二章 1
二章の主人公、刈谷優は吹き荒れる吹雪の中、高校への通学途中にある女の子、水夏沙紀と出会う。似つかわしくない大きな荷物を背負った彼女は、優の呼びかけに冷たく応じ、冷たく言い放つ。
「ちょっと、死んでくるだけよ」
とまぁ、二章からは主人公を刈谷優という少年へと変わり進行していきます。
歪んだ、けれど愛情に包まれた親子のお話。
二章
忘れてしまいたいことがたくさんある。
全てが自分自身を傷つけてくる。
痛みを、苦しみを叩きつけてくる。憶えていることが、思い出を持ち続けることが苦痛で、悲しくて。
だから、忘れてしまいたい。
例え、誰もが望まない選択であろうと。
例え、誰もが望みたい選択であろうと。
私は、忘れてしまいたい。
・刈谷優
「さ、寒い……」
突然降ってきた雪は強い風と共に、僕に襲いかかる。視界は一面が真っ白。目の前に手をかざし、指先まで見えていることを確認する。どうやら、数メートル先までは見えているようだ。
まるで見本のような、完璧な吹雪の中を黙々と歩く。傘は登校を始めて三秒で大破。代わりの傘を差したところで結果は目に見えているのだから、無駄なことはしない。
「なんでこんな悪天候な日に、学校があるんだ……」
吹き荒れる雪のせいで視界は悪く、地面に積もった雪が足を取り、歩くことが難しい。この町は雪自体珍しくもないのだが、吹雪は滅多にないはずなのに。異常気象、と言うと大げさだけど、珍しいことだ。
今朝この吹雪を見た時、学校は当然休みになると思っていた。だけど、友人の涼森直樹からの連絡によると。
『いいか、今日学校あるからな! 絶対に来いよっ』
とのことだ。
「けど、ねぇ……」
ここ通学路なのに誰一人歩行者がいないんだけど。時間帯が早すぎたり遅すぎたり、といった具合にずれているわけでもないし。僕だって友達は疑いたくなんかない。けど、視界が悪いから見えてないだけです、とはさすがに思えない。だったら単純に、実際人がいないのだから見えないといった方が自然だ。
「やばい、ほんとに寒い……」
防寒についてはバッチリのはず。厚手のコートに毛糸の手袋毛糸の耳当て毛糸のマフラー。大抵の寒さならこの装備で耐えられるのだが、この毛糸づくしの防寒スタイルでも、寒い。風がびゅうびゅうと吹き荒れているから、体感温度がさらに低く感じてしまう。そりゃもう凍えるぐらいに寒い。幻覚が見えるんじゃないかってくらい、寒い。
……ああ、早速見えてきたよ。
ふいに、視界に映る人影。白い世界を黙々と歩いていく、女の子。胸の高さまで伸びた黒い髪は白い世界で対照的で、際立っている。
この豪雪の中、少女の歩みは強い。何らかの確かな意志による力強さ。だけど、背負っている大きなリュックがあまりにもこの幻想的な光景にミスマッチだった。
「……なんだあれ」
幻覚じゃない。現実だ。
現実に女の子が吹雪の中をリュックを背負って歩いている!?
「ちょ、ちょっと!」
僕は思わず、その少女を呼び止めていた。
「……何」
僕を見る女の子の瞳は冷たく、睨みつけるような目つき。明らかな拒絶の意志が、その瞳から伺えた。後頭部で結われた黒髪の一房が、吹き荒れる風に揺られている。
「そんなリュックを背負ってどこにいくのさ」
それでも、僕はその娘に話しかけてみる。
「あなたには関係ないでしょ」
またもや視線を送ってくる。絶対零度の凍える二つの瞳。マゾだったらたまらないのかもしれない。同じクラスの孝志だったら、喜びそうな視線を気にせず、僕はもう一度口を開く。
「いや、なんか気になったからさ」
「……そ」
短く言って、彼女は歩いて行こうとする。
「あ、待って。最初の質問に答えてよ」
彼女の動きが止まる。
「……別に」
ゆっくり、ゆっくり振り返った彼女の顔は。
「ちょっと、死んでくるだけよ」
悲しげに、けれど笑っていた。
その笑顔に僕は何も返せず、ただ白い世界に消えていく彼女を見ていた。
*
「寒かった……」
校舎に入り、頭や肩に積もった雪を払いながら下駄箱に向かう。そして、下駄箱を前にして、一瞬思考が停止した。
……なんでだ? なんで革靴が一足しかないんだろう。上履きはたくさん置いてあるのに。
ポツンと一足だけある革靴が置いてある場所の主。
『涼森直樹』
それからの僕の行動は速かった。上履きを踏むように履き、教室への道を風のように駆け抜け、扉を勢い良く開け、叫ぶ。
「おいっ直樹! どういうことだよっ!?」
「お、来たか」
誰もいない教室で悠々とチョークでジャグリングをしている男、涼森直樹。いつも飄々としていてつかみ所がない。その反面、人懐っこくて裏表がない。そういった両面を持ったクラス一の人気者。
まぁ、それは表面上の話で、気心の知れた相手には暴虐武人唯我独尊を人の形に収めたような人間なんだけど。
「お、来たか。じゃなくてっ、どういうことだよ! やっぱり今日は休みじゃないかっ!!」
校内は沈黙していて、直樹を責め立てる僕の声が反射し合って響く。生徒はもちろん、教員もいない。
「話すと長くなるんだが……家に連絡があったんだ……」
直樹の手からチョークが滑り落ちて、砕けた。
……いや、急に雰囲気変えられても。
「今日は吹雪だから学校は休みだって……電話に出たのは姉さんだった……そして、姉さんは俺にそれを伝えることなく仕事に行った……」
「……まぁ、瑞穂さんならやりそうだな」
涼森瑞穂。直樹の実の姉で看護士の仕事をしている女性だ。なんというか、姉弟そろって傍迷惑な話だけど、瑞穂さんは更に性格が悪い。たぶん、今回は直樹が苦労する方向へと駒を進めようとしたのだろう。
「俺はいつもどおり学校の用意をして、家を出たんだ。吹き荒れる吹雪の中、やっと俺は学校に辿り着いた。けど、校舎の中には誰もいなかった……俺は捜し回った。ありとあらゆる場所を、必死で……」
直樹が顔を上げ、天井を仰ぎ見る。その姿は、涙を溢さないようにしているように見えた。
「俺は理解した……今日は休みなんだと。休みなのに、俺は何をしているんだ。そう思ったら、悲しくなって、一人じゃ、耐えられないからっ……!」
「……僕を呼んだと?」
親指をグッと立ててくる。とびっきりの笑顔で。思わずナイスサムズアップ! とか言ってしまいそうなほど見事な。
「……バカじゃないの」
誰もいない校舎に僕の呟きが静かに響いた。
「はっはっは、めんごめんご」
「軽いよ! もっとしっかり謝れっ!」
「……わかった」
直樹が神妙な顔をして教室から出ようとする。
「は? どこ行くんだよ」
「なぁに、包丁を取ってくるだけさ」
「なんで!?」
「泣きながらおまえの腹に包丁を突き刺しつつ謝るんだ」
「恐いよ! どんなシーンだよ! 普通に謝れ!」
「感動しない?」
「しない! というか僕死んでるから感動も出来ないからな!?」
「……当たり前じゃん、何言ってんの?」
「いきなり素に戻るなっ!!」
……こんな毒にも薬にもならない無駄な会話が、僕たちの普通の会話だ。直樹が突拍子もないことを言って、今はここにはいない孝志がそれを増徴し、その二人を僕が静める。中学校から今の高校まで、ずっと続けられてきたサイクル。
決して悪い奴らではないし、その輪の中の居心地も意外と良く、これまで続いてきた関係だ。それに、直樹にはここ数日、私生活の面でも多大に助けてもらってる。だからってわけじゃないけど、これぐらいの面倒を被るのも悪くはない。
「はぁ……で、わざわざ呼んでおいて言うことはそれだけか?」
「……まぁ特に何かをするために呼んだわけじゃないな」
顎に手を当てて思考する直樹を見て、数瞬前に考えたことを後悔しそうになる。
「……無計画かよ」
「まぁいいじゃん。学校体験とかしてみようぜ。誰もいないから好きな場所行けるぞ?」
学校というのはある意味閉鎖空間だ。部外者は入れないし、現生徒でも入れない場所は多々ある。その障害が、今はない。
それに、興味はない、と言えば嘘になる。別に僕だって品行方正な生徒ってわけでもないしね。
「じゃあ手始めにどこに行く? 無難に職員室辺り?」
「いやおまえは女子トイレ」
「いきなり決め付けないでよ」
「これはもう決定事項だからさ」
「お断わりします」
そんなのは孝志にでもやってもらえ。あいつなら喜んで行くだろうさ。
「えー、それじゃあ『優が女子トイレに侵入!? うれし恥ずかし斬首大会』が出来ないじゃん」
「そんなダークな大会なんて最初からやるつもりはないからね」
ただの女子トイレ侵入の割には、洒落にならない刑が執行されてるぞ。
「まぁいいや、じゃあ職員室に行こうぜ。まずは蛍光灯全部にピンクのセロハン被せてイケないバーみたいにしようぜ」
「それ絶対休み明け問題になるから」
*
「しかし、ここまで静かだと不気味だな」
無人の職員室。外の吹雪は弱まっているらしく、ひどく無音の空間が広がっている。元々あまり入ることのない部屋だが、普段とは漂う空気が違うことがよくわかる。
「ほい。ま、これでも飲んで落ち着けよ」
そんな職員室の空気に囚われていると、直樹がコーヒーが入ったコップを差し出してきた。
「お、サンキュ」
煎れたてのコーヒーは特有の香りを強く放っていた。礼を言って受け取り、一口飲む。うん、おいしいな。普段はインスタントや缶コーヒーだし、やっぱり豆から挽いたものは格別だ。
「って煎れるの早いな!」
「ん? ああ、おまえが来る前に先に入っててな。で、その時に」
「そ、そうなんだ」
思わず突っ込んでしまった。なんか体に染みついてるなぁ……。
……あ、なんか悲しくなってきた。
「しっかし、ざっと見たところたいした物ないよな。テストの答案も見当たらないし」
「いや、さすがにそれは探さないでおこうよ」
けど、直樹の言う通り教員の机にはたいした物はない。教材に、様々な文章や問題が書かれたプリント類。パソコンにたくさんの私物……さほど興味は湧かないな。パソコンを起動してみてもパスワードがわからないからどうしようもないし。
「ん?」
何も考えず、ただブラブラと歩いていると、教員用に置かれている小さな黒板に、磁石で何かの用紙が付けられているのを見つけた。
「今年度合格生徒……?」
A4サイズの紙に顔写真、名前、現学校名などが書かれている。黒板に張られているのは表紙だけらしく、本文は閲覧しやすいように机の上にファイルで挿まれた状態で置かれていた。
興味を惹かれ僕はそれを手に取った。ペラペラと紙をめくり、流し読みしていく。
「……あ」
その中に今日、ついさっき会った女の子の名前があった。
水夏沙紀。それが、あの吹雪の中にいた少女の名前だった。
『ちょっと死んでくるだけよ』
別れ際に残したあの言葉が、あの時の寒さと、彼女の瞳の冷たさと共に思い出される。
死って、あの死だよな。呼吸が止まり心臓が止まり、体温が失われ、もう一生話すことも触れることもできなくなる、あの。
……だいたい、ちょっと死んでくるってなんだよ。死んだら、ちょっとなんかじゃ済まないだろ。何故だか、無性に腹が立つ。死を軽く見てるから怒ってるのか、
理由はよくわからないけど、腹が立つ。怒りの矛先がわからない。机に強く押し付けた指先が痛い。それでも押し付けることは止めない。止められない。
「……ごめん。僕もう帰るよ」
「は? お、おい優っ?」
怒りと共に思い出したくないことまで脳裏に湧き出てきて、僕は直樹の制止も聞かずに職員室を飛び出した。
*
一ヵ月前、親父が死んだ。馬鹿みたいに酒を飲み、馬鹿みたいにタバコを吸った馬鹿親父。僕とは正反対の性格をした、ムキムキマッチョの熱い男。そんな男が、僕の父親だった。
豪快で、けれど優しい親父のことは、嫌いじゃなかった。
親父は大工だった。いかにも親父らしく、親方と呼ばれ皆から好かれていた。
ビルの建設中、誤って転落しそうになった新人を無理な体勢で助け、代わりに自分が落ちたらしい。なんとも親父らしい死に方だ。
初めて話を聞いた時、母さんは泣き崩れた。僕自身も話の内容が少しも理解できる気がしなくて、何もせずにただ俯いていた。家の居間には母さんの泣き声しか聞こえなくて、その声が今でも耳にこびりついて離れない。そんな僕たちに、その転落しそうになった新人の方は何度も謝った。土下座して、額を畳に擦り付け、大声で泣きながら何度も、何度も。
僕は、何も言えなかった。あなたが悪いんじゃないと慰めることも、あんたの所為だと責めることも。
ただ親父が死んだという事実を受けとめるだけで精一杯だったんだ。
*
ただの山も、雪が積もれば雪山となり、地元の山でも登山家になった気分になれるものだ。
「くっ、ほっ、あ、歩きづらいなぁ」
一歩進むたびに足が雪に取られる。足場が不安定な山道なら尚更だ。腿の高さまで埋まった足は雪の冷気のせいで段々と感覚が薄くなってきた。
「くそ、もっと体力つけとけばよかった……」
普通に歩くより体力を使うし……。
急いで足を動かす。立ち止まってしまうと残り少ない足の熱で雪が溶け、水が靴の中に入ってしまう。けれど、慌てて歩いたところで雪に足を取られる可能性が上がるだけだ。じっくり、着実に雪道を歩み。
「着いた……」
川幅五メートルくらいの清流。凍らずに、澄んだ水を流し続けている。少し奥には小さいながらも立派な滝がある。この川は、僕と親父の思い出の場所だ。
親父はキャンプ等のアウトドアが好きで、週末になるとよくこの川まで来てテントを立て、泊まったりしていた。火の起こし方、魚の取り方、他にも色々なことを教わった。僕が高校に入ってからは、親父も僕も中々時間が取れず、来れなかったけど。
「もっと、来ればよかったな……」
今考えれば、時間なんていくらでも作れた。親父だって根がアレだ。頼めば一緒に来てくれただろう。
「……後悔してもしかたないか」
もともとそれを吹っ切るために来たんじゃないか。腐っていたら本末転倒だ。
「帰ろうか」
来た道を戻ろうとして。
「え?」
すぐに足を止めた。
水を吐き出し続ける滝の上。その上に、いつのまにか立っていた人影.
その人影が、滝壺へと真っ直ぐ飛び降りる光景が目に飛び込んできたから。
「なっ!?」
最初は見間違いだと思った。けど、明らかに何か大きな物が飛び込んだとわかる飛沫。広がる波紋がその希望を打ち消した。
「くっ」
防寒具を脱ぎ去り、何も考えず滝壺に飛び込む。
氷の服を着ているみたいな、突き刺すような冷たさが容赦なく全身を襲う。体はガクガク震え、心も震える。それでも目は人影を探し、腕はより深いところへ向かい水を切る。
こんな所で、僕の思い出の場所で、勝手に死のうとするな。
滝壺の深さがどれくらいかは知っている。いるとしたら……。
水深三メートル程の深さにある岩にしがみついている人影が見えた。苦しそうに顔を歪めているが、岩を離さない。
どうして。どうしてそこまで、死のうとするんだ。
後ろから腕を抑えるように抱き締める。抵抗はない……
いや、すでに抗う力もない……?
光りある水面に向かって、抱き締めた状態のまま浮上する。そんな光景の中に、黒く輝く漆黒の髪がチラついた。
「ぷはっ」
とにかく、岸に上がらないと……。
無我夢中で岸に上がる。風が吹くたび濡れた体から体温が根こそぎ奪われていく。
このままじゃ僕まで凍死する……けど。
この娘、水夏沙紀が先だ。どうして彼女がここに? なんて疑問はあるが今は気にしてなんていられない。
「えっと、まずは呼吸を」
なけなしの救助知識を総動員させる。えーと確か人工呼吸をして心臓マッサージを……って人工呼吸!? いやいや人命救助なんだから仕方ないだろ? けど誰もいない山の中でってのは道徳的にどうだろう。いや、誰も見てやしないんだし関係ないか……なんか思考が犯罪者っぽいなぁ……。
「ああもう! そんなこと悩んでる場合じゃないだろ刈谷優!」
気道確保! はいレッツゴー!!
「うっ、げほっ、ごほっ……」
「っ!」
飛びずさって距離を取り木の陰に隠れてしまうが、別にここまで逃げる必要はなかった気がする。
「うぅ、はぁ……こ、ここは」
「き、気が付いた?」
「え? う、うん」
「そうか……よかった」
水はそれほど飲んでいないのか軽く咳き込むぐらいで、特に問題はないようだ。
「……あなたが、助けてくれたの?」
「まぁ、そうだけど」
「そ、そうなんだ……ありがとう」
俯きながらお礼を言ってきた……ん? なんだかちょっと違和感。
「あの、お礼を言うのはおかしくないかな。君……自殺しようとしたんだろ?」
水夏さんの表情は、まず僕が何を言ってるのかわからないような顔をして、数瞬の間をおいて。
「そ、そんなわけないでしょ馬鹿!」
僕を貶し出した。
「へ?」
「あたしがどうして自殺なんかしなきゃいけないのよ!?」
「え? だって飛び降りようと――――」
「あれは滝の上から川を見てたら足を滑らしただけよっ」
「だって岩を掴んで溺れようと――――」
「あれは岩の間に足が挟まって抜けなくなったから!」
言われてみれば、そう見えてもおかしくない光景ではあった。僕の早とちりだったということに一安心し、同時に不慮の事故から救出できたことを嬉しく思う。
……けど、やっぱりどうしても違和感は残ってはいるけど、まぁ、今はいいか。
「やっとの思いで靴を脱いだと思ったら水を飲んじゃって……」
「……なるほど」
そこを運良く僕が助けたというわけか。
鋭い音を立てながら寒風が僕たちの間を横切っていく。水に濡れた服を着たままの状態で、極寒の中悠長に会話している場合じゃないな。
「とりあえず移動しよう。このままじゃ凍えてしまう」
「う、うん」
僕はさっき脱ぎ捨てた防寒具を取り、水夏さんに着せる。
「これ、あなたのじゃない。あたしは大丈夫よ」
「いいから着ときなって。そもそも君の服装自体寒そうなんだ。見てるこっちが寒くなるくらいにさ」
「む……」
しぶしぶ僕のコートに袖を通す水夏さん。
……かっこつけすぎたかも。顔には出さないように努めてはいるが体はブルブル震えまくっている。早く暖をとらないとそれすら隠し通せなくなりそうだ。水夏さんの手を引いて、目測と勘だけで雪道を進んでいく。たしか、僕の記憶が正しければこの先に。
「あった!」
元々がハイキングコースだから、各所に休憩所が置かれている。小さめの山小屋が、寒気のせいで震える視界に映った。もう使われてない休憩所だから人が来ることもない、はず。と決め付けて入り込む。
山小屋の中には充分なほどの用意がされていた。部屋の中心には囲炉裏があり、その近くには椅子や布団を広げるスペースもある。長らく利用者がいなかったためか多少埃っぽいが、今はそんなことを言ってられない。隅に用意されている薪をくべる。薪だけでは火の点きが悪いので、たまたま鞄に入っていた学校のプリント(PTA通信)にライターで火を点ける。
「ちなみにライターを持ってるのはタバコを吸うからじゃない。いざって時の為だから」
「……誰に言ってるの? 別に、疑ってなんかないけど」
「……いやまぁ、念のため」
パチパチと音をたてて燃えるPTA(略)を、積んだ薪の間に投げる。
「これで大分暖かくなるかな」
さて、次は服を乾かさないと。そう考え上着を脱ぎ、そのまま着ていた制服の脱ぎ去っていくと。
「きゃあ!」
横から甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「い、いきなり脱ぎださないでよ! びっくりするじゃない!」
「……あ~はいはい」
そうでしたそうでした。女の子がいたんだった。僕はこれまた隅に積まれていた毛布(ほんとに用意いいな何だこの小屋)を水夏さんに渡した。
「服を脱いでしっかり絞った後、暖炉の傍に何か使って干しといて」
「脱ぐ? ここで?」
「そうだけど」
「嫌よそんなの!」
「……ああ、別に見ないよ。後ろ向いてるし」
警戒するのも無理はないだろう。彼女の心情を察して僕は言葉を口にしたつもりだったのだが。
「着替えている時同じ空間にいるのが嫌なのっ」
僕の想像を超えた内容の返答だった。とてもボロ糞に言われてる。一応命の恩人なんだけどなぁ。だからといって、それを笠に着るつもりは毛頭ない。
「それじゃあ僕は外に出てるよ」
「え?」
「だって同じ空間にいるのが嫌なんでしょ?」
どちらにしろ、早いとこ暖を取らないと仕方がない。折衷案を模索してる暇もない。だったら、僕が折れて彼女の意見を通した方が話は早い。
「え……、あ、でも……ううぅ……」
水夏さんの顔が羞恥のためか、真っ赤になっていく。
「……まだ服が濡れてるじゃない。……やっぱり、いていい。風邪引くし……」
「いいって、大丈夫だよ。それに薪がもうないからさ、ついでに拾ってくる」
ドアを開くと、寒風が親の仇の首をとらんとばかりの勢いで吹いてくる。
まぁでも、どうやら吹雪は止んでいるらいく、視界は良好だ。問題はない。馬鹿みたいに寒いけどそれは覚悟の上。
「それじゃあ行ってくるけど、気をつけてね?」
「う、うん……」
身に刺さるような寒気は治まることなく、僕の体に猛攻を仕掛けてくる。けれど、僕は懸命にそれを顔に出さない。
「さて、と。それじゃ、僕は薪を探してくるよ!」
山小屋の中にいる水夏さんが気負わないように、元気に声を上げて僕は雪道に一歩足を踏み出した。
*
「……と、こんなところかな」
一応、薪は片腕が埋まる程度の量は見つかった。この季節、ほとんどの薪は雪の中に埋まっているが、降り続ける雪の重みに負けた枯れ木の枝が結構な頻度で折れていき、それを細かく折り分けていけばそれなりの量にはなる。そろそろ中断して、山小屋に戻るとしよう。
手袋を付けているとはいえ、指先の感覚が段々と薄れていく。それどころか、中途半端に乾いた服は凍りつきかけていて、動く度にパキパキと音がする。僕はこれまでの足跡を辿り、山小屋へと戻っていく。
そして、山小屋の扉に手をかけ、少し開けた途端に漏れ出る黒色の煙を見て、今まで感じた寒気が温く感じてしまうほどの怖気が走る。
「水夏さんっ!?」
腕で口を抑え、山小屋に跳び入る。黒煙が目を燻す痛みを耐えながら、慌ててありとあらゆる窓を開けると、一酸化炭素が充満していたのが段々新鮮な空気に変わっていく。
晴れていく視界の中、必死に視線を巡らせると、水夏さんが倒れこんでいるのが目に入った。
「水夏さん! 大丈夫!?」
体を抱き上げ、肩を揺らす。
「ん……」
反応があり、一安心する。よかった……あまり煙は吸ってないようだ。
毛布に包んだまま水夏さんの体を抱き上げ、外に連れ出す。すると、水夏さんの目がゆっくりと開かれた。
「……あれ? なんで外に……」
「気が付いた?」
「え、うん……っ!」
突然毛布を掴んで鼻の辺りまで隠しだす。その行動の真意がわからず、ただ水夏さんの顔を見ていると、上目遣いのジトっとした目で僕を睨んできた。
「見た?」
「何を?」
「その……」
水夏さんは顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
「……ああ」
そこでようやく、水夏さんの心情が読み取れるようになる。あー、はいはいなるほどね。僕が薪を拾いに行く前に言ったことを律儀に守っているのなら、今水夏さんは全裸だ。
この毛布の下は全裸だ。(大事なことだから二回言いました)
……なんか惜しいことした気になってきた。そうは思っても口にするわけにはいかないので、僕は努めて冷静な振りをする。
「残念ながらこれっぽっちも見てないです。ほんと」
「……そう、ならいい」
しかし、一度意識しちゃうとどうしても気になるな───ってそういうことじゃなく!
「コラー!」
「きゃっ」
「物を燃やした空間で窓を閉めきってたらダメだろっ! 一酸化炭素中毒で死にたいのか!?」
暖気を蓄えるのは結構なことだが、密閉性を保ったままではいつか一酸化炭素中毒でお陀仏になりかねない。火を扱うならば気を抜かず、定期的な換気をしなければならないのに。
「だ、だから死にたくなんかないって言ってるじゃない!」
「だったらどうして窓を開けておかなかった! あのままだと本当に死んでいたんだぞ!」
「うっ、その……寝ちゃったの。ポカポカして、眠くなっちゃって」
「……はぁぁぁ」
正直に言ってくれたのはいいとしても。理由がなんとも間抜けで気が抜けてしまう。もう、なんとういうか。
「君、ものすごいドジなんだね」
指差して言ってやった。
「なっ!」
「だってさ、足を滑らせ滝壺に落ちるわ換気忘れて死にかけるわ。ドジって言われてもしょうがないと思うよ?」
どちらも死に直結してる分、笑い話では済まない。
「……ごめんなさい」
けれどまぁ、こうして素直に謝ることができるのだから、改善の余地は充分ある。
「それじゃ、そろそろ換気も済んだだろうから、服を着てきなよ。裸のままは寒いでしょ?」
水夏さんを降ろし、着替えを促す。素足に感じる雪の冷たさに顔をしかめながら、水夏さんはいそいそと山小屋に入ろうとして。
「う、うん。あっ、覗かないでよ!?」
僕に警告をしてきた。
「……わかってるってば」
どれだけ警戒されてるんだろうか。年頃の女の子の反応としては、別におかしくはないだろうけど。ここまで言われてしまうと、なんだかネタ振りのように感じられてしまう。もし孝志や直樹だったら迷うことなく覗きそうだ。
意識を切り替えて、突然の事態に慌てて放った薪を集め直して、水夏さんが着替え終わるのを待っていると。
「きゃあー! 毛布に火がー!」
「…………おいおい」
もう少し、微笑ましいドジをして欲しい。
*
「ごめんなさい……」
「だから、もういいって」
と苦笑いを浮かべつつ、さっき思い切り叩かれた頬を擦る。
水夏さんが纏っていた、火のついた毛布を掴み外の雪に投げて鎮火させるまではよかった。問題は、毛布という遮蔽物をなくした水夏さんは当然スッポンポンで、でもってその姿をしっかりバッチリ見てしまった僕は彼女の金切り声と共に放たれたビンタをもろに食らったというわけだ。
そして僕がピヨっている間に水夏さんはそそくさと着替え、今に至る。
「今日は心休まるイベントがないなぁ……」
精神的にも肉体的にも疲れる日だ。まぁ、今に始まったことじゃないけど。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
僕は改めて、しっかりと水夏さんを見据える。
「今日、雪の中、僕たちは道端で会ったよね?」
「……うん」
「その時、君はこう言ったんだ。『ちょっと死んでくる』って。あれは、どういう意味なんだい?」
単刀直入の問いに、水夏さんは返事をしてくれない。できないのか、しないのか。まぁ、それはどっちでもいいことだ。
「最初は言葉通り、君が自殺しに行くんだと思った。けど実際は違った」
足を滑らせて滝壺に落ちた。水夏さんの言葉を信じるなら、真相はそうなる。
「そこのところ、詳しく教えてくれないかな?」
沈黙は続く。水夏さんは俯いたまま、僕と視線を合わせようとしない。
「無理にとは言わないよ。話したくないならそれでもいい」
会った時、まるで大人の女性のような雰囲気がした。凛として、清廉していて。儚さを兼ね備えた、雪の中に咲く一輪の華のようにすら見えた。けど、それが今では、怒られてただ黙り込むしかできない子供のようだ。
どっちが、君の本当の姿なのだろう。
「二回、いや三回か」
沈黙が十秒、一分と続いたところ。ようやく彼女の口が開いた。
「それだけ助けてもらってるわけだし、話さないといけないよね」
「別に、恩着せるために助けたんじゃないよ」
「ふふっ、わかってるよ」
初めて見せてくれた笑顔は、少しだけ、雪の中で見た一輪の華を思い出させた。
「シュレーティンガー方程式って知ってる?」
「……まぁ、聞いたことはあるけど」
確か箱の中に猫と……毒ガス発生装置だっけか? それを入れて……ダメだ、それぐらいしか覚えてない。
「木箱に猫といつ作動するかわからない毒ガス発生装置を置いて蓋をするの。何分後かに木箱を開いた時、中の猫はどうなってるか。実際は分子とかそういう科学的な話なんだけど、重要なのは、木箱の中の猫はどうなっているか。生存、瀕死、死亡。だいたいその三つが考えられるけど、箱を開けなければわからない。つまり、誰かが確認しなければ、箱の中の猫は存在しないことになる。存在しないこと、それは他者から見れば死、消滅ということなの」
「……難しいこと言って、誤魔化そうとしてない?」
まさかと思った答えを口にしてみると、さっきまで得意げに語っていた水夏さんの動きがピタリと止まった。
「…………家出?」
「……まぁ、そんなとこね」
……うん、ごまかしたくなる気持ちもわかるけど。もう少し、身の丈にあったごまかし方を考えよう。
「最初からはっきりそう言えばいいのに」
「だって、家出ってなんか子供っぽいじゃない……」
一転してただの女の子のように、照れくさいのか顔を赤くしてしまう。その様子が微笑ましくて、僕は釣られて笑ってしまう。
「そうでもないよ、家出なんて、僕もしたことあるし」
確か親父と喧嘩して家を飛び出したんだっけ。今となってはいい思い出かな、喧嘩の原因は覚えてないけど。
……そもそも、今の状態だって世間一般から見れば、立派な家出だ。
「あなたも?」
「まぁね、今よりもっと小さい時だけど……そういえば、僕も家出した時にここに来たかな」
その場ではついカッとなって家を飛び出したんだけど、冷静になるとどこに行けばいいかわからなくて、結局ここに来たんだ。ここにいれば、きっと親父が来てくれるって無意識に、そう考えたのかもしれない。
……もう、何年前の話だろう。
「親父が来たら二人して謝るんだよ。もう馬鹿みたいに、ペコぺコ頭下げてさ」
……あれ? もしかして僕、今笑えてるか? 親父の話をして、親父との思い出を笑顔で語れてるか?
もし語れているのならば、僕の中で、親父の死に対して多少なりとも折り合いがつけられるようになったのかもしれない。
「……いいお父さんなんだね」
「まぁ、ね。飲んだくれだったけど」
酒を飲まない日などなかった。声を荒げない日などなかった。それでも。それでも、生きていて欲しかったと、心から願えてしまうぐらいには、良い父親だった。
「それでも必要としてくれたんでしょ? 息子として……」
水夏さんの細い指がリストバンドを撫でる。哀しげに、優しく。
「これね、お父さんが昔買ってきてくれたものなの」
何の模様もない、簡素なリストバンド。年頃の女の子が身に付けるアクセサリーにしては、些か質素にも思えた。
「アクセサリーショップで何か一つだけ好きなの買ってくれるって言って。あたし、その頃アクセサリーとか、そういうの興味なかったからもっと実用性のあるもの買おうと思って。それでこれを選んだんだけど、お父さん、複雑そうな顔してたなぁ……」
苦笑いで閉められる過去のお話。その苦笑いでさえ、次の言葉を口にする時には消えてしまった。
「あたしのお父さんはね、わたしを娘として見てくれないの。急にあたしの生活に無茶苦茶な制限をかけだして」
彼女のリストバンドに触れていた指先が、その思い出に爪を立てる。
「……まるで道具を見るような目で、あたしを見るの。言ってみたわ、あたしをそんな目で見るの止めてよって。そしたら、使う為に生んだおまえをそう見て何が悪いって……」
彼女は耐えていた。実の親から言われた言葉を思い出し、辛くても、涙を堪え、潤んだ瞳を携えて。
「それって認めたってことよね? 娘じゃないってことよね? 今まで普通だったのに。普通に親子二人で暮らしてきたのに……本当に、急にさ……」
涙は流さずとも、声色には、次第に嗚咽が滲み出す。
「あたしにお母さんがいなくても、理由も聞かないでまじめに、一生懸命暮らしてきたのに……どうして……」
「その事実がつらいから、逃げ出したの?」
水夏さんは、力なく頷いた。
「……はぁ」
ため息と共に天井を見上げる。そうして、頭を掻いて平静を装う。
なんとも複雑な事情だ。そう他人事の様に評価する中、僕の心情は、正直に言えば水夏さんの父親に怒りを持っている。滾るように、沸々と確かな熱量を持った怒りを。できることなら、会ってその顔をぶん殴ってやりたい。反省するまで止めないぐらい。
そうしてしまいたいぐらいの理由が、残念ながら僕にはあって。
けど、それで解決するか? そんな押しつけたような反省なんて、ものの数秒で吹き飛んでしまうものだ。その度に、僕は彼に暴力を振るうのだろうか。馬鹿らしいにも、子供にも程がある。
僕はまだまだ世間から見れば子供だ。見た目だけ大人に近づいて、大事なものは子供のままで、それを隠すように大人ぶった振る舞いをしようと画策している。そんな子供の言うことを、誰が聞いてくれるって言うんだ。
「はぁ……」
いつまで経っても、僕は無力だ。たった十七年ぐらいしか生きてなくて、それが僕の全力で。その全力を賭けてでも、僕は目の前の少女の涙を止めることは出来ないなんて。まるで無力の固まりだ。
……けど。
「……ねぇ」
それでも。
「僕に出来ることってないか?」
助けたいと思ったんだ。
「何でもいい、何でもやるよ」
初めて会ったあの雪の中で。僕とは事情は違うけど。
「何かできることはないかな」
似たような存在だって、わかったから。
自分を自分として見てもらえない。そういう、悲しい存在だってわかったから。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、あたしを助けようと思ったの?」
「えーと、その……」
素直に答えるわけにもいかず、僕は必死になって言葉を考える。
「うーん……」
「……くすっ」
相応の理由を考えていると、水夏さんが何が面白いのかわからないが、突然笑った。
「え?」
「もういいわよ。その気持ちだけでも、あたしには充分嬉しいんだし。けど、あなたってほんと考えてること顔に出るのね。ふふっ」
「そ、そうかな」
自分ではそう思ったことはないし、人に考えを読み抜かれたことも、記憶の限りではないはずなんだけど。
「うん。あなたって、結構わかりやすいかも。あははっ」
少し、不満というか、不服ではあったけど。彼女は笑ってくれてるし、それはそれで、いいのかもしれない。
とりあえずは、笑ってもらえただけでも良しとしよう。
*
「えっと、これとこれ、あと何か必要な物はあるかな」
僕は地元民しか利用しないスーパーで、何日かの滞在に必要な物を揃えていた。豚バラ肉を今日で使う分手に取り、カゴに入れる。すでに缶詰などの長持ちするような物は揃え終わってる。今日は山小屋生活初日というのもあり、少しは豪勢にしてみようという水夏さんの判断の元、自分なりに作れる豪勢な料理の食材を用意していく。
「はぁ……」
第一任務が買い出しか……。
*
「買い出しをして来て欲しい」
山小屋内の掃除をだいぶ簡易的ではあるが済まし、一息ついたところで水夏さんがそう言った。
「買い出し?」
「うん、たぶんだけど、あたしが家出したことはまだバレてないと思う。友達の家に遊びに行くことにしてるから。だからあまり出歩きたくないのよ。お金は渡すから、お願いしていい?」
「まぁ、それはいいんだけどさ、僕がいなかったらどうするつもりだったの?」
「危険覚悟で自分で行ったかな、天気予報で今日は吹雪だって言ってたから視界もよくないと思って」
「……吹雪の中を歩く危険性とかは考えてなかったと」
「起こるかわからない危険より目先の利益がわたしの信条」
「……さいですか」
まぁ、特に反対する理由もないし、そもそも僕自身が何でもするって言ったんだ。最初のお願いを渋っても格好がつかない。
「わかった、何を買ってこればいいんだ?」
「少なくとも、あと三日はここにいるつもり。だからその三日分の食料、他もろもろってことで」
「他もろもろって、僕が選んでいいのかな」
「あなた、結構こういうの慣れてそうだから。あなたが必要だと思ったら買えばいいから」
そう言って渡された一万円。確かに、大抵の物ならこれで事足りるが、知り合ったばかりの他人に渡す額じゃないよなぁ。
「ま、こんなもんか」
一応健康も考えて選んだつもりだけど、彼女には好き嫌いとかあるのだろうか。
「ま、言わなかったのが悪いってことで」
あとは調理器具だけど、キャンプ用の方がいいよな。そんなに大きくなくてもいいし、それを持ってあの雪山を登ることも考えないと。
清算した後、残額を確認する。必要な調理器具は揃えられるぐらいは残っていた。けれど、そういったキャンプ道具一式は、親父の分がしっかりと残されている。家に帰れば、それを持ってくるだけで事は足りる。
……気は進まないけど。
「はぁ、仕方ない、帰るか」
僕を僕として迎えてくれない、暖かい我が家へ。
*
鞄から鍵を取出し、鍵穴に差し込み、捻る。
「ただいま……」
頼りない帰還報告。ダメだ、どうしても声が震えてしまう。自信のなさや、どうしてこんなことをしないといけないんだっていう憤りが、声色に表れてしまう。
その声を聞いて、家事をしていて濡れた手をエプロンで拭いながら、母さんが玄関へと駆け寄ってくる。
「あら、早かったわね」
久しぶりに見た、母さんの笑顔。けれど、その笑顔は、僕には向けられていない。
「お帰りなさい、『あなた』」
満面の笑みで僕、親父を迎える母さん。
「仕事は早く済んだの? 今回は何日も泊まり込まなきゃいけない仕事って言ってなかった?」
「ああ……忘れ物があったから、取りに来たんだよ」
違う。こんなんじゃない。演じろ、演じるんだ。粗暴で豪快で、けれど優しい親父を完璧に。
「そう……あっ、晩ご飯出来てるの。食べていく時間ある?」
「仕事抜けて来てっから、すぐに戻らないといけねぇんだ」
「そう……」
「……わりぃな」
力強く、けれど繊細に母さんの頭を撫でる。親父が僕にしてくれたことを思い出しながら。その動作をなぞるように。子どもである僕が、母さんの頭を優しく撫でる。
子どもに頭を撫でられ、照れたような上目遣いを向ける母親。
……なんだ、これは。
「じゃあ仕方ないわよね。仕事、頑張って」
「ああ、新婚だからな、早く終わらして帰ってくるよ」
息子には絶対向けない、異性として愛する者へと向ける笑顔。慈愛ではない。どこか色気を醸し出すような女としての表情。それを僕に、息子に向ける。矛盾した状況。
僕はもう一度、震える声で別れを言い、庭の倉庫へ歩いて行った。
「……くっ、はぁ」
息苦しい、頭がクラクラする。倉庫の壁に寄りかかって、何度も深く深呼吸を繰り返す。
僕が僕として認められていない空間。自己のない空間。この空間ほど、心を苛む場所はない。
親父が死んだあの日、母さんは泣き崩れた。元々、精神が弱い人だった。愛する者を失った辛さに耐えられず、涙にして吐き出し、空っぽにして疲れて眠る。そして夢の中で親父に会い、悲しみを貯え、起きてまた泣く。
そんな悪循環を、母さんは何日も繰り返した。親父が焼かれ灰になり、骨が冷たい石の下に置かれるまで、ずっと。
親父の埋葬が終わった日、母さんは泣かなくなった。僕を親父と思い込むことで、精神の安定を図ろうとした。息子という存在を、夫という存在に置き換えたのだ。
母さんの瞳には、僕が生まれる前、つまり新婚時代の親父が映っている。僕の見た目が父親の若い頃にそっくりだということも、拍車をかけている。それ以来、母さんの世界は時が止まってしまった。いや、リセットを繰り返すの方が近い、か。
新婚時代、親父が仕事で長期に渡っていない日に、毎日同じ家事をし、毎日同じ決まった行動をする。つまり僕、親父が帰ってこなくても不思議がらない。
それは、この矛盾した状況には耐えられない僕には都合の良いサイクルだ。直樹の家に何日かお世話になったり、母さんに気づかれないように家に入り、自分の部屋で物音を立てずに生活してきた。僕の部屋の存在は、今の母さんには知る由もないものだからだ。僕が産まれるまでは、今僕が使っている部屋はただの物置だったのだから。
「……いい加減に、慣れろよ。くそっ」
苛立ちを倉庫の扉にぶつける。打ち付けた拳の痛みなんて少しも気にならない。
早く、戻ろう。こんなところに、長居なんてしたくない。
水夏さんが僕を待ってる。刈谷優を、待っている。
「帰ろう……」
必要な荷物を大きめのリュックに詰め、母さんに会わないように家を出た。
親に物として存在を認められる水夏さん。親に存在を認められない僕。どっちの方が不幸で、どっちの方が幸せなんだろうか。
そんな、考えても仕方がないことが、頭の中をグルグル回っていた。
*
「ああもう……!」
雪山に足を踏み入れた途端、猛烈な風と共に雪が降り始めた。雪の白が視界を覆う。真っ白で何も見えない。寒気は鋭い風を伴って服の隙間から入り込んでくる。
「こんな状況で山の中入ったら、確実に遭難だよな……」
あまりにも危険過ぎる。自分がどこにいるか理解できないのは雪山では死活問題だ。
……でも。
「行くしかないか……」
彼女が待ってる。僕の帰りを。他の誰でもない、僕を待ってるんだ。
一歩踏み出す、足が雪に沈む。だけど、進む。待ってる人がいる。それだけで、僕は足を止めることはできなくなっていた。もう、僕を待ってくれる人は今はもう、一人だけなんだから。
この山の記憶を片っ端から引き出して、少しでも見覚えのある景色を見ては、進む方向を決めていく。大丈夫、体が覚えているはず。何度も来た山なんだ。
「はぁ、はぁ」
風の音に混ざるように、川の水が流れる音がする。見覚えある木の形も薄っすらと見える。見覚えのある景色に沿うように、僕はゆっくりと歩いていく。とにかく上流へと。大分雪の中を歩く感覚が掴めてきた。
「見えた……」
白く狭まった視界の中、目的地の姿が見える。僕はホッと一息ついて、山小屋の扉を開けた。
「ただいま」
水夏さんは、ベンチに毛布で包まって横になっていた。
「……寝てるのか」
この猛吹雪の中、よく熟睡できるものだ。
薪も火が強くなりすぎない程度には置かれているし、雪が入らなく、屋根に近い窓はしっかり開けて換気も問題ない。雪を払い、コートを脱ぐ。
「すー、すー……」
……ま、起こさなくてもいいか。
「色々あったもんな……」
辛い事実を知って、家出をして、何度も死にかけて。今やっと安心して眠れているんだ。無防備ってことは、僕を信用してるってことだよな。もしくは男として見てないか。
「……どっちでもいいけどね」
さて、起きたら晩ご飯が準備されてるという状況を作っておくとしよう。
*
「……こんなもんかな」
即席の鉄板に野菜やら麺やら肉やらをブチ撒け、市販のソースを適当にぶっかけ完成。
「刈谷優特製、即席適当焼そば~」
正に男の料理と呼べるべき完成具合だ。
「我ながら完璧な出来だ。これまでいくつも作ってきたけど、今回のが優勝だな」
心の中で「なんのだよ!?」と軽く突っ込んでおく。慣れないボケにセルフツッコミしてしまうのも悲しい習性なのかもしれない。
「ん……あれ? なんかいい匂い……」
のっそりと水夏さんが起き上がる。僕はそれを見ながら紙皿に焼きそばを盛り付け、割り箸を添えて水夏さんに渡した。
「ほら、晩ご飯できてるから」
「……へぇ、料理できたんだ」
「料理って呼べるかは微妙だけど、切って混ぜて焼いただけだし」
親父がよくキャンプで作ってくれたのを思い出して作ってみただけだ。一口分箸で摘み、食べる。口の中に広がる、濃厚なソースの味と、野菜や肉の旨味。親父の作った焼きそばは、もっと味が濃かった気がするが、女の子に振舞うものとしてはこれぐらいが丁度良いだろう。
「……おいしい」
「そう? かなり雑に作ったんだけど」
「雑だろうが何だろうがうまければそれでいいの」
「さいですか」
僕たちは黙々と焼そばを腹に収めていった。この吹雪の中歩いてきたことを労ってもらわなくても、僕を僕として見てくれているだけで。充分やりがいがあったと思えた。
それに。
「うーん、ほんとおいしいなぁ。こんな大雑把な味付けなのに……」
次々と焼きそばを胃に収めながらもうんうん唸っては分析を続ける彼女を見るだけでも、十分楽しいと思えた。
*
「……もう一回言ってみて」
「だから、色々事情があって当分帰れないから泊っていきたいんだ」
「……本気?」
「本気です」
「……マジ?」
「本気と書いてマジです」
頭を抱えながら、長く重いため息を吐く水夏さん。まぁ、そりゃそうだよな。服を脱ぐだけであんなに顔を赤くするぐらいだ。抵抗があるに決まっている。
年頃の男女が山小屋で一晩二人きり。別に遭難という程状況が切迫しているわけではないのだから、僕がここにいる必要性はない。
「そうだよね、いくらなんでも問題あるか」
もちろん手を出すつもりなんて全くないけど、道徳的になぁ……。
「……別にいい」
「え?」
「何度も助けてもらってるんだから、そのくらい許容するってば」
「い、いいの?」
「いいって言ってるじゃない。何? 嫌なの?」
「め、滅相もございません」
まさか了承するとは思わなかったから驚いてるだけです。
「まぁいいけど。それより、絶対襲わないでよね。あたしまだ処女だから、身持ち固いわよ」
「…………襲わないよっ!」
「今の間は何!?」
「君の言い方がストレート過ぎたから驚いただけだよっ!」
最後の情報とかわざわざ口にする必要ないよね!? なんで言ったの!?
「まぁ、けど。ありがとね。水夏さん」
「……その、さん付けやめてよ。あなたあたしより年上でしょ?」
そのはずなんだけど、なんだか君の態度が年下っぽくないからそれに合わせていただけなんだよね。
「そうだけど……じゃあ何て呼べば良いかな」
「普通に水夏でも沙紀とでも。呼び捨てならなんでもかまわないわよ」
「それじゃ沙紀って呼ぶよ」
三文字よりも二文字の方が、口にするのはずっと簡単だ。
「……迷わず下の名前で」
「え? ダメだった?」
「……別に。あたしも、あなたのことは優って呼ぶから」
「うん。かまわないよ。それじゃよろしく、沙紀」
友好の証として差し出した手を、沙紀はじっと見てから、少しだけ顔を赤くして握ってくれる。
「……よろしく。優」
こうして僕と沙紀の、二人の奇妙な生活が始まった。親に子供として認められない。欠けた者同士が寄り添い、歩いていく物語が。
リア充爆発して、とか思ってもらえれば幸いです。俺はもうその感覚すら麻痺しました。