三章 1
三章、飛坂智明を主人公に据えた物語です。幼い頃、あることが原因で左腕が全く動かすことができなくなった中学教師である智明は、同じ孤児院での生活を共にした幼馴染、御林春子と再会します。
彼が受けた過去の傷。それによる今の生き方。それが正しいのか、正しくないのかはさておき、お楽しみいただければ幸いです。
三章
暗かった。
暗くて、黒くて。ただ明るいものが欲しかった。
何も考えてなかった。光が見えたから、手にとって、闇にぶつけてみた。ただ、それだけだった。
何かがポタポタと滴り落ちる。生暖かい何かは、光を伝って僕に届く。僕の震える手は、見慣れないほどに鮮やかな赤色に染められていく。
生暖かい何かが流れ続けるだけで、それさえも、次第に、冷たくなって。
ずっと、聞こえていた言葉があった。
ある人は、ありがとう。
ある人は、ごめんなさい。
繰り返し繰り返し。何度も、何度も。耳にこびり付くように繰り返された言葉。そして、先に終わったのは『ありがとう』だった。
何も語らない、何も考えない。
何も、ない。
空っぽなのに、それは、とても重かった。
涙が出そうになるくらい、重かったんだ。
・飛坂智明
「重い……」
買い溜めした食料を入れたビニール袋を大量に持ちつつ、俺は家路を歩いていた。
スーパーで買い貯めした食料品が詰まったビニール袋。その持ち手が右手の指に食い込んでいる。重心のかかる位置を少しずらして痛みから逃れが、どちらにせよ持つべき重量は変わらない。顔をしかめながら、ようやく見えてきた自分の家であるアパートに歩を早める。
俺は一年前から、中学教師の仕事に就いている。担当は歴史、地理などの中学における社会科目全般を担っている。授業も、生徒との関係も特に問題はない。学校という特異は場所での仕事もだいぶ慣れてきた。が、まだまだやらなければいけない、覚えるべきものはたくさんある。
ある意味実力主義に近い職場で、俺のような若造はとにかく誠意を見せなければならない。元より、新人が仕事が出来ないなど当たり前のことだ。もちろん開き直るべきではないが、気負いすぎてより大きな失敗をしでかす方がずっと問題だ。開き直った分心労だって軽くなる。
それでも、俺が精一杯の力でやる仕事だって、彼らにとって既に習慣になっている。そんな職場で働いているから、否応なく焦りというのは湧き出てくるものだ。彼らにとって、『出来て当然』のことを俺は出来ていない。満足に子供たちをまとめることも、皆にいい点数をとらせてあげることも。
だったら、そのやる気を見せなければならない。一生懸命問題に取り組む姿勢。それだけでも、評価してもらわないと。
……まして俺は、こんなハンデを持っているのだから。
全く動かない左腕。指先も、何もかも。自分の意志では何も出来ない厄介な存在。痛覚も触覚もない。ただ俺の体に繋がってぶら下がっているだけの、俺の意思ではどうにもならない、俺の一部。
「……厄介だな、ったく」
愚痴を吐いたところで、この腕が動かせるようになるわけじゃない。嘆くことすら時間の無駄だ。
「あぁ、今日はさっさと寝よう」
食うもん食ってやることやって、すぐに布団に入り明日を待とう。築三十年のボロアパートの階段を、さっきまでの考えを振り払うように強気で上がる。錆の広がった階段に靴底が当たる度に、カンカンと耳障りな音がする。階段を昇りきって、俺の足は止まる。
そして、意識すらも、止まりそうになる。
「……は?」
栗色の髪をした女性が、俺の部屋の前で蹲っていた。
「は? と、え?」
俺が慌てふためいてる理由は知らない人間、しかも女性が俺の部屋の扉の傍でうずくまっているからではない。
胸の高さまで伸ばされた栗色の髪、それを一本の三つ編みにしてまとめた髪形に、見覚えがあって。
「……智くん?」
そしてその間延びした、柔らかいトーンの声にも、聞き覚えがあり過ぎて。
「……春子?」
俺が、もう振り返らないと決めた過去と共に捨て去った。
「智くん!!」
幼い頃を共に生きた、ひどく目障りにも思えてしまう幼馴染の姿だった。
*
小さい、まだ5,6歳の頃だ。
俺は両親を亡くした。
頼りになる親戚の中に、俺を引き取ることに名乗りを上げる者は一人もいなかった。そのことを不義理だとか言う者もいなかったぐらいだ。そうして天涯孤独の身となった俺は、遠くにある孤児院に入れられた。近くにある孤児院だと、すぐに俺は悪い意味で有名人になってしまうからだ。
孤児院には俺と同じように、両親を亡くした者。両親に捨てられた者、その他様々な理由で孤独を余儀なくされた子どもたちがいた。
孤児院は親がなく、他の保護者が現れない、最後の砦となる施設だ。好き好んで来た奴なんて一人もいない。当然、皆一様に悲しい過去を背負っている。
そんな悲しみに埋もれた場所で、俺は御林春子と出会った。
能天気で楽観的。いつも気が抜けたような立ち振る舞いの天然。(馬鹿とも言える)
けれどそれでいて、ただその場にいるだけで周りを温めるような、そんな少女とは違う。
どこか『母性』を持った女の子だった。
……だからこそ。俺は耐えられなかったのだろう。
「智くん!!」
「ぐふっ!」
突然飛び込んできた頭頂部が俺の鳩尾に突き刺さり、肺に溜まっていた空気が全部漏れ出た。
「智くん!? 智くんだよね!? わたしだよ? 春子だよ? 覚えてる? 久しぶりだよ~。ずっと会いたかったんだよ~」
こいつ、ちっとも変わってねぇ……。
「とりあえず、下りろ離れろくっつくな」
「わ~、智くんちっとも変わってない! 昔のまんまでぶっきらぼうだ~」
「いいからさっさと離れろっ!」
いつまでも俺の上に横ばいになる春子を、力任せに引き剥がす。
「きゃっ」
起き上がり、砂がついてしまった背中を手で払う。勢い良く打ち付けた背中と鳩尾に鈍い痛みが残るが、この程度なら想定内だ。
「……変わらないな、おまえは」
いや、見た目だけなら正直、驚くほどに変わっている。痩せたチビのような印象だった春子の姿は、どう贔屓目に見ても立派な女性の体となっていた。厚着しているのにも関わらず主張が大きい胸から目を逸らし、俺は自分の額に手を当てた。豊満な体つきのくせに、浮かべる笑顔は子どもの頃と変わらず、気が抜けるほど柔和で。
「……質問したいことが山ほどあるんだが。まず、どうしてここにいる?」
「どうして、って?」
「理由もなく来れるほど、近くもないだろ」
ここから孤児院まで、最低でも片道だけで半日はかかる。タクシーやら新幹線やら、色々な移動手段を駆使してやっと。当然出費も相当な額だ。
「ああ、ごめんなさい。言い忘れてたかも」
「いや、『かも』じゃないから」
いきなり、智くん! だったから。俺の言葉に少しも耳を傾けず、春子はぐっと身を乗り出して口を開く。
「わたしね、先生になったの」
「先生? 教師ってことか?」
春子のことだから、小学校の教員だろうな。孤児院でも小さい子の面倒見が良かったことを覚えている。
「うん、念願の高校教師だよっ」
「…………は?」
「だから、高校生の教師だってば、高校教師。わからない?」
「いや、わかる、わかるけどさ……おまえが?」
あまりにも不相応というか、なんというか。
どうしても頭の中の春子のイメージと、高校の教師としての春子のイメージが繋がらない。そもそも、高校で教鞭を振るう春子の姿が想像できない。
「……智くん、疑ってるでしょ」
「多少は。まぁ、わざわざそんな嘘つく必要があると思えないからな」
「本当なのに……」
「……その程度で泣くなよ」
唇を尖らせて、子どものように不貞腐れる春子の瞳は潤っていて。その水分が今にも目元から零れ落ちそうだった。
「……泣いてないもん」
「あー……はいはい。泣いてない泣いてない」
やっぱり、ちっとも変わってない。泣き虫で、意地っ張りで。昔のまま、変わらずにいれる存在。欲しがることを、自分を律することに長けようとした俺には、眩しすぎる存在。
眩し過ぎて、それがとても輝いて見えて、つい手を伸ばしたくなる。光を、掴みたくなる。
「……智くん?」
「え? ああ悪い。ぼーっとしてた」
「もー、め、目の前にこんな美人がいるんだよ? 他のことなんて考えちゃダメだよー」
と、どこが芝居がかった口調で言われて、違和感を感じないわけがない。
「……おまえ、それ誰に言えって言われた?」
「えっ!? ど、どうしてそう思うの?」
「おまえは昔から自分で自分を誉めるような奴じゃなかっただろ。それと、妙に棒読みだったし」
大方、孤児院の院長である婆さんが俺をからかうために春子に言わせたのだろう。それで俺がどうなるっていうのだろうか。
何年も経つというのに、これほどまで変わらない人間が二人もいるのか。と辟易してため息を吐いていると、春子がジッと俺を見ているのに気づく。
「……なんだよ」
「うん、やっぱり変わってないよ」
「は?」
静かに歩み寄って、そっと抱きついてくる。
さっきの突撃とは違う。優しく、包み込むような。
「……ただいま」
震えた声での帰還報告。いや、震えているのは声だけじゃない。肩も、回された腕も手も。見えないけれど、足すら震えているのかもしれない。
……こいつにとって、俺と再会できたことはそれほどまでに嬉しいことなのかと。その事実が、懐かしい痛みを伴って、俺に直接突き刺さるように感じた。
「ただいまはおかしいだろ」
「ううん、合ってるもん…」
くぐもった声が、俺の胸の辺りから聞こえる。
「……そうか」
「そうなんですよ……」
春子のしがみつく腕の感触。胸に押し付けられた顔。染めてない、澄んだ栗色の髪から香る香り。
……抱きしめ返す権利は、俺にはないってわかってるから。
ただ、何をするでもなく、黙って春子が漏らす嗚咽を聞いていた。
*
……まぁ、とはいえ。解決しなきゃいけない問題はあるわけで。
「家がない?」
「うん」
とりあえず自分の家に上げて、そして単刀直入にこれからどうするかを聞いてみたところ。
『ああ、そうだった。泊めて?』
と、昔から変わらない、柔和な笑顔で言ってのけた。
その予想してなかった返答の真意を聞いたところ、家がない、などと更に予想してなかった答えが返ってきた。
「マンションの一室を借りたはずなんだよ、けれど行ってみたらもう住んでる人がいて。それは不動産屋さんの手違いだったからいいとして。あ、もちろんお金は返してもらったよ。それでどうしようってことになって、おばあちゃんに電話したら、智くんの家の住所を教えてくれたんだ」
中々言葉が出ずに黙っていると、春子が自身の失態をごまかすためか、また見慣れた笑顔を浮かべている。
……とりあえず、婆さん。個人情報保護法って知ってるか?
「まぁ、でも。涼御の家を紹介しなかっただけ、よしとするか」
「涼御の家って?」
俺がこの町に来てからの下宿先としてお世話になった涼御家。あの日々は……地獄以外の何者でもないというか、自分自身を見失うと言うか、自意識を持つ者は揃って廃人にされるというか……。
「……すまん、詳しく話したくないんだ」
「う、うん。わかった……」
……やめよう、思い出したくない。未だに思いだすだけで気が落ち着かなくなる。深く、相当深く呼吸をして気分を変える。
「……事情はわかった。けどな、さすがに色々問題があると思うんだ」
「どんな問題?」
わざわざ説明を求める辺り、春子の貞操観念はあまり成長は見込めなかったようだ。
「その、だな。一応、俺たちはもう大人なわけで、それ以前に男と女なわけだ」
「けど智くんと私だよ? 別に問題はないと思うけど」
「世間一般がどう思うか、って話をしてるんだよ」
男女が同居をしている限り、そこに深い関係を疑うのが当然の反応で、防ぎようがない。中学校の一教師として、、根も葉もない噂に振り回されるような事態はごめんだ。だからといって、夜にもなってだいぶ時間が過ぎた中、春子を外に放り出すのも些か気分が悪い。
「今日だけだ。今日だけ泊まっていけ」
「……いいの?」
「自分から言っておいて、今更何を言ってるんだ」
「……智くん、わたしが嫌で、孤児院を出て行ったと思ってたから」
苦笑いを浮かべる春子から目を逸らして、口にするべき言葉に悩む。
悩んで、ようやく口にできた言葉は。
「別に、おまえだけが原因じゃない」
決して、春子の言葉を否定するものじゃなくて。
「……うん」
身の内の悲しみを必死に隠そうとして笑う。そんな春子の姿を見ることができず、俺は目を逸らして立ち上がる。
「明日も早いから、俺はもう寝るぞ」
「あ、うん。えっと、わたしはどこで寝ようか。押入れの中でもどこでも寝るよ?」
「もうここは孤児院じゃないんだ。寝る場所も充分にある。布団を用意するから待っていろ」
狭い孤児院のくせに、子どもの数は多かった。おかげで寝る場所にも困り、日替わりで押入れや廊下に布団を敷いて寝ることもあった。稼ぎはそれほど良くないにせよ、二人分の寝床を用意するぐらうできる。
「仕事が終わったら、町を案内してやる。その時にでも新しい家を見つければいいだろ」
「うん、ありがとう。智くん」
「……同郷の好だ。これぐらい構わない」
孤児院での皆との生活が、嫌だったわけではない。そんなことは決してありえないと確信できるほど、温かく、幸せな生活だった。だからこそ、俺はそこから離れるべきだと思った。
幸せに、慣れることが怖かった。
「同郷の好、ってだけなのかな」
「……それ以外に何があるんだ、馬鹿」
片手だけで布団を広げる俺を手伝いに、春子が立ち上がる。
「智くん、そうやって自分だけで何でもやろうとするところ、ちっとも変わってないね」
「おまえも、そうやってすぐ俺の手伝いをし出すところも、変わってないな」
左手のことをハンデだと思いたくなかった俺は、進んで自分でできることは自分一人の手でやるようにしてきた。それを毎回お節介に手伝いに来る春子。その図式は、孤児院にいた頃の定番だった。
そのことを、少しだけ懐かしく思えた。
*
「それじゃあ今日一日頑張れ。はい委員長、号令。早く」
教壇から見る生徒一人一人の顔が、妙に急いでいる俺の姿を見て訝しげに歪んでいる。
「き、きりーつ、礼」
素早くおざなりに礼をし、俺はスタートを切る陸上選手のような気持ちで教室を飛び出した。それもこれも、さっきから絶え間なく響く携帯のせいだ。
正確には、その携帯にひっきりなしに電話をかけてくる人物のせい。
「もしもし……」
『あっ、智く~ん。やっと出てくれた~』
えぐっえぐっ、と嗚咽の音と共に二十三才の女性の声が、電話口から響いてくる。
「仕事中なんだから仕方ないだろ。というか、今も仕事中だ」
今日は午前中に担当教科がないので、ある程度時間はある。だからといってのうのうと長電話していいわけではない。
『だって、だってぇ~』
「……とりあえず泣き止め。そして状況を説明しろ」
何かあったら連絡するようにと教えておいた番号だが、こうもすぐに連絡が来るとは思いもよらなかった。
『うぅ、えぐ……あ、あのね』
電話口でまだ響く嗚咽を黙って聞いていると、落ち着いてきたのか次第に説明を始めてくれる。
『ゴキブリが出たの~』
説明ではなくただの報告だった。頭を抱えて廊下に蹲る俺の横を、生徒が不思議そうに見ながら通過していく。
「……居間のタンスの上に殺虫剤があるから、頑張れ」
『む、無理だよ?』
俺だって、今から帰ってゴキブリを駆除するのは無理に決まってる。 と馬鹿正直に告げることはせず、根拠のない励ましをしておく。
「大丈夫、おまえなら出来るさ」
『だ、だって、動くんだよ? 黒いんだよ? 虫なんだよ?』
「山に住んでたんだから虫なんて慣れてるだろ」
毎夜光に誘われてくる蚊、ハエ、蛾、兜虫、その他もろもろ。好んで触れたいとは思わないにしても、抵抗はほぼない。
……下手したら食わすしな、あのババァ。
『けど、孤児院にいた時はみんながいたから……』
「……なるほどね」
そういえば、孤児院の皆で虫を追い払っている時、春子の姿を見たことがない。
『恐いよ……智くん……』
ため息を吐きながら、頭を乱暴に掻く。家の電話の子機を持ち、涙を浮かべる春子の姿が俺の脳裏には容易に描けてしまって。
「今から行く。安心出来るところで待ってろ」
立派な職務放棄、と思われても言い訳の仕様がない。まぁ、今は仕事もないわけだし、大丈夫だろう。たぶん。行って帰ってきて、休憩と称しても問題ない程度の時間で済ませればいい。
『……うんっ』
電話の向こうで春子が泣き止んだのがわかる。姿が見えなくても、春子のことなら想像することができた。
例え、一度捨て去ろうとした絆であろうとも。一度紡いだ関係はそう簡単に消えてくれない。
それぐらい、長い間一緒にいた幼なじみで、家族の、妹なんだから。
*
「つ、疲れた……」
重い体を引きずって、学校へと戻ってくる。春子を驚かせ騒がせたゴキブリは、俺が家のドアを開けた瞬間に外に飛び出て、そこをたまたま踏み潰すという末路となった。幸運にもさほど時間もかからずに用事を済ませられたとはいえ、余計に心労が溜まった結果に思えなくもない。最近見ないから油断していた。おそらくどこかから入り込んで来たのだろうが。
「そういや、北の方にはゴキブリはいないって聞くけど……」
つまり、気温が総じて寒いからいないということだ。校舎までの道のり歩きながら深く息を吐くと、その吐息は白く目に見えて揺らめく。この町の冬の気候は比較的穏やかではあるが、寒さは厳しく、風が吹くたびに冷気が身を竦ませる。
雪も、降らない。ただ寒いだけの気候。
「雪は、降らないか……」
白く白く塗り潰す優しい存在。灰色も、青も、黒も。
そして、紅でさえも。
「……忘れろ」
思い出すな忘却しろ。
掘り起こすたびに痛む傷。だったら存在そのものを、なかったことにするんだ。
第一、思い出したからなんだってんだ。過去は過去。不可逆の象徴じゃないか。今更思い出して、どうなるっていうんだ。
「早く戻ろう」
他のことを考える余裕がないくらいに仕事に没頭しよう。
大丈夫、そうやって生きてきた。これからだって、そうやって生きていける。
そう、自分に言い聞かせた。
そうやって、生きてきた。
*
「えーと、連絡は……明日家庭科実習らしいからエプロンとか忘れんなよ。後は、まぁいつも通りだ。寄り道は出来るだけしないように。面倒ごとは俺に回すな。自分で処理しろ。できなかったら学校に連絡しろ。委員長、号令」
「きりーつ、礼」
こうして、一日の仕事の約五割を終えた。この後は明日の授業の準備、各生徒の成績の評価などの雑務が控えている。
教師というと教室で黒板の前で授業をしているイメージが浮かびがちだが、実際はデスクワークが基本だったりする。授業の教材の確認、各生徒の授業態度の点数付け、その他諸々。慣れてくると授業を行いながらもささっとできることはやってしまう先生もいる。俺も見習うべきだ。
「さて、さっさと片付けちまうか」
と、残り少ないやる気を奮い立たせていると。
「やぁ、飛坂先生。お疲れさまです」
水を差すように響く声色が、耳に届いた。嫌気や嫌悪感を顔に出さないようにして振り向くと、整った顔立ちの笑顔が目に付いた。
「……お疲れさまです、近江先生」
近江宗治。俺と同期の新人教師。有名大学卒業、ルックスよし、成績優秀、なのだが。
「いやぁ、私は然程疲れてなどおりませんよ」
大仰に肩を竦め、口元を歪ませて笑う。
「教師として出来て当然のことばかりの仕事です、その程度で疲れなどしませんよ」
こう、一々勘に触る言い方というか、とにかくむかつく言い回しをしてきたりと、なんとも性格の悪い。
いくら外面がよかろうと、内面が悪ければ簡単に綻びを生み出す。子供はそういうのに敏感で、こいつはあまり生徒たちに好かれてはいない。それよりも敵視さえされている。どうしても誰かの上に立たなければ気が済まないタイプの人間だ。
「……そうですね、まったくその通りです」
同期だからもあるだろうが、それと生徒たちに人気のある(という話を聞いた)俺に対抗意識を持ってるらしい。
冷たくあしらうのは簡単だが、その後が色々と面倒になる。多少むかつきはするが俺だってもういい大人なんだし、我慢するべきだ。
「そういえば、午前中はどこかに出張でもあったのですか?」
「いえ、別になにもなかったですけど」
「そうなのですか? いやなに、急いで校門を抜けていくのを見たものですから」
「ああ……」
よりにもよって、こいつに見つかるとはな……。
「すいません、妹がちょっとした緊急事態に陥りまして」
嘘は吐いてない。孤児院ではみんな兄弟っていう決まりになっている。事実、妹のような存在だ。それ以上でも以下でもない。
「飛坂先生には妹がいらしたんですか」
「ええ、仕事の関係で地元から来たんですよ」
「では、今は飛坂先生のお宅に?」
「ええ、まぁ」
「なら、それは同棲ということですよね」
「……何を言っているのですか? 妹だと―――」
「私の記憶が正しければ、飛坂先生はある孤児院にいたと……」
ニヤリと浮かべられた笑みに、手にしていたペンを投げつけたくなる。
「……あんた」
初めから全部知っていて。
「ああ、すいません。デリカシーに欠けた言動でした」
わざわざオーバーアクションで謝罪するな。尚腹が立つ。
「……別に、気にしてませんよ」
どう生きようと直面する問題だ。一々気にしていては胃に穴が開く。それに、馬鹿にされたのが俺だけならいくらでも我慢できる。
「そろそろ仕事に戻らねばならないので、失礼します」
無理矢理話を打ち切って席を立つ。これ以上話を続けたところで、痛くもない懐を探られるだけだ。相手にとっては自分よりも格下と判断する証拠になりえるのかもしれない。胸糞の悪い話だ。
「妹さんと、仲良く」
まるで冷やかすような言葉が、背後から響く。
「……余計なお世話だ」
敬語など忘れ、俺はそう呟いて廊下に出た。
*
動かない左腕。
変わらない表情。
理不尽なレッテル。
『やーい、不良品っ』
『こいつは出来損ないって言うんだぜー』
『出来損ない出来損ない!』
『ほら、なんか言ってみろよー』
『無理無理、どうせ何も言えないもんなー』
『出来損ないだもんなー』
『俺こいつが笑ってるの見たことないな』
『違うよ、笑えないんだよな?』
『怒りもしないしー』
『仕方ないよ、出来損ないだもん』
『アハハハハハハハハ』
『そうそう、知ってるか?こいつ』
『人殺しなんだってさ』
『うわマジで? こえー』
『アハハハハハハハハ』
『じゃあ、出来損ないの殺人鬼ってことかー』
終わらない笑い声。
―――――歪んだ視界。
――――――血塗られた左腕。
*
「あー、運が悪かったね。たった今埋まっちゃったんだよ」
……九件目、敗北。内心で深々とため息を吐きながら、俺は春子と並んで不動産屋の自動ドアを抜けて外に出る。
「なんだこのタイミングの悪さは……」
仕事を終え、へとへとながらも春子の住む家を探し始めて、今に至る。幾つもの不動産を回ったが、中々条件に見合う物件が見つからない。その条件に見合う物件を見つけても、運悪く先に入居者が決まっていて話が着かない。
「物の見事、だな」
「そんなに条件は難しくないと思うんだけどなぁ……」
ため息を吐いても、状況はまったく変わらず、ただただ冬の風が体から熱を奪うだけだった。
「都会で生きていくのは、やっぱり大変なんだね」
妙なことを悟りだした。住む場所に困るというのは、都会で生きて行くことの大前提なんだから、そこから厳しさを悟るのは早計にも程がある。
「いや、たまたまだろう。そういう巡り合わせの時だってある」
「ねぇ、智くん」
「……わかってる」
寒空の下、安住の地を見つけていない春子を放り出せるわけがない。不本意ではあるが、今日も家に泊めるしかないだろう。それで何か問題があるっていうわけじゃないが、一応、男と女と性別が別れている。それに二人とも教師だ。生徒の模範となるべき立場の人間が、交際してるわけでもない異性を連日家に泊めるなどと、あらぬ誤解を招きかねない。
「とりあえず、今夜はうちに泊まれ、明日また探すことにしよう」
「智くんは、それでいいの?」
「いいもなにも、俺から提案したんだ」
「そうだけど……けど、智くん。昨日あんまり寝れなかったみたいだし、それってわたしがいるからじゃないの?」
「……その」
大正解すぎて、つい言葉が詰まった。
部屋は違うとはいえ、欲目なしでもとんでもない美人が同じ屋根の下悠々と眠っているのだ。それに、春子が悪いわけではなく、やはり春子の存在は思い出したくない自分の過去を思い返してしまう。そういった理由から、そのまま睡眠へと移行できるほど余裕はなかった。けど、徹夜なんてものはそう珍しいものじゃない。テストの採点とか問題作りとか、急いで終わらせなければならない仕事があるときなんか三徹ぐらいザラだ。
「おまえの所為じゃないから、気にするな」
「……嘘つき」
「嘘じゃない。大体、妹が同じ家で寝てるだけで眠れなくなるわけがないだろ」
そう、妹。同じ家に住んだ、たくさんの兄弟のうちの一人。たった、それだけのはずなのに。
「……そうだよね、妹だもんね」
どうしてこいつは俯いてしまうのか。
*
「フフフーン、フフーン」
無駄に軽快なリズムの鼻歌を歌いながらキッチンで何かをしている春子。
……まぁ、料理、なんだが。
「すぐできるからねー」
「あ、ああ」
……不安材料がいくつかある。
①春子は料理が壊滅的苦手。
今はどうだか知らないが、孤児院時代に春子が婆さんの手伝いをした時の夕食を思い出すと……どうしたって不安が過ぎる。
②冷蔵庫に入っていた食材。
ほぼ空だ。買い物に行く暇がなかったからこそ、じゃあ春子はいったい何を使って何を作っているのか。という不安要素。
③この異臭。
生物のようで酢の物のような、それでいてどことなく焦げ臭い。何をどう調理したらこんな素っ頓狂かつぶっ飛んだ香りを醸し出せるのか。
「もうすぐ出来るから」
「は? もう?」
「そうだけど?」
これから数時間ほど調理して、ようやくまともな香りになることを望んでたんだが……。
「できたよー」
無常にも運ばれてくる今日の晩飯。お盆の上に乗っている皿の中身を見て、目元を指先で揉む。色彩感覚に異常が生じたのかと、部屋を見回した後、もう一度お盆の上を見る。
……紫だった。何度見ても紫色だった。
「なぁ、春子。これ、何だ?」
「ん? シチューだけど?」
「……シチュー?」
「うん、シチュー」
……えっと、まずシチューの定義の確認をしようと、春子に見えないようこっそり携帯電話の辞書機能を起動する。
シチュー【シチュー】
肉や野菜をいっしょにバターでいため、調味料・香辛料を加えて煮込んだ西洋料理。
まぁ、肉や野菜が入ってるのはわかる。香辛料も入っている。バターもきっと入っているだろう。だが紫。完壁に紫。本来シチューに使うべき牛乳は入ってるとは思えない。あの白濁色が最早懐かしく思えてきた。
……いや、というか何で紫色なんだよ。俺の色覚がおかしいのか? 彩色ミスってるとしか思えないんだが……。
「いただきまーす」
「い、いただきます」
覚悟を決め、紫色の毒の沼をスプーンで掬い、口へ運ぶ。
「……あれ?」
「どう? おいしい?」
「えっと、その……」
なんというか、普通だ。うまくもないし不味くもない。中途半端な味。
こういうのって普通、とんでもなく不味いか、見た目に相反してうまいかのどっちかじゃないのか?
……なんてコメントし辛い。
「もしかして、おいしくない?」
「い、いやっ決して不味いわけじゃなくてだな! その、なんというか」
「……ぷっ、あははははははっ」
どうフォローするか言葉に迷っていると、春子が突然笑い出した。
「……は?」
「本当に変わってないよね、智くん。ははっ、あはは」
状況が飲み込めない俺を放置して笑い転げている。
「変わってないって、どこがだよ」
「たくさんあるよー。いつもぶっきらぼうぶってるのに、本当はとっても優しいところ。それを隠して、本当は明るい性格なのに、それも必死に隠そうとしているところも」
「……それは」
仕方ない、じゃないか。
本当なら、俺はこうして教師となって、子供たちの前に立つことすら、烏滸がましくすらあるのに。
楽しさや幸せを感じるたびに、どこかで警鐘が鳴る。それが許されるのか。おまえがそれを受け入れていいのか、と。
大切な人を犠牲にして生きてるおまえが、それを許容していいのか、と。
「他にもたくさんあるけど、一番はそこ。決してダメだ、ってわけじゃないけど、もったいないとは思う」
いつのまにか、場の空気が変わっていた。
春子は真っすぐ俺の目を見て、俺の答えを待っている。
「それは……」
言えない。言ってしまったら、俺は……。
「……無理に、言わなくてもいいよ? 私も、そういうこと聞かれたら困っちゃうし」
「あ、ああ」
その後は、ただ黙々と紫色のシチューを食べ続けた。味自体は普通なので、俺は鍋が空になるまで食べた。それを見て、春子が泣きそうになるまで喜んでいた。
*
「やっぱり、ダメ?」
「絶対ダメ」
時刻は深夜零時。いい加減寝ないと明日が辛くなる時間に、俺たちは互いに譲れない戦いをしていた。
「お婆ちゃんにも連絡して、正式に同棲することになったんだから。せっかくの大きいベットを一人で使うのももったいないでしょ?」
「同棲じゃない、同居だ」
と、このように。一緒に寝たいだなんてトチ狂った提案をしてくる春子を、言葉で宥めていた。
「だからダメなんだって」
「どうして? だってわたしたち、兄妹みたいなものなんでしょ? 兄妹だったら、一緒の布団で寝てたって問題はないでしょ?」
「いや、まぁそうなんだが」
むしろこうして、頑なに寝る場所を一緒にしない俺の方こそ、異性を気にし過ぎなのかもしれない。だが、春子を幼い頃から知っている俺には今の春子の姿は、扇情的に見えてしょうがない。女性の中でも、おそらく春子のスタイルはかなり良い方だ。そんな春子と布団を一緒にして、俺の心が休まると思えない。
そして、それを伝えたところで春子は納得してはくれないだろう。何年も会わなかったのに、春子の俺に対しての態度に全くこれっぽっちも変化がない。異性というより、家族なのだ。家族なのだから、一緒の布団で寝るぐらい普通だと思っている。
「とにかくっ、ダメなものはダメだ。ほら、もう寝ろって、明日からおまえも仕事だろ?」
「……うん、わかった」
わかりやす唇を尖らせて、渋々部屋を出ていく。ちなみに寝る場所は俺が居間で布団を敷いて、春子が寝室のベットを使っている。仕事の疲れを取るために買った、それなりに高級なベットを使われることに不満がないわけではないが、だからといってその逆も落ち着かない。
まぁ、それも今日で最後だ。もう春子が俺のベットで寝ることも、俺の家に泊まることもない。
「……俺も寝ちまうか」
居間のテーブルを隅に立て、孤児院時代からの愛用布団を敷いた。
「おやすみ」
壁の向こうから声が聞こえる。どこか寂しそうに聞こえるのは、俺の気のせいではないだろうな。
「ああ、おやすみ」
電気を消して、横になる。光のない真っ暗な部屋は、月も雲に隠れているのか、本当に何も見えない。
暗くて、暗くて、暗くて。
まるで、どこかで見たような真っ暗。
「……忘れろ」
思い出して何になる。傷を広げて何になる。耐えるんだ。俺たちは、何もかも耐えてきたじゃないか。
周りの重圧、未来への不安。
そして、自分自身の罪に。
だから、耐えろ。
何度も自分に言い聞かせながら、俺は次第に眠りに落ちていった。
*
「ん……」
瞼を通過して明かりが目に飛び込んでくる。その眩しさに顔をしかめながら、俺は目を覚ました。
「……あれ?」
どうしてこんな所で寝てるのか考え、思い至る。ああ、そうだ。春子が泊まってて、だから居間に布団を敷いて寝たんだった。居間だと窓から日差しが真っすぐ入ってきて、強制的に目を覚まされる間取りになっている。騒音を掻き鳴らす目覚ましよりはずっと気分よく起きられるから、起きるのに自信がない、酒を飲みすぎた後の翌日とかはそれなりに重宝してるが、生憎今は更に二度寝できるだけの時間的に余裕がある。
まぁ愚痴ってても仕方ない。起きたなら早く準備して――――。
「んん……」
「…………………………」
夢にしちゃ悪趣味だな。と都合よく結論付けてさぁもう一眠りだと枕に頭を乗せた辺りで、俺の思考が現実を受け入れ始める。いつのまにか俺の布団で寝ていた春子が、朝日を浴びながら寝入っていた。
冬なのに薄着で、大きく露出した胸元や、健康そうな太ももとかが朝の日差しを浴びて輝いていて。それがなんとも言えない色気を醸し出していて、朝の男の生理現象も手伝ったりして――!
「ってなに手を伸ばしてるんだ俺はっ!!」
無意識に春子に伸ばしていた右手を触れる寸前で止める。体の右側を下にして寝ていたからこそ、その右手の動かし辛さに違和感を感じて何とか触れる前に止められた。
「う、ん……どうしたの?」
目を擦りながら起き上がる春子。その際にも大きく膨らんだ胸が見え隠れしていて、って見るな。目を向けるな。
「どうしたの? じゃなくてだな。他に言うことがあるんじゃないか?」
「……ああ」
目を擦り、パッチリと目覚めた丸い瞳で俺を見て。
「おはよう、智くんっ」
満面の笑みで朝の挨拶をしてきた。
「ああ、言い方が悪かった」
部屋の隅に積んである新聞紙を一束取り、丸めて強度を高め、それを春子の頭に軽く振り下ろす。
「あいたっ」
「どうしておまえは俺の布団で一緒に寝てるんだ?」
「え? あれ?」
叩かれた頭を擦りながら、春子が首を動かして辺りを見回す。
「わたし、どうして智くんの布団に……?」
「それは今俺が聞いたことだ」
「え、えっと」
俺の布団に寝るようになった経緯を思い出そうとしてるのか、必死で唸っている。
「ん~~夜、三時くらいかな、目が覚めて……うん、喉が渇いたから水を飲もうと思って。そしたら、智くんが気持ち良さそうに寝てたから……」
「……そのままぐっすりと?」
「えへへ……」
二発目。今度はさっきよりも多少強く叩いた。
「あいたっ」
「昨日ダメだ、って言ったよな?」
「……はい」
悪気があってやったことではない。そんなことはわかっている。そもそも、布団に入りこまれたぐらいで長々と怒るのもおかしな話だ。春子が寝呆けた時の突拍子もない行動を忘れていた俺も悪い、ということにしておこう。
「さっさと着替えとけ。今日から仕事なんだろ?」
「……怒らないの?」
「もう散々怒っただろ」
「そうだけど、昔はもっと……」
「昔の話だ」
俺たちはお互いに子どもで。けど、俺は春子の兄としての役割が嫌でも付いて回っていた。その煩わしさから逃げ出した今になっても、兄妹ごっこを続けるつもりはない。
俺に、そんな資格はない。
「おまえだって、もう説教する側の人間なんだから、あとは自分で気付いて正してけ」
俺みたいな人間が何を偉そうに。と内心で自虐する。
説教というのは一方的に何かを言うというイメージがあるが、説教した側も、自分の言葉の意味、そして自分がそれを出来ているのかを考えることになる。
そうして人に偉そうに言ってるけど、じゃあおまえは完璧にできてるのか、と。
ある意味、説教する側もそれを再確認する。だから俺は説教という教師について回る行為が苦手だった。子どもの頃の自分ができていなかったことを、さも偉そうに語る。必要以上には、したくない。
「……うん」
怒られなくて落ち込む。そんなおかしな心情が読み取れてしまうほど、春子はありありと落胆していた。本当におかしな話だ。
……こういう煩わしさから、逃げ出したかったはずなんだかな。
どうしてか、胸の内に浮かぶのは煩わしさだけではなくて、ジクジクの気味の悪い感情があった。
罪悪感に似た、落ち着かない何かが。
*
次の授業の準備に向かうため廊下を歩いていると、どこか違和感のある光景が見えた。
「水夏、どうしたんだ?」
俺が担当をしてるクラスの一人、水夏沙紀が窓から外を眺めていた。どこか寂しげに見える表情に違和感を覚え、俺は声をかける。
「あれ? 飛坂先生?」
明るくて礼儀正しく、いつもクラスでは女子側のリーダーのような役割を担ってくれている。成績はまぁ、よくも悪くもなく。中の中といったところか。
「どうしたんだ一人で。いつも誰かといる水夏にしては珍しい」
「あはは、あたしだって一人になりたいだってあるんですよ」
そういって、確かにいつもと違う、どこか無理に作ったような笑顔を浮かべる。
「何かあったのか?」
「うーん、まぁ、確かに何かあったと言えば、ありましたけど」
「……大丈夫か?」
俺がこいつの担任となってまだ一年も経っていない。だが、教師として生徒の人柄や性格はある程度理解しているつもりだ。その数少ない情報の中でも、今水夏が抱えているであろう問題がどれほど大きいか判断はできる。
「……すいません、あんまり話したくないです」
「そうか」
「あ、別に先生のことが信用できないからとか、そんな理由じゃないですからね!」
わざわざ俺を気づかってか、慌ててフォローしてくれる。多少落ち着きのないところもあるが、こういう点は素直な美徳だ。養おうと思って養えるものではない。家庭や、環境によって培われていくものだ。
「そこまで深読みはしてなかったが、そんなにムキなって否定されるとそれはそれで怪しいな」
「ああその! ほんとに違うんですって!」
水夏はすぐに慌ててしまうというか、赤面症の気もある。もう少し冷静さを持てば、立派な大人に近づくだろう。
「冗談だって、そんなに真に受けるな」
「うう……」
「……まぁ、そうだな」
俺の言葉なんかが、彼女の道しるべになるかはわからないが。
「おまえが何に悩んでるかはわからないけど。若い内からそんな辛気臭い顔はしないもんだ」
「……はい」
「きっといつかおまえの悩みも解決してくれる奴が現れる。おまえの人柄は人を引き付ける」
「……そうですかね」
「まぁ、断言はできないけどな」
え? と意表を突かれたように顔を上げる。こうまで素直な反応を見せてくれるとからかいたくなるが、教師として程々にしとかないと。校内の噂の広まる速さというのは、田舎で噂が広まる速度と大差ない。
「けど、きっといるよ。ああ、きっといる」
どん底にいる誰かを、必死になって救い上げようとする人は、必ずどこかにいる。
運よく俺は、そんな人に出会えた。出会えたからこそ、一人で生きようという決心もついた。そして、一人で生きてきた。
「だからまぁ、きっとなんとかなる」
「そう、ですかね……」
おそらく、今水夏が抱えている問題は俺では解決できない部類だろう。別に面倒だとかそんな腑抜けた理由ではなく、俺はきっと水夏に対して何もできない。だったら、多少嫌がられようが励ましたほうがいい。というより、励ますしかない。
「……飛坂先生、あの、ご自身がえらいモテてるの、ご存知ですか?」
「…………は?」
急に何を言い出してるんだ、この子は。
「いえ、実際モテてるんですよ。あたしが知る限りでも、先生が好きだって子、けっこういますよ。まぁ、名前は伏せておきますけど」
「あ、ああ。そうしてくれ」
知ったところでただ困るだけだ。教師という立場で生徒と深い関係になるつもりも毛頭ない。
「あたし、ずっと不思議だったんです。どうして先生がそんなにモテるのかなって。いつも無愛想だし、口悪かったりするし、いっつも不機嫌そうな人が、どうしてモテるのかなぁ、って」
散々な評価だが、概ねその通りだ。自分でも、俺自身が途方もなくつまらなく、面白みのない人間なのか把握してる。だからこそ、水夏が口にした事実とやらが、腑に落ちない。
「でも、なんとなくわかりました」
俺が理解できていない理由を、目の前の彼女は理解できた、と言う。
「先生は、とっても優しい人なんです。優しくて、繊細な人。落ち込んでいる人がいたら、すぐに励ましてくれる。いっつも何でも冷めてようにしていて、けどその中身はとっても熱いんです。けどなんでか、それを必死に隠そうとしてる」
そんなことはない。そう否定しようとする口が、何故か動かなかった。
同じことを、似たようなことを、俺は最近言われた。
「滲み出てるんですよ。そういう、先生の気持ちが。だからそういうのを読み取っちゃった女の子は、気になっちゃうんだと思います。モテてるというより、関心が強い、なのかな。そういうのを、恋って言う子もいますけどね」
あたしはまだわからないんですけど。と、頬を赤らめ照れたように水夏は言う。
「……よく理解できない話だな」
優しいではなく、臆病。繊細ではなく、脆弱。
そう変換し直してみれば、驚くほど納得はできた。
「ほら、そろそろ授業始まるぞ」
「あ、はい」
話が思ったよりも長くなってしまった。次の授業の教材を取りにいかなければならないのに。俺は頭を掻きながら元々の用事を再開するため歩き出す。
「あの」
後ろから呼び止める声が聞こえ、首だけを後ろに向けて応える。
「どうした?」
「さっきの、あたしの悩みを解決できる人がきっと現れるってやつ」
「ああ、きっと現れるよ。きっとな」
「……それは経験則ですか?」
「……ああ」
「それなら安心ですねっ」
やっと、いつもの水夏らしい笑顔を浮かべて走っていった。
「……経験則、か」
……水夏が今経験してる事態が、俺みたいにどうしようもないほどまでに、ひどい事態じゃなければいいが。
*
机を整頓して立ち上がる。今日は案外仕事が早く片付いた。あとは職員室内ではなく、家に持ち帰ってもできる雑務だ。
職員室の窓の外を見ると、夕日が鮮やかなオレンジ色で照っていた。
「もうこんな時間か」
他の教員の方々に声をかけ、先に上がらせてもらう。職員室を出て、廊下ですれ違う生徒たちと別れを交わし、校内を出る。目的地は、学校の隣の敷地に建てられた病院だ。
週に一度。俺は左腕の定期検診のために病院に通っている。
俺はあることが原因で、左腕に大きな傷を負った。肩から手首にかけてまでいくつもの大小様々な切り傷や裂傷がある。そのせいで服はいつでも長袖だ。夏だろうが暑かろうが関係ない。数年経った今でも、傷跡は痛ましく、人によっては嫌悪感を懐くだろう。隠す方法は長袖以外にもあるが、多少季節外れであろうとも、我慢して長袖を着続ける方がいくらか自然だ。それに、もう慣れてしまっていた。
受け付けに来院を示すカードを出してから数分後。名前を呼ばれて、いつもの診察室に入る。診察室には、いつも通り、この病院の院長が、まるで子供のように丸椅子でくるくる回っていた。
「お久しぶりです」
「おー久しぶりー、元気にしてたか?」
フランクな口調で堅い印象はない。掴み所がなく、いつものうのうとしているこの男性が、この病院の院長だ。満永秋人、と書かれたネームプレートが、くるくる回っていた椅子を止めた院長の首からぶら下げられていた。
「どうだ、仕事にはもう慣れた?」
「そうですね。始めの頃よりはだいぶ慣れてきた、とは思います」
世間話をしつつ、動かない俺の左腕を診る。口元は笑っていても、左腕の傷跡を見る目は医者として十分なほどに真剣だ。
「……前にも言ったけど、この傷は消えることはないだろうね」
「それは、別にいいです」
かなり痛々しいから、半袖が着られないのが辛くはある。けれど、そんなことは些事だ。
院長は俺の左腕をゆっくり肘から曲げた。次に手首、肩と続く。
「やっぱり、痛くないんだね?」
「……はい」
軽くため息を吐いて、院長は左腕から手を離す。そして、その表情からは一切の笑みが消えていた。
「この前撮ったレントゲンと、今の君の左腕の状態から見て。間違いなく、君の左腕は完治している」
告げられる、事実。
知っていた、事実。
「そう、ですか」
自分でもわかっていた。血色はいいし、触れた時の感触や、熱い、冷たいといった感覚もある。
ただ違うのは、何年も動かさないでいたせい筋肉がなく、右腕より細く見えるだけ。
「そうなると、腕が動かせない原因は」
院長が考察するまでもなく、俺はその原因に心当たりがある。
「精神的なもの」
俺の答えを、院長は無言で首肯した。
わかっていた。それ以外に、理由なんてないことを。ただ、認めたくないだけで。
あの事実を、認めたくないだけで。
森の中。握られた手。冷たい銀色の光。粘つく、赤い。
そこまで思い出したところで、突然思考がぶれ、吐き気が走る。視界が段々暗くなり、何も見えなく――。
「おいっ、大丈夫か!?」
「え、あ、はい……」
肩に手を乗せられていたことにも気づかなかった。揺すられたことで意識を取り戻したのか、まだ頭はボーっとしていて。
「そうか……ったく、びっくりしたぞ。いきなりふらついたと思ったら倒れそうになって。貧血か? なんだったら検査の予約を」
「いえ、大丈夫です……」
これも、精神的なものだ。検査なんてしたって、意味はない。何も見つかるはずがないんだ。
「それじゃあ、今までありがとうございました」
早く終わらしたい。帰って、何も考えず眠りたい。まだ思考の隅にこびり付いている気がする残滓を、洗い流してしまいたかった。
「……ちょっと待て」
椅子から立ち上がり部屋を出ようとしたところで、背後からかかる静止の声。
「次はいつ来れる?」
「次って……」
もう腕は完治しているのだし、もう来る理由なんてないはずだ。
「動かせない原因が精神的なものなら、何か話すことで治るかもしれないだろ?」
「それは、カウンセリングというやつですか?」
「そんなたいそうなもんじゃない。ただの相談、世間話みたいなもんだ。嫌なら別にいいぞ。話したくないのならまったく構わない。それでも、時々でいいから顔を出してくれ。娘も喜ぶ。好かれてるからなぁ、おまえは」
「……考えときます」
好意に対しても、そんな返事しかできない。だって、これは俺一人で背負うべきものだ。
「……娘はやらんからな」
「そんなことを考えとくって言ったわけではないですよ。何歳離れてると思ってるんですか」
ふらつく頭でようやく絞り出した言葉を口にして、俺は診察室を出た。
*
『お母さん』
『なぁに?』
手を連れられて、歩いていた。
『これからどこに行くの?』
『……あったかい場所よ』
『あったかい?』
『そう、あったかい場所。そこにはね、お父さんもいるのよ』
『お父さんもいるの!?』
素直な、笑みを浮かべられていた。
『楽しみになってきたでしょ?』
『うんっ、早く行こうよ!』
『そうね、早く……』
笑っていて、気づかなかった。
『早く……』
*
学力テストの採点をし続けた手は、ひどく疲弊していた。赤ペンを放ってそのまま布団に横になる。前々から少しずつこなしていけば、それほど重労働にはならない雑務なのだが、最近は春子に関するゴタゴタが続き、まとまった時間を取れなかった。もちろん、春子に責任を負わせるつもりは毛頭なく、俺の見通しの甘さが招いた結果だというのは百も承知だ。
このまま寝てしまおう。と微睡んでいる時、壁越しに声が聞こえた。
「智くん、起きてる?」
「起きてたのか」
心なしか、声に元気がないように聞こえる。眠気による弛みではなく、ただ、重く沈んでいるような。
「どうしたんだよ。眠れないのか?」
その声色を不思議に思い聞いてみても、すぐに返事はなかった。
「うん」
やや遅れて聞こえた短い返事。その声も、いつもの春子とは違う、まったく似つかわしくない重い響きだった。
「だったらココアでも飲むか? 待ってろ、今入れてくる」
孤児院にいた時代でも、時折こんな風に沈んだ春子を見る時があった。そして、その時と同じような対処法を思い出し、ココアの粉末が入った袋を戸棚から取り出す。
「ねぇ、智くん」
「なんだ」
電気ポッドの中には二人分のお湯はなかった。沸かすにも、ヤカンは使わないほうがいいな。夜も遅いし、近所迷惑になる。
「聞いても、いいかな」
「何を」
「智くんが、孤児院に来る前のこと」
一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。
「……どうして、そんなこと聞きたいんだ?」
声が震える、喉がカラカラだ。視界はふらつくし、自分が今立っているという感覚さえない。
「知りたいから、じゃダメかな」
「……話したくない、と言ったら?」
「わたしのことも話すから、だから……」
どうして、こんなに必死に懇願しているのだろうか。
「昨日、わたしも聞かれたくないって言わなかったか?」
春子が作ってくれたシチューを食卓に並べた、あの食事の席で。おまえは、無理に言わなくてもいい。わたしも、聞かれたら困るから、と。そう言ったはずだった。なのにどうして、今になってその言葉を反故にするようなことを言うんだ。
「けど、知りたいから……」
俺たちは全員、傷を持っている。
深く傷つき、治らずにいる者もいれば、克服して前を向いている者もいる。
俺は前者だ。その証拠に、目に見える心の傷を持っている。
春子も、前者のはずなのに。
「……話したくない。おまえの話も、聞きたくない」
克服しなければならないことはわかっている。そのためには、自分一人で抱え込んでいるだけでは駄目だってわかっている。
それでも、恐いんだ。
扉が開かれ、春子が袖で流れる涙を拭いながら出てきた。
「ごめんね、智くん、ごめんね……」
「……謝るくらいなら聞くなよ」
泣かれてしまっては、もう責めることもできない。ただ心の底から俺を想ってくれて流した涙から、俺は思わず目を背けていた。
「わたし……智くんの力になろうって思ったのに……」
「いいから。俺は大丈夫だから」
いつまで経っても、泣き虫で、お人好しで、誰かの力になりたがる。それが、疎ましく感じるときもあるけれど、幾度となく、俺はその優しさに助けられた。
だから、今の春子の想いは、絶対に否定しない。
俺の傷を癒すために、自分の傷を曝け出そうとした、春子の想いを。俺は、否定なんかできない。
「俺は気にしてないから、もう寝ろって」
動く右手を、春子の頭に置いた。そのまま頭を撫でると、小さいながらも春子が頷くのを感じられた。俺も寝るとしよう。その前にコンロを火を止めようと台所に向かうと、袖が引っ張られているのに気付いた。
「春子?」
「……一緒に。一緒に、寝よ?」
頭を抱えたくなるが、唯一動かせる右手の袖は春子に摘まれている。
「だから、それは昨日も言ったが……」
「……お願い」
春子の体は震えていた。顔は青ざめて、瞳は虚ろで、何を映しているのかわからない。
いや、何も映していない。
「……ココア入れて来るから、先に待ってろ」
*
ようやく穏やかな寝顔を浮かべ、規則正しい寝息も聞こえるようになった。青ざめていた顔も今は落ち着き、震えも止まっている。だが、指先はしっかりと、俺の服の袖を摘んでいた。
春子は、俺が春子の過去について知っていることを知らない。孤児院で俺が春子の面倒を見ていた頃、婆さんにこっそり教えられていた。
この町は、春子の故郷だ。そして春子は昔、この町のある事件に巻き込まれた。
事件は、その日春子が両親と遊びに行った病院前の公園で起きた。
事件の詳しい顛末は知らない。知っているのは、その事件で春子は天涯孤独の身になり、あの孤児院にやってきたということだけ。
何年も経った今でも、春子の心を苛む傷の深さから、どれだけ凄惨な事件だったのかわかる。
その傷を抉り出してまで、春子は俺の傷を癒そうとした。
「ありがとう、な」
それは、心から嬉しい。けれど。
「無理は、しないでくれ」
心の傷は簡単には治らない。だから、みんな忘れようとする。傷口が開いたことを、傷跡が残っていることを、忘れて、なかったことにする。そういう治療とも呼べない処置が、一番痛みを生まず、後遺症も残さない。その考えは俺にも春子にも根付いていて、不必要にその過去の顛末に触れないよう生きてきた。けれど、春子は手を伸ばした。手を伸ばそうとした。
自分の傷跡を受け入れてまで、俺の傷跡を知ろうとした。
その意志は、嬉しい。嬉しいと、思ってしまう。けれど、そんな風にまでして、俺を救う必要はないんだ。
俺みたいな、人殺しを。
「あったかい……」
突然発せられた呟きに、一瞬体が硬直する。
「……寝言か」
春子は、あったかいと言ってくれた。この、何も生み出さないこの腕を。
嬉しい、なんて、思ってはいけない。その権利は、俺にはない。
俺みたいな人間を大切に思ってくれる彼女を、愛しいと思うことすら、おこがましく思えた。
*
「眠い……」
印刷室内に鳴り響く耳障りなプリンターの機動音煩わしく重い画なら、授業に使うプリントを印刷していく。出来ることなら今すぐ寝てしまいたい。隣で寝る春子の存在が気になって仕方がなく、十分な睡眠が取れなかった。何度も眠気覚ましのガムを噛んだりコーヒーを飲んだりするが、如何せん体の疲労は根強く、意識を緩ませていた。
「あ、飛坂。ここにいたのか」
人の声が聞こえ、多少気が引き締まるが、その声の主の姿を見た途端、またしても気が緩んでしまった。
「どうも、日比谷先生」
日比谷孝文、俺とほぼ同期の先輩教師だ。専門は国語。年齢も近いということもあって教師陣の中では一番俺を気にかけてくれている。
なんというか、少年がそのまま大人になったような人だ。
……限りなくマイナス方面の少年らしさを持った。
「なんかずいぶん辛そうだな。ちゃんと寝てるのか?」
「今日はたまたまですよ。普段はしっかり寝てます」
「……女か?」
「は?」
「女なんだな? 女絡みなんだな!?」
「え? いや、は?」
どうして俺は今、男に肩を捕まれ揺らされているのだろうか。
「ちくしょぉー! いつもいつもおまえだけおいしい思いしやがってぇ! 俺にも幸せくれぇぇぇ!!」
「……えっと、とりあえずうるさいんで一発殴りますよ?」
全力で泣いてる日比谷先生の顎に、吸い込まれるように決まるショートアッパー。
「ぺぶらぁ!」
「ったく、いったい何なんですか?」
「何なんですか? じゃねぇよあーもうこのイケ面こんちくしょー!!」
「いや、何を言ってのるかさっぱりです」
そもそも、なんでこんな怒り狂ってるのかがわからない。
「あの、すみません。思わず殴ってしまいましたが、大丈夫ですか?」
「それは別にいいんだよ!」
いいのか。
「俺が怒っているのはおまえがいっつも合コンで可愛い娘を持って帰っちゃっていい思いしてるってのに俺は同じ境遇の弟と傷の舐め合いをしてるうちにおまえは彼女とおいしい思いしてるのに怒ってんだよ!」
「怒りのあまり文脈メチャクチャですよ。国語教師としてそれはどうなんですか。というかよく噛みませんね」
「いいよないいよな!? イケ面は何やってもモテるしなっ」
こうなると、もう何を言っても聞かなくなる。本当に、この人は俺より年上なのか疑わしい。
「わかったから落ち着いてください。俺この後授業があるから、あまりお話してる時間はないんですよ」
仮に時間に余裕があったところで、今の日比谷先生と語る時間を取りたいとは思わないが。
「……キラーン」
日比谷先生は妙な擬音を口にしつつ、目線は今稼働中のプリンターに向けている。
「フッフッフッフ」
嫌な予感が脳裏を駆け巡る。いや、本気か、この人。
「一応聞きますけど、それは、脅迫ですか?」
不気味な笑みを浮かべて、プリンターのコンセントに手を掛けている日比谷先生に問う。
「さぁね、どうだろう」
プリンターの起動は案外時間のかかるもので、その後に印刷のやり直しなど出来る余裕はなく。当然、次の授業に支障を来たす。
「それが教師のやることですか?」
「教師といえど人間、欲望の前じゃ無力なのさ」
この会話を録音して教育委員会に提出したい欲求を抑えて、口を開く。
「……で、何すればいいんですか?」
「今日の合コン強制参加、おまえがくると向こうの集まりいいんだよ」
「……それだけですか?」
正直、拍子抜けだ。もっと突拍子もないことを言うかと思っていた。さすがに金銭関係のことで頼みごとをしてはこないが、「俺の彼女になってくれそうな女性を連れて来い」なんて無理難題を吹っ掛けられることもあったので警戒していたが、やはり腐っていても教師だ。それなりの常識は持ち合わせていたのかもしれない。
「プラスおまえの彼女連れてこい」
前言撤回こいつは最悪だ。
「彼女じゃないです」
「じゃあなんだよ」
「……妹です」
日比谷先生は俺が孤児院出身であることは知らないはずだ。そもそも、どうして近江がその事実を知っていたのか、それも気になるところではあるが。
「じゃあ、その妹さんも呼んでくれよ」
「嫌だ、って言っても無駄ですよね」
笑顔の不気味加減が、三割増しになることで肯定された。
「……後で電話してみます」
ため息とともに嫌々了承する。
とりあえず、全部プリントを印刷し終わってから、一人で万歳してる人の顔面を張り倒しておいた。
*
放課後。全ての雑務を片付けた俺は日比谷先生との約束(強制)を果たすために、春子の携帯に電話をかけた。こんな理由で使うのは甚だ不本意だが、連絡用のために携帯を買わせといてよかった。
『もっ! もしもし、智くん!?』
電話口から焦った声が聞こえてくる。どうしてこんな慌ててるんだ、こいつ。
「悪い、今仕事中か?」
『ううん! 今は大丈夫だよっ』
声が大き過ぎて、思わず携帯を耳から離す。春子の声は高いせいか良く響く。
「もう少し声量抑えられないか?」
『だって携帯って初めてだし!』
「今まで使っていた電話と変わらないから。いつも通り普通に喋れ」
『な、なんか緊張する!!』
「……いや、なんでだよ」
そこまで高尚なものでもないぞ、携帯なんて。仕方がない、この慌てようは無視しよう。数こなして慣れないとこいつはどうしようもない。
『そっ、それで、どうしたの!? わわわたしに何か用?』
……さて、どうしたものか。
正直に、「俺の先輩がおまえとおまえの友達と飲みたいって言ってるんだ」っと言ったとしよう。そうすると、警戒心というものが欠けている春子は事の重大さを理解せずにノコノコ来てしまう。
「いやな、中々評判のいい居酒屋を見つけたからさ、今日の夕飯はそこで済ませてしまわないか?」
とにかく、春子に別の用を作ればいい。日比谷先生には悪いが俺も適当な用事で途中で抜けさしてもらおう。
『あ……智くん、ごめんねっ。今日は他の職員の方たちが歓迎会をしてくれるから……』
「……え?」
『あっ、ごごごめんね、呼ばれてるから。それじゃっ、また家で!』
ツーツー、と無機質な音を聞いてようやく、春子の言葉を脳が理解し始める。
「なんで、残念だと思ってるんだ、俺」
別に、これでよかったはずだ。春子に別件があるから、今日の合コンでいらない心配をせずに済む。
「そうか」
春子が、俺との時間より、他の人の時間を優先したから。そんなこと、今までなかったから。
「ガキかよ、俺は」
仕方ないじゃないか、向こうのほうが早く約束したのだから、春子は簡単に、約束を破る奴じゃないってことも知ってるだろ。それに、最初に突き放し、置いて行ったのは紛れもなく俺の方じゃないか。何を、身勝手に落ち込んでいるんだ。
違う。落ち込んでいるんじゃない。落胆してるわけではないんだ。ただ、いつも俺の後ろに付いてきた春子が、成長し、離れていくことを、少し、寂しいと思っただけだ。
人は、いつまでも変わらずにいられない。痛みを感じ、苦痛を覚え、経験として貯めていく。そうやって成長をしていく。
俺が孤児院を出てからの数年、その間に、春子はたくさんの成長を経たのだろう。
それは、素直に喜ぶべきなのに。最初に置いて行ったのは俺のはずなのに。
今では、まるで俺が置いて行かれている気がして、うまく、喜ぶことができなかった。
*
合コンの開催場所は、商店街にある、最近出来た居酒屋だった。普段行くような古くさい雰囲気ではなく、バー風味の小洒落た店。値段もそれなりに高く、年がら年中資金難に陥っている日比谷先生にとって多少の冒険らしく、頻りに財布の中身を確認していた。その度にチラチラとこっちを見ているが、金を貸すつもりは毛頭ないので目を合わさないようにする。
俺と日比谷先生、それと何故かいる近江は店の前で女性陣を待っていた。
「あの、日比谷さん」
近江に聞こえないように、声量を下げて日比谷さんに声をかける。
「ん? どうした?」
俺の小声に合わせて、日比谷先生も小声で応対してくれる。
「どうして近江先生がいるんですか? 俺たち二人だけとは思いませんでしたけど」
昔、近江を連れて行った合コンを思い出す。
開始早々、自分の生まれの自慢。次に家族、生活、思想についての自慢と、とにかく自分を中心に話していた。もちろん、俺も日比谷さんも相手の女性陣も、黙って話を聞き続けることも出来るわけがなく、一人、また一人と帰っていったという嫌な経歴があるのだ。そして、近江自身に自分が原因だという自覚はない。このままでは、前回の再現になることは目に見えていたが、今回ばかりはありがたくさえ思っていた。近江が場を掻き乱す分、解散が早まってくれるのだから。
「そんなの、イケメンだからに決まってるだろ?」
あまりにもさらりと言ってのけられる。
「そ、それだけですか?」
「まぁ他に特に理由はないな。なんだ。もしかして嫌だったか?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「ならいいだろ。いやー、楽しみだ。向こうは美人揃いらしいからな」
この人は、男としては最低路線を突っ走っているが、人としては完成しきっている。人が心の底から嫌がることは絶対しないし、表に出さないだけで、思いやりや優しさも溢れている。
あと、基本的に人を嫌わない。周囲が明らかに敬遠するような人にでも気にせず接する。そしてその人の良い部分を救い出し、その面を表に出させて接していく。そんな技量を持った人だ。過大評価をしているつもりはない。だから、この人は憎めない。
……時と場合にもよるが。
「お、来たぞ。どうもどうも、こちらです!」
深いことは考えず、とにかく今はどうこの場を早々に切り抜けるか考えよう。まぁ、近江がいる時点で、二次会や三次会はないようなものだ。気楽に臨むとしよう。
と、結論づけた俺の視界に、見覚えのある人物の姿が映る。
「……智くん?」
驚いている春子の姿を見て、近江の存在が急速に疎ましく思えてしまった。
*
「おいおい、ドッキリかよ! んな遊び心見せなくてもいいのによ。でもグッジョブ。グッジョブ」
俺の両手を右手を思い切り掴んで目に涙を滲ませてる男から目を逸らし、内心深々とため息を吐く。
女性陣の面子は、春子の勤務先の女性教師たちだった。年齢はそれなりにバラけているが、雰囲気はまるで同年代の友達のようだ。
ただ、俺が浅はかだったのかもしれない。いや、だからといって新任教師の歓迎会が、他校の教諭陣との合コンだとは思うわけがないだろう。予想さえもしてない事態に、まだ大してアルコールを入れてないにも関わらず、眩暈がしてきた。
合コンは始まったばかりで、今は恒例の自己紹介。おかしなことを言って笑かそうとする日比谷さん(もちろん滑った)。そして自己紹介がただの自慢に移行しつつある近江の番がようやく終わる。そのおかげで平常に声を発せられる程度には回復した。
「飛坂智明です。よろしくお願いします」
隣の日比谷さんから「つまらないぞー」と小声で野次を飛ばされるが無視する。別に場を盛り上げようとか考えてない。
むしろ、どれだけ早く切り上げて、春子を連れて帰るか。それが一番重要な問題だ。
俺が悩んでいる間にも各々の自己紹介は進んでいき、春子の順番が回ってきた。顔を緊張で赤くした春子が立ち上がる。
「えっと、初めまして! 鷺宮春子です…」
こういう場に慣れてないんだろう。声は小さいし俯いている。ハキハキと自身ありげに自己紹介をする春子の姿を想像できない俺にとって、慣れ親しんだ光景ではあった。
「ちょっと御林、そんな緊張しなくていいのよ?」
「授業はちゃんと出来てるじゃない」
「そ、そうなんですけど……」
子供相手、だからだろう。孤児院では自分の年より下の者の面倒を見るのが当たり前のことだ。だから、まとめることには慣れているし、教えることに関しても問題ない。
「緊張しちゃって、えへへ」
照れ隠しに笑う春子。そして、それを恍惚の表情で見つめる日比谷先生。
「……最高だ。最高だよ君の妹さんはぁ~~~!」
「は、はぁ……どうも」
いつになくハイテンション過ぎて、視界に収めるのも億劫だ。目をそらして、おざなりに返事をしておく。
「妹? じゃああなたは春子のお兄さん?」
日比谷先生の気色悪い雄たけびを聞いた女性陣の一人が、俺に向けて質問をしてきた。無視をするわけにもいかず、作り笑いを浮かべて顔を向ける。
「ええ、まぁ。落ち着きのない妹です」
孤児院に住むものは皆家族、が信条だったし、嘘ではない。
「顔は、あんまり似てないですよね」
「兄弟の顔が必ず似る、というわけではないでしょう。そこまで珍しいことではないですよ」
状況を理解できていない春子は、頭に疑問符を浮かべていた。実際、兄弟で顔が全く似ないことは珍しいことでもなんでもない。だから、今この場で俺と春子の本当の関係が明るみに出ることはない。
俺に向けてあの醜悪な笑みを浮かべているあいつを、黙らせることが出来たら。
「いらないこと言わないでくださいよ」
小声で隣に座る近江に言う。
「はて? なんのことですか?」
とぼけ方がいちいち腹立つが、どうやらこの場で公言することはなさそうだ。
……まぁ、それでも用心して損はないよな。
「すいません、ちょっと電話が」
そう言って立ち上がるときに、周りには気付かれないくらい自然に春子にアイコンタクトを送る。
おまえも来い、と。
店の外で待つこと三分程。妙に落ち込んだ、親の説教を待つ子供のような春子が店を出てきた。
「智くん、怒ってる?」
「は?」
怒ってないどいない。が、そう聞かれて俺は自分の浮かべていた表情がいつもより一層険しいものになっていたことに気づく。自分を取り繕わなくていい状況になった途端、現状の厄介さについ顔をしかめてしまっていたようだ。
「別におまえに怒ってるんじゃなくて、俺の連れに不満があったんだよ。おまえは何も悪くない」
「そ、そうだったんだ」
安心したらしく、深く息を吐いた。
「第一、今日おまえは怒られるようなことしてないだろ?」
「けど、智くんのお誘い断ったし……」
そんなことで不機嫌になるなんて俺は子供か。
いや、不機嫌にはならないしても少し落ち込んだ、か。妙なところでまだ子どもの部分を持っている自分が、情けなくなる。
「そんな理由で怒るわけがないだろ」
「そうだよね、智くん優しいもん」
「……いや、そんなことは関係ない」
そもそも、俺は優しくなんてない。本当に優しい人間は、春子のような善人の笑顔を曇らせたりしない。
俺は出来るだけ短く、近江がどういう人間かを話した。とことん性格が悪いこと。俺たちの関係を知っていること。同居していることを知られている以上、下手なことをしたらそれを理由に根も葉もない難癖をつけられることがあるかもしれない。
……あいつは、そういうことを平気でする奴だ。
「だから気をつけておいてくれ。警戒して損することはない」
「う、うん。そうだよねっ。わたしと智くんが同棲してるのがバレちゃったら困っちゃうもんね」
「何度も言わせるなよ。同居だ、同居」
同居と同棲は意味合いが違う。教育に携わる仕事をしてるなら日本語は正しく使って欲しい。
「そもそも、これって歓迎会なのか?」
「え、違うの?」
いや、合コンだよ。とは言えなかった。歓迎されてることには変わりない、とは思うが。
*
歓迎会ではなく、合コンという名の飲み会が始まって早一時間。さっそく玉砕した日比谷先生を嫌々ながらも慰めている時。
ついに、動き出した奴がいた。
「へぇ、それじゃあ今年からなんですか」
春子のグラスが空になったのを見計らって、近江がビール瓶片手に接近していた。そのタイミングはひどく自然で、前々からチャンスを待っていたとしか思えない。
「ええ、ですからまだ右も左もわからなくて……」
一応春子も警戒はしているようではあるが、心配になってくる。
「あの、どうかしましたか。妙にそわそわしているし……ああ」
隣に座っていた女性が、俺の視線を追う。そしてニヤリと笑ったところを見ると、妙な勘違いをされてしまったようだ。
「心配なんですか?」
「え、ええ。まぁ」
と言っても、心配の内容としては相違があるが。微笑ましい、と思ってるような笑みを浮かべられる。滲み出る包容力のせいか、実年齢より上に見えた。悪い意味ではなく。確か、春子とそう変わらない年だったと思う。
「ああ見えて春子ちゃん、結構しっかりしてるから大丈夫ですよ」
「そうですか?」
普段の生活から考えると、とてもじゃないがそうは思えない。天然で、いつも一歩足りてない奴だからな。
「職場での春子は、どうでしょうか。まともに働けていますか?」
俺の想像だと、何もないところで転んで書類ぶちまけたり、生徒にからかわれて顔を真っ赤にしてる感じなんだが。
「そうですね。先程も言ったとおり、真面目で、良い先生をやれていますよ」
「……本当ですか?」
「なんで疑ってるのかは知りませんけど、本当ですよ?」
正直、信じられないが。この人が嘘を吐いてるとは思わない。
だが、あの春子が? 歩いていて転ぶ確率三割で、走れば八割に跳ね上がる春子が? 「おまえって天然だよな」と聞いたら「私はお婆ちゃんに育てられたから養殖だよ~」と曇りのない満面の笑顔で的外れな返答をするあの春子が?
「そんなに信じられませんか?」
「そう、ですね。俺が知ってる春子は、とてもじゃないですが、教育者というイメージはなくて」
どうやら、そんな心情が表に出てしまっていたらしい。誰かの面倒を見る、世話をする。そういった春子の姿は想像できない。いつも、俺の後ろに隠れて怯えている。そんな姿しか俺の記憶の中にはない。
俺が孤児院を飛び出し、隠れる存在を失った春子がその後どう暮らしてきたのか、俺は知ろうともしなかった。
「大丈夫ですよ。性格からか生徒にも好かれているし、あんなに一途な娘は滅多にいません」
そういった春子の一面を、俺が知らないだけかもしれない。よくよく考えてみれば。俺ってそんなに春子のことを知っているか?
泣き虫で、いつもほんのり弱気で、そのくせ意地っ張りで、臆病で、いつも誰かの背中に隠れていた。
けどそれは、春子という一人の女性を形成するほんの一部だけかもしれなくて。俺はただ、その一部分だけを、春子として認識しているだけなんじゃないか?
「お兄さんは心配性なんですね」
「……お兄さん?」
「はい、お兄さん」
女性の指はしっかりと俺を指している。
……そうだよ、俺は春子の兄じゃないか。なに聞き返してるんだよ。自分で作り出した設定に、俺が踊らされてどうする。
どうしてか、ひどく落ち着かない気分だった。霧のようで、それでいて強い粘着質をもった何かが、胸の周りにまとわり付いている感覚。
そんなもやもやした気持ちを払うように、俺はジョッキに並々注いだビールを、一気に飲み干した。アルコールが喉を焼き、苦味が口一杯に広がる。
「な~んかな~、視界がぐるぐるするのよね~」
情けない声をあげながらフラフラと危なげなダンスを踊っているいい年したオッサンが一人。妙な動きをしながら俺になだれかかってくる。
それからは、終始酔っ払いの相手をすることとなった。回らない呂律ではしゃぎ回る日比谷先生を他の女性陣の力を借りつつ宥めていたから、俺に向けられた視線に気づけなかった。
近江が俺の様子を一瞥して、口元を歪め笑っていることに、気づけなかった。
*
酔い潰れた日比谷先生を肩で担ぎ、店を出る。外はすっかり夜になっていた。
「今日はありがとうございました。すみません、こんなグダグダなお開きになってしまい」
「こちらこそ、楽しかったですよ」
幹事の言動が正常ではない、途中から明らかにグダグタな進行具合だったはずなのに、女性陣は不満な顔一つもせずにいてくれた。
「あぁ~、ダメ、吐きそう……」
「こんなとこで吐こうとしないでください」
俯こうとする日比谷先生の顎を持ち上げ、嘔吐を阻止する。ここにいたままじゃ、いつリバースするかわからないな。早々に退散して、面倒極まりないが家まで送るとしよう。
「すいません、今日はこれで。本当に、すいませんでした。春子、先に家に」
――って。ちょっと待て。
「あの……春子はどこに……」
そして。
何故近江がいないんだ?
「あの二人なら用があると言って帰りましたけど……」
足りなかった。
警戒心も疑心も不信も。
「……これ、お願いします。適当に駅前に放っておいてかまわないので」
今だに上を向いて唸っている日比谷先生を地面に放る。慌てている女性陣には悪いが、今はそんなことを気にかけてる場合じゃない。
左手を振れない不恰好な走りで、俺は駆け出した。
ちなみに、一応一章に出てきたキャラクターの全員のキャラデザはあります。ちゃんと絵師さんに描いていただいたかっこ可愛いものが。機会があればぜひお見せしたいものです。
あと、春子さんのデザインはありませんが、イメージとして「Canvas3の千種奈々美先生」を思い浮かべていただければ。いいよね、あの人。シナリオも一番好きです。ED曲Ducaさんだし。