第十話 家族
深夜僕はフと目を覚ます。
いつもは朝までぐっすり熟睡なのだが、今日は寝る前に夢前さんが僕に課した最終試練についてぐるぐると考え事をしていたので、眠りが浅かったのかもしれない。
「あふあ………」
あくびをしつつ僕はベッドから出る。目を覚ましたついでにトイレに行くことにしよう。
自室の扉を開けると目の前にはキョウダイの五月の部屋の扉。カノジョはもう寝ているらしくシーンと静まり返っている。
隣の兄さん、一夜の部屋からはカタカタとキーボードを打つ音が微かに聞こえてくる。扉の隙間からは光が漏れていた。まだ起きているようだ。この間僕の買い物につき合わせて一日潰してしまったので、今その埋め合わせをしているのかもしれない。後でコーヒーでも持っていこうか。そんなことを考えながら僕はトイレに行くために一階への階段を下りていく。
そこで死体を発見した。
「ひっ!」
僕はのどの奥から引きつった悲鳴をあげて思いっきりのけぞった。暗くてよく見えないが、長い髪にナイトドレスみたいな派手な格好の人物が玄関にうつ伏せに倒れている。
なっなんでこんなところに死体が………?!
すぐさま兄を呼ぼうと階段を振り返るが、対応を話し合うにもまずは状況の確認が先決だ。恐る恐る玄関のライトをつけることにする。
パチ
明かりが点くと現場の様子が鮮明になった。そして僕はいきなりほっとする。死体だと思ったのは僕の家族だった。
夜遅く仕事から帰って家に入った途端力尽き、ここで眠ってしまったらしい。見た事がない服装だったので暗がりでは家族だと判別できなかったのだ。
それにしてもすごい格好だ、と僕はしげしげと死体発見現場を眺める。
まず髪はザンバラだ。上半身だけ上がり框に引っかかっているような状態で、頭髪は激しく乱れてワヤクチャになっている。右手は溺れる者が藁に縋るかのように必死に伸ばされ何故か力一杯スリッパを握り締めている。身に着けたワインレッドの派手なワンピースは、裾がめくれて太もも丸出し。そして開けっ放しの玄関から赤いハイヒールを履いた片足だけがお外に出てしまっていた。というか玄関扉に挟まっていた。そしてくの字に折れたもう片足は何故か素足。と思って探してみると相棒のハイヒールは上がり框の下にだらりと垂れた左手に握られているのだった。
我が家族ながらすごい絵面だった。どうやったらこんな無残なことになるのか。題名をつけるなら『遭難―深夜の玄関にてー』というところだろうか。
ともかくこのまま放置しておくわけにはいかない。
「CHIHIROさん。起きて。こんなところで寝てたら風邪引くよ」
僕はこの人の源氏名を呼びながらゆさゆさと肩を揺する。CHIHIROさんは「うーん」と呻くだけで起きようとしない。よっぽど店で深酒したんだろう。
「しょうがないなあ」
僕はぼやくとCHIHIROさんの若干ぬるっとする脇をがっしり掴んで廊下へと引きずりあげる。途中で膝が上がり框にぶつかってゴツッと痛そうな音がしたが、ボクキニシナーイ。
そこで一度CHIHIROさんを放置し、両手に握り締めた履物をもぎ取りスリッパは所定の位置に、ハイヒールは履いていたものと合わせて靴箱に収納。扉に鍵が刺さったままになっていないか確認してから、玄関扉を閉める。
戸締りをすると僕はまたCHIHIROさんの脇を掴みずるずると運んでいく。CHIHIROさんは樽ごと被って来たんじゃないかと思うほど酒臭かった。しかも重い。それも当然でこの人は七十キロ近い体重があるのだった。
眉を顰めつつ酔っ払いをなんとかリビングに搬入しソファーにデレンと座らせると、思わずふーと息が漏れた。何で泥酔してる人ってこんなに重いんだろうなあとかどうでもいいことを考えつつリビングの照明を点ける。
「う、うーん」
光に反応したのかCHIHIROさんがそこでやっと目を開いた。
「………三色?」
「そうだよ。あなたの息子の三色ですよ。水要る?」
「うん。頂戴」
寝ぼけたような表情で頷くCHIHIROさんのために冷蔵庫を開け、よく冷えたミネラルウォーターをガラスコップに注ぎ差し出すと、「ありがとう」といってゴクゴク喉を鳴らしながら一気に飲み干した。
「プハアー」
とおっさん臭く息を吐いて笑顔になるCHIHIROさんに僕はため息をつく。
おっさん臭く、か。
―――というかおっさんなんだよ。
CHIHIROさんは四十過ぎのおっさんなんだよ。というか僕の父親なんだよ。
本名鉢伏次郎。性別男。しかしその精神は女。
もうお気づきかと思うが、僕の父もキョウダイの五月と同じく性同一性障害者。男の体に女性の心を宿した人間であった。
ただ五月と違い父が自分を性同一性障害者だと認識したのは、結婚し三人の子供を設けた後だった。
父はずっと前、それこそ五月と同じ年齢の頃から、自分の体が男性のものであることに違和感を覚えていた。「わたしは本当は女なんだ。でも間違って男の体で生まれてきてしまったんだ」という奇妙な確信があったのだ。
しかし周りを見れば誰もが自分の体と性別を違和感なく受け入れているように見えた。いつしか父は「自分は異常なんだ」と思うようになり、違和感を誰にも相談できず、男性を好きになってもそれを異常なことだと心の奥底に封じ込めて生きてきたのだそうだ。
そして自分に好意を寄せてきた女性―――ようはこれが僕たちの母なのだが―――と結婚。子供もでき、普通の家庭を築き、普通に母と添い遂げようとした。
でもずっと父の中の違和感は消えなかった。子供を作ってさえも本当は自分は女なんだという思いは消えなかった。でもそんなことを言えば異常者だと思われてしまう。社会から外れたくない。
父が警官で母が教師という公務員一家の極めて厳格な家で育ち、小さい頃から自分独りがアウトサイダーであるかのような感覚を持ち続けてきた父にとって、父親―――僕にとっての祖父―――に口酸っぱく諭された『社会の常識』から外れることは大きな恐怖だった。
そんな時だった。TVで性同一性障害が取り上げられた。父は「これだ!」と思ったのだそうだ。自分は性同一性障害者だったのだと。そして多くの同じ障害を持つ人たちがいることも知った。自分は一人じゃなかったという思いとともに、本当の自分を出したいという思いが父の中で膨らんでいった。それは祖父と祖母が病気で共に亡くなってからは、歯止めを無くしたように大きく強くなっていった。
そしてその時が来る。
役所勤めだった父はある日、仕事から帰ると家族をリビングに集めこう言ったのだ。
「今日市役所を辞めてきた。私は明日からゲイバーで働く」
もちろん家族は大恐慌だ。そんな僕らに父は静かに自分が性同一性障害であること、今まで自分の気持ちを偽ってきたこと、母に対して男性としての愛情は持っていないこと、しかし僕ら家族を心から愛していることなどを語って聞かせた。
兄は本当に可愛そうなぐらい混乱して、父の服の裾を握り「どうして? 嘘でしょ?」と涙ながらに繰り返していた。父を尊敬し父と同じ公務員になることを目指していた兄にとって、自分の理想像がいきなり崩れ去った瞬間だったのかもしれない。
五月は心ここにあらずといった無表情でぼーっと父のことを見つめていた。たぶんこのとき五月は自分も父と同じだと気付いたのだろう。父のことより自分のことで手一杯だった感じが今思い出せばする。
そして、一番ショックを受けたのは母だった。先の話を終えた父を何度も平手打ちすると、………後は泣くばかりだった。それも当然だったろう。自分が愛した男の精神が実は女のもので、自分に対して男性としての愛情を持っていなかったと告げられたのだから。母には父と過ごした今までの時間すべてが偽りだったと感じられたのかも知れない。
そして家族は崩壊した。
数週間にわたって父と母そして兄は今思い出すのも嫌になるくらい壮絶な口論を繰り広げ、最終的に母は家を出て行った。唐突に誰にも告げることなくたった一人で。そして後日何も書かれていない封筒に入った、記入済みの離婚届だけが我が家の郵便受けに入っていた。父は淡々とその書類にサインをし印鑑を押し、自らがかつて勤めていた市役所に提出した。それきり母からの連絡は一切途絶え、
僕たちは母親を失った。
兄は父が女性の心を持っていることをどうしても理解できず、認めることも、許すこともできず、父に対する敬愛はすさまじいばかりの嫌悪にとって代わったようだった。
「あんたが育てた俺を俺が殺す。あんたが教えてくれたものは全部捨てる。俺は母さんと俺たちをだまし続けたあんたを一生許さない」
その言葉を最後に兄は自分の部屋に引きこもった。
そして僕は何もできなかった。
家族が壊れていくのをただ見ていた。
本当に何をすればいいのか見当もつかなかったのだ。
僕が行動を起こしたのは母が出て行ってしばらく経ってからだった。
このままでは今残った家族も散り散りになってしまう。本当の意味で繋がりを失ってしまう。
家族が家族でなくなってしまう!
それはまだ幼かった僕にとってとてつもない恐怖だった。
だから僕は決意した。
ならば僕が家族を繋ごう。家族をくっつける接着剤に僕はなろう。僕もいっぱいいっぱいだったが、他の家族は僕以上にいっぱいいっぱいだった。それをできるのは僕以外にいなかったのだ。
まず僕は父と話す事にした。ゲイバー勤めを始めた父の生活サイクルは不規則なものになっていたが、時間を見つけて何度も何度も話し合った。話すしかないと思ったのだ。少しでも父を理解したかった。
でも何時間語り合っても僕にはとうとう父の気持ちを完全に理解することは出来なかった。そして僕は知る。
たとえ親でも異なった人格を、個性を持つ違う人間なんだ、理解できないことが分かり合えないことが当たり前なんだということを。
ならばどうするか。出来ることは限られていた。
すなわち妥協だ。
僕は現在の父を否定し自分の理解の枠の中に入れようとするのではなく、理解できないままに父のことを、その女性の心も含めて受け入れることにしたのだ。
その産物こそが『CHIHIROさん』という呼び名だった。
父さんと呼ぶことを父が嫌がり、母さんと呼ぶことを僕が厭った結果、父のゲイバーでの源氏名で呼ぶことにしたのだ。まあ五月は普通にお母さんと呼んでいるんだけどね。これはあくまで僕と父との妥協点だった。
このように僕はその後も父と話し合いを重ね、お互いの妥協点を探っていった。たとえば家では女物の服を自由に着ていいが、外では比較的ユニセックスな服を着るようにするとか、お尻を振りながら歩くのは止めようとか、髭を剃っているところは見ないようにしてほしいとか、僕たちはそんな細々した要望や希望からお互いが生活し易い環境を作り上げていった。そして今もそれは続いている。
こうしてとにかく父と折り合いをつけた僕は次に兄と話し合うことにした。
兄は父に対しては頑なだったが、小さい頃から可愛がっていた僕に対してはやはり甘く、意外とすんなりとドアの中に入れてくれた。そこで僕たち兄弟は膝を突き合わせていろいろなことを話し合った。もちろん主題は父と兄との仲直りに関してだ。いつまでも親子が断絶したままでいるのは僕にはいい状態とは思えなかったから。
しかしこの件については兄も僕の言うことに耳を貸さず、兄が父と仲直りすることは決してなかった。せいぜい僕が必要事項を伝言する程度の関係を今も続けている。これでも完全に国交断絶鎖国状態だった最初の頃を思えば大きな前進なのだけど。
引きこもりから脱出できたのも僕の手柄ではなく、動画サイトのおかげといっていい。兄が暇に飽かせて作った動画を見て感想を書き込んでくれた人や、人気が出た兄と契約してくれた音楽会社の人達には本当に御礼を言いたい。
五月に関しては前に少し触れたが、今では学校に自分の心の有り様をカミングアウトし、在校生徒たちにも一定の認知を得ているようだ。それどころか男子からラブレターをもらうこともあるらしい。きっと僕が学校に行って先生と話しう会うことはもう無いだろう。まあそれでも心配は心配なのでちょくちょく電話をかけて担任の先生に五月の様子を聞いてはいるのだけど、これはもう習慣のようなものだ。父は夜の仕事で昼は寝ているしね。
そんな感じで僕たち家族はそれぞれの居場所を見つけ、何とか空中分解せずに家族であり続けている。この今も続く事件から僕が学んだことは、僕が出来ることは本当に小さなことなんだということ。結局何一つ『解決』出来なかったし、本当に話を聞くぐらいしか出来なかったからね。
そしてこの事件は僕の人格形成にも大きな影響を与えているのだろう。
自覚するのは他人に対するストライクゾーンの広さだ。
多少性格が悪いとか口が悪いぐらいでは、何ぼのもんだと思うようになった。なにしろ自分の父親さえも理解の外なのである。他人のことなど何をかいわんやだ。まあそのストライクゾーンの広さがいいのか悪いのか僕自身には分からないんだけどね。
ともあれ、
「ちゃんと化粧落としてから寝なよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
CHIHIROさんと僕は微笑みあって、会話を終了する。
くだらないたわいの無い会話だけども、きっとこれが大切なのだ。こうして何気ない会話を重ねていくことでしか僕らは分かり合えない。そしてその原動力を、
たぶん愛情というのだろう。




