一章 2
言い忘れていたようですがこの物語は多分なファンタジー要素を含んでおり、実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません。マジで。悲しいぐらいに。
「どこかで見たな、こんな話……」などと思ってもらえればそれはそれで。
怒らないと笑った女の子と友達になれた。
毎日、公園のジャングルジムで二人きりで遊んだ。日が暮れるまで、毎日、毎日。今までのの笑顔の分を取り戻すかのように。
楽しくてしょうがなかった。
彼女が原因不明の病に陥るまでは。
突如体調を崩し、すぐさま病院に運ばれたが、原因はわからなかった。体の弱くなった彼女はもう、外で遊べなくなった。公園にも行かず、ただ白い病室で横になっているだけ。
『もう長くないかもしれない』
看護士さんがそう話しているのを聞いた。
長くない? 何が? 琴美のこと? 琴美の命のこと?
琴美の残された時間のこと?
すごく悲しくなった。同時に、どうしてみんなが怒ったのかがわかった。
命がなくなってしまうってことは、とっても悲しいことなんだ。話せなくなる笑わなくなる怒らなくなる。触れられるけど、温かくない。もう同じ場所にいられず、生きている者は生きている限り進むしかなくなる。互いにもう届かない、不可逆なもの。それが死だ。絶対で、暴力的で、どれだけの人が、その理不尽に苦しんできたのか。
だけど、僕は笑った。喜んだんだ、うれしかったんだ。お父さんの命がなくなって。もう悲しい別れをしないって、喜んだ。お父さんに一生会えなくなるのに。一番悲しい別れを経験しているのに。僕はお父さんが好きだった。いつも優しく、頼りになるお父さんが大好きだった。
大好きなのに、喜んだ。
悲しみを隠すために、無理矢理死を喜ぶ理由を作り出した。
転校して、離れ離れになった友達とは、何度でも会える。一生会えないことなんてない。お互いに同じ時間が進んでいるんだから。けど、お父さんには、もう二度と会えないんだ。死んでしまったら、会えない。
琴美が死んでしまったら、もう、触れ合うことはできないんだ。
どれだけ祈っても、どれだけ願っても、どれだけ望んでも。
叶えられない、願いなんだ。
*
一定感覚で甲高く音を出す心電図が、まだ琴美が生きていることを教えてくれる。
それさえなければ、琴美はまるで死んでいるようだった。普段から白い肌だけど、まだ、その白は『生きてる』と主張していた。それが今では、ただの無機質な『白』。窓から指す月光が、その白さを一層際立たせていた。
急に息苦しさを感じたらしい。あまりにも苦しくてナースコールに手を伸ばすことさえできなかったらしい。たまたま看護士さんが点滴の取り替えに病室を訪れなかったら、最悪の状態だったらしい。
全部、『らしい』。
僕はその場にいなかったから。
琴美は今、いつもの無機質な白い部屋で寝ている。本来なら家族以外の僕が入っていい場合じゃない。それなのに僕が今ここにいられるのは、院長が特別に許してくれたからだ。その院長は今、この部屋を出てすぐの長椅子で横になっている。
廊下に出ると、細々とした光が足元だけを照らしていた。昼間にしか病院に来ない僕が、この闇を知ってるわけがない。僕と笑い合った後、琴美はこの闇を見て何を考えていたのだろう。
……笑えていたのだろうか。
一人の看護士さんが僕の前を通った。無理して作った笑顔を浮かべ会釈し、歩いていく。もう面会時間は過ぎている。僕は本来なら注意されるべき存在だ。それでも何も言ってこないのは、みんな僕と琴美の関係を知っているから。
僕たちが毎日会って、一緒に笑い会っていることを知っているから。
「う、あぁ……ああぁ……」
涙が溢れる。両目から、とめどなく。
恥ずかしい。そんなくだらない感情から、僕は琴美と話す時間を減らす方法をとってきた。
くだらない、くだらなすぎる。
そんなことしてないでずっと傍にいろよ!
傍にいて、ずっと笑いかけていろよ!!
傍にいれる幸せを噛み締めていろよっ!!
「うぁ……うっ、あぁ、くっ、うぅ……」
後悔。してもしょうがないのに、止まらない。僕にいったい何ができたかなんてわからない。けれどっ……もっと、何か、できたはずなんだ。
「お、おい! 大丈夫か?」
泣き崩れている僕の肩に院長の手が触れる。僕は、その手を掴んだ。
「ごめんなさいっ」
顔を下げたまま、その手にすがりつく。
「僕が琴美の傍にいれば……」
考える前に、口が動く。爆発した感情が全て吐き出されていく。
「琴美の苦しむ時間を減らしてあげられた! 苦しむ琴美のかわりに、ナースコールを押してあげられたっ!」
悔しい。何もできなかった。いや、できたはずなのに、しなかった。
どうしてよりにもよって今日なんだよっ!? どうして、やっと答えが見つかったのに! 自分のやりたいことがっ、これから楽しいことがたくさん待っているはずなのに!
「僕が悪いんだっ! 何もしなかった僕がっ! 何もできなかった僕が!!」
院長はただ黙っていた。叱咤でも、激励でもなく、ただ黙って僕の頭を撫でた。
「……血は繋がってないのに、おまえは俺にそっくりだな」
「え……?」
優しく、微笑んでいたんだ。
「ほんとおまえは俺が若い頃にそっくりだよ」
院長は自分の手をじっと見ていた。これまでたくさんの人を救ってきた、医師の手。大きく、けれど繊細な指先。
でも、それでも、いくつもの大切な何かを、こぼしてきたのだろう。
「琴奈の時も、俺はおまえみたいに、自分を責めていたよ」
その名前は僕にも聞き覚えがあった。琴美とよく似た音の名前。数年前に病気で亡くなった、琴美のお母さんの名前だった。
院長が小さく見えた。背中を丸めて、長椅子に座り込んでいる。まるで泣き疲れた子供のようだった。
「できることはなんでもやった。けど、いくら頑張っても意味がなかった」
大切な人を守りたい。それだけを願い続けて頑張ってきた。けれど、自分はあまりにも無力で、弱っていく姿を見ることしかできない。
その感覚を、感情を、僕は今さっき味わった。
「何もできなかった」
顔をあげた院長の顔は、笑っていた。無理矢理、さっきの看護士と似た笑顔を浮かべていて。
「最後まで、琴奈は笑っていたよ。自分がこれから死んでしまうことを知っているのに。だから、決めたんだ。もう同じ過ちはしない。琴美は絶対守るって」
院長は拳を強く握った。まるで何かを決意するかのような仕草。
「だけど、また何もできなかった」
その手が解かれ、ただ力なく下がる。過去、そこにあった決意も見えなくなった。
「琴奈とは違って、本当に原因不明の病。どんな投薬も効果もない。そもそも臓器にだってなんら異常はないんだ。なのに、琴美はどんどん衰弱していく……」
下がったままの手を、また強く握る。そこに決意の意志はなく、ただ理不尽に耐えるかのように。
「どうすればいいかなんて、わからなかった……」
上を向いて呟く。僕からは見えないその瞳は、涙に濡れているのかもしれない。
「……一つ、聞いていいですか?」
頭に思い浮かんだ疑念が、僕の指先を震えさせる。
「琴奈さんが発病したのは、いつでした?」
「……だいたい七年前だ」
僕の父さんが死んだ年。そして、僕が琴美と出会った年。
琴奈さんが亡くなることを、琴美は知っていたんだ。琴奈さんが直接教えたのかもしれない。自分で気付いたのかもしれない。
僕は、母親がもうすぐ死んでしまう琴美に対して、何を言った? どうして、親が死ぬことを喜んだ僕を、怒らなかったんだ。
笑って、頭を撫でてくれたんだ?
「俺は少し休む。柊弥は、琴美の傍にいてくれないか?」
「……わかりました」
そう言って、僕は立ち上がる。僕の返事を聞いて、院長も立ち上がり、真っ暗な廊下を歩いていった。その背中が見えなくなってから、僕は琴美の病室に戻った。
電気のついていない病室は、ただ闇が広がっていた。月が雲に隠れてるのか、淡い光は届いていなかった。壁に付けられたスイッチを押す。蛍光灯に明かりが灯る。闇が払われ、琴美の顔がよく見えるようになる。
……今日一日でだいぶ痩せてしまっていた。あまり顔色もよくない。
「起きてるんだろ?」
「……バレてた?」
弱い、小さな声。それでも、舌を出して、おどけるように琴美は笑う。
「まぁ、勘かな。さっきと寝顔の様子が少し違うかなって」
「あはは、よく見てるね」
ああ、いつも見ている。だから、わかるんだよ。
毎日顔を合わせてりゃ嫌でも気付く。
今日はあんまり寝れなかったみたいだな。元気がなさそうだな。目が充血してるから泣いてたんだろうな。
そんなことを、気付いているくせに、気付かないフリをしていた。
認めないようにしていた。今まで、ずっと。自分が傷つきたくなかったから。そんなふざけた、本当にふざけた理由で、目を逸らし続けた。
「……あんなに騒いでるからだよ。まったく、近所迷惑にもほどがある」
「……見てたの?」
「いや、見てはないよ。聞いてはいたけど」
「そっか、知られちゃったなぁ……」
無理して搾り出したような笑い声が、病室の中に響く。
「……ねぇ、電気消してくれないかな。眩しいよ」
……そんな無理矢理作った笑顔で、隠せてると思ってるのか?
僕はその笑顔を今日だけで二回見たし、毎日おまえを見てきたんだ。明るくなくても、わかるんだよ。おまえの頬に浮かぶ、涙の跡なんてのは。
そう、わかってたんだよ。
スイッチを切り、灯りをなくす。さっきと違うのは、雲に隠れていた月の明かりが部屋に差し込んでること。
淡い光。
それが、優しく琴美を照らしていた。
「ありがと」
そう言って、また笑う。
琴美は静かに立ち上がった。顔を歪めて、そして窓にヨタヨタと歩いていく。僕はそれを支えた。支えると言っても、琴美の手をしっかり掴むだけ。たったそれだけのことで、琴美の足取りは確かなものになった。
窓に辿り着く。
暗闇の中、黒い夜空に光り輝く月を見つめたまま、琴美が口を開いた。
「月、綺麗だね」
「ああ……」
底無しの闇の中、懇々と輝く黄金の月。
欠けてもなく、満ちてもない。
ただの月。
だけど、その明かりは綺麗だった。
「ほんと、綺麗だね」
微笑んだ琴美の瞳から、涙が一滴、柔らかな頬を滑った。
「はは……」
乾いた笑い。無理して創る笑顔。大粒の涙。その全てを携えて、黄金の月を見つめる。
ふいに琴美の膝が崩れる。跪き、泣きじゃくる。後から後からあふれ出る涙を、その小さな両手で懸命に押さえる。袖に伝う涙に月明かりが反射する。
その全てが、僕の胸を締め付けた。健気に、懸命に、僕のために笑おうとするその優しさが、嬉しくて、辛くて。
だから、確かな決意が産まれた。
……瑞穂さん。今なら、断言してみせます。
ずっと、琴美と生きていくんだって。泣いてる琴美も、笑ってる琴美も、どっちの琴美とも。ずっと、一緒に生きていくんだって。
だから、そのために守らなきゃいけない約束がある。
僕は琴美の手を掴み、起き上がらせた。そして、涙が流れる頬をぬぐい、強く、けれど優しく。
その小さな体を抱き締めた。
『そ、約束』
『なにを約束するの?』
『かんたんなことだよ』
『どっちかがつまずいたり、立ち止まったりしたら、かたほうが手をつかんで、ムリヤリでも立たせる。そうすれば、こわくないでしょ?』
『ころんでも、手をさしのべてくれる人がいるんだから』
「柊、弥?」
僕の胸に収まる琴美の体は、あまり七年前と変わらない気がした。それに比べ僕は七年間で大きく成長した。けど、それは体だけ。心はまったく成長していなかった。
「約束だから」
琴美の熱を感じる。腰に回した手に、額が当たる胸に。温かい、本当に温かい。今琴美が持つ確かな熱。
「……抱き締めるなんてルール、言ってなかったと思う」
「追加ルールだ」
「……ははっ、何、それ」
呆れたような笑い。それでも、無理して浮かべた笑顔なんかより、ずっといい。
「……ほんとはね」
僕の胸に顔をうずめたまま、琴美は話し始める。
「ほんとはね、すっごい恐いんだ」
知ってる。
「いっつもね、震えて過ごしてるんだよ」
それも知ってる。
「涙が出ない日なんてないんだよ」
全部、知っている。
「柊弥が帰った後が、一番、恐くて、震えて、涙が出てくるんだよ」
全部、知っていた。
それから目を背けて、綺麗な笑顔だけを見続けようとしていた。
「ごめん……」
腕に力を込め、もっと強く抱きしめる。それだけで折れてしまうような錯覚を覚えるほどに小さく、脆く感じる琴美の体を、かき抱くように。
「もう、一人にしないから。ずっと傍にいるから」
ずっと言いたかった言葉。言わなきゃいけなかった言葉。
「だから……一人で泣かないでくれ。無理に笑顔を創らないでくれ」
伝えたかった願い。伝えなければならなかった願い。
「もう、ずっと一緒だから」
離れないように、抱きしめ続けるという、誓い。
「僕は、琴美が好きだから。好きだから、大切だから、ずっとそばに居させてくれ……」
泣く資格なんて僕にはないのに。それでも、目元から涙が零れて。
この言葉を、僕はずっと言いたかった。言いたかったくせに、気づかないフリをしていた。迫り来る恐怖に怯えていた。震えていた。けれど今、僕は誓いを立て、想いを伝えた。
琴美と共に生きるために。限りある時間を。二人で、生きたいから。
「うん……うんっ……」
僕の胸に顔をうずめたまま、何度も泣きながら琴美は頷いた。その涙が止まるまで、ずっと抱きしめていた。
*
それから、僕たちは約束通り、一緒にいるように生活をしてきた。学校にも行かず、朝から晩まで病院にいる。何もせず、ただ二人でいるだけで幸せだった話して、笑って、触れ合って。幸せだった。今までの日々で失ってきたものを取り戻すように、これまでの生活で得たものを失くさないように。
僕たちは、ただ現状を受け入れ続けるだけだった。たった十五年程度しか生きていないんだ。信じれば裏切られるとか、口にするのは簡単だけど、心からは信じきれていない。
まだまだ子供だから。子供だから、夢を見る。僕と琴美、ずっと二人で笑っている。そんな、幸せな夢。
だけど、夢っていうのは決まって終わりがある。いつか目が覚めてしまう。よりにもよって、
一番幸せな時に。
*
「あー、お腹一杯」
琴美のお膳には、何も残っていない皿や器だけがあった。
「ごちそうさま」
僕達は琴美の病室でご飯を食べていた。時刻は昼、暖かな日の光が室内に差し込み、冬だというのに春のような空間での食事。
「やっぱり病院食って味付けが薄いんだな」
「そう。だからたまにはコッテリした物も食べたくなっちゃうんだよ」
「僕は別に、薄味のほうが好きだし」
決してまずくなかった。むしろおいしかったと思う。
「それは柊弥は初病院食だからだよ。毎日三食食べてれば絶対飽きる!」
「いや、そんなことで自慢気にならなくても。というか言い切るなよ」
僕の分の病院食があるのはたまたま、食事を作る人が分量を間違えたからだ。そんな偶然が毎日続くわけもなく、そもそもお金を払ってさえいないのだから、本来なら食べる資格がない。
「じゃあ柊弥も毎日食べてみなさいよ」
「無茶なことを言うなよ。お金払ってないんだからそんなことしちゃ駄目だ」
「そんなのお父さんに頼めばなんとかなるよ」
「僕の話聞いてた?」
病院経営に不正の影が見えた。……ああいや、元々見えてたっけ。まったく、かわいい顔してとんでもないこと言うんだから。
ここではお金を払って食べてる人がいるんだから、僕だけ無銭飲食だなんて許されるわけがない。
「だって、いっつも柊弥ご飯の時になると帰っちゃうでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
普段は家に帰ってご飯を作り、食べて戻るというサイクルを繰り返している。確かに往復の面倒がなくなるのは魅力的だけど───
「……その間がね、すっごく不安なんだ。もう帰ってこないんじゃないか。見捨てられたんじゃないかって……そればっか考えちゃうんだよ?」
涙目で、小さな体を震わせて僕に訴えかける。
……僕は馬鹿か。
ずっと一緒にいるって言ったろ? 傍にいるって、言ったろ?
そのぐらいの願い、叶えられないでどうするんだ。
「……わかった。今日からここで食べるよ。お金は払うけど。院長に言っておくよ」
「……うんっ!」
僕の言葉一つで悲しんだり、喜んだりする琴美。
琴美の言葉一つで悲しんだり、喜んだりする僕。
そんな不安定な存在。
だけど、世界で一番幸せな存在。
そう自慢できるほどの確信が、僕にはあった。
*
文字通り、僕が琴美とずっと一緒にいることを始めて一週間が経った。病室の床に布団を置いて昼まで二人で話し、院内を散歩したり、他の患者さんたちと話したりする生活。瑞穂さんに会った時、散々からかわれたが、それがいったいなんなんですか? と開き直ってみたら、「なんかくやしいっ」と叫んで泣きながら走っていってしまった。
なぜかこっちが悪いことした気分になった。女の人の涙ってほんとに卑怯だ。
クラスのみんなも、昼休みや放課後などにお見舞いにきてくれた。中には琴美と小学校の頃の友達で、「事情を詳しく聞かされてなかったから心配していた」と。お互い顔を合わせて笑っていた。
僕も友達から琴美との関係についてあれこれ聞かれたりもした。先導していたのが水夏さんだったのは……うん、見間違いだと思いたい。
元々この病院に通院していた飛坂先生と顔を合わせる機会も多く、本来ならば学校にも通わなければならない僕のことを黙認してくれていた。もしかしたら、学校側にも掛け合ってくれたのかもしれない。面と向かって礼を言ったら、「定期的にテストするから、それで満点取れば不問にする」などととんでもないことを言ってくれた。
そんな、楽しくも騒がしい毎日。
大切な人が傍にいて、笑っていられる。僕が笑えば笑う人がいて、誰かが笑えば自然と笑顔になれる日々。誰もがみんな、過ごす権利がある日々。何よりもかけがえのない日々。
僕はロビーの長椅子に座って、そんな幸せな日々を頭の中で反芻していた。
「どうしたの?」
余韻に浸っていたせいで琴美の接近に気づかなかった。目の前に琴美の童顔が広がっている。まるで、「これからキスします」なんて宣言しているような近さ。
「い、いやなんでもない!」
赤くなった顔を隠すため、顔を背ける。
「顔赤いけど大丈夫?」
……ばっちりバレてました。
「あはは、ほんと柊弥ってわかりやすいよねー」
ああ、言い返せないのがくやしいな。けど、悪い気はしない。こんなくだらないことで笑顔になってくれる琴美が愛しかった。笑い笑って笑われて。そんな日々だけで、僕たちは幸せになれる。
「そういや柊弥、勉強してる?」
「いや、まったく」
「もぉ……今年受験生なんだから、ちゃんと勉強しなきゃダメだよ。それに、テストで満点取らなきゃいけないんでしょ? ならもっとマジメに頑張らないと」
「いや、そうなんだけどさ」
ごもっともな琴美の指摘に、僕は頭を掻きながら言い訳を返す。
「勉強って、ようは個人作業だし。琴美と話す時間が減っちゃうじゃないか」
「う……そう思ってくれるのはすごく嬉しいんだけど……それならさ、私が教えてあげようか?」
「……琴美が?」
「うん」
それは、良い案かもしれない。琴美は頭がいいし、何より、琴美と一緒なら勉強だって楽しそうだ。
「それじゃあ。お願いしようかな」
「よし、まっかせなさい!」
自信ありげに胸を叩く琴美を見て、自然と笑顔が浮かぶ。
ああ、楽しいな。こんな日々が、ずっと続けばいいのに。
「それなら早速始めようか。琴美先生の授業なら僕でもラクに満点が取れそうだ」
「うん…………あ」
「どうしたの?」
急に立ち止まった琴美の隣に並び、琴美の視線の先に目を向ける。
『百円で救える命がある。百円で五人の子どもの命と未来を守ろう!』
よく見る海外ボランティアの広告だ。電車でも学校でも。街中の掲示板でもよく見かける。
そんなありふれた広告を、琴美は食い入るように見ていた。
「……柊弥は、こういうのに募金したことある?」
「え? まぁ、何度かあるけど」
「そうなの?」
「うん。駅前とかで小学生とかが箱持って呼びかけたりしてるしね。僕らもやったことあるだろ?」
確か小学校低学年ぐらいの頃か。小さな箱と何年も使い古されたような旗を持って駅前に並び、声を上げて呼びかけていた記憶がある。恵まれない子供たちに、救いの手を、と。
……あの時はまだ、恵まれていたはずの琴美と一緒に。
「ああ……うん。やったことあるね。そっか……私も、やったことあるんだ」
それきり言葉は続かない。けど、琴美の目線は広告から外されない。
「……ねぇ。この広告、どう思う?」
「どうって……良いことじゃないか。子どもたちを助ける活動なんだし。百円だったらみんなあんまり躊躇しないだろうし」
「……うん、そうなんだよね」
「……どうしたんだよ。もしかしてこういう活動に嫌悪感を持ってたりするのか?」
よくある話だ。偽善とか、無駄なこととか。そうやって頑張っている人たちの活動を否定するなんてものは。確かに、僕だって思うことはある。結局、ワクチンを接種させたところで、そもそもお金がないのだからその一年後にはその子どもは貧困の末、餓死してしまうことだってある。それなのに、救うと表現することに嫌悪感を抱くのは、仕方のないのかもしれない。
「ううん。嫌悪感なんかないよ。すごく、立派なことだと思う。けどさ……」
琴美の指先が広告のキャッチコピーを指差す。
『百円で救える命がある。百円で五人の子どもの命と未来を守ろう!』
「私には……これがとても残酷に見えてしょうがないの」
「残酷……?」
「うん」
琴美の指先が、紙面をなぞる。
「百円で救える命がある。これって言い換えれば、五人の子どもの命と未来は、たった百円の価値ってことにならない?」
百円。それは、僕たちにとってはありふれたお金の単位。
「それは……」
「だってそうでしょ? 百円で救えてしまうってことは、この子たちの命は百円あれば買えちゃうってことじゃない」
缶ジュース一本でも、この子たちの命よりも高く、おつりが来てしまうほど。こないだ買ったココアを思い出す。あの甘い液体がここの自販機で百二十円。一つで五人。毎日買えば一週間で七個。それは、三十五人の子供の命と同額。
……琴美は、それを毎日飲んでいる。飲み続けてきた。
もちろん。そんなことはありえない。必要も意味もない計算だ。たった百円で実際人間は買えない。そんな安い存在じゃない。
けど、間違ってない、理論。
「よく、人の命はお金じゃ買えない。測れないって言うけど……こういうの見ると、わからなくなっちゃうの」
『百円で救える命がある。百円で五人の子どもの命と未来を守ろう!』
ああ……。確かに、残酷で、なんだか薄っぺらく見えてしまう。
「もちろん批判なんかしないよ。さっきも言ったけど、とても立派な行為だと思う。でもね。私は……見たくない。それなら、私の命はいったいいくらで買えるのかって。そんなこと、考えちゃうから」
「……そんなこと、考えるなよ」
「たった百円で、救える命があるんだよね。だったら、私がこれから、生き長らえるためにかかるお金で、何人助かるんだろうね」
「琴美……」
悲しいと思った。救いの文を、残酷だと思ってしまうことも。そう考えれてしまう環境に生きてきた彼女のことも。
それが、悔しくもあった。
「……あははっ。ごめんね! うんっ。私らしくなかったかな?」
「……そうだよ。全然琴美らしくない」
「ごめんごめん。お詫びにいい所連れてってあげる!」
「えっ?」
琴美の手に襟元を捕まれ、無理矢理走らされる。
…………後ろ向きで。
「いやいや! 転ぶ! 転ぶって!!」
「その時はその時~」
「そんな愉快そうに歌ってる場合じゃないよ!? ほんと! 下手したら頭から落ちるって!!」
「あははっ!」
笑っていた。さっきまでの空気を払拭するように。笑っていた。
……この笑顔が、お金で買えるものだなんて、思いたくない。
思いたく、ないんだ。
*
「お、おい。どこまで行くんだよ」
植木や木々の間を琴美を先頭にして歩いていく。中庭ってこんなに広かったっけ? そりゃ全部歩き回ったことなんてないけどさ。
「はい着いたっ」
そこは、まるでどこかの宮殿の庭のようだった。日の光が草木に反射してキラキラしてる。木々は碧く生い茂り、瑞々しさに満ち溢れていた。そして一番目を引くのが、真っ白なベンチ。何の変哲もない、公園にチョコンと置かれているようなベンチが、この空間にあるだけで輝いて見えた。
……アレがなければ。
「…………ぺ、ペンキ塗り立て」
と、墨汁で男らしく書かれた紙が貼り付けられている。
「えへへ~、私のお気に入りの場所なんだ」
琴美は光の中を軽い足取りで進んでいった。
「すごい場所だな……」
色んな意味で。なんてミスマッチな光景なんだろうか。
「うん。知る人ぞ知る名所だよ」
僕も琴美についていく。ぽかぽかしてあったかい。ここだけ春になったかのような錯覚を覚えるほどだ。僕がそんな幻想に捕われていると、琴美は何を思ったか……ペンキ塗り立てのベンチに座り込んだ!?
「なっ、おまえそれペンキ塗り立てだぞ!」
「ん? ああ、これ?」
あろうことか、琴美は迷いなく『ペンキ塗り立て』と書かれた紙をベリっと剥がした。
「これ私が貼ったんだよ。こうしとけば誰も来ないでしょ?」
……まぁ、確かに。唯一腰を置ける場所がペンキ塗り立てだったらみんな落胆して戻るけどさ。
…………いいのかなぁ。
「ほら、柊弥も座りなよ」
なんだか釈然としない気持ちのまま、僕もベンチに座る。どこからか小鳥のさえずりが聞こえてきた。優雅に、歌うような音の響き。
「……いい場所だな」
「うん……」
本当に、ここだけ春になったみたいだ。
暖かい陽気。萌える草木。そして大切な人。そのたった三つだけの要素で、こんなにも幸せを感じられる。いつしか、僕達は互いの手を握りあっていた。確かな温度。やわらかい感触。握り返してくる小さな手のひら。琴美が今生きている証。
もっとその証を確かめたくて、僕は琴美の頬に手を当て、キスをした。自分でも驚くほど、流れるような、初めてのキスとは思えないほど自然に唇が触れ合い、離れた。
やわらかい唇。唖然とした表情。次第に潤む瞳。そして流れる涙と、咲き誇る花のような笑顔。その全てを、愛しいと思える。
「私たち、まだ中学生なのにね」
顔を離すと、琴美がそう照れたまま言った。
「まぁ、そうだけど」
「マセガキって、また飛坂先生に言われちゃうよ」
「琴美が黙ってれば、言われないよ」
もう一度唇を触れ合わせる。今度は長く、確かにその感触を心に刻み込むように深く。そうして、また僕たちは笑った
顔を近づけたまま、額を合わせたまま、僕たちは笑っていた。
*
「あ~、幸せだ」
暖かい日差しの中、僕は琴美の膝枕を堪能していた。
「私はすごい恥ずかしいんだけど」
「誰も来ないって」
……たぶん。まぁ、きっと。
「はぁ、まぁいいや」
琴美の手が僕の頭を撫でる。
このなんでもない、ありふれた世界は……いつまで、続いてくれるのだろう。
「もう……眠くなってきたからってどうして私が……」
「いいじゃん、膝枕。ちょっと憧れてたんだ」
「う~ん……まぁ、私も興味はあったけど」
「ならいいだろ?」
上からは温かな日の光。そして後頭部に感じる琴美の熱。
「…………ん? これって、よく考えると膝枕じゃないような」
「どうして?」
「だってほら、今当たってるのって腿だろ? これじゃあ膝枕じゃなくて腿枕じゃないか」
言葉の意味を考えてみると、筋が通ってないように思えた。僕が今頭を乗せているのは琴美の腿の部分であり、決して膝じゃない。
「あ~、言われてみればそうだね。よし、それなら本当の膝枕をやってみよう」
「えっ?」
頭を押されて無理矢理位置をずらされた。
「……どう?」
「……硬い、痛い、そして怖い」
ひざの部分って骨が出っ張ってるから硬いし、そこに後頭部を乗せてるわけだからそりゃまぁ痛い。それに、ベンチには膝を曲げて座るわけだから、当然少しでも頭の位置をずらせばそのまま落ちていってしまう。
「……みたいだね」
「……何やってるんだろうな、僕たち」
「今更何言ってるの。いっつもこんなくだらないことばっかしてきたじゃない。私たち」
「……それもそうだね」
そう。それが、今までの僕たち。
「はぁ……結局、なにも変わらないのね」
「でもほら、キスだってしたし。ちょっとは変わってきてるんじゃないかな」
「サラリと言わないでよ……私まだ緊張してるのに」
「え? ならもう一回する?」
「どうしてそうなるの!?」
「いや、慣れるかなぁって」
「……別に慣れたくなんかないからいいよ」
「ま、それもそうだね」
顔を真っ赤にして目をつむる琴美が見れなくなるのは、それは非常にもったいないし。
「……なんだかなぁ。どうして私だけこんなに一杯一杯なんだろ」
「いやいや、僕だって無理してるだけだよ」
「どうだか、ほんとは経験あるんじゃないの? 私、学校での柊弥ってよく知らないしさ」
「……おまえな、それ本気で言ってるなら怒るぞ」
「冗談だよ。それに最近、柊弥の学校でのこと友達から聞いてるもん。いっつも教室の窓から病院を見てて怒られたり、文化祭の打ち上げにも出ないですぐに帰って病院に来てることだって知ってるよ?」
「う……」
いや、そのあたりは別に知ってもらわなくても結構なんですけど。
「柊弥が私一筋なのは、私がよぉく知ってるから」
「……あー。なんか、眠くなってきた」
このままだとどうやら僕にとってよろしくない雰囲気になりそうだ。早めに切り上げてしまおう。
「そう? 眠ってもいいよ。私が起こすから」
「そうか、悪いな」
「ううん、いいよ。ここって温かいからね。私もすぐ眠くなっちゃうし」
「……うん」
場を取り繕うはずの嘘だったのに、なんだか、本当に眠くなってきたな。
「……なぁ、ひとつ、聞いてもいいか?」
「ん? なに?」
陽光が差し込む視界に、琴美の微笑が映りこむ。
「初めて会った時、どうして僕を怒らなかったんだ?」
「……さぁ、どうしてだろうね」
「なんだよ、覚えてないのか?」
「きっとたいした理由なんかないよ」
そう言って、琴美は僕の額に手を置いた。陽光よりも温かい、琴美の手のひらの熱。その指先が、僕の前髪を軽く梳いていく。
「ほら、眠いんでしょ? 起こしてあげるから、寝てもいいよ?」
「……それじゃ、ごめん。おやすみ」
「うん、ゆっくり眠ってて」
その感触に、どこか安心しながら。僕は目を閉じた。
「……おやすみ」
・満永琴美
「うん、ゆっくり眠ってて」
柊弥の少し伸び気味の前髪を撫でる。
やっぱり、見れば見るほど女の子みたいな顔だな~。私より美人になりそうな気がしてちょっぴり不安。
……まぁ、その姿を私が見ることはないだろうけど。
「……おやすみ」
ゆっくりと下りていく瞼。次第に聞こえてくる小さな寝息。
「……眠った、かな」
ほんとはね、さっきから胸が苦しい。不定期に叩きつけるように跳ね上がる心臓。外側から段々と暗くなる視界。震える指先。頼りない呼吸音。その全てが、今の私を表している。
自分のことだからわかってしまう。そろそろ満永琴美の時間は終わる。
その事実に、泣きたくなる。喚きたくなる。
まだ、生きたいって叫んで、暴れたくなる。暴れる元気もないくせに。
あーあ、神様は不公平だなぁ。どうして私がこんな辛い目に会わなきゃならないんだろ。
「……考えても仕方ないか」
今までずっと考えてきたことだ。今更考えたところで、答えなんか出るわけがない。一月の周期でする検査。いつまで経っても好転なんかしなくて、むしろ、どんどん悪化していく私の体。いつしか、期待することが怖くなって、喚き散らして、迷惑かけて……。
それだけじゃない。目を覚ました時。幸せな人を見かけた時。柊弥と話している時。夜、目を瞑る時。何度も何度も。繰り返し繰り返し。現実を罵倒し、幸福を夢想し、その度に心を苛まれ、傷ついてきた。
そうやって、ずっと生きてきた。
もう一度、眠る彼の顔を見つめる。
……ほんと、むかつくほど幸せそうに眠ってる。口元は笑みを浮かべてたまにもごもごと動く。
何か食べている夢でも見ているのかな? おいしい? どんな味? 柊弥はその味が好き?
いつか、私にも作れるものかな?
その隣に、私はいる?
「ばか……何、考えてるのよ……」
ありもしない未来を夢見てる。どんなに願っても叶わない。圧倒的なまでの理不尽。不条理。そうした世界で、私はこれまで生きていたくせに、諦め切っていたくせに。
まだ、未来を思い描くの……?
「柊弥……」
愛しい人の名前を言葉にする。震える呼気につられて頼りない音が風に攫われ、消えた。
私が初めて柊弥と会った時、本当は彼をひっぱたいてやりたかった。
だって喜んでたんだよ? お父さんが亡くなって、普通なら悲しがるはずなのに。あまつさえ死を喜んだ。
けど、できなかった。
確かに笑っていた。けれど、泣きながら。涙を流しながら、笑っていたんだもん。きっと、柊弥は気付いてなかったんだろうな。自分が涙を流していることに。悲しみからの涙を流していることに。
それに気付いてしまった私は、何も言えなかったんだ。私もお母さんを亡くすことがわかっていたから。同じ悲しみを味わっていたから。
……秋宮柊弥。
女の子みたいな顔した、少し気の弱くて、けれど底無しに優しい。
私の大好きな人。
「あなたがいてくれたから、私は今まで笑っていられた。幸せを感じられていた」
辛いことも、苦しいことも、たくさん、数え切れないぐらいあったけど。
「どんなに感謝しても足りないくらい、幸せだった」
不幸ばかりの人生に、ならなかった
「私は死んでしまうけど。あなたは生き続けるね」
できることなら、その隣で生きていたい。けど、無理、なんだよね。
「私が死んだ後、あなたは挫けないでね。私は約束を守れないけど。それでも、生きてね」
自分でも残酷なことを言っているなと思う。仮に自分が言われたら、なんて思うと心が張り裂けそうになる。
けど、本心なんだから仕方がない。
ドクン、と、再度心臓が私を叩いた。
あぁ、苦しいなぁ。
まだ待ってよ。伝えたいことがたくさんあるんだよ。柊弥が起きた後、ちゃんと目を見て言いたいことがあるんだから。
だから───
・秋宮柊弥
目蓋を開く。まだ寝ぼけている目にこの光は眩しすぎる。
「……あぁ、寝ちゃったんだっけ」
どのくらい寝てたのかな。日の高さはさほど変わってない。サンサンと照りつけ、体をじんわりと暖めている。
「なぁ、どのくらい寝てた?」
いくら待っても、返事がない。
「琴美?」
琴美は、眠っていた。
「……琴美? 起きろよ」
起き上がり、肩を揺らす。けれど、反応はなく。ただ無防備に、揺らされている。
「琴美っ! おい! 琴美っ!?」
目を開けてくれない。呼吸の音さえしない。本当に、まるで眠っているかのように。
それが意味することなど、一つしかない。
───まだだっ。まだ絶望するな!
ピクリとも動かない琴美を抱き抱え、立ち上がって、足を前に動かす。とにかく走った。琴美と手をつないで歩いてきた道を。互いに笑顔で歩んだ道を。僕は琴美を抱きかかえ、必死に。
まだ息はあるっ。琴美の命は続いている! だからっ、だから走れ!!
来た道を一心不乱に戻る。
あぁ、軽いな。なんて軽いんだろう。涙が溢れる。心が折れそうになる。
「泣くなよっ! まだ生きてるだろ!?」
僕は走り続けた。
まだ、まだ待ってくれ。伝えたいことがたくさんあるんだよ!
琴美の目を見て、伝えたいことがっ!
たくさんあるんだっ!!
*
手術室の扉が開く。ガラガラとローラーが回り、琴美を乗せた担架が入っていく。何人もの人が慌しく出入りしていく。みんな、顔を苦しそうに歪ませて。僕はその光景を黙って見ていた。
見ていることしか出来なかった。
ガラガラと鳴り響くキャスターの音がどこか遠く聞こえた。
「ここで待つか?」
手術着を着た院長が僕に尋ねる。僕は、黙って頷く。
「そうか。かなり長くなる……覚悟はできているか?」
覚悟。琴美を失う覚悟。
そんなもの、もちろん。
「できているわけ、ないでしょう……!」
琴美を失うんだぞ! 大切な人がいなくなるんだぞ!
何処を探してもいなくて、もう一生僕に微笑んでくれない。甘い声も聞こえない。触れても温かくない。触れた肌は柔らかな弾力をなくし、綺麗な肌色は次第にその色をなくし、青く、温かい血が通わなくなる。
もう同じ場所にいられず、生きている者は生きている限り進むしかなくなる。
互いにもう届かない、不可逆なもの。
それが死だ。
覚悟なんて、できるわけがない。
怖くて、体が、心が。
僕の全てが、恐れをなして、竦み上がる。
「そうか……」
院長は歩いていく。遠くなる院長の背中は震えていた。怖いんだろう。僕と同じように、もしくはそれ以上に。それでも、彼は踏み出していく。震える体に叱咤しながら。彼だけだ。琴美を助けられるのは。
「お願いしますっ!」
その後姿をただ見ているだけの自分が不甲斐なくて。けど、それでも。
「琴美を助けてください!」
みっともなく、渇望する。情けなく声を張り上げ祈る。
祈ったって、願ったって、望んだって届かないかもしれないけど。僕たちは、そうやってしか大切なものを守れないから。
「……最初から、そのつもりだ」
願いは、届くのだろうか。届いたとしても、叶うのだろうか。
……そもそも、誰に届くというのだろうか。
*
「……琴美?」
暗い部屋。月明かりが入らない漆黒の闇の中、僕は琴美の名前を呼んだ。だけど、返事はない。静かな呼吸の音が聞こえるだけ。まだ麻酔が効いている。だから、目を覚ますまで何度でも呼びかける。暗く、無音の病室に僕が琴美を呼ぶ声だけが響く。
手術は、成功した。その結果、僕達は未来を掴んだ。
たった、数分の。
「もともと、耐えられなかったんだ」
何十時間も続いた手術が終わった後、院長は僕を呼んだ。入れと言われた院長室には部屋の主の院長、婦長に瑞穂さんの三人がいた。共通しているのは、三人とも、一切笑っていない。顔を伏せ、佇んでいた。
「本来なら、発作が起きた時点で死んでもおかしくなかった。本当に、奇跡なんだ……」
そう言って、静かに肩を震わせながら、院長は部屋を出ていった。
「院長はあなたに時間を残してくれたわ。俺の別れの言葉は、少しでいいって」
いつのまにか、婦長さんもいなくなっていた。院長室には、僕と瑞穂さんしかいない。
「……僕は、琴美を失うんですか? 琴美は、もう……助からないんですか?」
「……覚悟、してたんじゃないの?」
「覚悟なんて……したところで、何になるんですか」
「……そうだね」
瑞穂さんは下唇を強く噛んで、そのまま、俯いていた。
「ほんと、そうだ……」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。失いたくない。まだまだ一緒にいたい。二人で生きていきたい。笑って、喜んで。悲しみさえも、二人で感じ合いたい。
あの温もりにもう触れられないだなんて、嫌だ。
「柊弥……」
瑞穂さんの手が僕の頭を撫でる。その腕が優しく、僕を包むように抱き締めた。
「ごめんね、何も出来なくて。無力で、ごめんね……」
瑞穂さんも、泣いていた。自分の無力を呪い、涙を流していた。
……みんな、同じなんだ。
「……琴美に、会ってきます」
僕は笑ってみせた。ひどく、不器用な、かっこ悪い笑顔なんだと思う。
それでも、そうしなきゃ、いけない気がしたんだ。
……僕は、琴美にまだまだたくさんのことを言いたい。全部は無理でも、絶対に、伝えなければならないものがあるんだ。
伝えてみせる。
伝えなければならないんだ。
もう、後がないのだから。
「琴美?」
もう一度呼び掛ける。真っ暗で、音もしない病室に、僕の声だけが響いた。
「しゅう、や……?」
ゆっくりと目が開かれる。弱々しい声。けれど、確かに生きている声。
「……ああ、おはよう」
「……いま、夜じゃないの?」
「目を覚ましたらおはようだろ?」
「……いや、そうなのかなぁ……どうなんだろ」
そう言って、えへへと苦しそうに笑う。受け答えでさえ苦しいのだろう。顔は青く、呼吸も少しづつ細く、弱くなっていくのがわかる。
「なぁ、琴美。行きたい場所があるんだ」
それでも、二人で行きたい場所がある。約束が生まれた場所へ、僕たちは行きたい。約束を、果たすために。
「……うん」
弱い、けれど確かな意志による言葉。
「行こう……私も……行きたい」
*
「寒くないか?」
琴美にとっては七年ぶりの外出だ。気温の変化に耐えれるよう、コートを多く着せる。
「うん……あったかいよ」
その言葉を聞いて安心し、僕は琴美を背負った。コートをたくさん着てるからいつもより重い。それでも、まだ軽いと思えた。もっとしっかり、重いほうがよかった。確かな質量として、その存在をより濃く感じたかった。
「それじゃあ、行こう」
一歩目を踏み出す。二歩。三歩。琴美を背負って、歩き続ける。
病院の待合室にはたくさんの人がいた。病院の職員。看護士。他の患者の方々。そして、院長。
みんな、僕達を、絶望への道のりを歩む僕達を、見送ってくれている。何も言わず、彼らの作った道を歩く。ありがとうも、さようならも。そんな言葉を、彼らは望んではいないから。ただ、僕たちが歩むことを願ってくれていた。だから、言わない。
道が終わる。
「今まで、ありがとうございました」
僕たちの姿はきっと、事情を知らない人から見れば滑稽で、ただの逃避でしかなかったろう。けど、みんな、それを否定せず、ただ見守ってくれていた。どんなに滑稽でも、不完全で正しくなんてなくても。ただ、僕たちの世界を見守ってくれていた。
「僕達は進みます。たいした距離は進めないでしょう。すぐに、つまづくと思います」
僕たちの足は、手は。襲い掛かる理不尽に対して無力で、か弱い。
「それでも、進みます」
それが、僕達の約束だから。僕達をここまで繋ぎとめた絆だから。
「それじゃあ、いってきます」
「いって……きます」
この言葉は、残酷かもしれない。
いってきますと言うのは、ただいまを言うため。帰ってくるため。
それでも、僕達はこの言葉を選ぶ。帰ってくることがなくても。別れの言葉はきっと、この場にはふさわしくないから。
送り出すものへの、礼儀と、精一杯の感謝を込めて。告げた。
「いって、らっしゃい」
か細く、弱い。けれど、確かに芯の詰まった言葉を、院長は僕たちに返してくれた。
涙の門出。それがあるから、僕達は歩きだせる。
滲む視界のまま、僕は前を向き、歩き出した。
*
「雪、降ってたんだ……」
しんしんと降り積もる牡丹雪。それが街灯の明かりに反射して光り輝く。
「……ほんとだ、きれい……」
琴美が手を伸ばした先に雪が降りた。その輝く白は、琴美の手のひらに触れ、溶けて消えた。未だ残る。微かだけど確かな、琴美の熱で。
「ほら、着いたぞ」
「え? もう……?」
「うん。公園は、病院の目の前にあるんだから」
「あ、そうだっけ……えへへ、忘れてた……」
「七年ぶりだもんな。仕方ないよ」
七年間。琴美はずっと病院の中にいた。外の世界に出るのは、本当に懐かしいのだろう。
「……変わってないね」
「ああ、変わってない」
錆び付いたシーソーも、寂れた砂場も、ペンキの剥げたジャングルジムも。七年前と、まったく変わらない。変わらない姿で、僕達を迎えてくれる。
「ねぇ……ジャングルジム……登りたいな」
「……いいよ」
ひどく冷たいバーに右手をかける。昔は人一人背負いながら登るだなんてできなかった。今では、それすら容易い。
「待って……」
背中から聞こえるか細い声に、力を込めようとしていた腕の動きが止まる。
「自分で、登らせて……」
「……大丈夫なのか?」
「うん……大丈夫」
そっと、琴美を降ろす。足を地に付け、今にも倒れてしまいそうなほど弱々しく立っている。琴美は手を伸ばした。弱々しく伸ばされたその手はバーをつかんだ。震える腕に力を込め、懸命に自分の体重を支え、登り始めた。
「くっ……はぁ……」
精一杯、上を目指す。あんなに、羽のように軽い体でも、今の琴美にはどれほどの重みなのか。
手は貸さない。いいや、貸せない。まだ琴美は挫けていない。僕の出番はないんだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「頑張れ……」
震えて力の入らない手を必死に伸ばす。つかんでも、自分を引き上げるだけの力は残ってないかもしれない。それでも、琴美は決して、僕に助けを求めない。手を伸ばせば届くような小さいジャングルジムでも、必死になって腕を伸ばさなきゃ届かない。
……その姿は、健気で、美しくて。
まるで、この理不尽な世界への最後の抵抗のようにさえ見えて。
「頑張れっ!」
たまらず、僕も登る。先に頂上に着き、両手を広げ、琴美を待つ。
「あと少しだ! 頑張れっ! 琴美!」
「はぁ……はぁ……うんっ」
あと少し、あと少しっ。
琴美の小さな体が、僕に飛び込んでくる。僕はその小さな体を、力一杯抱き締めた。
「お疲れ様……」
「うん……」
「すごいよ……ほんと、すごいよっ」
涙が溢れる。こんな小さな体で、ここまで、来れた。
「よく頑張ったよ……僕の自慢の、彼女だよ……」
「えへへ……やった。私……柊弥の、自慢の、彼女だ……」
視界が霞む。涙が後から後から、溢れて……止まらなくて……。
「もう……満足かな……私……すっごい幸せだったよ。大好きな人と、ずっと……一緒にいれた」
その言葉に、僕は頷けない。
「違う……僕が素直になれば、もっと一緒にいれた……」
もっと長い時間を一緒に、笑い合えたのに。
「ううん……ほんと、満足だよ……」
「じゃあ、その涙はなんだよ……」
感情が、溢れる。
「嘘吐くなよっ! 生きていたいって、もっと傍にいたいって言ってくれよ!! みっともなくたっていいだろっ! 上等じゃないか! みんなそうやって生きてるじゃないか!」
そう、みんなそうやって生きてる。なのに、どうして、琴美だけが、こんな……!
「生きたいって、言って、くれよぉ……」
「……うん、生き、たいよ。でも……叶わない、お願いだから」
何も、言えなかった。
一瞬でも、肯定しかけた自分が、腑甲斐なくて。
「……私ね。人の、他の人の幸せをみるのが、嫌だった……どうして、私だけ、こんなことになってるんだろうって……考えちゃうから……」
その理不尽を、不条理を。
「だから、今まで大好きだった読書も、いつのまにか……できなくなってた……だって、恋愛小説って、ハッピーエンドばっかりなんだもん……」
仕方のないことだと割り切ることなんて、できなくて。
「もちろん、違うお話だってあったけど……それこそ、自分を見ているようで、いや、だった……」
琴美の病室に詰まれたダンボールの中身を思い出す。あのたくさんの物語を読み解いた琴美に、この世界はなんて、悲しく見えたのだろう。笑顔で満たされた結末を、許容なんてできなかった。
……そう、考えられてしまうことが、何よりも、悲しくて。
「未練がないって、わけじゃないんだ……やりたいことだってたくさんある……見たい未来だってあるよ……けど、どうしようもないから……」
僕達はなんて、なんて無力なのだろう。
僕には琴美を死から救う力がない。琴美には死に抗う力がない。
何も、できない。
「ごめん……」
「……なんで、謝るの?」
「何もできないから……」
苦しみ、悲しみを抱えた君を、助けることができない。
「……そんなことないよ。柊弥は、私を抱き締められるよ……私に……元気をくれるよ……」
蒼くなっていく琴美の顔に、僕は手を伸ばす。柔らかく、温かかったはずの頬は、今では、驚くほど、冷たい。
「柊弥がいたから、私は生きてこられたんだよ……一緒にいられたから、私はがんばれたんだよ……?」
「……僕は無力じゃ、なかったのかな」
「……うん」
肯定してくれる。けど、違うんだよ。それは元々僕の力なんかじゃなくて。琴美がいるから、生まれたもので。琴美がいないと、意味なんて、なくて。
「これが、私の伝えたいこと……伝わった……よね?」
「ああ、伝わったよ……」
納得はできない。けど、その気持ちは、ただただ嬉しくて。
「そう、よかった……」
琴美は静かに目を閉じた。その瞳か溢れた涙が一筋、琴美のやわらかな頬を伝う。
「僕も、伝えたいことがあるんだ……僕を、幸せにしてくれて、ありがとう」
なら、今度は僕の番だ。
「琴美がいたから、僕は笑うことができた。琴美と出会わなければ、笑えなかった」
いつまでも、父さんの死を喜びにすり替えて、偽物の笑みを浮かべていた。
「ありがとう。僕と出会ってくれて、本当にありがとう」
万感の思いを込めた言葉が、すっと、流れるように口から出た。
「……どう、伝わった?」
琴美は答えてくれない。ただ黙って、目を閉じているだけ。
「返事をしてくれよ。なぁ―――――」
閉じた目。開かない目蓋。消えた呼吸の音。力のない指先。奪われていく熱。
頬に落ちても、溶けない雪。
理解してしまった。琴美は答えないわけではない。
答えられないんだ。もう、琴美は。
「……そんな」
まだ返事を聞いてないんだぞ。琴美の返事を聞いてないんだぞ。
これじゃあ。
伝わったかどうか、わからないじゃないか。
「ま、待ってくれよ! まだ返事を聞いてないんだっ! 伝わったかどうかを、まだ聞いてないんだよ!!」
いくら叫んでも、琴美は返事をしない。もう、僕の言葉は届かない。
何もかもが、遅すぎて、遠すぎた。
「あ、あぁ、あぁぁ……」
呻きが漏れる。後悔が頭の中を埋め尽くす。諦観が思考を多い尽くす。
どうして、どうしてだ……。どうして琴美が、こんな……!
偶然? たまたま? 違う。仮にそうだとしても、納得なんてできない。
どんな理由であろうと、琴美がこんな目に合う理由になんてならない……!
「ふざけんな……」
雪に覆われていく琴美を、強く抱きしめる。雪を溶かす暖かさを失っていく体を。強く抱きしめる。
「ふざけんなよ……!」
僕たちが何をした。ただ生きようとしただけじゃないか。それなのに、どうして未来を、これからを奪われなきゃいけない。
いったい……なんで……どうして……!
どうして、琴美がこんな目に合わなきゃいけないんだよっ!!
―――瞬間。脳裏を駆け巡った光景があった。
その光景は、あまりにも凄惨な光景だった。たくさんの痛みが、苦しみがあった。たくさんの幸せを、踏み砕いた光景だった。
「……おまえか」
脳裏に浮かんだ光景。目の前の白さを覆い隠せるほどに、赤に包まれた凄惨な光景。その光景の中、狂ったように笑い続ける一人の男。
「おまえか……! おまえのせいか、『秋宮柊弥』っ!!」
そうか。そういうことか……!
頭が怒りで一杯になる。噛み締めた唇から血が滲んで顎まで伝う。その痛みすら、今はどうでもいい。
おまえの、おまえのせいでっ……こんな、こんな茶番をっ……!
「―――ふざけんなっ!!」
冷たくなっていく琴美を抱きしめながら、虚空に叫ぶ。
取り戻したい。もう一度、琴美に会いたい。
理不尽に包まれた世界で、懸命に生きようとしていた彼女を。決められていた結末でも、精一杯抗おうとしていた彼女を。この手で、取り戻したい。
それは決して、叶わない願いかもしれない……。けど、けどっ。その理不尽に、抗うことができるなら。
「取り返してやるっ! 琴美も、僕自身もっ! おまえの勝手な都合に振り回されたものも全部っ!」
その不条理を、許容することなんてできないから。
「だから! おまえのくだらない償いにっ、琴美を巻き込むなぁ!!」
僕は、全力で、心の底から。
その願いを、願った。
届かぬ祈りを祈る。
叶わぬ願いを願う。
得られぬ望みを望む。
それは、あまりにも滑稽で、不様な姿。
でも、その姿こそが、
私の望みだった。
ずっと、あなたからの祈りを、願いを、望みを待っていた。
叶えよう。
叶えたい。
無我夢中で、その奇跡を呼び起こそう。
「あ……」
光が、見えた。
温かくて、けど、遠く微かな、目を凝らしていないと見失ってしまうような、光。
それでも僕は、その光に向けて。
手を、伸ばした。
これは、再認の物語。
大切なものを呼び起こす、想いを思い出す。
失われたものを求める者たちの、一瞬の姿。
さぁ、始めよう。
もう、こんな茶番は終わらせよう。
一章 了
これで全体のプロローグ、茶番(自虐ではない)はお終いです。
これから二章、三章、零章的な何か、四章と話は続いていきます。あとになればなるほど長いです。オムニバス形式で進んでいきますので、各章で主人公となる語り部が変化していきます。書き分けができてねぇなこいつとか思ったらツイッターでもなんでもいいので言ってください。神妙な顔で頷きます。
それでは、理不尽や不条理に四苦八苦する彼らをどうかよろしくお願いします。




