別れ
「お・・・・ぎ。・・お・・ろ。」
微かだが誰かの声がする。だが、寝ているからだろうか、意識がボーッとしてはっきり聞こえず、言葉が途切れているために何を言っているのかが理解できない。少しずつ意識が覚醒していく。重たい瞼を持ち上げようとした瞬間。
スパァン!
と気持ちの良い音とともに頭のつむじに激痛が走る。
「いってぇぇぇぇぇ!!」
余りの痛みに頭を抱え込む。お陰で眠気は完全に吹っ飛んだ。文句の1つでも言ってやろうと顔をあげるが直ぐに思考と行動がフリーズ。よりにもよってこの男の担当授業で寝てしまっていたのだ。野崎彰。黒服とサングラスが似合いそうな、いかにもボディーガードやってます、みたいな体格の良い40歳近い男が目の前に仁王立ちし、不敵な笑みを浮かべこちらを見下ろしている。その鋭い眼光は多くの生徒から大変怖れられ、睨むだけで人を殺す事ができるなどと冗談でもない噂を持つ。野崎彰は図太く低い声で最悪の宣告を下す。
「おい、矢矧。放課後に生徒指導室に来い。お前の為に二者面談をしてやる。」
いつもなら飛んで喜ぶ授業終了を告げる鐘の音が、フリーズしてしまった自分に対して時間は止まらないと伝えていた。時間をこれほど止まってくれ、と願ったことはない。
「し・・つれいしま・・した・・・」
擦りきれた精神を辛うじて保ちながら言葉を紡ぎ、ドアを閉める。
体感時間3時間、現実時間では1時間強にも及ぶ二者面談もとい地獄はこちらの意見を通さない一方的な説教として終わった。
覚束ない足取りで昇降口までたどり着くとよく見る顔が窺えた。
「颯真、あんた大丈夫?」
彼女の名前は鈴谷彩花。家が近所だということで昔はよく遊んだ仲である。俗に言う、幼馴染みの関係だ。背は俺より少し低いくらいだから160cm前後だろうか。女子にしては少し背が高いほうだろうか。背が高いのでスタイルが抜群にいい。髪はショートで肩辺りで切られている。本人曰く、動くのに邪魔だそうだ。ロングでもショートでも似合っているので問題ない・・・じゃないじゃない。好みのタイプであるかはさておき、容姿は幼馴染みとしての身内贔屓を抜いたとしても10人の内7人くらいは・・・いや、10人だな。それくらい可愛いと思う。クラス内にもファンが数名いた。
「この疲れが如実に現れた顔を見れば大丈夫じゃないか、一目瞭然だろ・・・。」
一言二言声に出しただけで背中が重くなる。
「いつも人生に疲れきったような顔に死んだ魚の目をしてるんだから見分けがつくわけないじゃん」
酷い言い様である。泣きそう。こちらも何か言い返そうとしたが、言葉を交わすだけで疲れるのにここで言い合いになったら家まで帰る体力がもつかわからない。ので、さっさと会話を切り上げることにした。
「んじゃ、帰るわ。部活頑張れよー。」
手を軽く振りながら背を向けて歩き出そうとすると肩を掴まれる。なんだ、と首を後ろに回すと、そこに死んだ魚の目には眩しすぎる笑顔があった。
「今日は早く部活終わったんだ。さっきまでクラスでの仕事でこんな時間になっちゃたけど―――。家近いんだから久しぶりに一緒に帰ろうよ。直ぐに荷物取ってくるから待ってて。」
俺の拒否の返事も待たずに彩花は教室まで駆け抜けていった。別に一緒に帰るのは問題ないのだが会話が途切れたりなんかしたら気まずい。
荷物を取りに行ってから1分くらいで彩花は戻り、一緒に歩を進める。外はもう日が沈みかけ、時計の針は5時を指し示していた。この時間帯に帰る者は少なく、校門前にいたのは俺たちだけだった。
「しっかし、颯真は馬鹿だね~。あの鬼教師こと、野崎の授業で堂々と寝るとは怖れいるよ。」
「勇気ある行動をとった俺を馬鹿と言うな、勇者様と言え。」
はいはい、勇者様~。と軽くあしらわれ、グダグダと喋っているとそこで会話一旦途切れ、信号に差し掛かる。この時間帯はいつも交通量は少なく、それをよしとして車やトラック、バイクが規定スピードをぶっちぎって目の前を走り抜けてゆく。今もまた、猛スピードで大型車が走ってきている。
すると突然、俺に雷が落ちた。いや、雷が落ちたような感覚に陥った。意識は一瞬無くなり、気絶の一歩手前というような状態。バランスを崩し、慌てて体制を建て直そうと足を踏み出そうとする。が、重りを付けているかのように足は全く動かなかった。
な、なんで・・・!?
言うことの聞かない体はそのまま道路に放り投げられ。
ガッシャァァァァァァァァァ。
豪快な音を立てて、大型車に俺は引かれた。体はくるくると宙を踊り、地面を何度もバウンドする。周りに鮮血が溢れ、血の湖ができる。四肢は投げ出され、動かそうとしても辛うじて指先が鈍く動かせるだけだ。
歩道のほうから彩花がよろよろと今にも転びそうな危ない足取りで寄ってくる。口元がパクパクと上下に動いているがその声は声になっていない。俺の傍に座ると体を小さく揺さぶる。覗ける顔には恐怖の表情が浮かんでいる。きっと酷い有り様なのだろう。顔を涙でクシャクシャにして、何かを叫んでいる。それも聞こえない。彩花の制服が膝をついていたところからじわじわと俺の血が染みてきていた。そして、俺の意識もじわじわと遠退いてきた。寒い。俺はすぐに死ぬのだろうか。人生を16年と過ごしただけで幕が降りるのか。何もしてきていないのに。
やりたかったことが次々と浮かび上がる。
友達と気の済むまで遊んだり、嫌だ嫌だと喚きながら勉強したり、誰かと付き合ったり・・・。彩花とだったらいいのにな・・・。
それらももう叶えることはできない。全部、未練に変わるのだ。
悔しい。
でもどうしようもない。どう足掻いたって死は覆らない。
だが、覆らない絶対的なものだとしても幕引きだけは満足に終わらせたかった。
最後の力を振り絞り、感覚の失った右手を彩花に伸ばす。弱々しく持ち上げられる手を彩花は両手で包み込む。
温かい。
彩花の手は冷えきった俺の手を溶かしていった。
指が動く。感覚も少しだが戻った。
さあ、最期の幕に花を添えよう。
包まれた手を振りほどき、彼女の頬を伝う涙を拭う。
これで、綺麗になった。あとは・・・。
最後の力を振り絞り、言葉を紡ぐ。
「わ・・ら・・っ・・・て」
彩花は涙を堪えるような顔をした後、この世の何よりも綺麗で可愛い顔を見せてくれた。
「私ね。ずぅっと颯真のこと、好きだったんだよ。」
俺もだよ。と、言えずに意識を失った。