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Recall  作者: ツナ缶
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二章 2

イチャイチャシヤガッテ


「よし、こんなとこかな」

 雪をかき分け、食べられる野草を見つけてはカゴに入れていく。この山は自然が豊富だから作業は気張らずとも、それなりの成果が上げられる。

「どうせだし、魚も捕っていこうかな」

 川魚の調理は単純な塩焼きが一番だ。というか、昔から川魚は塩焼き以外の調理法を選んだことがない。楽だし。野草が入ったカゴを手に取り、小屋に戻る。

「あ、おかえりなさい」

 毛布に包まったまま携帯を見ていた沙紀から声をかけられる。

 …………僕に向けられた、おかえり。

「……ただいま」

 なんて、暖かいのだろう。

「どうしたの?」

「いや、なんでもないんだ」

 頭を振って、意識を現実に戻す。沙紀の手には携帯電話が握られていて、僕はそれを指差しながら問いかける。

「どう? 電波の調子は」

「吹雪いてないければちゃんと電波入るのね。こんな山奥なのに」

 口裏を合わせてもらっていた友達に連絡したがっていた沙紀だが、昨日は夜の間ずっと吹雪いていて、電波が入ることはなかった。だからこうして今、吹雪も止み連絡がつくようになってからその友達に連絡をとっていたようだ。

「どうだって?」

「……お父さんから、連絡はきてないって。あたしの携帯にも、なかった」

「……そっか」

 世のお父さん全員がそうかはわからないけど。一人娘が外泊するとなったら心配になって一回ぐらいは連絡をよこすものだと思う。

 その連絡もないということは……やめておこう。この考えも、正否はどうあれ早計のはずだ。

 川魚を捕るための準備をしていると、沙紀が立ち上がって僕の方へと近づいてきた。

「何するの?」

「ん? ああ、魚を捕るんだよ」

「……それで?」

「これで」

 そう言って、僕は手に持っていた学生鞄を沙紀に見せる。本来なら釣りとか岸から捕れるものが好ましいんだけど、あいにく釣り道具はこの小屋には置かれてなかった。他の、暮らすには必要のないもの(トランプやオセロ盤、その上麻雀道具一式)はたくさんあるのに。やっぱり基準がわからない。

「あ、暇なら手伝ってくれるかな」

「え?……うん」



「ごめん。やっぱ帰りたい」

 川に足をつけての最初の一言がすでにネガティブだった。

「耐えるんだ」

「結局精神論なのね」

 確かに冬の川の水は冷たい。凍りはしないけど温度だけなら限りなく氷点下に近いぐらいだ。けど、少しもすれば次第に慣れてくるものなんだけど。

「開き直ると結構耐えれたりするよ?」

「いや無理無理。それ麻痺してるって言うのよ。ていうかもう限界っ」

 言うが早いか岸にある焚き火まで走っていく。素足を焚き火に近づけ、凍えた末端を温めていた。

「一回温まっちゃうと、もう絶対無理だよ」

「いやいや、その前から無理だってば。だいたいどうして優はそんな平気そうにしてるのよ」

「慣れてるから。昔から親父に連れられてよく入らされたし」

 そのお陰で、多少の我慢は効くようになってしまった。

「虐待ね」

「……否定できないな」

 寒中水泳を強要する親って世間的にどうなんだろう。まあだからこそ、溺れた沙紀を助ける時一切尻込みせずに済んだんだけど。

「水に入らずに手伝えることってない?」

 焚き火に当たりながらではあるが、沙紀の気遣いは素直に嬉しい。

「うーん、そうだなぁ。それじゃあ、サッカーボールぐらいの石を集めておいてくれる」

「……これでもかってほど力仕事ね」

 うん。だから後で僕がやろうと思ってたんだけど。せっかく岸に上がったままだというならということで、お願いしたまでだ。

「文句言わないの。魚食べたいでしょ?」

「はぁい……」

 気の抜けた返事をして沙紀は石を集めだした。僕はその間に、罠を設置しておくに適したポイントを探しておく。

「ねぇ、こんなに石を集めてどうするの?」

「一本道を作るんだ」

「……どういうこと?」

「んー、実際に作ったほうが早いかな」

 僕は沙紀が集めていた石を手に取り、矢の先のような角を川に作っていく。幸いこの川は川幅はそこまで広くはなく。すぐに石の列ができた。その石の列の真ん中だけに石を置かず、僕はその列にできた穴に学生鞄の口を広げる。

「はい、じゃあ沙紀は木の枝か何かで水面をばしゃばしゃしてくれる? 同じ箇所だけじゃなくて、縦横無尽に」

「こ、こう?」

 沙紀が起こした振動によってその場に止まっていた魚が動き出す。こうして動いてくれないと川の流れや水の反射で見つかり辛い。

「そう、そんな感じ。続けて」

 急に襲い掛かる何者(沙紀のことなんだけど)からの攻撃から逃れようと魚は水の流れに沿って下降し始める。けど、その逃げ道は一つだけなので誘い込まれた魚は吸い込まれるように鞄の中に入っていく。

「よし一匹目!」

 鞄を水から上げると中に入っていた水は合成繊維の隙間から漏れ出て、後にはビチビチと跳ねる魚だけが残っていた。跳ねて逃げないようにすぐ鞄のチャックを閉め、岸に上がる。

「とまぁこんなように、一匹ずつ捕っていくんだけど」

「……すごい」

「え?」

「すごいよ! すごいすごい!!」

 予想以上に感嘆する沙紀に、僕は思わず一歩引いた姿勢をとってしまう。

「そ、そう? そんな声荒げて言うほどじゃないと思うけど……」

「でもすごいよ! そっか、罠なんて作る必要ないんだ。頭を使えばこんなに簡単なんだ」

 ……この娘はとても素直な娘だ。自分がすごいと思ったことは素直に口にできて。感動したこと、嫌なこと、そういったもの全てをしっかりとした自分の考えに乗せて口にできる。こういう子、今時少ないよなぁ。だからといって、自分勝手に好き勝手口にして周りを困らせるわけではない。人間のできた子だ。

「今回はたまたまうまくいっただけだよ。絶対捕れるってわけじゃないし」

「繰り返したら捕れるんでしょ? ほらほら、もっとやってみようよ」

 笑顔になって促してくれる沙紀の姿を見て、なんだか嬉しくなった僕は意気揚々と再度川に足を入れる。

「よっし、それじゃあ後三回だ。二人で二尾づつ食べよう」

「うんっ、わかった!」

 ばしゃばしゃと勇んで作業に没頭する沙紀の姿は、とてもじゃないが親にひどい扱いをされた女の子の様には見えない。

 ……この娘がいったい、何をしたっていうんだろう。同じ、存在を捨てられた者同士ゆえの怒りが、会ったこともない沙紀の父親に対して湧き上がってくる。一度、話をしてみたい。無関係と切り捨てられようとも、身の内に湧き上がった気持ちは、そう簡単には途絶えない。

「あの、熱心なのはいいけど。もう少し勢いを抑えてくれない? 水がばっしゃばっしゃかかって僕びしょ濡れだよ?」

 まぁ今はそれよりも、風邪を引かないことを心がけないと。



「ん~~」

 小屋を出て、朝日を目一杯浴びる。太陽の日差しは燦々と照っていて、その光は僕の体をじわじわと温めてくれる。

「二日ぶりの太陽だ」

 僕と沙紀のサバイバルな共同生活が始まって三日目の朝。天気が安定していたのは初日だけで、それから猛吹雪が断続的に降り続けた。

 そしてようやく、二日間吹き続けた豪雪は治まり、透き通るような青い空が顔を出した。主婦の方からしたら絶好の洗濯日和になるだろう。

「快晴万歳!!」

 よって僕のテンションも急上昇で、止まるところを知らない状態だ。

「朝から元気ね……」

「だって二日丸々吹雪だよ? その反動みたいなもんだから仕方ない」

 そう、この二日間はほんとに大変だった。吹雪があまりにも強くて中々外に出れず、当然そうなると買い出しにも行けず、二日間吹雪が止んだ瞬間に山菜やら魚やらを速攻で取りに行ったりして生活をした。もちろん買いだめしておいた缶詰とかもあったけど、それだけでは心に余裕がなくなるというか。

 ……今思えばすごいな。体調も崩してないし、むしろ健康な気がする。野性児か僕は。しかし、本当にサバイバルな数日間だった。過酷という言葉はこの二日間の為にあったと言っても過言ではない。

「さて、買い出しでも行こうか」

 せっかくの快晴だ。今の内に出来ることをしとかないと。またいつ天気が崩れるかわかったものじゃない。

「……あたしも行こっかな」

「いいの? 出歩くのは危険なんじゃなかったっけ」

「確かに安全ではないけど、行かなきゃいけない所があるから」

「ふーん」

 行かなきゃいけない所か……。

 そういや学校はどうなってるんだろう。この二日間は吹雪で休みだったと思うけど、今日はこの天気だ。問題なく授業を再開してるかもしれない。

「ついでに寄ってくるかな」

「どこに?」

「学校だよ。まぁ登校はしないけど、様子見みたいなもの」

 あ、そういえば。

「沙紀は学校行かなくていいの?」

「学校なんて行ったら一発でバレちゃうじゃない」

「いやまぁ、そのとおりだけどさ」

「……別に心配なんかしなくていいわよ? あの男に見つかるわけにはいかないし、すぐに卒業なんだから問題ないし」

 あの男。この三日間で沙紀は父親のことをそう呼ぶようになった。きっと沙紀にとっては決別の意志の表れなのだろう。存在の否定は辛いものだ。それが親しい間柄である程。親しくしていた程、その分の歳月がそのまま重みになって、本人に圧し掛かる。それを耐え、隠し、なかったことにするための思い込み。強気で冷たい人間のフリをする。そんなことが、この優しい女の子に出来るのだろうか。

「……ほんとはね」

 雪を踏みしめ、沙紀は森の中を歩いていく。

「事故じゃ、ないの」

「え?」

 沙紀の姿は見えない。森の木々に隠れているようだった。声だけが聞こえる。

「滝の上に立った時にね、思ったの。ああ、このまま飛び降りて、ずっとこの冷たい水の中にいれば、死ねるのかなって」

「っ……」

 いきなり何を言ってるんだ。そう思ったが、反論は出来なかった。だって、僕の目には明らかに、あの時の沙紀は自分の意志で飛び降りたようにしか見えなかったから。そもそもどうして冬の凍える水に足を浸けてまで滝に上がる必要がある? 好奇心だけではそこまではきっとできないだろう。そして、どうして単身で、ロクな装備も持たずに、女の子が雪山を登ってきたのか。その理由は、決して多くはない。

 多くはないのなら、察することも容易だった。

「あたしはお父さんが好きだった。お母さんがいなくても、それでも男手一つであたしを育ててくれたお父さんが大好きだった。だから、あたしの人生はお父さんのために使おうって思ってた。好きな人も作らないで、結婚もせず、お父さんと二人で静かに暮らしていくって。そう話したら。嬉しいけど、孫の顔は見たいなって、笑って……」

 胸中の想いを言葉にしていく沙紀の声は悲しみが溢れていた。その悲しみが、涙となって流れていくのが、姿は見えなくてもわかってしまった。

「……あたしね」

 泣いていたとは思えない、綺麗な笑顔を浮かべて、沙紀が木の背後から出てきた。

「死ななくてよかった」

 今、ここにいて良かったと。

「助けてくれて、ありがとう」

 僕に、僕だけに向けて、その感謝は溢れていた。笑顔は、僕だけに向けられていた。きっと、その笑顔は悲しみを乗り越えた証で。耐えて、前を向き歩きだした勲章だ。

「……どういたしまして」

 僕も、こんな笑顔になれたらいいな。そう思わずにはいられない程、その笑顔は僕の心に焼き付いていた。



 三日ぶりの町は活気に溢れていた。僕たちだけではなく、町の人間にとっても二日ぶりの晴天だ。道行く人の表情も温かく見える。ちなみに、学校は何も問題なく再開していた。だからといって、今更登校するのも面倒に思えたため、僕は平然とサボることにした。

 僕たちは悠々と町を歩き、沙紀の友達の家の前で別れた。

「それじゃあ、また後で」

「うん。また後で」

 特に時間の約束はしていない。自分の用が済んだら素早く山小屋に帰るだけ。

 けれど。

「……さっさと出てきたらどうですか? 沙紀が離れるの待ってたんでしょう?」

 先に、つけないといけない話がある。

「……気付いてたのか」

 道の電信柱から、ゆっくりと男が出てくる。おそらく、この人が沙紀の父親だろう。あまり顔は似ていない。鋭い顔立ちに、切れ長の目が印象深い。けれど、何故だろう。気迫というものがまるでない。血色の悪い顔色のまま、にこやかに笑う様がどこか不気味にも思えた。

「初めまして、だよね。僕は水夏琢己。沙紀の父親だ」

「……まさか本人が来るとは思いませんでした。てっきり探偵とかそういうのを想像してたけど」

「自分の娘くらい、自分で探せるさ。あの子が行きそうな場所は、だいたいわかる」

「……あんた、自分があの子に何を言ったのか、本当にわかってるのか」

 一瞬で頭に血が昇る。ここが住宅街だということも忘れて声を張り上げる。

「ふざけるなよ……娘だって? その娘を物扱いしたのはどこのどいつだよ!」

 僕は知っている。その扱いをされた末の、彼女の痛みを、泣き顔を。それに耐えようとして笑った健気さを。だからこそ、目の前のこいつが言動が許せない。

「生まれてからずっと、家族として生きてきてこれからもずっと続いていくって信じてて。その想いが裏切られた時、どれだけ絶望するかあんたは知ってるのか。知ってるわけないよな、知らないから出来るんだよな。知っていたらこんな残酷なことは出来ないよな!?」

 一生を懸けて積み上げてきたものを、目の前で粉々に崩される。崩された先に広がるのは、絶望。僕も沙紀も、その絶望に飲まれず、耐えることが出来た。それは僕には沙紀が、沙紀には僕がいたからなんだ。似たような傷を負った者同士が、支えあえる背中を見つけたから、必死になって頑張ろうと思えたんだ。自惚れでもなんでもいい。少なくとも僕はそう思っている。

「僕に何の権限があるかなんて知らない。けれど、あんたがどうして沙紀にそんな態度を取ったのか、全てを話してください。でないと、僕は絶対にあなたを沙紀と会わせない」

 何様だ。そう罵られようが構わなかった。

 だから。

「……沙紀が、あの娘が頼った人が、君のような人でよかった」

「え……」

 そう、嬉しそうに。良かった、なんて口ぶりで笑顔を浮かべる目の前の人物の反応に、呆気に取られてしまった。

 なんで、なんでだ?

 どうしてこの男はこんな笑顔を作れる。どうしてそんな優しく笑えるんだ。

 そんな笑顔じゃ、まるで……。

「場所を変えよう。少なくとも、娘の友達の家の近くで話すような話題ではないからね」

 自分の娘を何よりも愛する、父親のようじゃないか。



 琢己さんに着いて歩いていく。その行き先は、商店街の一角にある喫茶店だった。店内は落ち着いた茶色をベースにした色で整えられていて、流れているBGMもゆったりとしたクラシック調の音楽が耳に心地良い。そのお陰か僕の疑問に捉われていた心は、少しの冷静を取り戻すことができた。

「いい所だろう? 僕はこの店の雰囲気が気に入っててね。沙紀が小さい頃は妻と僕と沙紀の三人でよく来たんだ」

 この人は本当に、何が言いたいのだろう。沙紀の話とは全然違って、どこか柔和な雰囲気を持っている。少なくとも自分の娘を物扱いするような人間には見えない。

「……早く、済ませてもらえませんか」

「ああ、ごめん。久々に来たから、懐かしくてね」

 ……謝っても一向に話し始めない。目を瞑って店内の空気と流れるような音楽を堪能してるようにしか見えなかった。

「……七年前に、妻が死んだんだ」

 だから、唐突にそんなとんでもないことを口にされて、すぐに言葉の意味が理解できなかった。

「その日はとても晴れた日で、家族で近くの公園まで行こうとしたんだ。だが、僕は仕事があって、妻と沙紀の二人だけで出かけていった。聞いたことはあるだろう? 七年前のあの事件のことは」

 あの事件。七年前子供だった僕はその事件の詳しいことは知らない。

 知ってる人もあまり口を開きたがらないし、聞いてもほとんどの人が答えてくれない。みんな一様に悲しい、とても悲しそう口を噤む。僕も、詳しいことは何一つ知らない。調べようと思えばいくらでも調べられるにも関わらず、誰もが語りたがらないという事実が、僕に二の足を踏ませていた。

 そんな、この町の最大の悲劇。その事件に、沙紀が関わっていた?

「その事件が終わった時には、幾つもの死体、そして、その死体を色のない瞳で見つめる沙紀がいた」

 彼の表情が歪む。きっと彼の頭の中にはその光景が焼き付いているのだろう。鮮明に、色濃く。

「運良く、いや不幸中の幸いというやつか。沙紀はこの事件のことを覚えていない。母親との思い出と、共に。全てを忘れ去った。いや、忘れてくれた」

 それ以上琢己さんは語らなかった。それでも、僕は理解することが出来た。

 沙紀は、母さんのように記憶の置き換えを望んだんだ。辛い現実から逃げ、母親の不在の理由を自分にとって耐えられる領域まで下げた。

 どちらも、現実を『なかった』ことにした。

「……それで、その話とあなたが沙紀にとった行動に何の関係があるんですか」

 確かに悲しい話かもしれない。出来ることなら耳を塞ぎたかった事実。けれども、何一つ今と結び付くものはない。言葉を口にすることなく、琢己さんは無言でコーヒーを口に運ぶ。飲むためではなく、乾いた舌を潤すためのように見えた。

「非道に聞こえるかもしれないが。僕は、沙紀が母親の存在を忘れたことは幸運だったと思う。覚えていれば、沙紀にとって心の傷となり、あの娘を蝕むはずだ」

 幸運か不幸か。それは今関係ない。

「だからっ、そのこととあんたがしたことに何の関係が――――」

 僕の言葉を遮るように、琢己さんは無言でテーブルに何かを置いた。カプセル、錠剤、粉末。大小様々の薬があった。

「これは……」

 薬は病気や怪我を治すためにだけ存在する。もしこの世に病気や怪我がなければ、薬は存在する価値がなく、必要とされることもない。存在を否定するために生まれた物。そして、その存在がなければ存在を否定される物。そんな不安定な存在が、目の前にいくつも置いてあった。

「僕はもうじき死ぬ」

 そう、淡々と口にする。表情も変わらず、自分が死ぬことを受け入れているような表情で。

「癌でね。もういくつも転移してる。もう宣告された余命の半分はとうに過ぎた。もし僕が死んだら、親の死という共通の事象が沙紀の記憶を蘇らせてしまうかもしれない」

「だから、わざわざ嫌われるようなことを言って、自分から遠ざけた……?」

「ああ」

「……そんな、確証もないことを恐れて?」

「そうだ。だがもし起こってしまった場合はどうする。あの娘は弱い、もし妻の死を思い出したら心が壊れてしまうかもしれない」

「嫌いな父親の死なら、優しく大好きだった母親の死とは結びつかないと……?」

「そうだ」

 もう、限界だった。

「気持ちは、わかります。けど、そんなの」

 握り締めたコップがミシリと不快な音をあげる。

「そんなの、ふざけてる……!」

 その握り締めた拳を、そのまま卓にぶつけたくなるほど。

「自分が死ぬから? 沙紀が辛い過去を思い出してしまうから? ふざけるなっ! そんなのたいした理由にならないだろ!」

「……なら、君は沙紀が必要以上に傷つけばいいと言うのか」

「それを判断するのは僕たちじゃない! 沙紀自身だ!」

 琢己さんの反論を、真っ向から否定する。否定できてしまう。

「僕たちは全員いつ何処で死ぬかなんてわからないんだ! 何もあんただけじゃない! 誰もがそういう日常に生きてるんだよ!」

 今まで生きていた人が、次の瞬間には死に絶えているかもしれない。死の理由なんていくらでも転がっている。いくらでも、不慮の事故は起こり得る。

「あんたはまだいい方だよ! 死に向けてへの道しるべが用意されてるんだから。死は毎日にあるんだよ! いつものように笑顔で別れて、次に会った時には冷たくなっている。あんたにはそれはないだろう!?」

 今度の仕事は長くかかるから、家のことは頼んだぞ。なんていつものように笑顔で僕に頼んで、その日の内に、その笑顔が一生見られなくなるように。

 帰ってきたら、また一緒にどこか出かけようなんて約束を交わせなくなるように。

 どこにだって、不条理は転がっている。

「沙紀が思い出してしまうからなんて、たいした理由にならないっ。あんたがやったことは、親の死と同じくらい、苦しく痛いことだったんだぞ! ずっと好きだった父親に否定されるのと、父親の死は、どっちが辛いかなんて量れるものじゃないだろうがっ!!」

 量れるものじゃない。どちらも辛く、厳しい。だからこそ、僕はこんなにも苦しんできた。だからこそ、沙紀は一度は死を選びたくなるぐらい、追い詰められたんだろう。

「それに耐え、笑顔になれる沙紀を侮るな……沙紀は弱くなんてない! あんたが思ってるよりもずっと、ずっと強い!!」

 存在の否定。それは、否定した者にとって、『あなたは必要ない』と告げられること。人は誰かに必要とされるから生きている。生きたい、という感情は一人では生まれはしないんだ。

「確かにあんたは不幸だよ。余命だなんてカウントダウンがあるんじゃ孫の顔なんて見れないかもしれない。けど、それと同時にあんたは幸せなんだよ! 余命という絶対の期間があるから、残す者に別れを告げられるじゃないか!」

 もし、親父の死は絶対で、覆すことは出来なくても、余命という時間があれば、もっと大切なものを伝えることが出来た。教わることが出来た。受けとめる時間があれば、母さんも僕を否定しなかった。僕のことを忘れて、過去に目を奪われ続けることもなかった。

 だからこそ、そんなつまらない理由でその機会を逃すこの男を許せない。

「謝れ」

 俯いているこの男を睨み付ける。怒りと、羨望の入り交じった瞳で。

「土下座でもなんでもして沙紀に謝罪しろ。あなた達は、それで元通りになれる」

 財布から自分の分のコーヒー代を出し、机に置く。

「それが、できるのだから」

 そのまま椅子に掛けていたコートを取って店を出た。最後まで、僕は彼の顔を見ることはしなかった。僕の言葉が正しく伝わったのか、確かめることはしなかった。言いたいことだけ言って、知りたいことだけ知った。

 だけど、反論はなかった。

 なら、そういうことなのだろう。



「これからどうするかな……」

 山小屋まで帰りながら拾ってきた枯れ木を折って小さくして、火に放り込む。小指程度の長さの小枝はすぐに燃え上がり、炭になった。

 僕がここで沙紀と奇妙な同居生活を続けていたのは、親に否定された沙紀を一人きりにしておきたくなくて……なんてのは本当の理由ではなく、僕が仲間を欲しかっただけだ。親に否定された子供、という仲間を。けれど、本当に心の底から否定されたのは僕だけだった。沙紀は違う。両方が傍にいることを望んでいる。

 独りぼっちは、僕だけだ。

「……けど、それがなんだっていうんだ」

 例え僕だけが一人だとしても、沙紀のために何かをしたいという気持ちに偽りはない。そうだろう? むしろ、喜ぶべきことなんだ。

『他人の幸せを、笑って、素直に喜べる人間になれ』

 口癖のように、何度も何度も僕に言った言葉。

 親父、僕はあんたのような人間にはなれないよ。あんたみたいな豪気で、熱い人間は僕のキャラじゃない。けど、根っこは同じでありたいんだ。

 誰かの幸せを願って、笑える人間でありたいんだ。

「まだ、手伝えることはある……」

 なら、迷うことなんてない。



 僕は帰ってきた沙紀を、そのままトンボ帰りさせるような形で山を下りていく。僕の突然の行動に戸惑いながらも沙紀は渋々ついてきた。

「苦労して登ってきたのに……」

「まぁまぁ。そんなことよりさ。沙紀の家ってどこ?」

「………………」

「あれ? 沙紀」

 そこだけ時間が止まったように、ピクリとも動かない沙紀の目の前で手を振ってみた。その手を沙紀は綺麗な歯並びをしている歯で、くっきりと歯形が残るほど力強く噛んできた、って。

「……え?……ぎゃぁぁぁぁぁぁ!! い、いきなり何するですかー!?」

 あまりの痛みに日本語がおかしくなった。しかもちょっと泣きそうな声。

「あ、あんたがいきなり変なこと言うからでしょ!?」

「だからって力一杯噛むこともないだろ!?」

「だ、だって……」

 戸惑うのも、無理はない。当たり前だ。ずっと味方だと思っていた人物が、いきなり戦場へと放り出そうとしてくるんだから。

「……君はまだ掴めるんだ。伝えたいことは伝えられるし、教わりたいことは教えてもらえる」

 僕とは、違って。

 どんなに言葉を並べて否定しようにも。死はありふれていて、日々の中に形を変えていくつも潜んでいる。夢を壊し、願いを砕き、希望を殺す。それでも、沙紀にはまだ時間があるんだ。笑いあえる時間が。家族で、正真正銘の、本来の関係で笑いあえる時間が。

 沙紀の両肩に手を置き、彼女の不安に揺れる瞳を見つめながら語りかける。

「もう一度向き合おう。恐いのはわかる。存在の否定がどれだけ心に傷を付けるかも知っている。それでも、君は向き合うべきなんだ」

 まだ君たちは、同じ場所に立てるのだから。

 震えていた瞳が、僕を見据える。

「……話す、だけだよ。どうなるかなんて知らないから」

 沙紀の瞳に浮かんだ覚悟。怯えを殺す強い意志。

「……君はこの時が一番綺麗だよ」

 思わずと呟いた一言に、沙紀の顔は熟れたりんごのように赤くなった。

「な、何言ってっ」

「え?」

 自分の言動を思い出す。うん、いや、何を言ってるんだ僕は。

 けど、嘘を言ったつもりは少しもない。

「今のは、その、口から出ちゃったというかなんというか。あまり深く考えないでもらえると、うん」

「そ、そう……」

 な、なんだこの空気は、気まずいというかむず痒いというか。

「と、とにかく行こう」

 顔を真っ赤にしながら沙紀の手を掴んで歩く。

「あっ」

 自分でも何をしているかわからない。何をどう考えたらこうなったか、そんなことはわからない。

「嫌なら、振り払って。沙紀はどこか抜けてるからさ、こうしてた方が安心なんだ」

「………………」

 沙紀は僕の手を離しはしなかった。もちろん僕も離さない。真っ白な雪の中、真っ赤な顔をした二人が手を繋いで歩いていく。

 山を抜けた後も手を繋いでいたが、さすがに町中に入ると手を繋いでいるのが恥ずかしくなったので、仕方がなく手を離した。手のひらにはまだ繋いでいたから生まれた熱が残っていて、それが冷たい風で冷やされ、失われていくのがもったいなくも感じた。

 町には雪はあまり積もってなく、道路や歩道は通行に困らない。二人で無言のまま、歩き続ける。

「……ここ?」

「……うん」

 沙紀は俯いたまま、目の前の我が家を見ずに肯定をした。

「ほら、行ってきな」

 一歩も踏み出さない沙紀の背中を軽く叩く。

「……うん」

 頷いても進まない。長い髪に隠れて沙紀の瞳は見えない。その瞳に浮かぶのは、恐れか、期待か。

 僕には沙紀を無理矢理背中を押す権利はない。促して、決意にするだけだ。伝えるべきことは伝えた。ここからは、沙紀の舞台だ。言葉もない。動きもない。ただ静寂だけがあった。

「……もし」

 沙紀の背中が、震える。声も、震えていた。

「もしもだよ? あたしが、もう一度否定されたら……」

「そんな」

 そんなことはない。君の父親は君を否定しない。望めば優しく抱き締めてくれるんだ。僕はそれを知っている。現にこの目で見て、感じてきた。だけど、それを僕から沙紀に伝えることは出来ない。これは彼らの問題で、俺に解答権はない。

 たった一言、たった一言で沙紀は踏み出せるようになるのに……。

「そんなことを考えても仕方がないってわかってる。それでも、そのもしが起きてしまったらあたしはどうすればいいの? もう、二度目は耐えられないよ」

「…………」

 ああ。

 まだ、あったじゃないか。沙紀に伝えるべき、大切なことが。

「……もし、そのもしもが起きてしまったら。迷わず帰ってくればいい」

 逃げ道は、ちゃんとあると伝える。

「僕は君を否定しないから」

 君が君のまま、在ってもいい場所はここにある。

「逃げ道は準備されているんだ。後は迷わず突き進むだけだろ?」

 いつのまにか、沙紀の震えは止まっていた。顔を上げ、真っすぐ目の前の自分の居場所を見つめる。

「……いってくる」

 宣言して、ポケットに入れていた鍵をドアに差し込み、回す。開き慣れたドアが開く。

「いってらっしゃい」

 いってきますと言うのは帰るため。いってらっしゃいと言うのはその帰りを待つため、そして迎えるため。

 沙紀はこっちに向き直し、もう一度「いってきます」と言った。




・水夏琢己


「ふぅ……」

 もう何年も吸っていなかったタバコに火を付け、思い切り吸い込んでみる。

「げほっごほっ」

 煙が肺を撫で回した。いや、撫でるではなく、削ったような感覚すらした。久方ぶりのタバコを僕の体は異物と認識し、受け付けなくなっていた。

「なるほど、僕も老いるわけだ……」

 僕がタバコを毎日のように吸っていたのは十年も前のこと、仕事で磨耗した精神の唯一の拠り所だったからだ。吸い込んだ紫煙は思考を停止させる。自分の意志でそれが出来ないからタバコに頼る。そんな毎日を続けていたら体を壊すのは当然だ。

 ある日、仕事場の近くの公園でいつものように仕事の合間に一本、と吸い込んだ途端、視界が歪み、吐き気が浮き上がり、体はまるで制御を失ったロボットのようにたたらを踏んだ。次の瞬間、気付けば僕はある病室にいた。質素なベットに横になり、真っ白な天井を見つめている。

「ここは……」

「あ、やっと起きた」

 誰もいないと思っていた。だから僕はその声がした時は大層素っ頓狂な声を上げたそうだ。

「あら、そんな声を出せるのならたいしたことはなさそうね」

 クスクスと笑いながら僕が横になっているベットに近づいてくる女性。彼女こそが、後に僕の妻となる、沙耶だった。

 どうやら突然公園のベンチで倒れた僕を見つけた彼女が手配してくれたらしい。僕が目を覚ますや否や。彼女は、散々僕の不衛生を叩き出した。これまで、僕の行動を懸念しても、心から僕を叱ってくれる人はいなかった。だからだろう、その日から僕は彼女に強く惹かれた。彼女の怒る気持ち、もうしないと言った時の安堵の表情。本当に? と問い掛ける瞳。その全てに惹かれてしまった。

 気付けば僕は、また来て欲しい。と自分の気持ちを口から出していた。当然、すぐに後悔の念が湧き上がる。

(な、何を言っているんだ僕はっ、今日知り合ったばかりの人に!)

 いくら悔やんでも僕が放った言葉は既に彼女の耳に入っている。どうせ断られる。もしくは適当に返事されるのがオチだ。そう考えると、次第に自分の心が冷めていくのがわかった。自分の体の管理も出来ない若造が何を言うか、身の程を知れ、と。心の中で誰かに言われた気がした。音のない時間が続く。呼吸の音さえもない。看護士たちの声も院内に流れていたクラシックも聞こえない。

 だが、静寂消える。

「ぷっ、あははっ!!」

「…………は?」

 何が何だかわからなかった。そんなに僕はおかしなことを言っただろうか。いや、言ったか。それでも、ここまで笑えるようなことだろうか。

「あっはっはっは……あー苦しい」

 苦しい、などと言いながら。彼女は笑っていた。笑い過ぎて目じりに涙を浮かべるほどに。

「いいわ、明日も来る。あなた馬鹿正直で面白いもん」

 深い意味はなく、ただ面白そうだから来る。それが彼女の行動理念だった。

 それから毎日、彼女はお見舞いに来てくれた。僕を対応し辛い冗談で困らせ、その反応を楽しむ。そんなやりとりは決して嫌ではなく、ただそれだけのことで彼女の笑顔が見れるのなら安いものだった。

 僕が告白した時も、彼女の対応はたいして変わらなかった。

「あはは! いいよ。あなたって面白いもん」

 と、何だか成功したのに不安になった。プロポーズも同じ。彼女は面白そうなものに弱いのだ。

「そ、そんな理由で……」

 また何とも複雑な心境になる。好意からの返答ではないのだ。喜びたくても素直に喜べない。

「あら、他にも理由はあるわよ?」

「は?」

「あ……」

 しまった。と口に手を当てて呟いている。思わず口から出てしまったといった様子だった。

「あー失敗、言わないつもりだったのになー」

「ど、どういうこと?」

「……あなたには。あなたには止める人がいなかった。あなたはタバコで無理矢理自分を抑えていた。不満も不安も無理矢理ため込んで、その存在を忘れようとしていた」

 まるで僕の考えをそのまま読み取ったかのように、彼女は僕の心情を口にしていく。

「このままそんな生活を続けていくと、いつか必ず壊れてしまう。私の父が、そうだったから……」

 彼女は悔やんでいたのだろう。父を不安を拭えなかったこと、不満を消せなかったこと。彼女のせいではないのに。彼女が悪いわけではないのに。

「だから、そんな人を見たくなかった」

「……それだけ、なの?」

「え?」

 僕を心配してくれたことは嬉しかった。けれど、それだけが僕と一緒に生きていく理由だとは思いたくなかった。聞きたいことがあるのに、言葉に出来ない。恐いからじゃない。なんて言ったらいいのかわからないからだ。

「……最初は、そうだった」

 沈黙を破ったのは彼女だった。

「お父さんの代わりに、あなたを救うことが出来たら、少しは気が晴れると思った」

 恐れて、けれど予想していた答えが彼女によって紡がれていく。聞きたくない。耳を塞ぎたい。ああ、こんな時にタバコがあったら、思考を断絶して、ありとあらゆる音を遮断出来るのに。

「けれど、もう違う。いつしか、代わりでもなんでもない、一人の女として、あなたを救いたいと思った」

 温かい手が頬を撫でる。気付けば、僕は彼女に抱き締められていた。

「しっかり言うね」

 耳のそばから声が聞こえる。いつもの明るい声ではない。真摯な願いを携えた、澄んだ声。

「あなたの不安を拭いたい、あなたの不満を受け止めたい。だから、私と結婚してください」

 その言葉の意味を理解するよりも前に、僕は彼女を強く抱き締め返した。強く強く。これ以上ないくらい愛しくて。

「よ、喜んで……」

 嬉しすぎて涙が出てきた。僕の意志では止められない。いや、止める意味がない。

 こうして僕たちは一緒になった。この後ぐしゃぐしゃになった泣き顔を見て、彼女が酸欠になるまで笑い転げたのもいい思い出だ。

 まだ火のついたタバコを見つめる。その先から上がる紫煙はもう必要のない物だ。

「今思えば、プロポーズも最後は逆になってしまったな……」

 僕は彼女の存在を忘れない。どんなに辛い過去があっても、彼女との道程はそんなものに染まることはない。

 彼女が残した、僕たちの宝物は、きっとまだどこかで頑張っている。

 幸せになる道を、精一杯模索している。

「沙紀を、探さなければ……」

 火を付ける前とたいして変わらない長さのタバコを灰皿に押し潰す。もったいないと思わない。どうせもう用はないのだから。

 ふいに、鍵を回す音が聞こえた。その後に聞こえてくる控えめな帰還報告。

 全てあの少年の言う通りだったのだ。

 僕には、もう道がない。だったらその道を突き進むだけだ。例え、その先に、彼女を悲しませる結末が待っていたとしても。それを耐えうるだけの強さを持っていると、親である僕が娘を信じなくてどうする。静かな足音が響いてくる。そして、愛する娘の姿が目に飛び込んだ。少し髪が伸びたかな、たった数日間で見違えたように大人になった。

 ……よく、似ている。君の面影がたくさんある。確かに残ってる。君がいた証が、君と僕が確かに一緒にいた証がちゃんとここに残ってる。

 残ってるんだよ、沙耶

「………………」

 沙紀は無言で、目線を合わせようとしない。当たり前か、あんな言葉を言って、今更父親面をするなんて、我ながら嫌気がする。

 それでも。もう失うわけにはいかないのだから。

 話さなければいけないことがたくさんあって、何から話そうかと考える。僕の体のこと。母親のこと。

 いや、とりあえず、おかえりと言おうか。

 君と生きた証の、大事な大事な愛娘に。




・刈谷優


「寒いな……」

 まさか人一人いなくなるだけで、こんなにも気温が下るとは思っていなかった。山小屋の中で一人でいることに寂しさを感じて、僕は今まで沙紀が座っていた位置を見る。

「……何落ち込んでるんだよ」

 今頃沙紀は父親と笑い合っているのだろう。あの娘のことだからこの数日間の苦労を嫌味ったらしく報告しているかもしれない。

「ま、もう当分会うことはないだろうな」

 沙紀は自分で幸せを掴んだんだ。わざわざそれを手放して、帰ってくることもない。

「いや、帰るじゃないよな……」

 沙紀の居場所はここじゃない。帰るべき場所は別だ。今こうして一人でいることを、寂しく思うのは間違っている。今までの生活は終わった。そもそも、今までの生活自体がありえないものなのだ。だから、間違っている。

 この小屋には沙紀がいた証がいくつもあって、その一つ一つが、俺に間違った寂しさを植え付けていく。沙紀が座っていた椅子、触れてみてもぬくもりはない。そんなものは冬の冷たい空気がとっくに排除した。

 それでも、俺はその椅子から手を離さなかった。ただ今までの日々が眩しすぎて、離れなれなくなっただけ。


「あー寒かった」


「はいぃ!?」

 だから、突然そのぬくもりを持った張本人の声が聞こえて、驚かないわけがない。

「ど、どうしたの?」

「え? あ、いやその」

 沙紀の服装はこれまでの装いとは違うもので、一度家に帰って着替えてきたことは確かだ。尚更疑問が湧く。

「……どうして戻ってきたんだ?」

「え?」

「その様子だと仲直りは出来たんだろ? だったら戻ってくる意味がないじゃないか」

 僕がそう質問すると沙紀は……明らかに不機嫌になった。目は僕を捕らえて離さないし、気のせいかこめかみ辺りに青筋が見えたような……。

「……用ならあるわよ」

 笑顔になったが、隠しきれない怒のオーラが滲み出ています。

「私物を置いて連れていかれたからね、それを取りに来たのよ」

「そ、そう。わかったからその笑顔はやめて……」

 そうだよ。よくよく考えれば沙紀の荷物が置いてあるんだから取りに来るに決まってる。僕の必死の懇願も華麗に無視して、沙紀は荷物をまとめだした。

「あー……」

 どうしよう。なんて言ったらいいのか全くわからない。心構えとかそういうのが出来てなかったんだし。

「……一応、言っとくわ……ありがとう」

「え?」

「優のおかげで、お父さんと仲直り出来たし……本音で話せたし……」

「……なら、もう知ってるのか?」

「うん」

「そうか……」

 誤解は解けた。もう壁はないはずなのに。沙紀の笑顔には何かが足りない。どこか、無理しているような、僕を安心させるために浮かべた笑顔。

「……知っていたんでしょ?」

 その笑顔を崩さないまま、先は僕に問いかける。否定する必要もなく、僕は頷いた。

「いつ聞いたの?」

「今朝。沙紀と別れた後、喫茶店で」

「そう……」

 絶望して、それを振り払って、新しい希望を見つけて、それが、期限付きの幸福で。

 何度繰り返すのだろう。挫けては立ち上がる。そのサイクルを何度。今でも僕は、沙紀のお父さんに言った言葉の数々が間違えてないという確信はある。だけど、それを沙紀が望んでいるとは限らない。

「負けないよ」

「え?」

「お父さんの命が期限付きでも、絶対。負けないんだから」

 馬鹿か、僕は。

『沙紀は死に負けるほど弱くはない!』

 僕はそう、彼女の父親に言い切ったのに。僕自身が、彼女を心の底から信じ切れていなかった。

「ああ。沙紀なら、楽勝だよ」

 どんなに高い壁でも、どんなに荒れた足場でも。今の沙紀なら一度も挫けることはなく、目の前の障害を打ち壊す。

「……あったりまえでしょ?」

 その願いを、沙紀はいつもよりも綺麗な笑顔で肯定した。


毎回毎回切りどころが難しかったり。40000文字以内ってすげぇ微妙だと思うんですよ私。

後書きや前書きに20000文字もスペース作るならその分本文に回して欲しいと思ったりしちゃったり

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