06
「……お前がなに考えてるかわからない時がある。俺と違ってお前ははっきりと感情を露わにするくせに、本当に時々、なにを考えてるか悟らせないように表情を消す」
滅多にない。だけどキラキラと直視するのが眩しいほどの瞳を恭に向けた一瞬後、捺の視線が彼を通り過ぎることがある。唇を引き結び、切なげな表情で他の誰かに視線を向けることがある。それは決して、恭には向けられない類のもの。理由が知りたくて彼女を呼べば、彼女はなにもなかったかのようにまた瞳を輝かせ、名を呼ばれたことが嬉しいと前面に出して笑う。だからいつも、その表情の理由を訊けないままだった。
「――なぁ、お前は今、誰を見てる?」
恭の言葉に捺は愕然と目を見開いてから、ひどく苦しげに顔を歪めた。
……ねえ、恭様。その言葉は、相賀恭ルートのハピエンに入る直前に主人公が囁かれる言葉なんですよ? 他の攻略対象と話す主人公に、嫉妬に駆られた恭様が強引に詰め寄るシーンの一部なんです。こんなにも台詞は一致しているのに、言われているのは主人公じゃなくてゲームにはいないモブのわたしで、状況もまったく違うなんて。…………じゃあどうして、わたしはここに生まれてきたんでしょうね? ゲームの記憶なんて、持って。
「っ、その表情をするなっ!」
たぶん、恭の言うような表情をしている時、考えていたのはゲーム内の恭のことなのだと思う。現実とゲームの彼とを比べて違う部分を見つけるたびにゲームの彼を思い出して、自分の脳に修正をかけていたのだと思う。だって、そうじゃなきゃ。
「……そうじゃ、なきゃ、なんでわたしは必要ないはずの記憶なんて持って生まれてきたか、わからないじゃないですか。なんのために生きてるか、わからないじゃないですか……」
生きる意味って、大切だと思う。いつもはゆったり歩いているけれど、目標がある人はそれに向かって走り出せるのだと思う。
捺にとってのそれが恭の幸せで、志保と結ばれることだった。自分の感情よりもそれが最重要事項だった。それだというのにそれを違うと否定されて、走り疲れていたらしい足は止まって、動けなくなってしまった。捺は力なく俯いた。
けれど俯いた頬を優しく包む手があった。
「なら、俺と幸せになるために生きればいいだろ」
彼の手が捺の頬を優しく包み、その顔を覗き込む。見たことのないほどに柔らかいその表情に、無意識に一歩引こうとして、動けなかった。
「俺と幸せになるために生きろ、捺」
「きょ……さま?」
「嫌か?」
感情があっちこっち走って。でも恭と共に生きることを、傍にいることを嫌だと思ったことはない。苦しい時はあったけど、それでも傍にいることをやめようと思ったことはない。無意識のうちから首を横に振っていた捺に恭はまた柔らかく表情を崩して、頬を包んでいた手の片方で彼女の手を引いた。
捺の両親が彼に与えた部屋に引きずり込まれ、扉に背を預けた恭に正面から抱きしめられた。
「きょう、さま……?」
「緑川夫妻は今夜は食事をしに外出しているとはいえ、あんなところだと落ち着かない」
離そうとしない力強い腕にちょっとした安堵を覚えながら、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた捺は躊躇いがちに声をかける。
「え、……っと、恭様、わたし今いろいろといっぱいいっぱいと言いますか、ぜひ一人になって頭を整理する時間が欲しいと思うのですが……」
「却下。今日は今まで隠してたこと、全部吐き出してもらう」
なんか強引だ……! はっ、でも恭様の設定は俺様御曹司でした! 正直ゲームでも現実でも俺様要素あんまりないけど間違ってない! ……というかなんで恭様に抱きしめられてるの!?
大人しくされるがままにしていたはずの捺の頭がようやく回り始める。もぞもぞと小さく抵抗をし出した彼女の名を、恭が呼んだ。いつにない真剣みを帯びた声音につられ、強い力で抱き寄せたまま離そうとしない恭の顔を見上げた。ふざけた色の一切ないその真面目な表情に、捺の心臓がギュッと収縮する。
「捺、俺のこと嫌いか?」
「…………その聞き方はずるい、です」
慕ってきた相手を、前世からずっと憧れて気付かぬうちに強く想いを寄せていた相手を拒むという選択肢を捺は持っていない。恭の目に「召使い」としてでない自分の顔が映っていることが、それを確定的にする。
「……恭様、」
「どうした?」
いつになく優しくて甘いそれに、ただただ泣きそうになりながら。捺は怯える子供のような瞳を恭に向けた。
「言葉を、……言葉を、くれますか?」
「言葉?」
「捺は、恭様にとって、なんですか? ……召使いのまま、ですか?」
「召使い」。その言葉で自分を縛ってきた。自分の心が傷つかないように幼い自分が無意識のうちに張った、予防線だった。今でこそほとんど口にはしないが、それこそ幼い頃は『捺は恭様のもの、恭様の召使いなんですよ!』と常々誇らしげに口にしていた気がする。
だって恭の傍にいる権利を得るのは自分ではないと知っていたから。恭の隣は自分には手の届かない場所だと思っていたから。だから「召使い」だと戒めをかけて、それ以上の感情を持たないように。……なんの意味も、なかったけれど。
「――これ一回しか言わない。しっかり聞いてろ」
脳裏で、恭のイラストがほんのりと頬を染めたものに切り変わる瞬間が浮かぶ。何度も繰り返しプレイした、恭ルートのハッピーエンド。状況は違えど、それはまさにハッピーエンドに入る直前の、合図。主人公に、そしてゲームをプレイしている万人に等しく与えられた彼の台詞が、今この時は捺だけに向かっていた。
そして自然とそれが思い浮かんだことに、心の中だけで苦く笑う。ここはゲームの世界じゃないと突きつけられても、長年の思い込みをそう易々と改めることはできないんだな、と。だけどきっとそれもそのうち、彼の手によって覆されるのだろうという予感があった。
「――好きだ、お前が」
恭の指が背に垂れた捺自慢の黒髪をなぞる。恭の瞳が優しい色を浮かべて、捺を映す。それらすべてに恭の気持ちがこもっているような気がして、それだけがいろいろと宙に浮いてしまった認識の中で確かな気がして。捺はもう十分、幸せだった。
「わたし、わたしも、恭様が大好きです! 恭様に想ってもらえて、捺は世界一の幸せ者です!」
力強くそう続けた捺の頭を、恭が撫でる。いつもと同じ仕草のそれが、どうしてかいつもと違う感情を心に産む。
「恭様、捺は恭様のものですよ? 召使いではもういられませんけどね!」
驚いたように目を丸くした彼は、けれど次の瞬間には笑う。そうでなくては困る、と。
恭様はわたしに甘い。他人はどうでもいい、興味ないという彼は彼女には優しい。……あれ、それってただのクーデレじゃない? 疑問に首を傾げるものの、恭は恭なんだからそのあたりはどうでもいいと思ってしまう。だって捺は恭を構成するすべてが好きなのだから。
そんなこんなで、本日をもって緑川捺は恭様の召使い卒業です!
END.
これにて第二弾完結です。
長々と完結させるさせる詐欺をし続けたこと、心からお詫び申し上げます……!(土下座
いったいいつになったらこのシリーズ完結するのさとお思いの方々がいるならば大変心苦しいのですが、気長にお付き合いいただけたらなあと思います。
第三弾に乞うご期待!(お前が言うな