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Recall  作者: ツナ缶
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三章 3

なんとなく切りがよくないので連続投稿。それと全然関係ないですが飲み終わったオロナミンCを捨てようと立ち上がり、その蓋が手から零れ落ちて踏み出した足の元に転がり込んだ時走馬灯見ました。

なんであんな鋭利な形してるんですかあれ。

あ、三章はこれでお終いです。主人公中一番年上なくせに一番なよなよしたりしてるヘタレ系主人公をどうか最後までよろしくお願いします。


 左腕の傷は二ヶ月ほどで元の状態に戻った。元々動かせない腕だったからリハビリも必要なく、俺は普通よりも早く退院することができた。

「おかえりなさい、智くん」

「ああ、ただいま」

 久しぶりの我が家に足を踏み入れる。

「だいぶ、片付いてるな。春子のことだから、腐敗地帯を広げてると思ってたけど」

「……智くん、わたしのことバカにしてる時あるよね」

「いや、いつもだ」

「むーーっ!!」

 ポカポカと叩いてくる春子の拳を右手で防ぐ。

 …………こんな二十三歳は世間的にどうなのだろう。可愛らしい、と思うのは色惚けが過ぎるかもしれない。

「……やっぱり、動かせない?」

「ああ」

 新しく負った、いや、負わした怪我も痛々しい傷跡を残すだけで、腕としての機能を働かすのに問題はない。が。

「いつになるかわからないけど、きっと動かせるようにする。だから、心配するな」

 暗い表情で沈んでいる春子を元気付けるように、無理矢理明るく話す。

「ほら、せっかくの退院明けなんだ。そんな沈まないでくれ」

「うん」

 空元気を絞りだす。俺が気丈でいなくてどうするんだ。

 強く生きると決めたのは俺じゃないか。

 少し変わった間取り。春子が俺の家で暮らす証を見ながら、俺はかつて決意した感情を思い出していた。

 そうすることで、前を向こうとしていた。



 深夜。

 春子も寝静まり、外の音もない時間。俺は部屋で一人深呼吸をする。電気は点けない。『あの時』の暗闇に近付けるために。

「いくぞ」

 まずは指に命じる。

 動け。

 第一関節がぴくりと動く。よし、このまま……。


『危ないよ? 危ないよ? このままじゃ危ないよ?』


「くっ」

 手首を曲げようとした途端、頭に殴られたような痛みと、懐かしい子供の声が頭を駆け巡る。

『痛いよ? 苦しいよ? どうして?』 

『ぼくは悪くないのに』

『じゃあ、誰が悪いのかな?』

「黙れ……」

 耳鳴りにも似た、深いな音。それは、聞き覚えのある声をしていて。

『悪い人がいるから、ぼくが痛い思いをするのかな?』

「やめろ……」

『そんなの嫌だな。だからさ……』

「うるさい……」

『殺しちゃえばいいんじゃない?』

「違うっ!」

 強く否定した途端、その声は、もう聞こえなくなっていた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 否応なく呼吸が荒くなる。動悸は激しさを増し、喉が乾いて息苦しい。何度か息を大きく吸い、精神を落ち着ける。

 だけど左手はもう、動かせない。

「くそっ、駄目か……」

 今日で五回目になる、この、左腕を動かす練習。

 最初の頃はもっとひどかった。動かしてみよう、そう思っただけで今のようなひどく不快な考えが湧き出て、自分をうまくコントロール出来なくなった。

 それに比べれば、今はだいぶ進歩は見えてきている。だが、進んでいる感覚だけが先行するばかりで、ゴールが見えてこない。

「……一人だったら、そもそも、始めてすらいなかっただろうな」

 春子の存在はやはり大きい。無条件で支えてくれることは安心感を際限なく思わせてくれる。

 だからこそ、克服しなきゃならない、病気。

 左腕を動かそうと意識した瞬間、あの黒くて、赤い光景が頭を埋めつくして、過剰な防衛本能が目を覚ます。幼児のように無邪気で、幼児のように命の重さを知らず、残酷。蟻の行列を踏み躙るように、他を排除して自己を防衛しようとする。

「まるで二重人格だな」

 自嘲気味に呟いてみたが、まさしくその通りだと思った。

 俺の中にいる、最大の敵であり、俺を救った恩人。そいつをなんとかしない限り、俺は先に進めない。

「けど、どうすればいいんだ……」

 道が見えない。途方も無い。

「本当に、どうすればいいんだよ……」

 どうすれば、俺はこの左腕を受け入れられるのだろうか。

 母さんを殺した、この憎くも、命の恩人であるこの左腕を。



「ねぇ、智くん」

 横になりながらテレビを見ていると、キッチンから春子の声が聞こえた。

「どうした?」

「明日から三日間ぐらい、予定空いてるかな」

「そう、だな」

 自室に置いてある鞄から手帳を取出し、カレンダーに書かれている予定を見てみる。ちょうどその辺りは冬季の長期休暇へと入るところだった。仕事も多少はあるがそれは急ぎではなく、それなりに融通を利かせて三日間休みを作ることもできる。

「問題はない、な」

「それなら、一度、帰らない?」

 ……まぁ、そこはかとなく嫌な予感はしてた。

「帰るって、まさか……」

「うん、孤児院に」

「やっぱりな……」

「嫌なの?」

「嫌ってわけじゃないんだが……その、戻りにくいというか、なんというか。ほら、ほとんど家出みたいなものだったからな。夜中にこっそり飛び出して」

 早いうちから独立したくて、そのせいで婆さんとは何度も衝突した。だから進学先を実力で勝ち取り、ほぼ事後承諾の形で孤児院を飛び出して、今に至る。

「そんな俺が帰ったって、迷惑なだけじゃないか?」

 少なくとも俺は相当に気まずい。

「大丈夫だよ。お婆ちゃんも怒ってないし、他の子たちも、きっと笑顔で迎えてくれるよ」

「……どうだろうな」

 少なくとも、俺はそうは思えなかった。孤児院での俺の評判など知らないが、ずっとしかめっ面で可愛げのない子どもだった自覚はある。そんな俺を、もう何年も経ったあの場所が暖かく迎えてくれるだろうか。

「平気だってば。智くんが本当はとってもいい人だってことは皆知ってるもん。無関心のフリして、怪我している人がいたら率先して手助けをしていたし、皆が遊び回っているときに一人で院内を掃除したりしてたし」

「それは、別に善意からの行動じゃない」

 手助けをしたのは無視をして、誰かに軽蔑されるのが嫌だったから。

 院内の掃除をしていたのは、それ以外やることがなかったから。

「善意だろうとなんだろうと、皆は喜んでくれたんだよ?」

 複雑な気持ちになる。自分がしたことで喜んでくれるのは、素直に嬉しいと思ったけれど。それでも、それを目的にしたわけではないのに。

「なによりね。毎日泣いて、絶望していたわたしを救ったのは智くんだって、皆知っているんだよ?」

 春子の、綺麗で、微笑ましい笑顔が、胸に刺さる。

「それだって、違うんだ」

 だから、つい否定の言葉を吐いてしまう。

「春子に近づいたのだって、昔の俺を見せ付けられてるみたいで、嫌になって、うんざりしたからで……元を正せば結局は自分のためで、ひどく矮小なくせにでしゃばりな、自己保護欲のためで……そのくせ。結局俺はおまえを見捨てて、逃げたんだぞ」

 いつのまにか、目尻に涙が溜まっていた。

 悲しいわけじゃない。ただ、春子と初めて関わった理由が、こんなにもちっぽけで、惨めなものだから、それが悔しくて……。

「……もう、智くんは泣き虫だなぁ」

 春子の両腕が俺の頭に回され、そのまま春子の胸に引き寄せられる。

 いい匂いがして、暖かくて、優しくて。いやらしい気持ちは湧かず、ただ安心感がやわらかく俺を包み込んでいた。

「理由なんかどうでもいいよ」

 頭上から、囁くような優しい声がした。

「わたしが笑って、智くんも笑う。今がそんな生活なら、そんなことはどうだっていいんだよ。ほら、笑おうよ。わたしは笑っているよ? 幸せなんてこんなに単純で、ありふれてるんだから」

「……ああ」

 俺は、少しは変われたんだ。ちょっとでも、前を向けたんだ。

「帰り、たいな……」

 見せてあげたいんだ。婆さんに、皆に、今の俺を。ほんのちょっぴりでも強くなった、俺の姿を。

「うん、帰ろう」

 頭を優しく撫でられて、気持ち良くて、それだけで笑えた。

 見せに行こう。俺たちの幸せの形を。



 まず飛び込んできたのは、目に痛いくらい鮮やかな緑。

 ガラガラだった地方線の電車を降りて、肩に食い込んでいた鞄を地面に下ろした。無人のホームには静かな清流の音が響いている。近くの小川の音が反響して耳に届いているのだろう。

「まだこっちは涼しいね」

「ああ、ちょっと肌寒いくらいだな」

 暦の上では春なのだが、山々に囲まれ清流が所々に流れるこの町では、まだ冬の寒気が抜け切っていないようだ。

「……変わってないな」

 自分がこの町を出た頃の光景と、今の光景を頭の中で重ね合わせても、たいした差異はなかった。

「変わる必要がないからね、この町はいつまでもこのままだよ」

「変わる必要、か」

 町や村や都市が変わるのは、そこに住む人たちが変化を望むから、現状を手放して次に行きたい。そういった理由によるもんだ。

 ここの人間は、現状に満足している人ばかりなのだろう。便利や裕福などに興味はなく、ただ静かに生きていきたい人の集合体なのだろう。この町を飛び出して、それがどれだけ大切で、どれだけ大変なのかわかる。

 俺たちは知ってしまったから。便利なものによって手に入る余裕を、裕福であることで得られる笑顔があることを。

「ほら、行こっ? お婆ちゃんが待ってるよ?」

 風で飛ばされてしまいそうな帽子を手で抑えながら、俺に笑いかける春子。

 なぁ、春子。おまえはどっちがいい?

 ただ二人で幸せに生きていくか。

 作れるかも定かではない、確証のない笑顔に囲まれて生きるか。

 きっと、正解なんてないから、だからこそ迷いが深くなる。

「ああ、今行く」

 いくつ答えを導きだしても、どれが正答かわからない。それでも、足を前に向けるしかないのだろう。

 そうやって無理矢理結論づけて、俺は先を行く春子を追った。



「ここもあんまり変わってないな」

 町の中心を外れ、然程高くもない山の頂上近く立つ建物。元々は廃棄された旅館を、婆さんが一人で全部修繕、改装をして、今の形に至るそうだ。

 外観はたいして変わりがない。それは、ある程度年数が経っているのだから汚れなどはチラホラ見えるが、記憶の中の光景と重ね合わせても差異は少ない。

 懐かしい、心地よい空気に包まれながら玄関の取っ手に手をかけたところで、春子が俺から何メートルも距離を置いていることに気付いた。

「春子、入らないのか?」

「ひゃい!?」

 普通に話したつもりなのだが、なんと発音したのかわからない高音をひねり出して春子は飛び上がった。

「な、なな何!?」

「いや……入らないのか?」

「あ、はっ、入るよ! うん!」

「ならどうしてそんなに離れるんだよ。もっとこっちに来ればいいじゃないか」

 ざっと目測だけで、俺と春子の距離は三メートル以上もあった。一緒に帰ってきたというのに、この距離は不自然極まりない。

「そ、そうだよね!? あはは!」

「……何か隠してるのか?」

「えっ!? そ、そんなことないよ~」

 あからさまな即席笑顔を浮かべつつ、春子は突然上を見て、真剣な表情で頷いた。

「ほらっ! 智くん早く入ろう!?」

「は? あ、ああ」

 打って変わって春子は瞬時に近付き、俺の背中をグイグイと押す。

 ……まぁ、いいか。

 小難しいことは考えず、今はただ懐かしい場所に―――――。

 一瞬、頭を駆け抜けていった光景。既視感、デジャヴ。見たことある光景。

「ま、待った! 春子! 止まれ!!」

 扉が開かれ、玄関に並ぶいくつもの靴。その先に陣形を作る、ホースやら水鉄砲やらを構えた子供たち。

 過去に見たことがあるかもしれない、まったく一緒の状況の中で、一つだけ違うこと。それは、子供→子供の図式が、子供→大人の形に変わったこと。

 つまり。

『いっっけぇぇぇぇぇぇ!!』

 こいつらには一切の容赦がない。

「あばばばばばばばば!!」

 目、鼻、口と絶え間なく水が潜り込んでいき、堪え切れなくなった俺は後方へと吹き飛んだ。ごろごろと地面を転がり、木の幹にぶつかって止まる。

「っ! いきなり何しやがるうごっ」

 怒りを撒き散らしながら起き上がった時、頭にカツーンと何かが当たった。

 頭を押さえながら頭に当たった物体を見る。

「……あーもう、ほんとにこの家は」

 当たったのは手のひらサイズの小さな水鉄砲。水は内容量限界値の半分ほどしか入っていない。

「さっさと起きな」

 頭上から響く無駄に自信に溢れた声。窓から身を乗り出して、そう、初めて会った時と同じように。

「そんでもって応戦! もたもたしてると蜂の巣だよッ!」

 水の入った二丁拳銃を向け、笑顔で言い切った。

「……はっ」

 久々の昂揚感、あの誰もいない世界の時とは違う、ただ純粋な『遊び』のための。

「蜂の巣? 俺が? 馬鹿を言うな」

今だ手に馴染む愛器を手に取り、銃口を向けた。

「蜂の巣になるのはアンタだ」

 本当に楽しそうな、年を感じさせない婆さんに。



「いい年して、何やってるんだ、俺……」

 よたよたと歩きながら、俺は孤児院の居間に座布団を四つ並べて横になる。今までずっと子供たちと遊んで(水鉄砲での銃撃戦)いたせいで、ひどく疲れてしまっていた。

 首だけを動かして壁に掛けてある時計に目をやる。時刻は四時を指していた。ここに到着したのが昼頃だから、丸々四時間走り回ったことになる。

 ……そりゃ疲れるよな。

「なんだい、もうへばったのかい」

 婆さんがお盆に湯呑みを二つ乗せて、居間に入ってきた。襖を足で閉める辺り、ズボラさと足腰が衰えてないことが伺える。

「デスクワークが基本の教師が、四時間も全力で走り回ったら疲れるに決まっているだろう」

 起き上がる気力もないので寝ながら応対する。

「情けないねぇ、このくらいで疲れてちゃ都会で生きていけないだろう」

「スポーツ選手とかでもない限り、向こうじゃ四時間も走り回ったりしないからな」

「たるんでるねぇ、毎日十キロぐらいランニングするぐらいじゃないとダメじゃないか」

「そんな時間に余裕はない」

 俺は起き上がり、テーブルに置かれたお茶を喉に流し込んだ。昔と変わらない味がする。安物の、大雑把な苦みが口内に広がる。

「子ども達は? あれだけ遊んでたから自室で休んでたりしてるのか?」

「いんや、晩飯に使うキノコを取りに行かせてる」

「あいつらの体力は無尽蔵か……」

「何言ってんだい。アンタだって昔は平気でこなしていたじゃないか」

「……まぁな」

 年のせいだろうか。いや、単純に日々の怠りか。

「しっかし、あんたがここを出てから何年も経つのに、腕は全く衰えてないようだね。一対十だっていうのに、あそこまでの接戦ができるとは。いやぁ~アタシの教育も間違ってなかったってことだね。うんうん」

「何を勝手なことを言ってるんだ……」

 昔からこの婆さんは、ハードボイルドやらサムライソウルやら、まぁとにかく、その手の熱い展開が大の好物で、遊びと称して俺たちにさっきのような「銃撃戦」をやらしていた。

 実際、楽しいと思ったことがないわけでもないが、考えてみれば相当変わった孤児院だと思う。

「……そういえば、明日佳はどうしたんだ?」

「ああ、あの娘なら今頃荷造りでもしてるんじゃないかい。戻るんだよ、あの子の故郷に」

「荷造りって……あいつ、ここを出るのか」

 君河明日佳。春子と同時期にやってきた女の子だ。つまり、春子と同じ事件に巻き込まれ、ここにやってくるようになった。

「大丈夫なのか。たしか、まだ一七歳だろ?」

「あんたよかしっかりしてる娘だよ。それに生活に必要な知識と技術はもう叩き込んである」

「いや、そっちの心配はしてない」

 ……あの人が引き起こした事件よってここに来た二人が、故郷へと戻っていく。戻る必要があるわけではないのに。

 いったいどういった理由で戻ってくるのか知らないが、同じ町に越してくるんだ。できる限りの面倒は見てあげたい。

「大丈夫さ。なんてったって下宿先はあんたと同じ、あそこだからね」

「鬼かあんたはっ!! なんてところに自分の娘も同然の人間を送り込もうとしてんだ!?」

「いいところじゃないか。昔からの付き合いだし、身の危険はないだろうに」

「身の危険はないが心の危険だらけだ!」

 涼森家。俺が昔孤児院を出た頃お世話になった家だ。あそこはダメだ。善良な、というか一般常識を持ち合わせてる人間が行って良い場所じゃない!

「……帰ってきて早々、何を騒いでるんですか? 智明さん」

 抑揚は薄いが、澄んだ声色が背後から聞こえてくる。長い、癖一つもない黒い髪を腰の位置まで伸ばした彼女、君河明日佳が襖を開けて部屋に入って来ていた。

「明日佳、早まるな。もう一度よく考え直した方がいい!」

「考え直すも何も、もう先方とは話が着いてます。それにもう決めたことですから」

「絶対おまえなんて瑞穂さんの餌食だって。まだ遅くないから考え直せ!」

「……智明さん、変わりましたね」

 落胆、とは違う。けれど、どこか見方が変わったかのような視線を俺にぶつけてくる。

「……おまえは、さっぱり変わらないな」

「変わるわけ、ないじゃないですか」

 人を遠ざける冷めた表情。突き刺すような視線。決して上がらない口角に、温かみの欠片もない瞳。変わらない。俺が孤児院を出てから、もう結構な年月が流れていた。それでも目の前の彼女は何も変わってはいなかった。いや、見た目だけの変化なら、驚くほど変わり、美しい女性に変わった。けれど、その内面は、きっと少しも変わっていない。

 人を真っ向から拒絶する。生半可に遠ざけるだけの俺とは違う、徹底的な拒絶の姿勢。

「もう荷造りは済んだのかい?」

「居間が騒がしいから様子を見に来ただけ、すぐに戻るわ」

「智明の言うとおり、考え直す気は?」

「ないわ」

 そう一言だけ、吐き捨てるように言って明日佳は居間を出て行った。

「……本当に大丈夫なのか」

「あたしはむしろ、あの家はあの子に良い影響を与えてくれると思うよ」

「それは……どうだろうか」

 瑞穂さんの傍若無人っぷりは思い出すだけで寒気がする。実際お世話になりっきりだったから強くは出れなかった。それに、今は成長した直樹もいるし……。

「直樹、死ぬんじゃないか……?」

 明日佳をからかいまくって、その代償を暴力で返される直樹の姿がありありと浮かぶ……定期的に様子見に行った方がいいかもしれないけど、瑞穂さんいるから敬遠したい。病院の検診も、徹底的に瑞穂さんが勤務から外れてるタイミングを狙っているぐらいなのに。

「……まぁ、大丈夫か」

 悪い人たちじゃない。決して善人でもないが。

「あんたも、大きくなったもんだねぇ……」

 婆さんはふいに過去を懐かしむ、年相応の表情を浮かべた。

「しみじみと言うなよ。今、途端に老けて見えたぞ」

「年くって苦労もしてんだ。老いはむしろ勲章だよ。あんたも子供ができればわかるさ。で、いつ頃なんだい?」

「何が」

 一息つこうとして、婆さんが煎れてくれたお茶を飲もうとして。

「春子との子供だよ、子供」

 危うく噴出しそうになった。

「あんた達付き合っているんだろう? もちろん結婚を前提に」

「……いや、何故知ってる」

「何故って、春子が教えてくれたんだよ」

「……いつ」

「さぁねぇ。たしか、冬の初めだったかね」

「速攻か……」

 思わずテーブルに額をぶつけてしまった。ゴンと音を立ててぶつかる額の痛みを、最早然程気にならない。

 別に知られたくなかったわけじゃないが。さすが生粋の天然マイナスイオン製造機。どうせ何も考えずにただ嬉しさが先行してその日の内に連絡したのだろう。

 それは、嫌じゃない。むしろ、俺と恋人同士になった。たったそれだけのことで喜んでくれるのは純粋に嬉しい。

「何ニヤニヤしてるんだい、気色悪い……」

「っ! 別にニヤニヤなんてしてない」

 慌てて真顔に戻すが、時既に遅く。今度は婆さんがニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて俺を見ている。

 だが、一変して表情を整えた。まっすぐ俺を見て、話始める。

「……変わったと言えばアンタが一番だねぇ、昔はいっつもムスッとしてて、扱いにくい子だったのに」

 事実であるが故に、耳に痛い。関わらないで傷ついていたのは、俺だけじゃない。

 関わってもらいたかった人さえも、傷つけた。

 自責の念を振り払うように、俺は冷めてきたお茶を飲む。

「そういえば、春子は何をしているんだ?」

 だいたい何をしているのかだなんて想像はついていたが、話をすり替えるためには丁度いい話題だった。

「ん? あの娘なら子供達とキノコを取りに行ったよ。ついでに野鳥や野ウサギの二三羽獲ってくるんだろうけど」

「ああ……無駄にサバイバルスキル豊富だからな」

 昔はよく、ついでにと言って野生動物を何匹も捕まえてきてはみんなを驚かしていた。料理は然程うまくもないくせに、捌くのは相当うまい。この婆さんでさえ舌を巻くほどの腕だ。

 ……まぁ、大型の猪を捕らえてご満悦で帰ってきた時は、さすがに戦慄が走ったが。

「強く、なったねぇ……」

「ああ、今日は猪鍋いくつ出来るかわからないほどにな」

「そういう強さじゃないよ。アンタは知らないが、アンタがこの家を出ていった時は大変だったんだよ」

 責めているような口調ではない。けれど、それでもやはり、多少の罪悪感が胸の内に芽生えた。

「母親を亡くして、絶望して泣いてばっかだったあの子を救ってくれたアンタが、目を覚ましたら姿を消していたんだ。自分の行動が春子を傷つけるとわかっていただろう?」

「……まぁ、な」

 周囲の反対を押し切って孤児院を飛び出して、バイトをいくつも併用して学費を納め、大学に入り、教員資格を得た。

 目まぐるしい毎日になるのは決まっていた。それでも自分で決めたことだったんだ。いつしかこの家が心地よくなり、このまま幸せに暮らしてもいいんじゃないか? そうとも思った。けれどもし、また失ってしまったら、今度は絶対に耐えられない。今度こそ飛坂智明は崩壊する。だから自分から失わせた。考えられる限り一番傷が深くならない方法で。

 だが、今はそれが間違いだとわかっている。

 怒るのは悲しいからだ。自分の思い描いていた世界を砕かれた、それによって行き場を失った願いの放流。春子が、婆さんが、皆が、思い描いていた、『皆がいつまでも一緒に笑い合える世界』を壊した。

 結局、俺は自分が経験したくなかったことを、皆に味あわせた。

「そのことについては、悪いと思っている」

「思っているだけかい? 謝ろうとは思わないと?」

「ああ」

 謝るということは、自分の行動を悔いるということだ。


『過去が変えられないなら、私たちが変わるしかない。辛い出来事があったから、そう思えるようにしなさい。そう思えるような人生を送りなさい』

『お婆ちゃんは、そうみんなに言ってくれたの』


「婆さんが言ったことだろ? 辛いことがあったから、今の俺と春子がいる。俺たちは『今』笑えている。大事なのはそれだけだ」

 その今を続けていく。そのための努力を怠らないことが、今の俺にとって必要なことだ。

「……言うようになったじゃないか、この青二才がっ」

「いってっ! 湯呑みで殴るな馬鹿! それ普通に鈍器だぞ!!」

「細かいことグチグチ言うんじゃないよ! さっさと酒持ってきな! いつもは一人でしか飲めないからね、今日は飲むぞ~」

 相変わらずテンションの高い婆さんだった。湯呑みの底で殴られた頭を擦りながら俺は立ち上がると、玄関からドタドタとやかましい足音が聞こえてきた。

「たっだいま~、智くんっ見て見て!?」

 襖を勢い良く開いて春子が現われた。

「ああ、おかえり、って何持ってんだ?」

 山の中を歩き回ったというのに春子の服には特に目立った汚れがない。まぁ、そこらへんも春子のサバイバルスキルの賜物だが。

「川でお魚捕ってたら見つけたの、とりあえず生け捕りにしてみました」

 えっへん、と大きな胸を張り、誇らしげにしている春子が手に持っている……えーっと。

「オオサンショウウオだねぇ」

「帰して来い!!」

「え? なんで?」

「素で聞き返すな! 絶滅危惧種だし保護動物だからだよっ! ていうか知ってろよ高校教師!!」

 生徒に常識を教えていく仕事をしてる人間の行動と思えないな!

「でもおいしそうだよ? 同じ両生類のカエルだってよく鳥肉の味がするって話だし」

「うまいかまずいかの問題じゃない! 貴重なんだよ! というかおまえは俺が言った二つの単語の意味理解してないだろ!!」

「とりあえず焼けばいいのかねぇ」

「捌いて細かくしないとフライパンに入らないよね」

「さらりと無視するなよ! まず置け! そして話を聞け!」

「あ、そうだ。智くん、バターソテーと和風、どっちがいい?」

「俺に質問する前に俺の話を聞けって!」

「そもそもアンタ、捌き方はわかるのかい?」

「えーと……そこはまぁ、あははは……」

 笑っている。苦笑いでも、それは笑顔に違いない。その笑顔こそが、俺の選択は間違っていないと示してくれる。

「とりあえずその手に持ってる馬鹿でかい包丁を置きなさい」

 まぁ、だからと言って犯罪は犯罪だから別だが。



 結局、春子が見事捕らえたオオサンショウウオは俺が(何故だ)川に戻し、夕飯の献立は異色の彩を表わすことはなくなった。最後まで春子と婆さんは文句を言っていたが、ありとあらゆる正論と法律内容をつらづらと言い聞かせると次第に落ち着きを見せてくれたのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。いやまぁ、常識のはずなんだが。

 そして食後はガキ達の遊び相手。昼間あれだけ走り回ったというのに疲労の『ひ』の字もなく俺に突貫してきた。俺が左腕を動かせないことは事前に婆さんから聞いていたのか、全員右側から襲い掛かり、俺も片手だけでそれを必死に退けるという、何とも間抜けな光景が出来上がった。

 それを婆さんは大笑いして、春子は優しくほほ笑み、遠くから眺めていた。その時の春子の表情は、そう、まるで我が子を温かく見守る母親の笑みだった。

 もしかしたら、近い将来、本当の我が子にこのほほ笑みを見せるのかもしれない。そう考えると自然と顔がにやけて止まらなくなり、照れ隠しに子供相手に大人気なく本気を出してしまったり。

 楽しかった。

 楽しかったんだ。

 自分の内にある『悪夢』を忘れてしまうくらいに。

 孤児院に帰ってきた二日目の夜、明日には家に帰るため、荷物の整理をしている時のことだった。


『久しぶり』


「っ!?」

 幻聴、そう言っても間違ってはいないもの。それでも、しっかりと俺の内側に形を成し、有るモノ。

『最近呼ばないよね? ぼくのこと嫌いになった?』

「……そもそも、好きになったことがない」

 俺の内側から問う俺の声に、震えた声で答えを返す。

『ぼくは好きだよ? だって君はぼくだもの。ぼくはぼくが大好きだよ』

「違う、おまえは俺じゃない。俺とおまえは違う。違う」

 違うと繰り返す。決して自分に言い聞かせているわけじゃない。

 自分に言い聞かすとは、即ち、自分の中にいる俺に言葉を放つということだ。 それはこいつが俺だと認めることに他ならない。

 だから、しない。

『もうどっちだっていいよ。とにかく、ぼくは何をすればいいのさ』

「何もするな。一生そこで黙ってろ」

『いやだね。それじゃあぼくの意味がない。ぼくが生まれた意義をなくさないでよ。ねぇ、ぼく。ぼくを守らしてよ。大事な時にぼくを生んでおいて、必要なくなったら捨てるなんて、ひどいじゃないか』

「うるさい……!」

 ああ、確かに俺を守ってくれたのはおまえだ。だがな、おまえを認めるわけにはいかない。おまえは危険だ。傷つける必要のないものさえ傷つける。

 俺はもう、おまえがいなくても、自分が守りたいものは自分で守れるんだ。

『君がなんと言おうと、ぼくは君が生んだ。だからさ、責任はとろうよ』

 左手の指が動く。中指、薬指、全部が動き、手を握る。拳ができる。全て、俺の意志に反して。範囲限定の人格。牙は太く爪は鋭利。俺を守ることしかできない害。

「智、くん? どうしたの?」

 その害が、傷つける標的を見つけた。

 いつのまに部屋に入ったのか。春子は心配そうに俺に近づいてくる。

「来るな……」

『来ないで』

 言葉の意味は同じ。だが、込められた感情は正反対のもの。

「え?」

 左腕が春子に向かう。指先を伸ばして、向かうのは春子の瞳――――。

「あ、ああぁぁ!!」

 春子の目を突く寸前、無我夢中で動かした右腕が、左腕を殴った。指先の軌道は右に逸れ、春子のやわらかな髪に触れるだけで済んだ。

「え? え?」

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 殴った箇所がジンジンと痛む。痣になったかもしれない。けど、春子を傷つけるより、ずっといい。

「智くん……どうしたの?」

「なんでも、ない……なんでも、ないんだ」

 左腕はもう勝手には動かなかった。早まった動悸が次第に落ち着いてくる。

「な、なんでもないわけがないでしょ!? 見せてっ!」

 春子に左腕の袖を捲られる。左腕には、見るだけでおぞましく、吐き気がする傷がいくつもある。春子はそれに臆することなく、左腕の具合を確かめる。

「よかった、傷は開いてない……」

 そしてヘナヘナと座り込んだ。

「よかった、ほんと、よかったよ……」

 安堵の声が次第に嗚咽を交じりだした。春子は笑いながら泣いていた。笑ってるけど、泣いている。

「な、泣くなよ。さっきのは、その、驚かそうとしただけなんだっ」

 咄嗟についた嘘だとしても、ひどい。明らかに不自然すぎる。

「ひっく、ほんと?」

 ……それでも信じてしまうのが春子なんだよな。

「あ、ああ。ごめん、ちょっとやりすぎた。悪趣味だったよな」

「えぐっ、い、いいよ。許しだげる」

 えへへ、と照れ隠しに笑う。


 その笑顔の下、首筋に赤い線ができていた。


「あ……」

「え? あれ、血が……」

 春子の指が首筋を撫でる。指は赤く濡れた。

 血は耳から垂れていた。俺の爪が擦ったから、それしか原因がない。

「あ、あははっ、だ、大丈夫だよ!? ちょびっとしか切れてないし。うんっ、平気平気」

 傷つけた。俺が。春子を、傷つけた。

「あ、ああっ、ああ……」

 視界が滲んで、涙があふれてきた。止まらなくて、いくつもいくつも流れていく。

 ああ、どうしてこうなるんだ。

 俺が生きたいと願ったからなのか。だからこそ生まれた存在があるからか。

「ご、めん。ごめ、んなさ……」

 嫌な記憶が蘇ってくる。肉を刺した感触。赤に染まる銀。くりかえす謝罪と、感謝。いくら悔やんでも戻らない過去。

 そっと、やわらかな手のひらが頬を撫で、滑るように背中に回った。

 抱きしめ、られていた。

「大丈夫だよ。流れた血もたった一筋。これぐらいじゃ、死なない」

 背中に回された手が、トントンと背中を叩く。

「わたしは、死なない」

 泣きじゃくる子供あやすように、優しく、ただ優しく言い聞かす声。

「わたしは、生きてるよ」

「……ああ」

 不思議だった。あれだけ騒ついた心が一瞬で静まった。

「もぅ、智くんはまだまだ子供だなぁ。よしよし」

 今度は頭を撫でられた。

 ……悪くはないんだけど、いかんせん恥ずかしい。

「子供扱いしないでくれないか?」

「あれだけ泣いてたのね~、智明ちゃんは泣き虫でちゅね~」

 扱いが子供から幼児に変わってる…………よし。

「あんまいい気になんな、よっ」

「え? きゃっ」

 不意をついて春子を引き寄せ、抱きしめる。その小さな体には不釣合いにも思える程の大きい胸が当たって、否応がなく心拍数が上がった。

「どうだ? 驚いたか?」

 思いの外効果があったのか、仕返しのつもりでやったわけだが春子は抱き締められたまま動かない。

「春子?」

「……違う。わたしは、そんなこと考えてない」

「春子……どうしたんだ?」

 俺の腕の中で、春子は強く手を握り締めていた。

「ううん。なんでもないよ」

 それでも、顔は笑っていた。その姿はあまりにも不自然に見えて。

「……何か、隠してるだろ」

「う、ううん。何も隠してなんてないよ」

「嘘だ」

 春子の肩を掴んで、真正面から春子の顔を見つめる。

「おまえの嘘はわかりやすいんだ。何か隠してることがあるなら、言ってくれよ」

「……なら、わたしも同じことを聞いていい?」

 春子も、まっすぐに俺を見つめていた。


「智くん、わたしに隠してること、あるよね?」


「……いや」

「嘘だよ。智くんの嘘も、わかりやすいんだから」

 強い断定の言葉に、最初に目を逸らしたのは、俺の方だった。

「……隠してることなんか、何もない」

 嘘ではなかった。なぜなら、隠してるわけではない。言う必要がないから、黙っているだけなのだから。俺の力だけで超えるべき、消す障害なのだから。

「どうして、言ってくれないの……」

「だから、隠してることなんて何もない」

「わたしだって、もう今までみたいに守られてるだけの子どもじゃないんだよ。ちゃんと、智くんのために頑張れる。何かしてあげられるのに……」

「そんなことは関係ないんだ。ちゃんと、傍にいてくれるだけで、俺は充分に」

「……二人で耐えていこうって、約束したのに」

 逸らしていた目を合わして、ようやく、春子が今にも泣きそうにしていることに気づいた。

「智くんの、バカ……」

 気づいて、呆けて、掴んでいた肩を手放してしまって。

「は、春子っ!」

 走りだした春子に手を伸ばした。が、届かない。部屋の襖は左側にあった。必然的に春子は左に足を向ける。

 右腕では、届かない。

 閉じられた襖の音が、大きく耳に飛び込んだ。

「……バカ、って。なんで、だよ」

 言葉が足りないのはいつものことだ。それでも、俺は読み取って、感じ取っていかなければならない。奥歯を噛み締めて、悔しさに髪をかき乱しながら、立ち上がる。

 あいつは、俺を追いかけて来てくれた。なら、俺だって同じように、あいつを追いかけていくべきだ。

 襖を開けて部屋を飛び出すと、廊下には婆さんがいた。俺の姿を見て、すぐに目つきを鋭くさせて怒鳴りつける。

「智明! アンタ何したんだい! 春子が今走って」

「説教なら後で聞く! 春子はどこに行ったんだ!?」

「……玄関から外へ行ったよ」

 玄関の下駄箱を見ると春子の靴はなくなっていた。こんな夜中に外に出たというのか。

「くそっ」

「待ちな。この真っ暗闇の中何も持たずに探すってのかい?」

 太陽の光のない森はただ暗い。昼間の明るい時でさえ迷うときは迷う。

「……くそっ」

 急がなければいけない。だが慌ててはいけない。

「ほれ、懐中電灯。あと、ここらは携帯は通じないから見つからなくても三〇分ごとに戻りなさい。入れ違いになるかもしれないからね」

「……ああ」

 懐中電灯を受け取り、靴を履く。

「いってくる」

 そう告げて、俺は闇の中に飛び込んだ。




・御林春子


 空に浮かぶ月の光は、木々に塞がれていてわたしの目には届かない。隙間からちょっとだけ漏れてる光だけが、この森の中での光源だった。それでも、走るしかない。正確には、逃げるしかない。

 木の幹の場所。枝の高さ。地面の段差。全部感覚だけで走り抜ける。何度か転んだ。服は汚れ、お気に入りのスカートはところどころ破けている。悲惨な姿だ。とてもじゃないが智くんには見せられない。けれど、そんなことは関係なく、今のわたしは智くんと顔を合わせることは出来そうになかった。

 一度足を止めてしまえば、もうそこから走り出せないような気がした。

 自分勝手なことを思ってる。そんなことはわかっていた。わかっていたけど、心が、止まってくれなかった。

「智くん……」

 名前を口にするだけで幸せになれた。大切で、ずっと離したくない。ずっと、傍にいたい人。

 智くんも私のことをそう思ってくれている……それは、とても嬉しかった。今までの悪かったこと、嫌だったこと。その全てを吹き飛ばせるんじゃないかって思えるほどに嬉しい。

 最初は、ただ怖い人だった。少しも笑わないで一人でいて。関わろうとしたら、怒って、怒鳴られて。

 けど、一度気づいてしまったら、もう気になってしょうがなかった。

 思わずわたしが泣いた時、怒鳴られて、離れようとした時。一瞬、ほんと一瞬だけど。泣きそうだったんだ。

 必死になって周りを睨んで、遠ざけて。関わらないようにしてて。

 それは全部、ただ怖かったから。もう失いたくなんてなかったから。だからあんなにも、人を遠ざけた。差し出された手に牙を向けた。

 それでも、やっぱり離れていかれるのは悲しくて、寂しくて、辛くて、切なくて。

 ああ、この子は、わたしと変わらない。みんなと、何も変わらない。

 ただみんなよりも怖がりで、優しいだけなんだって、気づいた。この人を一人にしちゃいけないって、思ったんだ。

 だから好きになった。理由らしい理由じゃない。けど、好きになるのに理由なんてなくて。ただ、好きで。

「智くんの、バカ……」

 行き先なんて決まってない。けれど、あのまま彼の前にいれば、わたしは泣き出してしまうことがわかっていた。泣いて、自分勝手に自分の想いをただぶつけてしまう。それは、してはいけない。今までしてきたからこそ、そんなわたしはもうわたし自身が許容出来ない。

 だから、今度は智くんの番なんだ。智くんの想いを、胸に懐いたたくさんの感情を、私にぶつけて欲しかったのに。

「智くんの、バカ……!」

 ああ、なんて、自分勝手なんだろう。今まで、たくさん守ってきてもらったのに。

 それだけじゃ嫌なんて、身勝手にも、思ってしまうなんて。

 自己嫌悪でぐちゃぐちゃになった感情のまま、わたしは夜の森の中を走った。

 暗闇に慣れてきた視界も、涙で滲んで歪んでいた。




・飛坂智明


 見つからない。ただただ黒い闇の中に浮かぶ懐中電灯の光はあまりにも弱くて、前を細々と照らすだけだ。

 闇は嫌いだ。特に、森の中の闇は。

 光る銀色。伝う赤。思い出したくない記憶ばかり浮かび上がる。耐えると約束したのに、負けそうになっている。

「おまえがいないと、耐えられないんだよ……」

 俺の生きる理由なんだよ。傍にいてほしくて、手を離したくないのに。

 伸ばした手は、あっさりとすり抜けた。手を伸ばしても届かない。そもそもどこに手を伸ばせばいいのかわからない。

 それでも手を伸ばすしかないってのはわかっている。選択肢は一つだ。選ばないかぎり事態は進まない。けれど、手を伸ばせなかった。

 恐いんだ。

 大事に抱き締めていたのに、弾かれて、泣かれて、逃げられて。何か理由があるのはわかってる。けど、恐い。また拒まれたら、俺は……。

 木の葉に何かが当たる音が、森全体から響いていた。顔を上げた俺の額に、冷たい何かが当たる。

「なんの冗談だ……」

 大粒の雨が俺に責め立てる。偶然のはずなのに、風や雨の怒号が今の俺への糾弾にさえ思えた。

『腑甲斐ない』

『その程度?』

『もう終わり?』

「うるさい……」

 雨が俺を責めるわけがない。責めているのは、俺の中の存在。

『あれだけ守ると言ってもう終わり?』

「黙れ……」

『あの約束はなんだったの? 大事な時に何も出来ない、意味のない繋がりだね』

「黙れよ!!」

 もう嫌だ。辛い、耐えられない。

 だから、一歩、逃げた。

「あ」

 踏み出した先には、足場がなかった。ぐらりと体が傾き、上下の感覚がなくなる。

 次の瞬間には、グシャリと音を立てて地面に落ちた。

「つっ……」

 頭を打ったのかガンガンと痛む。幸い、血が流れている感覚はない。具合を確かめようとして動かした右腕に激痛が走る。右腕は動きを止められ、見ると右腕の手首近くが凹んでいた。動かない左手では触って確かめることも出来ない。ただ、右腕を動かそうとした時に走る痛みが、骨が折れていることを伝えていた。

「悪い冗談にも、程がある……」

 右腕はもう動かせない。元より左腕は、動かない。

 これじゃあもう、何も掴めない。手を伸ばすことさえ、もう叶わない。

「はは、ははははは……」

 不思議と、笑いが込み上げてきた。

 ズタボロだ。両腕が動かない。頭が痛くて動く気がなくなっていく。

 何も、できない。仰向けに寝転び、笑い続ける。雨が口に入る。唇に付いていた土や砂を流して。じゃりじゃりして、まずい。

「何やってるんだよ、俺は……!」

 涙なのか、雨なのか。目に入ってきた水なのか、目から出た水なのか。それすら、わからなかった。

 守るんじゃなかったのかよ。ずっと傍にいるって誓ったんじゃないのかよ。なんで、こんなとこでつまづいてるんだよ。笑い合いたいなら立ち上がって走れよ。骨が折れたことがなんだ。泥まみれで上等だろうが。立てよ。走れよ。まだやることがあるだろ。

 だったらそれをやるんだよ。手を伸ばすんだよ。何を、何をやってるんだよ、なぁ。

「なんで、こんなところで……!」

 右手に走る激痛すら、生ぬるく感じた。

 もっと痛みのある、罰や叱責が欲しかった。

「なら、僕がその罰を教えましょうか?」

 突然だった。唐突に、どこからかそんな問いかけが聞こえた。

「……また、おまえか」

 もうたくさんだ。おまえに、俺を罰する資格があるものか。おまえのせいで、俺は。

「何度も言う。おまえは俺じゃない。俺から生まれたとしても俺とは別の存在だ」

「……悲しいことを言いますね」

 少し、違和感を感じた。

 俺の内から聞こえるということは同じ。違うのは、ちゃんと複数の感情を内包しているような声が聞こえること。

「……おまえは、誰なんだ」

「うーん、名前は言わない約束なんですよね。先生の知り合いとだけ言っておきます」

「先生って、俺が教師だって知ってるのか?」

「ええ、まぁ、あなたは僕を覚えてはいないでしょうけど」

「……なんなんだよ」

「たぶん、考えても無駄ですよ。ここには僕と先生しかいない。それさえ理解できてればそれでいい」

 風の音すら、一切聞こえてこない、無音の世界。

 俺はこの場所を、知っている。

「……いい加減、認めてあげてください」

「何を、だよ」

「あなたは、大切なことを勘違いしている。内から生まれた恨みや悲しみ、憎しみや怒りをどこか、汚いものだと切り離そうとしている」

「……それの、何が悪い」

 その感情は、誰かを傷つける。ならば、この身から消え失せることを望んで何が悪い。

「悪いですよ。そんなの、間違っている。出来るわけがないのに」

「そんなこと、ない」

 できなければならない。反感の感情が湧き上がり、身を起こして反論をしようとするが、右手の激痛がそれを許さない。

「先生から生まれたものは全部先生自身です。全部、先生のものなんですよ」

「なら、俺が、俺自身が、母さんを殺したいって思ったってことか?」

「そうです」

「……簡単に言ってくれるな」

 歯を食い縛って、痛みを押さえ込む。視界がチカチカするほど、痛みが神経を駆け抜けていくが、それすら耐えて、身を起こした。

 そうしてようやく、好き勝手言ってくれた人物へと、目を合わせられる。 

 そいつは、少年だった。年はちょうど、俺の教え子たちと同年代だろうか。どこか幼い、少女染みた顔立ちをしている。

 それでも、俺を見る視線の力は強く、鋭い。まるで、俺を責めているかのような、そんな視線だった。負けずに、俺も睨み返す。

「そんなこと、認められるか。俺は母さんを殺したいなんて思ったことはない。そんなこと、思えてたまるか」

「……なら、確認してみますか?」

 少年が手を上げる。その手が弧を描くように、ゆっくりと動かされる。

「もう一度、あなたは自分の記憶だけではなく、その光景そのものを見るべきだ」

「なに、を」

 言葉を紡ごうとした口が、止まる。少年の指先が描いた弧から、何かが、漏れ出てきて。

「ここは、あなたの記憶の場所と、近い様子をしている。だから、再現するのも簡単だ」

 いつのまにか俺は、どこか見覚えのある、俺の記憶の中にある光景にぴったり合った、俺の家族が死んだ、あの森にいた。

 いや、それどころか。

「恐くないよ。痛くもないから、ね。さぁ……」

「嫌だってばっ!」

 目の前で繰り広げられる光景は、紛れもなく俺が母さんを突き飛ばした、あの夜の光景で。

「嘘、だろ……」

「あなたが、終わらしてくれるの?」

 嘘であれば、どれだけよかったのか。漏れでた願望も、聞き覚えのあるもう二度と聞くことになるとは思わなかった声がかき消す。

「来ないで、来ないでよぉ……」

 あの泣きながら包丁を構える男の子は、あの時の、俺だった。

「先生。よく、見ておいてください」

 繰り返す謝罪。そして、最後に浮かべた、母さんの笑顔。それは全て、記憶の通りの光景で。

 けど、一箇所だけ、俺が見ないようにしていた、気づかないようにしていた箇所があって。

「辛いものを見せて、ごめんなさい。けど、先生は、それを受け入れていかなければならない。背負って、生きていかなければならない」

 狂ったように、自身の左腕に包丁を突き立てる俺の姿は、ずっと、想像していたよりもずっと、哀れで。いっそ、滑稽にさえ見えて。

「……最初に伸ばした手は、右手、だったんだよな」

 母さんが落とした包丁。その包丁に伸ばした手は、紛れもなく右手だった。その右手が、母さんを殺した左手に、包丁を手渡した。

 それは、どっちも共通の意志を持って動かされていた。

 生きたい、と。

 たとえ、母親を殺すことになろうとも、僕は生きたいんだ、と。

 その意志により動かされた、両腕。

「過去の罪を背負うことが、悪いことでは決してありません。そうやって生きていこうと決めて、幸せになった人もたくさんいます。でも先生。あなたの背中は、そんないらないものを背負っていられるほど、広くはないでしょう?」

「……そう、だな」

 春子と一緒に、ずっと笑い合って生きる。いつか子供が出来て、三人で笑い合う。子供の数に特に希望はない。一人でも二人でも、全力で守るだけだ。

 その目標に、未来に向かうために背負うべきものは、決まっている。そして、それを背負うための背中は、それほど広くはない。ましてや、背中だけでは足りない。

 背負ったものを落とさないように支える、両腕が必要なんだ。

「おまえが誰だかはわからないけど、礼を言う。ありがとう」

 今でも、母さんを殺したことは、吐き気を催してしまうほどに、辛く、苦しい。ましてや、もう一度目の前で再現された今となっては、その光景はより濃く脳裏に焼きついて、恐らくもう一生忘れることはできないだろう。

 それでも、そのお陰で敵は消えた。

 敵は消え、心強い味方ができたんだ。

「……いえ、僕も、あなたに助けてもらったので。これでおあいこですよ」

「そう、なのか」

「はい。だから気にしないでください。あなたは、あなたのやるべきことをやってください」

 目の前の少年は、もう俺のことを睨みつけてなどいなかった。むしろ笑って、手を振ってくれている。

「さよなら、智明先生。例え誰かが作った即席の脚本の中であろうと、僕はあなたの教え子でいられて良かった」

 そしてその手の軌道はまた弧を描き、その弧から湧き出るように、元の森の中の光景が広がった。そして、母さんを殺した森の光景と共に、手を振る彼の姿を消えていく。

 いつしか、空が白んできた森の中に俺は一人で立っていた。

 ……夢。いや、幻覚、か?

「……そんなこと、どうでもいいか」

 右手の痛みはなくならず、未だにズキズキと痛む。口に入っていた砂は吐き出したが、顔に付いた泥を拭うことはできない。

 けれど、歩くことはできた。

 足を前に出す。ただそれだけの動作で、右腕は痛みを増す。それでも、立ち止まったままではいられない。 

 一歩ずつ、一歩ずつ。俺はゆっくりと、太陽が昇ってくる方角に向けて歩き続けて。

「やっと見つけたぞ。このバカ」

 朝日を浴びる、春子を姿を見つけた。

「智、くん……」

 森を抜けたそこは、丘になっていた。大きく開けた視界に広がる木々と町と空。

「よく、ここがわかったね」

 そう言って笑う春子の姿は、ひどいものだった。体や服に泥がこびりついて、枝に引っ掛けたのか服は所々裂け、淡いピンクのロングスカートにいたっては膝下からバッサリとなくなっている。

「そのスカート、お気に入りだって言ってなかったか?」

「……うん、そうだったんだけどね。こんなになっちゃった」

 スカートの両端を軽く持ち上げくるりと回る。

「……傷だらけ、だな。消毒しないと」

「智くんだって傷だらけだよ」

「俺はいいんだ。女の怪我の方が見ていて痛々しく見えるだろ。ほら、帰るぞ」

 手を差し出そうとしたけど、右腕は折れていることを失念していた。仕方なく、言葉だけで促した。

「……右腕、どうしたの?」

 その不自然な動作を、春子が気づかないわけがなかった。春子の視線はしっかりと俺の右手に向けられている。

「いや、別になんでもない。いいから早く帰ろう」

「なんでもないわけ、ないよ」

 ……何年一緒にいると思ってるんだ。春子に嘘は通じないことぐらいわかってたじゃないか。

「……確かめてないけど、たぶん、折れてる」

 折れてると告げた瞬間、春子の表情が目に見えて強張る。俺はまるで大したことのないかのように、春子にいらぬ心配をさせたくなくて、軽く笑みを浮かべて首を振る。

「まぁ、そんなことはどうでもいい。ほら帰るぞ。婆さんが待ってる」

 春子に近づくために丘を登る。

「来ないでっ!!」

 春子が肩を震わせて拒絶した。心臓が一瞬竦み上がるほどの声で。

「だめ……来ないで……」

「……どうしてだ」

「ごめん、なさい……ごめん……」

 いくつもの涙の筋を作り、春子が泣いている。謝られてるこっちが、逆に申し訳なるほどに。

「わたしね、智くんがやってること、気づいてたの。夜中、智くんが頑張って左腕を動かそうと練習してること、知ってた」

「……そうか」

 だから、おまえは俺に隠し事があることを知っていたのか。一人で過去を背負い込もうともがく、俺の姿を見ていたのか。

「智くんがわたしのために頑張ってくれてることは知ってた。とても、とても嬉しかったし、幸せだなって思ったよ。けど、けどさっ……」

 春子の目から、遂に涙が一筋零れ落ちた。そして、言葉には嗚咽も混じる。

「わた、わたしにもっ、手伝わして欲しかった! 一人で頑張らないで、わたしも、智くんを支えてあげたかったのっ! だっ、だってやく、約束したもんっ! 一緒に耐えるって、二人で耐えてい、いこうって!」

 しゃくりあげながら、必死に、大人がする行動としては、少々不恰好に。春子は、自分の想いを口にする。

 その姿は、本当に子ども染みていて。無様で、滑稽で。

 でも、綺麗だった。美しかった。

 誰かの力になろうとするその意志が、汚いものであるわけがなかった。

「……ああ、そうだったな」

「そ、それなのに、智くんは一人で頑張って、それが悔しくてっ! わたしには怒る資格もないのにっ、智くんを怒っちゃいそうになって、それで、飛び出してっ……そのせいで、と、智くんを怪我させて……動かせる右腕まで、奪っちゃった……!」

「……そう、だな。確かに、おまえが飛び出して行かなければ、俺はこうして右手を折ることもなく、今まで通り生活できたかもしれない。けど、それがなんなんだよ」

 結果だけを見ると、それは確かなことだ。春子が夜中に飛び出したりしなければ、俺は夜の森に出ることはなかった。けれど、それだけが原因でないこと、誰かに諭されなくても自分で気づいて欲しい。

「……俺はさ、こいつをおまえに近づけたくなかったんだ」

 自分の左腕を『こいつ』とまるで違う存在かのように、俺ではないかのように言う。

「こいつを動かそうとするとさ、あの時の、母さんを殺した時の感覚が蘇るんだ。そして、子供の無邪気な声で囁くんだ。次は誰を殺す?って。頼んでもないのに、こいつは俺を守ろうとするんだ。もし、その目標が春子になったら、そう思うと恐くてしょうがなかった」

 俺は自分のために母親を殺したんじゃないって。こいつが勝手にやったことなんだって。必死になって、責任から逃れようとした。そう思い込むことで、何とか心の平静を保とうとした。そうやって思い込んでしまった結果、自分の左手が誰かを傷つける可能性を恐れた。この左手が、いつの日か自分の大切な人を傷つけるんじゃないか、と。

「……自分を納得させる嘘を、作るのだけはうまいんだ」

 煩わしいから逃げた? 違うだろ。俺は恐かっただけだ。失うことを、自分がまた大切なものを無くしてしまうことが恐かっただけだろう。こんな自分なんかを慕って、笑いかけてくれる春子がいつのまにか本当に大切に思えて。この左手から遠ざけたかっただけだ。

「いつも、自分を騙して生きてきたんだ」

 思わず笑ってしまいそうになった時、意識してその笑みを引っ込めた。本当は笑って励ましてあげたい時、努めて無表情を装った。無感動であり続けた。たくさんの人を、遠ざけるように生きてきた。そう、遠ざけるだけだった。拒むことができなかった。

 幸せだった、幸せしかなかった頃があるから。父さんと母さんと、三人で笑いあえた瞬間があったから。もしかしたらこれからもそんなものが待っているかもしれないなんて、身勝手に想像した。けれど、だからといって全てを受け入れる勇気なんて、持てなかった。

 どこまでも臆病な、弱虫。それが俺だ。今までの俺なんだ。

「もう、そんな俺は嫌なんだ」

 一歩、前に踏み出す。春子の傍に近づく。

「そんな俺で、おまえの傍に立ちたくないんだよ」

 大切な人の想いを受け止められる、広い懐が欲しい。大切な人が何かに挫けてしまった時、背負える背中が、抱えられる両腕が欲しい。

「おまえを、この両腕で抱きしめたいんだ……!」

 指、手首、肘、肩。そのすべてに意識を通す。動けと。肩を上げ、腕を伸ばし、手を広げ、掴めと。いつも俺を見ていたあの時の幼い俺は、笑っていた。

 父さんと母さんに向けていたあの時の、幸せしかしらない俺の、笑顔だった。

 肩が上がる。腕を伸ばし、手が広げられ、指先が春子に近付き、彼女の細い腰を引き寄せた。

 春子の体は小さくて、片腕でも容易く抱き締められるほど小さくて。俺の左腕に抱えられた春子が、ゆっくりと腕を俺の腰に回す。

「あったかい」

 こんなにも小さい存在でも、ここに確かに存在していて。

「あったかいよ、智くん……」

「ああ。そう、だな」

 温かい春子の体。ずっと、小さい体だと思っていた。けれど今の俺には、その小さな体すら満足に抱くことすら難しい。

「いつか必ず、両腕で抱きしめてやる。その時まで、傍にいてくれるか?」

「……それからも傍にいてくれるか、でしょ?」

「……ああ、そうだな」

 訂正されたなら、言い直さないと。

「それからも、傍にいてくれるか?」

「当たり前だよ……!」

 くぐもった、春子の声。背中に回された腕が締め付けるように強くなっていく。痛いぐらいの締め付けでも、それだけ春子が俺を求めてくれている。それだけ、俺と一緒にいたいと思ってくれている。

 そう思えるだけで、痛みなんてむしろ心地良いぐらいで。

 その痛みを一生、背負っていこう。一生、守っていこう。

 この左手は、そのためにあるのだから。



「休み明けが眠くなるのはわかるがな、もう少しわからないように寝ろ。もう最高学年なんだからな」

 教壇に立ち、あからさまに机に突っ伏して寝ていた生徒に向けて注意する。開いた窓からは春の暖かな風が入りこみ、空気が穏やかで眠気が増すのもわからないでもないが。

「それじゃあ、授業は明日からだ。それまでにしっかり調子を戻して、授業に望むように」

 春休みが終わり、華麗に咲き誇っていた桜が散った。俺が受け持っていたクラスは変わり、受験を控えている三年生になった。

 もう教室には生徒の姿はなかった。そのまま遊びに行くか、どこかで勉強をするか。多種多様の放課後の過ごし方が今の時期の生徒には用意されている。教師の立場としては、後者を推奨するべきところではあるが。

 一人残った教室の教壇の上。俺はゆっくりと左腕を持ち上げ、その手のひらを見つめる。痛ましい傷跡が目に付く。腕程ではなかろうと、手そのものにもたくさんの傷を、俺は刻み込んでしまっていた。

 左腕が動かせるようになって、特に生活が劇的に変化したわけでない。何十年も動かしていなかったから左腕の筋肉は衰えてしまっている。指は細かい動きが出来ず、まぁ結局たいていのことは右腕一本で出来てしまうから生活には困らない。リハビリとして何度も病院に通って、なんとか感覚を取り戻している最中だ。

「……ま、これからだよな」

「何がこれからなの?」

「何って……」

 ため息を吐きながら横を向くと、丁度教室の扉を開けて中に入ってきた春子の姿が見えて。

「は、春子!? おま、なんで学校にっ」

「むー、今日は早く帰れるから一緒に病院に行こうって言ったのは智くんでしょー」

「いや、そうだけどさ……なんで教室に」

「え? 昇降口で待ってたんだけど、みんなが旦那さんが待ってますよって……」

 春子が指差した先にいるのは、とっくに帰ったと思っていた生徒たちがニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべていて。

「お、おまえら……」

「せんせー、ダメじゃないですか。奥さんを待たせちゃ」

「そーそー、しかも妊娠中の」

 俺と春子は孤児院から帰ってきた翌日、入籍を果たした。生活もだいぶ落ち着き、結婚式の準備も始めようとしていた矢先、春子の妊娠が発覚し結婚式は出産後に落ち着いてからという話になった。

 我が子という、守るべきものが増えた。その事実だけで震え上がるほどの幸せだった。

 そして同時に、恐い。

 年下にからかわれて真っ赤になっている春子を見る。一番大切で。一番必要で。一番、脆いもの。

 それでも、守り続けると決めた。その誓いは決して、破らない。

 未来への恐怖は簡単には晴れないけど、破るわけにはいかない。

「と、智くん~~~」

 生徒たちに質問攻めにあい、羞恥に耐えられなくなった春子が涙目でヨタヨタと俺の傍にきた。

「おまえ、よくそれで教師が勤まるな……」

「だ、だって~」

「あーもう、いいから泣き止めって」

 堤防が崩壊して溢れ出した涙を拭ってあげる。

「ったく、ほんとおまえは泣き虫だな」

「好きで、泣き虫なわけじゃないよ~」

「いや、別に悪いってわけじゃないんだよ」

 そうやっておまえが泣いてくれるから、俺がこれまで泣かずに済んだ。

「そうやって子供みたいに泣きじゃくるのも見ていて楽しいし、可愛いって思えるからさ」

 泣いている女の子のために、頑張ろうと思える人間になれた。

「だから、おまえはそのままでいいよ」

「うれしいけど、なんだか複雑だよ」

「……うわー、先生甘々ー」

「というか、キャラ全然違くない?」

「誰? あれ誰?」

 ……しまった。ついこいつらがいるのを忘れて話をしてしまった。

「あー、その、これはだな」

「せんせー、俺らのことは気にしないでいいっすよ」

「どうぞイチャイチャしまくっちゃってください!」

 弁明しようとしたところで、普段からお調子者の生徒二人がすぐに俺をからかい出す。

「……松田、倉石、おまえら成績無評価な」

「ひでぇ!」

「横暴だ!」

 なんとでも言えばいい。今まで築いてきたイメージが今日一日で無残に崩れ去ってしまった。けれど、これっぽっちも嫌だなとは思わない。

 むしろ、これからが楽しみでしょうがない。

 辛いことがあるだろう。悲しいことがあるだろう。

 それでも、寄り添って、笑い合って生きていく。

「……よしっ」

 もうどうにでもなれ。明日だってどうせ幸せだ。

「おまえら! よく見てろよ!?」

 幸せに、なるんだ。

「これが大人の抱擁だっ!!」

「え? きゃっ」

 春子を左腕で引き寄せ、右腕を腰に回す。両腕で、抱き締めた。すっぽりと納まる小さく、大切な春子。そして、新たな命。

 もう、悲しませたりなんかしない。

「一生、笑っていてくれよ?」

「……それは、智くん次第かな?」

「ああ、ならきっと、大丈夫だな」

 初めての完璧な抱擁は、たくさんの笑顔と若い歓声に包まれていた。




 三章  了


三章はこれにて終了です。読んでいただき誠にありがとうございます。

智くん(巨乳好き)をメインとした話はこれでお終いですが、二章の優(胸よりもお尻派)と同様に今後のお話に少なからず絡んできます。

次は閑章(造語)、ある人の過去の物語です。過去に起きた出来事が、いろんな人を巻き込み今のようわからん人間関係を作り出していきます。予想はできるかと思いますが、重く苦しい話です。ただ、決して意味もなくただ重い話を書いたわけではないので、もしよろしければご一読いただければ幸いです。


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