二章 3
二章のテーマは「家族」だったはずですが、当時のメモ帳を見ると「忘却」になってたり。過去の自分との意思の疎通ができずにコロコロ設定が変わっていてよくまぁ書き切れたなとは自分でも思います。質については置いといて。
確かこの辺りからプロットの重要性を知った気がする。
それからの日々はあまりにも楽しすぎた。現状の問題は解決できた沙紀は、学校に行くようになった。帰りに山小屋に寄り、僕と他愛もない会話をして、家に帰り父親と過ごす。
僕は家に帰ることはないが、学校には行くようになった。沙紀が早く終わった時にはうちの学校の校門に、僕が先に終わった時には沙紀の学校の校門に、と待ち合わせをして放課後を一緒に過ごした。沙紀の父親、琢己さんも僕を誘って夕食をご馳走してくれたりする日もあった。さすがに、水夏家に泊まったりすることはなかったけど。
琢己さんは僕たちの関係を快く迎えてくれた。告白しあったわけでもなく、一緒にいる男女。「まだ付き合ってないのか?」などと僕たちの関係をからかい、沙紀が真っ赤になって否定する。その反応がおもしろくて父親が笑う。「優も何か言いなさいよ!」と僕に言ってくる沙紀が可愛すぎて僕も笑う。
幸せだった。沙紀が笑って僕も笑う。たったそれだけのことで、世界に光が満ちたような錯覚。温かくて、暖かくて。そんな世界が幸せすぎて。僕が今まで大切にしていたものを忘れてしまうくらいに。
幸せだったんだ。
*
気温も次第に暖かくなり、山に積もっていた雪も溶け始めた頃、僕は未だ、山小屋で生活をしていた。
「もうそろそろ春か……」
僕は二年生になり、沙紀は新入生として入学してくる。なんだかもっと楽しくなる、そんな予感がした。
「はぁ~……」
山小屋の椅子に腰掛けていた沙紀が、突然深々と溜息を吐く。
「……なんで溜息?」
湧いた予感が、一瞬で溶けてしまう。
「だって優が先輩になるだなんて……はぁ」
「何考えてるかわからないけど失礼なこと言ってない?」
「だってそうなると優に敬語を使わなきゃいけなくなるじゃない。なんか釈然としないし」
……冷静に考えるとひどい言われようなんだけど。僕はそれだけ気楽に接してくれる間柄なんだという、言外の意志を感じ取れて、むしろ嬉しく思う。
「別に、いつも通りでいいよ。今更敬語使われたって逆に対応に困るよ」
「だっ、だって……その……学校で敬語も使わず話してると……その……」
なんか熟れたトマトみたいに真っ赤になってる。表現がベタだけど本当にそのくらい赤い。
「つ、付き合ってる……って思われちゃうし……」
「……ああ」
この数日一緒に過ごしてわかってきたけど、沙紀はかなりの恥ずかしがり屋だ。からかったりするのは得意だけど、その逆はまるっきりダメ。そんな沙紀が校内公認カップルだなんて烙印を押されたら……。
面白そうだ。
「というか超見たい……」
「ん? 何か言った?」
「いや、なんでもない」
うん見たい。超見たい。沙紀には悪いけど僕としてはかなり見たい。出来ることなら写真に収めて毎日眺めて――――
「……変態か、僕は」
「な、何が?」
「いやほんとなんでもないです」
危ない危ない。危うく理性の限界を軽く飛び越えそうになっていた。
「恐るべし水夏沙紀……」
「……だからなんなの?」
「本当に何でもないんですごめんなさい」
だんだん沙紀の視線がきつくなってきた。ダメだダメだ考えるな。もともと顔に出やすいんだから。
「ふぅ……」
「ほんとにどうしたの? さっきからちょっと、いやかなり変」
「あーまぁうん、気にしないで」
君のことを想像して悶々としていた、なんて言えない。
「別にいいんじゃないかな。周りに何を言われても気にしなきゃいいんだし」
「……さらりと言ってくれるわね」
「けど実際そうだと思うよ、そりゃあ沙紀は恥ずかしいかもしれないけどさ、僕はどっちかと言うと嬉しいし」
「なっ」
驚いて顔を赤くする沙紀の頭に、手を置いてみる。年相応の身長の沙紀の頭の高さは、丁度僕には手を乗せやすい位置で、つい撫でるように手を乗せてしまう。
「だからそこまで気にすることはないかなって、まぁ沙紀がそう思われるのが嫌なら否定して回るよ」
「う、嬉しいって……や、やだもう! 思っても口にしないでよ! あ、あたしと付き合ってるだなんていう勘違いされてうれしいのはわかるけど、その……えへへ」
「………………」
暴走してる。何でかは知らないが、すっごい暴走してる。
「でもその公認ってのは……は、恥ずかしいなぁ……、新しくできた友達とかから先輩にもう恋人がいるってこと知られちゃって騒がれちゃったりするのかなぁ……うわぁ、うわぁ!」
顔を真っ赤にして両手を振り回しながら照れる沙紀。
…………ま、かわいいからまったく問題ないね!!
結局沙紀の暴走は山を降りた後、かなりの数の視線を集めて終わった。
その後沙紀の顔が耳まで真っ赤になったのは言うまでもない。
*
忘れるのがいけなかったんだ。
覚えていないのがいけなかったんだ。
大切だったのに。確かに大切にしていたものがあったはずなのに。目の前の大切だけに手を伸ばしたから。
嫌な予感はずっとしていた。学校が休みの日曜日。一番人だかりの多い昼下がり。
町はいつも通りだけど、何かが僕に警告してくる。
早く帰れ。ここにいてはいけない。早く、帰れ。
うるさい、黙れ。
今僕は幸せなんだぞ。沙紀と一緒に今晩の料理に使う材料を買いに来てるんだ。
それに今晩は沙紀の家での夕飯なんだ。これからまた幸せがあるっていうのに、どうしてあの寂れた小屋に帰らなければならない。
「……どうしたの? 顔色、悪いよ?」
「ああ……大丈夫だよ」
「そう? 辛かったら言ってよね」
「ああ……」
くそっ、なんなんだよいったい。どうしてこんな胸騒ぎがするんだ。
鳴り響く警鐘を無視して、買い物を終わらせる。
とにかく、早く沙紀の家に行こう。そして沙紀の作った晩ご飯を腹一杯食べればきっと―――。
「あなた?」
早く帰れ。
大切なものに、出くわしてしまうから。
「……かあ、さん」
ありえない状況だった。あってはいけない状況だった。
「あなた……どうして、ここにいるの? 仕事じゃないの?」
買い物袋を手に持って、母さんが僕に近づいてくる。
「あ、あ……」
僕は知っていたはずだ。母さんのサイクルを。繰り返す日常を。
この時間、僕はここにいてはいけなかったんだ。
「ねぇ? どういうこと? その娘は誰?」
母さんが近づいてくる。僕に、いや、親父に。
どうすればいい。どうすればこの状況から抜けられる。
どうすれば、あの日常に帰れる!?
頭に浮かぶのはそんなことばかり、打開策が見つからない。目の前が段々と暗くなり、焦りだけが募っていく。
「は、初めまして! あの、あたし水夏沙紀と申します!」
沙紀の言葉に、苛立ちを覚えるほどに、焦りが僕を急かす。
「やめろ……」
それは、どっちに向けた言葉だろう。沙紀か、母さんか。
母さんは沙紀に見向きもしない。ただ僕に問い詰めてく。
明らかに親子の会話ではない、その空気を読み取ったのか、沙紀の表情も曇っていく。
「ねぇ!? 誰なの!?」
僕の肩を掴んで、ヒステリックに問い詰める。その力が、肩に食い込んだ指先が痛くて、辛くて、煩わしくて。
「やめてくれ……」
その先の言葉を、僕じゃない大切な人に言うべき言葉を。
「あなた!?」
僕に言わないでくれ。
「っ!」
頭に血が上る。僕を否定する母さんに、この不条理な状況に。
その怒りに身を任せて母さんの手を振り払い、僕は沙紀の手を掴み、目の前の存在から逃げ出した。
「あなた!? 待ってよ!」
無視だ。無視だ無視だ無視だ。僕に向けた言葉じゃない。
僕への願いじゃない!
「ちょっと! どうしたの!?」
沙紀の叫びが耳にはっきりと入る頃には、母さんの姿は全く見えなくなっていた。
*
こんな気持ちのまま、沙紀の家に行くことはできず、調子が悪いと言って辞退した。
沙紀を家まで送り、心配そうに僕を見つめる沙紀の瞳を振り切って山を登っている。
雪はない。溶けた雪は水になり、土に染み込み、樹木に吸い込まれる。
季節が変わった。一つ季節が終わるほど時間、僕は母さんを忘却していた。
たった一人で、親父を待つ毎日を繰り返す母さんを、忘れて、自分だけ幸せを噛み締めていた。
早く帰ればよかったんだ。そうすれば、この頬に流れる涙はなかったのに。
山小屋に入り、買ってきた食材を部屋の隅に投げる。山小屋の中は真っ暗だった。いつのまにか日も沈んでいたのか。月明かりは雲に遮られ、ぼやける程度の光しか零さない。
火を起こす気にもならなかった。何も考えられず、ただ寝転ぶ。
「何を、やってるんだろうな……」
逃げて逃げて逃げ出した。その先に待っていた孤独に浸かる。その孤独の冷たさに、また涙が出そうになる。
その涙を堪えているうちに、いつのまにか僕は眠っていた。
心に負ってしまった傷を、忘れるために。
目が覚めた時には、全てがなかったことになってくれたらと、心の底から願いながら。
・水夏沙紀
「はぁ……」
ご飯を摘んだ箸を口元まで持ってきて、結局口に入れずにあたしは箸を下ろした。
「どうしたんだ? ため息なんか吐いて」
力になろうと思った。助けてあげたいと思っていた。あたしに力を貸してくれた彼を助けたいと思ったのに。
「はぁ……」
何も出来なかったなぁ……。
優の家庭に何か問題があるのはわかっていた。もし平常な家庭なら、優は毎日自分の家に帰るはずだ。それがあの山小屋に何ヵ月も……。
だから助けたいと思った。あたしにしてくれたように、彼の苦しみを取り払ってあげたかった。
そしてついにやってきたチャンスを、あたしは不様に逃した。ただ慌てふためき、現状を理解しようと躍起になるだけ。
「はぁ……」
「本当にどうしたんだ? 体調でも悪いのか?」
「そんなんじゃないよ。気にしないで」
我ながら無理なことを言っていると思う。根っからの心配性のお父さんが今の言葉で納得するわけがない。
「本当に大丈夫よ。ほら、ご飯だってこんなに美味しく作れたんだもん」
そう、本当に美味しく出来た。優にたくさん美味しいものを食べてもらおうと思って奮発して買った食材を余す事無く完璧に使った。
「はぁ……」
そして、結局振舞えずに、今に至る。
「やっぱりどこか悪いだろう……ほら、食べ終わったら早く寝なさい。そろそろ入学式だろ?」
「うん……そうだけど」
眠って、忘れることが出来るような問題じゃない。
……お父さんに相談してみようかな。いや、ダメだ。優の話なんてしたら絶対からかわれる。
式はいつだ? とか孫の顔を見ないと、とか冗談にしては本気でタチの悪いことを言って毎回毎回あたしの反応を見て喜ぶ人なのに。
けど、他に相談出来る人はいないしなぁ。
……仕方ない。
「……ねぇ、友達から相談されたことなんだけど、聞いてくれない?」
「ん、いいぞ」
「う、うん。その子の…………か、彼氏のね。ちょっと家庭に問題があるみたいなの」
「どんな問題なんだ?」
「あー……それは聞いてないや」
あたしもよく知らない。知ろうとすることすら、しなかった。
「それで、その子はなんとか彼氏の力になりたいんだって、けど、どうすればいいのかわからないし、何より迷惑かもしれないし……」
優はあたしの力になってくれたけど、優があたしの力を望んでるとは限らない。
それに、優の問題を、あたしみたいな奴が解決できるだろうか。
そもそも、優自体が問題の解決を望んでるのかさえわからないのに。
「なるほどな、沙、じゃなくてその友達はそのことで悩んでると」
「うん……」
「なんだ、そんなことか」
「え?」
そんなこと。そう、お父さんはあたしの悩みを一蹴してしまった。
「沙、ゲフンゲフン。その子が悩んでるのはそれだけなのか?」
「う、うん」
「だったら簡単な話だよ。その子が力になりたいのだったらなればいい。助けたいのならありとあらゆる方法を使って助ければいいだけだよ」
「か、簡単に言わないでよ! それが出来ないからこうやって相談を―――」
「沙紀、相談というのは、自分には思いつかないような選択肢を増やすってことだよ。その増えた選択肢からどれを選ぶか、それを決めるのは相談した本人の仕事だ」
お父さんは真っ直ぐあたしの目を見つめて、あたしに語りかける。
「やるかやらないかの二択しかない問題に、おまえはいつまで悩むつもりだ? いつだって、そんなにたくさんの時間は用意されてないぞ」
少しのからかいもない、真面目な顔をしてお父さんはそう言った。
「……うん」
最初から答えはあったんだ。だけど、自信をもってそれを選べなかっただけ。
とにかく行動。
それがあたしの答え。
行き当たりばったりなんて上等じゃないか。
あたしたちは、始めなければ始まらないのだから。
「……行ってくる」
椅子から立ち上がり、玄関に向かう。その間にクローゼットからコートは、いらないか。どうせ走るのだから寒さなんか関係ない。
「友達の家にか?」
ニヤニヤしながら聞かないでよ、気付いてるくせに。
「―――彼氏のところよ!」
ドアを開けながらあたしはやけくそ気味に叫んだ。
真偽のほどは、これからどうにでもしてやる。
・刈谷優
「こんにちは」
声が、した。僕に、呼び掛ける声が。
「いや君とは初めまして、かな。水夏さんなら何度か会ったことがあるんだけど」
……いつ?
「まぁ一応同じクラスだった……って、そんなことはどうでもいいんだ」
そんなことって、おまえは何者なんだ? どうして沙紀を知っている?
真っ暗な空間に、いつしか僕よりも一つ二つ年下に見える少年がいた。
「言ったでしょ? そんなことはどうでもいい。そうだね、僕のことはお手伝いさんとでも呼んでくれればいいよ」
飄々としていながら、まだ声変わりも済んでない、女の子のような声。けれど、僕よりもずっと、大人びているようにすら感じられて。
「さて、時間はあまりないんだ。手短に言うよ」
僕を見据える目に、少しも戸惑いは見られなかった。
「前を向け、遮るものは何もかも振り払え。手当たり次第手に取り、ありとあらゆるものを大切に抱き締めろ」
「なんだよ、それ……」
何を、そんな、勝手なことを……。
「……僕が言えるのはこれだけ…………きっと、とても難しいことだと思う。僕にはできなかったことだ。けど、君はできなければならない。いや、みんなできなければいけないことだ」
そうやって生きていくべきなんだと、それが理想論だとわかっていながらも、声は自分の言葉を肯定する。
「幸い、君にはこれまでたくさん得てきたものがあるだろう?」
彼が手を振る。右手を大きく、別れを告げるように弧を描く。その描かれた曲線から、滲むような光がジワジワと溢れ出す。その光は、次第に像を結び。
……手を繋いで笑い合う、どこか見覚えのある家族の姿になった。
「だから、がんばって」
僕に呼びかける声が、遠く、小さくなっていく気がした。
「さて、次に行かないといけないから」
薄れていく意識のなか、最後の言葉が響いた。
「覚えておいて」
君に奇跡は必要ないから。
*
「……ん」
目を開けると、朝の日差しが飛び込んできた。
「朝、なのか……」
ぼやけた頭で現状を認識する。昨日はあのまま眠ってしまったんだっけ。頭を覚醒させようと、右左と頭を振って。
「すー……すー……」
すぐ隣ですやすやと眠る、可愛らしい女の子の姿が目に映った。
……いやいやいやいやいやいやちょっと待て。
「……えーっと」
まず、なんで沙紀が隣で寝てんの? なんですっごい安らかに寝てんの? なんでこんな可愛いの?
「…………最後関係ないな」
とりあえず、離れよう。
朝っぱらから刺激が強すぎる。思考は追い付かないくせに体だけは異常なまでに反応するから困る。
「んんっ……」
彼女の小さな呻き一つで、僕の体は容易に行動を停止できる。
お、脅かさないで! お願いだから!
内心超ビビリつつもゆっくりと離れていく。
「ふぅ……」
なんとか危機は去ったか……。
……いや、残念がってなんかないよ?
………………いやいや、ほんと。
「誰に言ってるんだ……」
「ん……」
僕の独り言がうるさかったのか、沙紀が目を開いた。そして体を起こし、ゆっくりと僕に顔を向ける。
「お、おはよ」
寝呆けてるのか、沙紀はじーっと僕の顔を見てる。
「あの……沙紀さん?」
「……行くよ」
「え?」
「優の家に行くって言ってんの!」
「は?」
「ほら行くよっ!」
何を言ってるのか全く理解出来てない僕の手を掴んで、沙紀は山小屋を飛び出す。突然過ぎて全く対応ができない。
「ま、待ってよ!」
「何!?」
「どうして僕の家なんか行かなきゃいけないんだよ!?」
答えてくれない。沙紀は僕の質問を無視して僕を引っ張っていく。振り払おうにもがっちりと腕を捕まれているので中々できない。無理矢理振り払うことはできるが、それをしてしまったら勢い余って沙紀がゴロゴロと転がっていってしまいそうだ。
どうしてだ、どうしてこんなことなったんだ。
昨日知られてしまったからか? 僕と母親の、決して浅くはない問題を知られてしまったからか?
「あの、いいんだよ。昨日のはほんとたいしたことなくって。僕なら平気なんだ。なんの問題もない。ほら、帰ろうよ。僕お腹減ってるんだ。昨日のことなんて忘れて、一緒に何か食べようよ。昨日はごめんね、お詫びに何か僕が奢るから――――――」
「っ!!」
つかまれていた手が、振り払われた。
「……どうしてっ! どうして何も話してくれなかったのよ!」
ずっと前を向いて、顔を見せなかった沙紀が振り向く。その顔には、大粒の涙と、心からの怒りがあった。
「あたしが頼りないから!? あたしじゃ力になれないから!? 侮らないでよっ! 辛いなら頼ってよ! 無理に笑顔なんか見せないでよ! 優の家の事情は知らないよ……もしかしたらあたしなんかじゃ本当に何も出来ないかもしれない……それでもっ、それでもあたしの『力になりたい』っていう想いまで否定しないでっ」
最後には、涙までも流して。
「迷惑かもしれないし何も変わらないかもしれない。だからって、逃げてたらあたしと同じだよ!? 辛いことから目を背けて、一番大事なことから逃げてたあたしと……だから、もっと頼ってよ! あたしがんばるから! 優のためにがんばるから!!」
何も言えない僕の瞳から、涙の筋が二つ、流れる。
「あっ……」
体が勝手に動いた。大切だったから、抱き締めただけ。
沙紀の体は小さくて、やわらかくて、温かくて。
その愛しさに、涙が溢れて……。
「恐かったんだ……」
漏れ出るように、心の中にずっと秘めていた想いが、溢れてくる。
「否定されるのが恐くて、否定されないために自分を、殺して……前を向くことさえ……出来なくて……」
逃げて逃げて逃げ出した。立ち向かうのが恐くて、向き合うのが恐くて。
大切な存在を、恐れ続けた。
「いっそ忘れようって……他の大切なものをずっと、見ていたくて……そんな毎日を、願って……たんだ……」
だから、沙紀を求めた。沙紀との日々を願った。
「でも、あたしはそれを願わない」
だけどその腑抜けた願いを、沙紀は一蹴する。
「そう、だよね。君は、そんなことを願わない」
帰ってくるはずのない人を待ち続ける。僕の大切な人は、そんな日々をただ繰り返している。
僕の今までの行動は、ただの逃避だけじゃない。そんな悲しいサイクルを、たった一人の大切な人が繰り返してきていることを、許容してしまっていた。
「僕も、願わない……願っちゃ、いけないんだ」
僕は、あの人の幻想を壊すことを願う。
それは、あの人を傷つけるかもしれない。心に闇を植え付けるかもしれない。
それでも、叶えたい願いなんだ。
「行こう」
繋いでいた手は離さない、ただ、隣に並ぶんだ。
「……うんっ」
願いを叶えた沙紀と、並ぶんだ。
*
我が家の前に立っているだけだというのに、緊張感が絶え間なく湧き出てくる。情けない話だ。僕は一度、沙紀に対して背中を押した側だというのに。見慣れた、けれど久しぶりに見る家の外観を眺め、僕は意を決して玄関の田平を開ける。
「……ただいま」
声は、震えていない。なぜなら飾ることのない、僕自身の声で、日常的に繰り返したただいまという発声をするだけなのだから。
「え? あなた?」
僕を親父と見間違え、置き換えた母さんが、濡れた手をエプロンで拭いながら駆け寄ってくる。それは、まるで山小屋での生活が始まる前、キャンプ道具を取りに来た時と全く同じ光景。
ある日常を繰り返す母さんは、前日にどんなことがあろうと必ず忘れる。
母さんの記憶には、昨日僕と会った記憶はない。平然と、平穏に平和だった頃の生活を繰り返す。
それを終わらせに来た僕は、これ以上親父を演じることなどなく、刈谷優として靴を脱ぎ、家に上がる。
「ちょっと、居間で待ってて。見せたいものがあるから」
「え? う、うん」
僕の記憶にある親父はこんな話し方はしない。もっとぶっきらぼうで、砕けた口調だ。けれど、もう親父の幻影は必要ない。
母さんを置いて、僕は家の中を歩く。そして、ずっと訪れることのなかった親父の部屋にまで来た。母さんの繰り返すサイクルには、親父の部屋を掃除するということは組み込まれていない。
住む人も、使う人も、入る人もいない。何日も放置された、埃だらけの寂れた部屋だった。
「確か……ここに」
懐かしいという感情は今は必要ない。必要なのは、僕に残された、最後の武器たちだけだ。
……夢を見ていた。いや、あれが夢だったのか、僕にはわからない。見覚えのない少年が語ってくれた言葉の数々。そして、最後に見た、あの光景。それこそが、僕の武器。
それを手に、僕は親父の部屋を出た。
母さんは僕の言うとおり、居間で待っていてくれた。卓に着き、僕がどんな話をするのか、少し訝しげに、戸惑いながら僕を見ていた。
僕は無言で近付き、母さんの目の前にその武器を置く。
「これは……」
「アルバムだよ」
母さんたちが付き合い始めた頃から始まった。写真を貼り付け、思い出を形に残すための、一番わかりやすく、ありふれた物。
「こんなに、写真撮ったかしら……」
一枚一枚に詰まっている夫婦の思い出。その中には、今の母さんの知らない未来の写真がある。
「どうして……」
ページを捲る手が止まる。母さんの目はある一枚の写真を見ていた。
「どうして……私が妊娠しているの?」
お腹の膨らんだ母さんに優しく微笑みながら、そのお腹を撫でる親父。
その胎内にある命の膨らみは今の母さんにとって、日常を壊す兵器。平穏を殺す凶器。刈谷優という名の、武器。
親父が……父さんが残してくれた希望。
「その中にいるのは、僕だよ」
そして、僕は母さんの世界に亀裂を加えるための、刃を突き立てる。
「母さん」
ずっと、言えなかった。
恐かったから、傷つきたくなかったから。
「ずっと、こう呼びたかった」
それでも、心から願った。
「僕は親父じゃない」
母さんが、僕を、優として見てくれるのを。
「僕は、刈谷優だよ」
優を、肯定してくれることを。
「母さんたちの息子の、刈谷優なんだよ」
心から、願ったんだ。
「ただ『勝る』だけじゃない、『優しい』という暖かい意味も込めた。母さんの息子の、刈谷優なんだよ」
「な、何を言ってるの? あなた、どうしたの……?」
母さんの瞳は僕に向けられていても、僕を見ていないのかもしれない。僕の言葉が理解できなくて、うろたえている。
「僕が言うことは全て真実だよ。母さんが逃げた、悲しい真実」
僕はもう、逃げない。立ち向かう。勝利する。
僕の目を見て、母さんは俯いてしまう。
「母さんは親父と結婚した二年後、僕を産んだ。もともと裕福な家庭ではなかったから、僕のために親父は寝る間を惜しんで働いた。その努力が認められて、親父は会社で高い地位に就いた。三人で暮らしていくことに困らないほどに給料がもらえるくらいの。そしてこれからずっと、幸せだと思ってた。けど、親父は事故で、死んだ」
俯いた母さんの体がピクリと動く。今の言葉が、母さんの傷に触れたからだ。それでも、僕は言葉を紡ぎ続ける。
「そのせいで、母さんは僕を忘れた、刈谷優を親父と認識して、自分を保とうとしたんだ」
厚い瘡蓋で覆われた傷口に、鋭利なナイフを突き立てるように、僕の言葉は母さんの心を揺さぶる。
「な、なんの冗談なの? そんな笑えな――――」
顔をあげた母さんは言葉を失った。
そこに、母さんにとって、いてはいけないものがいたから。
「誰なの、その子は……」
ずっと僕の傍にいた沙紀を、母さんの目が見つける。
「僕の、大切な人だよ」
母さんの世界に登場人物は親父だけだ。例え家の中に僕以外の誰がいようと拒絶する。
無意識の存在否定だ。
そして、その他の存在を拒み続けた母さんが、今、沙紀という存在を肯定した。それは、母さんが、一歩進んだ証だと思う。
「優……」
ずっと、沙紀は僕の手を握り締めていた。家に入る時も、親父の部屋でアルバムを探している時も、卓に着いて母さんと向き合う時も。ずっと、隣で僕の手を握ってくれていた。恐怖に震える手を、優しく包んでくれていた。
たったそれだけで、こんなにも勇気が溢れる。
沙紀の手を離す、ぬくもりが遠くなる。けれど変わらず、沙紀の笑顔は温かい。
ここから、僕は誰も頼ってはいけない。僕の問題だから。僕自身が、立ち向かわなきゃいけない。
「思い出してくれ」
震える母さんの肩を掴む。目を逸らさずに、僕の願いを聞いて欲しくて。
「僕のことをじゃない。この際、僕のことなんてどうでもいい、母さんを忘れて一人だけ幸せでいた親不孝者はいっそ忘れてくれていい。それでも――――」
忘れていた大切なことは、それだけじゃないだろう?
「あんたが愛した人を思い出してくれ! あんたを愛してくれた人を忘れないでくれよ!!」
今、心から願うことは、ただそれだけ。
「あんたたちが共に過ごした日々は、どんなことがあっても忘れてはいけないんだよ! その日々を覚えているのはもう、母さんしかいないんだ!」
二人が寄り添って、一緒になって、懸命に生きた軌跡を覚えているのは母さんしかいない。
「……思い出してあげてください」
ずっと黙ってくれていた沙紀が、母さんを見据えながら口を開く。
「部外者のあたしが、口を出すことじゃないかもしれません。それに、あたしも、都合良く大切なことを忘れているらしいんです。そんなあたしが、あなたを責めることはきっとできないし、してはいけないけど。少しだけ、言わせてください」
「あなたは、いったい……」
母親の死を、その真相を、経緯を。何も覚えていない、忘れてしまった沙紀は、きっと母さんと近い存在なのかもしれない。自身が震えながらも、沙紀は懸命に母さんを見据え、口を開く。
「……忘れた方が楽だって気持ちはすごいわかるんです。あたしも、お父さんにひどいこと言われた時、何もかも忘れてなかったことにできれば、ってずっと考えてました。けど、わかったんです。忘れても、自分だけが忘れてしまっても、どこかに悲しみは残るんです。忘れてしまったって、その事実を知っている人がいる限り、悲しみは変わらず、どこかに存在するんです。結局、あたしたちがしてることは、その悲しみを他の誰かに押し付けているだけで」
例え、記憶から消え去ったとしても、それで全てがなくなるわけじゃない。物でも、場所でも。その人が生きた証は、どうしたって残り続ける。
「……他に誰も覚えている人がいないのなら、忘れてしまうことも一つの手段なんだと思います。けど、あたしたちには覚えてくれている人がいるんです。あたしたちが無くして、消してしまった人たちを、ちゃんと覚えてくれている人がいるんです。その人たちに、悲しみを、辛さを、押し付けるだけの生き方は、してはいけない。したく、ないんです」
沙紀の声は、段々と涙混じりになっていた。正座していながらも、膝に置いた手はプルプルと震えていて。目には一杯の涙を滲ませ。
それでも伝わるように、懸命に想いを放つ。
「だから……思い出せるのなら、思い出してください。あたしも頑張りますから。だから、あなたも、まさっ、優のため、に……!」
ついには泣き出してしまった沙紀の頭に、僕はそっと手を置いた。優しい子だ。優しくて、素直で、思いやりがあって。
そんな子を泣かせてまで、僕はここまでやってきた。
なら、最後まで進まないでどうする。
「……母さん」
呼びかけても、返事はない。母さんの目は僕を見ずに、広げられたアルバムの写真を見ている。その写真は、僕が産まれてすぐ、父さんが僕を抱えて歓喜のあまり病院内を走り回っている時の写真だった。
ならそれは、きっと僕を見ていることと、同じ意味で。
「親父はさ、母さんと一緒になれて良かったって、あの山のキャンプに行く度に言ってたよ。毎回毎回、またその話かって呆れるぐらいに。バカみたいにさ、母さんみたいな美人で良い嫁さんをもらってよかったって。ちょっと体と心も弱いけど、そこは俺がカバーするんだって」
覚えて、諳んじれてしまうほどに、繰り返された母さんと父さんの幸せな日々の思い出。その情景が、目の前に広がるアルバムに残された写真を通じて、僕にも鮮明に想像できる。想像できて、視界が揺らいで、滲んでいく。
今にも泣きそうになる。だけど、涙は決して流さない。
「俺がいなくなったら、おまえが、母さんを守れって。支えてやるんだって、何度も、聞き飽きたって言っても、ボケてるのかって言っても、何度もさ……」
何度もされた「お願い」は、僕の中に芽吹いている。確かな熱量を持って、僕を突き動かす。
「父さんはもういない。事故で、死んでしまった。けど、僕がいるから。これから、僕が母さんを支えるから。だから……僕を、見てよ。母さん……」
声すらも、涙で震わせることはせず。
「僕は、ここにいるんだ」
「……あなた」
一瞬、また僕が呼ばれたのかと思って、心中に諦めが広がる。けれど、母さんの視線はアルバムに向けられている。そして、指先は一枚の写真を撫でていて。
その写真は、僕たち家族が写った、確かにあった幸せを切り取ったもの。
「随分長い間、失礼なことをしちゃったわね……」
ずっと見たかった。母親の笑顔を見せてくれたんだ。
*
町を覆っていた雪は全て溶けてなくなり、季節はすっかり春。気温は眠気を誘い、また命の目覚めを誘う。僕の一番好きな季節だ。
病院の中庭ある木々を抜けた先に見つけたベンチに座り、僕は欠伸をかみ殺していた。
「良い場所だよな、ここ……」
周りには木々が生い茂り、日差しが降り注ぐ憩いの場。だが、木々が入り組んだ場所にあるため、他の入院患者の姿は一向に見えない。
母さんの経過は、概ね順調だった。正常な意識を取り戻した母さんの体は、今まで騙し騙し扱ってきたようなもので、所々にガタが来ていた。今は少し体調を崩してはいるものの、意識はハッキリしている。ちゃんと僕のことを刈谷優として見てくれている。
それだけでも、僕には充分過ぎるほど嬉しいことだった。
「へぇ、本当にいい場所みたいね」
「……頭に葉っぱ付いてるよ?」
乱立する木々の間だけではなく、時には腰の高さ程の草木を屈んで抜けてこないといけない。その道を通る時に付いたのだろう。
「え? ど、どこ?」
「取ってあげるから座りなよ」
ベンチの空いた位置を手で叩き、促す。
「……別に自分で取れるよ」
「いいから、ほら」
全ての、心持ち次第では解決できる問題は全て解決した。そのためなのか、本来の沙紀らしさが良く見れるようになった。表情を見るだけですぐに心情が読み取れる。今だって、不満げなように唇を尖らせてはいけるけど、頬が笑っている。僕はそれに気づかない振りをして、顔では不満げながらも、素直にベンチに座った沙紀の頭に乗った葉っぱを取った。
「おじさん、経過はどうだって?」
「……小康状態は保ててる。けど完治は、難しいって」
沙紀の父親、琢己さんは病院に入院している。治療を諦めていた彼は、生きることを再度目指し始めた。病院の一室で、彼は僕にこう言った。
『君たちを見てると、何だか本当に孫の顔を見れるんじゃないかって思ってね。だから、もう少しあがくとするよ。とにかくあらゆる方法を試してみる。なんとしてでも、後五年は生きてやるさ』
……ある意味脅迫になりかねないよなぁ。まぁ、初めからそのつもりだからいいんだけど。
「何にやけてんの」
半眼になって僕を見る沙紀は、本当に気味の悪いものを見る目をしていた。
「僕、にやけてた?」
「うん、ニッタ~って。ちょっと恐いくらい」
そこまでにやけていたつもりはないけど。胸のうちに溢れる気持ちが表に出てしまっているのなら、にやけてしまうのも無理はない。
「仕方ないだろ? 幸せなんだから」
春の陽光はどこまでも暖かくて、少し目をつむっていれば、すぐにでも眠ってしまいそうになるほど心地が良い。そして、隣には沙紀がいる。僕の幸せを願ってくれた、大切な人がいる。
それは、思わず笑ってしまいそうになるぐらいに、幸せだと思うんだ。
「また笑ってる……」
「沙紀だって」
呆れてたようにため息を吐く沙紀も、浮かべる表情は笑顔だ。
「……まぁね、だって幸せだもん」
例え、この先待っているものが、決して幸福だとは言えないものでも。目の前の彼女は、約束された別れすら受け入れて、それすら幸せだと言ってのける。
大切なものを全て失い、そしてもう一度取り戻したからこそ、彼女が手に入れた強さ。
それと似た強さを、きっと僕も手に入れているはずだから。
「なぁ、沙紀」
「ん? 何?」
「前を向け、遮るものは何もかも振り払え。手当たり次第手に取り、ありとあらゆるものを大切に抱き締めろ」
「……急にどうしたの?」
「誰かが僕に言ってくれたんだ」
その言葉で、僕は立ち向かえた。今でもあれが夢だったのか、いったいなんだったのかわからない。
けれど、大事なものを教えてくれたことは、確かだ。
「僕の腕は二本だけだからさ、どうしても何もかも大切にすることはできない」
抱えるだけの懐の深さにも、きっと限界がある。でも、だからといって、諦めることはできないし、したくない。
「それでもさ、僕は手を伸ばしたいんだ。掴めるものは全部掴んで、大切にしたい」
限界量があろうと、抱きしめたい。
それが、刈谷優の生涯の願い。
「……うん、いいんじゃない?」
「けどそれは、今抱きしめているものを零してしまうかもしれない」
いつか必ず、選択を迫られる時が来るかもしれない。どれか一つを残し、どれかを捨てろと、抗いようもなく強要されるかもしれない。
「……それでも、いいと思う?」
「うん。良いと思う」
問いかけから答えるまで、間なんて一瞬もなかった。
「例え優が私を抱きしめる手が緩んだって、大丈夫だよ」
それは、僕が大切にしたいものがよく分かっている口ぶりで。
「……だって、あたしも抱きしめてるんだから。ずっとしがみついてるんだからね? 振り払おうとしたって無駄なんだから」
「……ははっ」
うん、そうだね。
そうやって生きていっても、大丈夫だよね。
「よし、手でも繋ごうか」
「また唐突ね」
「いいだろ? 繋ぎたいんだし」
「……ま、いいけど」
仕方がない。なんて態度を装いながらも、彼女の顔は真っ赤になっていて。
しっかりと手を繋ぎ、指を絡める。
「さて、子供の名前はどうしようか」
「だから唐突過ぎだってば!」
頑張って澄ました顔をしていた彼女の顔を、更に真っ赤にさせるのが楽しくて。
僕はようやく、自分の性格の悪さがわかった気がした。
二章 了
二章での優と沙紀はこれでお終いですが、今後もこの二人は続きの話でわんさか出てきます。「誰だこいつら……」ってなるかもしれませんが、その時はその時でまたよろしくお願いします。
次は三章、飛坂智明の物語です。一章でほんのり出てきたあの先生です。