謎
『不可視の魔女』ドールには、特筆するような過去が存在しない。それは彼女が生きてきた数百年間が、お世辞にも、『生きていた』と呼べるようなものではないからだ。
身を守れるような強力な魔法を持たず、守ってくれる仲間や師匠もいない。
幼い精神のまま、純粋に暴力に恐怖し、魔女狩りに怯え続けて生きてきた彼女は、常に誰の目にも触れないようにしてきたのだ。
見つかることがなければ、自分が魔女だと知られなければ、襲われる事も殺される事もない。
姿を隠して、移動を続け、人と関わる事を避けて、世の中に出る事を拒み、最初から存在していないかの如く、ひっそりとこっそりと、目立たないように生きてきた。
いや、これを生きている、と言えるのだろうか。それはドール自身も自覚していた。
こんなのはただ、息をしているだけ。存在しているだけの、肉の塊。
そんな事を思いながら生活を続けていたら、いつの間にか身に付けていた『透明化』の特異魔法。
姿を消すことが出来る魔法を手に入れた事により、ドールは更に、誰にも気付かれないようになった。
どこでなにをしようとも、誰にも。
「疲れた」
常に気を張り続けながら、移動生活をしていたドールにとって、こんな事を呟けるほど安心感を得たのは、生まれて初めてだった。
どこか休める場所が欲しい、雨風をしのげて、ゆっくりと眠る事が出来る場所。
そんな彼女の思いに応えたのか、それとも無意識に足を運んでいたのか、ドールの目の前に、それはそびえ立っていた。
かつては豪華絢爛な貴族達の憩いの場所として使われていた館。今はもう、見る影もない『無冠城』は、それでも崩れる事はなく、草や木に無理矢理支えられながら、ドールの目の前に立っていた。
もう誰も、近寄りすらしないというのに、まるで今も誰かがここに集まって、楽しく騒いでくれる、そんな日がもう一度くるのを待っているかのように、ポツンと、しかし大きく、そびえ立つ館。
ドールは、まるで自分みたいだな、と思った。
どれだけ月日が経とうと、姿を変えず生き続ける魔女。魔法が使えるが故に、時に利用され、そして忌み嫌われる。誰からも必要とされず、愛される事もないまま生き続けなければならない、呪われた存在。
自分はまるで、この館みたいだ。
ドールは、その不気味な館に、一切躊躇する事なく、足を踏み入れた。
今はもう誰も近寄らず、必要とされていない。
だからこそ、今のドールには必要だった。
こんなにも安全で、頑丈な環境は他に無かったから。
「この場所があって…良かった」
ここにいよう、ずっと、もう誰にも邪魔されず、静かに、安らかに暮らそう。
もう疲れた、何もしたくない。
「私が新しいここの住人だよ、よろしくね、無冠城」
なんとなく、ただの建物に挨拶をする。
当然、返事などあるわけがなく、自分の声は静寂に溶けて消えていく。
恥ずかしくなったドールは、実に数百年ぶりに、ベッドで眠った。
それから彼女は、ずっとここにいる。
外の世界との関わりを完全に断ち切り、ずっと一人で。
そう、ずっと一人だと、思っていた。
あの日、古時計が鳴り響くまでは。
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「あああああ! 鬱陶しい! なんなんだよその鞭!」
まるで意思を持つ蛇のように、不規則に動き回る鞭に不満をぶちまけながらも、エルヴィラは捕らえられる事なく、その攻撃を避け続けている。
そんな彼女の様子を見ながら、ドールは不快そうに目を細める。
「…うるさい」
静かに一人で生きてきたドールは、あまり大きな音というものに慣れていない。
だから、酷い雨は大嫌いだった。雨音はうるさいし、雷は怖い。
でも今は違う、今まで経験したことの無い、騒音。
雨でも無いのに、雷も鳴っていないのに、耳をつんざくような声がして、自分を不愉快にさせる。
「早く大人しくならないかな…」
ドールはくいっと手首を捻らせる。
考える必要はない、ただそれだけで、魔具『鞭猛舞』は獲物に向かって伸びてくれる。
伸縮自在、しかも驚異的な破壊力。
魔女殺しの為に作られた魔具、かつての持ち主は、魔女を憎む異端狩りのパーキンズだったが、皮肉にも、今は憎っくき魔女の持ち物となり、魔女を助けるという役割を果たしている。
ドールの周りを乱舞する鞭は、彼女への攻撃を一切許さない。
ナイフを投げようと、爪を伸ばそうと、弾かれ、そして砕かれる。
エルヴィラの爪は既にボロボロだ。
しかし、攻撃の手を緩めるわけにはいかないのだ、何故なら。
「あっぶねぇ!」
隙を見せた途端、二股に分かれたクチバシのように鋭くなった鞭の先端が、襲いかかってくる。
硬い金属すら粉々にする威力、まともにくらえばひとたまりも無いだろう。
咄嗟に避けて、エルヴィラは一旦距離を取る。
しかし、休む暇は与えてくれない。
殺気を感じ、咄嗟に姿勢を低くする。
直後、自分の首があった場所を、回転する刃が通過した。
「っ!」
回転する刃は、一つでは無い。しゃがんだエルヴィラの目の前で、まるで丸鋸のように回転しながら、別の刃が迫ってくる。
「クッソ! マジでなんなんだよ!」
ドールの特異魔法なのだろうか、それにしては、ドール本人が何かしている様子がない。
「器用な真似してくれるよな…!」
今だに解けない謎があるが、それをじっくり考えている余裕もない。
考える事は、必要最低限にまとめる。
「混乱するなよ、私、先に対処するべきなのは…鞭かな」
正体不明の攻撃より、丸見えの驚異の対処をする方が効率的だろう。
しかし、そうは言っても、それはそれで再び問題が立ちはだかる。
「ああそうだった、近付けねぇんだっけ」
どうしたものか、そう考えていた矢先、エルヴィラに強い衝撃が走る。
最初に痛み、直後、後頭部に走る鈍痛。
何かに、無理矢理壁に叩きつけられ、その動きを固定されたのだ。
混乱しながらも、自分の両手を見て、状況を確認する。
見たところで、更に混乱してしまうのだが、しかし、目の前の現実は変わらない。
両手に板が打ち付けられ、壁に固定されていたのだ、釘が何本も手のひらと腕を貫通し、完全に身動きが取れなくなっている。
「いっっっってぇなぁぁぁぁ! 可愛いおててに傷痕が残っちゃうだろうが!」
力を込めて引き抜こうとするが、ビクともしない、というか、それ以前に激痛で力を込め続ける事が難しい。
まずい、身動きが取れないのは絶対にヤバイ。
これは完全に、トドメを刺しに来ている。
その嫌な予感は見事に的中する。エルヴィラの目の前で、天井から何かが自分と同じ位置まで垂れ下がってきた。
それは、様々な装飾が施された、豪華なシャンデリアだった。
もちろんそれなりに重量があり、天井がギシギシと嫌な音を立てている。
そして、ぶら下がったシャンデリアは、ひとりでに動き出し、奥の壁際まで引き上げられる。
「…なに…やってんだ…?」
自分の位置まで降ろされたシャンデリア、それが、今は自分とは反対方向に引き上げられている。
まるで振り子を揺らす前みたいに。
…振り子のように。
「…っ! オイまさか! ウッソだろ⁉︎」
状況を理解した瞬間、エルヴィラはジタバタと暴れ、なんとか腕の拘束を解こうとする。
もう痛いとか言っていられなくなった。あんな巨大なものが振り下ろされれば、痛いどころでは済まない。
次の瞬間には、自分は壁のシミになっているだろう。
「ぐぅぅう! おい! 忘れ形見! 流石に喧嘩してる場合じゃないだろ! アレなんとかしろ!」
エルヴィラがそう言うよりも先に、ジャンヌは動き出していた。
一気に駆け出して、シャンデリアに向かっていく。
「こんな大きいものをぶら下げてるのがロープとは思えない…多分鎖だよね、頼むから間に合ってよ…!」
野ざらしにされて、ずっと放置されてきたのだ。
鎖、鉄ならば、錆びているはずなのだ。
四方と真ん中で計五本あるのを確認する、同時に、その赤茶けた色も。
錆びてボロボロになった鎖で、巨大なシャンデリアを支えられるとは思えない、おそらく魔力で強化してあるのだろう。
魔力によって強化されているのならば、それが支えになっているのならば、対処法がある。
間に合えば、の話だが。
引き寄せの魔法で、ジャンヌはシャンデリアに飛び乗ろうとする。しかし、それよりも先に、振り子のようにシャンデリアが動き出してしまった。
「間に合わないっ…! 当たって!」
ジャンヌは、構えていた剣、魔力を吸収する『オーバードーズ』を鎖に向かって投げる。
勢い良く剣先が鎖にぶつかり、ほんの少しだけ、その錆を削った。
それだけで、十分だった。
少しでも傷をつければ、魔力を一瞬で吸収する。魔力効果の切れた鎖は、シャンデリアの重量に耐え切れず、鋭い音を立てて千切れてしまった。
それと同時に、シャンデリアもまた、重力に逆らわず落下し、床を突き破って地面にめり込みながら、その動きを止めた。
シャンデリアの装飾が、エルヴィラの鼻先にツンッと触れている。命は助かったが、エルヴィラは魚のように口をパクパクさせて、声にならない悲鳴を上げていた。
「嘘、失敗した…? あの剣…普通の剣じゃないんだ…」
ドールは意外そうに目を丸くして、エルヴィラとジャンヌの様子を見る。
ジャンヌは急いでエルヴィラに駆け寄り、
「大丈夫っ⁉︎」
と、肩を揺らしていた。
「痛い痛いみだりに揺らさないでほしいザンス、っていうか、先に腕の拘束を解いてくれたら嬉しいでおまんねん」
「本当に大丈夫? 意味不明なキャラ崩壊起こしてるけど…」
ジャンヌは素早く板を引き剥がし、エルヴィラの拘束を解く。腕を貫通していた釘を引き抜く嫌な感触に、身震いしながらも、改めてエルヴィラの無事を確認して、安堵する。
「エルヴィラの言いたい事…分からなくもないよ」
ポツリ、とジャンヌが言う。
「昔ね、先生にも言われたんだ、生きる為に逃げるんじゃなくて、生きる為に戦えって…すごくカッコよかったけど、それでも、私は心のどこかでずっと引っかかってた」
生きる為に戦う事、それはつまり、守る為に殺すという事なのだろうか、と。
「悪い人は許せないけど、それでも、その人達を斬り殺せば平和になるのかって言えば、多分違うと思う」
ずっとそこで葛藤していた。自分のしている事は、正しい事なのかどうなのか。
「でもそんな風に迷ってたら、いつか、自分のせいで大事な人が死ぬかもしれない、だから、エルヴィラの言ってる事は分かる、きっとエルヴィラの方が正しいんだよ」
戦わなければならない時は、必ずある。誰だってそうだ、何かと戦って、失いながらも、いつかは何かを勝ち取れる。
それを放棄していれば、待っているのは失い続ける人生だけ。
今だってそうだった、自分のわがままで、仲間が死にかけた。
覚悟は必要だ。
だけど。
「それでも私は、出来れば誰も殺したくない」
エルヴィラを見つめるその目は、真剣そのものだった。冗談で言っているわけがない、それは分かっている。
だからこそ、厄介だと、エルヴィラは呆れているのだ。
腕の激痛に耐えながら、エルヴィラは大きなため息を吐く。
「…人と違う事がしたいっていうのと、ズレた行動に出るっていうのは違うぞ、忘れ形見、お前一人に出来る事なんてたかが知れてるんだ、理想と現実の区別はしっかりつけろ」
「つけてるよ、私はちゃんと、現実を見てる」
ジャンヌは、エルヴィラを見つめたまま言う。
「現実的な話、あの子とはこれ以上戦わないのが得策だと思う」
「…まぁ、お前の言わんとしてる事は何となく分かる、解けてない謎がある以上、私達の方がいつまで経っても不利だもんな」
「うん、だからね、エルヴィラ、お願い」
オーバードーズを手元に引き寄せて、ジャンヌは言う。
「私のわがままに協力して欲しいの、私一人じゃどうしようもない…エルヴィラの力を貸して欲しい」
「…お前マジか」
「絶対足手まといにはならないから」
ジャンヌの強い意志のこもった言葉に、エルヴィラはしばらく考えて、そして諦めたように、
「ああもう、分かったよ」
と言った。
「ありがとう、ごめんね、迷惑かけて」
「本当だよ、で、勿論具体案はあるんだろうな」
心配そうに言うエルヴィラに、ジャンヌは笑顔で「勿論」と答えた。
「殺しはしない、でも、やっぱり戦闘を避けられない時もあるよね」
「あんだけ綺麗事並べといて結局強行突破か」
「話を聞いてくれるようにするだけだよ」
ジャンヌは剣を構え、エルヴィラは腕の傷を癒す。
互いに、戦闘の準備を完了させる。
「エルヴィラの言う通り、解けてない謎がある、さっきから襲ってくるこの怪奇現象みたいな攻撃の正体、それを突き止めよう」
「わーい、謎解きかー、楽しそうだなぁー、壁に押し潰されたり斬首されたり串刺しにされたりしなけりゃもっと楽しいんだけどな」
「な、投げやりにならないでよ、謎解きする為にも、あの子の気を引きつけておいて欲しいんだから」
「やっぱそう言う役目かよ、別に良いけどよ、出来れば早くしてくれよな、私もどのぐらい持つか分からないぞ」
「大丈夫、目星はついてるから」
そう言って、ジャンヌは不敵に笑う。
そして、再びドールの前に飛び出した。
今度は二人で。
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「何してるんだろう」
ジャンヌとエルヴィラがコソコソしている様子を眺めながら、ドールはつまらなさそうに眺めていた。
何をしたって無駄なのに、何でそんなに頑張るんだろう。
もう放っておいて欲しい、私はここから立ち去るつもりも、自分の魔法を他人にあげるつもりもないのだから。
頑張ったってしょうがない、疲れるだけの無駄な努力なのに。
「ああ、なんだか考えるのもめんどくさくなってきた」
また私の前に立ちはだかる。今度は二人で協力して。
めんどくさいめんどくさい。
「どうせ何も出来ないくせに」
私を疲れさせないでよ。もう何もしたくない。
戦いたくない、話し合いも疲れる。
ドールの魔力が少し弱まる。慣れない魔具を使って、やった事もない戦闘なんてするから、かなり疲労が溜まっているのだ。
ドールが欠伸を一つする。
心が怠惰と怠慢に満ちていく。
大きな古時計が、再び鳴り響いた。




