歩み寄ってくる愚者
ありったけの魔力を込めて、エルヴィラは背後に大量のナイフを投げつけた。手が使えなくても、足が届かなくても、魔女には魔法があるのだ。魔法攻撃の範囲内なら、例え手足を引き千切られようとも問題は無い。
背後にいる変態は、エルヴィラの事を普通の人間だと思い込んでいるのだ。不意な魔法攻撃に対応できる筈はない。
しかし、悲鳴も聞こえなければ、熱い血飛沫が降り注ぐ事も無かった。
ただ、身体を押さえつけていた力だけは無くなり、エルヴィラは自由になる。そして、瞬時に振り向いて、敵の姿を確認する。
「…はぁ…はぁ…!」
エルヴィラが睨みつけた先、クロヴィスは無傷で立っていた。
口元から赤い血を微かに垂らし、驚いた表情を浮かべている。
真っ赤な瞳を丸くしながら、エルヴィラを見つめていた。
「驚いたぞ…魔女だったのか…いやしかし、それよりこれは…!」
口元の血をペロリと舐めとり、クロヴィスは満面の笑みを浮かべる。水を得た魚のように、活力に満ちているようだった。しかし反対に、エルヴィラは酷い目眩と脱力感に襲われていた。焦点が定まらず、足がフラフラして一箇所にとどまっていられない。
立っているのもやっとな状態だ、しかし、しっかりと、敵を睨みつける事だけはやめなかった。
「く…」
そっと首筋を撫でてみる、すると、ポツリと小さな窪みが指先に触れた。そこからヌルリとした生暖かい液体が滲み出てくる。
血を吸われた、間違いなく。
だがあの一瞬で、一体どれぐらい吸われたのだろうか。どのぐらい血を失えば、こんな風に倒れそうになるのか。
「テメェ…ふざけやがって…! いきなり押さえつけて噛み付くとか、強姦そのものじゃねぇか! このまま五体満足で帰れるとか思ってねぇだろうなド変態野郎!」
「威勢が良いな、見るからに立っているのがやっとのくせに…いや、本来ならこの時点で立つ事すらままならないのが普通なのだがな…なるほど、魔女か…おかしいと思った…しかし、こんな経験は初めてだな」
自分の中に流れ込んできた力を感じながら、クロヴィスは得意そうに笑う。
「だんだん、俺の能力の使い方が分かってきた…おい魔女、もっと血を寄越せ、どうなるか見てみたい…俺がどこまでいけるのかな」
「吸えるもんなら吸ってみろや」
再びナイフの束を転移させ、今度はしっかりとクロヴィスを狙って発射する。
しかし、雨のように降り注ぐ鋭利なナイフ群を、クロヴィスは素早い動きで避けていく。肌はもちろん、服の端にすらカスリもしない。
「どうしたんだ、魔女、初撃よりも動きが格段に鈍くなっているじゃないか」
もう魔力切れか?
クロヴィスの声が聞こえた時には、既に、またも、背後を取られていた。
だが、そう簡単に同じ手は通用しない。エルヴィラは咄嗟に、今度はナイフではなく、両手の爪を背後に伸ばす。
特異魔法『剥がれた爪』。どの特異魔法よりも魔力消費の少ないのに、高威力を持つ万能魔法。
これを作ったあの猫には、感謝してもしたりない。
爪の先に、肉を引き裂いた感覚は無い。つまり、敵も再び飛び退いて避けたのだろう。
「予想通りじゃねぇか」
エルヴィラは、振り向くと同時に、鋭く伸ばした爪をを弾丸のように発射する。
「物騒なネイルだ」
多少驚いたような素振りをクロヴィスは見せたものの、たやすく全弾叩き落としてしまう。
そして一瞬で移動し、三度、エルヴィラとの距離を詰める。
「もう手品は終わりか? 呆気ないというか拍子抜けだな。やはり、血の力は魔力を超える」
「バカか、間合いに入ったのはお前の方だよ」
油断した方が負けるんだ、そう言いながらエルヴィラは、辺り一面を深い闇で包む。夜が生み出す闇よりも、更に暗い空間は、あっという間にクロヴィスの視覚や聴覚といった情報手段を遮断した。
「なるほどこれは…油断したな、少しマズイ」
直後、クロヴィスの右頬に強い痛みが走る。
閉鎖空間での闇討ち、確かに痛いし驚いたが、怯んで動けなくなるほどでは無いな、とクロヴィスは冷静に、自分の顔面にめり込んだものをしっかりと掴んだ。
小さく細い、温度のある柔らかいものを掴んだ。
これは、腕か。
「おいおい、まさか、魔法も使わず普通に殴ったのか。幼い少女の姿をしているわりには強い打撃だが、そんな事で俺が怯んだり、情けなく取り乱したりすると思ったのか、呆れたな」
掴んだ腕 (らしきもの)をそのまま引っ張って口元に引き寄せ、鋭い牙を突き立てる。
魔女は不老不死らしいから、血を全て吸い取っても死ぬ事はないだろう。
流れる血液の温かさが、牙に伝わり食欲をそそる。
血を吸い取り始めれば、同時に快楽成分が注入され、血を抜き取られているにも関わらず、その苦痛は快感へと変わってしまう。初めは弱々しくも抵抗するが、大抵の場合すぐに大人しくなり、最後には自分から吸い続けて欲しいと懇願するよになる。
どんな生物も、快楽というものには勝てないのだ。
偉そうな、口の悪い魔女だって、すぐに堕ちてしまう。
はずだった。
「美味しいかい? 作り物の血はよぉ」
闇のどこかから、あの魔女の声が聞こえた。
直後、強い衝撃に連続で襲われ、流石のクロヴィスも仰向けに押し倒されてしまう。衝撃の正体や、声の謎、それらよりも先に襲ってきたのは、鋭い痛みである。
「ぐ…ぐぅっ⁉︎ これは…刺され…!」
すると、霧が晴れるように闇が消え、目の前に綺麗な月が現れた。
それを遮るように、悪意に満ちた笑みを浮かべたエルヴィラが、こちらを覗き込む。
視線を移すと、身体中にナイフや短剣が突き刺さっていた。四肢には特に念入りに刺さっており、貫通して、地面に固定されていた。
「どういう事だ…? 確かに俺はお前を捕らえて」
「はぁん? 何の事か分からねえなぁ、私を捕らえた? お前、それが私に見えるのかよ」
言われてクロヴィスは、自分が掴んでいるものを見る。そして、その正体に絶句した。
掴んでたのは、少女の腕、だけだった。
肩から先は無く、千切られた腕だけを、自分は持っていたのだ。
「バカな…まさかお前、自分の身を守る為だけに、少女の腕を千切ったと言うのか…⁉︎」
信じられないと目を大きくするクロヴィスを、エルヴィラは「はぁ?」と睨みつける。
「私がそんな残酷な事するわけねぇだろ、こんな善良な魔女っ子がよぉ、つか、仮にそんな事して忘れ形見にバレてみろ、私が千切られるわ」
まぁ、だから、自分で千切ったんだけどな。
エルヴィラは、自分の隣にいる少女の頭を撫でる。金髪で、目付きが悪い、小柄な少女。
そこにいたのは、エルヴィラと瓜二つの少女、否、エルヴィラそのものだった。
突如現れたもう一人の魔女、しかし違うところが一つだけあった。それは、彼女の左腕が、肩の部分から無くなっているだ。
「分身…か」
「そんなチャチなもんじゃねぇよ、これは私そのものだ、過去にいた私自身だ、血も通ってるし呼吸もしている、生きた私そのものなんだ」
何を言っているか分からないが、つまり分身というより、分裂に近いのだろうとクロヴィスは解釈する。過去の自分を引きずり出して、増殖している。
しかし、そうだとしても、とんでもない奴だ。自分の腕を千切って餌にしたのだから。
「で? なんだっけ? 魔法を超える力? おいおい、思い上がりもその辺にしとけよポッと出の血吸い蝙蝠風情が、いっとくけど、私程度に負けてるようじゃ、他の誰にも勝てねぇぞ」
エルヴィラが指をパチンと鳴らすと、隣にいた腕を千切られたエルヴィラが消える。
そして、動けないクロヴィスの顔を両手で掴み、無理矢理目を合わせてから、エルヴィラはにんまりと笑う。
「流石は吸血鬼だな、これだけ刺したのに死なねぇのか、ククク…って事は、多少痛め付けても問題は無いって事だよな」
楽しそうに言ってから、ナイフを一本クロヴィスの体から抜き取って、それを手元で回しながら、エルヴィラは「うーん」と考える。
どうやらすぐにトドメを刺すつもりは無いらしい。というか、トドメ自体、刺すつもりは無いのかもしれない、
「お前、今から私がする質問に、嘘偽りなく答えるって保証出来るか」
「知らんな」
クロヴィスの頬をナイフの刃がかする。
「おい、慎重に喋れよ、じゃないと次にナイフが振り下ろされるのはお前の右目かもしれないぞ」
「物騒だな」
エルヴィラはナイフの先をクロヴィスの目に近付けながら言う。
「とにかくお前は私の質問に正直に答えろ、場合によっては逃がしてやる、もし少しでも嘘を吐いたり、はぐらかしたり、答えないなんて事をしたら…覚悟しろ、酷い結果になるぞ」
酷く冷たい目をしながら、エルヴィラは続ける。
「お前の喉を掻っ捌いて、失った血を取り戻させてもらう。もしくは、もう二度と悪さなんて出来ないように、歯を一本一本熱した杭で焼き潰す、それとも晒し首が良いか? その周りに引きずり出したお前の内蔵で『悪い事してごめんなさい』って並べてやるとか」
「マジで物騒だな」
淡々と語られる酷い結果の数々に、クロヴィスも呆れ顔を浮かべた。いやたぶん、この魔女は本気でそれぐらいの事をするだろう。
忘れ形見とやらに責められようとも、国の法律が彼女を許さなかったとしても、この魔女は人一人ぐらい平気で殺す。
そういう目をしているし、さっきから伝わってくる殺気が偽物だとは思えない。
とにかく、ぐちゃぐちゃに解体されて死ぬのは嫌なので、クロヴィスは正直に答える事にした。
「答えられる範囲なら、なんでも答えよう」
「いい子だな、じゃあまず一つ目、ここの墓を荒らしたのはお前か?」
「墓? いや、さっぱり身に覚えがないな、特に用も無い…もう骨になって、血なんか一滴も残ってない墓を荒らしたって特が無いだろ」
完全に信じる事は出来ないが、クロヴィスの言う事には一理ある。エルヴィラは「分かった」と頷いた。
「じゃあ次、お前、異端狩りという連中を知っているか」
「知っているぞ、魔女狩り集団だろ? 前もって言っておくが、俺は奴らの仲間じゃないぞ。魔具に頼って粋がっているだけの負け犬どもに興味なんか無い」
「ほお、言うじゃねぇか、その点に関しては私も同感だな」
負け犬とクロヴィスは表現し、エルヴィラもそれに賛同していたが、だが実際は、その負け犬集団の一人と結構危ない殺し合いをしているので、正直バカには出来ない。
「じゃあ、異端狩りどもの基地があちこち潰された事とお前は無関係って事か?」
「全く知らん話だし、本当に興味も無い。なんだ、知らない間に壊滅したのか?」
「いや、完全に壊滅したわけじゃない、殺されたのは雑魚ばかりだからな、魔具持ちの幹部連中は一人も死んでねぇ…ってか、勝手に喋んな、あくまで私が質問する側だ、お前は答える事だけに必死になってろ」
お互いの立場を再確認するように、エルヴィラはクロヴィスの喉に刃先を突き立てながら言う。こんな状況で、尚も冷や汗一つ垂らさず、冷静に徹するクロヴィスに、エルヴィラの方が若干苛立ち始めたのだ。
「じゃあこれが最後の質問だ…お前、その吸血鬼の力はどこで手に入れた?」
「あ?」
「とぼけんな、吸血鬼なんて本当にいるわけねぇだろ、偉そうに言ってたが、お前だってその体、魔法が関係しているはずだ、もしくは…呪いか?」
「…………」
クロヴィスは少し目を瞑ってから、首を僅かに傾げる。
「悪いが、自分の事ながら、この力の正体は俺も知らん。ただ、三ヶ月ぐらい前か、俺はいきなりこの力に目覚めたんだ。いくら飯を食べても空腹が治らなくてな、このままでは餓死すると思って、腹を満たせるものを探してフラフラしてたんだ…」
曰く、その時転んで膝を擦りむいた少女と出会ったのだとか。あまりに酷く泣いているので、持っていたハンカチを近くの川で濡らし、傷口を洗おうとしたらしい。
その時うっかり、手についた血を舐めてしまった。
「その瞬間、今まで俺の中にあった空腹感が一瞬だけ満たされたんだ、だが、すぐに元に戻って、今度は今までよりも酷い飢餓感が襲ってきた。喉は乾いて目眩もした、恐ろしくなった俺は、急いでその場から逃げ出した…その時俺は気付いたんだ、俺の空腹を満たせるのは、血だけになっている事にな」
そして、今に至る、と。
「チッ、結局そうなった原因は分からず仕舞いかよ、もっと調べろよな」
「調べたかったさ、だが、なんの手がかりもなく、空腹に襲われながらまともに調査なんて出来るはずが無い…」
大きくクロヴィスがため息を吐く、そして小さく「元に戻れるなら戻りたいさ」と、悲しそうに呟いた。
「いきなりこんな体になって、化け物扱いされる…凡人のままの方が、遥かに幸せだった」
その言葉に、エルヴィラは在りし日の自分を思い出す。いや、自分だけではない、魔女化して、居場所を失い、生きる事で精一杯になりながら足掻く彼女達の姿。
似ている。この男は、魔女化してしまった自分達と、境遇が似ている。
だからどうした。
エルヴィラは、自分に言い聞かせるように心の中で言う。
それはコイツの問題だ。私だってどうすればいいか分からないまま、今まで七百年近くこの世を彷徨い続けたきた。自分でなんとかするべきだ、巻き込まれるのはごめんだ、いっそ死ぬ方法を探せば良いじゃないか、その能力を上手く活かして生きていく道を考えろ、それはお前の問題だ、お前一人が抱えて生きていけ、私にそんな事まで考えてやれる余裕は無い。
そうやって、自分も他人から遠ざけられていた。
同じ、似た境遇。似ているだけだ、コイツに私達魔女の苦しみなんか分からない、私だって、血を吸わなきゃ生きていけない奴の気持ちなんか知る由もない。
でも、化け物だと言ってわけもなく恐れられる、形は違えど、その痛みだけは、同じものだと思えた。
だが、今は違う。今の私には、長年の親友も、歩み寄ってくれるバカだけど可愛げのある人間までいる。
忘れ形見を中心とした、騎士の連中。
コイツにはいるのか? どうすればいいか分からなくて、ただ絶望するしか無い状況で、歩み寄ってくれる誰かは。
「ああ、私…かなり毒されてるな」
エルヴィラは呟くと、クロヴィスに刺した全てのナイフや短剣を抜き取った。
「質問は終わりか、しかし、無用心じゃ無いか? 確かに俺は動けないが、拘束を解くならトドメを刺してからの方が良いと思うがな」
「お前、どうやったらその傷治る」
「は?」
顔をしかめるクロヴィスに、エルヴィラは再びナイフを突きつけて言う。
「質問の続きだ、真面目に答えろ。その傷は、どうやったら治る、病院に連れていけばいいのか、それとも吸血鬼なりの、すぐに治る方法があるのか」
「血を吸えば大体治る、言ったろ、血の力は無限の力だ、大抵の事は血を吸えば出来るようになる…だが、それがどうした」
「あっそ」
エルヴィラはクロヴィスの上半身を起こし、向かい合う形で彼の前に立つ。
「いいか、私を殺したら、多分お前に今後一切安息の日は訪れないぞ」
「なんの話だ」
「最低限歩けるぐらいには回復したら、私を連れて騎士団に行け、やたら広くてデカイ建物だからすぐ分かるはずだ、そこに…お前みたいな奴を見るとほっておかないバカがいるから…そいつに事情を説明して助けてもらえ」
「だから…なんの話だ…ってオイ!」
言いたい事だけ言って、エルヴィラはそのままクロヴィスに近付き、そして自分の髪を搔き上げて、白く細い首筋を彼の口に押し付けた。
「ほんと嫌になる…私はいつからこんなにヌルイ魔女になったんだ…アイツのせいだ、全部忘れ形見のせいで…アイツの悪影響だ」
ブツブツ言いながら、首を押し付けてくるエルヴィラに、クロヴィスはただ混乱している。
「いいから、必要分だけ吸え。回復に必要な分…いいな、必要分だけだぞ? もし吸いすぎて私が死んだらなんかしたら、多分世界が滅びるぞ」
訳の分からない脅し方だったが、信じられない事に、エルヴィラは、クロヴィスを助けようとしていた。
「…助けてくれるのか」
「私じゃねぇ、助けたり守ったりするのは、騎士の役目だ、私は騎士じゃねぇ…だから、手を貸すだけだ」
それを助けると言うのではないだろうか。
しかし、それは言葉にならず、クロヴィスは言われるがままにエルヴィラの首筋に噛み付いて、その血を吸い取る。
傷が癒えていくのと同時に、エルヴィラから力が抜けていくのを感じた。
(予定通りに…事が進んだことってねぇな)
ゆっくりと瞼を閉じながら、エルヴィラはそう思う。
もう一度、自分が眼を覚ますことを信じて、エルヴィラの意識は、深い闇へと落ちていった。




