表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Recall  作者: ツナ缶
7/19

三章 2

ここ最近投稿する前の確認として何度も読み直してるんですが、この辺りで毎回前転しながらうまいこと後頭部を壁に強打したくなります。


 街灯が光を灯していた。そんな淡い光が照らす道を駆け抜ける。堅い革靴の底が地面を叩く度に、足に疲労が溜まっていく。

「はぁ、はぁ、はぁ、くそっ」

 かれこれ一時間は捜し回っていた。冷えた外気温が吐く息を白くして、その靄が視界に入る。その自分の呼気さえも、今は煩わしく思えた。

「どこに、いるんだよ……」

 春子の携帯に電話しても出ないし、家に帰った様子もない。きっと、近江に連れられてこの町のどこかにいるはずなんだ。

「くそっ」

 とにかく、捜し回るしかない。そう決めて、また足を踏み出そうとした瞬間、ポケットに入れていた携帯に着信が入った。画面の表示も見ずに電話に出る。

「もしもし!?」

『……智くん』

 春子の聞きなれた声が耳に入った途端、安心感が胸に広がる。その内心を表に出さないよう努めて口を開く。

「どうしたんだよ、先に帰って」

『うん……』

 だけど、春子の声は、よく聞けばいつもよりもずっと低く。

「もう夜も遅いし、合流して家に帰ろう。おまえは今、どこにいるんだ?」

 すぐに返らない返事が、胸に広がっていた安心感を奪っていくような気さえして。

「そうだ、明日は仕事休みだろ? どこか行かないか。どこだっていいぞ? 小さな町だけど、娯楽施設はけっこうあるんだ」

 だから必死になって、普段の俺なら言わないことを口にする。心臓が鼓動を早めていく。おかしな、嫌な違和感が脳裏を離れない。

『……ごめんね』

 言って欲しくない言葉が、聞こえた気がした。

『ごめんね』

「なんで、謝るんだよ」

 謝罪される意味がわからない。心配させたから? それだけで、春子に謝罪を要求するほど怒るなんてことは今更ありえない。謝る必要なんて、今はないのに。

「別に俺は怒ってない。何か理由があったんだろ? 近江に脅されでもしたのか。だったら俺が話し付けるから場所を」

『ごめんね……』

 だから。

「どうして、謝るんだよ」

 それじゃあまるで、自分の意志で近江に付いていったみたいじゃないか。

「……そうなのか?」

『え?』

「自分から、近江に付いていったのか?」

 否定してほしかった。

 無理矢理脅された。だから助けて。

 そう答えてくれれば、俺はすぐにでも助けに行ける。昔もやっていたことだ。

『……ごめん』

 けど、それを、煩わしく思ったのは誰だ?

『ごめん、ね』

 それを、捨てて逃げたのは、誰だ?

「……そうか」

 どうして、そんなことをした俺が、春子の行動を制限できる。春子の意志を、遮ることができる。

 放り捨てて、逃げ出した俺が、何を身勝手な。

「……じゃあな」

 それだけ言って電話を切る。

「……俺、何やってたんだろうな」

 自分で捨てたんだろう。俺について回る春子の存在が煩わしく、疎ましくて、放っておいて欲しくて、関わって欲しくなくて。そうして、勝手に一人になったのは俺の方じゃないか。

 それなのに、何を今更、俺は春子を守ろうと躍起になってるんだ。今更、春子を守る壁になろうとしてるんだ。

「何、やってるんだよ……」

 もう休みたい。横になって、何も考えずに目をつぶりたい。

 走り疲れてフラフラする足で、俺は歩きだした。

 これまでの行動の何もかものが、滑稽で、馬鹿らしく思えた。




・御林春子


「……はぁ」

 通話の切れた電話をバックにしまう時に、思わずため息が漏れてしまった。

 ……智くん、怒ってたよね。仕方ないと割り切っても、気が重いのは変わらない。彼を怒らせることは、私にとって何よりも恐ろしい。

「それでも、やらなきゃ」

 自分で決めて、行動したんだもの。今更なかったことになんてできない。

 そのためにわたしは。

「さぁ、行きましょうか」

 この人に付いてきたんだから。

「近江さん、教えてくださるのですよね」

 近江さんに付いていく前に、確認したいことがある。だから、背を向けて先を歩く近江さんに向けて、質問をする。

「智くんの過去に、何があったのかを」

「……ええ」

 顔だけ振り返り、口角だけを上げた笑みを浮かべ。

「私に付いてきてさえくれれば」

 何故だかその笑顔に、わたしは寒気を感じてしまった。



 救ってあげたい人がいた。けれど、救う方法わからなかった。

 そもそも、どうして彼が『救われる側』になったのかを、わたしは知らなかった。

 救うためには、知らなきゃいけない。

 なぜ傷ついたか、何があって痛みを覚えるようになったか。それを知らずに、救うことなどできるわけが無いんだ。

 だから、わたしは踏み出した。

 近江さんと並んで歩くつもりはなく、一歩引いた距離を保ちながら歩いていく。

 智くんの言うとおり、この人はどこか信用できない。人を見下したようなひどく屈折した笑顔を浮かべ、まだ大して会話をしていないにも関わらず、人を見下した発言を平気で何度もしてきた。

 普通、そんなあまりにも幼稚なことはいい歳した大人はやらないと思う。よほど性格が歪んでいる証拠だ。

 やっぱり、信用できない。

 できない、けど。

「本当に、知っているのですよね」

 この質問も、三回目だ。信用できない人に対し、あまり口もうまくないわたしは、確認の言葉しか投げかけられない。

「ふぅ。君も心配性だな。言っただろう? 信頼できる筋の確かな情報だと」

 信頼できない人が信頼している筋なんて、信頼できるわけないじゃない。

「そもそも、どうやって調べたのですか?」

「わりと話題にはなった事件らしい。それも、しっかりと記録として残るほどね。まぁ、これ以上の質問は後にしてくれないか?」

 そう言われては追求できない。わたしは仕方なく、ただ彼の後ろを歩いた。

 とにかく、無理でも信じるしかない。

 ようやく見つけた道筋なんだ。ここで逃したら、もう彼を救えない気がする。それは嫌だ。絶対嫌だ。

 智くんにはたくさん助けてもらった。笑えなかったわたしに笑顔を思い出させてくれた。

 誰かの力になりたいと思う、温かな気持ちを教えてくれた。

 だから、今度はわたしの番。わたし自身が、彼を助けてあげたいと思った。自分の優しさを、本来の性格を押し殺して、必死に、痛ましいぐらい必死に自己を押し殺して生きようとする彼を、助けてあげたい。

 そのためならわたしは、どんな目に会ったって構わない。わたしを救ってくれた彼を助けられるなら、何だって受け入れてみせる。

「重要な話ですから、できれば静かな場所がいいですよね?」

「え、ええ。そうですね」

「それなら、ここはどうです?」

 下卑た笑みを浮かべて、彼が指差した建物を見る。

「っ……」

 目に痛いぐらいのネオンに彩られた建築物。

 わたしだって子供じゃない。ここがどういう場所で、何をする場所かもわかっている。覚悟はしていた。智くんを救うためならなんでもすると自分に誓った。

 けれど、恐い。

 この人が、智くんに関する話をして、解放する。なんてわたしにとって都合のいいことをするわけがない。

 恐い。

 覚悟したくせに、誓ったくせに。

 そう自分を罵倒しても、わたしの中に強く根付いた恐怖は消えない。

「こ、ここじゃないと、ダメですか?」

「あれ? 言いませんでしたっけ? 私に付いて来てくれれば話す、と」

 大仰に両手を上げる様が、ひどく煩わしく思えた。

 智くん、ごめんね。わたし、汚れちゃうみたい。自業自得だよね? バカみたいだよね?

 それでも、あなたを救いたかったんだ。

「わかり、ました……」

 わたしの返答を聞いて、歪んだ笑顔を浮かべる人がいる。これからわたしを汚す人が、目の前で卑しく笑う。

「それじゃあ早速入りましょうか」

 その時、声が聞こえた。

「あれぇ? 近江先生じゃないっすかぁ」

「おっ、マジで? うわっ女連れてるし」

「せんせぇ~援交っすか?」

 寒気がするくらい、やんちゃな声が。




・飛坂智明


 気が付いたら、俺は居間で横になっていた。いつ帰ってきたのか、どうやって帰ってきたのか全く覚えていない。

 春子の電話を受けて……その辺りから記憶が霞がかかったように曖昧だ。

 壁に掛けてある時計を見る。飲み会が終わってからそれほど時間は経ってなかった。

「……腹、減ったな」

 のそのそと起き上がり、台所に向かう。

 これから何か調理する意欲も湧かない。カップラーメンの外装を剥がし、ヤカンを取り出そうと台所の棚を開けた時、ふいに何かピンク色の物体が見えた。

「なんだ、これ」

 手にとってみたソレは、鍋だった。なぜか、全体がピンク色の。

「しかも、妙に装飾凝ってるな……」

 ラメやらハートマークの柄とか。少女趣味というか、ファンシーな代物だった。

「俺、こんなの買ったか?」

 忘れてる、なんてことは絶対ない。無駄に濃いショッキングピンクは網膜にしっかり焼き付いて離れないくらい印象的だ。そもそもまず、俺がこんなものを買うわけが無い。

 だったら、春子が?

 よく見るとこの鍋か置いてあった場所に、紙切れが一枚あった。


 智くんお誕生日おめでとう!!


 紙には今日の日付と、そういうメッセージが書いてあった。誰が書いたかなんて、考えなくてもわかる。

 ……ちなみに、俺の誕生日は一ヵ月前の今日なんだが。相変わらず、どこか抜けてるというか。爪が甘いというか。

「あはは……」


 今更、そのことが嬉しいと思っている自分がいることに、気付いた。


「そうだよ、俺、嬉しかったんだ」

 春子が傍にいることが。春子が俺を頼ってくれていることが。春子が目の前で笑っていることが。

 一度は疎ましく思ったくせに、捨てたくせに。変わらず、昔みたいな笑顔を浮かべてくれる春子が、俺は。

「好きなんだ……」

 どうしようもなく、傍にいないだけで、こんなにも胸が苦しくなるほど。

 俺なんかを頼ってくれる存在が、本当は、すごく嬉しく、大切で。

 大切で、大切だからこそ、それが自分なんかの傍にあることが、耐えられない程に恐かった。

 一度失ったからこそ、もう一度失うことを恐れた。

「……まぁ、今更気付いても、遅いんだがな」

 後悔なんてしても無意味だとわかっているけど、止まってなどくれやしない。今更告白でもするか? 散々妹だと自分が思い込むほど言い張っていたというのに。

 そもそも、春子はもう、近江の元へと行ってしまった。それが、今の状況であり、答えだ。俺が放り捨てた春子が、選び、望んだ答えだ。

 そう結論付けた時、突然どこかの部屋から鈍く重い音が続けた鳴り響いた。まるで、雪崩の様な音だった。

「な、なんの音だ」

 俺の部屋から何かが崩れるような、そんな感じの轟音が聞こえてきた。怪訝に思いながら、俺は自分の部屋へと入る。すると、大小様々な本が床に散乱していた。全部春子が買ってきた本だった。駅前にある本屋の大きさに驚き、興奮したまま買ってきていた。その本の束が、まるまる地面へと散らばっている。まるで地震が起きた後の部屋のようだ。

 自分の物なんだからしっかり整理整頓してくれよ、そう思いながら、落ちていた一冊を手に取る。

「……片付けとくか」

 今は春子が使っていた部屋とはいえ、元々俺の部屋なんだ。こう阿鼻叫喚な光景のままにはしておきたくないし、何より、今後春子がこの部屋を使うとは限らない。

 一冊ずつ手に取り、損傷がないか見ていく。少し角が折れたぐらいの被害ばかりで、本そのものが破けたりはしていないようだった。

 そして最後の一冊に手を伸ばした。

 それは、新品の大学ノートだった。

『○月×日。今日から始まった新生活の記録として、この日記を書き始めます。』

 落ちた際に開いたのであろうそのノートには、そう書いてあるのが見えてしまって。

 これは、春子の日記だ。見てはいけない。そう言い聞かせようとも、見てみたいという好奇心を抑えられない。

 気付けば、俺は春子の日記を手に取っていた。

『○月△日。智くんは全然変わっていなかった。もちろん、昔に比べて背はたくさん伸びたし、体付きだってとっても男らしい。それでも変わってなかったな。うれしいって思うのは怒られちゃうかな、智くんいじっぱりの恥ずかしがり屋だし。そんなところが可愛いんだけど。』

『智くんにはお婆ちゃんが教えてくれたって嘘吐いちゃった。ごめんね、智くん、お婆ちゃん。ほんとは自分で聞いたのに、智くんはどこに住んでるの? って。帰ったら謝ろう。うん、絶対謝ろう。』

 言葉が出なかった。

 春子は自ら望んで俺の家に来たんだ。たぶん、入居者がいたというのは嘘だったのだろう。

「じゃあ、なんでだ?」

 自分で望んで来て、その上で近江に付いていった?

 ……そもそも、おかしくないか?

 元々俺が注意していた。その上、春子は警戒心が薄いのは確かだけど、決して人を見る目がないわけではない。むしろ、悪意には敏感だった。だからこそ臆病で、すぐ俺の後ろに隠れてしまっていたのに。

 なら、どうして春子は近江に付いていった?

 答えはきっと、このノートにある。

 だが、躊躇してしまう。もちろん、人の日記を勝手に読むという行為に対しての罪悪感もある。

 けど、一番の理由は、このノートの中に俺が傷つくことが書いてあるかもしれない。

「……今更か」

 ずっとずっと、傷付くその度に涙を流してきたじゃないか。今更、恐いだなんて感情はない。

 俺は日記を捲る指に力をこめた。




・御林春子


 何が起きたのか、わたしにはよくわからなかった。

 奇抜な格好をした男の子が三人。笑いながら近江さんを蹴飛ばし、殴る。

 一人が馬乗りになって近江さんの顔を繰り返し殴った。一回、二回、三回。四回目からは近江さんの血が拳を振り上げるたびに飛び散った。

 近江さんは泣きながら謝罪を繰り返し、それが無駄に終わりまた殴られる。

 あっという間だった。

 最初は、ただの世間話のように思えた。

 少しやんちゃだけど、根は素直に見えた男の子が、急に怒りだしたのだ。

 激昂とともに放たれた拳は的確に近江さんの頬を捕らえ、打ち抜いた。

 殴られて、怒った近江さんが何か言った。早口で、口の中が切れていて痛むのか呂律もうまく回っていなかったけど。

 たぶん。屑とか、ゴミども、って。口汚く、罵っていた。

 そして始まった、惨事。

「や、やめなさい!」

 私の言葉など聞こえない。何度も何度も、殴り、蹴り、踏む。

「俺たちはなぁ! あんたのせいで人生メチャクチャにされたんだよ!」

「やったことは確かに悪いことだったけどさ! ここまで落ちなきゃいけないほどかよ! なぁ!?」

「おまえがっ、おまえがぁ!!」

 明らかに異常だった。

 心から悪意を持ち、落ちた子。理不尽な事情に巻き込まれ、負けたことで落ちていった子。この世の中にはそうして道から外れてしまう子がいる。この子達は後者だ。詳しい事情はわからなくても、唾を飛ばしながら吐く言葉の端々から、そういった感情が伺える。

 それなのに、今この子達は自分の意志でただ拳を奮っている。

「やめろ……やめろぉ」

 顔を痛々しく歪めた近江さんが、弱々しくただやめてと繰り返す。声だけでは駄目だ。わたしは駆け寄って彼らの腕を掴もうとする。

「やめて……やめてください……」

 いつのまにか、近江さんの命令は懇願になっていた。そして震える指先が、わたしを指していて。

「あの女を好きにしていいから、やめてください……」

「……え?」

 一瞬、何を言ってるのかわからなかった。それでも、背筋が凍るような寒気を感じて身が竦む。

 まず最初に、簡単にわたしを餌にしたこの人の最低な人格に。

 わたしに向いた、六つの冷めた瞳に。

 彼らは虎のように、静かに、ゆったりとした動きで近づいてくる。

「っ!」

 逃げなきゃ。そう思ったのは逃げたしてからだった。

「待てぇぇぇ!!」

(路地裏はダメ! もっと人通りの多いところ!!)

 わたしだって山奥の孤児院に暮らしていたんだ。体力には自信はあるし、足だって早いほうだと思う。

 それに。

「っ!」

 駆けていた足を止め、振り向きながら伸ばされた手を掴み、そのまま力を逃すことなくこちらからも強く引く。そうして崩れた体勢を支える片方の足を払い。

「ごめんねっ」

 重心を失った体は地面に飛び込むような形で落ちていく。顔を打ち付けなかったことを確認して、わたしはすぐに反転してもう一度駆け出す。

 お婆ちゃんは、孤児院のみんなに護身術を教えてくれていた。その成果を今まで試すことはなかったけど、うまくいってよかった。でも、履き慣れないヒールのついた靴では走りにくく、すぐに次の男の子が近づいてくる。ああもう! ここがあの山なら簡単に逃げ切れるのに!

 履き慣れないハイヒールがカンカン音を立てる。とにかく、表に出るんだ。そうしたらきっとたくさん人がいて、諦めてくれるに違いない。

 ほら、もうすぐ―――――。

「え?」

 思わず、足を止めてしまった。

「なんで、誰もいないの?」

 無音、無音に次ぐ、無音。

 ただただ静寂が続く町中。誰もいない。痕跡さえなく、無音。まるで、『最初からそうだった』と語りかけるような、静寂。

 背後からの足音で、私は今追い掛けられていることを思い出し、駆け出す。

 いつ? いつからなの? いつもこの時間なら人通りが激しいはずなのに、誰一人の姿も見えない。街灯は点いてるし家々の明かりも目に入っている。なのに、人だけがいない。

 まるで、不思議な世界に迷い込んでしまったかのよう。

「きゃっ」

 戸惑いながら走っていたせいか、重心がずれてヒールの踵が折れる。足首に痛みを感じた次の瞬間、私は転んでいた。

「い、った……」

 すぐに起き上がって走り出そうとするが、捻ってしまった足首が痛みうまく走れない。これじゃ、教えてもらった護身術も役に立たない。痛みを必死に我慢しながら、片足に重心を傾けてできる限り急いで走る。

 追いつかれないよう、入り組んだ道を選んでいく。とにかく何も考えず走り続けていたら、どこか見覚えのある公園が見えてきた。遊具はペンキが所々剥がれたジャングルジムと、簡素なシーソーだけ。

「ここ、は……」

 公園に入ろうとする足が、一瞬止まる。入りたくない。視界にすら入れたくない。けれど、だからといってこのまま逃げ続けることはできない。わたしは意を決して、公園に足を踏み入れた。

 園内はひどく寂れていた。あのおかしな町の淋しさなんてまだまだ異変と思えないくらい。小さいけれど足音が聞こえる。無音の町にはよく目立つようだ。これ以上逃げることはできそうもなく、わたしは公園を覆う形で植えられた樹木の間へと身を隠す。

「そうだ、警察に連絡を……!」

 カバンから智くんに買ってもらった携帯を取り出す。

「えっと、ここをこうして」

 うろ覚えの拙い操作でなんとか通話までもっていく。

 だけど。

「嘘、でしょ……?」

 繋がらない。何度も何度も繰り返し発信するが、結果は同じ。プルルル、という音すら聞こえなかった。

「なんで……」

 どこに電話をかけても、繋がることはない。

 けれど、まだ一つだけかけていない番号があった。

「智、くん……」

 助けようとした行動の末に助けを求めるの?

 何も成長してない証を見せ付けたいの?

 そう叱責する声は、他ならわたし自身の声だった。

 足音は近づいてくる。まるで最初からわたしがどこにいるのか、わかっているかのように。

「きゃっ」

 足音に耳を澄ませていたわたしは、だからこそ、突然鳴り出した携帯の着信音にひどく驚いた。そして、画面に表示された文字を見て、また驚く。

 智くん。そう、わたしが登録した、彼の名前が表示されていた。

 震える指で、通話ボタンを押す。

『春子か?』

 すぐに聞こえたのは紛れもなく、彼の声だ。

 ぶっきらぼうで不器用で、それでも底無しに優しい、彼の声。自分の優しさや、意志を、必死になって隠そうとする。とても、とても可哀想な人。

 けど、ダメだ。甘えちゃいけない。

 弱い自分を、見せちゃいけない。

 だって、彼は本当に優しいんだ。優しいから、どんなに不機嫌そうに顔を歪めていても、助けようとしてくれる。そういう習性を持っていると言っても過言ではない程に。彼は、どこまでも優しくて。

「どうしたの智くん、わたしに何か用? な、何もないんだったら切るよ? それじゃあね」

 だからこそ、甘えてはいけない。甘えて、甘えて、甘えて。彼の重荷になることは嫌だった。

 彼がわたしの傍からいなくなったのは、きっと、それが理由なんだから。

 電話口からは何も聞こえない。静寂が耳に痛かった。ぎゅっと握り締めた携帯の軋む音が、うるさく感じるぐらい。

 静かで、悲しくて。

「……何か」

 やっぱり、私は、弱くて。

「何か、言ってよぉ……」

 たった一言でよかった。こんなにも虚勢を張り続け、弱い自分を隠していたわたしはとにかく、智くんの言葉が欲しかった。

「わたしを、励ましてよぉ……」

 そうすれば、わたしは頑張れるから。誰にも迷惑をかけないから。初めて、自分で立ち上がれるから。

『春子』

 名前を呼ばれる。いつもよりもずっと、優しい声色で。

『何をそんなに意地張ってんだか知らない。それに、おまえを一度は放り捨てて逃げ出した俺が言えることじゃないけど』

 何を言われてるのか、わからなかった。智くんの声は優しくて、温かくて。

『俺はさ、おまえに頼られるのが嬉しかったんだ。嬉しかったんだよ。嬉しくて、同時にすごく恐かった。いつか、おまえを失うかもしれないって考えると、恐くてしょうがなかった。だから、置いて、逃げたんだ』

 智くんの声が、言葉が耳に入るごとに、わたしの視界は滲んで、口元は歪んで、震えて。

『けどさ、おまえはまた来てくれた。正直に言うと今でも、恐い。恐い、けど。このまま、おまえを失うのは、嫌なんだ。勝手なこと言ってるけどさ、嫌なんだよ』

 泣かないよう堪えて噛んでいた下唇から、歯を離してしまうぐらいに。その言葉は、嬉しくて。

『だから、頼ってくれ。傍に、いてくれ。今度は、逃げないから』

 口元に流れてきた涙のしょっぱさに、ようやく泣いていることに気づく。泣かないようにしていた想いが、一瞬で決壊する。

『俺に、おまえを守らせてくれ、春子』

 それぐらい、ずっと、待っていた言葉だった。

 それなのに、我慢できなかった。

「恐いよっ! 智くん、恐いよぉ!」

 ずっと我慢していた感情が爆発する。

『……ああ』

「智くんっ、智くんっうわあぁぁぁ~~~ん」

 誰もいない壊れた世界で、一番大切な人の声が、言葉が、強く私の心に響く。

 足音はすぐ傍まで来ている。それでも涙が止まらない嗚咽が止まらない。声を上げて泣くことをやめられない。

『春子。たった一言、それだけでいいから言ってくれないか?』

「うんっ、うんっ!」

 もう大丈夫だった。

 誰が来ても、何が起きても、必ず、彼が守ってくれる。

 傍にいたいから、頼る。それは、善悪関係なく、ただどうしようもないこと。弱くて情けないけど、そんなくだらないプライドを張って、傍にいれなくなって泣きじゃくるのはもっと情けないから。

 足音が止まる。笑い声が聞こえる。手を伸ばされる。でも、もう恐くない。

「智くんっ、助けてっ!!」

 堅い、聞き慣れた靴の足音が、聞こえた。


 上出来だ。


 足音はそう、答えた。




・飛坂智明


 日記を閉じ、目も閉じる。一度深く呼吸を吐いてから、右手で眉間を揉む。

 文字数も多かったし、誰にも見せるつもりもなかったようだからくせ字や走り書きも多かった。読み取るのに苦労することも、たくさんあった。

 でも、得るものも、たくさんあった。

 すぐさま立ち上がり、靴を履いて飛び出すように家を出る。外の冷たい空気なんて、気にもしなかった。気分はひどく昂揚していた。足は軽やかに回転し、迷いなく、体は風を裂いていく感覚がする。

 いつだったか、こんな昂揚感を感じたような気がする……。

「なんだ、これ」

 いつのまにか、おかしな世界に迷い込んでいた。

 俺以外、人はいない。生き物の気配を感じなかった。風の音すらない。動くものは何一つ目に入らず、ただ何もかもが静止しているかのような、無音の世界。

「どういうことだ?」

 いや、それよりも、探すべきものが――――

「驚いた。あなた少しも取り乱したりしないのね」

 その誰もいない、無音の世界に、彼女はいた。

 長く、足元まで伸ばされた黒い髪。容姿は幼く、顔立ちも整ってはいるものも、まだ頬は丸みを帯びていて、美しいというより、可愛いと称されるべきものだった。身にまとう黒衣の、まるで令嬢が着るような豪奢なレースをあしらわれたドレス。浮かべる妖艶な笑顔のせいで可憐ささえも持ち合わせてさえいる。

 そんな少女が、いつのまにか目の前に立っていた。

「君、は」

「あら、私のことは気に掛けるのね。あなた女性にはとりあえず声かけるタイプ?」

「い、いや別にそういうわけじゃないが」

「ふふっ、そんなに慌てないでよ」

 おかしい。

 この世界もだけど、この目の前の女の子のほうが余程おかしく思える。

「ふーん、やっぱり取り乱さないのね」

「……君は、何者なんだ?」

「さぁ、何者なんでしょうね」

「からかっているのか?」

「さぁ、どうなんでしょうね」

 幼い顔で妖艶に微笑む。この少女は必要以上に俺に警戒心を抱かせているような気もする。

「……質問を変えよう。君は、何を知っている?」

「それは、あなたについて? それともこの世界について?」

「知っているのはどっちなんだ」

「あなたたちの問題に興味はないわ。だから知らないし、知るつもりもない。まぁ、この世界について興味があるわけでもないけど」

 知りたくて知ったわけじゃない。少女の表情と、声からそう伝わってきた。

「そうか、そっちか」

 何故だろう。ひどく非日常で、ありえない事態のはずなのに。

 ひどく、どうでもいい。

「やっぱり、興味がないのね」

 おかしい、とは思う。人が誰もいない。今まで聞こえてた音もない。見えていた姿もない。

 だけど今はそんなおかしな世界より、今は春子のことの方が気になってしょうがない。

「ここは、牢獄。本来はそのような機能を持たない、『形』だけの世界。でも、今この世界は、ただ一人のために動き続ける、即席の箱庭」

 歌うように語る少女の表情は、慈しみと蔑みが同時に存在しているかのようで。

「そこに辿り着いた、辿り着けてしまったあなたは、これから何を選択していくのかしらね」

 最後に、その表情を俺に向け、妖艶に微笑んだ。

「それじゃあ、精々頑張ってね。彼に一番近く、彼の一番の理解者さん」

 不可解な言葉を残して、少女の姿は消えた。目の前から、霞んでいくように、その像を朧げにして。

「……いらない時間をくった」

 理解できないものを考えてる時間の暇は、ない。

 俺はすぐさま、今起きた不可思議な現象を忘れて走り出した。



 呼吸の音が無駄に激しい。走り疲れたからじゃない。現に俺は3kmほど全力疾走をしてはいるが、限界なんか見えちゃいない。

 ならこの息切れは何か。決まっている。興奮しているからだ。極上の餌をちらつかせた空腹の犬のように、絶世の美女に誘惑された卑しい雄のように。

 俺の気分は異様なまでに昂揚し、異常なまでに興奮している。

 ああ、なんて気分がいいんだ。同時に、なんて狂っているんだ。

 自分でもわかる。この感情は間違っていて、例えようもなく狂っている。

 けれど、ひどく懐かしい。

 あれは、小学校低学年の頃だと記憶している。

 俺は、ある事件のせいで学校でいじめられていた。集団というものは、共通の敵を作ることで統制が成り立つことが多い。彼らは、俺を嘲笑い、傷つけ、糾弾した。当時の俺はその状況を甘んじて受け入れていた。

 彼らの言うことは、全て真実だったからだ。

 現に俺は、人殺しだった。変えようのない事実だった。それは悪いことだとわかっていた。だから、彼らの言うこと全てを受けとめ、己のなかで反芻し、罪を償おうとしていたんだ。

 もちろん、俺が甘んじて受けた状況とは言え、周りまでもが受け入れることにはならない。

 事情を知った婆さんは烈火のごとく怒れ狂って、木刀やら何やらを手に学校に乗り込みかけたこともあった。(子供全員で腕引っ掴んでなんとか止めた)

 正直、あの頃の俺は俺のことを思ってしてくれた行動を迷惑に思っていた。

 俺はこうあるべき人間なんだ。だから放っておいてよ。

 言って回ったわけではないが、表情や言動などで周りにはわかってしまったのだろう。そうして、もう誰も俺を守ろうと、助けようと思わなくなった。

 ただ一人を除いて。

 放課後、わざわざ校内に残る意味も必要もなく、俺は早々に帰宅しようと、教室を出た。そんな俺に対して、教室内からいくつも暴言が飛び出す。いつもの、慣れた状況だった。

 その時だ、春子が行動を起こしたのは。

「もうやめてよっ。智くんがかわいそうよ!」

 突然廊下から駆けて来て、教室に飛び込んだ。弱虫なのに、震える足を叱咤して春子は俺をいじめていた奴らに言い放つ。年上の彼らに、臆病者の春子は目に涙を一杯に浮かべながら立ち向かった。

 あの頃の俺にとって、それは有り難迷惑そのものだった。そんなこと望んじゃいない。やめてくれ。これでいいんだよ。痛くて苦しいままでいいんだ。

 だけど、止める気にもならなかった。だいたい、俺がその場に飛び込んだところでまた騒ぎ立てるだけだ。意味がない。

「俺ら事実を言ってるだけじゃーん」

「そーそー」

「別に、悪いことじゃないだろ?」

「そ、それでも、智くんは悲しむんだよ!? だったら言わないほうがいいじゃない!」

 もうやめてくれ。

 どうして俺がみんなを避けたかわからないのかよ。

 もう、俺のせいで、誰かが悲しむのが嫌だから。だから、一人でいようとしていたのに。

 ……けれど、嬉しかったんだ。

 こんな自分が、他の誰かに守ってもらえることを、嬉しく思ってしまったんだ。

「なんかウザくね? こいつ」

「生意気なんだよ、女のくせに」

 拳が振り上げられる。それはきっと、自分を守ろうとしてくれた、貴い優しさを傷つける。

 そんなことは、あの頃の俺でも許せなかった。

「うわぁぁぁ!!」

 その後は、あまり覚えていない。

 覚えているのは、傷ついた体。相手を傷つけた右手。泣きながら俺の名前を呼ぶ春子の泣き顔と、真っすぐ落ちる涙。

 そして、たった一瞬感じた、『守ることができた』ことによる、昂揚感。

 俺は、誰かを守りたかった。誰かを守ることで、その誰かに感謝されたかった。教職を選んだのもそういう考えがあったから、特別子供が好きだったわけでもない。教師という、子供を守護する立場になって感謝される。そんな浅ましい考え。

 今まで俺は、そうやって誰かに感謝され、存在を認めてもらうために生きてきた。

 だから、自分本位じゃない、ただ誰かのため『だけ』を思い、行動できる春子に惹かれたのだろう。惹かれると同時に、それを持ち合わせていた春子が羨ましく、疎ましく、煩わしく。

 だから手放した。逃げ出した。そう思えてしまう自分を見せ付けられるのが悔しかった。いつしか、その存在を失うことがたまらなく嫌だった。

 そうして、一度は手放したものを、俺はまた掴もうとしている。 

 無音のはずだった世界に、いつしか音が混じり始める。俺はその音の先に向けて、動く右腕を必死に振りながら走る。

 そして、携帯を操作し、春子の意志を知った。

 助けてと、彼女の望みを聞いた。

「で、おまえら何がしたかったんだ?」

 不安定な呼吸リズム、焦点の合わない瞳。俺の質問にも答えず、敵意しかこもらない視線をぶつけてくる。そして、声を上げ突貫してくる三つの体。

 何かを、特に自分を守るためのやり方は、婆さんから嫌というほど教わっている。

 まず一人目。三人の内の中間にいた者が振り上げた拳をかわしながら、腰を低くして肩からぶつかる。バランスが崩れた瞬間、流れるような、体に染み付いた動作で腰を回転させ、勢いを乗せた膝を脇腹にたたき込む。

 相手の脇腹の肋骨が軋む感触が膝から伝わってくる。嫌な感触であろうと怯みはせず、そのまま振り切る。ゴキ、と何かが折れたような感触にすら怯むこともしない。

 悪いとは更々思えなかった。正当防衛という言葉を盾に、崩れ落ちて胎児のように蹲っているのには目を向けず頭を踏みつけた。そしてまだ敵意を持った相手に狙いを定める。

「一、二本折るぞ、文句ないよな?」

「邪魔すんなよ……」

「するに決まってるだろ」

 守りたいものがあって、守るための方法も知ってる。なら、ただ傍観なんてしていられない。できるわけがない。

「好きな女を守ろうとして、何が悪い」

 居場所とか、感謝されるためとか、そんな打算的な考えはもうどうでもいい。

 ただ守りたいんだ。無くしたくないから守りたいんだ。

「春子! 聞こえたよな!?」

「うんっ、うん!」

 涙でぐしょぐしょになった笑顔が見えた。

「待ってろよ! さっさと片付けて帰るんだ! 明日が休みでも俺にはやることたくさんあるんだからな!!」

「うんうええぇぇぇ~~~~~ん!!」

 頷いた瞬間決壊したのか……。

「ははっ」

 笑ってしまう。自分の目的が見えた今、躊躇するものなど何もない。

「おまえらこそ、人の恋路を邪魔すんなよ」



 打撲、擦り傷が体にいくつかできている。激痛、という程じゃないが、痛いことは変わらない。

「……大丈夫?」

 公園の地面に横になる俺を、春子が涙目になって見下ろしている。

「大丈夫。二三発うまい具合に入っただけだ。それより膝つけるなよ、汚れるぞ」

「もう今更だよ……」

 涙を目に浮かべたまま、春子は微笑んだ。そして俺の頭を持ち上げ、自分の膝に乗せてくれた。

「……そうだったな」

 左腕が全く使えない、というハンデは大きかった。反応できない死角はあるし、行動にもたくさんの制限がかかる。だが、今はこうして、守りたいものを守り通せた。

 婆さん、あんたが俺に無理矢理叩き込んだ格闘術が、こんなところで役立つとは思わなかったよ。

「あの子たち、どこにいったのかな」

「さぁ、な」

 全員昏倒させた後、まるで最初からいなかったようにあいつらの姿は消えてしまったのだ。

「帰ったんじゃないか? よくわからないが、どこかに」

「そう、かな」

「たぶん、な」

 確証はない以上、断言はできない。考えたところで答えが出てきそうにもない。

「俺より、おまえは大丈夫か。怪我はないか?」

「うん、上手に逃げられたよ」

「そうか。俺は、守れたのか……」

 失わずに、済んだのか。

「うん」

 そうして、俺たちは黙った。春子の太ももは冷えきっていて、氷枕に頭を乗せているような感覚だったが、不思議と、寒いとは思わなかった。

 ずっとこうしていたかったが、俺には謝らなければならないことがある。

「ごめん、おまえの日記、勝手に見た」

「……そう」

「怒らないのか?」

「あまり見られたくはなかったけど、隠していなかったからね。見られても仕方ないよ……ううん、もしかしたら見られたかったのかもしれない」

「だったら、もっと綺麗に書けよな。読むの大変だったんだぞ」

「あはは、ごめん。書くのはいつも夜中だったから、眠くて……」

「……なるほどな」

 それからまた沈黙。

 この時間はひどく心地いい。誰もいない。俺たちだけ。

 けれど、ここにはいちゃダメだ。だってここは――。

「ここ、だよね」

 春子の、一生消えない冷たい思い出の場所だから。

「ごめん、ちょっといいかな」

 やさしく俺の頭を持ち上げ、下ろす。そうして立ち上がって、園内を歩きだした。

「ここ、かな」

 滑り台の前でしゃがみ、地面の砂を撫でる。

「ここで、お母さんが殺された」

 起こった事実を、ただ口にしただけ。それだけなのに、俺は何も言えず、言葉に詰まってしまう。

「男の人が急に公園にいた人たちに襲ってきて、お母さんは私を守ろうとして突き飛ばした。男の人は笑いながらお母さんのお腹を背中から何かで突き刺して、それでもお母さんは私を庇ってその場から動かなくて。お腹や腕、胸にも足にも、何度も何度も刺してその度にお母さんの体はビクッと震えて……お母さんの胸から突き出してるのって木の枝だったかな。知ってた? 木の枝って結構簡単に刺さるんだよ。危ないよね、そんなものが世界に溢れてるんだよ? 私はただそれを見てい震えているだけで、何もできなくて……」

 ずっと、淡々と事の顛末を言っていた春子の声は、次第に震えて。

「何も、できなくて……!」

 春子の肩が震える。声に嗚咽が交ざる。

 瞳から、いくつもの涙の筋かできる。

 初めてのことだった。春子が泣くのは。いや、泣くことは何度もあった。痛みに泣き、孤独に泣いてきた。けれど、ここまで強く、ただ悲しみから泣くのは初めてだった。

「お母さん……うぇ……うぅ……」

 悲しみを受け入れている春子を、背中から右腕を回して抱き締める。

「そのままでいいから、泣いていていいから」

 片腕だけの抱擁。抱き締める腕しかなく、頭を撫でてあげる手は動かない。

「後で、笑ってくれ」

 それでも、それが俺にできる限りの、精一杯の慰め方だった。

「う、うわあああぁぁぁぁぁ!!!」

 春子は俺の服を掴んで、俺の腕の中で泣いた。

 泣き虫のくせにいじっぱりで。臆病なくせに頑固で。

 守ろう。今日だけじゃない。明日も明後日も。ずっと、俺が守るんだ。

「両手で抱き締められないけど。離さないから、ずっとそばにいるから」

「うわぁぁ、ぅ、ぁぁ……」

「き、聞こえてるのかわかんねぇ……」

 それでも、俺の言葉の後。春子の掴む手の力は強まった気がした。

 なら、きっと俺の言葉は聞こえていて。掴む手の力が、その返答だったのだろう。



 久々に、清々しく目が覚めた。布団から起き上がり、顔を洗う。冷水に触れることで走った頬の痛みと、よく見ればわかるほどの小さい裂傷が、昨日のことが夢ではなかったことを証明していた。

 昨日、公園で泣き疲れ眠ってしまった春子を背負って帰ってきた俺は、春子をベットに寝かせた後、そのまま着替えることのなく俺も布団に横になった。土ぼこりに汚れた服のまま寝てしまったため、布団も汚れてしまっている。部屋着に着替え、布団をベランダに干す。そういった日常の動作にも昨日の傷が痛み出すが、そう悪い気はしなかった。初めて、自ら負うべくして負った痛み、だからだろうか。守るために負った傷は、むしろ勲章のようにさえ思えた。

 どうやら春子はまだ起きてはいないらしい。なら、起きる前に朝食を準備しておこうと台所に向かう途中。昨日も聞いた、本の雪崩の音が春子が眠る部屋から聞こえてきた。

「え? きゃっ、わあぁぁ~~~~~」

 そして聞き慣れた声。

「春子っ? 悪い! 昨日急いでたから片付けが適当だった!」

「きゅ~~~」

「だ、大丈夫か?」

 額だけが真っ赤なところを見ると、どうやら体に当たったりはしなかったようだ。だからといって大丈夫なわけではないが。見る限り、大きな怪我はしていないようだ。

「智くんよだれが、よだれがぁ~」

「雪崩だ。間違えてるのは錯乱のしてるからにしとく。大丈夫か?」

「痛いよ~血出てない?」

「ああ、赤くなってるだけだ」

「よかった、もう私は智くんのものだから大事にしないとね」

 不意打ち、だった。

「……そう、だな」

 そっか、そうだよな。昨日のやりとりって、もはや告白だ。いや、むしろプロポーズに近い。春子はそれを受け入れた。受け入れてくれた。なら、今の俺と春子の関係は、当然今までとは違う。もっと近しく、大切な関係へと変化しているはずだ。

「智くん?」

「え、あ、いや、その」

 正直、俺は困惑していた。もちろん、望むべくしてなった関係ではあるが、いざこうして意識してみるとどう振舞えばいいのかわからない。昨日までずっと、俺は春子の好意を振り払うように生きてきたのに。勢いに任せ、色々と気恥ずかしいことを言った気がして、今更ながら羞恥心が沸々と芽生えてきた。

 いや、もちろん後悔しているわけではない。けど春子と交際するというのは、それは今までに例を見ない事態だ。いやでも、今の今までだってよくよく考えれば下手をすれば恋人よりも親密な関係だったような気さえする。ならどうすればいいのか、彼氏らしく振舞うべきなのだろうか。そもそも彼氏らしく振舞うとはどうすればいいのか検討もつかない。

「あははっ、智くん顔真っ赤! どうしたの?」

 朗らかに笑う春子は、こうして関係性が変わったにも関わらず、依然として変わらずにいる。

「……なんだか馬鹿らしくなってきた」

 なら、それでいいのだろうか。

「え、何か言った?」

「なんでもない」

 不思議そうに顔を傾ける春子の頭を撫でる。

「朝飯作るから、おまえも手伝え」

「あ……うんっ」

「で、だ。この鍋なんだが」

 台所の棚を開き、昨日見つけた妙にファンシーな片手鍋を春子の前に突き付ける。

「あ、見つかっちゃった、てへっ」

「てへっ、じゃなくて。どうしたんだ? これ」

「智くんの誕生日プレゼントだよ。もう一日過ぎちゃったけど、お誕生日おめでとう」

「あ、ああ……ありがとう」

 言えない。もう一ヶ月過ぎている。なんて事実をこんな晴れ晴れとした笑顔に突き付けられん。

「せ、せっかくだしこれで朝食作ろう」

「うん、そうだね」

 鍋(と称していいのか微妙だが)に水を入れ、沸騰させるため火にかける。

 数分後、沸騰した鍋の中の様子を見つめ、固まる俺たち。

「……キラキラしてるね」

「ああ、キラキラしてるな」

 泡が破裂。キラキラ。また泡が破裂。キラキラ。

「ラメが剥がれてるな、それも全部」

「綺麗だね~」

「そうだな、けど食いたくはないな」

 毒というほどじゃないとは思うが、好んで使うべきではない代物だ。というか、どう考えても欠陥品だろう。

「仕方ない、このお湯は捨てて、って! 何してんだ!?」

 投下されていく野菜群……人参もピーマンもたまねぎも、ラメが張り付き輝いていく。

「見栄えはよくなると思う」

「見栄え以外が台無しだ」

「だって料理番組とか、完成品がキラキラしてたりしておいしそうだよ?」

「あれは水蒸気とか水気がライトの光を反射してるからだ。こんな露骨な光沢感は逆に不気味に見える」

「ふんふふ~ん」

「無視か」

 まぁ、食べられないほど有毒、というわけではないだろうが。あまり食欲を刺激しない朝食になりそうだ。多少辟易していると、テーブルに置いていた携帯が鳴り出した。調理を春子に任せ、俺は今に戻って携帯を手に取る。

「着信……メールか」

 携帯のディスプレイに表示された文字は――。

「智くん、どうしたの?」

「なんでもない、それより、ちょっと出かけてくる」

 服を着替え、本当は必要ないが、仕事用のカバンを掴み玄関へと向かう。

「え? どうして、仕事?」

「そう。すぐに片付けてくる。ご飯は、帰ってきてから食べるよ」

 玄関を開け、外に出た。そしてすぐに鍵を閉め、歩き出す。

 充分に家から距離を取った後、俺は携帯を操作し、メールを送ってきた相手へ電話をかける。

 相手は、すぐに出た。

「なんの用だ、近江」



「ねぇお母さん」

 母親に手を引かれた男の子は、無邪気に問いかける。

「なぁに、―――ちゃん」

「どこまで行くの? もう足疲れたよ」

 足に疲労が溜まり、痛みさえしていた。もう長いこと森の中を母親に連れられ歩いていた。ピクニックという割には、深く鬱蒼とした森の中を進んでいく。そのため、男の子の気分もそれ相応に沈み、退屈に思っていた。

「あと少しよ。もう少し置くまで行かなきゃ、すぐに見つかってしまうもの」

「見つかる? 誰に?」

 その質問をされた母親は、あからさまに目を逸らした。

「……それは―――ちゃんは知らなくていいのよ」

「気になるよ、教えて?」

「だーめ。お楽しみは後回しのほうがいいでしょ?」

「むー……うん。僕いっつもハンバーグ食べるのは最後だもんね、わかった」

 嫌なものは最初に、それから好きなものを食べる。そうすると、幸せな気持ちのままご飯を食べ終えられる。

「うふふ、偉い偉い。お母さん頭撫でちゃう」

「えへへ~」

 頭を撫でられて、男の子は今まで鬱屈していた気持ちを忘れて微笑んだ。ただ頭を撫でられるだけで幸せを感じられるほど、単純な思考を持っていた。

「それじゃあ、頑張りましょ? あと少し頑張れば」



         楽に、なれるから   




 指定された待ち合わせ場所につき、落ち着くために吸い慣れてない煙草に火を点けた。紫煙を肺に無理矢理送り込む。有害物質が体を駆け巡り、思考が鈍る。人通りの少ない、ビル郡の路地裏は喫煙所ではなかったが、煙草を吸う俺を咎める人もいなかった。

「……やっぱり、喉が痛いな」

 クラッとくる感覚はなかなかに捨てがたい甘美なものがあるが、俺は喉の粘膜が弱いらしく、すぐに炎症を起こすから頻繁には吸えない。

 待ち人も到着し、俺は携帯灰皿に煙草を捨てる。

「早かっですね」

 まだ吸い始めたばかりだったが、待つ間の口寂しさを紛らわすために吸ったものだ。もったいないとも思わなかった。

「なんですか、その姿。ボロボロじゃないですか」

 時刻通りに現われた近江の姿は、ひどく凄惨なものだった。グッチだかグッピーだか忘れたが、とにかく有名なブランドのコート(自慢されたので知ってる)は黒く汚れ、所々破けている。他の身にまとう服も、近江自身も似たような惨状だ。

「あんたの女のせいだよ……!」

 近江はビルの壁に腕を叩きつけ、吐き捨てるように口にする。

「あんたの女がさっさとホテル入んねぇからあいつらに見つかったんだよ……」

 何を、どう考えた結果なんだろうか。

「ここまで露骨な逆恨み、初めて見ましたよ」

「なんでもするって言ったんだぜ? それなのに、くそっ」

 近江は近くにあったごみ箱を蹴り上げた。中身は缶やビンの類らしく、地面意散らばり、いくつか割れてしまった。

「本性出てますよ? 近江先生」

「うるせぇ!」

 短く吐き捨てられた。ここまで本性をあからさまに出す近江の姿は見たことはなかった。だが、不思議と似合っているような気さえした。むしろ、普段の姿の方が、ずっと嘘っぽく見えたせいか、今の近江がいっそ清々しく思えた。

「そもそも、あなたがあいつらを必要以上に追い詰めるからいけなかったんですよ」

 昨日は気付かなかったが、あいつらは全員、うちの学校の生徒だった。

「はっ、罪を犯した奴を裁いて何が悪い。俺は間違ってはいないだろう?」

「たかだか万引きでしょう。それを校内で吹聴して回り、PTAや地域の人間に警戒するよう発破をかける必要はないだろうが」

 身勝手な物言いに、思わず敬語を忘れる。だが、もう今更だ。近江が素の姿を晒す以上、俺も表面を取り繕う必要なんてない。

 もちろんあいつらが行ったことは悪だ。裁かれるべきものだ。だからといって、近江はやり過ぎた。相応の罰による償いより、ずっと重く苦しい償い方を押し付けた。

 噂は尾をつけヒレをつけ、増幅し、悪質になっていく。いつのまにか、あいつらの居場所はどこにもなくなっていた。

「それで怨みを買って、自業自得だろう。怒りの矛先を間違えるな」

「……うるせぇよ」

 ニヤリと、卑しい笑みが浮かべられた。


「この、人殺しが」


 記憶が這い出てくる。思い出したくない。消え去ってほしい過去が、頭の中を駆け巡る。

 ごめんなさいありがとうごめんなさいありがとうごめんなさいありがとうごめんなさい。

 先に終わったのは、ありがとうだった。

 暖かくて優しくて、ただ一時のぬくもりが、狂ってしまうほど恋しかった。歪で、汚れきった過去の記憶。

「……なんで、おまえが知っている」

 視界が端から黒くなって、狭まる。殴られたように頭がふらつき、呂律がうまく回らない。

「調べたんだよ。いい御時世だよなぁ、金払えばプロはなんでもやってくれるんだぜ?」

「ああ、そういうことか……」

 まともな思考ができない。このままじゃ、行き着く先は、きっと。

「いい、から……そのむかつく笑顔をやめろ……」

 思わず―――――――ストップ考えるな。

「はっ、うるさいんだよ人殺しが」

 狂った思考が一つの答えに行き着こうとする。やめろ、止まれ。それはいけない。

「いいからさっさとあの女のどこにいるか教えろよ。家か? それともどっか行ってるのか? さっさと言えっての。さもないとバラすぞ。あいつらと同じようになりたいのか? おまえの居場所なんか一瞬でなくなるぜ?」

 考えないようにすればするほど、思考はある一つの結末へと辿り着こうとする。

「居場所か、女か。さっさと選べって言ってんだよ!!」

「…………ああ、もう」

 行き着いてしまった。

 もうこいつはいらない。俺の世界に必要ない。

「黙れよ、底辺」

 無くしてしまおうか。いい考えだ。そうしよう。

 そのためにはどうすればいい? 簡単だ。潰したり折ったり削ったり、いくらでも方法がある。

 一度やったことがある。経験がある。ならできる。初めてじゃないんだから。

 いらないモノの表情が歪んだ。

「く、来るなっ、なんだその目は……ふざけんなっ、バラされたいのか!?」

「ははっ!」

 笑う。笑ってしまう。

「何を今更。おまえが散々言ったじゃないか。これが人殺しの目だよ」

 これが、我が身可愛さに人を殺した、異常者の目だ。

「あ……あ、うぁ……あ……」

 壁まで逃げた近江が、恐怖に喘ぐ。

「さて、手始めに……折るか」

 ボキンッ、と耳に残る不快な音を奏でるために手を伸ばす。


 左手を。


「…………え?」

 動いた。

 今まで動かなかった左手が、ただ人を殺すためだけ、そのためだけに、機能を取り戻した。

「あ……あ……」

 感覚が蘇る。温かい赤、冷たい銀。

「う、あ」

 数ある思い出してはいけない、飛坂智明にとって最大のトラウマ。

 意志など関係なく、ただ、自己防衛だけの意味を持って動き出す、俺じゃない、何かの。

「あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 殺した、殺した! この手がっ! ぬくもりを、大切を、意味を、殺した! 俺は殺したくなんてなかった! けどこいつが殺したんだ! 俺じゃない! 俺じゃないんだ!! こいつが!! こいつが!! どうして存在してる!? いらないものだ!! こんなものはいらない! いらない! 消えろっ!! 無くなれ!!

「ひっ、あ、あああぁぁぁぁ!?」

 俺のなかにある危険物を殴る。叩きつける。落ちていたビンの破片を掴み、裂く。血が溢れ、飛び散る光景から近江が叫び声を上げて逃げていく。だがそんなことはどうでもいい!

 肉が見えても止まれない。止まれるかっ。骨も出せ! 血もすべて吐きつくせ!! 俺の中から消えろぉ!!

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 視界がぼやける。立つことすらできなくなってくる。だけど、まだある。存在している。左腕が、まだ、見えてる。

 まだなのに、まだ形がわかるんだ。もっと、跡形もなく……。

 母さんを奪った、この左腕を……。



「遅かったな……」

 鬱蒼とした森の奥深く。木の幹に寄りかかり座っていた父親が立ち上がった。

「ごめんなさい、準備に手間取って」

「逃げたしたかと思った」

「そんなこと、絶対しないわ」

 両親の会話の内容が、男の子にはまったく理解ができていなかった。

 いったい、何から逃げるのか。その疑問すら、男の子は懐いてなかった。鬼ごっこでもするのかな、などと考えていた。

「わかってる……持ってきてるか?」

「ええ……」

 ただ、久々に揃った家族の輪を、嬉しく思っていた。

「ねぇ、さっきから何の話なの? 楽になれるってどういうこと?」

 その無邪気な問いに、両親の表情はあからさまに歪む。悔しそうに、悲しそうに唇を噛んでいる姿を男の子には見せないよう、顔を背けた。

 母親が男の子に顔を向ける。その時には、浮かべられた表情は笑顔だった。

 必死に笑った、必死に作り上げた、笑顔だった。

「言葉の通りよ。これから、楽になるの」

「……あまり時間がない、やってくれ」

「ええ」

「お母さん? 何するの、それ」

 男の子の指差した先にある、銀色の光。


「……包丁だよ?」


 淡い月明かりを反射して輝く鋭い刃物は、母親の手に堅く握られている。

「どうして? ここで料理するの? キッチンじゃないよ? ねぇ」

 男の子は疑問をいくつも口にする。

「……静かに、見てなさい」

 その質問に、母親は一つも答えなかった。

「ねぇ、待ってよ! お父さん!? 何か言ってよ!」

「智明、ごめんな」

 謝って欲しいわけじゃない。母親が手に持ったものをどうするのか、その答えを聞きたかった。

「いく、わね」

「ああ、すまなかったな。辛かったろう」

「いいえ、幸せだったわ……」

「お母さん!? 待って! なんなの!? 何をするの!? 危ないよ! そんなのお父さんに向けちゃ、ねえ!」

 叫ぶような問いも、母親の耳には入らないまま。

「さようなら」

 その銀色の光は、父親の喉元に深く、抉るように消えた。

「あ、ああ、あぁ……」

 月の光が照らす視界の中、首から血を溢れさせる父親の姿に、男の子は呻く。

「お父さん! お父さん!! どうしてっ!? ねぇお父さん!!」

「次は、あなたの番よ、智明……」

 銀色は赤く染まり、月の光を反射しなくなっていた。滴り落ちる赤い液体。そして、切っ先は男の子へと向けられる。

「嫌だよ、恐いよ……」

 男の子が泣きながら後退していく。そして、その背中は木の幹へとぶつかり、それ以上逃げることはできなかった。

「恐くないよ。痛くもないから、ね。さぁ……」

 逃げることは、できなかったんだ。

「嫌だってばっ!」

 男の子が母親を突き飛ばす。恐怖心に駆られた行動は勢いがあり、母親の体は後方へと倒れていく。

 そして、母親の手から零れ落ちた、凶器。男の子は咄嗟に、その凶器へと手を伸ばす。

 台所に立つ母親が持っていた、料理をするための道具。危ないから触ってはいけないと、父親に言われいた。

「来ないで、来ないでよ……」

 駄目だ。

 それを、手に取っちゃ、いけない。持っては、いけない。

「あなたが、終わらしてくれるの?」

「来ないで、来ないでよぉ……」

 来ないで、来ないでください。笑顔のまま、笑って、傍に来ないでください。

「ありがとうね、智明……」

 近寄らないで。離れて。嫌なんだ。離れてくれよ。頼むから。お願いだから。

「やだ、やだやだやだ……」

 来るなっ! 来るなよ! お願いだから、それ以上近づくな!

「智明……」

「うわああああぁぁぁ!!」

 それは、まだ体感したことのない感触だった。

「あ……」

 母親の腹部へと、深く突き立てられた凶器。そこから溢れ出る液体は、男の子の左腕を伝っていく。

「あ、あぁ、あああぁ……」

 手首から肘へ伝っていく。その感触は、感覚は、男の子の意識を蝕んでいく。

 僕は、いったい、何を、したんだ。

「智、あ、き」

「ご、ごめ、ごめんなさい……」

 悪いことをしたら、謝らないといけない。その教えは、目の前の人から教わった礼儀で。男の子は必死に、声を震わせながらも謝罪を口にする。

「ありがとう……んっ、あっ」

 母親の口から、赤い液体が漏れて、伝う。その雫は、男の左腕へと落ちた。

「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「ありがとう……ありがとう……ありがとう……」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

「ありがと、う……―――――――――――」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」

 先に終わったのは、ありがとう。

「あ……ああ、あああ……!」

 後に残ったのは、血を流し倒れ伏す両親の体と。

 母親を殺すために動いた、血塗られた左腕を持つ。素直で、優しかった男の子だけだった。



 目を覚ますと、俺はベットの上に横たわっていた。

「智くん、目が覚めた?」

「……春、子?」

 ベットの傍には春子が涙を目に浮かべて椅子に座っていた。 

「ここは、どこなんだ?」

「病院。智くん、路地裏で倒れてたんだよ?」

 ああ、そうか。だから俺は、ベットの上に横になって。涙目で、いまにも泣き出しそうな春子が傍にいて。

「左腕が、血だらけの状態で……」

 左腕に、何重にも巻きつけられた包帯があるのか。

「傷自体は、それほど。でも出血がひどくて、当分は入院をした方がいいって」

「そうか……」

 元より痛覚は正常に機能はしておらず、痛みは感じない。

「……聞かないのか?」

 春子は俯いたまま、俺の質問には答えなかった。それでも、俺は言葉を続ける。黙ったままでいるのが苦しく、辛かった。

「明らかに異常だろ? 自分の腕を落ちてた角材で無理矢理裂いたり、叩きつけて折ったりなんて。狂ってるんだよ。昔から、壊れてるんだ」

 いや、壊した。自分の意志で、俺はこの左腕を壊したんだ。

「そんな、こと……」

「……昔、俺は家族を殺したんだ」

 限界だった。これ以上、自分だけで事実を抱えて、罪に苛まれるのは。

「裕福な家でさ、それなりに満ち足りた生活をしていたんだ。望めば欲しいものは何でも手に入ったし、両親も優しかった。友達もたくさんいた。お金があるだけの裕福じゃなくて、心も、裕福だった。毎日笑ってたよ。楽しくてしょうがないんだ。毎日が楽しくて、楽しくて……」

 笑わなかった日なんて一日もない。いつでも笑顔でいられた。辛いことなんて一つもなくて。

「……幸せだった」

 何の確証もない、未来の存在を夢見ていられた。

「けれど、突然親父の会社が倒産して、社長だった親父に莫大な借金が残った。そこからは見事にお手本みたいな転落だったよ。親父は金のために犯罪を繰り返しては捕まり、どんどん堕落していった。そんな生活だったから、一家心中なんて考え付くのも時間の問題だった。ギャップがすごかったからな、何も不自由しない生活から、何から何まで努力して、頑張らなければならない生活なんてできなかったんだ。だから、無残に崩壊した」

 幸福から、不幸へ。転落していく過程は、驚くほど早く、いくつもの手順の飛ばしているかのようだった。

「ここからは更にきついぞ? 聞きたくないなら今のうちにやめてと言ったほうがいい」

「……言わないよ。わたしが、一番知りたかったことなんだから」

 服の袖で乱暴に涙を拭って、春子がそう答えてくれた。

「話して。智くんが少しでも楽になれるなら」

 目元を赤くして、下唇を強く噛んで、明らかに涙を堪えているような必死さで、先を促してくれた。

「……わかった」

 目をつむり、大きく深呼吸する。脳にこびりついた記憶を丁寧に剥がしていく。大丈夫。できる。落ち着け。

 意識して思い出さなかった記憶を、意識して思い出す。これは、思っていたよりも大変な作業だった。

「あの日は、風の強い日だった。親父が刑務所から仮出所した連絡を聞いた母さんが突然、ピクニックに行こうと言いだしたんだ。俺はその日、友達と遊ぶ約束をしていたが、久々に親父に会えることが嬉しくて、そっちを優先することにした。準備をして、俺たちは出かけた。あの時はどうして鍵をかけなかったのかわからなかったが、今ならわかる。もう自分達は帰ってこないつもりだったんだ。盗られて困るような物なんてもう、なかったしな。死体が見つかった後、家宅捜査しやすくとか……そういう理由もあったんだろうな」

 死体という明確な死をイメージさせる単語が出たとき、春子の体が強ばった。

「……続けて」

 春子が過去の、母親の死の出来事を受け入れたのは最近だ。まだ死そのものにについての抵抗はあるだろう。

 それでも、震える体で先を促す。その決意に俺は頷き、続きを語る。

「車に乗って、結構な距離を移動した。長い時間だった。着いた時にはもう日は沈んでいて、辺りは真っ暗だった。真っ暗な闇の中、母さんが少しでも俺が楽しめるように、歌を歌ったんだ。どんな歌かはもう、思い出せない。とにかく、その歌のおかげで少しはピクニックらしくなったのは覚えてる」

 ただただ、嬉しい気持ちで一杯だったことを覚えてる。

「そうして歩き続けて、親父に会った。痩せこけていて、不健康の固まりみたいだった。一言二言、俺は親父と会話して、すぐに母さんに離された。その時の母さんはすでに、包丁を持っていた……そこからは、地獄だった」

 楽しいピクニックが、終わりを迎えた瞬間だった。

「親父の首から血が、本当に噴水のように吹き出して、その血が母さんを赤く染めていって。母さん、泣いていたよ。やっぱり辛かったんだろうな。覚悟をしていたとはいえ、現実の冷たさは変わらないからさ」

 泣きながらも、こうするしかないんだって、何度も、何度も自分に言い聞かせるようにしていた母親の姿が、簡単に脳裏に浮かぶ。

「もう訳がわからなかった。何度もどうして、どうしてって繰り返して、血を吸い込み続ける地面に横たわる親父の肩を揺すっていた。そうしているうちに、母さんはすぐ背後にいた。謝りながら、涙を流して、俺を殺すために。気が付いたら、俺は母さんを突き飛ばしていた。母さんはよろめいて尻餅をうち、包丁を落とした。とにかく、このままじゃ危ないと、俺は包丁を左手に取って……」

 ここから先が、今の俺を形成した事実。認めたくない過去。

「俺は……母さんを……」

 かさぶたを剥がし、傷を鋭利な意志で抉る。

 痛くて、痛くて、体が震え上がる恐怖が、全身を覆うひどい吐き気が湧きあがる。

 それでも、語る。

「ああ……」

 深く深く、息を吸う。

「俺は母さんを、刺したんだ」

 ズプリと飲み込まれる銀色。そこから吹き出す赤。流れ出て、一面を染めた色。命の色。その色に母さんを染め上げたのは、俺だということ。それを俺の過去と認め、自分の罪に、感情が爆発する。

「――母さんを、殺したんだっ」

 もう一度、声を上げ、自分の罪を口にする。

「保身のために、迷いなく母さんを殺した! 肉親を! ただ一人の大切な人を自分の意志で殺した!!」

「智、くん……」

「そうだよ! 俺は近江の言う通り人殺しだ! 正当防衛だとか、そんなの関係ない! 俺が殺した事実は変わらない!」

 自分が生き残るために、実の母親を殺した。それが俺のしたことだ。事実で、結果なんだ。

「そのあと俺は狂ったように左腕に包丁を突き立てた!! 許せなかったんだよっ! 母さんを奪ったこの腕がっ!!」

 今も尚俺を苦しめる、母さんを殺したこの左腕が。

「智くんっ!」

 優しく、力強く、温かい手のひらが、左腕に巻かれた包帯を剥がそうとする俺の右手を握っていた。

「……これから、とっても最低なことを言うね」

 春子は笑っていた。静かに、包み込むように。まるで、我が子に語り掛ける母親のような笑み。

「確かに、智くんは人殺し。それは決して覆せなくて、どうしようもない事実」

 わかってる。そんなことはわかってる。だから俺は、自分が救われることが許せない。自分を、幸せだと思えることが我慢ならなかった。

 俺に、母親を、大好きだった母親を殺した俺に。そんな資格があるのかと。いつでも、この左腕がそう囁いている気がしたんだ。

「それでも、わたしはその人殺しに救われたんだよ? 智くんがお母さんを殺してしまって、孤児院に来ることになって、そしてわたしは救われた。わたしは智くんに会えてよかった。辛いことがたくさんあって、その上で出会えたとしても」

 握り締められる右手に、春子の頬が寄せられる。その頬を伝うように、春子の涙が一筋、俺の右手へと流れていた。

 強く、強く。俺の右手は、彼女に握り締められていた。

「どんなに辛いことでも、それによって幸せになれる可能性はゼロじゃない。だから辛くても笑えるの。涙だって乾くの」

 右手を伝う春子の涙。それも、伝っていくうちに、滴は形を失っていく。

「過去が変えられないなら、わたしたちが変わるしかない。『辛い出来事があったから』、そう思えるようにしなさい。お婆ちゃんは、そうみんなに言ってくれたよ」

 その言葉は、俺にも聞き覚えがあった。けれど、その時の俺には、その言葉を真正面から受け止めることはできなくて。

「わたしは頑張るよ。わたしは過去に辛いことがあった。だけど、『だから』今、幸せに生きてる。そう思い続ける」

 けど、それは春子も一緒だったはずだ。でも今の春子は、その言葉を口にする。

 口に、できている。

「だから、ずっと一緒にいよう? きっとまた辛いことはあるかもしれない。それを避けることはできないかもしれない。それでも、二人で耐えていこう?」

 そっと、首に手が回された。顔が近付き、覆いかぶさるように抱き締められた。

 温かい、俺が守れたもの。

「……人殺しでも、ずっと笑ってていいのか?」

「智くんが笑いたかったら、笑えばいいよ」

「誰かの傍に、いてもいいのか……?」

「わたしがお願いしたいくらいだよ」

 視界がぼやけて、温かいものが瞳から溢れてくる。

「幸せでも、いい、のかな……?」

「うん、一緒に幸せになろうよ」

 抱き締められたのは、三回目だった。

 最初は、母さんに。暗闇が恐くて母さんの布団に潜り込んだ時。やさしく撫でられた。

 二回目は、婆ちゃんに。しわくちゃでカサカサの手のひらで何度も頭を撫でながら。

 そして今、俺はまた抱き締められている。

 俺を、受け入れてくれている。母さんを殺した俺を、受け入れてくれる。

「う、うあ、あぁ……ぁぁ……」

 そのことが、みっともなく嗚咽を漏らして泣き出してしまうほど、嬉しくて。

「よしよし」

 温かくてやわらかい手のひらが、頭を撫でる。

 何度も、何度も。往復する単純な動作。

 それなのに、心も、体も、震えて……。

「うあぁ、うっ、あああぁぁ……」

 それだけで、いつまでだって泣けた。

 今まで泣くことができなかった分も、全て。


魔女の家というフリーホラーゲームをやってて、驚きのあまり編集途中のこの文章を一回クラッシュしそうになりました。驚き振り上げた足がPC本体を蹴りかけたり。もうちょっと落ち着こうと思いました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ