05
「ねえ捺。相賀君のこと好きでしょう?」
「え? そりゃもちろん、」
「わたしが言ってるのは恋愛感情としての好き、だからね」
「…………え、?」
ほのかは、恭と主人公の間で好意がないことを嘆いていた捺が心底嘆いてはいなかったことに気付いた。疑念を浮かべた顔は決して疑念一色ではなく、どこか安堵しているようにも見えた。
今だって、二の句も告げず微動だにしない捺は理解できない、というよりも、認めたくないのではないかと思うのだ。
「お気に入りのキャラってことは、自分の理想がほぼ全部詰まった相手ってこと。そんな人が現実に生きていて、笑ったり話したりできたらそりゃ、好きになるよね」
ほのかにとって、幼馴染である立川陸がそうであるように。
しかも聞いた話によれば捺は物心ついた時点でここがゲームの世界だと「知っていた」という。でも具体的なことはなにひとつ思い出せず、ひどく不安定なところに現れた相賀恭という記憶の中では攻略対象だった人間。彼の存在が自分を安定させてくれたというなら、なおさら。意識しないうちから惹かれていてもおかしくはないことだと、思う。
「……あは、あはは! ほのかってば突然なに言い出すの? 恭様の幸せは主人公と両想いになることだって、」
「どうして捺の考える相賀君の幸せが、今目の前で生きて動く相賀君の幸せだって言い切れるの?」
あくまで恭の幸せは、と言い張るそこに捺の感情は語られない。けどそれは無意識で、染み付いた癖。
「捺にとって相賀君はいつまで『攻略対象』のまま? 捺はいつまで相賀君の『召使い』の気でいるの?」
「なんっ、」
「わたしも前世でゲームやってた時、陸が一番お気に入りだったよ。でも、陸の幸せが阿井さんと付き合うことだって今は思わない」
「っ、それはっ、」
息を飲んで、でもそれでも意見を変えようとはしない捺に、ほのかは諦め覚悟を決めたかのようにひとつ、息を吐き出した。
「じゃあ言い方変える。捺、ここはわたしたちが知ってる世界じゃない」
反論しようとしてた捺の言葉はあっさりと失われた。愕然と目を見開き、まばたきもせずほのかを凝視する。
「先の定められたゲームの世界じゃない、どうとでも変えられる現実だよ」
ここはれっきとした、人や動物や植物や、様々なものが在る生きた世界だ。確かに土台、設定といった部分にあのゲームが関係するのかもしれない。しかしそれは『根底』に過ぎず、すべてではないのだ。
「でもっ、」
「捺も自分の目で見たでしょう? 自分が『知っている』通りに現実が進んでいかないこと」
確証もなく盲信していたけれど、それはもうできない。だって彼女は見たはずだったし、彼女自身が言った。ゲームのシナリオ通り、現実が進まないと。
反論したいのに、反論できる言葉も材料もなくて。捺は本当の意味で言葉を失くす。そして次の言葉はさらに、彼女を追いつめた。
「それに捺、この世の終わりって顔してるけど」
ちょっとほっとしたような顔してる。
ほのかの指摘に捺は自分の顔に指で触れたけど、そんなことはわからない。でもほのかが自分に嘘をつくとも思わない。
どうしていいかわからなくなって。傍にあった自分の鞄を引っ手繰ると、ほのかを見ることもなくバッと身を翻した。頭の中はすっかり、ごちゃごちゃだ。
その後ろでほのかは呟く。あとは相賀君次第かな、と。そして。
「ねえ、気付いてる? 捺は時々、相賀君を通り過ぎて遠くを見てること。……ちゃんと相賀君を見てないから、本当なら気付けることにも気付けてないんだよ」
それをほのかちゃんが言うの? 本当にまったくの第三者からかけられた声に驚くこともなく、ほのかはだからだよ、と一人愚痴った。
「ただいま……」
「おかえり」
「恭様……、」
ちょうど居間に入るところだったらしく。ドアノブに手をかけてこちらを見る恭は、制服ではなく首元がゆるく開いたTシャツを着ていた。
「恭様、」
「? 早く靴脱げば」
靴も脱がずその場で微動だにしない捺に一言言い置き、コーヒーを取りに下りてきたことを思い出す。ガチャリ、居間に入ろうとして小さな力がそれを止めた。
片手でだらりと鞄を持ったまま、その反対の開いた手で恭の服の裾を握っている。俯いている彼女の表情は、彼から見ることができない。
「恭様、の幸せはなんですか」
「……突然どうした」
少しばかり驚きのこもった言葉に、捺は一瞬詰まる。そしてぽつりぽつり、語り出す。信じてもらえるとは到底思えない、前世の話、ゲームの話を。
「……恭様の幸せはヒロインと、阿井さんと恋をすることだって、わたしはずっと、」
そうですよね、と。ようやく顔を上げた捺が、すがるような目で恭を見上げる。
肯定してほしいのだろうと敏い恭にはわかったが、恭はそれを肯定するわけにはいかなかった。だってそんなことは、彼にとってはありえないことなのだから。
「それは俺の幸せじゃない。……なんで俺の幸せを捺が決めつけるんだ」
突拍子もない、俄には信じ難い話。でも捺が自分に偽りを告げたことは一度もなく。教室で別れた時とはまったく違う様子の捺に、恭は眉間にしわを寄せた。
原因はまず間違いなく如月ほのかだろう。いったいどんな話をしたらこの話になったのか、皆目見当もつかないが。とりあえず。
(最終的な部分は全部こっちに放り投げて寄越した、ってわけか)
できることなら、捺に今みたいな顔をさせたいわけじゃない。でも、捺が事あるごとに言うように彼にとって彼女は「召使い」なんかじゃない。だからこれは、ある意味で良い機会なのだと思った。
「だ、……って、ここは、わたしの知ってる、この、世界は…………!」
どれだけ言葉を重ねてもそれだけを盲信している捺には残酷とも取れる言葉を、恭は告げた。
「じゃあここはお前の知ってる世界じゃない」
その一言に、捺は大きく目を見開き、その瞳に怯えを映し出す。ほのかに否定されるよりも、恭に否定される方がよっぽど、苦しかった。
かろうじて持っていた鞄がドサリ、音を立てて床に落ちる。
「そんなっ、ここ、ここは! わたしが知ってる世界で、っ!」
「でもお前の思う幸せと、俺の幸せはまったく違う。それでもここはお前の知ってる世界だと言えるのか?」
ここは、乙女ゲームの世界。前世でやった『運命の導』の世界。主人公である阿井志保を攻略対象たちが囲み、彼女が中心に回る世界。
ずっとずっと、そう思ってきた。恭の幸せは、志保と結ばれることだと思ってた。けどそれは、もしかして、違う?
「……、わた、わたし…………なら、どうしたら、」
目的を見失い、迷子になって泣き出す寸前の子供のように。捺の中で確固たる真実だと思っていたものが音を立てて崩れる。ゲームの世界だと思っていたその狭い場所が実は小さな箱の中でしかなく、そこから出た自分がいる世界は、本当は途方もなく広かったのだと突きつけられた。
捺のそんな感情を、恭には理解できない。恭にしてみれば志保など興味すら引かれないし、捺がいなければ関わることすらなかった相手。どうして捺が自分の相手は志保だと盲信していたのか、彼女の話を聞いたうえでもわからないままだ。