則は言ってから「どうだ」という表情で皆の目の色を覗った。
「これ!正則殿、それを言うては…」と庄左右衞門は驚きを隠せぬ貌で正則を睨んだ。
「じゃが覆水盆に返らず、聞いてしまったものは致し方なし、それにしても政変は幕府内部じゃのうて…やはり西国の雄藩だったか…いやはや儂らの企みは失敗に帰したようじゃのぅ」
庄左右衞門らは正則が口を滑らせたことに驚いたのではなく、薩長土肥が政変を為しえたことが予想適中だったようだ。
(ふむぅ、彼らは既に薩長土肥が政変を企てるを予想していたようだが…一体何誰がそれを予想したのか、やはり堀田様だろうか、しかしこの時代…西郷隆盛は九才、桂小五郎に至ってはまだ四才の子供、そうなると島津斉彬や吉田松陰辺りの動きから察したのか)
「さて参ったのう…各々方どうするよ、こうも簡単に正則殿に儂等の決起不首尾を教えられたのではこの先が続かぬわ…じゃがせめて動き出した幕府兵器工廠建設だけでもやり遂げねば格好が付かんぞ」
「庄左右衞門様なにを言われる、薩長土肥の山猿が為しえたことが何で儂等に出来ぬと申されるのか、儂等は単にやり方を間違えたか、或いは徳川への「恩讐」が障壁になり政変に戸惑いが生じたやもしれず。
だが今となれば幸いにも我らには正則様がついて御座る、当然正則様は薩長土肥の政変顛末は詳しく御存知のはず、またあの大きな光り絵の中にもその詳細資料はありますでしょう、つまり幕府転覆の模倣は至極簡単、言い得て正則様の存在有無は天地ほどの差をもたらすということに御座る。
以降は正則様を盟主に、我らは正則様が描いた最良の筋書き通りに事をなせば薩長土肥以上の政変成果は確実となりもうそう」左太夫は鼻息を荒げ一気にまくし立てた。
「そうじゃその通りじゃ、左太夫ええとこに気がついた、正則殿!いま左太夫が申したこと何とかなるのかのぅ」まるで芝居のセリフを棒読みしたように言い3人は息を呑んで正則を見つめてきた。
(おいおい、政変いやクーデターを起こそうというに、ドラマのセリフじゃあるまいし そう簡単に言うなよ、クーデターとなれば死ぬるほどの覚悟がなければとても覚着かず、当然多数の死者も出ようし潰される幕府側の戦死者も無血開城が適わねば数千余にもなろう、そんな怖ろしい企てをこんな会合で簡単に決められるものかよ…)
「庄左右衞門様、あなた方が政変を企てるにはそれなりの事情がございましょう、ですが私にはその事情が先ほどの説明程度ではいまいち飲み込めませぬ、ただ一方的に幕府を瓦解させ新政府を樹立するは歴史変革の理を無視した俄発想にしか思えませぬが…」
「ふむぅ、俄発想と言われれば返す言葉は無い、儂等が申した弁の殆どは堀田正衡様から教えられたもの、正直我ら番方は御上より命令されそれに粛々と従い二百有余年が経つ。
これまで儂等が矛盾や憤りを感じたは現番方業務の必要性の是非や古風極まる命令系統、それと幕府が保有する武器の御粗末さくらいのもの、それゆえ事のなり始めは番方構造改革と武器工廠の創設じゃったのよ。
儂は若い頃より現番方のありように疑問を持ち、これらを改革したいと常々思うていた、そんなとき儂の上司に堀田正衡様が就かれ、ある酒宴の席で堀田様の開明の志を聞き即座に惚れ込み、翌日には左太夫や幸右衛門を同士として月2回の改革勉強会を行うようになったのよ。
勉強会を始めて一年足らずでその同士は三十人を超え、先頃何とか兵器工廠建設については内外情勢の憂いと家慶様が将軍職に就かれたドサクサに便乗し仮承認を得た、じゃが軍政改革の方は会合を重ね裏で工作するごとに他より反対意見や邪魔が入ってのぅ、初めて幕府の排他的なる姿勢に矛盾を感じ、簡単に言ってしまえばいっそのこと幕府を根こそぎ覆せば楽に儂等の思うことを成し遂げられるのではと思い至った次第での…」
(そんな事だろうと思った…、外様武士や赤貧に喘ぐ下級武士ならともかく先祖代々幕府で高禄をはむ旗本や上級御家人らに幕府現体勢を覆そうだなんて発想が起こるはずもなし、どうせ堀田正衡とかいう若年寄の開明思想が余程心地よかったのだろう、それにしてもよくもまぁ幕府転覆だの政変などと…彼らはどこまで本気なのか、それより先程来より彼らは軍政改革としきり言うが、軍“政”か軍“制”かどちらを指しているのか)
「庄左右衞門様、私の知る限りこの時代にあって兵制という言葉は使われていますが…軍政と言う字句を見ることはまずありません、たしかこれより28年後の慶応元年に仏蘭西・英国へ派遣された外国奉行の柴田剛中が仏蘭西から「フランス式軍制」を導入したころより「軍政」という字句が書物に出るようになったと思いますが…あなた方が先ほどより口する「軍“政”改革」をどんな概念で捉えているのか…そこからまずは知りたいのですが」
「ふむ、その軍政という言葉は今より四年ほど前に幕府天文方の小関三英が出版したナポレオン伝記に出てくるのじゃが、まっ兵制改革でも良かったのじゃが軍政改革の方が大きゅう聞こえるよっての、堀田様がそう決められたのよ、でっ概念と言われてものぅ…一言で語り尽くすには…お、おぬしらは軍政改革を一言で語れるかよ」
庄左右衞門は困惑顔で左太夫と幸右衛門の方を見た。
だがこの二人も互いに顔を見合わせ首を捻りながら、庄左右衞門の方を見つめると困惑顔で「軍政とは軍が他国を攻略し、その地を統治するまでの軍の統治政治を言い…軍政改革とはその統治政治の有り様を旧態から新しき制度に変えることを言い…)
(やはり俄仕込みで軍政の意味をあまり理解していないようだ…)
「いま他国を攻略してと左太夫殿は申されたが、徳川軍がいつ他国を攻めましたか、この二百有余年徳川家は他藩を攻略したこともまた攻められた経験もありません、ならば今の左太夫殿の弁を借りれば軍政が機能する余地どころか必要すら無いと言うこと、そんな軍政の何処を改革しようというのです」
「いや左太夫がいま申したのは源平の頃の話であって、左太夫が申したかったのは軍政改革とは朝廷が政府であり徳川幕府が軍政機関と言いたかったのじゃろ」と庄左右衞門は左太夫を睨み付けた。
「だったら軍政改革とは徳川幕府の政治そのものを変革するという意味になり、番方がこれを企てれば明らかに軍事クーデター…いや謀反ととられても仕方なきこと、あなた方が最初したかったことは兵制改革とか番方構造改革ではなかったのですか、それが若年寄の堀田様が軍政改革などという大仰な文言に変えた時から方向が拗れ始めたと感じるのですが…本来は「軍政」ではなく「軍制」なのでは、軍“制”改革なら御老中方も兵器工廠建設を仮承認したようにこれも進んでとは申しませんが、内容次第で承認も可能かとは思いますが」
「ふむぅ…そう言われれば儂等が当初進めたいと思ったのは確かに「軍制」であったような…それがいつしか「軍政」に代わってしもうた、あっそうじゃ清国よ、あの大清国が今まさに英国より侵略を受けようとしており、この事態はいずれ我が国にも及ぶであろうとて現幕政では抗しきれぬから番方主導の軍事政変を起こす…そうであったな」
と庄左右衞門は賛同を得るような眼差しで幸右衛門と左太夫の顔を交互に見つめた。
「そ、その通り、いつまでも内輪もめに汲々とし諸改革を一向に進めようとしない幕府首脳などこの際全員失脚させ我ら武官の手でこの日の本を英国並みの軍事強国にする、そういう趣旨からで御座った、でっ軍政については…えぇと何だったか…」と幸右衛門。
(おいおいこいつら…そんなことでクーデターを起こそうというのかよ、下手な時代劇でもあるまいに、元世で言えば大企業の課長か係長が「重役らが動かぬなら我らの手で社内改革を断行しよう」と言っているようなもの、こりゃつきあいきれんぞ)
「御三人の意向はあらまし理解しました、しかしその程度の想いで政変を起こすのは到底無理というもの、あの薩長土肥が政変を成功させるにどれほど同胞の血を流したのか…そう血の革命と言ってもいいでしょう、あなた方にそんな覚悟がお有りか」
「何を無礼な!、正則様とて我らを愚弄する弁は許しませんぞ」と怒りも露わに左太夫が腰を浮かせた。
「これ左太夫!控えぬか、正則殿の応えは儂等の心中未だ不明との弁に過ぎぬ、儂等の想いが伝え切れておらぬ証じゃ、ならば正則殿いま少し儂等の胸中をお話ししよう」そう言うと庄左右衞門は湯飲みを口元に持って行き、傾けるも空になっているのに気付き「左太夫、酒と馳走はまだかよ」とボソッと呟いた。
「そうで御座った、お招きしておきながら話につい夢中になりました、早々準備致しますよって暫時この場でお待ち下され」左太夫は浮かした腰のまま立ち上がり正則を一瞬睨め付けると部屋から退席した。
残された三人は腕を組むと瞑目に移った、それは三人それぞれ様々な想いで言葉に表すことが何か躊躇われた様な…。
正則もこの雰囲気の中、ごく自然に思考の中へと埋没して入った、
(俺の脳内に最近芽生えた技術への渇望…工作機械や航空機製造技術、こんなつまらぬ時代でもこれら技術の一旦でも為しえたなら生きる想いはもっと違うものになろうか。
今の時代であれば航空機造りより兵器産業の方が優先されよう、そう兵器技術だろうが火薬製造技術だろうとかまわない、どんな「ものづくり」であろうと没頭できればこの時代に生きているとの実感が湧こうというもの。
趣旨はねじ曲がっていようとも 彼ら三人を焚き付け心行くまで技術が堪能できる環境が作れたら…それも有りなのでは、その環境作りにはまず現状の封建的政治体制を終演させ民主化への改革は必須だろう、さてさて先はどうなるか解らぬが彼らの意に沿ってみようか…どうせ俄仕込みの彼らではアテにならぬから革命主導は俺になろう、それゆえ死ぬか生きるかぐらいの覚悟が必要になるが…今の俺に)
馳走と酒で座は和み左太夫の顔にもようやく笑みが戻ってきた。
「さて、酔いも回り腹も膨れたによって先程の続きを進めようかの」そう言うと庄左右衞門は膳を少し前に押しやると茶を含み口中を湿らせた。
「文化五年八月のフエィートン号事件来、幕府は各藩に対しの鉄炮開発に関しては御構いなしと方針を変え、我ら番方や御親藩に対しても軍備に力を入れるよう御達しがあった、特に幸右衛門や左太夫ら鉄砲方に対しては新式銃の開発が急務とされたが…何せ先も申したとおり種子島に火縄銃が伝えられて以来、銃・砲一切の改良改善が禁じられて二百余年が経過したいま…俄に開発の御許しが出たとて即日に進むというものではない。
依然銃の方式は火縄の域は出ず、銃床は関流でカラクリは外記方式の改良がせいぜいといったところ、とても開発と呼べるものではない、やはり開発には外国の技術を取り入れると共に銃身材料である鋼鉄の安定供給が必要、それには技術者と本格的な銃砲工廠の建設が必須でそれらにかかる資金は天井知れずといえよう。
そんな折、堀田正衡様の働きでこの度ようやく幕府銃砲工廠建設の仮承認が得られ、あのケチな水野忠邦様がようも仮とは言え呑んでくれたと正直我ら三人も驚いておるのよ。
じゃが仮承認が得られたと喜んだとき、この井上・田付の鉄砲方二人が急に自信が無いと言いだしおって、天保二年に高島秋帆殿が阿蘭陀から輸入したゲーベル銃をこの二人が改良しこれをもって新式銃となし工廠で量産することを計画…今年の初め試作した銃を密かに試射したところ情けなくも火縄銃より威力も命中精度も低いことが分かったのよ。
大言壮語し工廠建設の仮承認を取り付けておきながらこのような結果に陥っていること水野様に洩れたなら即刻打ち切りは必定、我ら一同窮しておったのじゃが…何と天の助けか御貴殿が都合良く我が門前に落ちて参ったということよ。
儂等、貴殿よりこの世にまだ存在しない薬莢式元込銃の製法を聞き、またライフリング理論を聞いて目から鱗の想いでの、これで銃開発は解決したも同然と貴殿を早々に鉄砲組頭に仕立てたわけじゃ、これで工廠の発足は何とかなり我らの面目も立とうというもの」
(何だ、やはり庄左右衞門はマスケット方式は知っていたんじゃないか、俺を試したのか…それととんとん拍子の養子や組頭推挙は俺の技術を利用したいが為の方策か、まっ薄々は分かっていたが…)
「そのようなことで残る懸案は番方制度の改革よ、工廠建設後 国産初の新式連発銃が出来たとしてもこれを扱う組織や兵の管理等が旧態依然とあっては宝の持ち腐れ、早期に組織改革を断行し縦割りの命令系統へと刷新し即戦軍を編成したいところ…じゃが今の首脳陣は武器さえ新式になれば外様諸藩や紅夷の侵攻が抑えられると思うておる。
儂等はこの数ヶ月番方の構造改革を首脳陣に説いて廻ったが鼻も引っ掛けられない有様、よって若年寄支配の番方組頭諸氏を説得しなんとか六十人程の賛同を集めた。
組頭六十人と言えば差配する与力・同心・下士らを含めたらその総数はおよそ二千人にもなろう、この数を背景に幕府首脳らを説得しようと図ったが…いやはやこの目論見が先ほど申した蝮の耀蔵に感づかれ十日程まえに見せしめなのか組頭の篠原が捕らえられのよ。
まっ、捕らえられたと言うても篠原太郎右衛門は組きっての剛の者、尋問にも耐え3日後には放免されたが…この先やりにくうなったのは確か、よって先日主立った者らを集め会合を開いたのよ、そこで出た結論は軍政改革については今後幕府首脳陣らには一切相談せず、まずは工廠建設を最優先し兵器が所定の量に達したところで番方を総動員し一斉蜂起しようと決まったのじゃが」
「……………」
正則は返す言葉が見つからずただ庄左右衞門の眼を見つめていた。
「しかしじゃ…先ほどの正則殿の言うた薩長土肥の雄藩連合が帝を担いで徳川幕府を転覆してしもうたと聞いた、つまり儂等の目論見は潰えたと言う事じゃ…さてどうするよ皆の衆、いっそ全てをあきらめ幕府が瓦解する様を指をくわえて待つとするか…」
庄左右衞門は湯飲みを盆に戻すと正則を見つめ、ゆっくりと左太夫・幸右衛門へと視線を転じていった。
「冗談では御座りませぬ!、これまでの二年間は一体何だったので御座ろう、今更同意し同じ船に乗り込んだ同士六十人にどう申し開きするのか、儂等を差し置き薩長土肥の雄藩連合が幕府転覆を成すよって傍観しようとでも言うので御座るか!拙者はまっぴらで御座る、それがし一人になろうとも決行する覚悟に御座る」と再び左太夫が激高した。
「それがしも左太夫殿と同意見で御座る、正則様の一言で何で諦められましょうぞ、幕府が薩長の芋侍らに転覆させられるのは恥辱の極み、幕府が奴らの手でとどめを刺されるぐらいなら儂等の手で幕府を始末するべきで御座ろう、庄左右衞門様 なにか言うて下され」
「んん、どうするよ正則殿、彼らはこう言うておるが」と思案顔の庄左右衞門、その目は依然正則を見つめているも…目の奥は微かに笑っているようにも見えた。
(庄左右衞門は既に俺の思いを見抜いているのか…そうであれば怖い御人だ、しかしどうしたものか、もう少し考えれば幕府転覆から新政府樹立への道筋はたとうが…これはあくまでも暇潰しの空想に過ぎず、もし実際にクーデターを実行するならば覚悟を以て挑まなくてはならないが、俺に其の覚悟はあるのか………。
フッ、どうせ一度は死んだ身、この死後の世界でもう一度死んだとて痛くも痒くも無かろうが…もし成功すればいずれあの米国やロシアに復讐する機会もあるわけだし、よしやってみるか!)
「各々方、その件は私が助力してみましょう、私の幕府転覆の意は皆さんとは別なところのにありますが…想いは違っても外国勢に国が蹂躙され民が苦しむのを見過ごせぬということは一致しているでしょうから、しかし私に助力を仰ぐならこの先は私の意に従ってもらいます、それが約束できるのなら微力ながら皆さんに協力し新政府樹立へと導いてみましょう」正則は特に左太夫を見つめ釘を刺すように語尾に力を込めた。
「正則殿!やってくれますか、これは有難い こうでなくては、のう左太夫 儂が申したとおりの成り行きになったであろう、ククッほんに嬉しいぞ正則殿、さぁ左太夫!酒をたんと出さぬか」庄左右衞門は涙目で正則の手を握ってきた。
「正則様、もし否と申したらそれがしは貴殿と差し違える覚悟でおりましたぞ!」と左太夫、脇差しを帯から抜き畳に置くとその手で正則の手を握ってきた。
(おいおい此奴ら今までの言動全ては猿芝居だったのかよ…これはやられた、それにしても差し違える覚悟だったとは本気かよ…)
正則は思わずブルッと震えた、それは差し違える恐怖からではなく これから成すことの重大さに思わず身の毛が逆立つほどの恐怖を覚えたからだ。
 




