記憶
魔獣マリが再び立ち上がろうとする前に、エルヴィラは素早く移動して距離を詰める。
エルヴィラの両手の爪はいつのまにか伸びており、まるで鉤爪のように変形していた。
(思った通りだ…コイツにはかなり分かりやすい弱点がある…っと!)
いや、単純な話、巨体であるがゆえに、かなり遅くなっているのである。
しかし、だからと言って、それが弱体化につながっているかといえば、全く関係ないと言える。本体が動かずとも、無限に増殖し、攻撃を続ける大量の手があるのだから。
目を潰したのでしばらくは大人しいだろうと踏んでいたが、しかし大量の手がエルヴィラに襲いかかってきたことから、どうやら目にさほど意味は無さそうだ。
それともまだどこかに複眼のようなものが存在しているのかもしれない。あれだけ色んな生き物をごちゃ混ぜにしたような姿なのだから、ありえない話では無いだろう。
濁流のように迫る手を素早く避け、避けきれなかった分を爪で切り裂きながら、エルヴィラは思考する。
(目を潰しても私の位置がはっきり分かってるっぽい…って事は私の『闇』の効果も必然的に無くなるな…)
あの様子だと心の闇を映し出して惑わす方法も無駄だろう。視界を防ぐのも、トラウマをこじ開けるのも、相手に理性があってこそ効果があるというものだ。
(仕方ない…分身使い魔を作って様子見するか…)
エルヴィラはお得意の身代わり作戦に出る為、使い魔を生み出そうした。
その瞬間。
「おわっ⁉︎」
いきなりエルヴィラを襲う手の動きが機敏になった。避けきれず、切り払うことも出来ずに、エルヴィラの頬と脇腹をかすめる。
さっきよりも正確に、こちらの位置を把握しているようだった。
目はまだ治癒していない、というか顔面に治る兆しが見えていない。
となれば、視力とは違う何か別の方法でこちらの位置を把握しているという事だろう。
ならばそれ合わせて対処法を考えるべきだ。
「喰らえやクッソ化け物!」
カイの銃撃が魔獣マリの巨体を撃ち抜き、貫通する。
(いやバカかよ、あんな事したら確実に狙われる)
案の定、いくつかの手がカイに向かって伸びていく。
しかしその動きはエルヴィラに対してのものより格段に遅く、狙いも大体の場所しか当たっていないというかなりいい加減なものだった。
すんなりと、カイはその攻撃を避けて、再び射撃を始める。
「なんだ? 俺には興味なしか?」
カイは不思議そうな顔を浮かべる、しかし攻撃の手を緩める事は無かった。
しかし、それでも、魔獣マリは手を伸ばす以上の攻撃をカイに加えようとはしなかった。
(銃撃による重低音が何度も響いてるってのに反応ナシ? 聴力は無いのか…そもそも人間には興味ないっての?)
その可能性は大である。
魔獣は常に高濃度の魔力を欲しているのだ。だから魔女を襲いその身に宿す魔力を余すところなく摂取する。
人間の、しかも男であるカイには魔力なんていうものは微塵も無い。何の栄養にもならない獲物を狙うより、目の前の魔女を狙うのは当然の行為だ、理にかなっている。
(でもだとしたら)
だとしたら、わざわざ銃撃に対して抵抗するのは何故だろう?
魔力による攻撃を散らし、一切のダメージを受け付けない巨体が、豆鉄砲のような銃撃を浴びただけで何故一々抵抗する?
見たところ傷などはついていない。特殊な銃弾というわけでもない、魔法によって無限射撃が可能になっているだけであり、銃弾自体はただの鉛玉。
まさか痛覚だけ生きていて、痛いからという理由で貴重な、文字通り攻撃の手を別の場所に当てているわけではないだろう。
「いや、待てよ?」
ありえない話ではないかもしれない。
攻撃をされると痛いから、痛いと困るから、何が困るかと言えば、それはエルヴィラが思いつく可能性は一つしか無かった。
「核に響くのか…つまり元になった本体がまだこの魔獣の中にいるって事か」
抵抗したのは、痛いからだけではなく、そこに当たると困るから。
どれだけ巨大で強力で凶悪な外殻に身を包んでいようと、本体を潰してしまえば終わりだ。
あるいは仕留めきれなくても、本体への修復を優先しなければならないほどの傷を与えれば、魔獣形態を保てなくなる。
そしてもう一つ、エルヴィラが気付いた弱点がある。
確証が持てなかったが、先ほどのカイの銃撃で、確信を持つことが出来た。
ただの人間だと思っていたが、そこらへんにちょっと感謝。
(わっかりやすい弱点…コイツは魔力による攻撃しか防げないんだ)
つまり、物理攻撃に極端に弱いのだ。
(ゲルダの氷は効果が皆無なのに対して、カイの銃撃、ジャンヌの剣、私の投擲は弾かれる事なく全部通ってる)
ダメージを与える事自体はかなり簡単だ。
しかし、たったひとつ、しかし大きな壁がある。
「っ!」
考え込んでいたエルヴィラは、背後から手が忍び寄っている事に気付かなかった。
ぐいっと髪を掴まれ、そのまま地面に叩きつけられる。
「後ろ髪を引かれる思いって…意味が違うなっ!」
しかし体が地面に強く打たれる直前に、エルヴィラは体の自由を取り戻し、無傷で着地する。
そのまま鋭い爪で自分の髪を掴んだ数本の手を切り裂いた。
「あーもう最悪…こんな雑に髪切ったの初めてだよ」
掴まれた髪を短剣でバッサリ切ってしまう事によって、体が潰れるという難は逃れたものの、腰まで伸ばしていた自慢の金髪が雑な切り口で肩の方まで短くなってしまった。
流石に気分のいいものでは無い。しかも切った髪は魔獣マリの潰れた口に運ばれて、咀嚼されている。
「気色悪いもんみせやがって…ってうおっ!」
息をつく間も無く、更に無数の手がエルヴィラを襲う。
次々とやってくるおぞましい手を一つ一つ丁寧にかつ迅速に切り裂き払ってはいるものの、徐々に攻撃の手が追いつかなくなっていく。
たったひとつの大きな壁、それは単純に、この化け物が強いという事である。
巨大で、力があり、無数の手で千切られれば不死身の魔女でも絶命し、魔法は効かず、魔女を食べればその分更に攻撃の手を増やすと同時に巨大化していく。
物理攻撃でダメージが通るからと下手に突っ込んで行けば、どうなるかは目に見えている。
仮に上手く近付けたとしても、攻撃が本体に通らなければ何の意味もない。
「そもそもどこだよ! 本体!」
駆け足で距離を取るエルヴィラ、その足元に、大きな瓦礫が投げ込まれ、転がって来た。
「⁉︎」
手を避ける事に必死だった彼女は、その瓦礫に気付かず、再び足を取られバランスを崩して、だらしなく尻餅をついてしまう。
勿論、そんな絶好のチャンスを見逃すはずも無く、無数の手は一瞬でエルヴィラを取り囲み、とぐろを巻く蛇のように彼女の周りを回り出した。
エルヴィラと手との空間が、徐々に狭まっていく。
「あ、詰んだ」
これは流石に回避できない。
跳ぶ? 無理だ。逃げ場が更に無くなる上に空中では自由に動けない。
穴を掘る? 無理だ。そんな時間も魔法も無い。
魔法。穴を掘る魔法では無いが…私は魔女。
積み重ねて、経験して、得た魔法なら、一つある。
(使うべきか…特異魔法)
エルヴィラの心が揺れ動く。果たして、自分の特異魔法をここで使ってしまっても良いのだろうか。
使いどきを見誤れば、全員死ぬかも。
『防衛の魔女』が敗れれば、『反乱の魔女』は躊躇なくこの国を滅ぼすだろう。本当に魔女だけの、魔女が中心の世界を作り上げてしまうかもしれない。
ペリーヌは、人間が滅ぶのを望むだろうか?
「っ! ダメだねぇ…! ここで特異魔法を使うのも! 私自身が死んじゃうのも!」
エルヴィラは再び爪を構える。しかし構えたところで、この状況を一転させれるような妙案は都合よく浮かばない。
ふと見ると、ジャンヌやゲルダ、カイですら、自分を救助しようとこちらの手に攻撃を加えてくれている。
なのに、一切緩むことのない手の渦。
奇跡は、都合良く、起きたりしない。
「ああ、思い出しましたよ…貴女…エルヴィラさん」
渦の中心にいるはずのエルヴィラの耳元で、少女が囁くようにそう言った。
こんな危険地帯に、誰が、どうやって。
しかし、考える間も無く、エルヴィラの体は二本の手にガッチリと掴まれる。
(しまった! 油断した!)
声は手から発せられたのだろうか。そんな知恵まであったのだとしたら最悪だ、知性がある化け物に、今のメンバーだけで勝てるとは思えない。
ましてや一人は、戦意喪失している『幽閉の魔女』…。
「…あれっ?」
掴んだ手を振りほどく事が出来ず、絶体絶命かと思っていたエルヴィラは、自分の身に起こった異変に思わず間抜けな声を出してしまう。
外が明るい、今まで手が作る暗い影の中にいたのに。
今感じているのは外の気温と、吸いやすい空気、それに陽の光。
どういうわけかは不明だが、エルヴィラは一瞬にして手の渦から脱出していたのだ。
「エルヴィラさん…私ね…思い出しましたよ…」
再度、背後からかけられる声に、エルヴィラはハッと振り向いて、相手の正体を確認する。
「は…? アンタ…『幽閉の魔女』⁉︎」
エルヴィラの体を掴んでいた手は魔獣のものではなく、ジョーンのものだった。
そのか細い手をするりとエルヴィラから離すと、ジョーンは魔獣を指差して言う。
「とりあえず…あの化け物を殺しましょう…私を庇って死んだ…シェイネさんの仇を討ちます」
彼女の雰囲気は、さっきまでのおどおどした態度とは比べ物にならないぐらい落ち着いており、どこか大人っぽさを感じさせた。
いや、それよりも、まるで人自体が変わってしまったかのような変化に、エルヴィラを含め、その場にいる全員が彼女の様子を伺った。
不安を滲ませていた目とは全く違う、氷のように冷たい彼女の目は、どことなく『反乱の魔女』を連想させる。
「お前…どうしたんだよ…恐怖でおかしくなったか…? ってかお前…どうやって『縄張りの魔女』をあそこから連れ出したんだ…? お前の特異魔法は確か…ダメージを押し付けるカウンター魔法…」
「いっぺんに聞かないでくださいよ…私の脳はそんなにハイスペックじゃありません…」
思わず疑問が全て出てしまうカイに、ジョーンは困った顔を浮かべながら、静かにするように人差し指を立てて口に当てる。
ジョーンが再び口を開こうとするその前に、素早い手の群れが襲いかかる。今度はエルヴィラと、ジョーンの二人を重点的に狙っているようだった。
ジョーンとエルヴィラは地面を蹴り、その攻撃から身を躱す。
先程とはうってかわって、ジョーンの動きには信じられないほどのキレがあった。
「おい…おいっ! 『幽閉の魔女』!」
躱しながら、迎え撃ちながら、エルヴィラはジョーンに声をかける。
「なんですか」とジョーンは一切声を乱さず、エルヴィラに向くこともなく淡々と返事する。
「思い出したって何っ⁉︎ 私達面識あったっけ?」
エルヴィラの問いに、ジョーンは露骨に嫌な顔を浮かべる。それから呆れたように「はぁ」とわざとらしいため息を吐くと、エルヴィラを睨む。
「本当に嫌な記憶というものには…魔女であれ人間であれ蓋をしたがるものなんです…別に無理に思い出せとは言いませんけど…貴女はちょっと忘れすぎですね…いや、それとも」
見ないようにしてるだけで、本当は分かってるんじゃないんですか?
ジョーンの言葉が届くよりも先に、二人の間に巨大な手の壁が出現する。
「ああもう…邪魔だな」
ジョーンは下腹部に手を当てて、大きく息を吸い込んでから「皆さん!」と声を張り上げる。
「この魔獣は単純な物理攻撃に弱いです! 本体を潰せば絶命するでしょう! 魔獣の本体がいるところには、防御部位が密集しているはずです! そこを狙いましょう!」
「防御…部位?」
ジョーンのその言葉に、全員が魔獣の全身を細かく観察する。
そして背中の中央辺りに不自然なものを発見した。そこにはいかにも硬質そうな、まるでサイの角や象の牙を思わせる突起物がいくつも生えていた。
「全員で協力してあそこを叩きます、本体が飛び出したら迷う事なく仕留めてください」
「突然何を言い出すのかと正直困惑しているが…彼女の案に乗るのが一番手っ取り早そうだな…魔力を必要としないシンプルな物理攻撃か…では」
ジャンヌは剣を引き抜き、自信たっぷりの笑みを浮かべる。
「具体的にはどうすりゃいいんだよ『幽閉の魔女』!」
「私は氷しか取り柄がないぜい!」
叫ぶ姉弟にジョーンは「大丈夫です、かなりシンプルなので」と自分を指差しながら言う。
「あの魔獣は魔力を追って私達の居場所を把握しています。なのでこの中で魔力を沢山使っている人を優先して狙うはずなんです! ですから」
ジョーンの姿がその場から消える。そして次の瞬間には魔獣の潰れた顔の前に移動していた。
「私が囮になるので、皆さんはその隙に攻撃を、多少魔法を使っても大丈夫ですよ…だって」
再びジョーンの姿が消えて、今度は魔獣の頭上に現れる。
「私が授かった特異魔法『ワープ』は…普通の魔法よりも強い魔力を消費しますからね、魔獣はどうしたって私を狙いますよ」
さぁ、反撃しましょうか。
ジョーンの鋭い瞳が、魔獣マリ…それからエルヴィラを捉えた。
魔女達の戦いは、まだ続く。しかしその目的は、徐々に曖昧になりつつある。




