02
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「麻央ちゃん、おはよっ!」
「おはよー」
廊下をのんびり歩く麻央の隣を、一年の時のクラスメートが走り抜いていく。朝から元気だなー、なんて婆臭いことを考える彼女は今日から高校二年生。この世界が乙女ゲームの世界であると気付いてからもう一年と少しが経ち、『運命の導』は一応今日からゲーム開始となる。
「んーと、確か隣の隣だったっけ、主人公は」
転入生である主人公は今日からこの甘美西高校の生徒になり、初日から一週間ほどの期間の間に校内でも有名どころである攻略対象たちと出逢いイベントを次々起こすことになるのだろう。うん、関わらないよう気をつけよう、全力で。のほほーんと気の抜けた表情の下で固く決意した麻央は、すれ違いざまに人とぶつかった。
「わっ、すみません」
「……麻央?」
「え? って、あ、いさ兄かー」
よそ見をしていて気付かなかったけど、ぶつかった人は以前の『麻央』が大好きだった従兄であり攻略対象の一人である春日井勇だった。
勇は攻略対象内唯一の年上で、ツンデレ童顔チビという明らかに褒めてない謳い文句のついたキャラだ。目の前に立つ彼はまさに童顔で高三のくせに中学生に見えてもおかしくないし、身長も平均身長だと自負している麻央と大差ないほどに低い。しかし本人も気にしているため、その類の言葉は禁句だ。発すれば最後、怒髪、天を突く勢いで詰め寄られる。少なくとも一時間は解放されない。そしてその後彼の気が済むまでとことん存在を無視される。……それも、中学生になった麻央が同じく中学生であった思春期真っ只中の彼に『小さくて可愛い』等々の発言をかまし続けたせいなのだけど、麻央にはごめんなさいとしか言いようがない。
「おはよう、いさ兄。今日は遅いんだね」
「…………お前、ほんとになんか変な物食ったんじゃないのか?」
「だから食べてないってばー。いさ兄、その質問もう何度目?」
「だ、だって、お前、受験終わった途端に俺に付きまとわなく、なった、し……」
尻すぼみになっていく言葉と、比例して赤くなる頬。まあ普通の人からしたら自意識過剰じゃないかと思われる発言ではあるが、相手が『麻央』だ。間違いではないから、自分のした発言に気付いて恥ずかしがる必要は別にないと思う。
平日は授業のない朝と放課後は必ず付きまとい、休日は家に押しかけ彼の部屋に居座り彼のすることなすことすべて邪魔する。長年変わらなかったその習慣とも言い換えられる迷惑行為を、麻央は合格発表のあの日以来、ぴたりとやめた。自分の行動が自分の首を絞めることになるとわかっているのだから麻央にとっては当然のことだったのだが、急に追い掛け回されなくなったことに対して迷惑していた勇もさすがに困惑したようだった。
「いさ兄ってさ、お人好しだよねー。嫌いなやつが付きまとわなくなったんだから喜んで今までできなかった青春謳歌すればいいのに」
「っ、だいたい! その『いさ兄』っての、なんなんだよ!」
「え、だって親類のお兄ちゃんだし。あたし、年上はちゃんと敬う人間のつもりだけど」
麻央はこてり、首を傾けた。
これまでは勇がどれだけ嫌がろうとも彼を名前で呼んでいた。お互い名前で呼ぶのは親密な証拠だと思っていたようだ。一度だけそれを口にして全力で嫌がる彼の様子に照れなくてもいいのにと見当違いなことを考えたような気もする。「今」の麻央ではないが。
「それともなに? いさ兄はあたしに呼び捨てで呼ばれたいの?」
麻央の心からの疑問に、勇はカッとますます頬を赤くした。あらら……、ツンデレスイッチを押してしまったみたい。この後に来る台詞がなんとなく想像できて、麻央は聞く気もなく腕時計に目を落とした。
「ばっ! ちっ、ちげえよそんなこと思ってるわけねえだろ!」
「じゃあいいじゃない。そろそろ予鈴鳴るから教室行くね? いさ兄も怒られたくなければちょっと走った方が良いよー」
「あっ!? おいっ、こらっ! 麻央!」
横をすり抜けて、呼びかかる声に振り返ることはしなかった。
背に彼の声を聞いていて、ふと思う。今はこうして普通に、昔に比べたら遥かにマシな会話ができているけど、もしかしたらそれすらできなくなってしまうかもしれない、と。
ゲームのことを思い出して以来、勇との関係を百八十度逆の方向に改善しようとあがいていたわけではない。だけど勇は従兄で、親類で、同じ学校の先輩で。たとえ仲良くなることはできなくても、話しかけて無視されない程度になれたらいいなーなんて。なにをしたわけじゃない。ただこれまでの行為を改めただけ。でもただそれだけで、勇はふとした拍子に名前を呼んでくれるほどになった。『麻央』が無理矢理言わせようとしない限り、決して口にしなかった麻央の名前を。
「……それだけでももう、十分なのに」
呟いてから呟いたことに気付いて、頭を振る。
ここはあくまでも現実だ。勇と主人公がどうなるかなんて、それ以前にイベントだって起こるのかわからない。だけどどうか、と願ってしまうことがあって。そしてその願いの結末を決める始まりは、もうわずか一週間後にまで迫っている。