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Recall  作者: ツナ缶
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序章 1

序章、秋宮柊弥あきみやしゅうやの物語です。

まぁ、予想はできるとは思いますが、この章のお話はとてもとてもバッドエンドです。ですが、これもまた物語の進行上とても大切なものでして、作者的には三番目……ぐらいに力を入れた章になります。

展開上ご気分を害す場面があるかもしれませんが、ご了承ください。

フィクションなのだから、ただ楽しく幸せな物ばかり詰めていきたいものですが、じゃあその幸せってどうやって生まれてくるのだろうと考えた時の、作者なりの一つの答えがこの話です。


序章



 ただ、幸せになれたらなって、願った。

 いつも、傍で誰かが笑える未来を、望んだ。

 そんな毎日が送れますようにって、祈った。

 誰にも届かず、届けず。ただ、胸の内に。けれど確かに置いた。

 いつか、叶えられたらなって思った、想い。



・秋宮柊弥


 両親が死んだ。

 あっさりと、それでいて確実に、目の前で起こった出来事だった。

 本当に、突然のことだった。

 公園で友達と遊んでいた僕を遠くから呼び掛けた、会社帰りでスーツのままのお父さん。エプロンを着てるお母さん。

 視界いっぱいに広がっていた二人の笑顔が、そのまま横にスライドして、消えた。

 おっきな音がした。おっきくて色々な音が。ドカンとか、バキッとか、グチャとか。なんだか気味の悪い音がして。今度はキャーという音。本当にたくさんの音がした。それからも音が続いた。

 何度も、何度も、何度も。耳に飛び込んで、頭に響いて。

 どれも、嫌だなって思った。

 全部の音が、声が、色が嫌だなって。聞きたくないなって、見たくないなって。

 そう思いながら僕は流れてきた液体が足元に来るまで、何もなかったかのように、両親に向けていた笑顔を浮かべていた。



 ふと、僕はなんで生きているのだろうと思う時がある。

 それは朝起きた瞬間だったり、寝る瞬間だったり。はたまたご飯を食べてる時だったり。唐突に、そういった考えに思い至る時があった。

 起きて、息を吸い、吐いて。食べ物を食べて、飲み物を飲んで。どうして、そうやって生きてるのか。そんな普通だったら悩むまでもない、当たり前のことがわからなくなってしまう。まぁ毎回一時間ほどたっぷり考え、結局「なんだっていいか」と結論し、またいつも通りの生活に戻って終わるんだけど。

 いつか明確な答えが出るのかな。今のままじゃただの無意味な思考に過ぎなくて、なんだかひどく時間を無駄にしているように思えた。

 そんな思考をいつもしているせいか、僕は周りからはひどく大人びた、冷めた子供に見えたらしい。両親を事故で亡くしてからは、特にその様子に拍車がかかったようだ。周りからは両親を目の前で亡くされたのだから無理もない、なんて勝手な推測をしてるが、それだけが原因じゃない。

 もちろんショックではあった。今までの日常が崩れる感覚。足元にあったはずの幸福が離れていく事実。

 ……ああ、思い出しただけで頭がふらつき、両足は僕自身を支えられなくなる。あの凄惨な光景は未だ目蓋の裏にこびりついたかのように忘れられず、色褪せることなくあの時の赤色を呼び起こせてしまう。

 そうした出来事を差し置いて、僕は感情の起伏の薄い子供だった。

「柊ちゃん」

 まぁ、それで何か苦労をしているってわけでもなく。むしろ僕を引き取ってくれた孤児院で騒がしくも楽しい生活を送ってきた。

「ねぇ、聞いてる?」

 そして今日、僕はこの孤児院を出る。ここからだいぶ離れた町、僕の故郷に帰るためだ。別にこの孤児院での生活に不満があるわけではない。僕は、あの過去を乗り越えたいんだ。

 そのために僕は帰る。あの町でもう一度、楽しかった思い出を作りたい。

 そうした想いを胸に、僕はこうして荷造りを――――

「柊ちゃん聞いてるの!?」

「うわっ」

 突然耳元で名前を呼ばれ、僕は思わず驚いて声を上げてしまう。隣を見ると、女の子が自分の腰に手を当てて、唇を尖らせて僕を睨んでいた。

「もう、ずっと声をかけてたのに気付きもしないで、そんなに集中してたの?」

「……琴美。耳元でそんな大声を出すな。耳が痛くなる」

 彼女の名前は佐々倉琴美。首元まで伸ばした栗色の髪に、僕と同い年の割には多少幼く見える顔立ち。この孤児院に僕と同時期にやってきた娘で、そういった共通点もあるからか妙に僕に懐いている。

 まったく、もう子供じゃないんだからいい加減立場ってのを理解してほしいよなぁ。それだからみんなからお似合いだとか言われてからかわれてるのにさ。

「私だって最初は普通に呼んでましたー。それで気付いてくれないんだから、しょうがないじゃない」

 だからって耳元で叫ぶことないとは思うけど。肩を叩くとかしてくれればいいのに。

「で、何の用? 僕は今荷造りで忙しいんだけど」

「むぅ、だってもう明日から柊ちゃんはいないんでしょ?」

「まぁ、そうだな」

 初めての一人暮らしだ。仕事始めより早めに行って、向こうの生活に慣れておきたい。

「そしたら、私一人になっちゃうもん」

「バカ、一人なわけがないだろ? 婆さんだっているし、みんなだっているじゃないか」

 この孤児院を一人で運営している婆さんは僕らの母親として、同じような境遇を持つみんなとは兄弟として一緒に暮らしてきた。だから、僕一人がいなくなったところで琴美が寂しい想いをするのはおかしい。実際に琴美は性格故か、この孤児院以外でも友達が多い。

 僕一人がいなくなっても、寂しさとは無縁のはずだ。

「そういうことじゃなくて……」

「……ああ。なるほど、な」

 孤児院は身寄りのない子供を受け入れ、親代わりに育て上げる施設だ。だからこそ、ここにいる皆は何かしらの理由で親を失っている。

 その中で、親の死という形でここに来たのは僕と琴美の二人だけだった。他のみんなは親からの虐待、育児放棄。そして生まれて間もなく捨てられた子たち。つまり、孤児院に来てよかったと思う子たちだ。中にはそれでも親を愛し、離れることを望まなかった子もいるけど。

 僕と琴美は両親を事故で亡くした。両方とも親戚はいなくて、仕方がなくここに流れ着いた。だから、僕と琴美はみんなとは根本的な部分で違いがある。その違いというのが以外と大きい。

 親に愛され、親を愛した者。

 親に愛されず、親を愛せなかった者。

 普段どれだけ楽しく暮らしていても、みんなの心の中にはあるのだろう。愛されなかった者から、愛された者への嫉妬は。

「一人は辛いよ……」

 幼い頃はそれが顕著だった。だけどもう、みんなそうした感情を行動で表したりなんかしない。だけど一瞬、ふとした拍子に見せる目が一番きつい。「どうしておまえたちだけ」と。これまでの過程への羨望、相手への嫉妬、なぜ自分たちだけがという疑惑、理想の生活を送った者への願望。それらが入り交じった視線が、心を苛む。

 僕が一人出ていった後のことを考える。きっとこの孤児院にはたくさんの笑顔に溢れているだろう。けれど、その日々に僕はいない。そうなれば僕を慕ってくれている琴美はどうなる。

 楽しい日々は送れているだろう。けど、あのふいに浴びる視線を一人で耐えきれるだろうか。

「……琴美」

「何? 荷造りするから出てけって? 別に言われなくても」

「おまえはどうするんだ?」

「え?」

「僕は故郷に帰って一人暮らしだ。父さんの友達だった人が飲食店を営んでいて、ぜひ僕に来て欲しいって言ってくれてるんだ」

「そ、そうだよね。柊ちゃん料理うまいもんね」

 この孤児院では食事や掃除などの家事は当番制になっている。そうなると当然料理をする機会があり、また否応なく腕はあがる。

 僕は数ある家事の中でも特に料理が得意だった。レシピ通り作ればまずうまくいくという安心感が好きだ。うまいと言って食べてくれるみんなの笑顔が嬉しくて楽しくなる。僕が暮らしていた故郷に戻り、見習いとして職場で働きつつ、調理師免許のための勉強もその場で教えてもらえる。こんなうまい話は他にない。

 だからこそ、今回の話を逃すわけにはいかない。

「うん、もうアパートも決まってるし、来月から早速働き始める。それで、おまえはどうするんだ?」

「えっと、私はフリーター兼家事手伝いかな。お婆ちゃんだけじゃ山の上り下りは大変だろうし」

「そうか……」

「……ねぇどうしたの柊ちゃん。急にそんなこと」

 僕は一度失う恐怖を知った。だから今まで何かを得ようとか、大切にしようだなんて思わないようにしてきた。きっと、次は耐えられないだろうから。

 けれど、恐がってちゃその先にあるかもしれない幸せは掴めない。

「琴美」

「は、はいっ!」

 何故か姿勢を正しているところに違和感を覚えるが、それを追求せず、僕は心を決めて口にする。

「僕に、付いて来ないか?」

「はいっ!…………え? えええ!?…………え!?」

「なんだよその訳のわからん驚き方は」

「いやだって! その、うわぁ……正気?」

 精神を疑われてしまった。

「……普通さ、そこは本気? じゃないのか?」

 ……冷静に考えてみると、僕もまぁ相当なこと言ったよな。もうほとんどプロポーズみたいなもんだよ。

「あわわわわわわわわ!!」

 反応見る限り、嫌ってわけではなさそうだけど……。心配になってくる。真っ赤な顔して体が小刻みに震えてるのは明らかに問題ありだろう。

「しゅ、柊ちゃんが私にププププロポーズ? ゆ、夢じゃないよね? いや、昨日も同じような夢見て起きたら目覚まし時計と熱烈なキスしてたじゃない。まだわからないわ」

「こ、琴美? 早口過ぎて何言ってるのかほとんど聞き取れな――」

「柊ちゃん!?」

「は、はいっ!」

 急に名前を呼ばれたから、思わず敬語で返事をしてしまった。

「自分のほっぺたつねってみて」

 言われるままに指先で自分の頬をつねる。

「どう?」

「……痛いよ」

「ゆ、夢じゃないのね……」

 いや、こういう場合普通なら自分の頬をつねらないかなぁ。

「行くっ! 行くよ! 絶対付いて行く!!」

「え? あ、ああ」

 そういえばそんな話をしていたんだっけ。琴美の奇行のせいですっかり忘れていた。

「アパートってどんなところ? キッチンは? お風呂は? 居間は何畳間で日当たりは良好? 仕事場からは近いの? 駅は? 近くにスーパーはある? コンビニはなくてもどっちでもいいけど柊ちゃんはどう!?」

「お、落ち着け! そんな畳み掛けるかのように聞かれたって答えられないって!」

「料理はまだうまくないけど、練習するからね! 他の家事は全部任せて! あっ、お婆ちゃんに話してくるっ!」

「あっ、おい!」

 言いたいことだけ言って部屋から出ていってしまった。取り残されたのは、手を伸ばして固まる僕一人。

「えっと、早まったかなぁ」

 まさかあそこまで喜んでくれるとは思わなかった。嘆息して、荷物を詰めたカバンを見る。

「……さて、ここからだな」

 僕は一人だけじゃない。僕一人だったら、どれだけ堕落したっていい。どれだけ怠惰でもかまわない。けど、琴美がいる。守りたい、守らなきゃいけない存在がいる。

 だから頑張らなきゃいけない。

 絶対、幸せになってやるんだ。

 居間からは琴美のマシンガントークが聞こえていた。おお、あの婆ちゃんですら困らせている……。



 人知れず、育んだ強い願いを。

 幸せになりたいという、切実な望みを。

 誰かと共に生きたいという、祈りを。

 心にずっと持っていた。

 離さず、離れず、ずっとそばで在りたかった。

 そう、生きていたいだけだった。



「仕込み終わりました!」

 彩り豊かな野菜たちの皮を剥き、一口サイズに切ってザルに入れ、水でサッと洗う。調理を円滑に進めていくためには欠かせない仕込み。見習いである僕の仕事はそれのみだった。

 僕と琴美がこの町で暮らし始めてそろそろ一年になる。だいぶ生活にも慣れてきた。僕は働いて生活費を稼ぎ、琴美は家で家事全般、その上合間を見てはバイトをして生活費に上乗せしてくれている。

 僕は反対したのだが、頑固な婆さんに似たのか琴美も相当な頑固者で、その上口もうまいもんだから逆に僕が言い包められてしまった。実際、僕の給料だけじゃ満足な暮らしは難しい。生活費に孤児院への仕送り、そしてこっそりと貯めている結婚資金でほとんど来月まで繰り越せる分のお金は残らない。

 僕一人だけならまだしも、琴美との二人暮しだ。必要以上に我慢をしなきゃいけないような生活はさせたくない。

 まぁそれで琴美に労働をさせてちゃ本末転倒だよね……。

「よしっ、それなら次はそこの大鍋で熱湯作ってろ!」

「え? あ、はい!」

 思わず嘆息しそうになっていたところに料理長からの指示が飛び、慌てて仕事に戻る。危ない危ない。調理場で考え事なんて事故の元だ。しっかりしないと。

 調理具が置かれている棚から一番大きな鍋を取り出す。……いや本当にでかい。下手すれば僕ぐらい入ってしまいそうだ。琴美なら二人分くらい簡単に入るだろう。

「……ドラム缶風呂とか、作れたら便利かも」

 僕達が暮らしているアパートにもお風呂はあるけど、数日前に水道管の水漏れが発覚して使えていない。だから普段は近所の銭湯まで行かないとお風呂に入れない現状だ。夏ならまだしも、冬場は寒さがきつい。その上銭湯代も毎日続けばそれなりの額になってしまう。ドラム缶風呂とまではいかなくても、アパートの庭にお風呂のような物はできないだろうか。大家さんには庭は好き勝手使っても構わないと言われてるし。現に琴美の家庭菜園が広がっている。

 そもそもこの大鍋、いくらぐらいなんだろう。こんなに大きいなら僕と琴美の二人で一緒に入って水道代を節約できるかも、って。

 ふた、二人?

「………………」


「仕事中に顔を赤くして悶々とするだなんていい度胸じゃないか青年」


「うわぁぁぁぁ!!?」

 驚き飛び上がると同時に大鍋を離してしまう。落ちる大鍋。それに向かって飛び跳ねる僕のヒザ。そして生み出される相乗効果。

 ドラのような猛々しい音が、開店中の店内に響いた。

 


「ごめんごめん。まさかあんなに驚くなんて思わなかったしさー」

 閉店後の店内はひどく静かで、目の前にいる女性の笑い声が無駄によく響いた。

「……まぁ、仕事中にボーッとしてた僕が悪いんですけど、無理に驚かさないでください」

 この人こそが父さんの知り合いで、僕をこのお店に紹介してくれた水夏沙耶さんだ。このレストランの元店長で、今は退職して、普通の専業主婦として暮らしている。娘さんにも会ったことはある。まだ幼いながら揮発そうな子だった。

「しかしすっごい音だったよねぇ。あれはきっと外まで響いたよ。気になって見にきたお客さんもいたからね。集客効果あるかもしれないから週一でやってもらおうか」

 ほんと、この人の血の繋がった子供だと思えないほどに。旦那さんも、中々の苦労をしていそうだ。

「それで給料上げてもらえるなら喜んで。もちろんもっとうまいやり方でやりますけど」

「冗談冗談。うちはアットホームな雰囲気を売りにしてるんだから変な噂は困るしね」

 沙耶さんの言う通り、この店は入りやすさと落ち着く空間作りを心がけている。気安くご飯を食べて、自宅を出るような気持ちで店を出てもらいたいそうだ。

「それで、話ってなんですか? 足の具合ならもうなんともないですよ?」

 仕事が終わってから沙耶さんに「話があるから残ってくれ」と言われ今に至っている。

「ん、ああ。本題を忘れてたよ。柊弥くん、君は和食は得意かな?」

「和食ですか? まぁ、そうですね。洋食よりかは経験もあるので」

 孤児院ではみんな和食を好んでいてよく作った。そもそも材料が和食向きの、山で採れる山菜やキノコが主だったからという理由もあるけど。

「そう、なら頼みたいことがあるのよね」

「えっと、なんでしょうか」

「明日から君の作る和食をメニューに加えるから。そのつもりで」

 ニコッと笑って店を出て行こうとする沙耶さん。僕はその肩を後ろからガシリと掴む。

「待ってください。いきなり過ぎて訳が分かりません」

「え? まんまの意味よ?」

「僕が作るって、そんな、僕はまだ見習いで料理の腕前だってまだまだだし」

「腕前を評価するのは自分ではなく他の誰かよ。その他の誰かであるあたしが良いって言ってるんだから、素直に喜びなさいよ」

「喜ぶというか、そもそも実感が湧かなくて……」

 頭が混乱してまともに考えられない。僕が料理を? いや、もともとそういう仕事なんだけどさ。

「実感があろうとなかろうとやってもらうわよ。もうスタッフには話してあるんだからね」

「あ、明日からですよね?」

「うん、明日」

 うわぁ、緊張してきた……。いつもだってそれなりの緊張感は持っていたけど、格が違う。足が震えてきた。その僕の姿を情けなく思ったのか、沙耶さんはため息を吐いて僕の顔の目の前に人差し指を突き出してきた。

「あのねぇ。ここではあたしも含めてあなたより料理暦が長い人はいないのよ。あなたが最長。わかる?」

「まぁ、はい」

 変わった境遇でない限り幼少期から料理はしないだろう。台所に初めて立ったのが、小学校に上がる前。ペンや鉛筆よりも包丁に使い慣れることの方が早かったぐらいだ。

「実を言うとあたしはね、あなたを尊敬してるの」

「…………は?」

 僕を尊敬? 沙耶さんが? 呆けた顔をしていると、目の前にあった沙耶さんの指先が僕の額をトンと突く。

「あたしが料理を始めた理由は料理とか、そういう何かで支えたい人がいたからなの。傍にいるだけで何もしてあげられなかったからせめて何かをって。ま、結局は何も出来なかったんだけどね」

 何も、出来なかった。その言葉には、きっと一言で表すべきではない、様々な感情が伺えた。だって、それは明らかに、過去を表す言葉で。二度とその機会は巡ってこないことを、言外に示していて。

「それが悔しくてこの店を建てたんだけど。やっぱり納得いかないものがあって。あなたはすごいのよ? もっと自身を持ちなさい。たった一つのことでたくさんの人を笑顔にするなんて芸当、出来る人は少ないんだから」

「そんな、買い被りすぎですよ。僕はそんな立派なことは」

 謙遜ではなく本当に。僕がしてきたことはたいしたことじゃない。他の人にも出来るような簡単なことをしてきただけなのに。

「ほんと、僕なんてまだまだなんです。作業だって遅いし、味付けだって感覚でやってるから大雑把で、というよりも勘に近いし……」

「……恐いの?」

「…………はい」

 料理を提供し、お金をもらう。商売なのだからそれは当然のことだ。けど、やっぱり恐い。お金っていうのはそれ一つで人を笑顔に出来るものだ。娯楽に使ったり、欲しい物を買ったりできる。そうやって自分や、他の人を笑顔に出来る。

 だからこそ恐くなる。

 僕の作る料理で笑顔を作ることが出来るのか……?

「もともと、僕は料理人に向いてないんです。自分の作った料理に自信が持てないだなんて」

 自分が作ったものが、その代金に見合うものなのか。その自信が、自負が、持てない。

「……自信がなければ料理を作ってはいけないの?」

「いえ、さすがにそこまでは」

「ならいいじゃない。自信がないならないで。そういう料理人だっているものよ。何を隠そう、あたしもそうだしね」

 沙耶さんが? 職場にいたころはいつも笑顔で、自信満々に料理を出していたのに。

「その顔は信じてないわね」

「えっ? あ、まぁその、はい……」

「まぁ当たり前なんだけどね、そういうのは必死で隠してきたんだから」

「隠してきた、ですか」

「ええ。だっていかにも自信なさそうに出された料理がおいしそうに見える?」

「いえ……」

 言われてみればその通りだ。料理がどんなにいい香りや見た目をしていても、不安気に差し出されては受け取った方だって不安になってしまう。

「あ……」

 そうか、そういうことなのか。今更理解した答えが、胸にストンと落ちるように、次第に僕の中に馴染んでいく。

「わかった? 私の言いたいこと」

「……はい」

 自分の料理に絶対の自信を持てる人ほんの一握りしかいないんだ。みんな必死になって、自分の努力を形にしている。僕だって、同じだ。不安を感じない人は、それこそ本気ではないように。本気で、心の底から大事だと思っていることをやるということは、どうしたって不安が生まれる。

 その不安を押し退けて、初めて僕たちは、対価が生まれる仕事ができる。

「……沙耶さん。電話、貸してもらえますか?」

「え? ああ、店の電話なら好きに使って。というか誰に電話するの?」

「今日は遅くなると琴美に連絡しておきたくて」

 僕は席を立ち、厨房に入る。そしてすぐに冷蔵庫を開き、在庫の点検を始める。

「今日の残り、だけじゃ足りないか。沙耶さん。明日の分の材料ちょっと使います。その費用は給料から引いといてください」

「いや、それを元店長のあたしに言ってもしょうがないよ……え? というか何してるの?」

「それと新メニューについてなんですけど、何か希望はありますか?」

「え? 無視? ええとそうね。この店の雰囲気に合っているなら問題ないと思うわ」

「了解しました」

 となると、煮物や焼き魚。あとお浸しを付けて定食の形がいいかな。魚だけじゃなくて、肉料理も視野に入れとこう。そうなると、漬物も欲しいな。うーん、今から漬けてギリギリ間に合うか。いや、やってみよう。どちらにしろ、間に合わなければ意味がないんだ。

「とりあえずパパッと作ってみるので味見てもらえますか」

「かまわないけど……何かしらこの変わり様」

 やる気がドンドン際限なく体の内から湧いてくるような気がした。目指すべき目標と、その目標に至るまでの道筋までもがハッキリと見える。

「やるからには徹底的にやります。メニュー案もあと十個はあるんですけど、時間は大丈夫ですか?」

「大丈夫だけど……そういや柊弥くん。君は携帯持ってないの? あると便利だよ」

「携帯ですか? 持ってますよ」

「そうなの? じゃあなんでわざわざ店のを」

「だって電話代かかるじゃないですか」

「……君、割といい性格してるよね」



 僕が得意な和食を沙耶さんに食べてもらい、全ての感想をもらい店を出る時には日にちが変わっていた。終始沙耶さんは「太る、これ確実に太るうわぁ……」と嘆いていたが、試食係を他に任せられる人がいなかったから仕方がない。

 季節は冬。突き刺すような冷たい風が容赦なく僕にあたる。時間が遅いためか、人の姿も見当たらない。静かな夜道を、僕は体を震わせながら歩いた。

「早く帰ろう……」

 家には琴美がいる。もう遅いから寝ちゃっているだろうけど、寝顔も可愛いからな。それを見ればきっと、明日もがんばれる。

 僕がこの手で、守ることができる存在。

 まだまだ苦労させることも多いけど、明日からは給料も上がり、もっと楽な暮らしができるようになるはずだ。

「がんばろう……」

 寒空の下、一人つぶやく。僕は新たな決意を胸に、一歩踏み出して。


 ドクンと、何かが跳ねる音を聞いた。


 急に込み上げてくる吐き気。喉奥の異物感を我慢して、僕はよろめきながらどこかの家の塀に寄りかかる。

「え、なん、なんだ、これ」

 頭がクラクラする。視界が覚束ず、足がちゃんと地面に着いているのかわからないような気味の悪い浮遊感を感じて、たまらず僕は膝を曲げた。塀に寄りかかったまま、擦るように体を丸めても、眩暈は治まらず、それどころか益々ひどくなっているような気すらした。

「立ち眩み……にしては、長いよな」

 貧血に似た症状は、幼い頃からそれなりにあった。決して体が強いわけでもないから、人並みに体調も崩した。だけど、ここまで前後不覚になるほどの眩暈は初めてだった。

 人気がないのが幸いなのか、不幸なのか。道の隅で蹲る僕に誰も気づかない。僕は深く息を吸い、吐く。その動作を慌てずにしていると、次第に動悸は治まってきた。視界もクリアになっていき、ゆっくりと吐き気も鳴りを潜めていった。

「……今のは、いったい」

 最初に思いついた原因は、疲れが体に出たという平凡なものだった。それにしては些か重い症状だったように思えたが、現状それ以外に理由が思いつかない。

 仕事に余裕ができたら、病院に行ってみよう。そう結論付けて、僕はゆっくりと歩き出す。家に帰れば、琴美が待ってる。今日はいつも同じような報告ではなく、嬉しい報せがある。そう思えば、重くなった足取りも、次第に軽く感じるようになっていた。



「……ただいま」

 音を立てないように家に入る。築三十年のボロアパートだから、どう体を動かしても音が鳴り、まったく無音ってわけじゃないが、それでも夜も遅いから気を使って足を動かす。

「あれ……?」

 外から見た時は電気は消えてるように見えたが、部屋の中は電気が点いていた。

「琴美? 起きてるの……」

 思わず、言葉につまった。琴美がうつらうつらと電話の前で眠気と戦っている。というか、寝てる。電話の前で正座して熟睡してる。ジッと見ていると、カクンと琴美の首が前に傾いた。そして、響く鈍い音。

「はうっ」

 電話を乗せた台に思い切り額をぶつけていた。琴美は目をつむったまま顔をしかめ、緩慢な動作で手を額に持っていき。

「いった~…………ぐぅ」

 また、首をカクンと曲げて台に額をぶつけた。

「ひうっ、痛い~…………ぐぅ」

「ストップ」

 無限ループに突入する前に手を琴美の額に置き、止める。一回一回は冗談で済むような衝撃でも、繰り返していてはいつかタンコブになってしまいそうだ。

「ん~~、柊ちゃん?」

 まだ意識がはっきりしてないのか、呂律が回ってなくて声が間延びしている。

「ごめんな、遅くなって」

「いいよ~大丈夫だよ~」

 ……まるで別人みたいだ。いや、可愛いといえば可愛いんだけど、こうまで豹変されるとさすがに心配になる。

「ほら、寝るなら布団で寝よう」

 襖を開き、孤児院から持ってきた愛用の布団を取出す。それを敷き、琴美を抱きかかえて寝かせてあげた。

「おやすみ」

 そう言って、寝息をたてる琴美の頭を撫でる。さらりとした髪の感触が心地よく、ずっとそうしていたい欲が湧き出る。

 僕はなんとかその欲を振り払い、立ち上がった。僕も眠いが、寝る前に色々と済ませておきたいことがある。銭湯に行く時間の余裕はないから、歯磨きだけでもして―――。

「って、ちっがぁぁ~~~~う!!」

「ええぇ!?」

 大声で何かを否定しながら琴美が起き上がった。その起き上がった勢いのまま立ち上がり、僕に詰め寄ってくる。

「おやすみじゃないよ! にこやかに微笑んで頭撫でちゃってくれてるのさ! うれしかったけど!」

「うわぁ……」

 完全に寝てはいなく、意識はあったようだ。意図的ではない、何となくの行動を見られていたと思うと、少々気恥ずかしくなる。

「な、何でそんな怒ってるんだ? それと近所迷惑だからもう少し声量を落として……」

「柊くん正座!!」

「はいっ!」

 …………あれ? どうして僕は素直に正座しているんだろう。

「わからないの? 私が怒ってる理由」

 笑いながらも背後からあふれ出るオーラ、もとい噴怒の炎。ああ木造なんだからその火力は問題だ。

「柊くん、聞いてる?」

「聞いてる、聞いてますからもう少しとろ火に……」

「……なんの話?」

 再度炎は急速に燃え上がる。もしこの炎が幻覚ではなく、本物だったらすでに天上は黒ずむどころではなく、盛大に燃え移っていただろう。

「いやもうほんと関係ない話でした申し訳ありませんでした!」

 息継ぎせずに一気に捲し立てる。怒ってる相手にはとにかく謝っておくというのが、僕が孤児院で教わった処世術の一つでもなる。おそらく、通用する機会は極わずかだろうけど。

「で、質問の答えは?」

 この怒り方、どっかで体験したなと思ったら。そうだよ、婆さんだ。婆さんもこうして、にこやかに笑いながらも、相手を正座させてじっくり怒るやり方をする。

「その、帰りが、遅かったこと……ですかね」

「うん、そうだねぇ」

 再度口角がにじり上がっていく。いや、ほんと恐い。顔は笑ってるけど本心は真逆なんだろう。

「どうして連絡した時間を何分もオーバーしてるのかなぁ?」

 表情で笑みを作れば作るほど、それに比例して本心は怒り狂ってるわけで。とは言っても、素直に何があったかなんて言えない。急な眩暈の後、僕は近くの公園で少し休んでいた。体調を整える意味もあったが、疲れを残した状態で琴美に会いたくなかったというのもある。そして僕自身にその眩暈の理由がわからない。事実を告げたところで琴美に不安を与えるだけだ。

「……あ」

 そこまで考え、真っ先に伝えたいことがあったことを思い出す。

「まぁ、柊くんだって大変なのはわかってるよ。けどだからって―――――」

「琴美っ!」

 嬉しさが先行して、僕は琴美を抱き締めた。

「えっ!?」

 驚きの声を上げる琴美の体に腕を回し、強く掻き懐くように。

「やったんだ! ついに見習い卒業できたんだよ!」

「え? あ、その、ちょっと」

「これで生活がもっと楽になる! 琴美だって無理にバイトをしなくても大丈夫だ!」

 給料が上がるということは、それだけ生活が楽になる。家のことを全部やってもらっている上に、琴美にはこれまでバイトも掛け持ちしてもらっていた。もうそんなことはしなくていい。もっとまとまって安定した給料がもらえる以上、琴美一人を養うことはできる。

「だから……うぅ、あーもう!!」

 頬の傍にあった柔らかい熱が急に離れて。

「人の話を聞きなさい!!」

 加速して僕のこめかみを貫く勢いでぶつかった。

「あだっ! い、いきなり何するんだよ」

「こっちの台詞よっ!」

 僕の体を手で押し、琴美が飛びずさった。

「急に何!? びっくりするよ!! その、嫌ってわけじゃないんだよ!? けど段階とかそういうものがあると思うわけで!」

「……何を言ってるんだ?」

 琴美があまりにも慌ててるものだから僕は逆に冷静になってしまう。琴美は自身の胸の前で手のひらを僕に向け、ブンブンと横に振っている。

「あっ、別にそのこれは、段階を踏むことを催促してるわけじゃなくてね! いや早いに越したことはないんだけど! ムードとか雰囲気だって必要だし大事だと思うの!!」

「ま、まぁまぁ。落ち着いて」

「落ち着いてるよ! 落ち着いてますとも! そりゃこれでもかってほど落ち着いてますよ!」

 いや絶対落ち着いてない。腕をぶんぶんと振り回して赤面している状態を落ち着いてると断言出来るのがすごい。

「私は情緒が安定してるって小中高の先生全員から言われたほどの冷静な人だよ!? たぶんそれ以外誉めるところがなかっただけだろうけど!」

「あー……もういいや」

 このまま言ってしまおう。逆に緊張しないで臨めるし。

 未だ腕をプロペラのごとく旋回している琴美の肩を掴む。

「琴美」

 息を大きく吸う。そして、覚悟を決めた。


「結婚、しよう」


「え?」

 琴美の漏れた声の後、空気が固まったように、動かなくなる。

 言った。言ってしまった。

 後悔はない。自分の素直な気持ちだ。むしろ清々しくさえある。けど、恐怖はする。もしかしたら壊れるかもしれない日常。そう考え付いてしまうと、どうしても恐い。

 琴美は僕をずっと慕ってくれていた。けれどそれは兄に向けるような、肉親に向けるような愛情のようにも見えた。

 僕だって、お互い同じものを失ったから同情と見間違えていることもあった。お互いがお互いを愛している。けどそれは恋じゃないかもしれない。もしそうだとしても僕だけの一方通行かもしれない。

「…………え?」

 もう一度漏れた声に、僕は再度口を開き。

「……結婚、しよう」

 訂正も何もなく、もう一度同じ言葉を口にする。

「………………あれ?」

 四回程瞬きした後。


「結婚、してなかったっけ」


 そんな、僕にとって見当違いなことを言い出した。

「………………………………いや、してない」

「え? うそ」

「………………」

「………………」

 えっと、なんだろう。この沈黙。というか、空気。あれ? 今僕はプロポーズしたはずなんだけど。一世一代の晴れ舞台は? 空気が百八十度反転したような気がしてならない。

「えっと……柊くん」

「……何?」

 なんとか冷静になろうと心の中で思いながら、僕は琴美の言葉を促す。

「孤児院を出るときに言ったあれってさ、その、プロポーズじゃ、ないの?」


『僕に、付いて来ないか?』


 …………今考えると、誤解されたってしょうがないですね。

「えっと……うん、プロポーズ、だったね」

 無自覚に、そういった意図はなく、ただ一緒に暮らさないかと聞いたつもりだったけど。

「その時から私、結婚してるつもりだったんだけど、違ったの?」

「それは、盛大な食い違いがあったのだと……」

「え? じゃあこれは柊ちゃんが書いたんじゃないの?」

 琴美が戸棚に置かれていたファイルから紙を一枚抜き出し、僕に差し出す。

「婚姻届?」

 市役所でもらえる書類。夫婦になることを望む男女が互いに必要事項を記入し、提出することで晴れて夫婦となる。もちろんそんな重要なものだから本人以外は記入してはいけないんだけど。何故かすでに必要事項は記入されてる。

 ……僕の。

「なんで!?」

「ちょっと! 夜中なんだからそんな大声ださないでよ!!」

「いやいやこれはおかしいでしょ! なんで書いた覚えもないのにこんな署名があるの!?」

「うん、まぁ私もおかしいなぁとは思ってたよ? そもそも渡してきたのがお婆ちゃんだったところからすでにおかしかったし」

「あのババアァァァ!!」

 あっさり見つかった犯人に届くぐらい、声を張り上げてしまう。

「だから静かにしてって!」

「静かにしてください! 今何時だと思ってるんですか!!」

『すいません大家さん!!』

 階下から聞こえた声に、僕たちはそろって頭を下げながら謝罪をする。

「……はぁ、うん、ちょっと落ち着こう」

 冷静になって……って、冷静になればなるほど疑問が次から次へと浮かび上がって、余計訳がわからなくなりそうだ。

「これってさ、もう役所に提出したのか?」

 指先で婚姻届けを摘み、琴美の前にピラピラ揺らす。

「ううん。そういうのは二人一緒に出しに行くものかと思ってたし」

「僕も、そういうものだと思う」

 役員の方とか周りの人が「おめでとう」と拍手で祝福してくれるシーンをよくドラマとかで見るし。正直、ちょっと憧れてた。

「それじゃ明日、行こうか」

「うーん、明日は仕事があるから、明後日にしよう」

「うんっ、わかった」

 ……なんか、うまくいきすぎてて実感が沸かない。僕の知らないところで話が進んでいて置いてかれているような感覚がする。

「……なぁ、琴美」

「何?」

「さっきの言葉、もう一度言わせてもらえないか? そして、ちゃんと返事が欲しい」

 仕切り直させて欲しいと、僕はそう琴美に提案する。

「けど返事って、もうなんて答えるかわかってるのに」

「それでもだよ。プロポーズってさ、儀式なんだと思うんだ。一緒に生きたいって。辛いことも一緒に耐えて、乗り越えていこうってまず男性の方から宣言して、それに答えてもらう。それを、これからも頑張る勇気にする」

「……柊くんって、以外とロマンチストだよね」

「自覚はあったけど、人から指摘されると恥ずかしいな」

「けど、似合ってるよ」

 琴美の小さな手が僕の手に触れた。連日の調理や皿洗いで荒れきった手に。

「はい、どうぞ」

 促されて、僕はもう一度覚悟を決めた。

「結婚しよう」

「はい」

 即答。間なんて少しもなかった。

「後悔しないか?」

「しない」

 また、即答。

「もう後戻りできないぞ?」

「その言葉、そっくりそのままお返しします」

 それは、琴美なりの盛大な自虐のように思えた。それがなんだかおかしく、笑えてしまって。

「……ぷっ、はは、あははっ」

 何年、僕達は立ち止まったままだったんだろう。先に進むための道があり、その道に入るための柵すら乗り越えたというのに。ずっと立ち止まったまま、歩き出してすらいなかった。

「琴美、頑張ろう。辛いことや苦しいこと。この先きっとあるだろうけど」

「うん」

 迷いなく頷いてくれる琴美に、僕はまだ言葉を続ける。

「けど、きっと幸せになれる。いや、してみせるよ」

「一緒に幸せになるのに、してみせるもないよ」

「いいんだ。これは儀式でもあって、宣言みたいなものだから」

 男としての、矜持。あなたを幸せにしてみせるから。僕と、ずっと一緒に生きてくださいと、口にして誓う。

 そんな、約束。

「……うん、頼んだよ?」

「これも、今更だけど」

 初めて、僕はこの気持ちを口にする。

「好きだ、琴美」

 本当だったら、この言葉はプロポーズよりも早く口にしているべき言葉。

「うん……」

 それでも、琴美は笑顔で聞いてくれる。笑いながら、泣きながら、応えてくれる。

「私も大好きだよ、柊くん」

 微笑んだ琴美の頬に手を伸ばすのは当たり前のことで、その柔らかな唇を僕のと合わせることなんて、きっと何年も前から決まっていたんだろう。

 その初めての口づけを、僕は心にしっかり刻み込んだ。

 この日、僕達は立ち止まった場所から、一歩大きく踏み出したんだ。



 幸せな瞬間はいつだったか聞かれると、きっとこの日を思い出すだろう。

 優しかった日々。温かかった日々。永遠を望まず、二人で生きていくと決めた約束の日。

 笑って、笑って、笑い合った。楽しくて嬉しくて、幸せで。

 もう、あまりにも遠い。永遠よりも遠い。

 そんな、二度と味わえない大切な日だったんだ。



「定食あがりました!」

 出来上がった煮物をお皿に移し、お盆にのせてカウンターに置く。よく通る声で返事したアルバイトのウェイターがそれを取り、お客さんに届けていった。それを厨房から見届け、僕は次の調理に取り掛かる。

 僕が調理場にコックとして立って、もう一年近くになった。僕の作った定食は予想以上の売り上げで、今ではこのレストランの人気メニューにまでなっている。

 懐かしい味がする。僕の定食を食べたほとんどの人がそう口にしてくれていた。自分の食べた料理で笑顔になって店を後にしていく様は、料理人にとっては至福の瞬間だ。厨房にまで届く程元気な声で、子どもがごちそうさまと言ってくれる。僕は嬉しくなって、思わず厨房からありがとうございました、と返事をしてしまった。僕の返事を皮切りに、他の従業員も同じように礼を言う。本当に温かく、良い職場だ。

 やる気に満ちた心境のまま、次の調理の準備を始めようとすると、後ろから声をかけられた。

「柊弥さん、そろそろ休憩ですよ」

「ああ、うん。ちょっと待って、これを済ませちゃってからにするから」

「そんな、皮剥きなんて俺たち見習いの仕事なんですから、柊弥さんは休んでいてください」

 一年も経てば見習いも増え、僕も先輩の立場となっていた。まだ新入りとして厨房に入ってから一月にも満たない彼は、苦笑しながら僕に気を使ってくれている。事実、下ごしらえは見習いの仕事ではあるけれど。

「そ、そう? じゃあお言葉に甘えようかな」

 煮物に使う人参の皮を剥いている手を止めて、僕は帽子を外して調理場から出た。休憩室として宛がわれている畳張りの部屋に入り、腰を下ろした。

「……やっぱ落ち着かないなぁ」

「何が?」

「うわあぁ!!」

 誰もいないと思って気を抜いていたから、突然耳元で聞こえた声に驚いてしまう。

「……君は一年経っても変わらないリアクションを見せてくれるね」

 そんな無様な様を、いつのまにか休憩室にいた沙耶さんが笑いながら見ていた。

「沙耶さん……いつからいたんですか」

「いつからって、あたしは君が来る前からいたんだよ? 今のは私に気付かなかった君が悪い」

「だからって、わざわざ耳元まで顔近付ける必要なんかないじゃないですか」

「そこはほら、その方がおもしろそうだからだよ」

「……はぁ、もういいです」

 この人には何年経ってもこうして扱われているような気がする。僕よりも一枚も二枚も上手というか。掴みどころがなくて飄々としてるから、いつでもこの人にペースを取られてしまう。

「そう諦められた態度をとられると更にからかいたくなるよね」

「今後も粉骨砕身の精神で立ち向かおうと思います」

「ならあたしも本気で迎え撃たないとね」

 僕にどうしろと。

「あれ? そういえばどうして沙耶さんがいるんですか? 今日ヘルプありましたっけ」

 沙耶さんはコックが足りない時に、ヘルプとして代わりに働いてくれている。現役は退いたとはいえ、自宅でも家事はしているのだから腕は衰えていない。もしかしたらここの誰よりも上手かもしれないくらいだ。

「ああそうだったそうだった。本来の目的を忘れていたよ」

 沙耶さんは手に持っていた紙袋を、僕に差し出した。

「赤ちゃん、おめでとう」

 それは、ベビー用品のセットだった。

「あ、ありがとうございます」

 礼を言い、受け取る。紙袋の中身はオムツに乳児用の粉ミルク。その他諸々の、これから産まれる僕たちの子どものためを思ってくれた品の数々だった。

「出産はいつだっけ。もう近いんだよね」

「はい。予定だと来月ぐらいには」

 結婚し、夫婦と過ごすようになって一年。その間琴美はめでたく妊娠していた。もうお腹も大きくなり、つわりもとっくに過ぎて安定していて、このまま何事もなければ丈夫な子を産める。

「早いもんだね。婚約してまだ一年じゃない」

「まぁ、そうですね」

 この一年、本当に色々なことがあった。

 僕はコックとして専用のメニューを作るようになり、妊娠の知らせを聞いた婆さんが孤児院の皆を引きつれてお祝いに来たり。

 ……ほんと、色々あったなぁ。

 婆さん、智明も無理矢理連れて来てたもんな……。理由があり、人との関わりも最低限に済ませるあの子が、浮かない顔ながらもわざわざ来てくれて、僕たちを祝福してくれたことは、本当に嬉しく思えたことの一つだ。

「さて。君は何を悩んでいるんだい?」

「……は?」

「は? じゃないだろう。せっかくこの私が相談に乗ろうとしているのだからもっと歓喜狂乱しないと」

「いや、そんな正気失う程喜ぶことじゃないです。単純に脈絡なさすぎたから何を言われたか理解できなかっただけです」

 急に何に悩んでるのか、なんて聞かれたら答えに詰まるのも当たり前な気もする。

「脈絡ならあったよ。君がここに来るときの表情は明らかに悩んでいたように見えた」

「あー……確かに浮かない顔はしてましたけど、そんな、悩みとか大層なものじゃ」

「んなのどっちだっていいから話しなさい。ほら、上司命令だ話せコラ」

「どうしてそんな強要されてるのかわかんないんですけど、というかもう上司じゃないような」

 まぁ、拒否したところで結果は同じか、むしろ悪化するかもしれないし。

「ほんと、たいしたことじゃないんですけどね」

 たぶん、他の人に話しても理解されるかわからない感情だ。だからこそ、誰にも言わずに、悶々とはしていた。

「こう、落ち着かないんですよ。悶々とする、というか」

「……奥さんが身重だから、夜の営みがなくて悶々とするのはわかるよ。でもだからって既婚で一児の母のあたしに期待は……」

「違います。話を最後まで聞いてください」

 結論を出すには早いし、そんな結論でわかった風な顔されても困る。

「その、途中で他の人の手が入ると、なんか落ち着かないんですよ。僕が孤児院にいた頃は下ごしらえから何まで全部僕一人でやってたから」

「つまり、作業工程が途中からになるから違和感があると」

「まぁ、そんなところです」

「ん~、気持ちはわからないでもないんだけど。新人教育の一環でもあるわけだし……」

「ええ、それはわかってます」

 もちろん、これは僕のわがままで、全面的に僕に原因があることは百も承知だ。言ってしまえば、協力して料理をする環境に、僕が慣れていないだけなんだ。見習いは皮剥きを覚えるためにしているんじゃない。下ごしらえをこなしつつ、調理場での立ち回り方を自分なりに模索しているんだ。それに調理時間の短縮にも繋がる。僕が意地を張って全部一人でやろうとすればそれだけお客さんを待たせることになる。

 自分一人の功績。自分だけの力で、掴み取ったもの。

 そういうものに憧れて、欲しがって生きてきたから。なんだか、他の人の力を借りることに、違和感を覚えるだけで。

「まぁそのうち慣れますよ」

「……君がそう言うならそうなんだろうけど。無理はしないで」

「ははっ、沙耶さんに心配されると何故か今後が不安になります」

「……店長に取り入って君のシフト入れまくってやろうか?」

「ほんとすみませんでした」

 職場から退いたとはいえ、未だに店長よりも顔が効くから困る。そのお陰でこの職場を紹介してもらった手前、もちろんそんなことは思っても言えないけど。

「でもまぁ、これからですよ」

 そう、これからだ。子供が生まれると今の家では少し狭いし。小さい頃はまだしも、大きくなったら自分の部屋を欲しがるだろう。そう考えると家を建てるのもいいかもしれない。それに、できればだけど、子どもには兄弟を作ってあげたい。養育費もこれからもっと稼いで、貯めて。やるべきこととやりたいことも山ほどある。

 どちらにせよこれからもっと頑張らなきゃならない。職場の環境に自分のポリシーなんてものを持ち込んで苦悩する暇なんてないはずだ。

「うんうん、その調子で頑張りなさい若人よ」

「若人って、沙耶さんだって十分若人じゃないですか」

「え? そ、そう? 若く見える?」

 お世辞を言ったつもりはない。実際沙耶さんは美人で、充分若人として称しても問題ないほどに若々しい。

「ええ、実年齢は知らないですけど、見た目だけなら僕とそう大差は……って」

 確か沙耶さんって母さん達の友達だったよな。そうなると……。

「……ほんとに人間ですか?」

「もっと言いようがあると思うよ」

 女性ってすごいなぁ。僕が見るかぎり沙耶さんってあまり化粧しない人だし。それでこれだけ若く見えるんだもんなぁ。ああでも、琴美も化粧ってしないよな。前はお金がないから、そういう嗜好品に手が出ないとは言ってたけど、余裕が出てきた今だってしてないし……。

 まぁ、しなくても美人だしなっ。

「…………何にやけてんの?」

「えぇ~、にやけてなんかないですよぉ~」

「うっわ、キャラ違う……これが幸せ絶頂の男の余裕か」

 危ない危ない。僕は一家の大黒柱になるんだから、もっとしっかりしないと。

「あれ?」

 沙耶さんの左手に、普段はあまり目にしない物を見つけて、僕は声を上げる。

「沙耶さん、それ婚約指輪ですか?」

 左手の薬指で、キラリと光る蒼色の宝石。その蒼い宝石には光の加減のためか、光の線が三つ程交差しているように見える。普段沙耶さんは指輪やアクセサリー類は身につけないから、余計に気になって聞いてしまった。

「ん? ああ、これ?」

 珍しく、沙耶さんは照れている。頬をほんのり赤く染め、照れ隠しにその頬を指先で掻く。

「今日は記念日なのよ」

「記念日?」

「そ、結婚記念日」

 沙耶さんは嬉しそうに口にして、指輪を撫でる。

「……なんか、意外です。沙耶さんってそういうことはあまり気にしない人だと思ってました」

「あら、女はみんな記念日を気にするものよ」

「そうなんですか?」

「男ってそういうところ無頓着だからねぇ。ま、頭の隅にでも留めとけばいいのよ。積極的になられても逆に対応に困りそうだし」

「はぁ……」

 やっぱり、琴美も気にしていたりするのだろうか。けどあいつ、自分の誕生日をサラリと忘れてたりするからなぁ。

 横目で壁に架かっているカレンダーを見る。思えば、僕たちの結婚記念日もそろそろだ。もしかしたら出産予定日と重なるかもしれない。

 結婚記念日を祝い、子どもの誕生も祝う。忙しい日になりそうだ。

「柊弥さん! そろそろお願いします!」

 厨房から僕を呼ぶ声が響く。もう休憩時間は終わりだ。短くも感じるけど、僕が作る料理を待ってくれているお客さんがいるなら、休んでもいられない。

「ほら呼ばれてるよ。行ってきな」

「はいっ」

 どちらにせよ、とにかく僕はそんな夢みたいな生活のために頑張らないとな。

 少女のような笑顔で指輪を撫でる沙耶さんの姿を思い浮べ、琴美にも同じような笑顔にさせたいと思った。




・秋宮琴美


「あら、いい場所」

 定期健診を終えた私は、病院内を歩き回っていた。

 なんでも母体の精神状況も胎児に何かしら影響を与えるらしく、それなら、落ち着ける場所があったらいいかなー、なんて思って探していたのだけど。

「まさかこんな穴場があるだなんて」

 院内に設けられてる中庭を散策していると、開けた場所に出た。そこは、まるでどこかの宮殿の庭のようだった。日の光が草木に反射してキラキラしてる。木々は碧く生い茂り、瑞々しさに満ち溢れていた。

 そして一番目を引くのが、真っ白なベンチ。何の変哲もない、公園にチョコンと置かれているようなベンチが、この空間にあるだけで輝いて見えた。

 ……あれがなければ。

「ぺ、ペンキ塗り立て……」

 男らしい字体と黒々とした墨汁で書かれた警告が、この空間にミスマッチ過ぎた。

「あら、ついに見つかっちゃた」

「えっ!?」

 声が聞こえた後、ガサガサと草木が揺れる。そこから、水色のワンピースを着た女性が姿を現した。

「あらあら、驚かしちゃったかしら」

「い、いえいえ、そんなことないです」

 美人だ。間違いなく。私なんかが横に並んでいたら、浮き彫りがはっきりしてしまう程。胸の高さまで伸びた綺麗な黒髪と、涼しげな色合いのワンピースのスカート部分が、風になびいている。

「ここはね、私のお気に入りの場所なの」

 手を広げて、女性が笑顔をでそう口にする。

「お気に入り、ですか」

「そ、お気に入り」

 ……確かに、ここは良いところだ。日差しが温かくて、緑も多くて。

 いい気分になりながら辺りを見ていると、目の前の彼女は何を思ったか……ペンキ塗り立てのベンチに座り込んだ!?

「なっ、そ、それペンキ塗り立てですよ!?」

「ん? ああ、これ?」

 あろうことか、彼女は迷いなく『ペンキ塗り立て』の紙をベリっと剥がした。

「これ私が貼ったんだよ。こうしとけば誰も来ないでしょ?」

 ……まぁ、確かに。唯一腰を置ける場所がペンキ塗り立てだったらみんな落胆して戻るかもしれないけど。

 ……いいの、かなぁ。

「この病院はここ以外にもいい場所がたくさんあるから。まぁ、そっちを探してもらうとしてね」

 そう言って、にっこり笑う。悪戯が見つかった子どものように舌を出しておどけるその仕草も、なんだか様になっていて。

 ……本物だ。この人本物の美人さんだ。

「……あなた、何ヶ月目?」

「え……ああ」

 目線から、お腹の子のことを聞いてるのを遅れて気づく。

「えっと、九ヶ月ぐらいです」

「あら、それじゃもうそろそろね」

 そう。もうすぐ、子どもが産まれる。私と、柊くんの子どもが。

「おめでとう。きっと丈夫な子が産まれるわ」

 何を根拠にそう言ったのかはわからないけど、こうも強く断言されると本当にそうなる気がして、嬉しくなった。

「あ、ありがとうございます」

 礼を言いながら、私はお腹を撫でる。

 ……ここに、私と柊くんの子どもがいる。それは本当に、不思議なこと。でも、私は幼い頃に両親を失ったから、親というものがよくわからない。

「……不安かしら」

「え? あ、その……はい」

 顔に出てしまっていたのだろうか。女性はクスリと微笑んで、私を優しげに見る。

「そうよねぇ。みんな不安よねぇ」

「あの、失礼ですがお子さんは」

 これだけ落ち着いた雰囲気をしているし、とても大人っぽい方だから、きっと私よりも年上なのだろう。なら、もしかしたら母親としてのアドバイスをもらえるかもしれない。そう思って、聞いた質問だった。

「残念ながらまだ。結婚はしてるんだけど。私ね、生まれつき心臓が弱いのよ」

「あ……」

 そうだ。ここは病院なんだからそういう人がいるのが当たり前だ。私のように、希望を持って病院に来る人のほうが少ない。

「だから夫も中々賛成してくれなくて。一人ぐらい気合でなんとかしてみせるって言ってるんだけど」

「は、はぁ……」

 なんだか、見た目に反してかなりのパワフル思考の持ち主らしい……ちょっとお婆ちゃんに似てるかも。

「だからね。あなたみたいな妊婦さんを見ると応援したくなるのよ」

「私みたいな、ですか?」

「うん。これから産まれる子どもを想っている、優しい人みたいな、ね」

 触ってもいいかしら。と女性が言う。私が頷くと、彼女はゆっくりと私の大きく膨らんだお腹に触れた。優しく、慈しむような撫で方。

「不安になるのは当たり前よね。だって、命を生み出すって本当にすごいことだもの。自分が生み出した命が笑ったり、悲しんだり。誰かを笑わしたり、誰かを悲しませたりする。これって、すごい不安になるわよね」

「……はい」

 そう、だから私は怖いのだ。

 笑うのも悲しむのも、全ては生み出した本人次第になりかねなくて。だからこそ、責任はとてつもなく重い。もっと気楽に考えられる親もいて、きっとそれも間違ってはいないのだろう。けど。私はそれができない。

 産まれたからには、笑って欲しいし、悲しんで欲しくなんかない。だったら、そうしないようにがんばっていくしかない。

 ……そんなことを、私は出来るだろうか。

「うん、無理ね」

「うぇ!?」

「あなた、顔に出すぎ。何考えてるか丸わかりだわ」

 ……いや、それはいくらなんでも凄過ぎないでしょうか。

「正直なところ、私の言葉は所詮憶測に過ぎないから、きっと軽く聞こえてしまうだろうけど」

 女性の目が、まっすぐ私を見つめる。

「人はね、どんなに幸福な生まれ方だろうと結局は一人なのよ。自分というものを持った時点でもう他とは一線を引かれてしまうの。だってそうでしょう? 例えどれだけ自分の心情を的確に文章にしてみても、それが誰かに読まれている間に、その読んでる人のフィルターにかけられ、全くの別物になってしまう。口にしてみたところで同じ。変わらないわ。それでも、繋がりを持とうとするんだけど。それは、自分が一人だという事実を浮き彫りにするだけになってしまう。それでも、人は一人で生きていくには、色々と足りないから。だから、傷ついても、悲しくても。誰かと繋がりたがる」

 女性の表情は、なんと言ったらいいのだろうか。笑っているから、悲しそうなわけではない。けれど、どこか切なく見えた。

「だからね、全ての責任があなたにあるわけじゃない。もちろん親としての責任はちゃんとあるわよ? けど、結局はその子が経験し、考え、行動する。だからこそ、全てその子の責任になるものだと思うの。だから、あなた一人で不安がることはないのよ。その子が産まれて、成長して、一人になってしまった時に、一緒にうんうん悩んであげる。親ってのはその程度で構わないんじゃないかな」

 そう言って、彼女はまた微笑んだ。笑みを強く、深くして。悲しくとも、その悲しさを表には出さない。大人の表情で。

「なんて、まだ親にもなってない女の独り言なんだけど。えっと、その、ごめんなさいね? 勝手なことばかりペラペラ言って」

「……いえ、感動しました」

 ずっと不安に思っていたことがある。だって、私は、私自身がまだまだ子どもだと思えてしまっていて。そんな自分が、子どもを作り、親になる。なれるのかって、ずっと不安に思っていた。

「……なんだか、答えが見えてきた気がします」

 一緒に悩んであげることが、親としてやれること。答えを出すのではなく、支えてあげること。子どもが安心して思い悩める、その場所を作ってあげる。

 それなら……うん。きっと、できる。

 柊くんと一緒なら、きっとできる。

「そう。それなら、良かったわ」

「本当に、ありがとうございます。なんていうか、その、まるでお姉さんみたいに色々教えてくれて」

「お姉さん、か。悪くはないわね。あなた、見た目も言動も、なんだか妹っぽいし」

 この人に妹っぽいと言われても、全然、これっぽっちも悪い気なんてしなかった。それよりも、なんだか嬉しく思えてしまって。

「あの、お名前を教えていただけませんか? それで、もしよろしければ、またこうしてお話したいな、って……」

 お婆ちゃんにも柊くんにも相談できないこともあるし。それに、こっちに出てきてから、私には友達なんて一人もいなくて、寂しかったという気持ちもある。

 それに何より、この人は美しくて、カッコよくて。なんだか、私が思い描いていた理想に近い気がして。 

「ええ。もちろん。私はいつも暇人だから。私の名前はね、琴那っていうの」

「…………え?」

 なんて、偶然なんだろう。

「お琴の琴に、奈良県の奈。自分でも、可愛い名前かなって思ってるんだけど……」

「わ、私っ。琴美です! 琴美って言います! お琴の琴に、美しいって書いて、琴美です!」

「……あらあら、まぁ」

 名前が似てるなんてこと、今までだって何度かあった。有名人と同名で喜んだ記憶もある。けどそれよりも、この人と近い名前だということの方が、もっと、ずっと嬉しかった。

「ふふ、琴美さんか。可愛くて、綺麗な響きね」

「琴奈さんこそ、綺麗で、優しい響きだと思います」

「……ふふっ」

「……ははは」

 何が楽しいのか、私たちは長いこと笑い合っていた。

「私、子どもの名前、決めました」

「あら、なんて?」

 ずっと悩んでいた名前。繋がり。絆。親からの一方的な願い。

 …………うん、私と柊ちゃんの子どもなんだから。この名前がいいよね。

 もしかしたら、柊くんは照れて、反対するかもしれない。けれど、私はこの名前が良いと思う。

 男の子でも女の子でも。そういう人になって欲しいという想いは変わらず、乗せられる名前。

「産まれてからのお楽しみ、ということで」

 それまでは、私と柊くんの二人だけの秘密にしよう。

「……ふふっ、そうね。その方が面白いかもね」

 私も子どもができた時はそうするわ、と楽しげに言って、琴奈さんは笑った。

「……私そろそろ帰りますね。柊く、じゃなくて。夫が帰ってきてるでしょうし」

 ベンチから立ち上がり、お尻をはたく。日はだいぶ落ちてきていて、中庭は段々と赤く染まっていた。

「そうね。さっき考えた子どもの名前、旦那さんに言いたくて仕方がないって顔してるもの」

「あ、う……」

 顔に出ていたことももちろん、柊くんを旦那さんって呼ばれるのが、何より恥ずかくて、照れてしまう。結婚してもう一年近くにもなるのに、未だに慣れない辺りが、本当に子どもっぽい。

「それじゃあまた、私はいつでも、ここで待ってるわ」

「え、ここ、って……」

 生まれつき心臓が悪いと言っていた。それは、つまり……。

「別に、心臓のことは関係ないわよ?」

「え? あ、えっと、その……」

 またしても考えが読まれてしまい慌てふためいていると、琴奈さんはベンチから立ち上がった。そして、茶目っ気たっぷりに笑い、口を開く。

「ああ、そういえば苗字を言い忘れていたわね。私、満永琴奈っていうの……聞き覚え、ないかしら?」

「……え? それって院長さんと同じ……え!?」

 手を広げ、琴奈さんが笑う。

「琴美さん。あなたのお子さんの誕生を、ここで、この病院で、楽しみに待ってるわ」




・秋宮柊弥


「ただいまー」

 仕事を終え、家に入ると良い香りがした。

「あ、おかえりー。ちょっと待っててね。もうすぐできるから」

 琴美は大きく膨れたお腹のまま、台所に立っていた。調理も佳境なのか、空腹を刺激する良い香りが家中に広まっている。

「夕飯なら僕が作るって、今朝言ったじゃないか」

「いやぁ、暇だったもので」

「暇って……いいから休んでてくれよ。ほら、後は代わるから」

 琴美が持っていたお玉を取ると、あからさまに不満げになった琴美が僕を睨んでくる。

「ぶー、大丈夫なのにぃ」

「心配し過ぎなのは僕だって自覚してる。落ち着かないんだから仕方ないじゃないか」

「まぁ……心配してくれるのはうれしいんだけど」

 不貞腐れたように呟く琴美に寄り添いながら、布団まで連れていく。

「……寝てなきゃダメ?」

「眠る必要まではないけど、横になっててくれ。何か読むか?」

「ん~。じゃ、それ取って」

 琴美が指差した先にある一冊の本を手に取り、琴美に渡す。

「ありがと」

「……その本、懐かしいな。まだ持ってたのか」

 琴美が手に持っている本は昔、婆さんが初めに琴美にプレゼントした本だ。

「うん。思い出の一冊だからね」

 両親を失い、身寄りのなくなって塞ぎ込んでいた琴美に、婆さんが「元気が出る本」と言って渡したもので、内容は子供物の冒険活劇。一人の勇者が世界を救うために旅を続け、仲間と助け合い、始めから決まっていたかのような大団円で終わる、ありふれた物語だ。

「しっかし、本当に懐かしいな。僕には未だ残ってるのが不思議なくらいだよ」

「だって、これは私の宝物だもん。この本があったから私は柊くんと友達に慣れたんだし」

「まぁ、そうだけど……」

 琴美が孤児院に来た頃、僕は両親の死からだいぶ立ち直っていた。今でも思い出すと心が痛むが、婆さんや周りのみんなが励ましてくれたおかげで、僕よりも傷つき、悲観していた琴美をなんとかしてあげたいと思えるぐらいには回復していた。

 ずっと部屋の隅でうずくまって泣いていた琴美に僕は懸命に声をかけた。けれど、それだけじゃ深く傷ついた琴美の心は癒せなかった。

 そんな僕らのために、婆さんがくれた一冊の本が、この物語だった。

「お婆ちゃんがせっかくくれたのに。私ってば、触れようともしなかったよね」

「それを僕が読んで聞かせたんだよな」

 つっかえつっかえの拙い言葉で紡がれる夢物語。勇者は傷つき、様々なものを失いながらも仲間を信じ、共に世界の平和のために旅を続ける。

「最初はね、その物語が嫌いだったの。嘘ばっかで、それは本当の話じゃないって。現実は、もっと大変なんだ、って」

 そういう、普通に暮らしていけばいつかは辿り着いてしまう帰結を、僕たちは随分と幼い頃に迎えてしまった。不慮の事故で両親を失った僕たちは、人生にはどうしたって、どうしようもないことがあることを思い知らされた。

「でも、柊くんが毎日その本を読み聞かせてくれる内に、気づいたの。ああ、現実は辛くて、厳しいことばっかりでも。こうして、私を想ってくれている人はいるんだって。だから、私はまたもう一度頑張ろうって、思えたんだよ」

 横になりながらそう言う琴美に、僕は言葉に詰まって、何も言えなくなる。

「だからありがとね、柊くん」

「……僕は友達が欲しかっただけなんだ」

 僕だけ違う経緯で来た孤児院の中での精神的孤独感。それに耐えられないから助けようと思った。

 礼を言われると、複雑な気分になる。

「だからだよ。私も友達が欲しかった」

 言葉が、出ない。目の奥がツンとした。唇を噛んで、泣くのだけは必死に堪えた。

「そ、っか」

 救えてたんだ。一人よがりじゃない。相手が望む一番の方法を選択していたんだ。

「うれしい、な」

 横になっている琴美の髪を撫でる。やわらかく繊細で、本当に絹糸のような栗色の髪。

「柊、くん?」

「僕、頑張るよ。もっと頑張って、絶対に君を幸せにしてみせる」

「急にどうしたの? は、恥ずかしいよ」

「聞き流してくれてもいいよ。ただの宣言だから」

「……ううん、聞いとく」

 琴美の髪を撫でていた僕の手に、琴美が触れる。触れた指先は僕の指と絡まり、繋がる。柔らかく、温かい手のひら。

「嬉しいな。誰かが私のために頑張るって」

「子供のためでもあるぞ?」

「結局は同じことじゃない」

 子どものために頑張ることが、琴美のために頑張ること。もしそうなら、これ以上に嬉しいことはない。これ以上に、頑張る理由なんてない。

「……ねぇ、昔みたいに読んでくれる?」

 差し出される本を手に取り、迷うことなく僕は頷いた。

「この子に、聞かせてあげて」

 琴美は繋いだ僕の手を、自分のお腹まで、僕たちの子どもが息づく位置まで、運んだ。

「……ああ」

 触れた琴美のお腹。大きく膨らんでいる。この中に、僕たちの子どもがいる。

 読み上げる前に始めの文章に目を通す。最初は、力強く、冒険の始まりはしっかりと。

 懐かしい言葉に溢れた物語を声にして読み上げる。

「始まりはある小さな村。一人の男の子がある一振りの剣を手に入れたことから始まります」

 お腹の子に、琴美に、優しく語り掛けるように言葉を紡ぐ。

 いつか、子供が産まれてからも、こうして聞かせてあげよう。

 諦めなければ、幸せになれる物語を。




・秋宮琴美


「さってと、こんなもんかな」

 洗濯物を全て干し終わり、本日の家事終了。

「よっと」

 お腹に衝撃がかからないよう、ゆっくりと布団に腰を下ろし、横になる。胎盤で覆われているから少しぐらいの衝撃なら問題ないらしいのだけど、できるかぎり静かに寝かせといてあげたい。

 私、お母さんみたいな考えしてる。いや、実際母親になるのだから当たり前なのだけど。なんだか不思議な気分。

「お母さんか~」

 声に出してみたところで実感はあまり湧かない。お腹が大きくなってきて「妊婦さん」という自覚だけはいっちょ前にあって、肝心の「母親」の自覚がない。

「産まれてきたら、ちゃんと自覚も出るのかな」

 そもそも私には参考になる「母親」の像が見えてこない。お婆ちゃんは確かに「母親」として私たちに関わってきてくれたけど、私にはあんなパワフルな教育方針はとれない。本当のお母さんだってもうほとんど記憶になくて、申し訳ないが参考にはならない。

「理想的な母親像か……」

 私の記憶の中の「母親」に分類される人を思い浮べても、やっぱりピンとこない。母親らしい人はたくさんいるけど。実際に母親として生きてきた人は私の近しい人の中にはいなかった。琴奈さんはお母さん、というよりお姉さんのイメージだから、それも除外。一番近いかな、とは思うけど……。

「あっ……」

 ふいに、お腹が内側から押された。

「……お母さんを足蹴にするとは、いい度胸じゃない」

 未だに母親というものはわからないけど、悩んだところで答えは出ないなら、悩んでも意味がない。

「待ってなさい、元気に産んであげるから」

 柊くんだけじゃない。私も頑張らないと。きっと今頃、必死に、けれど楽しそうに料理をしているのだろう。昔から、柊くんは料理が好きだった。当番を嫌がる子には、進んで料理当番を代わってあげる程に。

 そうやって、私が昔の柊くんを懐かしんでいると、不意に電話が鳴った。太陽はほぼ真上にある昼下がり。こんな時間に電話なんて珍しい。

 座るとき同様、ゆっくりと起き上がり、受話器を取る。

「はい、秋宮です」

 柊くんと同じ名字を名乗る。最初の頃は苦労したけど、今じゃ迷わず秋宮と名乗れる。

『……こちら、二宮総合病院院長、満永です』

「あ、満永さんですか」

 面倒なセールスの電話かと警戒していたけど、着信相手が知り合いだとわかって安心する。

「どうしました……もしかして、子供に何か問題が?」

 けれど、その安心はすぐに吹き飛んでしまった。満永さんは私が出産する予定の病院の院長だ。そんな人から直接自宅に連絡があるだなんて、やだ、不安になってしまう。

『いえ……お子さんのことではありません』

「あ……そうですか」

 胸に手を当て、深くため息を吐く。けれど、すぐにまた新しい疑問が浮かび上がる。

「あれ? それならなぜ電話を?」

『今、来られますか?』

「えっと、病院にですよね」

『ええ』

 うーん、問題はないと思うけど。一応柊くんには連絡しておいたほうがいいよね。

「わかりました。柊く、じゃなかった。夫に連絡してから伺いますので――」

『その必要はありません』

「え?」

『……落ち着いて聞いてください』

 一瞬の間。それはきっと、院長さんが私に落ち着いてもらうために取った間。

『柊弥さんが倒れ、当病院に運ばれました……相当、危険な状態です』

 けれど、そんな気遣いなんて、これっぽっちも効果がなかった。

この章は次で終わります。

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