チャーリーの初恋
セント・ジェームズ駅の構内は石炭の煙で薄靄がかかっていた。大英帝国のターミナル駅にふさわしく、構内には何両もの汽車が止まっている。その中のいくつかはすでに出発の準備を整えて黒煙を噴き上げていた。
チャーリーは霞の向こうに広がる膨大な光景に圧倒されてしばし立ち尽くした。これが世界の終点
か。初めて見るセント・ジェームズ駅の威容に驚くほかなかった。チャーリーが見たことのある駅なんて一つもないのだ。チャーリーが父と共にコーンウォールからロンドンに出てきて数年。大都会は驚くことばかりだったが、それも今日のセント・ジョーンズ駅にはかなわない。
しばし立ち尽くしたのち、ハッとして、ずっと握りしめていた紙切れを慌てて広げた。
親愛なるチャーリー
15日にセント・ジェームズ駅から発ちます。12時の列車に乗る予定です。最後にあなたと……
キャサリンより
キャサリンの笑顔が脳裏に蘇る。彼女は父が働いているお屋敷の令嬢だ。歳が近いこともあって、遊び相手として
チャーリーと共に過ごす時間が長かった。
チャーリーはもう一度手紙を見直した。セント・ジョーンズ駅には列車が止まっているホームだけで10個近くある。行き先を知っていれば探すことなど造作もないと思ったのかもしれないが、あいにく駅に来たこともないチャーリーには誰に聞けばいいのかすらわからなかった。
途方に暮れている横を、急ぎ足で人々が通り抜けていく。花売りの少女、大股で歩く紳士、息子を寄宿舎に送り出す婦人。出会いと別れはこの駅では日常だ。だれもが一生の別れを素通りしてしまう。なぜだかチャーリーは胸を締め付けられるような悲しみに襲われた。
「どうした、坊主」
不意に、銅間声に肩を叩かれた。振り返ると労働者風の大柄な男が、にっこり笑って立っていた。チャーリーは慌てて、かぶっていた帽子の位置を直す。どう見ても裕福ではないサイズの合わないシャツやズボンに不似合いなピカピカのハンチング帽だ。
「失礼しました。あの、私は」
男は吹きだした。
「私はって年じゃねーだろ坊主。お前、いくつだ」
「……14歳です」
「そんな年端もいかない餓鬼がうろつく場所じゃないぞ。親はどうしたんだ。迷子か?」
「いえあの、今日は、そのぅ、人と待ち合わせしてて」
「待ち合わせぇ? こんな場所でか」
「はい、あの、12時発ヨークシャー行の列車はどれですか」
「どれってえと、あの6番線のホームから出るやつだが」
「ありがとうございます」
「あ、おい」
チャーリーは男が呼び止めるのも聞かず、お辞儀をしてその場を後にした。彼の心はキャサリンとの約束で一杯だった。煙で痛む眼を擦りながら、6番線のホームを探す。4番線、5番線と辿るうちに黒煙の切れ間に6番線の看板が覗く。はやる心を抑えながら早足で歩く。時刻は11時45分。もう時間がない。この分だとたとえ会えてもあまり話はできないだろう。それでも、一言だけでも。幾度も夢に見たコーンウォールの荒々しい海岸をもう二度と見ることができないとしても構わない。
ああ、キャサリン、この街で初めての友達。庭師の息子にすぎない僕に惜しみない愛を分け与えてくれた人。新米の使用人の息子であったぼくがあのお屋敷で生きていくのに彼女の言葉からどれほど勇気をもらったことだろう。彼女にわ与えられたものに比べて自分はどれほどのものを捧げることができただろう。あと少し一緒に入られたら自分も働きに出て、幾らかのお給料からプレゼントを買えたのに。
彼は幼いながらも、自分と彼女のあいだには身分という絶対的な隔たりがあることに気付いていた。そしてその隔たりは年を経るごとにより強固になっていくことも。きっと彼女は美しく、強くていくにつれて彼のことを忘れていくだろう。やがては庭師として働く彼を一顧だにせず着飾って舞踏会やパーティに出かけるようになる。それでもかまわなかった。いや、そうでなくてはいけないのだ。
それでもチャーリーは胸に秘めた幼い恋を、大事に守り続けている。使用人部屋のドアの前にそっと置かれたあの手紙をもらった時、どんなにか嬉しかっただろう。キャサリンの特別な友だち! たったそれだけのことが
雑踏の中でともすれば不安になる彼の心を支えていた。
チャーリーはもうほとんど走って6番線のホームへ向かった。
6番線ホームは列車に乗る人、見送る人でごった返し、すぐには進めないほどだ。霞の向こうにうごめく人々。この時、ようやくチャーリーは一つの列車が幾つものコンパートメントに分かれていることに気づいた。手紙には何両目のコンパートメントに乗っているのかも書いていなかった。一体どうやってこの中から彼女の客室を探せばいいんだ!?
列車が汽笛を鳴らした。諦めそうになる心を必死につなぎとめ、チャーリーは一両一両窓から覗き込んでキャサリンの客車を探した。焦燥感に胸を焦がされながら、雑踏を縫って走る。コンパートメントを確認するたびに失望と、焦りが強くなる。玉の汗が灰で煤けたホームに落ちて弾ける。
残るコンパートメントは後3つ。チャーリーは祈るような気持で窓から中を覗き込んだ。
「まあ、チャーリーじゃない」
お人形のような女の子が声を上げた。両親と家庭教師のあいだに座らせられて退屈そうにしていたのに、急に笑顔になって窓に近寄ってきた近寄る。チャーリーはどぎまぎして、帽子の位置を直した。父がくれた素敵な帽子。どうかこのダボダボのシャツやズボンを覆い隠してしまうくらい格好良く見えますように。チャーリーはポケットの中で指を交差させた。
「来てくれたのね、チャーリー」
チャーリーはもう、顔が掘ってまともに返事できなかった。やっとのことでお辞儀をして挨拶をすると、キャサリンは興味深げな顔をして、彼の頬をなでた。
「顔に炭がついていてよ、チャーリー」
チャーリーは真っ赤になった。
汽笛が静かな陽光を切り裂いた。プラットホームの人たちはあわただしく別れの挨拶を済ませる。
何か言おうと必死に口を動かすのだが、焦るばかりで何も言葉にならない。
キャサリンはクスリと笑うと、彼の手を取った。
「お別れね」
「お別れです」チャーリーもやっとの思いで答える。
その時、横に座っていた家庭教師のオールドミスが顔をしかめたまま窓を閉じた。
二人は言葉もなく見つめ合う。何か言わなければいけないとはもう思わなかった。
列車が動き出す。そして、二人は一瞬手のひらをガラス越しに重ね合わせた。再び汽笛が鳴り、チャーリーは列車から離れた。
「さよなら、チャーリー」
絹糸のような細い声が流れて、消えた。
キャサリンはすぐに視界から消えた。後には真っ黒の車体と怪訝な顔の客たちが次第にスピードを上げて通り過ぎていくばかり。列車はどんどん加速していく。すぐに列車は見えなくなった。
列車が去って、周りの見送り人たちが三々五々帰り始めた。チャーリーは何も言わず、ひとりで突っ立っていた。手のひらにかすかに残る冷たい感触を思い返していた。この冷たさを一生覚えておこう。そうして、この別れがなんでもなくなるくらい早く強く、清くなりたいと思った。将来再び会ったとき、僕がこの日傷ついてダメになったりなんかしなかったんだってわかってもらえるように。
今日という日を忘れるよう努力することだけが、この日を永遠のものに昇華させてくれると、彼は知っていた。