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「あ、ぁっ!?」
腕を捻り上げられたまま、男は捺を睨み上げた。しかし恭がさらに力を込めることでその視線は外れ、ますます痛みに顔を歪める。
「きょ、恭様? さすがにそろそろやりすぎじゃ……?」
「……変に絡まれたんだからお前は怒れ」
「わたしが怒る前に恭様が手出しちゃったので怒るに怒れなくなっちゃったんですよっ」
「俺のせいにするな」
「いっ、だだだだだ!」
「ちょっと恭様!?」
「……阿呆が」
心底呆れた呟きが落ちると同時に、男を拘束していた恭の手が放される。
男は痛む腕を押さえながらも最後の悪あがきとばかりに二人を睨みつけると、大きな舌打ちを残して横を走り抜けて行ってしまった。そしてその後を少し前から見ていたお仲間と思われる同じような格好をした男たちが慌てて追いかけていく。
「あのお仲間さんたち、どうして見てただけで助けに入らなかったんでしょう……」
「俺が知るか」
まるでなにもなかったかのように鞄を持ち直した恭と、まあいいかとどうでもよさげに視線を恭の背に戻した捺に恐る恐るといった風の声がかかった。
「……あの、」
お仲間の男たちに隠れて見えなかっただけで、同様に絡まれていたらしい少女。彼女は捺と同じ制服を着て、まさに大和撫子を絵に描いたような容姿をしている。そんな少女が美しいほど真っ直ぐに伸びた背筋を折り、背に流れていた黒髪が一束、前に落ちてきた。
「流れとはいえ、助かりました。絡まれて困っていたんです。ありがとうございました」
一通りの礼儀作法を学んできた捺ですらうっかり見惚れるほどに洗練された所作にも、恭は顔色一つ変えない。
「別にあんたのためじゃない、勘違いするな」
「女性に対してそんな言い方しないでください! 紳士としてアウトです!」
咄嗟に口から出ていた言葉に捺はハッと我に返る。そして改めて少女を上から下までじっくり観察した一拍後、彼女は少女を指さし叫んだ。
「あああぁぁぁぁ!」
「えっ」
「は?」
驚いて目を丸く少女に、さすがに振り返って捺を凝視する恭。しかし彼女はそれでも指さすことをやめなかった。
捺には少女に見覚えがあった。制服はもちろんのこと、容姿や立ち振る舞い、言葉づかい。台詞や状況こそ違うものの、これはもしかして、――出逢いイベント!? というか終わったあああああぁぁぁ!?
「…………え、と、失礼しても?」
「……あぁ、」
そんな会話も捺の耳を右から左へと流れていった。
◆◆◆
「……で、捺はなにを落ち込んでるの?」
フラリフラリ、頼りない足取りで登校してきた捺が机に沈み、真面目な顔で授業を受けたと思ったら休み時間にはまた沈み、お昼ご飯を食べたら沈んで。なにかない限り顔を上げない彼女の様子に、一日中クラス全員から無言の圧力を受けたほのかが放課後になって観念し、渋々と声をかけた。
ほのかの声にぴくっと反応を示した捺がのろのろ頭を上げる。泣いていてもおかしくないほど顔を歪めた彼女に、さすがのほのかも驚き本気で腰を据えて話を聞く体制を作る。
「恭様のイベント、ことごとく起こらないんだよほのか!」
「…………はあ」
即座に聞く体制を崩した。
「ちょっと! そんなどうでもいいみたいな返事しないで!」
「だってどうでもいいでしょ、そんなの」
「よくなーいっ!」
出逢いイベントから早ひと月あまり。起こるはずの再会イベントを初めとし、お昼イベント、図書室イベント、掃除イベント等々。攻略対象でありイベント対象である恭にはことごことく躱され、代わりにそれらに遭遇していたのはなんと捺である。なんとか恭と鉢合わせさせようとしても当たり障りのない軽い口先だけの会話のみで終わり、まったく惹かれ合っている様子はない。
「なんでっ、なんでなの……!」
顔に疑念を浮かべる捺に、でもほのかはそれ以外の色を垣間見る。気付いた彼女がそれを指摘する前に、第三者が捺を呼んだ。
「捺、帰るぞ」
「恭様!」
その声に、捺は一転して笑顔になる。ゲーム内では攻略対象であり自分はモブだと主張する彼女の幼馴染、そして彼女にとってなによりも優先される存在。
ほのかに断りを入れ彼と共に帰ろうとする捺の腕を引き、驚く彼女をよそに恭に声をかけた。
「ごめん、相賀君。今日はちょっとこの子借りてもいいかな? 遅くならないうちに帰すから」
「えっ、ちょ、ほのか!?」
なに言ってんのと叫ぶ捺には一切視線をやらず、無言でこちらを見下ろしてくる温度を見せない瞳。――スチルで見たゲーム内の相賀恭の瞳と髪は黒ではなくネービーブルーだったはずだ。
外見ひとつとっても、ゲーム内の相賀恭と目の前で生きて動いている相賀恭には大きな違いがある。捺だってちゃんと見ているはずなのに。
「一度ちゃんと、話しておきたいことがあるから」
ほのかは恭から視線を逸らさない。はあ、彼の口から小さなため息がひとつこぼれ、捺を置いて背を向けた。
「……捺、気を付けて帰ってこい」
「恭様まで!?」
「ありがとう、相賀君。それじゃあちょっと借りるね」
立ち上がっていた捺を強引に座らせ、その間に恭は一人教室を出ていく。捺の前の席に腰を落ち着けたほのかは、彼の背を追う彼女をじっと見つめた。背が扉の向こうに消えても尚、なかなか視線を動かそうとしないその様子を彼女自身なら「主人を心配する召使い」とでも例えそうだけれど、ほのかにはまったく別のように見えて仕方ない。
「捺、わたし前に言ったよね? この世界はわたしたちが知ってる世界とまったく同じじゃないと思うって」
「……どうしたの?」
振り向いた捺は、ゆっくりと首を傾ける。会話自体は先ほどの延長にあるものなのに、込められた響きは聞いたこともないほどに真摯なもの。ほのかの意図を読み取れないでいる捺の顔には、困惑がありありと浮かんでいた。
「もう、いい加減白黒つけないといけないの」
緑川捺という一人の人間のためにも、相賀恭という一人の人間のためにも。




